スバル「せっかくなので死んだふりをしてみようと思う」 作:空見大
メィリィが去り、不気味なほどの静寂が降りた自室で、スバルは床にこびりついた赤黒い豚の血を一人黙々と拭き取っていた。
先ほどまで両頬を挟み込んでいたあの氷のような指先の感触が、未だ生々しく肌にこびりついている。
一瞬ではあるが垣間見えた彼女の激情。
悪ふざけの代償としては、あまりにも心臓に悪い結末だった。
「……ふぅ。次はもう少し、精神衛生的に優しいやつにするかな」
そうして独りごちて立ち上がろうとしたスバルの背中に、氷点下よりも鋭い刃のような声が突き刺さる。
「──その次が永久に来ないように、今ここでラムが介錯してあげてもいいのだけれど?」
弾かれたように振り返れば、いつからそこに立っていたのか。
腕を組んだラムが絶対零度の眼差しでスバルを射抜いていた。
彼女の冷徹な視線はスバルが丹精込めて作った端切れの腸へと向けられ、極度の不快感を露わにしている。
「いつからそこにいたんだよ。声くらいかけてくれてもいいだろ」
「ーーバルスの頭が救腐敗物で満たされていることは知っていたけれど、まさか幼い少女を本気で怯えさせるとは……死んで詫びなさい。それとも今のバルスは死体ごっこで忙しくてラムのありがたいお言葉も聞こえないのかしら?」
「怯えさせたって……演技指導と小細工に熱いダメ出し喰らったとこだぞ。完成度は確かに磨いて行かないといけないしな」
「どこをどう見てそう判断したのよ。これだから、面の皮の厚い男は困るわね。部屋もこんなに散らかして」
ラムは小さく鼻を鳴らし、部屋の惨状を改めて見渡した。
その瞳の奥には、単なる呆れとは別の、何か計り知れない感情が混じって揺れているように見える。
彼女の鋭い観察眼はスバルの能天気な解釈とは裏腹に、メィリィが抱いた本当の恐怖を正確に見抜いているらしかった。
痛いところを突かれたスバルは、気まずさを誤魔化すように苦笑いを作り、血に汚れたシーツを無造作に丸める。
「部屋は後で掃除するよ。それに破いたのも全部古くなって捨てる奴だったし。昔あれだけピリピリしてたメィリィであれなんだ、肝試しとして丁度いいと思うだろ?」
「……ラムからすれば悪趣味なだけよ。城の備品をこれ以上汚すようなら、目こぼししてあげる気にもならないけれど」
吐き捨てるように言って、ラムは背を向ける。
その冷ややかな背中を見送ろうとしたスバルだったが、ふと悪戯な光を瞳に宿し空気を塗り替えるようにあえて声を張り上げた。
「あ、そうだ。ラム。次はオットーにしようと思ってるんだ」
スバルの言葉にラムの足がピタリと止まる。
「あいつ、最近は書類仕事ばっかりで外の空気吸ってないだろ? たまにはドッキリさせないとな。メィリィと一緒だと意味ないしやり方変えようと思ってるんだけど、ちょっと一人じゃ無理だからさ。手伝って貰ってもいい?」
「…………ラムも暇ではないのだけれど」
「頼むよ姉様。全部終わればなんでも言う事聞くからさ」
一瞬だけ、重たい沈黙が落ちた。
その後、彼女は了承とも拒絶ともとれない溜息だけをこぼし、一度も振り返ることなく静かに部屋を後にした。
一人残されたスバルは、窓の外を見上げる。
そこには、眼下で蠢く企みなど何も知らない、どこまでも透き通った青空が広がっていた。
◆
時刻は夕暮れ時。外ではカラスが不吉な鳴き声を響かせ、空はどす黒い朱色に染まり始めている。
普段なら使用人たちの足音や喧騒が聞こえてくるはずの城内が、やたらと静まり返っているのは、スバルが事前に念入りな人払いを済ませていたからだ。
飛び降りるとなれば、当然目撃者は多くなる。これから他の者にもドッキリを仕掛けていくという壮大な計画の上でなるべく見られるのは避けたい。
「どんなご用件ですか、ナツキさん?」
部屋に入ってきた灰色の髪の青年──オットー・スーウェンは、スバルが窓の縁に危うく腰かけているのを見ても特に慌てる様子はなく、いつも通りの気安い調子で声をかけてきた。
彼からしてみれば、いつものようにくだらない用件で呼び出されたように感じたのだろう。実際、スバルの態度も普段の悪戯の延長線上にあるように偽装している。
事ここに置いて最も重要なのは、これが日常の1ページであるとオットーに誤認させることだ。
オットーは、恐ろしいほどに聡い。
ほんのわずかでも違和感があれば、すぐにでもスバルの真意を嗅ぎ取ってしまうだろう。
この陣営の中で最も敵に回したくない存在であり、同時に最も頼りになる男。
そんな彼の前で、スバルはなるべく陽気な振る舞いを崩さず、いくつかの他愛もない雑談を交わした。
それはいつも通りくだらない会話の応酬。
だが、スバルは一向にベランダの窓際から離れようとはしない。
日中は暖かい風が吹いていても、陽が沈み始めれば肌を撫でる風は確実に冷を帯びる。
ましてや、吹き曝しの窓際にずっと居座り続ければ、肌寒さを感じるには充分なはずだ。
そんな不自然な状況下で、スバルが明らかな意思を持ってそこから動かない事実を前にして、ついにオットーの鋭敏な感覚が異変を捉えた。
「……どうしたんですか、ナツキさん」
声音が一段階下がる。
心配をかけまいとするような、過度に優しい響き。
それは彼が相手の腹を探る時に良く使うお試しの手段だ。
だからこそ、スバルはあえてその罠に自ら足を踏み入れる。
「──お前は、なんでも分かるんだな」
スバルがあえて自嘲するような笑みを浮かべてみせると、オットーの唇が血の気が失せるほどに痛々しく固く結ばれた。
その灰色の瞳の奥で彼が何を考え、何をそこまで恐れているのか。スバルには正確には分からない。
だが、まるで世界の終わりでも宣告されたかのような悲痛すぎる顔は、少しだけスバルの良心をチクリと刺した。
内心でこっそりと手を合わせながら、スバルはひどく疲れたようなため息を吐き、視線を外して空を見上げる。
「……平和になったよな、この国も」
「ええ。みんなが頑張ったから、こうなったんです。この国の人みんなが、平和を願ったから」
絞り出すような、ひどく掠れたオットーの声。
それは一歩でも踏み違えれば砕け散ってしまいそうな薄氷の上を歩くような、ひどく慎重な響きだった。
「そうだよな。平和な世界だ。どこまでも平和で、どこまでも綺麗で、毎日最高の気分だよ」
「……だったら、いいじゃないですか」
「……………………そうだな。ごめん、オットー」
意図的に作った、重たく長い沈黙。
そして、憑き物が落ちたかのような弱々しい謝罪と共に、スバルは一瞬だけ、本当に数ミリだけ窓の縁から体を内側へと戻した。
たったそれだけの、ほんのわずかな重心の移動。
だが、それを見たオットーの全身から、限界まで張り詰めていた糸が切れたように強張りが抜け落ちるのがはっきりと見て取れた。
かすかにふぅっと安堵の息を吐き出し、わずかに肩が下がる。
完全に警戒が解け、彼が日常へと引き戻されたその一瞬の隙。
スバルは隠し持っていた、最も残酷で、絶対に彼が無視できない手札をテーブルに叩きつける。
「俺の故郷の話、前したよな。覚えてるか?」
「……ええ。素晴らしいご両親だと何度聞かされたか。ガーフィールが寝ているところを叩き起こしてまで自慢話をしたときは、さすがに驚きましたよ」
「本当に、いい両親だったんだよ」
スバルはそこで一度言葉を切り、あえて虚ろな瞳を作って、眼下の石畳へと視線を落とした。
いつもなら冗談でも口にすることはない。ナツキ・スバルの触れられたくない部分。
「……昨日、街を歩いててさ、ふと気が付いたんだ。この街にも、この国にも、この世界にも、俺の両親はもういないんだって」
その独白が、決定的な引き金となった。
空気が凍りつく。オットーがじりじりと、靴底を床に擦りつけるような不自然な歩みで距離を詰めてくるのが分かった。
不用意に動けば相手を刺激してしまうとでも思っているのか、その動作はひどくゆっくりだ。
(……あと三歩。いや、二歩)
スバルは内心で親友との距離を冷静に測る。
まだだ。まだギリギリで、彼の手が届かない射程外。
相手が確実に掴みかかれると錯覚する、その限界の距離を見極め──スバルは最後の台詞を口にする。
「なぁ、オットー……ごめんな」
掠れた声でそれだけを言い残し。
スバルは一切の躊躇いなく、窓枠から背中越しに虚空へと身を投げ出した。
「――――ッ!!!」
喉が裂けるような絶叫。
歯を食いしばり、両目を見開いたオットーが、なりふり構わず窓際へと突っ込んでくる。
だが、限界まで伸ばされたその指先は、スバルの服の端を掠めることすらなく、無情にも空を切った。
掴むべき命を取りこぼしたという事実を脳が理解するよりも早く、オットーの瞳から一切の光が抜け落ちる。
直後。
だんっ、と。
遥か下の石畳に、重たい肉の塊が叩きつけられる、ひどく鈍い音が響き渡った。
◆
さて、そんなこんなで高所から飛び降りたはずのナツキ・スバル。
彼は今、一つ下の階層の窓枠で待ち構えていたラムによって見事回収され、無事に城の中へと生還を果たしていた。
「呆れるほど用意周到ね」
外の石畳に叩き落としたのは、水を含ませた肉と布の塊だ。
スバルと全く同じ重量に調整してあるため、落下音も本物と遜色ない。
念のため服やカツラも被せてあるため、パニック状態に陥った人間が上から見下ろした程度では、到底偽物とは見抜けないだろう。
「アイツ騙すならこれくらいしないとな、サンキューラム」
文句一つ言わずに完璧な仕事をしてくれたラムに感謝の言葉を述べ、スバルは足早に自室へと向かう。
あくまでも目的はドッキリだ。ネタばらしまでを含めてのお約束。
手にはご丁寧に『ドッキリ大成功』と書かれた手製の看板まで持ち、オットーに顔面をボコボコにされる覚悟だけは完了していた。
「てってれー! どっきり大成功──」
勢いよく自室の扉を開け放ち、満面の笑みで飛び込んだスバル。
だが、そこで彼を出迎えたのは、想定を遥かに超える凄惨な光景だった。
半狂乱になりながら手当たり次第に部屋の調度品を破壊し、獣のような嗚咽を漏らすオットーの姿。
扉の音に弾かれたように振り返った彼の瞳に、かつて見たことのないほどの濃密な殺意が宿っている。
しかし、その殺意の矛先がスバル自身であること、そしてその体に傷一つないこと、最後に能天気な看板の文字を認識したことで、狂乱の炎は急速に冷たく、ひどく重たいものへと変質していった。
幽鬼のようにゆらりと体を揺らし、オットーがこちらへ向かって歩みを進める。
そのあまりに異様な迫力に、数々の死線を潜り抜けてきたはずのスバルでさえ、思わず一歩後ずさってしまった。
自分が仕掛けた悪ふざけが、彼の精神をどれほど深く抉ってしまったのか、遅まきながら理解させられる。
「……殴るなら、死なない程度でお願いするわ」
自嘲気味にそう口にして、スバルはやってくる親友に対して無防備に両手を広げた。
鉄拳が飛んでくる。そう覚悟して固く目を閉じた。
ーーだが。
次の瞬間、オットーはスバルの体を壊れ物でも扱うかのように、しかし絶対に逃がさないほどの強い力で抱きしめた。
「……ぅ、……つき……さん」
彼は、泣いていた。
スバルの肩口に顔を埋め、子供のようにしゃくりあげている。
その抱擁はあまりにも強く、肋骨が軋むほどの力が込められていて、殴られるよりもずっと、ずっと痛かった。
熱い涙が服に染み込んでいくのを感じながらも、スバルは謝罪の言葉を紡ぐことも、泣きじゃくる親友の背中に腕を回してやることもできない。
鉛のように重くなった両腕を下ろしたまま、ただただ、痛みを伴う熱にずっと抱きしめられ続けていた。
それから、どれほどの時間が流れただろうか。
ひとしきり感情を吐き出したオットーは、ゆっくりと体を離し乱暴に袖で顔を拭うと、赤く腫らした目でいつも通りの真面目な表情を作った。
「……今回の事は、これで手打ちです。でも、これだけは言わせてください。ボクは、たとえ何が有ろうとナツキさんの親友です。エミリア様には絶対に見せられないようなカッコ悪い所だって……ボクにくらい、見せてくれてもいいんですからね」
それだけを言い残し、オットーは足早に部屋を去っていった。
スバルの返答すら待たず、逃げるように。
完全に陽が落ち、暗闇が支配する部屋の中で、スバルは一人取り残された。
肩口に残る、冷え始めた涙の感触。胸の奥を塞ぐような息苦しさ。
それから数分間、何を考えるでもなく、ただじっと見えない天井を見上げ続ける。
……やがて、彼の中で何かが定まったのだろう。
ふぅ、と肺の底に溜まっていた重たい空気を全て吐き出すと、スバルは静かに、散らかり果てた自室の掃除を始めるのだった。