スバル「せっかくなので死んだふりをしてみようと思う」   作:空見大

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sideオットー

──いつだって、世界は薄氷の上に成り立っている。

 

 夕暮れ時のロズワール邸。廊下を歩くオットー・スーウェンの耳に、窓の外からカラスの不吉な鳴き声が届いた。

 普段であれば使用人たちの足音や、ガーフィールが中庭で騒ぐ声、あるいはエミリアやベアトリスの銀鈴のような笑い声が聞こえてくる時間帯だ。

 だというのに、今日の城内はやたらと静まり返っていた。

 

 まるで、世界の輪郭から生活の音だけが意図的に切り取られてしまったかのような、不自然な静寂。

 聡明な内政官の脳裏に、チリッとした微かな警戒心が走る。

 

(……人払いがされている? 誰の指示で……いや、考えるまでもないですね)

 

 ロズワールを除いてこれほど手回しよく、かつ悪戯めいた隠密行動を取る人間など一人しかいない。

 ナツキ・スバルだ。

 溜息を一つ零し、オットーはそんな彼の部屋の扉を開けた。

 

 予想通り、そこには窓の縁に危うく腰をかける黒髪の青年の姿があった。

 彼からしてみれば、いつものようにくだらない用件でオットーを呼び出し、驚かせようとしているのだろう。

 実際、スバルの態度は普段の軽口の延長線上にあるように見えた。

 

「どんなご用件ですか、ナツキさん?」

 

 だからオットーも、いつも通りを装う。

 呆れたような、気安い調子で声をかける。

 だがオットーの灰色の瞳は、部屋の空気、スバルの呼吸、指先の微かな動きに至るまで、決して見落とすまいと冷徹に観察を続けていた。

 

 大罪司教という脅威が去り、世界は平和になった。

 だが、オットーは知っている。

 この平和が、彼一人のどれほどの血と吐瀉物と、擦り切れた魂の犠牲の上に成り立っているのかを。

 ナツキ・スバルは、英雄などではない。誰よりも弱く、脆く、それ故に全てを一人で抱え込んで死のうとする、不器用な大馬鹿者だ。

 それを理解しているからこそ、彼の一挙手一投足を見逃すことは許されない。

 

 そうしていくつか他愛もない雑談を交わす。

 陽が沈み始め、吹き曝しの窓際に吹き込む風が明確な冷気を帯びてきているというのに、スバルは一向にそこから離れようとしない。

 

 いや、意図的に動かないのだ。

 その不自然な固執が、オットーの胸の奥で燻っていた警戒心を一気に警鐘へと変えた。

 

「……どうしたんですか、ナツキさん」

 

 声音を一段階下げる。過度に優しく、相手の警戒を解き、内側に隠した本音を引きずり出すための言葉。

 普段はスバルに向けない商人としての側面を見せると、スバルはそれすらお見通しだとばかりに乾いた笑みを見せる。

 

「──お前は、なんでも分かるんだな」

 

 その返答を聞いた瞬間。オットーの心臓が嫌な音を立てて冷たく跳ねた。

 唇が痛々しいほど固く結ばれる。スバルの瞳の奥に、かつて自分も宿した諦観の色が混じっているように見えたからだ。

 諦めることを知らず、誰よりも前を見てい彼の目にはいま、一体何が見えているのだろうか。

 

「……平和になったよな、この国も」

 

「ええ。みんなが頑張ったから、こうなったんです。この国の人みんなが、平和を願ったから」

 

「そうだよな。平和な世界だ。どこまでも平和で、どこまでも綺麗で、毎日最高の気分だよ」

 

「……だったら、いいじゃないですか」

 

 頼むから、そこで止まってくれ。

 これ以上一人で限界を迎えて、勝手にどこかへ行ってしまわないでくれ。

 

 悲鳴にも似た祈りを込めてオットーが睨みつけると、スバルは一瞬だけ、本当に数ミリだけ窓の縁から体を内側へと戻した。

 その動作を見た瞬間。張り詰めていたオットーの全身から強張りが抜け、安堵の息が漏れる。

 

(……なんだ。やっぱり、ただの冗談じゃないですか)

 

 警戒が完全に解けた、そのわずか数秒の空白。

 それこそが、ナツキ・スバルが仕掛けた最も残酷な罠だった。

 

「俺の故郷の話、前したよな。覚えてるか?」

 

「……ええ。素晴らしいご両親だと何度聞かされたか。ガーフィールが寝ているところを叩き起こしてまで自慢話をしたときは、さすがに驚きましたよ」

 

いまでも強く記憶に残っている。

普段は自分の出自について語らない彼が、何故かその日だけは両親のことを語ってくれたのだ。

仲間の誰も見たことがない家族を語るときの彼の顔は、きっとあとにも先にもあの時だけのものだろうとオットーは思っていた。

だがスバルはいまも同じ用に嬉しそうに、それでいて恥ずかしそうに語る。

 

「本当に、いい両親だったんだよ。……昨日、街を歩いててさ、ふと気が付いたんだ。この街にも、この国にも、この世界にも、俺の両親はもういないんだって」

 

 ーーオットーの呼吸が止まった。

 それは、絶対に触れてはいけない傷だ。

 ナツキ・スバルという人間を構成する最も深く、最も痛切な呪いの根源。

 

 それを彼が自らの口で、こんなにも静かに、諦めたように口にしたことの意味。

 足が勝手に動き出す。

 じりじりと、靴底を擦るようにして距離を詰める。

 だが、間に合わない。まだ射程外だ。

 

「なぁ、オットー……ごめんな」

 

 その言葉が、別れの挨拶であると脳が理解した。

 

「――――ッ!!!」

 

 喉が裂けるほどの絶叫を上げ、なりふり構わず突っ込んだ。

 指先を限界まで伸ばし、彼の服の端でも、腕でも、髪の毛の一本でもいいから掴み取ろうと虚空を掻く。

 

 だが、オットーの手は無情にも空を切り、冷たい夕暮れの風だけを掴んだ。

 窓枠から身を乗り出そうとして──その動きは、階下から響いた音によって凍りついた。

 

 だんっ、と。

 

 大きく一回。石畳が悲鳴を上げるような、重たい衝撃音。

 短く続けて、ぐちゃりという小さな音でもう一回。

 二回目に混ざった、粘りつくような、不快な水音がどうにも頭から離れることはなかった。

 脳内でその音が、親友の肉が、骨が、内臓が、無残に石畳へぶち撒けられた光景を勝手に補完し、鮮明に描き出していく。

 

「ぁ…あ……ああ………」

 

 喉の奥から、言葉にならない掠れた吐息が漏れる。

 オットーは窓の外を見ることは出来なかった。

 その惨状を確認しなければならないという義務感よりも、もし窓の外を見てしまえば、己という存在が内側から粉々に砕け散り、二度と元に戻れなくなることが分かっていたから。

 

 世界から、全ての音が消え失せた。

 己の手が何も掴めなかったという絶望的な事実。

 窓枠にすがりついていた指先からずるりと力が抜け、オットーの体は糸の切れた操り人形のように、重力に引かれてよろめいた。

 

 一歩、また一歩と、窓際から後ずさる。

 彼が落ちていった虚空から距離を取るように。突きつけられた現実から逃避するように。

 だが、彼の優秀すぎる頭脳と理性が、逃げることを許さなかった。

 

 目の前で親友が、自分の手が届く距離にいたはずの彼が、血溜まりの中に沈んでいく光景。

 直接その目で見てはいなくとも、あの鈍い落下音と生々しい水音が、精緻な幻覚となってオットーの脳髄にナツキ・スバルの死を容赦なく焼き付けていく。

 

 オットーの灰色の瞳から、一切の光が抜け落ちた。

 視界が急速に色褪せ、世界が白黒の砂嵐に飲まれていくような錯覚。

 部屋の中央へと、鉛のように重い足を引きずる。

 息ができない。肺が酸素を拒絶している。

 心臓の鼓動だけが、耳障りなほど大きく頭蓋骨の中で反響していた。

 

 どうして。なんで。いつから。

 彼を追い詰めたのは何だ。結局彼に英雄であることを何処か期待していた自分の愚かさか。

 全てを一人で背負わせたこの陣営か。それとも、彼に英雄であることを強いたこの世界か。

 

 冷徹な理性が、無限に連なる自己嫌悪ともしもの可能性を弾き出し、オットーの精神を内側からズタズタに切り裂いていく。

 

 行き場のない喪失感が限界まで膨れ上がり、やがてそれは、己の臓腑を焼き尽くすほどのどす黒い憎悪と怒りへと形を変えた。

 震える視界の端に、彼が直前まで立っていた日常の景色が、部屋の調度品が、あまりにも無神経にそのままの姿で残っているのが見えた。

 

 それが、ひどく許せなかった。

 

 彼がいない世界で、何一つ変わらずに存在し続けるこの空間そのものが、無性に狂おしく、吐き気がするほど憎たらしかった。

 

 ──理性のタガが、音を立てて弾け飛ぶのはあっという間のことだった。

 

 気付けば、喉の奥から獣のような嗚咽が漏れ出し、オットーの両手は手当たり次第に部屋の調度品へ向かって乱暴に振り下ろされていた。

 ガシャァン! と、高価な花瓶が壁に叩きつけられて粉砕される。

 椅子を蹴り飛ばし、机の上の書類を撒き散らし、爪が剥がれて血が滲むのも構わずに絨毯を掻き毟る。

 

 視界が、真っ赤に染まっていた。

 自分の指先に残る、何も掴めなかった虚無の感触。それが、かつて彼を見捨て、裏切ってしまったあの時の記憶と重なり、オットーの理性をズタズタに切り裂いていく。

 

 救いたかった。守りたかった。ただ隣で、馬鹿みたいに笑っていて欲しかった。

 それだけのことが、どうしてこの男には、この世界には、許されないというのか。

 

「あああああぁぁぁぁぁぁッ!! ふざけるなッ! ふざけるなよナツキ・スバルッ!!」

 

 誰に対するものかも分からない呪詛が、血の混じった唾液と共に溢れ出す。

 胃を雑巾のように絞られるような吐き気。肺に灼熱の鉛を流し込まれたような呼吸の苦しさ。

抱えているならぶつけてほしかった、悩んでるなら打ち明けてほしかった、泣きたいなら泣いてほしかった。

 

 己の無力さへの怒りと、彼を死に追いやったこの穏やかな空への憎悪が、オットーの正気を完全に食い破ろうとした、その時だった。

 

「てってれー! どっきり大成功──」

 

 勢いよく扉が開け放たれ、この世で最も聞きたかった、そしてこの状況で最もふさわしくない、能天気な声が響き渡った。

 

 オットーは、弾かれたように振り返った。

 そこには、血の一滴も流していない、満面の笑みを浮かべたナツキ・スバルの姿があった。手にはご丁寧にドッキリ大成功と書かれた看板まで持っている。

 

(――――は?)

 

 脳が状況を処理するのを拒否した。

 死んだはずだ。確かにこの耳で、彼が砕け散る音を聞いた。

 あの音は、彼の命が尽きた証だったはずだ。

 だが、目の前にいるのは紛れもなく本物のナツキ・スバルだ。傷一つない、生身の生きた男だ。

 

 次の瞬間、オットーの胸の奥底から噴き上がったのは安堵ではなかった。

 濃密で、純粋な、煮えたぎるような殺意だった。

 幽鬼のようにゆらりと体を揺らし、オットーは一歩、また一歩とスバルへ向かって歩みを進める。

 

 自分が先ほどまでどれほどの地獄を味わっていたか。魂が引き裂かれ、狂気に呑まれかけていたか。

 それを、この男はドッキリという一言で片付けようとしている。

 殺してやりたい。これほどまでに人の心を弄ぶ悪魔を、今すぐこの手で絞め殺してやりたい。

 

「……殴るなら、死なない程度でお願いするわ」

 

 スバルが、自嘲気味にそう口にして両手を広げた。

 その無防備な顔を見た瞬間。

 オットーの中で燃え盛っていた狂乱の炎が、急速に冷たく、そしてひどく重たいものへと変質していった。

 

(……この人は、自分が何をしたのか、本当に分かっていないんだ)

 

 殴る?

 そんなことで、この喪失の恐怖が拭えるわけがない。

 オットーは振り上げた拳を下ろし、そのままスバルの体を、壊れ物でも扱うかのように、しかし絶対に逃がさないほどの強い力で抱きしめた。

 

「……ぅ、……つき……さん」

 

 涙が、溢れて止まらなかった。

 スバルの肩口に顔を埋め、子供のようにしゃくりあげる。

 肋骨が軋むほどの力を込める。そうかなければ、腕の中にいる彼が、また手の届かない場所へ消えてしまいそうだったからだ。

 生きていた。温かい。脈を打っている。

 その事実だけが、オットーの崩壊しかけていた精神をどうにか繋ぎ止めていた。

 

 ひとしきり感情を吐き出した後。

 オットーはゆっくりと体を離し、乱暴に袖で顔を拭うと、赤く腫らした目で、いつもの内政官としての真面目な表情を作った。

 

「……今回の事は、これで手打ちです。でも、これだけは言わせてください。ボクは、たとえ何が有ろうとナツキさんの親友です。エミリア様には絶対に見せられないようなカッコ悪い所だって……ボクにくらい、見せてくれてもいいんですからね」

 

 それだけを言い残し、オットーは逃げるように部屋を去った。

 スバルの返答など聞きたくなかった。もし「ごめん」と言われてしまえば、再び泣き崩れてしまいそうだったからだ。

 

     ◆

 

 自室に戻ったオットーは、扉に背を預けたままズルズルと座り込んだ。

 暗闇の中、自分の両手を見る。

 先ほどまでスバルを抱きしめていたはずのその手は、未だに痙攣したように微小な震えを繰り返していた。

 

「……ははっ、本当に、タチが悪い……」

 

 乾いた笑いが漏れる。

 額に滲んだ冷や汗が、ぽたりと床に落ちた。

 心臓が痛い。胃が捩れるように痛い。

 スバルが無事だったという安堵よりも、彼が『死を偽装できるほどに死に慣れている』という事実への絶望感が、オットーの背筋を凍らせていた。

 

 メィリィや他の者たちがどう受け取ったかは知らない。

 だが、オットーにとって、あれはただの悪ふざけなどでは断じてなかった。

 あれは、いつか訪れるかもしれない彼が本当に世界を諦める日の一幕に過ぎない。

 オットーはそんな日は来ないと自分に言い訳をし続けてきた、だが実際今日というなんでもない日にそれは起きたのだ。

 

(絶対に……絶対に、そんな結末は迎えさせない)

 

 震える両手を強く握り締め、爪が掌に食い込む痛みで理性を繋ぎ止める。

 ナツキ・スバルがどれほど不器用で、どれほど残酷に自らを犠牲にしようとも。

 この泥沼のようなトラウマを抱えながらでも、オットー・スーウェンは彼の手を掴み続ける。

 彼が心の底から笑える世界を、この手で築き上げるその日まで。

 

 底知れない決意を灰色の瞳に宿し、オットーは静かに夜の闇へと溶けていった。

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