スバル「せっかくなので死んだふりをしてみようと思う」   作:空見大

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sideクルシュ

夜の冷たい風が吹き抜けるテラス。

隣に腰を下ろすナツキ・スバルの横顔は、普段の喧騒の中心にいる彼からは想像もできないほどに冷たく硬い。

 

 取り留めのない雑談の最中、彼は懐から無造作に一つの小瓶を取り出した。

 中には、白い錠剤がひしめき合っている。

 スバルは手慣れた様子で蓋を開けると、十個単位の錠剤を躊躇なく一気に口の中へ流し込んだ。

 ごぶ、という無骨な音を立てて、強い酒精と共にそれを無理やり胃の腑へ流し込む。

 明らかに適切な用量を無視した、自傷行為にも等しい破滅的な薬の飲み方だった。

 

「……スバル、あまり感心しないな。良い薬も過ぎれば毒になる。取り過ぎは体に悪いぞ」

 

「ああ、ごめん」

 

 素直に謝罪の言葉を口にするが、彼からは己の体を労わる様子が一切感じられない。

 まるで自らの肉体をただの容れ物とでも思っているかのようなその態度は、騎士を志す者の在り方として看過できるものではなかった。

 

「どこか悪いのか?」

 

「いんや、どこも。ビタミン剤みたいなもんだよ、これ」

 

 空になった小瓶をひらひらと振りながらおどけてみせるスバル。

 だがその瞬間、クルシュの頬を微かな風が撫でた。

 彼女が生まれ持つ風見の加護。それが、今のスバルの言葉に虚偽が含まれていることを正確に告げていた。

 彼の言っていることは要領を得ないが、少なくともクルシュの目には薬のように見えた。

 特に問題がないのであれば何故、彼はわざわざそんな見え透いた嘘を吐くのか。

 

「びたみんざい? 何にせよ嘘はやめろ、スバル。風が吹いているぞ」

 

 咎めるようなクルシュの言葉に、スバルは小瓶を振る手をぴたりと止めた。

 ゆっくりと首を巡らせた彼の瞳には、ひどく濁った、感情の抜け落ちた色が広がっていた。

 

「それは、どっちが嘘だと?」

 

「……何?」

 

 スバルは残っていた強い酒精を喉の奥へと一気に流し込み、空になったグラスをコツンと机に置く。

 そして、ひどく凪いだ瞳を真っ直ぐにクルシュへと向けた。

 

「じゃあ、分かりやすく……俺は、身体を壊しているんだ」

 

 微かな風が吹き抜けた。加護が彼の言葉を嘘だと判定したのだ。

 クルシュはわずかに安堵する。身体は壊れていない。

 

「今、俺が飲んだのは薬だ」

 

 またしても、風が吹く。スバルの言葉が嘘であることを加護が告げている。

 飲んだものは薬ではない。ならば、彼が今飲み込んだあの大量の錠剤は一体何なのか。

 嫌な予感が、クルシュの胸の奥でどす黒く膨れ上がっていく。

 冗談にしても悪趣味が過ぎる。そう声を荒げようとした彼女の耳に、底冷えするような平坦な声が届いた。

 

「そして、俺が飲んだのは──毒だ」

 

 風が──吹かなかった。

 

 その一瞬。クルシュ・カルステンの世界から、すべての音が完全に消え去った。

 窓の外を揺らしていた夜風も、遠くで聞こえていたはずの虫の音も、自身の心臓の鼓動すらも。

 ただ、暴力的なまでの静寂だけがそこにあった。

 

「……な、何を……何を、言っているんだ、スバル」

 

「俺は、毒を飲んでいる。すぐに死ぬような劇薬じゃないけどさ……早ければ、今晩中にはお別れだ」

 

 凪いでいた。風は、一陣たりとも吹かない。

 己の命よりも確かな絶対の真理である風見の加護は、今のスバルの言葉に、微塵の揺らぎすら感じ取らなかったのだ。

 

「……どうし……て」

 

 自身の顔面から全ての血の気が引いていくのが分かった。

 彼女の全身を駆け抜けたのは、理解の範疇を超えた絶対的な戦慄。

 風が吹かない。それはつまり、目の前に座るナツキ・スバルという男が、本気で、毒を飲んだとーー本当にこの場で死ぬつもりであるという揺るぎない事実。

 

 彼が自ら命を絶とうとしている。

 その信じ難い現実が、誇り高き彼女の理性を激しく揺さぶり、無残に叩き折っていく。

 

「待て、スバル! 冗談にしても過ぎる! 今すぐ吐き出せ! 誰か、フェリ──」

 

「やめてくれ、クルシュさん」

 

「何故だ! 何故ここで諦める!! この国は、この世界は! まだまだお前が必要だというのに!!」

 

 堪らず席を蹴立てて身を乗り出し、スバルの胸倉を力任せに掴み上げる。

 だが、至近距離でぶつかり合った彼の瞳の奥には、死への恐怖も生への執着すらもなく、ただ遥か遠くの地平を見つめるような底知れない虚無だけが横たわっていた。

 

「もう疲れたんだよ、クルシュさん……ただ、本当にただそれだけなんだ」

 

 そこには加護の判定など、もはや必要なかった。

 彼がこれまでにどれほどの地獄を歩み、どれほど魂をすり減らしてきたのか。その果てに辿り着いた、不純物が一切混じっていない純粋な本心。

 その途方もない悲痛な響きに、クルシュの心臓が鷲掴みにされたように激しく痛む。

 

「世界は一応平和になった。これからやるべきことは確かに山ほどあるけどさ、俺が居なきゃどうにもならない話ばかりってわけじゃ──」

 

 乾いた破裂音が響き、気付けばクルシュの平手がスバルの頬を容赦なく弾き飛ばしていた。

 そうでもしなければ、彼が今すぐ自分の手の届かない場所へ、永遠に消え去ってしまいそうだったからだ。

 

「いきなりだな、クルシュさん」

 

「貴様は……! 人の心を何だと、何だと思っている……っ! ナツキ・スバル!!」

 

 絶叫に近い叫びが喉から漏れる。スバルの胸倉を掴んだままの彼女の拳は、彼を失うことへの抑えきれない恐怖に合わせて激しく震えていた。

 

「…………頼むよ、クルシュさん。お願いだから、どうか、俺を休ませてくれ」

 

 その縋るような弱々しい懇願に、クルシュは絶望的な面持ちで彼を見つめることしかできない。

 英雄という都合の良い言葉で彼を縛り付け、その裏で流していた血の涙に気付いてやれなかった己の不甲斐なさが、胸を深く抉る。

 やがて、スバルの身体からふっと力が抜け、意識を手放すようにその目が閉じられた。

 

「なぁ、クルシュさん……頼む、よ……」

 

 事切れるような呟きと共に、彼の身体が深く沈み込んでいく。

 

 クルシュは咄嗟にその身体を支えたが、腕の中に崩れ落ちた少年の身体は嫌になるほど軽かった。

 ソファーへと横たわらせた彼の顔には、普段の喧騒の中で見せるような道化の面影はない。

 ただすべてを諦め、深い眠りにつこうとする安らかな寝顔だけがそこにあった。

 

 深夜の静寂の中、クルシュはソファーの横に力なく膝をつく。

 次第に熱を失っていく少年の手を、自身の両手でそっと包み込んだ。

 

「…………ぁ、……っ」

 

 喉から漏れ出したのは悲鳴ですらなかった。

 ひどく痛々しい、ただ空気が擦れて漏れるだけの絶望の吐息。

 瞬きをするのも忘れその顔を見つめていると、瞳からとめどなく大粒の涙が溢れ落ち、スバルの頬に熱い雫となって落ちていく。

 

 頭の中を支配しているのは、果てしない後悔と己の無力さへの呪詛。

 なぜ、気付けなかったのか。彼がこれほどまでに摩耗し、心を壊していたことに。

 自分が記憶を失い、何も分からず暗闇の中で怯えていた時、誰よりも先に寄り添い、優しく言葉をかけてくれたのは目の前の彼だった。

 その不器用で温かい優しさにどれほど救われたか分からないというのに、自分は彼に何一つ返すことができていない。

 英雄という都合の良い仮面を彼に押し付け、その裏で彼がどれほどの血の涙を流していたのかを、見ようとすらしていなかった己の鈍感さがひどく恨めしい。

 

 城内にいるフェリスに助けを呼べば、優秀な治癒術師である彼ならばあるいは間に合うかもしれない。

 だがその考えは彼女の足を動かすには至らなかった。

 

 脳裏に焼き付いているのは先ほどスバルが自身に向けた、どうか休ませてくれという懇願の瞳。

 彼の痛みに気づけずここまで追い詰めてしまった自分に、嘘偽りのない魂からの叫びを無視して彼を再びこの残酷な世界へと無理やり引き戻す権利などあるのだろうか。

 

 せめて自分にできることがあるとするならば。

 それは彼の悲痛な願いを受け入れ、ここで彼を優しく見送ってあげる事だけだ。

 

 だらりと垂れ下がったその手に優しく自分の手のひらを重ねる。

 クルシュは一心不乱に、嗚咽すら殺して泣き続けた。

 彼の死にゆく姿を独りきりで看取る、永遠にも似た地獄のような時間をただ耐え忍ぶ。

 

 どれほどの時が過ぎたのだろうか。

 不意に、強く握りしめていたスバルの指先が微かに動いた。

 自分がそう思いたかったからそう錯覚したのだろうか。すがりつくような微かな希望と共にクルシュが顔を上げると、そこにはバツの悪そうに視線を彷徨わせるスバルの姿があった。

 

「…………て、てってれー…………なんちゃって」

 

 静まり返った部屋に響いたのは、蚊の鳴くような、ひどく情けない、弱々しい声だった。

 その瞬間、冷たくなっていくはずのスバルの手を握りしめていたクルシュの動きが、文字通り一瞬で凍りつく。

 

 ゆっくりと、機械仕掛けの人形のように顔を上げた彼女の瞳は、真っ赤に腫れ上がり、痛々しいほどに潤んでいる。

 彼女は数秒間、瞬き一つせずに、気まずそうに目を泳がせるスバルの顔を凝視していた。

 

 死んでいない。

 目の前の少年の胸は微かに上下し、握りしめた手からは確かな脈動と温もりが伝わってくる。

 だが、あの毒が嘘だったのだとしたら、なぜ自身の絶対の真理である加護の風は吹かなかったのか。

 悲しみで停止していた彼女の思考が徐々に熱を取り戻し、やがて一つの仮説に辿り着く。

 

 風見の加護は、発言者自身がその言葉を嘘だと認識していなければ風は吹かない。

 自身の感情や思い込みを意図的に操作する。それは、フェリスが時折見せる技術に似ていた。吐き出した嘘を自分自身にすら本気で信じ込ませることで、風の判定をすり抜けるというやり方。

 

 目の前の男は、ただの悪ふざけのために、自分が毒を飲み死に至るという偽りを、心の底から真実だと思い込んだというのか。

 彼の中に横たわる本心からの疲労感や絶望感が、その危うい自己暗示をいとも容易く成立させてしまったのだとしたら。

 

 死というものに対する彼の認識がどれほど麻痺し、歪んでしまっているのか。

 

 無事であったことへの安堵。失うことへの絶望。己が流した涙の理由。そして、彼が抱える死生観への静かな戦慄。

 それら全てが頭の中で急激に反転し、行き場を失った感情が混ざり合う。

 やがてそれは、一つの巨大な黒い炎となって彼女の胸の奥底から激しく噴き上がった。

 

「…………貴様ァ」

 

 地獄の底を這いずるような、低い、低い怒りの声が漏れた。

 

     ◆

 

「──卿の行動は、王の騎士として、いや、一人の人間として、断じて容認できるものではない」

 

 そこから始まったのは、オットーの呆れ声やラムの毒舌とは比較にならないほど重く、理路整然とした、氷のように冷たい正論の弾丸だった。

 命というものを軽んじることへの怒り。他者の信頼と真心を弄ぶことの罪深さ。

 

 クルシュは頬を濡らした涙の跡を隠そうともせず、しかし当主としての圧倒的な威厳を取り戻した冷徹な口調で、スバルの愚行を一つ一つ、正確無比に断罪していく。

 冷たい床の上に正座させられたスバルは、あまりの気まずさと彼女に与えてしまった苦痛への申し訳なさからか、小さく鼻を鳴らし、ひどく身を縮こまらせていた。

 

「ぐすっ……本当、すいませんでした……ドッキリついでに、あの加護って気合いで何とかなるのかなって悪戯心が出てきて、ちょっと試してみたくて……」

 

「試すために死を偽り、私の目の前で……! 私が、どれほどの覚悟で、お前の最期を……っ」

 

 言いかけて、クルシュの語尾がわずかに震えた。

 彼女は悔しそうに自身の膝の上で拳を握りしめ、ふい、と顔を背けて黙り込む。

 彼女がこの数時間で背負わされた恐怖と絶望の重さを、スバルは今更ながらに骨の髄まで痛感し、深々と畳に頭を擦りつけることしかできない。

 

「もういい……最後に一つだけ、教えてくれ」

 

 重苦しい沈黙の果て。クルシュは深い疲労の色を滲ませながらも、再び真っ直ぐに、射抜くような眼光でスバルを見据えた。

 

「なぜ、あのような悪趣味な真似をした? 加護を試す以外に、何か理由があったのではないか?」

 

 その真っ直ぐな問いに。

 スバルは項垂れたまま、ふっと自嘲するような、遠い目をして力なく笑った。

 

「……ちょっと早めの生前葬だよ……本当にごめんなさい、クルシュさん」

 

 その瞬間、クルシュの頬を微かな風が撫でた。

 風見の加護が、彼の今の言葉に虚偽が含まれていることを告げている。

 だが、クルシュは一瞬だけ目を見開き、スバルへひどく疑い深い視線を向けた。

 

 果たして、本当に風は吹いたのだろうか。

 先ほど、一切の風を吹かせずに死の宣告を真実だと誤認させた彼を前にして、己の絶対の真理であった加護の判定すらも、今の彼女には信じきることができない。

 

 仮に嘘だとして、どこからどこまでが嘘だったのか。生前葬というふざけた理由か、謝罪の言葉か、それともその両方か。あるいは、風が吹いたという感覚そのものが、疑心暗鬼が生み出した錯覚なのか。

 

 風見の加護が何を告げたにせよ、彼が心の奥底に決して覗き込んではならない危うい闇を抱えていることだけは確かだった。

 

「なぁスバル、やはり私の所に来ないか? ヴィルヘルムもそれを望んでいる。フェリスは……まぁ、私が何とか説得しよう」

 

「誘ってくれるのはほんとに嬉しいけど、俺はエミリアたん一筋だから……ありがとう、クルシュさん」

 

「釣れないな。この一件については、私の情けない姿を見られたこともある。私もお前も他言無用だ」

 

 クルシュは小さく息を吐き出すと、決意を込めた強い瞳でスバルを睨みつけた。

 

「だが、忘れるなナツキ・スバル。私への貸し一つだ……これをキッチリと返してもらうまで、絶対に私は、お前から目を離さないからな」

 

 その執念すら感じさせるクルシュの重たい宣告に、スバルはもはや、ただ曖昧に笑い返すことしかできないのだった。

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