スバル「せっかくなので死んだふりをしてみようと思う」   作:空見大

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閑話休題:フェリス

 陽の光が柔らかく差し込む、ルグニカ王城の広大な回廊。

 磨き上げられた大理石の床が窓から射し込む午後の日差しを反射し、王国の絶対的な平和と威信を象徴するかのように白く輝いている。

 

 大罪司教の脅威が去り、エミリアが玉座に就いてからというもの、この王城はかつてないほどの穏やかな空気に包まれていた。

 争いの絶えなかった血生臭い時代は終わりを告げ、誰もが明日への希望を抱いて眠りにつくことができる世界。

 

 そんな時代にただ一人だけ、ひどく重々しい足取りで歩く青年がいた。

 着慣れたジャージ姿のその背中は、この輝かしい空間には酷く不釣り合いに沈み込んでいる。

 

「飲み過ぎたな……ぅえ。今日休みでよかった」

 

 スバルは、ズキズキと内側から金槌で殴られているかのような頭痛に顔をしかめ、小さくえずきながら壁に手をついた。

 胃の腑で昨晩の強い酒がうねりを上げ、喉の奥に不快な酸の匂いがこみ上げてくる。

 慣れない度数の高い酒を煽った代償は思いのほか大きく、視界はかすかに揺れ、全身の筋肉が鉛のように重かった。

 

 昨夜の出来事を思い返せばこの程度で済んでいるのが幸運とも言えるだろうが、なんにせよ絶賛体調不良なのにはかわりない。

 近くの壁に体を預け、足元を見ながらふらつきをごまかすように歩き出そうとした、その時だ。

 

「にゃっほー、スバルきゅん。こんなところで奇遇だネ」

 

 スバルの耳に聞こえてきたのは、静謐な回廊の空気を一気に華やかに塗り替えるような、特徴的で愛嬌のある声だった。

 顔を上げると、軽快な足取りでこちらに近づいてくる青年の姿があった。

 フリルのついた軽装に、頭の上で揺れる可愛らしい猫耳。

 ーーフェリスがいつものような人懐っこい笑みを浮かべて小首を傾げていた。

 

「誰かと思えばフェリスか。珍しいな一人で、クルシュさんはいないのか?」

 

 スバルは胃の不快感を無理やり飲み込み、いつものように道化の仮面を被って軽口を叩く。

 クルシュが来ていることは知っているが、彼女は昨日他のメンツには漏らさないと言っていた。

 ならば自分が彼女と会った話をするより、会っていないということにしたほうがいいだろう。

 そんな判断からのスバルの言葉に対して、フェリスは特に疑いもせずに言葉を返す。

 

「ちょっとクルシュ様のお使いでね。文官さんたちに書類を届けに来た帰りなんだけド……スバルきゅん、なんだか顔色悪くない?」

 

 猫のような丸い瞳が、スバルの顔をじっと覗き込む。

 その視線には単なるからかいではなく、彼が時折見せる鋭い観察眼が混じっていた。

 肌の血色、呼吸の乱れ、不自然な重心の偏り。

 フェリスの目は、一瞬にしてスバルの異常を値踏みし、正確にその状況を理解する。

 そんな彼を前にして誤魔化しきれないと悟ったスバルは、わざとらしく頭を掻きながらため息をついた。

 

「なんか寝れなかったからちょっと飲もうと思ったら飲み過ぎてこの様だ、笑ってくれよ」

 

「ふぅん? まぁ、ただの二日酔いならいいんだケド。一応、優秀な治癒術師様に診せといた方が安心でしょ。ほら、手ェ出して」

 

 そう言って、フェリスは白く細い手をスバルに向けて差し出した。

 正直手を取りたくない。彼がどこまで何を理解するのか、それがわからないからだ。

 だが彼のそんな態度は有無を言わさぬものであり、断れば後でどれほどねちねちと説教されるか分からなかった。

 それでもスバルは、一応反抗の意思を見せる。

 

「いや、だからただの二日酔いで……」

 

「いいから、手」

 

 ピシャリと、冷たく短い言葉が落とされた。

 一瞬だけフェリスの瞳の奥に宿った鋭い光に圧され、スバルは観念したように息を吐く。

 

「……へいへい、分かりましたよ。お手」

 

 犬の真似事のようにおどけて右腕を差し出す。

 黒とオレンジのジャージの袖口から覗く肌に、フェリスのひんやりとした指先が脈を測るように触れた。

 瞬間、淡い光と共に、微かで温かいマナがスバルの体内へと流れ込んでいく。

 

 それは本来、心地よいはずの治癒の力だった。

 しかし、スバルの肉体の内部構造を這うように巡ったそのマナは、すぐさまおぞましい異常を術者へと伝達した。

 

 フェリスの顔から、ふっ、と愛嬌のある笑顔が完全に消え失せる。

 脈を伝って流れ込んでくる情報は、およそ生きた人間のものとは思えないほどに惨憺たる有様だったのだ。

 

「……スバルきゅん、これ、どういうこと?」

 

「二日酔いの酔っぱらいもどきってことだよ」

 

 スバルは努めて軽い調子で返すが、フェリスはスバルの手首を掴んだまま、氷のように冷たい声で紡ぐ。

 

「茶化さないでヨ。……中も外も、ボロボロじゃない」

 

 低く、地を這うような声音だった。

 フェリスの治癒魔法は、スバルの肉体に刻まれた異常な損傷の痕跡を、年輪を数えるように正確に読み取っていた。

 極度の緊張と恐怖によって内臓に蓄積された過度な疲労と、それを休ませることもなく酷使し続けたことで生まれた、肉体の悲鳴の数々。

 

 それは、およそ平和な王城で暮らす人間が抱えていいダメージではなかった。

 とうの昔に心が折れ、二度と立ち上がれなくなっていてもおかしくない、凄惨な肉体の末路そのものだ。

 フェリスの目線で見れば、どうしてスバルがいまも以前までと変わらないような素振りができているのか、まるで理解ができないほどに。

 

「……ああ、まあ、色々あったからな。少し疲れてるだけだよ」

 

 そんな彼の言葉にスバルは視線を逸らし、平然を装う。

 だが、その言葉は火に油を注ぐだけだった。

 

「そんなわけないでしょ、戦ってた時ならまだしも平和になった王都でこんな傷……スバルきゅん自分の体を雑に扱うのいい加減やめた方が良いよ。少しは自分を労わろうって気はないの?」

 

 本気で怒りを滲ませるフェリスの眼差しがスバルを射抜く。

 再三注意してきたことだ。

 ゲートの酷使から始まり、スバルの生傷が癒えたことは王選中ほとんどなかったと言ってもいい。

 死に急いでいるようにすら見えた彼の行動は平和になった今でも収まることはなく、むしろ悪化の一途を辿っている。

 だがそんな言葉を受けてもナツキ・スバルは笑顔を見せた。

 

「いや、そんな怒るなって。あちこちガタが来てるのは認めるけど、ちゃんと生きてるんだから万々歳だろ?」

 

「万々歳なわけないでしょ! スバルきゅんは一回ちゃんと療養しないと、いつ限界が来てもおかしくないんだから」

 

 フェリスの真っ当な怒り。それは誰が聞いても正論であり、スバルを案じてこその言葉だった。

 しかし、スバルの心にはその言葉は届かない。いや、届いてはいけないのだ。

 

「そんな事言われてもやらなきゃいけない事があるからさ。それに王の騎士が療養なんてしたら他の人達が不安になるだろ? 俺はまだまだ頑張れるからさ」

 

 へらっと笑って返すスバルの表情には、虚勢の裏に張り付いたような不気味なほどの使命感があった。

 休むことなどできない。自分が目を離した隙に、何かが起きてしまうかもしれない。

 

 大罪司教が滅びようが、王選が終わろうが、彼の精神は突然の死への恐怖から一日たりとも解放されてはいなかった。

 自分が動き続けなければ、また大切な誰かが理不尽に死ぬ。その強迫観念が、スバルの背中を無理やり押して歩かせていた。

 

 その歪みきった認識を目の当たりにして、フェリスはギリッと奥歯を噛み締める。

 

「……美しい自己犠牲のつもり? 反吐が出るヨ」

 

「なんだよ急に。俺は事実を言っただけで……お前だって誰かのために身を削る奴の気持ちくらいわかるだろ?」

 

「フェリちゃんはクルシュ様以外の為に身を削るつもりなんてないからわからないよ」

 

 スバルの甘い博愛主義を、フェリスは一刀両断に斬って捨てた。

 主であるクルシュ・カルステンただ一人のためだけに生き、そのために他を切り捨てることも厭わない。

 その冷徹なまでの忠誠心とエゴイズムを持つフェリスからすれば、他者のために見境なく自らをすり減らし、痛みを勲章のように語るスバルの在り方は、傲慢で滑稽な狂気にしか見えなかった。

 

「だから反吐が出るって言ってるの。みんなを守るため? じゃあ、スバルきゅんが死んだら、残されたみんなはどうなるの。考えたことある?」

 

「それは…………俺がいなくても、みんなどうにかやっていけるくらいには強いから……」

 

「ならないヨ。エミリア様は? ベアトリスちゃんは? 君が守って救った人たちは? 君が死んで、あの人たちが、ああ悲しいね、でも明日からも頑張ろうね、って、あっさり割り切れると思ってるの?」

 

「……」

 

 フェリスの言葉が、鋭い刃となってスバルの胸を抉る。

 エミリアの悲痛な泣き顔が、ベアトリスの絶望に染まった瞳が、スバルの脳裏をフラッシュバックする。過去の死に戻りの記憶の中で、彼が幾度となく見てきた、そして二度と見たくない光景。

 でもそれを乗り越えたから今があるのだ。

 

「ラインハルトだって、君を救えなかったらどれだけ傷つくか。……クルシュ様なんて、きっと君の最期を防げなかったって、一生自分を呪うことになるネ」

 

「……っ、そんなこと」

 

「そんなことあるんだよ! ……君の命はもう、君一人のものじゃないんだよ? 勝手に終わらせる権利なんて、どこにもない。それが騎士だって、分かってるはずでしょスバルきゅんだって。もう自分じゃ終わらせることも許されてないんだよ」

 

 フェリスの言葉は、完璧な呪いだった。

 スバルを生かすための呪いであり、同時に、彼から一切の逃げ道を奪う鎖でもあった。

 お前が死ねば、お前が救ってきた者たちの心が壊れる。だからお前は、どれほど苦しくても、どれほど擦り切れても、勝手に死んで楽になることすら許されない。

 それは、ただでさえ死の恐怖に怯えるスバルに対して、究極のプレッシャーを突きつける宣告に他ならなかった。

 

「……んなこと、分かってる。分かってるから、俺は……ッ!」

 

「分かってない! 分かってるなら、なんでそんな今にも死にたそうな顔をしてるのサ! 君はただ、生きるのにも死ぬのにも疲れて、思考を放棄してるだけじゃない!」

 

「…………っ」

 

 図星を突かれ、スバルは声を失った。

 反論の言葉が、喉の奥にへばりついて出てこない。

 

「……図星でしょ。死にたいわけじゃない。でも、生きていく気力もすり減って、もうどうでもよくなってる。だから、こんなボロ雑巾みたいな体を平気で放置できるんだ」

 

 フェリスの静かな、しかし確信に満ちた声が廊下に響く。

 その通りだった。

 スバルの精神は、とっくの昔に限界を迎えていた。

 目を閉じれば、死に戻りの記憶が鮮明にフラッシュバックする。

 己の首が飛ぶ感覚、内臓を引きずり出される熱さ、大切な者が血溜まりに沈む絶望。

 

 そして目を開けていれば、この完璧な平和の中ですら、また誰かが唐突に理不尽な死を迎えるのではないかという被害妄想にも似た恐怖が常につきまとっている。

 平和になればなるほど、何かを見落としているのではないかという焦燥感が彼を苛んだ。

 夜、ベッドに横たわっても、誰かの悲鳴が幻聴となって聞こえ、跳ね起きる。

 その呪いのような重圧を、スバルは誰にも言えず、ただ一人で抱え込み、心をすり減らし続けてきたのだ。

 

「……息の、仕方が……」

 

「え?」

 

 ぽつりと、スバルの口から零れ落ちた乾いた声。

 それは、強がりでも虚勢でもない、限界を超えた少年の剥き出しの悲鳴だった。

 

「少しだけ、息継ぎの仕方が分からなくなっただけだ。立ち止まるわけにはいかないのに、辞めるわけにはいかないのに……自分が思ってたより、俺は、ずっと……」

 

 自分が思っていたより、俺は、ずっと壊れていた。

 その事実を言葉にしかけて、スバルはギリリと奥歯を噛んで口を閉ざした。

 情けなかった。これだけのものを背負わせてもらいながら、こんな弱音を吐く自分が許せなかった。

 

「……スバルきゅんって、本当に救いようのない大馬鹿野郎だネ」

 

 フェリスの声には、嘲笑ではなく、深い呆れと、そして僅かながら治癒術師としての悲哀が混じっていた。

 

「……ああ。そうだな。最低の、大馬鹿野郎だ」

 

 スバルは力なく自嘲の笑みを浮かべる。

 もはや反論する気力すらなかった。ただ、フェリスの突きつけた正論という名の重圧に、全身の骨が軋むように痛かった。

 

「もし体が壊れてもフェリちゃんが治してあげる。……でも、もし本当に命を捨てるようなことをするなら」

 

 フェリスは一歩だけスバルに近づき、その翡翠の瞳でスバルの黒い瞳を真っ直ぐに射抜いた。

 

「フェリちゃんがベッドから二度と起き上がれなくしてあげる。手足の自由を奪ってでも、絶対に死なせないから」

 

 それは、比喩でも脅しでもなかった。

 王国最高の治癒術師は、スバルの命を繋ぎ止めるためならば、本気で彼の神経やマナの回路を破壊し、生きた屍にしてでも保護する覚悟を完了させていた。

 

「冗談キツイぜ」

 

 スバルは引き攣った頬を無理やり持ち上げ、軽口を装おうとした。だが、その声はひどく掠れ、震えていた。

 

「冗談なわけないでしょ。君を死なせるくらいなら、フェリちゃんは喜んで悪魔になるヨ。……覚悟、しておくんだネ」

 

 ピシャリと言い放ち、フェリスは一切の愛嬌を捨てた冷たい瞳でスバルを一度だけ睨みつけると、踵を返した。

 コツ、コツ、と硬い靴音が、静かな回廊に響き、やがて遠ざかっていく。

 あとに残されたのは、圧倒的な静寂と、冷たい空気だけだった。

 

「…………ああ、クソ」

 

 一人残されたスバルは、壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。

 フェリスの正論が、頭蓋骨の中で反響している。

 君の命はもう、君一人のものじゃない。

 分かっている。痛いほど分かっている。エミリアのため、皆のため、自分が死ぬことは絶対に許されない。休むことも許されない。警戒を解くことも許されない。

 誰にも理解されない死の恐怖。期待という名の呪縛。休むことすら許されない強迫観念。

 息の仕方が分からない。酸素を吸っているはずなのに、肺が焼けるように苦しい。

 

「……クソクソクソッ」

 

 どうにもならない無力感と自己嫌悪が沸点に達し、スバルの右手が無意識に動いた。

 左腕を掴み、着慣れたジャージの袖の上から、その爪を皮膚に深く食い込ませる。

 

「…………ッ」

 

 ギリリ、と布地越しに肉が軋む音。

 無遠慮な爪がジャージの繊維を、そして皮膚を破り、そこから生温かい血が滲み出してくる。

 痛い。間違いなく痛い。

 だが、その鋭い痛みだけが、死の恐怖とプレッシャーで白濁しそうになる意識を、この現実へと強引に繋ぎ止めてくれた。

 

 痛みにすがりつくように、スバルはさらに強く、何度も何度も自身の腕を掻き毟る。ジャージの袖が赤く染まり、やがて白い大理石の床に、ぽたり、と赤い滴が落ちる。

 

 平和な王城の昼下がり。

 誰かのために命を削り続ける英雄は、自ら流した血の痛みの中だけで、わずかに息を吐くことだけを許されていた。

 

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