スバル「せっかくなので死んだふりをしてみようと思う」 作:空見大
大好きな人との、二人だけの秘密の企み。
それは、王城という格式張った場所で日々メイドとしての修練を積むペトラにとって、何よりも胸が弾む、特別で甘い時間だった。
「箱の中身は何だろなドッキリ?」
「そうそう。ガーフィールのやつ、最近ちょっと気が張ってるみたいだからさ。ここらでいっちょ、しょうもないイタズラで息抜きさせてやろうかと思って」
少し悪戯っぽく笑いながら提案してくるスバルの横顔を見て、ペトラは自然と顔がほころぶのを感じていた。
スバルはいつもそうだ。周りの空気を読んで、誰かが思い詰めていると、こうして彼なりのやり方で空気を入れ替えようとしてくれる。そんな彼の不器用で真っ直ぐな優しさが、ペトラはたまらなく好きだった。
「面白そう! 私も手伝う! 中身、すっごくヌメヌメしたカエルとかにしちゃう?」
「お、ペトラも悪よのう。じゃあ準備は各自でやるってことで。俺とお前で、一つずつ箱の中身を仕込もうぜ」
ペトラは嬉々として了承し、早速中庭へと向かった。
ターゲットはみんなの盾であるガーフィールだ。普段は強気で頼りになる彼が、見えない箱の中に手を入れて「うわぁっ!」と変な声を出して驚く姿を想像すると、それだけでクスクスと笑いが込み上げてくる。
けれど、ペトラの胸の奥にはもう一つ、ほんの小さな下心があった。
(ガーフが驚くのも見たいけど……やっぱり、スバルが驚くところも見たいな)
普段は誰より頼りになるけれど、虫や気持ち悪いものに対しては意外とビビりで、情けない悲鳴を上げる大好きな人。そのギャップがまた可愛らしくて、彼女はそんなスバルの姿を見るのが大好きだったのだ。
だからペトラは、中庭の湿った茂みを時間をかけて探し回り、両手サイズの特大で、背中がいぼいぼでヌメヌメとした、最高に気持ち悪いヒキガエルを捕まえてきた。
絶対に無害で、でも絶対に触りたくないもの。
スバルがこれに触れてどんな顔をするのか、楽しみで楽しみで仕方がなかった。
数十分後。
日当たりの良いテラスのテーブルに二つの箱が並べられ、何も知らないガーフィールが呼び出されてきた。
スバルが用意した箱に入っていたウサギを、ガーフィールは触覚だけで見事に当ててみせた。鼻栓をつけられながらもドヤ顔で笑うガーフィールに、ペトラも手を叩いて笑う。
ここまでは、本当に楽しくて、平和な悪ふざけの時間だった。
「おいおい大将、オレ様ばっかりやられっぱなしってのは不公平じゃねェか? ここは言い出しっぺの大将が手ェ突っ込む番だろ」
「え? いや、俺は別にいいよ中身知ってるし、そもそも触りたくないし」
「なんでそんなもんをオレッ様に触らせようとするんだよ!? 大将のビビる反応を見て、オレ様が当てるってことで良いだろ」
スバルが嫌がり、ガーフィールが強引に押し切ろうとする。
その流れを見たペトラは、自分の期待通りの展開になったことに内心でガッツポーズをした。
「わー!面白そう! スバルやってみてよ!」
目を輝かせて、無邪気にスバルの背中を押す。大好きなスバルが少し怯えながら箱に手を入れる姿を見たいという、ただそれだけの純粋な期待だった。
「逃がさねェぜ大将! 男なら腹括って手ェ入れなァ!」
「ちょ、おい待てガーフ! マジでやめ、離せって!」
「いいからほらッ!」
ガーフィールの強い力に引かれ、スバルの両腕が黒い箱の奥へとズボリと吸い込まれていく。
さあ、どんな情けない悲鳴を上げるんだろう。ペトラは微笑ましいじゃれ合いを見るような目で、大好きな人の顔を見つめていた。
「熱ッッァァ!!!」
――え?
王城の分厚い窓ガラスをビリビリと震わせるほどの、鼓膜を劈く絶叫。
それは、カエルに触れて驚いたような、コミカルな悲鳴ではなかった。
ペトラがこれまでの短い人生で何度か聞いた、命の危機に瀕した人間の、純粋な激痛と恐怖に染まりきった本物の叫びだった。
「んだこれ痛っーーッァァ!!!」
「た、大将……?」
「痛い痛い痛い痛い痛っ……」
ガーフィールの動きがピタリと止まる。
目の前で、スバルが白目を剥き、全身を激しく痙攣させながら箱に突っ込んだ両腕を押さえて絶叫し続けていた。
冗談じゃない。演技でもない。
何が起きているのか全く理解できないまま、ペトラの視線が箱の底へと落ちた。
ドクン、ドクンと。
黒い箱の隙間から、どす黒く粘り気のある大量の液体が、床へと溢れ出していた。
生臭い鉄の匂い。血だ。尋常ではない量の血が、スバルの腕を突っ込んだ箱からとめどなく流れ出ている。
「スバル……!?」
全身の血の気が一瞬にして足元から抜け落ちていく感覚。
ペトラの思考は真っ白に染まり、喉の奥からヒュッと引き攣った悲鳴が漏れた。
助けなきゃ。早くあの箱から彼を出さなきゃ。ただその一心で、ペトラは反射的にスバルの身体を引っ張り、箱から彼の両腕を強引に引き抜いた。
「あ」
箱から抜け出たスバルの腕を見た瞬間、ペトラの時間は完全に停止した。
なかった。
肘から先の部分が、なかったのだ。
人間の腕としての形はとうに消え失せ、砕け散った白い骨と無惨に挽肉のように削げ落ちた肉が、皮一枚で辛うじて繋がっているだけの、ぐちゃぐちゃの赤い肉塊。
「ぁ、ヒュッ……、が、ぁ……」
スバルの喉から、空気が漏れるような小さな音が鳴った。
ぐちゃぐちゃになった肉塊から、ボタボタと滝のように血がこぼれ落ちる中、大好きな人が、まるで糸の切れた人形のように冷たい床へと倒れ伏した。
ピクピクと痙攣する身体。瞬く間に床に広がっていく、絶望的な血の海。
「あ、あああ、ああああああああっ!?」
頭を抱え、ペトラは狂乱したように叫び声を上げた。
視界がぐにゃぐにゃと歪む。息ができない。肺に空気が入ってこない。
なんで? どうして? 私が入れたのは、ただの大きなカエルだったはずだ。絶対に安全なもののはずで、だから何も起きないはずで、スバルが少し驚いて笑って終わるはずだったのに。
あの箱の中に、何かがいた? 私がカエルと一緒に、恐ろしい毒を持った魔獣か何かを閉じ込めてしまった? 箱の中をしっかり確認しなかったから?
私が、スバルに手を入れてなんて言ったから。
私が用意した箱が、大好きなスバルの腕を骨ごと食いちぎった。
私のせいで。私のせいで、スバルが。
「大将! 大将大将大将ォォッ!!」
ガーフィールが床に膝を突き、震える両手でスバルの身体に触れた。
即座に治癒の魔法が展開される。淡い光が、スバルの惨たらしい両腕を包み込んだ。
治る。ガーフィールの魔法なら治る。絶対に治るはずだ。
ペトラは縋るような思いで、その光を見つめた。神様、お願いです。どうかスバルを助けて。私の命を代わりにしてもいいから。
「なんでだ……なんで血が止まんねェんだよォッ!!」
だが、無情にも絶望的なガーフィールの叫びが部屋に響き渡った。
いくら光を注いでも、肉塊からの出血は一向に止まらない。
未知の猛毒か、呪いか。ペトラの用意した箱に潜んでいた何かが、治癒魔法すら受け付けないほどの異常な早さで、スバルの命を削り取っていく。
「死ぬな! 死ぬなァ! オレ様が悪かった! 治れ、頼むから治ってくれェッ!!」
大粒の涙をボロボロとこぼしながら叫ぶガーフィールの膝の上で、スバルの痙攣が、徐々に弱々しくなっていく。
指先が震え、虚ろな目が天井を向き、そして――完全に、動かなくなった。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ! スバル様ぁぁっ!!」
ペトラの喉から、血を吐くような悲痛な叫び声が響き渡った。
死んでしまった。私が殺した。大好きな人を。世界で一番大切な人を、私自身のこの下らない悪戯心で、無惨に殺してしまった。
目の前が真っ暗になる。心臓が握り潰されるような激痛に意識が遠のきかけ、このまま自分も舌を噛み切って死んでしまおうかとすら思った、その時だった。
「…………てってれー」
ピクリとも動かなかったはずのスバルが、ゆっくりと目を開けた。
「ドッキリ……大成功……なんちゃって」
ひどく間延びした、気まずそうな声。
そして、血まみれになった服の胸元から、無傷の本物の両腕がそっと取り出された。
時間が、止まったようだった。
ペトラは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、生き返ったスバルと、床に転がる作り物の肉塊を交互に見つめた。
頭が真っ白になって、しばらく何も考えられなかった。スバルの口が動いているのは分かるのに、言葉の意味が頭に入ってこない。
やがて、数秒の空白の後。
事態を正確に理解した瞬間、先ほどまでの絶望とは全く違う、熱くて大きな涙が堰を切ったように溢れ出した。
「た、大将ぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
「スバルぅぅぅっ! ばかばかばかばかぁぁぁっ!!」
「うわっ、お、おい二人とも! 血糊がつくから!」
ペトラは、血まみれの床などお構いなしにスバルの胸へと飛び込んだ。
ガーフィールも同じようにスバルにしがみついている。
なんでこんな酷いことをするの、という怒りも非難も、言葉にはならなかった。ただ、彼が生きていた、失わずに済んだという安堵のあまり、ペトラは子供のように声を上げてボロボロと泣きじゃくった。
「勝手にこんなドッキリやったのバレたら、ラムに信じられないくらい怒られるんだろうなぁ」
頭上から降ってくる、困り果てたような、でもどこか優しいスバルの声。
背中を撫でてくれる温かい本物の手の感触に包まれながら、ペトラはいつまでもいつまでも、大好きな人の温もりを確かめるように泣き続けるのだった。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
あれからしばらくの時間が経ち、ペトラは自室のベッドに腰を下ろしていた。
泣き腫らした目はまだ少し赤く、冷たい水で何度洗っても火照りが完全に引くことはない。
(スバルのばか……)
思い出すだけで、また少しだけ涙が滲んでくる。しかし、それ以上に胸を満たしているのは、彼が生きているという確かな安堵だった。
落ち着きを取り戻しつつある頭で、ふと、ペトラの脳裏にスバルが最後にこぼした言葉が蘇った。
――勝手にこんなドッキリやったのバレたら、ラムに信じられないくらい怒られるんだろうなぁ。
血まみれの部屋の真ん中で、彼が見せたあの困り果てたような顔。
(……あれ? ということは、ラム姉様はこの悪戯のこと、何も知らなかったの?)
もし本当に誰も知らないところで勝手にやったのだとしたら、スバルはこれからラムにどんなお仕置きを受けるか分からない。今回ばかりは、あんな悪趣味な仕掛けを用意したスバルが百パーセント悪いのだ。
少しだけ小言を言ってやろうと、ペトラはベッドから立ち上がり、エプロンの皺を伸ばして部屋を出た。
王城の廊下を歩いていると、開け放たれた客室で掃除をしている先輩メイドの姿を見つけた。
「ラム姉様……いまお時間いいですか?」
そっと声をかけると、ラムははたきを動かす手をぴたりと止め、こちらを振り返った。
「ええ大丈夫よ、どうかしたのかしら?」
いつものように淡々とした、けれど後輩に向ける柔らかな響きを持った声。
ペトラは少し躊躇いながらも、ずっと気になっていた疑問を口にした。
「ラム姉さまはその、スバルが何かしているの知ってますか?」
その言葉を聞いた瞬間、ラムの表情からスッと温もりが消え去った。
彼女は手元の掃除道具を静かに置き、ひどく冷たい、忌々しげな息を吐き出す。
「……はぁ。本当にあの馬鹿は……っ。誰かほかの人にやってるのを見たの?それともーーそう」
ラムの視線が、ペトラの泣き腫らした目元と、微かに震えている肩先を捉える。
それだけで、聡明な彼女はすべてを理解したようだった。ため息の後に続いたのは、静かな怒りを孕んだ声だ。
「一体どんな事をされたの?」
「そ、それはーー」
スバルがあまりにも酷い怒られ方をするのではないかと、ペトラは思わず言葉を詰まらせた。しかし、ラムの射抜くような視線から逃れることはできない。
「隠しても無駄よ、いいから吐きなさい」
促されるままに、ペトラは先ほどテラスで起きた出来事をぽつぽつと語り始めた。
スバルに誘われて箱の中身を当てる遊びをしたこと。スバルの腕が食いちぎられたように見えたこと。大量の血が流れて、ガーフィールの治癒魔法が効かなくて、自分が殺してしまったのだと思い込んでしまったこと。
すべてを聞き終えたラムは、腕を組み、氷のように冷ややかな声で言い放つ。
「ガーフはどうでもいいとして、私の可愛い後輩を泣かせるなんてまったくいい度胸ねバルスは」
「あ、あの!でもその、スバルはきっとみんなを驚かせたくて、きっとそれだけで」
慌ててスバルを庇おうとするペトラの言葉を、ラムは首を横に振って遮った。
「だからたちが悪いのよ、自分がやってることの意味もそれが何を生み出すかも全部わかっててそれでもやめられない。ラムに監視役を頼んできた時はまだ理性が残っているのかとも思ったけれど……」
ラムの口から漏れた事実に、ペトラは息を呑んだ。
スバルは、ただの悪ふざけでこんなことをしているのではない。自分でもその衝動を抑えきれなくなって、あらかじめラムに見張ってくれるよう頼んでいたのだ。
自分が誰かを傷つけ、自分自身をも壊してしまうことを理解しながら、それでもあの悪夢のようなドッキリを止められない。今のスバルが抱えているのは、ペトラが想像していたような無邪気な悪戯心などではなく、もっと深く、暗く、痛々しい何かだった。
「エミリア様やベアトリスちゃんにはこの事……」
一番に彼の傍にいるべき人たちの顔が浮かび、ペトラは尋ねた。だが、ラムは静かに目を伏せる。
「話していないわ。それはオットーやメィリィだって同じよ……いいえ、この文だともう他にも被害者はいるでしょうね。話せばバルスがどうなるかなんて火を見るより明らかよ」
これ以上、エミリアたちに心配をかけたくないというスバルの思い。そして、もし彼女たちがこの異常な行いを知れば、スバルを過剰に案じ、事態がさらに複雑に絡み合って彼を追い詰めてしまうというラムの判断。
王城の平和な日常の裏側で、スバルは誰にも言えない痛みを抱え込み、ラムたち一部の人間だけが密かにそれを監視し、支えようとしていたのだ。
「そんな、じゃあ私はスバルのために何にもできないの…?」
ギュッとメイド服の裾を握りしめ、ペトラは泣きそうになるのを堪えて尋ねた。
大好きな人があんなにも苦しんでいて、心から助けを求めているのに、自分はただ彼の悪ふざけに付き合って泣き叫ぶことしかできなかった。その無力さが悔しかった。
「レムが戻ってくればまだマシでしょうけど、あの子は帝国との交渉で一月ほど席を外しているからそれまでは経過観察するしかないわね。何か異変があったらすぐに連絡するように、ラムもバルスから目を離さないようにするわ」
ラムはそっと手を伸ばし、俯くペトラの頭を優しく撫でた。
「分かりました……ありがとうございますラム姉様」
「いいのよ、可愛い妹分の頼みだし、ラムもバルスには借りがあるもの」
ラムの温かい手のひらの感触に、ペトラは小さく頷いた。
窓の外では、何も知らない王都の平和な喧騒が続いている。けれどペトラは、スバルが作ってくれたこの平和の裏で、彼自身が今も一人で戦い続けていることを知った。
今はまだ、彼のためにできることは少ないかもしれない。けれど、目を離さないことならできる。誰よりも真っ直ぐに、彼を見つめ続けることならできる。
ペトラは静かに決意を胸に秘め、先輩メイドの隣で、大好きな人の行く末を想うのだった。