蝋燭のぶよぶよ   作:きりほしたいこん

1 / 1
1話 石鹸箱で命乞い
2話 線香の囓り跡
3話 幽霊少女との邂逅
4話 改竄する初恋


第1話-4話 幽霊少女との邂逅

 蠟燭(ろうそく)が溶けて再凝固した、窪みに溜まった白いぶよぶよ。

 その情けなくこの世にへばり付いている姿が自分にダブって見えてしまった。

 熱されながらも蒸発しきれない残骸。繰り返し萎縮させられる憐れな存在。

 自分はこの無価値なぶよぶよ、だらしない肉の塊。

 気付いてしまったら駄目だった。とてもじゃないが冷静さを欠いていた。

 

 日々最高気温を更新する真夏にブレーカーが落ち、エアコンを入れ直す正常な思考が小窪尊(こくぼたける)からはなくなっていた。

 セットされていたアラームに従い菓子パン二つの夕食を取り、小休憩を挟み、風呂場へと向かう規則正しいタイムスケジュール。大学が夏休みに入ると自堕落な日々に陥る者が多い中、尊の強迫観念は肉体の悲鳴を無視し続けている。

 咀嚼が上手くいかなくなり服を脱ぐのに手間取るようになっても『まだ大丈夫』『まだ何とかなる』という呪いは既に健全ではない青年の頭蓋の奥を貪っていた。

 

 電気を灯さない半年近く暮らした安アパートで、尊は覚束ないながらに中折れ扉を開けてタイルを足の裏で蹴っていた。湯船へと爪先を掛けた時、此処で初めて習慣的日常が乱れている事を知覚してしまう。

 水も湯も張られてなどいなかった。

 手狭な石鹸箱に収まりながら、何故、という疑問すら浮かばずに尊はポツンと呟いた。

 

「疲れた……」

 

 昨日出来ていた事がまた一つ出来なくなっている。

 とっくに『もう駄目だ』の限界値を超えているのに、新天地を求めた結果で予定調和のように挫折している自分を受け止めきれずにいた。

 

 努力はしている、だが、追い付かない。

 不安が自己嫌悪を煽り、孤独が恐怖を誘き寄せ、幾許もなかった安らぎなど蝕み尽くしている。

 両親が死んだ事も、幼い尊を育ててくれた祖父母が逝ってしまった事も、地元を離れて都会に暮らせば乗り越えられるものと信じていた。全ては成長の糧となり何事も意味があるものと思い込んでいた。

 未知の世界に足を踏み入れ新しい生活を始めたら生まれ変われると、尊は救われたがりで孤独に生きた。

 

「……風呂」

 

 古い浴槽の底から僅かに這い出て、単水栓のコックを捻る。

 ザアザアと雑音に紛れて心拍数が高鳴っていた。

 人はこんなにも窮屈な浴槽でも水があれば逝けるだろうか。

 足が濡れていく、汗と皮脂と涙が混ざる液体が作られる。人ではなく澱だと自覚する儀式をしていると高揚感が飛び散った。

 

 尊の祖父は厳しい人だった。

 清潔である事に人一倍拘りが強く、高熱であっても毎日の入浴を強要された。浴室に追い立てられる夜が何度あっただろう。とうとう今夜は生きていく為に必要だった規則すら抜け落ちてしまった。

 

 薄く瞼を開いて揺れる藍を見下ろす。

 臍の上まで溜められた水面にぼたぼたと涙を落として、沈む。

 こんな所で死ぬなんて自分にはお似合いの結末だ。転んで頭を打って無様に死に損なっても、誰も見舞いになんて来てはくれないから入水がいい。

 お粗末な人生だった。

 死後の事なんて自分は知らない。

 腐乱死体になっても最期は等しく火の中だ。

 

(……もう充分頑張ったよ)

 

 尊はこのまま溺れてしまいたかった。

 呑み込まれる為に開かれた口には死と呼ばれる隣人への恍惚があった。弛緩した四肢はさらに醜悪なぶよぶよに成り下がろうと重みを増していく。

 やっと死ねるのだ、やっとだ、やっと。

 この数年一度たりとも感じ得なかった安堵に包まれて尊は目を閉じた。

 しかし、生きとし生けるものの肉体には、生存しようとする本能が備わっている。

 恐怖が彼を生かすのだ。

 

「なっ、何! 何!!」

 

 足元の些末な違和感を拭いきれず、そのまま落ちていってしまえばいいものを、生白い手は浴槽の脇を強かに掴んだ。

 冷水がいやに感触を変え、ぬぅめぇっと皮膚に纏わり付いた。カルキ臭が鼻腔を刺激する。何かが耳の穴と眼球の上を這いずり回る。体内へと侵蝕してくる粘液にぷつぷつと鳥肌が立っていた。

 

 貧相な足首は渦に取られ、捻じってすり潰すような悍ましい振動と共に排水溝の下へと引き摺られる。最後に回転する髪の毛を思い出し、尊は惨めな家鴨みたいに手足をバタつかせた。

 

(死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない…………!!)

 

 初めて命乞いをした。

 薄く引き伸ばされているだけの生に追い縋る。足の指をこよられながらみっともなく藻掻いていた。

 

(何でもするから誰か助けて……!)

 

 一九年に満たない人生、誰とも知らないモノに殺されるのは怖かった。

 

(何っ、何だよ、何なんだよ…………!!)

 

 溺死体の想像図も自分の葬式の光景も掻き消され、これまでにない渇望で尊は心から死にたくないと望んでいた。

 消極的率先的自害を幇助しようとした親切な〝モノ〟に抵抗してしまったのは、尊が悲しくも矮小で常識から逸脱しない人間だったからに他ならない。

 

「電気…………点いた……?」

 

 怪奇現象の幕間、照明が点いた見慣れた風呂場。

 手の平から零れていく水は元の姿をしていたが、無色透明だったモノが大きな塊へと一滴合流していけば、贅肉に穴が開いたかのように薄らとした赤が広がる。

 

「ひいっ……!」

 

 汚濁されていくH2O、擬似的に設けられた己の血溜まり。

 いよいよ尊は混乱して這う這うの体で逃げ出した。

 全身濡れたまま居間へと走る、転がっているペットボトル、中身のないビニール袋、今日も立派な両親と祖父母の仏壇。目に入るあらゆる物が魔物の隠れ処になる。

 尊は布団すら被れずに、顔を覆って手についた蛞蝓(なめくじ)のような鼻水を垂らしてしゃくり上げていた。

 

「どうしよう……!」

 

 時刻はまだ、午後八時を回ったばかりだ。

 

 ・・・

 

 建物の内外から聞こえる騒音が今の尊には攻撃だ。

 隣の部屋の住人が立てる生活音、排気量の多いバイクの走行音は、歯をカタカタと鳴らせる程に恐ろしい。

 俎板の上で跳ねる魚のように見っともない右往左往をして、ワンルームの天井から下りる長い紐を引く事なら出来た尊は、明るくなった部屋で膝を抱えず脱力していた。

 

 この世に味方などいなかった。

 絶対的な愛情をくれる筈の両親は乳児期に喪い、生活の面倒を見てくれた祖父母もこの世を去った。

 尊を守ってくれるものと言えば伯母が管理している遺産だろうか。

 その残高がどれ程あるかも知らず、大学を卒業したら完全な自立を約束させられた。

 あらゆる物事や現象が尊を追い詰めている。

 

 青年になりきれない未熟で不出来な少年は、びしょ濡れの丸裸の滑稽さに、築四〇年のアパート全体が揺れる扉の開閉がして数分してから漸く思い至った。

 罅割れた唇からあぶれる過呼吸気味の息は、ひっひっ、と耳障りだ。

 目を開けずには動けない彼は、まだ整然と保たれていた箪笥の中から衣類を取り出し、しかし着る事は出来ず、頭から被るだけで薄暗い目のまま仏壇の前の座布団に着く。

 質素な暮らしを送る中でいやに豪勢な仏具店の上等品に、髪から垂れる液体が沈む。

 祖母の教えに忠実に先祖や両親に縋ろうとした尊だが、幼い頃から染み付いた手順が分からなくなっていた。

 何から手を付ければいいのか急に記憶が奪われたかのように、蝋燭に火を点ければいいのか、りん棒を持って鳴らせばいいのか、忘れてしまったのだ。

 

「線香……、線香……、俺……」

 

 小学生の時に同級生から臭いと言われた独特の匂い。

 毎朝毎晩と欠かさず手を合わせていた祖母は、死んだ両親が守ってくれる香りだと尊を諭した。

 今彼の脳は憐れな程に萎縮をし、短絡的で強い衝動性を持ち、仏壇の脇に積まれていた未開封の箱を掴ませた。

 

 怖いモノは線香を避ける、食べれば救われる、だから緑の棒っきれを貪り尽くす。

 封を解かず囓る、噛み砕けず唾液が染みる。味蕾に広がる苦みと蘞みに今此処に生きてしまっている事実に滂沱して馬鹿のように線香の束をしゃぶる。

 啜って啜って、口内の唾液が粘性を持っている錯覚に陥れば、嗚咽しながら執着していた。

 やがて、どうにもならないものだと床に放り捨て、虚ろな視界の中で怯む程白い蝋燭を掴んでいた。

 

 尊の正常性は損なわれていた。

 身を掻き毟ったら叱られる、ならば〝怖い〟の根元を燃やすしかないと閃いた。

 利手の右手で和蝋燭を持ち、充填式の長ライターの引き金を人差し指で引く。

 

「何で……、何で点かない……!」

 

 カチカチと安っぽい空回りをするばかりで望んだものは何一つ手に入らない。

 尊は喉を潰すように唸って畳を撲った。

 するとどうだろうか、薄い床下の階下の住人からの苦情に見舞われ、だらりと背中が丸まった。

 

「……どうしよう」

 

 小窪尊は憐れな生き物だった。

 考えても考えても答えが出ない所に、考えなければ考えなければと鼓舞して潰れていく。

 誰にも助けて貰えないのはとっくの昔に刷り込まれた。尊が求める程度の救済が差し伸べられた事はこれまでにない。

 

 床に転がる物々と、畳まれていない洗濯物。

 脚を伸ばして指先で布団の端を蹴り、指股で引き寄せようとして失敗し、下着すら身に着けられない非常事態に繰り返し繰り返し布団の方を動かそうとする。

 そうして暫く経って飽き始めたら、頬を何度も叩いていた。

 尊は蛆虫を見た事がない。

 だが、あたかも体内の蛆虫を追い出す儀式のように全身を叩いて回った。

 一先ず静かになっていた感情も、皮膚の中を這いずり回られた感触が甦る事で総毛立ち、混乱が錯乱を誘発する。

 

「助けてっ、助けて、助けて、助けて!」

 

 癇癪を起こす子供が己を撲ってでも訴える相手が、尊にはいない。

 肩甲骨の周囲が粟立ちながら「助けて」ともう一度音程を変えて言ってみて、尊は止まった。

 

 すっ、と立ち上がりバスタオルを脱衣所の籠まで取りに行き、身体を拭いた後は服を着た。

 よれたTシャツの襟ぐりのように疲れていた。

 廊下のフローリングは温く、皮膚から駆け上がるモノへの反抗でペッタペッタと足音を鳴らし、仏壇の引き出しに仕舞われていた小さな箱の燐寸を取り出す。

 シーツを数日替えていない汗を吸った布団に胡座を掻き、低価格帯のスマートホンでそのタイトルを検索する。

 

 マッチ売りの少女、死に逝く者が最後に見る幸せな夢。

 

 どうせ死ねないのに、真夏の茹だる室内で幻覚に閉ざされていたかった。

 ヒットした候補から作品の本文が読めるサイトを選び出し、全身を前後に揺すりながら少女の終焉を見届けた。

 しかし、肩透かしだった。

 宗教的な色合いの強さに馴染みを持てず、かと言って思いつきを中断する回路もなく、箱を開ける。

 

「神様なんている訳ないのに!」

 

 摩擦音は火花を散らさず、ポキンと軸木が折れてしまう。

 楽しくなってしまって、楽しいと思い込まずにはいられずに、尊は立て続けに何本も燐寸を折った。

 布団に散らばる赤と茶色。

 指でちんまりと摘まみ、頭薬を繁々と眺め、丸呑みにした。

 喉を掻かせて嚥下しても内側から燃やされてはくれない。けれどそれしかする事がないから真っ二つのささくれ立っている燐寸を呑んだ。

 

 たるんだ腹を押さえて満足した心地を頭に練り込ませれば、今度こそ平穏が訪れる。

 手を突いて仏壇に頭を垂れた。

 

「おやすみなさい」

 

 眠れよ眠れ、さすれば救われる。

 エアコンのリモコンを手にして運転ボタンを押した尊だが、何度掲げても反応しない。立ち上がりセンサー間近に突き付けてもウンともスンとも言わなかった。

 

「あ……そっか……、ブレーカー……」

 

 胃を抑えて身震いした尊は、一晩中眠る事が出来なかった。

 

 ・・・

 

 定刻通り、朝六時起床。

 一睡もしなかった、する事など無理であった尊は、スマートホンのアラームによって重い身体を動かした。

 

 彼の習慣は幼少期から変わらない。最優先されるのは飲食供養(おんじきくよう)だ。

 目が覚めたら顔を洗い、昨日辛うじてセットしていた炊けたばかりの白米と常温のミネラルウォーターを用意する。

 仏様、ご先祖様を彼は信じている訳ではない。信心深くない尊にとって香喰(こうじき)という考えは眉唾だ。

 そうした行為をしなければ生き延びられなかった、というインプリンティングがあるだけだ。

 

「おはようございます」

 

 まだ尊は仏壇の前で手を合わせる事が出来ていた。これが最後の頼みの綱である。

 ドライフードの味噌汁を湯で溶き、冷凍庫に所狭しと並ぶ保存容器を取り出した。この所食欲が落ちて冷凍白米ばかり拵えている。

 電子レンジの異音を聞きながら、ブレーカーの戻し方を調べる。

 天板を開けたくなかったが真夏の気温で室内で腐乱死体になるのは嫌なのだ。

 彼は浴槽に囚われていると言って差し支えない。

 

「お下げします」

 

 一礼して下げ、プラスチック製の器に落とす。

 生きている者より死んでいる人間が尊まれるのは可笑しな気がしたが、彼の意見は物心付く頃には封殺された。

 未だに不満が出る事が尊の固執し易い性質を表している。

 

 一人暮らしを始めると洗い物が面倒であると覚えた。

 祖父母宅で暮らしている時はそれが自身の仕事であるから嫌々でもこなしたが、稀に使っていたふりかけやご飯のお供といった物は容器を汚す。金銭的にも馬鹿にならず自然と避けるようになっていた。

 淡泊な生活だ、味気なく恐ろしくつまらない。

 大学に通っている時間が丸々在宅になっている夏休み。

 暇を持て余して万年床に横になりネットだけど繋がる日々は、尊の殆どなかった社交性を奪っていく。

 

 今は、情報過多に流されながら自身の頭を働かせない。

 ふとした時に身体がびくつく。だから必死に興味のないアイドルの動画を観たり、延々と芸能人のSNSを見たりする。

 煌びやかであればある程己との壁があり、虚構へと誘われ、現実に立ち返らずに済んでいた。

 

 また、微振動と共にアラームが鳴る。

 消費してしまった午前中。畳に転がる昨夜の名残を拾うが臭っている自分は無視をした。

 湿気った線香はもう使えないが、手にしただけの和蝋燭は元の形を保っている。

 ライターのスイッチを押すと簡単に火を吹いた。

 

「このまま死んでくのかな」

 

 尊は孤独だった。

 同じように田舎から上京している新入生が彼らなりの努力をして居場所を確保していく中で、尊は完全に乗り遅れてしまった。

 講義のガイダンスを一人で聞き、カリキュラムも一人で作り、必修の時間は苦痛だった。

 友達が出来ると信じていたのに、尊は同窓にとっては風景だ。

 

「尊君……」

「…………え?」

「心配だな、私、何をしてあげられるだろう」

「誰か! 誰かいるの!?」

「わたしのこ」

 

 ライターを落とした瞬間に、まだうら若い女の声が断ち消えた。

 恐ろしさが駆け抜けたが、同時に誘惑された。

 都会に来て他人から初めて『尊君』と呼ばれ、心配をして貰った。

 その喜びは爆発的に尊の自尊心を擽り、死ぬ前のご褒美かと脂下がっていた。

 

「誰か――いるんだね?」

 

 返事はなかった。

 金切り声でもいいからもう一度聞かせてほしかった。

 口の中で溶ける砂糖の如く女の囁きは甘かった。

 尊は狭い部屋を見渡し、諦められずに呼び掛け続け、もう一度ライターを取った。

 

「会えた……」

「私が、見えるの?」

「うん……」

「本当に? 私、尊君とお話し出来るの?」

「出来るよ! やっと会えた……!」

 

 これまでの悲運は序章(プロローグ)だったのだ。

 尊はすっかり逆上せ上がっていた。

 その少女は随分と可愛らしく、照明に照らされミニスカートを揺らしていた女達より清楚で慎ましく、しっかと尊を見つめてくれる。

 始まった恋愛劇(ロマンス)に嗄れた声が艶を持つ。

 

「尊君、昨日は、守れなくてごめんね」

「君にも、見えてたんだ、あれ――」

「危ないと思ってお風呂場に入ろうと思ったんだけど弾かれちゃったの……尊君の悲鳴が、聞こえたのに……」

「泣かないで! 大丈夫だから! 俺は、大丈夫だから」

 

 顔を覆って泣き出した少女の可憐さに顔を赤らめ、尊は異臭を放つ部屋着の裾を直す。

 突如として舞い降りた天使に途端に夢中になってしまい、普段なら気障ったらしいと鼻を鳴らさずにはいられない台詞を吐いた。

 

「君が無事で良かった」

「尊君……」

「えっとぉ、さ。君……名前、教えてくれない?」

 

 彼女との距離をすぐにでも詰めたかった尊は、布団の上で蛙のような動きをして近付いた。

 少女は不気味がる事もなく困り顔で俯いた。

 

「知らない方が、いいと思う」

「何で?」

「私、もう死んでるから」

「死んでてもいいよ! 俺、知ってるかもだけど、独りぼっちでさぁ……話し相手もいないし心配してくれる人もいないし彼女とかいないから話し相手がいないんだ。寧ろ、幽霊の方が一緒に暮らせるじゃん?」

「でも……」

「教えて」

 

 舞台役者の三文芝居で促すと、白いワンピースの真夏のヒロインは恥じらいながら答えてくれた。

 

「アイリ。(アイ)(コトワリ)で、アイリ」

「アイリちゃん……!!」

 

 尊は実感した。生きている意味を知った。

 小窪尊は彼女に巡り会う為に生まれて来たのだ。

 

 ・・・

 

 夏らしく爽やかな出で立ちをしている少女には脚があり、温度も質感もあった。

 しかしライターのレバーを引く指を緩めると、歓喜に湧いていた尊は呆気なく絶望に突き落とされる。

 

「アイリちゃん?! アイリちゃん……!!」

 

 呼んでも呼んでも彼女から返事はない。

 動転して覚えたばかりの名を叫び、先程の繰り返しだとパニックを抑え込んで仏壇へと駆ける。

 彼女が現れ、微笑み、蝋燭の明かりが揺れる。

 薄いカーテン越しに朝日が差し込む部屋で、尊とアイリの傍らには橙がある。

 女によって火照らされた青年は、この輝きだけは絶やしてはならぬと予期せぬ美少女との遭遇に鼻の下を伸ばしていた。

 

「俺、アイリちゃんといる時はずっと蝋燭点けとくね。うちいっぱいあるからさ」

「うん――お願い」

「あっ、アイリちゃんは……っ、何年前に死んだの?」

「大分前だよ。尊君より先に何人も住んでるから……みんな、あんまり長続きしないの」

「もしかして、こうやって話せるのって、俺が初めて?」

「そう! そうなの! だからすごく嬉しいんだ」

 

 アイリの瞳に映りながらかつてない肯定感に満たされる。

 彼女の唯一の存在である事は、誰かの特別になりたい尊が欲しくて堪らなかったものだ。その視線や頷きや相槌からは好意が明らかで胸に熱くなる。

 長年の鬱憤を解消出来る絶好の機会に怒濤の如く話し掛け続けた尊だが、同級生の輪に入れずに来た人生では会話を得意としていない。

 愛想のいい返事を聞いて、口が不愉快気にへの字に曲がる。

 どうせこの子も内心ではつまらないと思っているだろう、と不愉快になってしまったのだ。

 

「尊君? どうしたの?」

「別に……」

「何か気に障っちゃったかな?」

「……もっと話しやすい奴が良かったよね」

「優しくて穏やかな人で安心してるよ。私、男の人苦手だから……尊君とお話し出来るのが嬉しいよ」

 

 何故彼女は生きていないのだろう。そればかりが尊には不満だ。

 生者である彼女となら交際も結婚も可能だった、彼女に自分の子を産んで貰う望みも持てただろう。

 けれども尊のみが生者で彼女は死者だ。二人の世界は手の届きそうな場所にありながらも隔絶されてしまっている。

 

「あ、尊君。水分補給した方がいいよ。熱中症になっちゃう」

「そうだね……アイリちゃんも、飲む?」

「私は何も飲めないし食べられないから――気にしないでね。ほら、真夏だよ」

 

 促されて常温で保存してあったペットボトル飲料を飲みながら、彼女の様子を観察する。

 避暑地の令嬢といった姿の長い黒髪と純白のワンピース。麦藁帽子を被り晴天の下に居たならば素晴らしい絵画になるだろう。

 年の頃は尊とそう変わらない。やや上か、やや下か、同い年か――同世代だろうと当たりを付ける。

 幼稚園時代から異性に冷たくあしらわれた経験しかなかった尊には、彼女は女神に近かった。

 

 その昔、初めて好きになった女子への募る思いに振り回され、尊は感情の滾るままに髪を掴んでしまった。泣かれ、誹られ、女子への苦手意識が固まったは恋の産物。

 アレは思い違い、今日こそハツコイ。

 この崇高な出会いが運命でなくて何なのか、この素晴らしき巡り会いを初恋と呼ばずして何と称すか。

 アイリが愛を教えてくれる。

 過去に『尊君気持ち悪い』という無神経な発言によって傷を負ってしまった心は癒えた。覆したかった出来事はアイリと出会う為の道を舗装していた。

 天恵を得たかのように尊はアイリへの感情で駆け上り、同時にむくむくと彼女に触れられるのかが気になっていく。

 

「幽霊だから水とかいらないって事だよね。暑いとかはあんの?」

「ないよ、私は幽霊だもん。だけど――私、尊君を通してなら感じられる気がする。あなたに、触れられるのかな?」

「やってみようか……」

「うん――」

 

 抜けるように白い肌の細く艶めかしい指先が伸ばされて、中指、薬指、人差し指と彼女と重なり交わっていく。

 指の腹の押し合いには得も言われぬ恍惚があった。

 彼女のほうっと吐かれた息に電流が背筋を走り、アイリを逃がさぬように強く絡ませて握り込む。

 

「アイリちゃん死んでるけど、俺にとっては生きてる」

「一人暮らしで自由に過ごしてたのに、私がいたら窮屈じゃない?」

「そんな事ないよ……アイリちゃんがいないと俺今日にでも死ぬから!!」

「見守っててあげる。尊君の生活にアイリを置いてね」

 

 恋人だ。自分達は悲劇に分かたれし恋人なのだと涙を吞んだ。

 アイリがいるなら自分は生きていける。アイリがいるから自分は変われる。昨夜の悍ましいヌメリが次また来たとして、今度こそ彼女が救ってくれる。

 尊のこれまで行き場のなかった感情の終着地がアイリになった。

 

「アイリちゃん。横に一緒に寝て」

「えぇ!? あっ……、尊君、夜眠れなかったんだもんね」

「添い寝して」

「いいよ、尊君なら……」

 

 エアコンの温度を下げ、いそいそとタオルケットを捲って横になった。彼女もスカートが広がらないように裾を抑えて尊と隣り合う。

 吐息が生きている。

 匂いは分からない、饐えた自分の体臭が鼻に付くだけだった。

 

「序でに、いい夢を見せてあげる」

「夢? アイリちゃん出て来る?」

「かもね――」

 

 魅了されながら電灯の紐を引いた。

 瞼はぴくぴくと小刻みに痙攣して彼女が至近距離にいる事に興奮していたが、アイリの笑い声に昂ぶっていた肉体が不意に硬直する。

 仏壇でまだ蝋燭が燃えている。

 小窪尊は卑屈で矮小で一般常識を弁えた人物である。このまま眠りに就いてしまう事への不安で鯉のように口が動いた。

 

「どうしたの?」

「蝋燭消したら、アイリちゃん、消えんだよね」

「そうだね。私の事消さないで」

 

 低く平坦になった声から嫌悪感を受け取り、尊は寄せていた身を引いた。

 それでもアイリが離さず、二人の距離をより縮め、唇が奪われる。

 突然のファーストキスだ。粘膜の間で生じた唾液の音は鼓膜を突き破るようだった。

 

「大丈夫。尊君の家族は火事なんか起こさないでしょう?」

「そうだね!! アイリ!!」

「駄目だよ尊君――起きてから、起きてからね」

 

 予告を打たれて芯から痺れた。

 狂おしく待ち遠しかったが、女の身体の柔らかさに包まれれば尊は嫌とは言えない。彼女の皮膚は死者らしい冷めたものだったが、上気している男の肉体には丁度良かった。

 アイリの肌に顔を埋めて髪を撫でられていると、尊の意識は遠のいた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。