何かあった才羽モモイが、異世界の廃墟の中で生きるだけの話   作:ミレニアムのモブ:文学派

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お待たせしました、後日談の第1弾!
長いのでゆっくり飲み物でも飲みながら、
そして「Defective Pixel」を聞きながらお読みください!


後日談その1 「旅路の果ての平和」

 

ある日の夜更け。

時計の針はすでに深夜の領域を深く回っていた。シャーレの最上階にある執務室の静寂を破るように、デスクの上に置かれた端末が、冷たい闇の中で頼りない電子音を立てて明滅した。

 

『先生、今時間大丈夫?』

 

画面にぽつんと表示された通知。そこに刻まれていたのは、他ならぬモモイからのメッセージだった。

かつてであれば、こんな真夜中に彼女から連絡が来れば、その中身は決まって「新作ゲームの徹夜会への強引な誘い」か、さもなければ「期限の迫った課題への泣きつき」のどちらかに決まっていた。

けれど、あの不条理で過酷な、文字通りの地獄のような異世界で3年という長い月日を生き延び、あまりにも多くの血と硝煙、そして消えない傷と重荷をその背中に背負って帰ってきた今の彼女が、こんな真夜中に連絡を寄越すなど、帰還してからこの1カ月間、ただの一度もなかったことだった。

先生は胸を鋭く衝かれるような、微かな、けれど決定的な予感を覚えながら、すぐに指を動かして画面を叩いた。

 

『うん、ちょうど一息入れようと思ったところだよ。』

『なにかあったの?』

 

画面の向こうで、彼女が文字を入力していることを示す三点リーダーが表示されては消え、また表示されては消える。その躊躇いの数秒間が、彼女の胸の内で渦巻く、言葉にできない言い淀んだ迷いや孤独を雄弁に物語っていた。

 

『ちょっと、眠れなくてね。』

『ミドリを起こさないように、静かに寮を抜け出してみたんだ』

『それで、夜の街をなんとなく散歩してたら、遠くからシャーレが光ってるのが見えたから』

 

先生は思わず顔を上げ、大きなガラス窓の向こうに広がるキヴォトスの夜景に目をやった。

確かに今、この巨大なシャーレのビルで明かりが灯っているのは、先生が座っているこの最上階の執務室と、一階の『エンジェル24』のフロアだけだ。

しかし、ミレニアムのある方向から見れば、シャーレのビルはあまたある高層ビル群の一つに完全に紛れているし、周囲のビルも深夜残業をしているのか、同じように明かりがついているものばかりだ。

仮に散歩に出たとしても、その膨大な光の海の中から「どれがシャーレのビルか」なんて、肉眼で正確に判別するのは極めて困難なはずだった。

胸を騒がせながら、先生は再び画面を叩く。

 

『ミレニアムからシャーレのビルって結構距離あったよね?』

『それに、シャーレ以外でも夜中に点灯してるビルはあるはずだけれど……』

『もしかしてモモイ、近くまで来てる?』

 

送信ボタンを押した、まさにその直後だった。

不自然なほどに静まり返った執務室の厚い木製のドアが、とても遠慮がちに、けれど確かに、こん、こんと小さくノックされた。

 

”どうぞ”

 

先生が少し声を張って応じると、ドアがゆっくりと、軋む音を立てて開き、廊下の薄暗がりからモモイが静かに姿を現した。

この1か月間で、見慣れたと思っていた……けれど、かつての彼女を知る身としては、どうしても全然見慣れることのできない、すっかり大人びてしまったその肢体。

そんな彼女は、「あはは……」と申し訳なさそうに、けれどどこか迷子の子どものように縋るような、歪で切ない笑顔を浮かべて佇んでいた。

 

「私が近くに来てるって、よくわかったね、先生……」

”これでも先生だからね! 君たちのことなら、なんだって分かっちゃうんだよ”

”さて、よく来たねモモイ。外は寒かったでしょう。何か温かいものでも飲む?”

「……ココア、あるかな?」

”もちろん。そこのソファーに座って、ゆっくり待っててね”

 

モモイはコクりと小さく頷き、来客用の深い革張りのソファーにその身体を沈めた。

彼女の少し丸まった後ろ姿を愛おしさと切なさの混ざった目で見つめながら、先生は給湯キッチンスペースへと向かった。食器棚から自分用の少し汚れの目立つマグカップと、モモイのための綺麗な来客用のマグカップを取り出す。自分のカップには眠気覚ましのインスタントコーヒーの粉を落とし、モモイのカップには、あの世界には絶対に存在しなかったであろう、甘くて濃厚なココアの粉をたっぷりと躍らせた。

ウォーターサーバーから熱湯を注ぐと、香ばしい苦味と、鼻腔をくすぐる暴力的なまでに優しい甘い香りが、夜の執務室に広がっていく。溢れず、けれど彼女の手を芯から温められるように、少なすぎない絶妙な量を調整して、先生はゆっくりとモモイの前にマグカップを置いた。砂糖スティックやガムシロップ、そしてトリニティのお茶菓子店から取り寄せたクッキーが詰まった小さなバケットも添えて。

 

”はい、どうぞ。出来立てだから熱いからね、気をつけて”

”お砂糖とかガムシロップとかは、あまり入れすぎないようにね? 体に障るから”

”それと、お茶菓子も自由に、好きなだけ食べていいからね”

「ありがとう、先生。」

 

モモイは両手で包み込むようにマグカップを受け取ると、立ち上る湯気をふうふうと優しく吹き放ち、唇を湿らせるように小さくクピッと飲んだ。

すると、あたたかなココアの甘みが思いのほかつなぎ目のない身体に染み渡ったのだろう……ホッと胸を撫で下ろすような、どこか安らかな表情を浮かべた。

先生も続くように、自分のマグカップを傾け、熱々のブラックコーヒーを喉に通した。

それからは、ただ沈黙だけが二人を包み込んだ。コーヒーの苦い香りと、ココアの甘い香りが静かに混ざり合い、溶けていく。

 

先生は、ときおりちらりとみてくるモモイに笑顔を浮かべながらも、ただ静かにモモイが言葉を紡ぎ出すのを待った。ここで大人の側から無理に理由を聞き出そうとしても、今のモモイはきっと、誰よりも周囲に気を遣って、その本心を笑顔の裏に隠してしまうから。

 

大人になって帰ってきたという、生きて戻ってくれたという、これ以上ないほどの愛おしさと歓喜。それと同時に、彼女が一番多感で傷つきやすい時期に、その成長の傍にいてあげられなかったという無力感、守れなかったという悔恨、そして何より、あの血と硝煙にまみれた残酷な世界で、彼女をたった一人で戦わせ、生きるための「能力」を身につけさせざるを得なかったという胸を締め付けられるような複雑な思いが、先生の心に昏い影を落としていた。

 

けれど、過ぎ去った過去をどれだけ呪おうとも、起きてしまった事象は決して覆らない。それは、この世界で多くの生徒たちの傷と向き合ってきた先生自身が、誰よりもよく知っていた。

だからこそ、先生は待つことにしたのだ。

ゆっくりと、時間をかけて。あの不条理な戦場に比べれば、このキヴォトスは退屈なほどに平和だ。だから、今日この場所で話せなくても、明日でも、明後日でも、あるいは一週間後でもいい。いつか彼女の張り詰めた心が限界を迎える前に、その胸に溜まった澱を吐き出してくれると、ただ信じて寄り添うことしかできなかった。

 

「……なにも、聞かないんだね。」

 

先生の無言の受容を感じ取ったのだろう。モモイはマグカップを見つめたまま、少し疲れたような、酷く影のある表情を浮かべて先生を見上げた。

 

”まだ、モモイが話す準備ができてないからね。話したくなったらでいいんだよ”

「それもそうなんだけれど……。

先生のことだし、3年前……あ、こっちだと3カ月前だっけ?

まあ、とにかく。昔みたいにさ、『こらモモイ! 夜更かしはダメだぞー!』って、子ども扱いして怒ってくれるのかなって、ちょっと思ってたの」

”その方がよかったかな?”

「うう〜ん……もう私も、向こうの世界で18になっちゃったからね。

さすがに今さら子ども扱いされるのは……私にとって、ちょっと恥ずかしいことなんだよ?」

”……そっか。本当に、すっかり大人びたね、モモイは”

「……うん」

 

以前のモモイなら、ここで「また子ども扱いしてー!」と、頬を膨らませてぷんぷんとかわらしく怒りながら、その実、甘えられることに嬉しそうな表情を浮かべていたはずだった。しかし、今のモモイは静かに微笑むだけだった。大人としての節度を保ち、自分がもう「守られるだけの子供」ではないと自認しているからこそ、そのギャップに戸惑っている。

再び、静寂が部屋を支配した。先生がコーヒーをすする音と、モモイがココアを喉に流す音だけが鼓膜に届く。モモイは躊躇いがちに手を伸ばし、バケットの中から個包装されたクッキーを一つ手に取った。カサリと硬い音を立てて袋を破り、一枚を口に運ぶ。

サクサクと心地よい音が響き、トリニティの上質な小麦とバターの優しい甘みが広がる。その少しのパサつきが口の中の水分を奪い、彼女の脳が自然と、また温かいココアを求めてマグカップを傾けさせた。

 

「……あの世界って、本当にどうしてあそこまで行っちゃったんだろうね。」

 

ぽつり、と。まるで心の底の底から、堰き止められずに溢れ出てしまったかのように、モモイがその言葉を零した。

その表情は、大切な誰かを目の前で失ったことのある大人のする表情で、そして悲観的な結論を見つけてしまった哲学者のようでもあった。

 

(あの世界、か。)

 

先生は、モモイを助けるために行った、あの絶望の世界を思い出す。

自律する機械兵器「オートメイル」と、繁殖する生物兵器「フェイタルビースツ」がただひたすらに殺し合いを続ける、終わりのない戦争の世界。

それを制御していたはずの国家が滅び、命令を下す人間が一人残らず死に絶えて絶滅したというのに、それでもなお止まることなく続き、全てを焦土に変えていく果てなき総力戦。

 

「これが破滅だ」と予想できた人はいなかったのだろうか。こんな無意味な殺戮は「もうやめよう」と考えた人はいなかったのだろうか。それを「止めよう」と、命を懸けて行動した人はいなかったのだろうか。

 

どうして、残された機械たちは、獣たちは、どれだけ進化を重ねても、どれほど世代を移ろっても、もうこの宇宙のどこにも存在しない祖国の勝利のために戦い続けるのか。

なぜ、人間がいなくなっても戦い続けるのか。

どうして、自分たちを縛る根幹の命令だけを忘れずに、あれほど大切に、呪いのように覚えているのだろうか。

……先生は、最後の作戦で出会った、2体の……いや、とある「生徒」になれるかもしれなかった存在たちのことを思い出し、切なさに胸を焦がしながら天井を見上げた。

 

”……なんでだろうね?”

 

モモイの悲痛な問いかけに、先生は苦笑いを浮かべて、そう答えることしかできなかった。

大人の特権を誇示して適当な嘘を吐くこともなく、ただ「わからない」と、ありのままに告げたのだ。

 

「先生もわからないの?」

”うん。わからないよ”

”私はあの世界の当事者でもないし、その関係者でもない。ましてや、あの世界の人間でもないからね”

”このキヴォトスで、生徒たちと一緒に過ごしている一人の不完全な人間に過ぎないから……どんなに言葉を尽くしても、私の口から言えるのは、ただの都合の良い憶測でしかないんだ”

”でも、モモイが本当に求めてるのは……誰かの都合の良い憶測の答えじゃなくて、確かな答えでしょう?”

 

視線をモモイに戻した先生は真剣に、誤魔化しのない真っ直ぐな目でモモイを見つめた。

その眼差しに、モモイは「あはは、見透かされちゃったか……」と力なく呟き、フッと自嘲気味な、けれど酷く優しい、悔しそうな笑顔を浮かべた。

 

「……うん。相変わらず、バカだよね、私。

答えのない問題が書かれた解答用紙をずっと眺めて、その答えを無理やり決めようとして……ずっと、ずっと一人で悩んでさ。

こんなウジウジしたところ見られたら、また師匠に怒られちゃうなぁ」

 

モモイの脳裏に、あの過酷な荒野で彼女に戦い方を、そして生き抜くための全てを叩き込んでくれた、厳しくも温かい、親代わりの女師匠の顔が鮮明に浮かび上がった。記憶の中の紫煙を揺らす師匠は、今にも「こらモモイ! またそんな無駄なことをグルグル考えやがって!!」と、口うるさくガミガミと怒鳴り散らしてきそうだった。

 

”あの方、作戦で一緒になったときに思ったけれど、結構というかかなり強面だもんね。”

「あはは、そうだよ! あれで先生と同い年っていうんだから、本当にびっくりだよね」

”それは私も心底びっくりしたよ……環境って本当に怖いね”

「ねえ先生、お嫁さんにどう?

師匠なら、先生とお似合いだと思うんだけどな~?」

”大人をからかうんじゃありませんっ。でも、本当に強くていいヒトだなぁとは思ったよ?”

「えぇ~意外。先生って、絶対ユウカみたいな堅い人が好きだと思ったのに」

”ユウカは私の大切な生徒だからね。間違っても、そんな風に運命の人になっちゃいけないし、しちゃダメなんだよ”

「……それ、ユウカに聞かれたら本気で泣かれるんじゃない?」

”オフィシャルでお願いね! 大切な生徒を泣かせる訳にはいかないからね!!”

「じゃあ、そんな先生から、私に何か渡すものがあるんじゃないかな~?」

”はは~、モモイ様、お目が高い。ただいまモモイ様のために、とっておきのお高めのお茶菓子をお出しいたしまする~!”

「ふっふっふ~、苦しゅうないぞ~?」

 

かつてのような他愛のない雑談と、悪ふざけの応酬。先生は本当に、トリニティ印の最高級のシフォンケーキが隠された特別な棚を開け、綺麗な包装紙を丁寧に開きながら、それをモモイに差し出した。

モモイはそのふわふわとしたシフォンケーキを一つ手に取り、個包装を破って口に運んだ。しっとりとした優しい触感と気品のある甘みが絶妙にマッチし、彼女は再び、愛おしそうにココアで口を潤した。

 

「……そっか。先生にも、わからないものがあるんだね」

”当然さ。人間は決して万能でも万全でもない……つまり、誰もが完璧じゃないんだよ”

”だから誰もが悩んで、苦しんで、悲しんで……時に心が木っ端微塵に砕けてしまいそうになる”

”それでも、泥をすすりながらでも前を向いて、明日を迎えるために懸命に生きる”

”私は、それこそが何よりも人間らしい生き方だと思うよ。……私もまた、そういう不完全な人間の一人ってだけさ”

「デカグラマトンと戦った時も、同じようなこと言ってたような?」

”そうだね。似たようなことを言ったかも。”

 

氷海の先、あの冷徹な鋼鉄大陸での預言者たちと、神になろうとしたAIとの戦いを二人は同時に思い出し、執務室はみたび、穏やかな沈黙に包まれた。

 

「……ねぇ、先生。」

”うん? なにかな”

「あの装置……これから、どうなるのかな?」

 

モモイの口から溢れた「あの装置」という言葉。

それは、モモイを何としてでもこのキヴォトスへと連れ戻すために、ゲーム開発部をはじめ、ミレニアムの全生徒が一丸となり、予算も規約も全てを無視して作り上げた奇跡の結晶――キヴォトスとあの異世界を繋ぐ唯一の特異点、『次元相互転移装置』のことだった。

現在、その装置は連邦生徒会の厳重な管理下に置かれ、その処遇を巡る沙汰を待つ状態にあった。

 

モモイが帰還した後、安全に慎重に機能を停止し、厳重にロックをかけた後、セミナーは連邦生徒会の法で定められた開発報告義務に従い、装置の存在を連邦生徒会に開示した。しかし、その超次元的な技術が孕むリスク、そして繋がっている先の凄惨な現状が大きな問題となったのだ。

 

かつて、キヴォトスに訪れた、最初の世界の危機。

色彩が到来し、空が血の赤に染まり、悍ましい色をしたオートマタやユスティナのシスターを模倣する幽霊や、多くの怪獣が街の悉くを破壊し尽くした、あの地獄のような大災害。

連邦生徒会の幹部たちはともかく、現場の役員や一般の行政官たちの殆どは、かつてキヴォトスを滅亡の危機に陥れたそれを、あるいはそれに匹敵する未知の天災を本能的に恐れていた。

 

あの時は、ウトナピシュティムの本船という奇跡が、先生が紡いできた絆の奇跡が、あまたある青春の物語(ブルーアーカイブ)の、たった一行の奇跡があったからこそ、辛うじて退けることができたあの絶望が、もしも再びこの平穏な街に来襲したら。もし、あの装置が、それ以上の恐ろしい災厄をこちら側に引き寄せる「触媒」になってしまったら。

その形のない恐怖と、「安全である」という悪魔の証明ができないジレンマが、装置の今後に対する決定をズルズルと遅らせ、混迷を極めさせていた。

 

”装置に関しての議論は、今も上層部でかなり紛糾しているよ”

”あの世界のオートメイルやフェイタルビースツが、装置のゲートを逆行してこちら側に攻め込んでこないのか、とか”

”そもそも、現地で必死に生きている抵抗組織『ノアズレイヴン』やナヴァギオのヒトたちが、こちらの豊かな資源を狙って裏切って襲ってこないのか、とか”

”あるいは、あの装置が再び暴走を起こして、今度はモモイ以外の誰かを次元の彼方に漂流させてしまわないか、とかね……”

「そう……だよね。分かってる、分かってるんだ……」

 

先生の口から語られる冷酷な現実を突きつけられ、モモイは自分の過ごした「3年間」を嫌でも思い出していた。

あの剥き出しの荒野で味わった、いつオートメイルやフェイタルビースツに襲われるかわからない恐怖、徐々に余裕と思考を奪ってゆく絶え間ない飢え、吐き気を催す血と油の混ざり切った絶望、そして、無事に明日を迎えられるかわからない……虚無。

何度、心が完全に折れかけたかわからない。もし、自分にとってかけがえのないミドリやアリス、ユズやケイが、あの世界に飛ばされてしまったら。あるいは、もっと酷い世界に一人きりで放り込まれてしまったら。

想像しただけで全身の血が凍りつくような恐怖が這い上がってくる。

 

それを考えれば、キヴォトスの安全のために装置を『完全封印』、あるいは『物理的破壊』し、技術そのものをこの世から永久に抹消するという判断は、あまりにも妥当で、ぐうの音も出ないほど正しい。

けれど、もしそうなってしまえば、当然――もう二度と、あの世界と関わることはできなくなる。

何が正しくて、このキヴォトスにとって、みんなにとって一番安全なのだということは、他ならぬモモイ自身が誰よりも深く理解していた。

 

「でも……でもなんだよ、先生……っ!!」

”……モモイ?”

 

ギチ、と鈍い音を立てるほど、モモイは両手の中のマグカップを強く握りしめ、そのまま深く顔を伏せた。その細い肩が、微かに、けれど激しく震え始めている。

 

「私……また、アーサーに会いたい……っ! また、師匠に……アンリーゼさんに会いたいんだよぉっ……!!

……ノアズレイヴンのみんなに、ナヴァギオのみんなに、もう一度だけでいいから、会いたいよぉぉ……っ!!」

 

ポタリ、ポタリと、我慢していた大粒の涙がモモイの目から堰を切ったように溢れ出し、冷めかけたココアの水面に小さな波紋を作った。先生は、彼女のその痛々しい表情を見つめながら、ただ胸を締め付けられる思いで、何も言えずに歪な笑みを浮かべることしかできなかった。

 

「わがままなのは、自分が一番よくわかってる……っ! オートメイルもフェイタルビースツも、キヴォトスに来たら大変なことになるって、分かってるよ……っ! ノアズレイヴンのみんなの戦い方や生き方が、こっちの平和な人たちから見たら、すごく怖くて受け入れられないものだってことも、ちゃんと頭では分かってるのに……なのにさぁっ!!」

 

溢れる涙を手の甲で乱暴に拭い去り、顔を上げたモモイの顔は、あの世界に行く前の、小さな子供の時の泣き顔そのものだった。必死に大人ぶって、戦士として振る舞おうとしていた彼女が、その仮面を維持できずに、グッと奥歯を噛み締めて嗚咽を堪えていた。

先生は静かに席を立ち、彼女の隣へと歩み寄った。そっとモモイの手からマグカップを取り上げてデスクに置き、そのまま、震える彼女の身体を優しく、包み込むように抱き寄せた。その姿は、あまりにも過酷な運命に弄ばれ、傷だらけになって帰ってきた最愛の娘を、ただ無条件で受け入れる父親のようだった。

 

「せん……せい……っ?」

”モモイ”

”今だけは、無理に大人でいなくていいんだよ”

”……今だけは、あの時の、私の大好きなゲーム開発部のモモイのままでいいんだ”

「私は……っ、私はもう、みんなを引っ張る大人でいなきゃいけなくてっ……!」

”それでも、君は私の大切な生徒だ。それは、何があっても、何年経っても変わらないよ”

「っ……! ズルいよ、先生……っ!! そんなこと言われたら、もう、我慢……できないじゃんっ……!!」

 

モモイの心の防波堤が、その瞬間に完全に決壊した。

彼女は、まるで迷子になった子供のように、強く、引き剥がされないように先生の胸へと縋り付き、その顔を深く埋めた。そして、張り詰めていた感情の全てを爆発させるように、わんわんと、大きな声を上げて泣きじゃくり始めた。

 

「わたしっ……! アーサーくんに、ちゃんと好きって言いたいよぉっ!! アンリーゼさんに、3年間育ててくれてありがとうって、綺麗な花束をあげたいっ!! ノアズレイヴンのみんなに、ナヴァギオのみんなに……あんなに助けてもらったのに、私、まだ何も恩返しできてないんだよぉぉ……っ!!

このまま……このままお別れだなんて、ぜったいやだぁぁっ!!」

 

胸を引き裂くような大号泣。子供のように涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫ぶモモイを、先生は何も言わず、ただその小さな背中を大きな手で何度も、何度も優しく擦り続けた。

モモイは知っているのだ。それがどれほど政治的に難しく、キヴォトスの倫理では受け入れられないわがままであるかを。だからこそ、先生から優しい答えも、無理な指導も、慰めのヒントも必要なかった。

ただ、この張り裂けそうな想いを誰かに受け止めてもらい、泣き疲れて眠ってしまうのを待つことだけが、今の先生にできる唯一の「正解」だった。

 

どれほどの時間が経っただろうか。執務室に響く泣き声が徐々に小さくなり、やがて規則正しい、静かな寝息へと変わっていった。モモイは先生の胸の中に顔を埋めたまま、完全に精神的な緊張が解けたように、スヤスヤと眠りの中に落ちていた。

先生は「やっぱり、まだまだモモイも可愛い子供だね」と、目元を腫らした彼女の寝顔を見つめながら優しく微笑んだ。そして、自身が着ていたシャーレの高級なコートを脱ぎ、即席のブランケット代わりに彼女の身体にそっと掛ける。

彼女を起こさないように、極めて慎重にポケットからスマートフォンを取り出すと、液晶の冷たい光の中で一つの連絡先を選び、静かに発信ボタンを押した。

 

「……もしもし、リンちゃん? 夜遅くに探してごめんね。――うん、例の『次元相互転移装置』の件なんだけど……」

 

息を潜めた先生の交渉が、静まり返った夜の執務室で静かに始まった。

 

~~~~~

 

「……うぅ、ん……」

 

遮光カーテンの隙間から、眩しい朝の太陽の光が差し込むシャーレの執務室。

モモイは重い瞼をゆっくりと開き、小さく身じろぎした。パサリと、身体に掛けられていた大人の香りのするコートが床に落ちる。

寝起きのぼんやりとした視界で部屋を見回すと、そこには、あまりにも見慣れた、けれどここにいるはずのない愛おしい後ろ姿があった。

ちいさな女の子の身体で、んしょ、んしょと不器用な声を漏らしながら、山のような書類の束を健気に運んでいる姿。

 

「あれ……ミドリ……?」

「あ、起きた? お姉ちゃん。

もう、夜中に黙って寮を抜け出してシャーレに行くなんて……。

朝起きて、隣にお姉ちゃんがいなくて、本当にびっくりしたんだからね!?」

「あはは……ごめん、ミドリ」

「もー、分かればよろしい!……ほら、そろそろアリスちゃんたちがお昼の軽食を持ってきてくれると思うから、みんなで一緒に食べよ?」

「えっ、アリスとケイもここに来てるの?」

「ユズちゃんも来てるよ。みんな、朝からお姉ちゃんがいなくなって『心配だ、心配だー!』って大騒ぎして、ここまで押しかけてきたんだからね?」

 

ミドリが呆れたように、けれど嬉しそうにそう言った瞬間、ガチャリと音を立てて執務室の重いドアが勢いよく開け放たれた。

 

「あっ!モモイが目を覚ましました!!おはようございます、モモイ!」

「まったく、とんだお寝坊さんですね。キヴォトスの時間でも、もうお昼の時間を過ぎていますよ?」

「こ、これっ……下のコンビニで、みんなで食べようと思って買ってきたから……っ!」

 

アリスとケイは、両手で大事そうに抱えたトレーの上の手作りサンドイッチを。ユズは『エンジェル24』のレジ袋にパンパンに詰まった、モモイの大好物である懐かしい駄菓子を両手に持って、一斉にソファーの周りへと駆け寄ってきた。

自分を無条件で愛し、心配し、こうして集まってくれるゲーム開発部の仲間たちの、どこまでも純粋で温かい優しさ。

その温もりが、昨夜の凍りついたモモイの心にじわじわと染み渡り、彼女の目頭から自然とホロホロと、温かい涙が溢れ落ちた。

 

「……ありがとう、みんな……っ」

 

モモイはミドリたちに囲まれながら、少し遅い朝食を賑やかに食べ始めた。

アリスとケイが一生懸命作ったサンドイッチは、どこか不格好だけど涙が出るほど優しい味がした。ユズが買ってきてくれた駄菓子は、あの過酷な荒野で何度も夢に見た味よりも、何倍も美味しかった。みんなで笑い合い、他愛のない文句を言い合うこの穏やかな時間が、モモイの魂に刻まれた戦場の傷を、少しずつ、確かに癒していった。

 

そんな賑やかな時間の中、アリスが「あっ!」と突然思い出したように声を上げると、いそいそと執務室の壁に設置された大型テレビの電源を入れた。

モモイが不思議そうに首を傾げていると、ミドリたちは「あ、そろそろ時間だっけね」と、それまでのお祭り騒ぎを一変させ、酷く真剣な面持ちで画面を凝視し始めた。

 

……画面に映し出されたのは、連邦生徒会が主催する公式の緊急記者会見の模様だった。

無数のフラッシュが激しく焚かれる会見場の壇上には、テレビで何度も見たことのある七神リン行政官、そしてその隣には、セミナーの会長である調月リオ、そして――ネクタイを少し緩め、酷く真徹な表情をしたシャーレの先生が並んで座っていた。

 

『――本日、連邦生徒会は、ミレニアムサイエンススクールが独自に発明・開発した「次元相互転移装置」の今後の処遇について、公式の見解を発表いたします』

 

ドキリ、と。モモイの心臓が、鼓膜を破らんばかりの勢いで跳ね上がった。

一瞬にして呼吸が浅くなり、指先からスーッと血の気が引いていくのが自分でも分かった。画面の中では、リン行政官から説明を引き継いだリオ会長が、いつもの冷静沈着な、淡々とした口調で装置の理論や、それが孕む次元崩壊のリスクについて解説と質問の受け答えを進めていく。

会見が進む。けれど、マイクの前に立つ先生もリオ会長も、その表情は硬く、ただ真剣その目で、そのポーカーフェイスの裏で彼らが何を勝ち取ったのかは、画面越しのモモイには全く読み取れなかった。

あの装置は、やっぱり封印されるのだろうか。それとも、目の前で木っ端微塵に破壊されるのだろうか。あるいは……技術そのものを歴史から抹消する、完全な破棄なのだろうか。

最悪の結末を想像すればするほど、モモイの顔はみるみる土気色に陰り、緊張と恐怖で精神がどうにかなってしまいそうだった。

その時だった。震えるモモイの手の上に、そっと、温かいミドリの手が重ねられた。続いてアリスが、ユズが、ケイが、それぞれの小さな手を、モモイの手の上に次々と重ね合わせていく。

モモイが弾かれたように顔を上げると、みんなが「大丈夫だよ」と言わんばかりに、言葉はなくとも、世界で一番優しい微笑みを彼女に送っていた。

 

『……ミレニアムサイエンススクールの調月リオ氏のご説明の通り、この次元転移技術は現時点においても極めて不安定であり、最悪の場合、キヴォトス全域を巻き込む不条理な災厄を招きかねない、危険な技術であることは否定できません。

連邦生徒会として、そしてキヴォトスに住む一般市民の安全を代表する立場として……このような未知の技術は、連邦生徒会の名の下において、物理的な徹底解体、そして――全ての当該データの永久破棄こそが、最も妥当な判断であると思案いたしました』

 

リン行政官の冷徹な声がスピーカーから響いた瞬間、モモイの呼吸が完全に止まった。

頭の芯が真っ白になる。

ダメだったんだ。

やっぱり、私のわがままなんて通るはずがなかったんだ。

もう、二度と、あの世界のみんなには会えない。アーサーにも、師匠にも、誰も――。

クラリと、世界が反転して気を失いそうになるモモイの、その小さな手を、ミドリたちが痛いほどの強さでギュッと握りしめて繋ぎ止めた。

 

『――しかしながら。今回、連邦生徒会は、当該技術を短期的な恐怖心だけで封印・破棄することをせず……最終的な処遇決定を、条件付き無期限の”保留”とすることを決定いたしました』

 

「……ぁ、えっ……っ?」

 

モモイの口から、小さく掠れた安堵の悲鳴が漏れた。

画面を見れば、それまで硬い表情を崩さなかった先生とリオ会長が、本当に、本当にやっとの思いで勝ち取ったのだと言わんばかりに、微かに、誇らしげに口角を上げていた。

その「保留」というたった二文字をリン行政官の口から発表させるために、彼らがどれほどの政治的リスクを背負い、どれほどの怒号が飛び交う審議室で戦い続けてくれたのか。よく見れば、先生もリオ会長も、目元には痛々しいほどの真っ黒なクマが刻まれていた。

 

『この次元転移技術を、徹底的な安全管理の下で調査・研究すべき、未来ある技術として再定義します。

今後は連邦生徒会技術発展室、ミレニアムサイエンススクール、そしてシャーレの三者主導の下、安全性の向上、暴走抑止のための実証実験を重ね……その果てに得られる”確かな研究結果”を以て、最終的な決定を下すこととします。ただし、一度でも暴走事故の発生、あるいはキヴォトス全土にわたる緊急事態宣言級の不条理な事故が確認された場合、ミレニアムサイエンススクールの即時解体、同学園セミナー会長・調月リオの即時逮捕および無期限にわたる学籍剥奪と独房への服役、そして問題の対処完了を以て、シャーレの先生の全役職解任とこれに準じる厳罰を執行することを、連邦生徒会上層部の総意としてここに発表いたします。

また、それに伴い、当該プロジェクトの進行、および――現在ゲートの向こう側で過酷な環境に晒されている現地勢力に対する、人道的、および限定的な軍事支援を特例として行うことを、連邦生徒会の最高名義において承認いたします。』

 

「……お姉ちゃん」

 

ミドリが、涙をいっぱいに溜めた目で姉を見つめた。

 

「……ミドリ、私……また、あの世界に、行っても……いいの?」

「うんっ……! 実はね、昨日の夜中に先生から私に連絡があって、事前にこの結果になるように動いてるって、教えてもらってたんだ。でも、お姉ちゃんが朝になっても全然起きないから、結果的にこんなサプライズになっちゃったんだけど……」

「はい! ミドリの言う通りです! 本当はもっと早く伝えて、モモイを安心させてあげる予定だったのですよ!?」

「よほど、昨日の夜に先生の胸で泣き疲れたんでしょうね〜?……ねえ、モ・モ・イ〜?」

「み、みんなっ、そんな風にモモイを意地悪してからかっちゃダメだよぉ……っ!」

「う、うあぁぁぁん……! ユズの言う通りだよぉ〜〜!!」

「も〜! お姉ちゃん、せっかく良い雰囲気だったのにまた泣いてる!」

「モモイが泣いています! 慰めのハグ攻撃を開始します!!」

「きゃっ! ちょっとアリス、私まで巻き込まないで……あはは、もー、仕方ないですねぇ!」

「よ、本当によかったね……! モモイ……っ!!」

 

光の差し込むシャーレの執務室で、少女たちは互いの身体を強く抱きしめ合い、今度は嬉し涙をボロボロと流しながら、声を合わせて笑い合うのだった。

 

 

数日後。

ミレニアムの最深部、さらに巨大に、より強固に生まれ変わった次元転移ゲートの指令室。

 

「エネルギーライン、全ラインオールグリーン!」

「ワームホール安定度、規定値を維持して完全に安定!」

「次元バイパス確認中……ゲート出現地点に障害物、一切なし!!」

「――カウントダウン終了。次元転移孔、開きます!!」

 

轟音と共に、目の前で眩いばかりの光のゲートが、新たな世界への扉を開く。

その光の渦の前に立ち、無骨なタクティカルコートの襟を正したモモイは、振り返って最高の笑顔を仲間たちに向けた。

 

「みんな、ごめん! 待ってる人がいるから、私、先に行くね!!」

 

「気を付けてね、お姉ちゃん!」

「アリスも後で必ず追いかけます!」

「張り切りすぎて、転ばないように!」

「き、気を付けてね……っ!!」

 

ミドリたちの愛に満ちた声援を背中で受け止めながら、モモイは一歩、力強く足を踏み出し、光の中へとその身体を躍らせた。

次元の壁を飛び越え、懐かしい、けれど今度は希望に満ちたあの荒野の風が彼女の頬を叩く。

 

光を抜けたその視界の先、異常なエネルギーを探知し、何があってもいいように武器を構えて駆け付けたであろう、驚愕の表情でこちらを見つめる、何よりも愛おしい戦友たちの中に、誰よりも会いたかった人の姿を見つけて――モモイは胸の奥から溢れ出る涙を太陽のような笑顔に変えて、大声を張り上げた。

 

「……アーサーっ!! ひさしぶりっ……!!」

 





よかったね、モモイ。
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