元ITエンジニアの俺、祖先の召喚術から召喚プログラムを組み上げて神も悪魔も従える   作:パラレル・ゲーマー

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第11話 旧商店街地下通路の小異界

 表通りの喧騒は、深夜に及んでも衰えることを知らなかった。

 

 二十四時間営業のコンビニエンスストアが放つ人工的な白い光、牛丼チェーン店から漂う油の匂い、終電を逃した酔客を待つタクシーの長い列、そして色鮮やかなカラオケ店のネオン。

 

 そこには、どこにでもある現代日本の退屈で騒がしい夜の日常が転がっていた。

 

 しかし、駅前の大通りから一本裏の路地へ入った瞬間、世界の彩度は急激に失われる。

 

 街灯の光は届かず、築年数のわからない雑居ビルが巨大な墓標のように影を落としていた。

 

 湿った夜風がアスファルトの隙間に溜まったゴミをカサカサと鳴らす。

 

「遅い。三分遅刻」

 

 ビルの隙間の暗がりに、その人影は立っていた。

 

 炎堂朱音は、夜の闇に溶け込むような黒い耐火ジャケットの襟を立て、鋭い目を悠真に向けていた。

 

「すみません。少し、スマートフォンのケースの固定状態を再チェック(デバッグ)していたもので」

 

 悠真は、ポケットに収めた新開発のモバイル端末――革製の護符ケースに包まれたスマートフォン――の感触を確かめながら頭を下げた。

 

 彼の背負うリュックサックには、予備のバッテリーや懐中電灯、救急セット、そして万が一のための祖父の護符が整然と詰め込まれている。

 

 朱音の装備は、前回会った時よりも明らかに実戦を意識したものだった。

 

 ジャケットの腰回りには、幾枚もの呪符を収めた頑丈なレザーポーチ、小型の消火スプレー、そして彼女の術式の触媒である火打石型の魔導具がシステマチックに配置されている。

 

「『できる限り』の準備はしてきたつもりです」

 

「あんたの『できる限り』なんて、あたしはこれっぽっちも信用してないわよ。現場じゃ、小さな見落とし(バグ)一つが命取りになるんだからね。はい、装備の最終チェック」

 

 朱音は手袋を嵌めた手を叩き、まるで厳しい現場監督のような口調で命じた。

 

「護符」

 

「あります。リュックのすぐ取り出せる位置に」

 

「ヤタガラスの登録証」

 

「ポケットに」

 

「スマホ版の起動状態は?」

 

「バックグラウンドで正常稼働中(オールグリーン)です」

 

「緊急停止(エマージェンシー)のトリガー」

 

「右側面を強く握りしめるか、画面の長押しです」

 

「……走れる靴」

 

 朱音の視線が、悠真の足元へと落ちた。

 

 悠真は一瞬言葉を詰まらせた。

 

「……一応、クッション性の高いスニーカーを」

 

「『一応』じゃ困るんだけど。まぁ、今日は初心者用の浅い異界だから見逃してあげるけど、次からはもっとソールの厚い、ちゃんと地面を蹴れる靴を選びなさい。逃げ足こそが、あたしたち召喚師の最大の生存能力なんだから」

 

 朱音は深い溜息をつき、パーカーのフードを被り直した。

 

 悠真の足元から、微かな影がゆらりと伸びる。

 

「ケケケッ、まるで遠足前の厳しい学校の先生だな。悪魔の俺からすりゃ、人間のこういう神経質な儀式は見ていて退屈極まりないぜ」

 

 ジャグラズが影の底から赤い目を覗かせ、皮肉げに笑う。

 

「悪魔。あんたもよ」

 

 朱音は影を鋭く睨みつけた。

 

「異界の中に入ったら、あたしの指示なしに勝手に動かないこと。炎属性の術者と契約悪魔は、ただでさえ相性が悪いの。あんたが余計なノイズを撒き散らしたら、あたしのサラが反射的にあんたを焼き尽くすかもしれないからね」

 

「へーへー、怖いねぇ、火臭いお姉さんは。返事は一回、だろ?」

 

 ジャグラズは爪を弄りながら、面白くなさそうに影の奥へと引っ込んだ。

 

 *

 

 朱音が歩み止めたのは、雑居ビルの裏手にひっそりと佇む、完全に錆びついた鉄製のシャッターの前だった。

 

 そこには、色褪せて端が破れかけた古い貼り紙が残されていた。

 

『地下商店街 閉鎖のお知らせ。長らくのご愛顧、誠にありがとうございました』

 

 文字の掠れ具合からして、平成の初期、あるいは昭和の終わり頃にその役目を終えた空間であることが伺える。

 

 地上では新しいビルが次々と建ち、チェーン店が夜通し明かりを灯しているが、その真下には、取り残された時間がそのまま沈殿しているのだ。

 

「行くわよ」

 

 朱音は鍵を取り出す代わりに、腰の火打石型の触媒を手に取り、シャッターの鍵穴に向けてカチリと火花を散らした。

 

 火花が鉄の表面に触れた瞬間、青白い霊的な光が走り、シャッターの中央に三本足の烏の紋章が浮き上がった。

 

 ヤタガラスが管理している、境界の封印(ゲート)だ。

 

 悠真のポケットの中で、スマートフォンが短い振動を返した。

 

 画面を見ると、仕様通りに自動で『異界探索モード』のシンプルなUIに切り替わっていた。

 

【境界反応を検出:旧商店街地下通路・小異界】

 

【現在深度:浅層(危険度:低)】

 

【周囲の電波状態:不安定(オフラインローカルモードへ移行)】

 

【退路マーカー:確立。探索を開始してください】

 

「よし、モバイル版、自動でのモード切り替え(コンテキスト・スイッチ)を確認」

 

「画面を見るのは最小限にしなさい」

 

 朱音が、半分だけ開いたシャッターの隙間に身体を滑り込ませながら言った。

 

「スマホの画面は便利だけど、光に気を取られて目の前の『音』や『匂い』の警告に気づけなくなったら本末転倒よ。五感を使いなさい、五感を」

 

「……はい。肝に銘じます」

 

 悠真もまた、身を屈めてシャッターをくぐり抜けた。

 

 向こう側に広がっていたのは、下へと続くコンクリートの階段だった。

 

 天井に取り付けられた古い蛍光灯が、チカチカと不規則な音を立てて瞬いている。

 

 一段、また一段と降りるごとに、背後の地上の音が急速に遠ざかり、代わりに異界特有の、濃密で重い空気が肌にまとわりついてきた。

 

 匂いが、明らかに現世のものとは違っていた。

 

 湿ったコンクリート、錆びた鉄、古い油。

 

 それに混ざって、駄菓子、昔の化粧品、古い紙、カビの生えた雨傘。

 

 何千、何万人という人間がかつてそこに持ち込み、そして置き忘れていった生活の記憶が、濃縮されて空気に溶け込んでいるかのような匂いだ。

 

 階段を降りきると、そこには現実の土木技術ではあり得ないほど、どこまでもまっすぐに続く地下通路が広がっていた。

 

「……これが、異界」

 

 悠真は、思わず息を呑んだ。

 

 通路の両側には、シャッターを下ろした小さな店舗がずらりと並んでいる。

 

 靴屋、玩具屋、化粧品店、古本屋、金物屋、駄菓子屋。

 

 どの店の看板も、どこか懐かしい、平成初期を思わせるレトロなフォントで書かれていた。

 

 誰もいないはずなのに、通路の奥からは、どこか遠くの街頭スピーカーから流れているような、歌詞の聞き取れない古い店内BGMが、微かな音量でリフレープを繰り返している。

 

 時折、通路の先を、顔の判然としない「影」のような存在が、買い物を楽しむかのように静かに横切っていくのが見えた。

 

「浅い方よ、ここは」

 

 朱音が、耐火ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、淡々と歩き始めた。

 

「本当に深い異界はね、入った瞬間に背後の階段(退路)ごと空間が書き換わって消えるの。ここはまだ、人間の記憶の形がそのまま残ってるから、お行儀良く歩いていれば迷うことはないわ」

 

「ケケケッ、いい空気じゃねえか。古い欲望と、捨てられた未練の匂いがプンプンするぜ」

 

 影の中から、ジャグラズが嬉しそうに鼻を鳴らす。

 

「悪魔にとっては居心地が良いかもしれないけど、俺にとっては少し息苦しいな。……朱音さん、何か注意すべき探索のルールはありますか?」

 

 悠真が尋ねると、朱音は前を向いたまま、いくつかの禁止事項(ポリシー)を指折り数えた。

 

「まず、勝手にシャッターを開けて店の中に入らないこと。次に、売り物に見えるものを持ち出さないこと。三つ目、暗がりから声をかけられても、すぐに返事をしないこと。四つ目、値札がついているものには絶対に触らないこと。……最後に、異界の中で『無料(タダ)』と書かれているものほど、危ないものはないわ」

 

「無料が、危ない?」

 

「ええ。異界における『無料』はね、代金を後から別の形(名前や記憶、あるいは寿命)で強引に引き落とすための、たちの悪い罠(フィッシング)であることが大半だからよ。覚えておきなさい」

 

「……なるほど。完全なフリー(無償)のライセンスには、必ず裏の利用規約がある、ということですね。即座にデータベースに登録しておきます」

 

 悠真は、スマートフォンのメモ機能を片手で素早く操作し、その知見を記録した。

 

 *

 

「……よし。ここで最初の『偵察モジュール』を投入してみます」

 

 悠真は画面をスワイプし、手元に実体化させた。

 

「何体出す気?」

 

 朱音の鋭い視線が飛ぶ。

 

「十体ほど、周辺の索敵グリッドとして展開しようかと」

 

「却下。最大でも三体。初回探索でいきなりリソースを大量消費するんじゃないわよ」

 

「……分かりました。三体に制限(デプロイ)します」

 

 悠真がコマンドを入力すると、彼の足元の影から、DS-014、DS-027、DS-058と識別子(ID)を振られた、三体の小さな塵霊たちがぴょこぴょこと飛び出してきた。

 

 最弱の妖魔である彼らは、地下通路に積もった長年の埃と忘却の気配を感知するなり、興奮したようにふるふると身体を震わせた。

 

『ちり、いっぱい!』

 

『ふるい匂い! ここ、すごーく良い場所!』

 

『でも、ちょっとだけ怖い……火の匂いがする……』

 

 塵霊たちは、朱音の周囲を漂う微かな熱気に怯えながらも、悠真の命令に従って、シャッターの隙間や通路の側溝へと影のように滑り込んでいった。

 

 スマートフォンの画面に、彼らが歩いた軌跡が、リアルタイムでマッピングされていく。

 

 しかし、その間取り図の線は、時折生き物のように歪み、伸び縮みを繰り返していた。

 

【警告:地形情報の不安定性を検出】

 

【注意:同一の区画(靴屋の前)のループバックを検知しました】

 

【対策:退路の座標マーカーを維持し、視覚的なランドマークを確認してください】

 

「地図の線が揺れてる……。同じ場所をループしてるみたいだ」

 

「だから画面の地図ばかり見るなって言ったでしょ」

 

 朱音は、通り過ぎたばかりの玩具屋の看板を目視で確認しながら言った。

 

「異界ってのは、人間の記憶のパッチワークでできてるの。店主が最後に見た光景、迷子の子供が泣いていた角、閉店の日に下ろされたシャッター。そういう強い感情のログが重なった場所は、空間の距離がバグって、同じ通路が何度もループしたりするのよ。スマホのGPSなんてここではただの飾り。自分の目と、塵霊たちが残した『埃の跡』を信じなさい」

 

「……了解です。画面のデータはあくまで参考値、現場の物理的な痕跡(ログ)を最優先(プライオリティ・ワン)にします」

 

 悠真が視線を上げ、通路の奥の闇を凝視した、その時だった。

 

「ヤスイヨ……」

 

「モッテケ……」

 

「今ナラ、全部、タダダヨ……」

 

 ガタガタと不器用な音を立てて、一台の古い自動販売機の陰から、小さな影が這い出てきた。

 

 大きさは人間の子供ほど。

 

 しかし、その身体は色褪せた古いレシートや領収書の束が幾重にも重なって形成されており、頭からは「¥」の形をした、歪な二本の角が突き出ていた。

 

 手には、真っ赤なインクで『¥0』と書かれた、古びた値札を握りしめている。

 

 低位取引妖魔、『値札小鬼』だ。

 

「オキャクサン……ヒトツ、モッテケ……タダ……タダダヨ……」

 

 小鬼は、ガサガサと紙の擦れる音を立てながら、悠真の足元へと値札を差し出してきた。

 

 悠真のスマートフォンが、短い警告のバイブレーションを返す。

 

【低位妖魔:値札小鬼 を検出】

 

【危険度:低 / 行動原理:取引の強制誘導】

 

【注意:提示された無料条件は、バックドアによる代価引き落としの罠と推定】

 

【交渉可能性:極めて高い。適切な対価の提示によるクローズを推奨】

 

 影の中から、ジャグラズが鋭い声で警告を発した。

 

「悠真、そいつは典型的な『取引系』の雑魚だ。タダって言っておいて、受け取った瞬間にあんたの『名前の記憶』とか『今日の残り時間』を勝手にリソースとして決済しちまうタイプだぜ。力は弱いが、引っかかると契約の解除(ロールバック)がクソ面倒だ」

 

 朱音は一歩前に出ると、腰のレザーポーチに手をかけ、悠真を横目で見た。

 

「どうする? 召喚師。あたしが火蜥蜴(サラ)で一発で焼き払って(デリートして)あげてもいいけど?」

 

「……いえ、待ってください」

 

 悠真は、スマートフォンの画面の『交渉可能』のステータスを確認し、ゆっくりと小鬼の前にしゃがみ込んだ。

 

「戦わずに済むなら、その方がいい。……仕様書にない無料の契約(タダ)は受け取らない。こちらから正当な対価(ライセンス料)を支払う。条件を提示してくれ」

 

 値札小鬼は、紙の身体をガサガサと揺らし、意外そうな顔(のようなレシートの歪み)を作った。

 

「メズラシイ……。タダ、イヤ……?」

 

「ああ。無料のものは後から高くつく。……これでどうだ?」

 

 悠真はポケットから、あらかじめ用意していた五円玉を一枚、指先で弾いて小鬼の前に置いた。

 

 朱音が、それを見て微かに目を見開いた。

 

 五円。ご縁。

 

 現世における最も軽い、しかし明確な「取引の成立」を意味する金属貨幣だ。

 

 悪魔や精霊との交渉において、法外な代価を回避するための、最も古典的で洗練された最小対価。

 

 値札小鬼は、貪るように五円玉を紙の手で拾い上げると、満足そうにキィと鳴いた。

 

「トリヒキ……セイリツ……。ジャア、これ、あげる……」

 

 小鬼が手放したのは、古い和紙でできた、黄色く変色した一枚の紙切れだった。

 

 悠真がそれを受け取ると、画面にリソースの取得ログが表示される。

 

【アイテム取得:黄ばんだ福引券】

 

【霊的価値:低(属性:幸運の残滓)】

 

【用途:異界内部での小規模な取引、または縁起系の低位精霊への供物として利用可能】

 

【危険反応:なし。トランザクションは正常に終了しました】

 

「……初めての異界ドロップアイテムが、昭和の福引券か」

 

 悠真が苦笑すると、朱音は感心したように肩をすくめた。

 

「上出来じゃない。タダより高いものはない、でも、五円でリスクを完全に相殺(相殺)した。召喚師の基本中の基本(ベストプラクティス)よ。あんた、本当に教える前からこういう『契約の立ち回り』だけは一丁前ね」

 

「前職でも、無料トライアルの裏にある自動更新規約には何度も泣かされてきましたから。……あ、この小鬼、交渉次第じゃ御門家のシステム(契約対象)に組み込めるんじゃないでしょうか?」

 

「ダメ。即答で却下」

 

 悠真が画面の契約ボタンに指を伸ばそうとすると、朱音がその手の甲をピシャリと叩いた。

 

「便利そうなものを見ると、すぐに何でもかんでもインフラに組み込もうとするんじゃないわよ。今日の目的は『異界の空気に慣れること』と『スマホ版のテスト』。契約枠の追加は原則として禁止。現場で欲張る奴から、順番に異界の肥やしになっていくんだからね」

 

「……はい。スコープの肥大化(要件の詰め込みすぎ)はプロジェクトを崩壊させる。分かりました、契約衝動を抑制(ホールド)します」

 

「……あんたのその、いちいち技術用語に翻訳しないと納得しない性質、どうにかならないわけ?」

 

 朱音は呆れ果てたように吐き捨て、再び通路の奥へと歩き出した。

 

 *

 

 索敵を続けていた塵霊の一体(DS-027)が、古い古本屋のシャッターの前で激しく震えながらログを送ってきた。

 

『かみ……古い紙の匂い……』

 

『でも、何かが食べてる……本の記憶が消えていっちゃう……』

 

 見れば、半開きになった古本屋のシャッターの隙間から、体長三十センチほどの、銀色に妖しく輝く巨大な虫のような怪異が、ゾロゾロと這い出てくるところだった。

 

 平べったい身体に、長い触角。

 

 現世の「シミ」をそのまま巨大化させたような醜悪な姿をした低位妖魔――『記憶紙魚(しぎょ)』だ。

 

 画面には、その危険度と特性が即座にパースされる。

 

【低位妖魔:記憶紙魚 を検出】

 

【危険度:低 / 行動原理:紙媒体に蓄積された記憶・想念の摂食】

 

【人間への直接被害:極めて低い(ただし、保有している紙媒体の記録データに被害を及ぼす危険性あり)】

 

「……記録媒体への被害!? まずい、祖父のノートや古文書に手を出されたら、俺のシステムのソースコード(根底)が失われる!」

 

 悠真は、本能的な恐怖で一歩身構えた。

 

「大丈夫よ。あんた、今日あの古文書を持ってきてないでしょ?」

 

 朱音は冷静にそう言うと、手袋を嵌めた右手の指先を軽く鳴らした。

 

「サラ、ちょっと驚かしてあげて。でも、焼いちゃダメよ。本に引火したら、この異界の記憶そのものが書き換わっちゃうからね」

 

 キィと短い鳴き声を上げて顕現した火蜥蜴(サラ)が、朱音の肩の上で小さな火花をパチパチと爆ぜさせた。

 

 炎の熱気と光が通路を照らした瞬間、記憶紙魚は熱線に怯えたように激しく触角を震わせ、這うような速度で古本屋の暗がりへと逃げ戻っていった。

 

 その際、虫の身体から、銀色に光る薄い鱗のような破片が、床へパラパラと落ちた。

 

「……あ、ログが出た」

 

 悠真がスマートフォンを近づけると、素材の解析データが画面に表示される。

 

【アイテム取得:記憶紙魚の銀鱗】

 

【用途:霊的な記録の保存、紙媒体の防腐・防護。あるいは契約書の『改竄防止(セキュリティ補強)』の触媒として利用可能】

 

【換金価値:低〜中】

 

「契約書の、改竄防止(セキュリティ補強)……!」

 

 悠真の目が、今日一番の輝きを帯びた。

 

「何よ、その嬉しそうな顔。ただの虫の鱗よ?」

 

「ただの鱗じゃありません! これを使えば、ジャグラズやすみかとの契約文の暗号化強度(プロテクト)をさらに引き上げられる! 悪魔側からのハッキングを防ぐための、最高のセキュリティ・パッチになります!」

 

「やめろォッ! 俺の数少ない自由をこれ以上奪うな!」

 

 影の中からジャグラズの悲鳴のような抗議が響いたが、悠真は容赦なくその銀鱗を丁寧に回収し、ジップ付きの小袋へと収めた。

 

「戦わずに、必要な素材だけを確実に回収(スクラップ)する。朱音さん、この探索方法、めちゃくちゃ効率が良い(合理的だ)と思います」

 

「……喜んでもらえて何よりだけど、あんたの喜びの方向性が、やっぱり普通の召喚師とズレまくってて、あたしはちょっと頭が痛いわ」

 

 朱音は溜息をつきながらも、悠真の徹底した「無駄のない立ち回り」には、確かなプロとしての素質を感じ取っているようだった。

 

 *

 

 通路の奥へ進むほど、地下街の空気はさらに濃度を増し、現世の物理的なロジックが曖昧になっていく。

 

 一軒の、古びた喫茶店の前で、悠真は思わず足を止めた。

 

 看板には『純喫茶 すばる』と書かれ、色褪せた食品サンプルが並ぶショーケースの奥には、薄暗い店内の様子が見えていた。

 

 誰もいないはずの、静まり返ったカウンター席。

 

 そこに、一つの「真っ黒な影」が座っていた。

 

 顔も、服の模様もわからない、ただ人間の輪郭を切り取ったかのような黒い影。

 

 その影は、中身のないカップを口元へ運ぶという、哀しい『待ち合わせ』の仕草を、何十年も執拗に繰り返しているようだった。

 

「……影の買い物客よ」

 

 朱音が、悠真のジャケットの袖を軽く引き、先へ進むよう促した。

 

「危険度は皆無。ただの、あの日ここで誰かを待ち続けていた人間の『未練の残像(ログ)』。……でもね、悠真。絶対に話しかけちゃダメよ。あいつらと目を合わせたり、声を反応させたりしたら、その瞬間にあいつらの『終わらない思い出話(無限ループ)』に引きずり込まれて、現世に帰ってこれなくなるからね」

 

 その時、カウンターの影が、ゆっくりと首をこちらへ巡らせたような気がした。

 

 出所不明の、掠れた男の声が、悠真の脳内に直接響いてくる。

 

「……あの日も、今日みたいな雨だったね。君は、いつもの席で、僕を待ってくれていると言った。……覚えているかい?」

 

 あまりにも寂しげな、拒絶しがたい声。

 

 悠真の唇が、無意識に「いや、今日は雨じゃなくて――」と、システム的な否定の返答(リターン)を返しそうになった。

 

 グイッ、と足元から強烈な力で影が引っ張られた。

 

「返事をするな、悠真! 脳の同期(チャネル)を閉じろ!」

 

 ジャグラズの鋭い声が、悠真の意識を強引に現世へと引き戻した。

 

「……っ! すみません、一瞬、ログに割り込み(インタラプト)をかけられそうになった」

 

「未練ってのはね、相手を選ばないのよ。誰でもいいから、自分のロジック(思い出)に付き合ってくれるリソースを探してるの。無視して進むわよ」

 

 朱音が告げると同時、側溝に潜んでいた塵霊(DS-058)が、カウンターの下から小さな、古びたプラスチックの箱を咥えて戻ってきた。

 

 中身は空の、かつて指輪が収められていたであろう小さな宝飾ケース。

 

【アイテム取得:空の指輪箱】

 

【霊的価値:中(属性:未練 / 約束 / 待ち合わせ)】

 

【危険度:要確認(注意:中身を探そうと試みた場合、この異界のさらに深い階層、あるいは関連する高危険度異界へと強制誘導されるトリガーとなる可能性あり)】

 

「……指輪の中身を探すと、別の深い異界へ誘導される? 隠しダンジョンへのフラグか」

 

「それ、今日は絶対に開けないで、そのままリュックの底に封印しておきなさい」

 

 朱音が、厳しい目で釘を刺した。

 

「中身のない指輪箱、待ち人、雨の日の約束。……こういう、物語(コンテキスト)が完結していない未練は、奥が深くて本当に危険なの。あたしたちの手におえる案件じゃないわ。持ち帰って、ヤタガラスの専門班に引き渡す(エスカレーションする)のが正解よ」

 

「了解です。オブジェクトをそのまま隔離(カプセル化)して、保管します」

 

 悠真はケースに厳重に防護符を巻き、リュックの奥深くへと仕舞い込んだ。

 

 小異界という限られた空間の中に、さらに別の、触れてはならない深い物語が眠っている。

 

 その世界の多層的な構造(情報レイヤー)を、悠真は初めて肌で体感していた。

 

 *

 

 探索開始から一時間が経過した頃、悠真のスマートフォンは、悲鳴を上げるように激しい振動を繰り返していた。

 

 画面には、処理しきれないほどの通知(アラート)が絶え間なくポップアップし、コンソールを埋め尽くしている。

 

【塵霊(DS-014)より報告:左前方シャッター裏に、古い靴の未練を検出】

 

【契約個体:すみか より受信:『ゆうま! 今の、すっごく怖い声だったね! すみか、お留守番退屈だから、もっとスピーカーの音量上げてよ!』】

 

【個体ステータス:ジャグラズ の空腹度が『危険域』に到達。クッキーの追加投入を要求】

 

【警告:右側面の側溝から、微弱な記憶紙魚の接近を検知。合計12件】

 

【退路マーカー:空間の揺らぎにより、一時的に座標が数メートル更新されました】

 

「くそっ、画面が忙しすぎる……! 塵霊の索敵データと、すみかの雑談ログと、ジャグラズの不満ステータスが同じプライオリティで画面に並んでるせいで、本当に重要な『退路の揺らぎ』の警告が見落とされそうになってる!」

 

 悠真は思わず足を止め、画面を必死に操作しようとした。

 

「止まらないで! 悠真!」

 

 朱音が、即座に彼のジャケットのフードを引っ張って前へと進ませた。

 

「現場の真ん中で立ち止まって画面をデバッグするなんて、一番の自殺行為よ! 敵に隙を晒してるのと同じ!」

 

「でも、通知のオーバーフローを処理(クリア)しないと、次の危険判定が遅れます!」

 

「だったら、今この場で、十五秒以内に画面の表示を『最小構成』に切り替えなさい! 現場に必要な情報なんて、たったの三つよ!」

 

「……! 了解、十五秒でパッチを当てます!」

 

 悠真は走りながら、スマートフォンの画面を『異界探索・緊急用UI(ライトモード)』へと切り替えた。

 

 無駄なグラフや個体の詳細ステータス、そしてすみかからのチャットウィンドウをすべて非表示(非活性化)にし、画面に表示される情報を【退路の維持マーカー】【周囲の危険度】【契約個体の致命的なエラー】の三つの巨大なインジケーターだけに絞り込んだ。

 

『ゆうま!? すみかの通知、消えちゃったんだけど! なんで!?』

 

「業務中だ。雑談ログは後で処理する。一日三回までだ」

 

『えー! けち!』

 

【個体:すみか を一時ミュートに設定しました】

 

「……よし。画面がスッキリした。退路の緑色のラインが、はっきりと視認できる」

 

 朱音は、悠真の手際の良さを横目で確認し、満足そうに頷いた。

 

「それでいいのよ。現場じゃ、かわいい通知よりも、生きて帰るための『出口の方向』が何よりも価値があるんだからね。すみかちゃんには、生きて帰ってからいくらでも拗ねてもらいなさい」

 

「……エンジニアとしても、本番環境でのアラートの優先順位付け(アラート・ルーティング)は基本でした。猛省します」

 

 悠真は、自身の設計の甘さを再度デバッグし、一歩ずつプロの「現場の動き」を身体に染み込ませていった。

 

 *

 

 通路の折り返し地点、かつて地下街の中心広場だったと思われる開けた場所に出た。

 

 そこには、一軒の、一際大きな宝飾店の跡があった。

 

 看板のガラスは叩き割られ、店内の什器はすべて朽ち果てている。

 

 しかし、中央に置かれたガラスのショーケースだけが、まるで時間が止まっているかのように、異常なほど美しく磨き上げられて光を放っていた。

 

 ケースの中には、現実の宝石ではない。

 

 人間の「美しいものを手に入れたい」という純粋な欲望の想念が凝固してできた、親指ほどの大きさの、淡い結晶が三つ、静かに鎮座していた。

 

【霊的資産(リソース)の反応を検出:中央ショーケース内部】

 

【アイテム:小型欲望結晶(ジェム) × 3】

 

【危険度:低 / ただし、固有の「店番プログラム(ガーディアン)」の存在を確認】

 

 ケースの上には、体長二十センチほどの、古いビスクドールのような姿をした精霊が、ちょこんと腰掛けていた。

 

 そのガラスの目は生気がなく、こちらが近づくと、ギギギ……と不自然な機械音を立てて首を傾げた。

 

「ミルダケ……? サワルナ……」

 

「カワナイ、ナラ……イマ、スグ、カエレ……」

 

 店番精霊の、冷淡な警告。

 

「宝石店の記憶の残骸ね」

 

 朱音が、悠真の横で腕を組んだ。

 

「本物のダイヤモンドじゃないけど、純粋なエネルギーの塊だから、高位の存在を召喚する時の『対価(リソース)』や、精霊への供物として、裏の市場じゃ結構な高値で取引されてるわよ。どうする? 買う?」

 

「買う、という形を取れば、ポリシー違反にならずに持ち出せるわけですね」

 

 悠真は、先ほど値札小鬼から五円で買い取った『黄ばんだ福引券』、そしてもう一枚の五円玉、さらにリュックから取り出したジャグラズ用の供物のクッキーを一枚、ケースの前に丁寧に並べた。

 

「物々交換(トレード)を提案する。これで、その結晶を一つ、譲ってくれないか」

 

 店番精霊は、じっと悠真が差し出したアイテムを見つめた。

 

 ガラスの瞳の奥で、数式のような霊的波形が回転する。

 

「フクビキケン……、ゴエン……、アマイ、モノ……。……トリヒキ、ショウニン。ヒトツ、ダケ、モッテケ」

 

 精霊が手を振ると、ケースの中の結晶の一つが、フワリと浮き上がって悠真の手元へと収まった。

 

【アイテム取得:小型欲望結晶】

 

【用途:低位召喚の対価、精霊系個体への高出力供物、またはヤタガラス窓口での換金(推定価値:中)】

 

【システムステータス:正常終了。店番の敵対化ログは発生していません】

 

「上出来。三つ全部を強引に奪おうとしなかったのが、最高の判断ね」

 

 朱音が、悠真の頭を軽く小突いた。

 

「全部取ったら、どうなってたんですか?」

 

「この店番だけじゃなく、この地下街にあるすべての『靴屋』や『玩具屋』のシャッターが一斉に開いて、中にいる防衛怪異が全部あんたを殺しに突撃(バースト)してきたわよ。欲望の結晶はね、一つだけ残して、店(システム)を満足させて帰るのが、異界巡りの鉄則。欲張った奴から、データごと消去されるのよ」

 

「……恐ろしい仕様(セキュリティ)ですね。欲張らずに、最小限の成果(マイルストーン)で切り上げる重要性が身に沁みました」

 

 悠真は、手に入れた結晶の確かな熱量を感じながら、それを厳重に保管した。

 

 召喚師として、現世の金(キャッシュ)に換えられるリソースを、自分の力で初めて「異界から回収した」瞬間だった。

 

 *

 

 しかし、探索が完全に終わろうとしたその時、先行していた塵霊たちから、これまでとは比較にならないほど激しい警告のログが、一斉にスマートフォンの画面に叩き込まれた。

 

『おく……この通路の奥……まだ、お店が開いてる……』

 

『シャッターが開いてるよ……誰もいないのに、電気がついてる……』

 

『ひとがいっぱい……でも、誰も生きてない……怖い、怖いお店がある……』

 

 悠真が画面を見ると、本来のヤタガラスの地図には存在しない、暗い曲がり角の先から、異常な霊的エネルギーのスパイクが記録されていた。

 

【未探索の隠し区画(ダークエリア)を検出】

 

【周辺の異界深度:急激に上昇(危険度:低 → 中)】

 

【退路マーカーの安定性:低下(空間の歪みが発生中)】

 

【システム警告:これ以上の侵入は、現在の戦闘リソースでは対応困難。即時撤退(エスケープ)を強く推奨します】

 

 悠真が恐る恐るその角の先を覗き込むと、通路の突き当たりに、一台の不気味な赤いネオン看板が灯っているのが見えた。

 

 シャッターは完全に開き、店内には古びた玩具、時計、指輪、古い携帯電話、顔の潰れた写真、誰かのアルバム、鍵といった、「人間の個人的な思い出」ばかりが、異常な密度で山積みにされていた。

 

 看板には、歪んだ文字でこう書かれている。

 

『なんでも買います。あなたの思い出、高く買います』

 

 店の奥の暗闇から、優しく、しかし心臓を掴まれるような、低い男の声が響いてきた。

 

「……いらっしゃい。ここは、思い出を買い取る店。……いらない記憶、忘れたい過去はありませんか? どんな些細な思い出でも、相応の価値(対価)で買い取りますよ……」

 

 悠真は、まるで操られるように、その店に向かって一歩、足を出しそうになった。

 

 ガシィィィッ! と、強烈な力で彼の耐火ジャケットの腕が掴まれた。

 

 朱音の黒い手袋が、悠真の皮膚に食い込むほどの強さで彼を制止していた。

 

 彼女の顔からは、先ほどまでの余裕が完全に消え失せ、Tier1の戦場を修羅場として見てきた、本職の厳しい目が現れていた。

 

「行かない。戻るわよ、悠真」

 

「……でも、あそこには、何か重要なデータ(遺物)が眠っているような……」

 

「中危険度(Tier3クラス)の怪異区画よ! あんたみたいな、戦闘力ゼロの初心者が、初日の探索で踏み込んでいい場所じゃない! あそこの店主の正体は、人間の『記憶』を主食にする高位の妖魔よ! 金や宝石よりも、記憶なんて軽くて実体のないものに見えるから、みんな簡単に売っちゃうの。でもね、大切な思い出を売った人間が、現世に戻ってどうなるか分かる? 自分の名前も、家族の顔も、帰り道すら忘れて、そのままあそこの『商品(ガラクタ)』に成り下がるのよ!」

 

 ジャグラズもまた、影の中から真面目な声で、悠真の背中を押した。

 

「あそこはやめとけ、悠真。悪魔の俺から見ても、記憶を弄ぶあそこの店主は、契約のルールを中から書き換えてくるから一番タチが悪い。システムが『撤退』を推奨してるんだ、お前が得意なリスク管理ってやつを見せてみろ!」

 

 悠真は、スマートフォンの画面を見た。

 

 退路を示す緑色のラインが、空間の歪みによって黄色へと変色し、激しく点滅している。

 

【退路安定性:低下中。システムハングの危険性あり】

 

【撤退判断(エスケープ)を確定してください】

 

 悠真は、深く息を吸い、画面を強くタップした。

 

「……了解。異界探索モード、ミッション中止(アボート)。現時刻をもって、全ユニット、即時撤退(エスケープ)を開始する!」

 

「いい判断よ! 走りなさい!」

 

 朱音の叫びと共に、二人は来た道を全速力で引き返し始めた。

 

 好奇心や欲に流されず、システムの警告(ロジック)に従って、明確な「撤退」を選択する。

 

 それこそが、無謀な英雄ではなく、冷徹な管理者としての、悠真の確かな成長の証だった。

 

 *

 

 異界は、そう簡単に侵入者を帰しはしなかった。

 

 来た時にはなかったはずの、不自然に長い通路が目の前に伸びる。

 

 右側には、先ほど通り過ぎたはずの『靴屋』の看板が、再び目の前に現れた。

 

 世界のBGMが、耳障りな音量でボリュームを上げていく。

 

 通路のあちこちから、顔のない「影の買い物客」たちが、ゾロゾロと這い出てきて、悠真たちの行く手を塞ごうと手を伸ばしてくる。

 

「もう帰るの……?」

 

「まだ見ていない店が、たくさんあるよ……」

 

「忘れ物、してない……? あなたの大切な名前、忘れてない……?」

 

『ゆうま! 怖い声が、たくさん聞こえる! 画面の向こうから、すみかを呼ぶ声がする!』

 

 ミュートを解除されたすみかの悲鳴。

 

「見るな! 反応(リターン)を返すな! すみか、そのままチャネルを閉じろ!」

 

『う、うん! すみか、何も聞かない!』

 

「火は、道を思い出させる! だけど、燃やさない! 照らすだけ!」

 

 朱音は、指先から火蜥蜴のサラを放ち、大きな火球ではなく、通路の天井を這うような「細い光のライン」を展開した。

 

 炎の光が、歪んだ空間のロジックを一時的に現世の形へと固定(フリーズ)していく。

 

 さらに、先行していた三体の塵霊たちが、側溝から飛び出して悠真の足元へと導線を引いた。

 

『こっち! ゆうまの足跡、ちりがちゃんと覚えてる!』

 

『埃の通り道があるよ! 出口はこっち!』

 

「よし! 塵霊隊の残した移動ログ(足跡データ)を確認! 退路のインジケーター、緑色に復帰!」

 

【退路安定:出口まで残り推定70メートル】

 

「ジャグラズ、背後の誘い声を遮断(フィルタリング)しろ!」

 

「へえへえ、しつこい客引きは、悪魔の規約(ポリシー)違反で強制ブロックだぜ!」

 

 ジャグラズが影を巨大な壁のように展開し、背後の「なんでも買います」から伸びてくる、記憶を誘う黒い手を強引にシャットアウトした。

 

 視界の先に、チカチカと瞬く、あの古い階段の白い蛍光灯が見えた。

 

「出口よ! 飛び込みなさい!」

 

 朱音の静止の声を合図に、悠真はスマートフォンの画面をしっかりとホールドしたまま、コンクリートの階段へと身体を滑り込ませ、全力で駆け上がった。

 

 錆びついたシャッターの隙間から、現世の、生ぬるい夏の夜風が悠真の顔を叩いた。

 

 シャッターをくぐり抜け、アスファルトの地面に転がるようにして脱出する。

 

 背後で、半分開いていたシャッターが、ガシャーン! と冷酷な音を立てて完全に閉鎖され、ヤタガラスの青白い封印の紋章が、静かに消えていった。

 

 大通りの車の音、コンビニの明るい光、酔客の笑い声。

 

 あまりにも圧倒的な「現実の世界」が、そこには戻っていた。

 

「……はぁ、……はぁ、……戻って、これた……」

 

 悠真は地面に両手をつき、肺がちぎれんばかりに激しい呼吸を繰り返した。

 

 全身が汗でびっしょりと濡れている。

 

「初異界、お疲れ様。悠真」

 

 朱音は、息一つ乱さないプロの所作で、ジャケットの埃を払いながら名刺をポケットに収めた。

 

「……思ったよりも、精神的なリソースを削られました。戦ってないのに、頭がひどく重い」

 

「浅い異界でも、初回はそうなるものよ。異界の空気そのものが、人間の正気を少しずつハッキングしてくるんだからね」

 

 ジャグラズも影から這い出てきて、アスファルトの上で伸びをした。

 

「何もしない時間(待機状態)が、一番精神を摩耗させるからな。お前、よく生きて帰ってきたぜ、無職召喚師」

 

 *

 

 悠真は、震える手でスマートフォンを操作し、ヤタガラスの烏丸宛に、自動生成された探索報告書(ログデータ)を即座に送信した。

 

【初異界探索・対応完了報告】

 

 ・対象:旧商店街地下通路・小異界

 ・結果:契約の追加なし。危険区画(中危険度)の検出に伴い、即時撤退に成功。

 ・回収アセット:黄ばんだ福引券、記憶紙魚の銀鱗、空の指輪箱、小型欲望結晶

 ・システム検証:モバイル版SRMの正常稼働を確認。ただし、高負荷時における通知過多(アラート・ストーム)のバグを発見、要修正。

 ・特記事項:未探索区画に『なんでも買います』と記された、記憶を摂食する中危険度妖魔の定住店舗を確認。

 

 数分後、スマートフォンの画面に、烏丸からの短い返信(レスポンス)が届いた。

 

『御門様

 

 初異界からの無事の帰還、確認しました。

 

 契約を無闇に増やさず、危険を検知した時点で即座に撤退を選択した判断、極めて適切です。

 

 ……回収された素材については、後日支部にて適正価格で鑑定・買取を行います。

 

 なお、検出された『なんでも買います』の店舗については、現時点でのあなたのリソースでは対応不可能です。単独での接触を【絶対禁止(アクセス拒否)】とします。

 

 お疲れ様でした。

 

 烏丸蓮司』

 

「……単独接触禁止(アクセス拒否)、きっちり来ました」

 

 悠真が苦笑すると、朱音は当然といった顔で頷いた。

 

「当たり前でしょ。あそこの店は、記憶を売った人間が、現世で突然行方不明(データ消失)になるっていう、ヤタガラスでもマークされてる未解決事案の温床なんだから。……でもね、悠真」

 

 朱音は、少しだけ表情を和らげ、悠真のスマートフォンを見つめた。

 

「……今日、あんたの強みがどこにあるか、あたしにもはっきり分かったわ」

 

「俺の、強み?」

 

「ええ。あんたには、前衛で大火力をぶっ放す才能はない。……でもね、強い火力がなくても、誰も気づかないような隙間から『確実な帰り道』を拾い上げられる存在(塵霊隊)を、完璧に管理(コントロール)してる。低位の怪異と、最小のコストで正当な取引を成立させるロジックを持ってる。そして、危険な誘惑を前にして、システム通りに『止まる』潔さを持ってる。……あんたは、戦う召喚師になる必要はないのよ。世界から見落とされたバグ(怪異)を拾い上げ、新しい役割(仕様)を与えて、誰も死なせずに現場をクローズする。……そんな、新しいスタイルの召喚師(管理者)になればいいのさ」

 

 朱音の言葉は、悠真の胸の奥底に、消えない自信のアンカーをしっかりと打ち込んでくれた。

 

「今日はお疲れ。スマホ版、もっとブラッシュアップしなさいよ。……次回の現場は、もっと楽しい場所に連れて行ってあげるから」

 

「……はい。最高のシステムに仕上げておきます」

 

 *

 

 深夜の御門家の書斎。

 

 悠真は、回収した『福引券』『記憶紙魚の銀鱗』『空の指輪箱』、そして淡く光る『小型欲望結晶』を座卓の上に並べ、愛用のノートPCを開いた。

 

 ジャグラズは、机の上の福引券を爪でツンツンと突いている。

 

「なぁ、悠真。これ、本当に現世の商店街じゃ使えねえのか? 景品でティッシュくらい貰えそうだけどな」

 

「使えないよ。でも、これらは次の契約や、お前たちの契約書のセキュリティ補強に使える、貴重な『開発リソース』だ。初日にしては、十分すぎる初勝利(ノンエラー)だよ」

 

 スマートフォンの画面が、ピコンと優しく光った。

 

『ゆうま! 異界の地下商店街、どうだった!? 怖いお化けはいた!? 写真は!?』

 

「お化け屋敷というよりは、古い記憶のゴミ溜めのような場所だった。写真は危険区画だったから撮れなかった。求人も当然ない」

 

『えー! つまんないの! でも、ゆうまが無事でよかった! 次はすみかも連れてってね!』

 

「検討しておく」

 

 さらに、足元からは、百体の塵霊たちの満足げな囁きが、静かに流れていく。

 

『ゆうま、ほめられた』

 

『ちり、帰り道見つけたよ。えらい?』

 

『奥のお店、すっごく怖かったね。でも、ゆうまが止まってくれてよかった』

 

 悠真は、ノートPCのテキストエディタを開き、今回の探索で発見されたバグの修正リスト(改善メモ)を書き込み始めた。

 

【SRM 試作版:次期改修パッチ(Ver 1.1)要件】

 

 ・異界探索モードにおける、不要な雑談ログ(すみか)の常時ミュート機能の実装。

 ・高熱源体接近時における、塵霊隊のパニック通知のクラスタリング(間引き処理)。

 ・『なんでも買います』の店舗座標を、ブラックリストとしてシステムに永久登録(アクセス遮断)。

 ・回収アセットの、霊的価値自動鑑定モジュールの追加。

 

「……やることが、山積みだな」

 

 悠真は、キーボードを叩きながら、しかしその唇には、確かな充実感の笑みを浮かべていた。

 

 初めての異界で、御門悠真は、誰一人として強敵を倒さなかった。

 

 だが彼は、帰り道を見失わず、手を出すべきでない危険を冷徹に退け、確かな成果を持ち帰った。

 

 召喚師として、それは疑いようのない、最高の初勝利だった。

 

 画面の隅で、カーソルが静かに、未来への論理(コード)を刻むように点滅を続けていた。




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