元ITエンジニアの俺、祖先の召喚術から召喚プログラムを組み上げて神も悪魔も従える   作:パラレル・ゲーマー

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第12話 ヤタガラス鑑定窓口と、思い出を売った男

 障子越しに差し込む朝の光が、いつもより酷く目に刺さる。

 

 御門悠真は、ずしりと重い頭を両手で押さえながら、座卓の上のノートPCに向き合っていた。

 

 身体的な負傷は一切ない。

 

 筋肉痛すら、あの撤退時の全力疾走によるものだけだ。

 

 しかし、脳の芯が擦り切れたような、強烈な摩耗感が抜けない。

 

 現世のロジックから完全に逸脱した、古い人間の未練と欲望が何重にも堆積した空間――『異界』を初めて歩いたことによる、精神的なオーバーフローだった。

 

 座卓の上には、昨夜持ち帰った「戦利品」が、悠真のノートPCから漏れるディスプレイの光に照らされて並んでいた。

 

 黄ばんだ福引券。

 

 記憶紙魚から剥ぎ取った銀色の鱗。

 

 淡い虹色の輝きを放つ、親指ほどの小型欲望結晶。

 

 そして、古いプラスチック製の、空の指輪箱。

 

 悠真は淹れたてのブラックコーヒーを口に含み、その苦味で強引に思考をクリアにしながら、キーボードを叩いて『異界探索モード』のデバッグログを整理していた。

 

「……やはり、通知(アラート)の優先順位付け(プライオリティ・ルーティング)が致命的に甘かったな」

 

 独り言が、静かな書斎に響く。

 

 昨夜の旧商店街地下通路の探索中、高熱源体の接近に伴う塵霊たちのパニック通知と、退路の空間座標の歪みという最重要の警告が、全く同じ重要度で画面に表示されてしまった。

 

 もし朱音の現場目線の指摘がなければ、画面のデータ過多(情報ストーム)に溺れて撤退のタイミングを完全に見失っていただろう。

 

「次のリファクタリングでは、異界用のUIを三層の防壁(フィルタ)で区切る。クリティカル、ワーニング、インフォメーション。……すみかからのチャットログは、強制的にインフォメーションの最下層へ叩き落とすのが妥当だ」

 

 悠真がそう呟いた瞬間、ポケットの中のスマートフォンが、設定通りに微弱なフラッシュを放って震えた。

 

『ゆうま! 昨日の地下商店街、あれからずーっと夢に出てくるの! すみか、あそこの古いシャッター街を模様替えしたら、最高にクラシックで、ものすごーくお化けが引き立つテーマパーク(お化け屋敷)にできると思うんだよね! 求人、まだ見つからない?』

 

 相変わらずの、文字変換すらされていない純粋な想念の通知。

 

 悠真は小さく溜息をつき、画面のミュートスイッチを親指で押し込んだ。

 

「すみか。あそこは君の新しい職場じゃない。それに、現在あの区画はヤタガラスによって完全にアクセス遮断(ロック)されている」

 

『えー! なんで!? あんなに良い雰囲気なのに!』

 

「業務に関係のない、ただの未練の残像なら構わない。だが……あの奥にあった、記憶を買い取る店。あそこだけは、システムの例外処理では片付かない、明確な『毒(バグ)』の気配がした。あれがある場所に、君を近づけるわけにはいかない」

 

『……記憶を買うお店、そんなにこわいの?』

 

「ああ。命を奪われるより、もっと性質が悪い」

 

 悠真が冷たく告げると、画面の向こうの精霊は、少しだけ怯えたように静かになった。

 

「ケケケッ、朝っぱらから部下の労働意欲を削ぐような真似すんなよ、ブラック当主」

 

 座卓の向かい側、畳の上に胡坐をかいたジャグラズが、昨夜回収した『黄ばんだ福引券』を細い指先でツンツンと突いていた。

 

「なぁ、悠真。これ、マジで何に使えるんだ? 現世の商店街の福引器に入れたって、良くてポケットティッシュ、悪けりゃハズレの白い玉が出て終わりだろ」

 

「ヤタガラスの簡易ガイドによれば、異界内部の『取引系』の存在や、古い商業系の精霊にとっては、これ自体が一種の共通貨幣(トークン)として機能するらしい。ささやかな幸運、という概念がチャージされているからな」

 

「へぇ。異界の福引きねぇ。ロクな景品じゃなさそうだな。特賞・呪いの日本人形とか、一等賞・引きちぎられた怨霊の腕とかだろ。悪魔の俺から見ても悪趣味だぜ」

 

「そこは……俺も同意する。だから、無暗に使うつもりはない。交渉時の『端数調整』用のリソースとして保管しておく」

 

 悠真がそう言って福引券をピンセットで小袋に収めたその時、ノートPCのメーラーが、ヤタガラスの公式暗号プロトコルからの新着メッセージを告げた。

 

 送信者は、烏丸蓮司。

 

【件名:初回異界探索回収品の鑑定、ならびに買取査定の受付について】

 

 悠真はマウスを操作し、その事務的な文面をパースした。

 

『御門様

 

 昨夜の旧商店街地下通路・小異界における、初のフィールドワーク、大変お疲れ様でした。

 

 提出された簡易ログに基づき、あなたが持ち帰られた回収品の「鑑定」および「霊的資産としての買取査定」を行います。

 

 本日午後十四時、ヤタガラス都内支部・三階の『異界回収品鑑定窓口』までお越しください。

 

 なお、回収品リストにある「空の指輪箱」については、現時点において、ケースからの取り出し、独自の魔力スキャン、ならびに中身の探索行為を【一切禁止(厳禁)】とさせていただきます。

 

 取り扱いには細心の注意を払い、封印状態のままお持ち込みください。

 

 烏丸蓮司』

 

 悠真は、画面の「一切禁止」という太字の警告をじっと見つめた。

 

「……空の指輪箱、やっぱり、ヤタガラスの側でもマークされてるオブジェクトなんだな」

 

「未練の塊だからな。お前、ただのプラスチックの空箱だと思って舐めてるだろ」

 

 ジャグラズが、アイスのスプーンを咥えたまま、赤い目を真面目なものに変えて悠真を睨んだ。

 

「悪魔の俺が言うのもなんだが、人間ってのは『中身のないもの』を見つけると、無意識のうちにその空白を埋めたくなる性質があるんだ。箱が空なら、中身はどこへ行った? 指輪を渡すはずだった相手は誰だ? ……そうやって、勝手にシステムのバグ(未練の深淵)に向かって、自分からアクセス権を渡しちまうのさ。だから、あいつらはその箱を怖がってるんだよ」

 

「……失われたものは、人間に探させる。一種の、探索誘導プログラム(トロイの木馬)か」

 

 悠真は、その言葉の裏にある不穏なロジックを理解し、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 

 *

 

 午後。

 

 内閣府特異事象管理連絡室・都内支部の三階。

 

 そこは、悠真が昨日訪れた「安全講習室」や「訓練場」の階層とは違い、どこか重苦しく、そして異様な「生活感」が漂う空間だった。

 

 廊下の突き当たりにあるその場所の看板には、ごく普通の役所のフォントでこう書かれている。

 

『異界回収品・呪物・霊的素材 鑑定受付窓口』

 

 しかし、その下にアクリル板で掲示されている注意書きの内容は、一般的な行政窓口の常識を遥かに超越していた。

 

【窓口利用の皆様への重要なお願い】

 

 ・生もの系、肉質系、または粘液を伴う怪異素材を持ち込む際は、必ず支給された霊的密封容器(クラスB以上)に封入してください。

 

 ・血液、頭髪、爪、骨片など、人体由来の可能性が否定できない素材については、受付前に専用の「検体申告書」の提出が必要です。

 

 ・名前、記憶、寿命、特定の感情など、現世における「無形資産」の持ち込み、またはそれらの換金相談は、当窓口では扱えません。奥の「特殊資産管理室」へ直接お回しください。

 

 ・自律的に発声する品物、または術者に直接語りかけてくる呪物については、必ず遮音用の黒布を被せた状態を維持して受付に提出してください。

 

 ・「無料」「お得」「今だけ」といった、取引誘導の文字列が表面に浮かび上がる異界品は、職員が触れる前に必ず口頭で申告してください。

 

「……相変わらず、お役所の皮を被った魔窟だな、ここは」

 

 悠真は、リュックの紐を握りしめながら、待合スペースの長椅子に腰掛けた。

 

 彼の周囲には、番号札を手にした他の能力者たちが、それぞれに「異様な荷物」を抱えて淡々と順番を待っていた。

 

 隣に座る古風な袴姿の神職は、黒い注連縄(しめなわ)が幾重にも巻き付けられた、時折中から『コン、コン』と何かが叩くような音を立てる不気味な木箱を、我が子のように大切そうに抱えている。

 

 その向かい側では、私服姿の若い女性が、毎晩のように血の涙を流すという、目が不自然に大きなぬいぐるみを、ヤタガラスの支給した隔離ケースに入れて提出していた。

 

 窓口の向こう側では、職員たちが事務用制服の上に薄い防護用手袋を嵌め、小瓶に入った青い怪火や、ずっと同じ「死の時刻」を指して動きを止めた懐中電灯のような呪物を、文房具でも数えるかのような手際で淡々とバーコードスキャンし、台帳に記録していた。

 

「ピンポーン。番号札、四十二番の御門悠真様、二番窓口へお越しください」

 

 電子の合成音声が響く。

 

 悠真は深く息を吐き、立ち上がった。

 

 二番窓口の向こう側に座っていたのは、白衣の代わりにヤタガラスの事務用ベストを着用した、四十代半ばほどの女性だった。

 

 きっちりとまとめられた髪に、理知的な眼鏡。

 

 その瞳には、怪異を見飽きた者特有の、底知れない冷徹さと、事務職としての徹底的な効率主義が同居していた。

 

 胸元のネームプレートには『鑑定責任者・灰原(はいばら)ミツキ』とある。

 

「どうも。御門様ですね」

 

 灰原は、悠真が提出したヤタガラスの登録証(カード)をリーダーに通しながら、抑揚のない声で言った。

 

「旧商店街地下通路・小異界、初回探索における回収品、計四点。……確認させていただきます。なお、御門様。鑑定のプロセスにおいて、もしこれらの品物が突然発声したり、視覚的な誘惑、あるいは金銭的な取引をあなたに直接持ちかけてきても、絶対に『返事』をしないでください。特に対価の交渉(値切り)に応じるフリをするのは厳禁です。……行政の査定ラインが混線(エラー)しますので」

 

「……分かりました。仕様通りに、完全なパッシブ(静観)を維持します」

 

「よろしい。では、一点目から」

 

 *

 

 灰原は、霊視用のレンズが何重にも組み込まれた、特殊な片眼鏡(モノクル)を右目に装着すると、悠真が最初に差し出した『黄ばんだ福引券』をピンセットで持ち上げた。

 

「……ふむ。旧商店街の、昭和末期から平成初期にかけての、地域商業の『縁起(えんぎ)残滓』ですね」

 

 灰原はレンズをカチカチと回し、券の表面に遺る微微な霊的パケットをスキャンしていく。

 

【鑑定結果:黄ばんだ福引券】

 

 ・分類:低位縁起媒体(コモディティ)

 

 ・属性:商売繁盛、偶然性の誘発、ささやかな幸運

 

 ・危険度:最小(安全判定:A)

 

 ・換金査定:現世の貨幣価値としては『0円』。

 

「現世の銀行やヤタガラスの窓口で、これを日本円に換金することは不可能です」

 

 灰原は、淡々と評価を下した。

 

「ただし、異界の内部に定住している商店系の妖魔や、縁起物をエネルギー源とする低位の精霊、たとえば福引のガラガラや招き猫の怪異などと接触した際、これを『共通の取引カード(トークン)』として提示すれば、彼らは極めて好意的な反応を示します。交渉を有利に進めるための、ノイズキャンセリングの道具(触媒)として、売却せずにそのままご自身のインフラ(手札)として保持されることを推奨します」

 

「なるほど……。現世の金にはならないが、異界のプロトコルにおいては、信頼性を保証する証明書(証明書)として機能するわけか。了解です。保持リストに入れます」

 

 悠真がノートに記録する横で、ジャグラズが影から「ちっ、やっぱりただのゴミの端切れじゃねえか」とつまらなそうに鼻を鳴らした。

 

「次。二点目、記憶紙魚(しぎょ)の銀鱗」

 

 灰原の目が、レンズの奥でわずかに鋭くなった。

 

 彼女は悠真が提出したジップ付きの小袋から、あの銀色の美しい鱗を一枚、慎重にトレイの上に取り出した。

 

「これは……保存状態が極めて良好ですね。初回探索の、しかもTier4の新人が、記憶紙魚を刺激せずにこれほど綺麗な形で剥ぎ取って(デリートせずに)持ち帰るとは。……感心しました」

 

 灰原の筆致が、わずかに滑らかになる。

 

【鑑定結果:記憶紙魚の銀鱗】

 

 ・分類:記録防護・摂食残滓素材

 

 ・属性:記憶の定着、紙媒体の保存、改竄(かいざん)防止

 

 ・危険度:低

 

 ・換金査定:ヤタガラス一括買取の場合、一枚あたり『三万五千円』。

 

「三万五千……!」

 

 悠真は、思わず声を漏らしそうになった。

 

 たった数枚の虫の鱗が、自分の前職の数日分の労働価値に匹敵する。

 

「売却(キャッシュ化)されれば、現在の御門様の活動資金にはなるでしょう。……ですが」

 

 灰原は眼鏡を外し、悠真の目をじっと見据えた。

 

「召喚師としての実務の観点から言えば、これを今すぐ換金するのは【極めて非効率】です。この銀鱗は、人間の記憶や約束の想念を吸って硬化した、天然の『改竄防止(プロテクト)素材』です。これをすり潰してインクに混ぜ、ご自身の召喚契約書、あるいは使役存在との規約(コントラクト)に上書き(パッチ)してごらんなさい。契約の縛りが物理的・霊的に何十倍も強固になり、外部の怪異や悪魔からの『契約のハッキング(抜け穴探し)』を完全に遮断(ブロック)できるようになります。……特に、そちらの不満度の高そうな悪魔様を管理するには、これ以上のセキュリティシステムはありませんよ」

 

 その瞬間、ジャグラズが明確に顔を引き攣らせ、悠真のジャケットの裾を激しく引っ張った。

 

「売れ! 悠真、今すぐそれをそこの眼鏡女に売り払え! 三万五千円だぞ! ハーゲンダッツが何個買えると思ってんだ! 現金が一番だ、現金をシステムに投入しろ!」

 

「……ジャグラズ。お前がそこまで激しく拒絶反応(エラー)を起こすということは、この素材の改竄防止(セキュリティ)としての実用性は本物だということだな」

 

「お前……! 悪魔のプライバシーをこれ以上ガチガチの暗号(ロック)で縛る気か! 最悪だ、このブラック現当主!」

 

「売却はキャンセル。銀鱗は全枚数、システムのセキュリティ補強用リソースとして『保管』に回す」

 

 悠真が冷酷にキーを叩くと、灰原は表情を一つも変えないまま、淡々と台帳に『保持』のチェックを入れた。

 

「契約個体が嫌がるものほど、素材としての適性は高い。合理的(ロジカル)な判断です。御門様」

 

 *

 

「三点目。地下宝飾店跡の、小型欲望結晶」

 

 灰原は、ピンセットを使って、淡い虹色の輝きを放つ小さな結晶を持ち上げた。

 

 真夏の太陽の下でも、その石の周囲だけは、不自然なほど甘く、物欲を刺激するような歪んだ光の屈折が起きていた。

 

「……報告書を読みましたよ、御門様。宝飾店のショーケースにこれが三つ並んでいた際、あなたは朱音様の指示に従い、一つだけを持ち帰った、と」

 

「はい。全部取ると、店(システム)全体のセキュリティが起動して、商店街の全怪異が敵対化(バースト)すると警告されたので」

 

「適切です。もしあなたがそこで欲張って三つ全てをリュックに詰め込んでいたら、今頃あなたはここの窓口ではなく、支部の地下にある『霊的集中治療室』のベッドの上で、概念の欠片に成り果てていたでしょう。異界の欲望結晶は、人間の『所有欲』そのもののログですからね」

 

【鑑定結果:小型欲望結晶】

 

 ・分類:霊的資産 / 供物用高出力コア

 

 ・属性:所有欲、美への執着、購買衝動

 

 ・危険度:中(取り扱い注意)

 

 ・換金査定:ヤタガラス買取価格『八万二千円』。

 

「八万二千円……」

 

 悠真は、その具体的な数字を噛み締めた。

 

 調査費の三万円と合わせれば、これだけで十一万円以上の純利益(リソース)が出ていることになる。

 

「どうします? こちらは換金されますか?」

 

「……いえ。ジャグラズの話だと、召喚師の維持費はこれからどんどん跳ね上がる。高位の精霊や、取引を好む商業系の妖魔と新しく契約を交わす際、この『欲望結晶』は、人間の魂や血の代わりとなる、最高級の『代替エネルギー(供物)』として機能すると聞いています。金銭化はいつでもできる。なら、この希少なリソースは、次の大規模システム構築(新しい契約)のための軍資金として、そのままライブラリに保管します」

 

「……素晴らしい。欲に流されず、システムの将来的なスケーリングを見据えてリソースをプールする。休眠アカウントだった御門の家に、ようやくまともな『管理者』が生まれたようですね」

 

 灰原の言葉は相変わらず事務的だったが、その片眼鏡の奥の目は、悠真の「一切のブレがない論理的判断」を、非常に高く評価しているようだった。

 

「では、最後。四点目――」

 

 灰原の手が、ピタリと止まった。

 

 それまで、どんな呪物や悪魔の文句に対しても、眉一つ動かさずに淡々と機械的に処理を続けていた彼女の指先が、明らかな『警戒』の硬直を示していた。

 

 トレイの上に置かれた、黒い布に包まれたままの、古いプラスチック製の『空の指輪箱』。

 

 灰原は、それをピンセットで触れることすら拒否し、霊視用の眼鏡を最大倍率にカチカチと切り替えた。

 

 レンズの奥の彼女の瞳が、急速に細くなっていく。

 

「……御門様。これ、どこで見つけましたか」

 

 声のトーンが、一段、低くなっていた。

 

「旧地下街の、奥にある『純喫茶 すばる』のカウンター下です。塵霊の DS-058 が隙間から拾い上げてきました。中身は最初から空(ヌルデータ)でした」

 

「……開けませんでしたね?」

 

「はい。烏丸さんからも、朱音さんからも、絶対に開封するなとアクセス制限(禁止命令)が出ていたので、そのまま隔離してきました」

 

「賢明でした。……これは、ただの未練の品ではありません。現世の、それも極めて現在進行形の『人為的なバグ(事件)』にダイレクトに接続されている、最悪の導線オブジェクト(トロイの木馬)です」

 

 *

 

 灰原は、引き出しから取り出した、何重もの金糸が織り込まれた「特級封印布」を使い、悠真の目の前で指輪箱をケースごと、厳重に包み込んで見えなくした。

 

【鑑定結果:空の指輪箱】

 

 ・分類:未練誘導型・概念損失オブジェクト

 

 ・属性:約束の破棄、喪失の固定化、存在の忘却

 

 ・危険度:危険(Tier3クラスの汚染源)

 

 ・換金査定:『買取不可・ヤタガラスによる強制一時管理(プロテクト)』

 

「換金価値はゼロ、というより、民間市場に流すこと自体が法律で禁止されています」

 

 灰原は眼鏡を外し、デスクの上の内線電話の受話器を上げた。

 

「中身のない指輪箱。これはね、人間の『約束』や『婚約』といった、最も強固な概念の繋がりを、中から無理やり引き剥がした後に残る『抜け殻』なんです。……御門様。あなたが昨日、その地下街のさらに奥で目撃した、あの『なんでも買います。思い出、高く買います』という店。……あの店と、この箱の霊的署名(署名)は、完全に一致(バグが同期)しています」

 

 悠真は、背筋に嫌な汗が滲むのを感じた。

 

 単なる古い地下街の、チュートリアル用の軽い探索(フィールドワーク)のはずだった。

 

 しかし、自分が持ち帰ったその「空白」は、裏社会のより深い闇へと、一本の太い光ファイバーのように繋がっていたのだ。

 

「烏丸を呼びます。御門様、ここからの話は、鑑定窓口の事務職の権限を超えています。奥の『特殊事案実働室』へ移動してください」

 

 *

 

 支部の奥、防音と霊的遮蔽が完璧に施された、狭い会議室。

 

 重い鉄製の扉が閉まり、室内の空気は完全に現世の雑音から隔離されていた。

 

 悠真と、彼の影から這い出てきて椅子の背もたれに落ち着かない様子で掴まっているジャグラズの前。

 

 デスクを挟んで座ったのは、いつも通りの穏やかな、しかしどこか目元の奥に冷徹な「プロの役人」の光を宿した、烏丸蓮司だった。

 

「御門様。初の異界探索から戻られたばかりのところに、このような緊迫した場を設けてしまい、申し訳ありません」

 

 烏丸は、手元の分厚いタブレットを操作し、一枚の「男性の写真」を悠真の前に提示した。

 

「……ですが、あなたが持ち帰ったあの『空の指輪箱』は、我々ヤタガラスが、現在都内近郊で最優先で追跡している、ある未解決の特異行方不明事案(インシデント)の、決定的なミッシングリンク(証拠)だったのです」

 

「事件、ですか」

 

「はい。……あなたが昨日、その目で目撃し、朱音様の制止によって間一髪で撤退を選んだ、あの『思い出を買う店』。……あれは、数年前から都内の『寂れた境界』に神出鬼没に現れる、正体不明の概念捕食型怪異です。ある時は閉鎖された地下街、ある時は真夜中の無人駅、ある時は取り壊し前の古い百貨店の屋上。……人の未練と取引の記憶が残る場所にのみ、それは『店舗の形』をして現れます」

 

 烏丸は、画面をスワイプし、男性の詳細なログを表示した。

 

【当事者:佐久間悠介(さくま・ゆうすけ)/ 32歳 / 会社員】

 

【現状ステータス:重度の概念損失状態(Tier4・要医療保護)】

 

【発見時の状況:一週間前、深夜の駅前ロータリーにて、虚ろな目で佇んでいるところを警察に保護。所持品は、現金百五十万円と、大手宝飾店の『婚約指輪の購入明細書』。および、中身のない『空の指輪箱』。】

 

「問題は、彼の『精神(データ)』の中身です」

 

 烏丸の声が、一段と低くなる。

 

 ここでは、ヤタガラスのちゃんねる(掲示板)の住人たちが「御門の孫がまた何かやったらしいぞ」と面白半分に噂しているような軽いレイヤーの情報は、一切通用しない。

 

 本物の、国家の安全保障に関わる霊的インシデントのデータレイヤーだった。

 

「佐久間様は、自分がなぜ百五十万円という大金を持っているのか、その出所を全く説明できません。明細書を見せれば、自分が婚約指輪を購入したという『事実』は理解できる。スマートフォンのフォルダには、彼と、ある一人の女性が、幸せそうに寄り添っている写真が何百枚も残されている。……ですが」

 

 烏丸は、男性のスマートフォンの画面のコピーを提示した。

 

 そこには、水族館やテーマパークで、仲睦まじく笑い合う男女の姿が映っていた。

 

 しかし――悠真の目には、その女性の顔が普通に、優しそうな二十代後半の女性の顔として見えている。

 

「……え? 普通に見えますけど」

 

「あなたには見えます。主契約者(当事者)ではないですから。ですが、佐久間様本人がこの画面を見ると、彼女の『顔の部分』だけが、まるで真っ黒なインクで塗り潰されたように、何も認識できなくなるのです。彼女の名前を何度教えても、彼の脳はそれを『ただのノイズ』として弾いてしまい、一秒後には忘れてしまう。彼女の、声の波形も、一緒に過ごした日々の思い出も、すべてが彼の中から綺麗に消去(デリート)されている。……彼は、あの『なんでも買います』の店に、婚約者に関するすべての『記憶』を売り払い、その代価として、百五十万円という現金を掴まされて帰ってきたのです」

 

 悠真は、息を詰まらせた。

 

「記憶を、売った……? そんなことが、本当に……」

 

「悪魔の契約よりも性質が悪いぜ、それは」

 

 ジャグラズが、椅子の背もたれから身を乗り出し、嫌悪感を露わにして吐き捨てた。

 

「俺たち悪魔はさ、魂を貰う時はちゃんと名乗るし、契約書にサインさせる。売った側も『俺は悪魔に魂を売ったんだ』っていう最悪の自覚(ログ)が残る。……だけど、あの店は違う。商売の顔をして、人間の『忘れたい』『楽になりたい』っていう一瞬の心の脆弱性(バグ)に滑り込んで、大切な思い出を綺麗さっぱり奪っていくんだ。奪われた本人はさ、自分が何を失ったのかすら分からないから、苦しむことすらできない。……最悪のクソシステムだぜ、ありゃあ」

 

「さらに、この事件の最悪のフェーズはここからです」

 

 烏丸が、タブレットに別の深刻なアラートを表示した。

 

「……佐久間様の記憶から消去された、その婚約者の女性。……彼女本人が、一週間前から、この現世から【完全に姿を消して(行方不明になって)】いるのです」

 

 会議室の空気が、凍りついたように重くなった。

 

 悠真は、デスクの上の、特級封印布に包まれた『空の指輪箱』を見つめた。

 

 男性の記憶から、彼女が消えた。

 

 それと同時に、現実の世界からも、彼女という存在のデータが消失した。

 

「……誰にも覚えられていない人間は、この現世の因果律のグリッドから零れ落ちて、異界の深淵へ囚われる。……御門様、あなたが昨日見つけたあの指輪箱は、佐久間様が売却し、あの店が『商品』として棚に並べていた、彼女の存在そのものの残滓(依代)だった可能性が極めて高いのです」

 

 *

 

「御門様。……無理にとは言いません」

 

 烏丸は、資料を閉じ、極めて真剣な面持ちで悠真を見つめた。

 

「あなたは、あの『思い出を買う店』の正確な座標と霊的署名を、自身のシステム(塵霊隊)によって直接検知した、現在都内で唯一の登録召喚師です。……ここからの調査は、Tier4の素人が扱う範疇を大きく超えています。ですが、もしよろしければ……隣の特別医療室にいる、佐久間様本人に、短時間だけ面会していただけないでしょうか。……彼が失った『空白の重さ』を、その目で確かめていただきたいのです」

 

「……分かりました。お会いします」

 

 悠真のその言葉には、エンジニアとしての好奇心ではなく、自分が引きずり出してしまった「バグの導線」に対する、奇妙なまでの責任感が混ざっていた。

 

 特別医療室。

 

 白い壁に囲まれた静かな部屋のベッドに、佐久間悠介は座っていた。

 

 ごく普通の、どこにでもいそうな若い会社員。

 

 しかし、その顔からは一切の生気が失われ、瞳の奥は、まるで最初から何も書き込まれていない空のディスクのように、虚無に濁っていた。

 

 彼の手元には、しわくちゃになった『婚約指輪の購入明細書』が、何度も握りしめられた跡を伴って置かれている。

 

 悠真が室内に入ると、佐久間はゆっくりと、焦点の合わない目をこちらへ向けた。

 

「……あなたが、あの古い地下街で……あの『お店』を見た人、ですか」

 

 掠れた、乾いた声。

 

「……はい。入り口の看板を見ただけですが」

 

「そうですか。……よかった」

 

 佐久間は、力の入らない唇を微かに歪め、ぽつりと呟いた。

 

「……入らなくて、本当によかった。あそこは、とても親切なお店なんです。中にいる店主は、すごく優しい声で、僕の『一番辛いこと』を聞いてくれて、それを手放せば、こんなにたくさんの自由(お金)をくれるって言ってくれた。……僕はあの時、仕事のストレスとか、将来の不安とか、何かにすごく追いつめられていて、楽になりたくて、その『辛い思い出』を全部、売ってしまったんです」

 

 佐久間は、自分のスマートフォンを震える指で操作し、悠真に見せた。

 

 画面には、先ほど資料で見た、あの女性の顔。

 

 悠真の目には、彼女の悲しそうな、しかし確かな愛情を湛えた笑顔が見えている。

 

 ……だが、佐久間がその画面を見る時、彼の瞳には、ただの暗黒しか映っていないのだ。

 

「……売った直後は、すごく頭が軽くなって、救われたと思ったんです。でも、翌朝目が覚めたら、俺のポケットには百五十万が入っていて、この明細書が残されていて、……フォルダを開いたら、この『顔のない真っ黒な人』が、俺の隣で笑っていた」

 

 佐久間は、自分の髪を乱暴にかきむしり、嗚咽を漏らした。

 

「声が、思い出せないんです。名前を何度教えてもらっても、頭の中に文字が残らないんだ。俺は、……俺は、誰にこの指輪を渡して、誰と一緒に生きていく約束をしてたんですか!? 誰か教えてくれよ! 忘れてしまったことすら思い出せないんだ……!」

 

 彼の中に渦巻く、圧倒的な「空白の絶望」。

 

 大切なものを失ったことすら認識できない。

 

 その歪んだ因果の檻の中で、男は静かに狂いかけていた。

 

 悠真は、何一つ答えることができなかった。

 

 彼の書いた召喚プログラムのいかなる関数も、この人間の壊れた魂を即座に修復する(リカバリする)ロジックは持ち合わせていなかった。

 

 だが、見習い召喚師としての彼の胸の奥に、冷徹な、しかし烈火のような「憤り」が静かに灯っていた。

 

 *

 

 医療室を出た廊下。

 

 烏丸蓮司は、壁に背を預けたまま、悠真が出てくるのを待っていた。

 

「御門様。……これが、あの怪異の本質です。人間の心の脆弱性を突き、因果を買い取るクソシステムです」

 

「烏丸さん。……これは、俺が首を突っ込んでいい案件(プロジェクト)なんですか」

 

「単独での介入は、当然ながらアクセス拒否(絶対禁止)です。あなたの戦闘リソースでは、あの店の暖簾(のれん)をくぐった瞬間に、御門の血統の記憶ごと買い叩かれて終わるでしょう」

 

 烏丸は、眼鏡を指で押し上げ、声音をプロのトーンへと切り替えた。

 

「ですが……あなたの『召喚プログラムによる契約管理の技術』。これは、あの店が交わした『不当な売買契約』のロジックを解析し、その不備や脆弱性を突いて、奪われた記憶を買い戻す(ロールバックさせる)ための、唯一の特効薬(デバッガー)になり得る可能性があると、我々は考えています」

 

「売買契約の、脆弱性を突く……」

 

「ええ。力で破壊するのではなく、取引のルールそのものをハックして、佐久間様の婚約者を取り戻す。……もちろん、これには炎堂朱音様の火力や、ヤタガラスの専門班のバックアップが不可欠です。御門様。あなたにはまず、手元にある探索ログと、回収した『福引券』『銀鱗』『欲望結晶』をベースにして、あの店に安全に接触し、かつ『こちらからは何も売らず、向こうの商品(記憶)だけを正当に買い戻す』ための、完璧な取引仕様書(仕様書)の策定をお願いしたいのです。……この案件、受けていただけますか」

 

 悠真は、ポケットの中のスマートフォンを強く握りしめた。

 

 生身の殴り合いじゃ、自分は誰にも勝てない。

 

 だが、契約の条項を読み込み、ルールの穴を探し、完璧な条件でシステムを回すこと(デバッグ)なら、自分の右に出る者はいない。

 

「……分かりました。仕様書の策定(準備)なら、俺の本職です。……あのクソみたいな店に、完璧なペナルティを叩き込んでやりましょう」

 

「期待しています。御門現当主様」

 

 *

 

 深夜。

 

 御門家の本邸、その静まり返った書斎。

 

 悠真は、座卓の上に『黄ばんだ福引券』『記憶紙魚の銀鱗』『小型欲望結晶』を並べ、ノートPCのキーボードを猛烈な速度で叩いていた。

 

 画面には、新しく作成されたディレクトリファイル『なんでも買います_不当契約解析プロトコル』の文字。

 

 窓の外では、街の灯りが遠くで静かに明滅している。

 

「記憶は、物理的な物質じゃない。だけど、あの店がそれを『商品』として棚に並べている以上、そこには必ず、売買契約の成立条件、価格の査定基準、そして『クーリングオフ(契約解除)』のロジックが埋め込まれているはずだ」

 

 悠真の指が、残像を残すほどの速度で画面のコードを埋めていく。

 

「こちらが支払うべき対価は、手に入れた『欲望結晶』と『福引券』。そして、ジャグラズの銀鱗によるセキュリティ補強。……これらを組み合わせれば、あの店主のハッキングを完全に防御しつつ、佐久間さんの婚約者のデータを現世に強制復元(インポート)できる」

 

「ケケケッ、本当にやる気満々じゃねえか、ブラック当主」

 

 窓辺の枠に腰掛けたジャグラズが、夜風に金の髪を揺らしながら、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

「まだ、やるとは決めてない。完璧な仕様書(勝てるロジック)が組めないうちは、俺は一歩も動かないからな」

 

「へーへー、顔が完全に『バグを絶対殺すマン』の目になってるぜ? お前、本当にあの男の空白が、エンジニアとして許せなかったんだろ」

 

「……不完全なシステムを放置するのは、俺のプライドが許さないんだよ」

 

 スマートフォンの画面が、ピコンと小さくフラッシュして通知を告げた。

 

 一時ミュートを解除された、すみかからのメッセージだ。

 

『ゆうま……あの男の人、大切な人の顔が真っ黒に見えちゃうなんて、すごく、すごく可哀想だよ。すみか、人間を怖がらせてびっくりさせるのは大好きだけど、……あんな風に、誰もいなくなって泣いちゃうような悲しいのは、絶対に嫌。……ねえ、ゆうま。あのお店、みんなでデバッグしに行こう?』

 

「……ああ。分かってるよ。業務命令が出たら、お前たちのリソースも全力で投入(デプロイ)するから、準備しておけ」

 

『はーい! 塵霊たちも、みんなで準備してるよ!』

 

 悠真は、ノートPCの画面に映る、佐久間のあの虚ろな表情を思い出した。

 

『俺は、誰にこの指輪を渡すつもりだったんですか……?』

 

 失われたものは、人間に探させる。

 

 その最悪のバグを書き換えるための、現代の御門の術式(コード)が、深夜の書斎で静かに形を成していく。

 

「待ってろ、佐久間さん。……俺のシステムで、君の約束(思い出)を、必ず買い戻してやる」

 

 画面の隅で、カーソルが静かに、そして力強く点滅を続けていた。




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