元ITエンジニアの俺、祖先の召喚術から召喚プログラムを組み上げて神も悪魔も従える   作:パラレル・ゲーマー

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第13話 消えた婚約者と、純喫茶すばる

 ヤタガラス都内支部の奥深くに位置する小会議室は、外の喧騒を一切遮断した、まるで巨大な金庫の内部のような静寂に包まれていた。

 

 無機質な白い蛍光灯の光が、長方形のデスクの上に広げられた数々の資料を冷たく照らし出している。

 

 空の指輪箱の封印記録、佐久間悠介の保護時の調書、宮野灯里の行方不明届のコピー、そして悠真が持ち帰った旧商店街地下通路の探索ログ。

 

 烏丸蓮司は、いつもと寸分違わぬ完璧なスーツ姿のまま、手元のタブレットに視線を落としていた。

 

「御門様。本日の目的は、あの『なんでも買います』への即時再接触ではありません。まずは現世側の情報を整理し、盤面を確定させることが最優先事項となります」

 

 烏丸の声は、感情の起伏を綺麗に切り取った行政特有のトーンだった。

 

「佐久間様が具体的に何を失ったのか。宮野灯里様がなぜ、どのタイミングで行方不明になったのか。そして、あなたが旧地下街で発見した『純喫茶すばる』跡が、なぜこの事案の接続点(ハブ)になっているのか。本日はその三点の究明に絞ります」

 

「……いきなり敵のシステム(店舗)をハックしに行くのではなく、取引の全体構造(アーキテクチャ)を特定するということですね」

 

 悠真が深く頷くと、烏丸は短く同意を示した。

 

「その通りです。相手の土俵に踏み込む前に、こちら側で失われた資産の全容を把握しておかなければ、買い戻し(交渉)のテーブルにすら立てませんから」

 

 部屋の隅で、悠真の影から半身を乗り出していたジャグラズが、忌々しそうに舌打ちをした。

 

「記憶を扱う怪異ってのは、本当に面倒くせえんだよ、悠真」

 

「悪魔より厄介なのか?」

 

「ああ。俺たち悪魔は、人間の『欲望』を煽って魂を奪う。だが、あの店は人間の『後悔』や『逃避』を商材にする。人間が、自分から真っ暗な泥沼に手を突っ込んで、『どうかこれを持って行ってくれ』って泣きついてくるのを、綺麗な商売の顔をして受け取るんだ。だからこそ、契約としての正当性が強固になりやすい。悪質さのベクトルが違うんだよ」

 

 *

 

 防音設備の整った面談室。

 

 佐久間悠介は、パイプ椅子に背を丸めるようにして座っていた。

 

 目の下に濃い隈を作り、肌はカサカサに乾燥している。

 

 彼の状態は、単なる記憶喪失という枠には収まらない。

 

 脳の特定領域だけが、極めて外科的かつ冷酷な手段で「切り抜かれている」のだ。

 

 悠真は、佐久間を責めるような響きが出ないよう、できるだけ穏やかなトーンで語りかけた。

 

「佐久間さん。今日は、あの店に入る前、あなたが何に苦しんでいたのかをもう少しだけ詳しく教えてもらえませんか」

 

「……仕事のことだと思っていました」

 

 佐久間は、組んだ両手の指を白くなるほど強く握りしめ、ぽつりぽつりと話し始めた。

 

「あの時期、抱えていたプロジェクトが行き詰まっていて、連日深夜まで残業が続いていました。上司からは毎日のように責任を追及されて、本当に、息が詰まりそうで……。だから、あの怪しいネオンの看板を見た時も、俺はただ『この仕事の重圧から楽になりたい』と願って、店に入ったんだと思っていました」

 

 そこで、佐久間は顔を上げ、すがるような目で悠真を見た。

 

「でも、違うんです。仕事の記憶は、全部残っているんです。嫌だった上司の顔も、納期のプレッシャーも、作成中の企画書の内容も、何もかも頭にこびりついている。なのに……胸の奥の一番苦しい、ドロドロとしたところだけが、ポッカリと空っぽなんです」

 

 悠真は、相槌を打ちながら、佐久間の言葉の裏にある「構造」を頭の中で組み立てていた。

 

「結婚については、当時どう感じていましたか」

 

「……分からないんです」

 

 佐久間は、テーブルに置かれた結婚式場のパンフレットを見つめ、ひどく怯えたような表情を作った。

 

「このパンフレットを見ると、胸の奥が温かくなるような、それでいて、とてつもなく恐ろしいような手触りだけが蘇るんです。幸せになるはずだった……その実感の残骸だけがそこにあるのに、肝心の『誰と』結婚するのかという参照先が、どこにも存在しない」

 

(……原因を消したのではない。原因へと繋がるパス(経路)だけを切断したんだ)

 

 悠真は内心で、その悪辣な処理をITの構造に例えて理解した。

 

 仕事のストレスや結婚への重圧といった「エラーの原因」を修正するのではなく、その苦痛に直結していた『宮野灯里』という存在への認識(フロントエンドの表示)だけを強制的に隠蔽した。

 

 根本的なバグは放置されたまま、表面上だけ「楽になった」と錯覚させる、最悪のパッチ処理だ。

 

「佐久間さん。一つだけ確認させてください」

 

 悠真は、慎重に言葉を選んで尋ねた。

 

「『純喫茶すばる』という名前に、何か心当たりはありますか」

 

 その言葉が耳に届いた瞬間、佐久間の表情が劇的に変わった。

 

 彼の瞳孔が収縮し、呼吸が浅く、不規則になる。

 

 握りしめた手が小刻みに震え始めた。

 

「……知って、いる……気がします」

 

 佐久間は、頭を抱え込むようにして、うわ言のように呟き始めた。

 

「雨の音がする。……古い、ベルベットの椅子の感触。……焦げたコーヒーの匂いがして……俺は、そこで誰かを待っていた。いや、違う。俺が、待たせていた……? 赤い傘を持った、誰かを……」

 

 佐久間の顔色が、限界を超えたサーバーのように蒼白になっていく。

 

 悠真は即座に手を上げた。

 

「ここまでにしましょう。それ以上は思い出さなくていいです」

 

「でも、今、何か……すごく大事なことが……」

 

「無理に引き出すと、あなたの心が壊れます。思い出というものは、力任せに掘り返していいものじゃない」

 

 烏丸も横から静かに同意した。

 

「佐久間様、本日はここまでです。まずはゆっくり休んでください」

 

 面談室を出た後、影の中からジャグラズが低く囁いた。

 

「正解だ、悠真。傷口を素手で抉り広げるような真似はするな。あいつの精神(メモリ)は、もうギリギリだぜ」

 

 *

 

 次に向かったのは、現世の物証を確認するための、佐久間のマンションだった。

 

 烏丸の立ち会いのもと、悠真とジャグラズが足を踏み入れたその部屋は、都内のごく標準的な2LDKだった。

 

 精神的負荷を考慮し、佐久間本人はエントランスの車内で待機している。

 

 ドアを開けた瞬間、悠真の視界に飛び込んできたのは、あまりにも残酷な「二人暮らしの日常」だった。

 

 玄関のタイルには、綺麗に磨かれた男性用の革靴の隣に、小ぶりな女性用のスリッパがきちんと並べられている。

 

 キッチンシンクの横の水切りカゴには、色違いのペアのマグカップ。

 

 洗面台の鏡の裏には、男性用のワックスと並んで、女性用のヘアゴムや、半分ほど使われたフローラル系の香水の小瓶が置かれている。

 

 クローゼットの三分の一は、淡い色合いの女性物のワンピースやカーディガンで占められ、リビングの棚には、二人で行ったと思われる京都旅行の土産物の小法師が、仲良く二つ並んでこちらを見ていた。

 

 リビングの白い壁には、写真立てが掛けられていたであろう四角い日焼けの跡だけが、ぽっかりと残されている。

 

「……佐久間さんは、これらを捨てられないと言っていました」

 

 悠真が室内を見回しながら呟く。

 

「俺の部屋なのに、知らない誰かの生活が混ざっている。でも、捨てようとすると胸が痛い、と」

 

 悠真の感覚は、契約プログラムを通じた霊的な解析モードへと切り替わっていた。

 

 部屋全体に、ブツブツと引きちぎられた見えない糸のような反応が散乱している。

 

 生活の痕跡は完全に保持されているのに、家主の認識だけがそのデータにアクセスできないようにパーミッション(権限)を剥奪されている。

 

 記憶の消去ではない、明確な『縁の切断』だ。

 

 悠真は、ふと冷蔵庫の扉に目を留めた。

 

 可愛い猫のマグネットで留められた、一枚の手書きのメモ用紙。

 

 丸みを帯びた、丁寧な女性の文字だ。

 

『牛乳、卵、ねぎ。

 悠介、土曜日に指輪の受け取りに行くの、絶対に忘れないこと!

 遅れたら怒るからね!』

 

 悠真は、その文字列をじっと見つめた。

 

 佐久間はこのメモを見て、「俺の名前は読める。でも、これを誰が書いたのか、どんな声で怒るのかが浮かばない」と絶望していた。

 

『絶対に忘れないこと』と書かれたメッセージ。

 

 だが、彼はその指輪を渡すはずだった相手の存在そのものを、契約によって忘却させられてしまった。

 

 あまりにも皮肉で、悪意に満ちたエラーの残骸だ。

 

 悠真は、怒りとも悲しみともつかない重い感情を飲み込みながら、スマートフォンのカメラでそのメモを静かに撮影(スクラップ)した。

 

 *

 

 午後。

 

 ヤタガラス支部の面会室で、悠真たちは宮野灯里の母親である、宮野志津子と対面していた。

 

 五十代後半の志津子は、疲労と心労でやつれていたが、その瞳には佐久間に対する激しい怒りの火が燃えていた。

 

「……あの人は、灯里を忘れたと言うんですか」

 

 志津子は、握りしめたハンカチを震わせながら、烏丸と悠真を睨みつけた。

 

「娘が一週間も行方不明になっているのに、顔も名前も分からないなんて、そんな馬鹿な話があるわけがないでしょう! あの人が、結婚を前にして灯里を疎ましくなって、どこかへ隠したか……ひどい目に遭わせたに決まっています! 記憶喪失だなんて、逃げているだけです!」

 

 一般社会の論理(レイヤー)から見れば、志津子の怒りは当然の帰結だった。

 

 娘が消え、婚約者が「知らない」と主張する。

 

 そこには超常的な怪異の介入など微塵も想定されず、ただの身勝手な犯罪者としての佐久間悠介像しか映らない。

 

 悠真は、その怒りを否定することなく、真っ直ぐに受け止めた。

 

「そう思われるのは、当然だと思います。……ですが、佐久間さんの認識には、医学的にも説明のつかない、異常な『欠落』があるのは事実なんです。彼が嘘をついていると断定する前に、どうか、灯里さんがいなくなる前の足取りを、我々に確認させてください。彼女を見つけるための、重要な手掛かりになるんです」

 

 悠真の静かで真摯な態度に、志津子は少しだけ肩の力を抜き、目を伏せた。

 

「……灯里は、結婚をとても楽しみにしていました。ウェディングドレスのカタログを見ては、毎晩のように私に電話をしてきて……。でも、行方不明になる数日前、実家に戻ってきた時のあの子は、ひどく思い詰めたような顔をしていました」

 

 志津子の声が、微かに震える。

 

「あの子、『私、悠介と結婚して、本当に幸せになっていいのかな』って、急に言い出したんです。『私が幸せになった分、悠介や、他の誰かが不幸になるんじゃないか。私の存在が、彼の仕事や人生の重荷になっているんじゃないか』って……」

 

 悠真の背筋が、ピクリと反応した。

 

「……重荷に、ですか?」

 

「ええ。あの子は昔から、他人の顔色を窺って、自分が我慢すれば丸く収まると思い込むような、不器用なところがありましたから。あの時も、『何かを手放せば、みんな楽になるのかもしれない』と、虚ろな目で呟いていたんです」

 

 志津子は涙を拭い、決定的な証言を口にした。

 

「行方不明になったあの日。あの子は『昔の、懐かしい場所に行ってくる』と言って出かけました。……駅裏の、旧商店街の方面へ」

 

「……旧商店街に、何か懐かしい思い出があったんですか?」

 

「ええ。あの地下街にあった、『純喫茶すばる』です」

 

 繋がった。

 

 志津子の話によれば、灯里は子供の頃、旧地下街で親とはぐれ、酷い迷子になったことがあった。

 

 その時、暗い地下通路で泣きじゃくっていた彼女を見つけ、保護してくれたのが『純喫茶すばる』の店主だったという。

 

 母親が迎えに来るまでの間、灯里はすばるの片隅の席に座り、店主が入れてくれた甘いココアを飲んで不安を凌いでいた。

 

「あの子にとって、あの喫茶店は『怖い地下街の中で、自分を見つけてくれた場所』だったんです。だから、再開発で閉鎖された後も、『もう一度、あの店でココアを飲みたい』と、よく口にしていました」

 

 悠真の脳裏に、第11話で探索した異界の光景がフラッシュバックする。

 

 色褪せた看板。

 

 カウンターに座る影の客。

 

『あの日も雨だったね。覚えているかい。いつもの席で、君を待っていた』

 

 あれは単なる異界の残骸(ノイズ)ではなかった。

 

 灯里の過去の記憶と、佐久間との結婚前の約束が、幾重にも絡み合った『特異点(ターミナル)』だったのだ。

 

 *

 

 さらに調査を進めるべく、ヤタガラスは灯里の大学時代からの親友に接触し、その証言を録音データとして回収していた。

 

 会議室のスピーカーから、親友の涙交じりの声が再生される。

 

『灯里、結婚の直前、すごく悩んでたんです。……佐久間さんのことが嫌いになったわけじゃない。むしろ、大好きだからこそ、怖いって。自分みたいな人間が、彼を縛り付けて幸せになっていいのか分からないって……』

 

 音声のノイズ越しに、親友の震える息遣いが聞こえる。

 

『……行方不明になる前日の夜、灯里から電話がありました。冗談みたいな、明るい声でしたけど……今思うと、あれは……。「もし、私が私のままでいられなくなったら。みんなの記憶から消えちゃったら、悠介は私を、ちゃんと見つけてくれるかな」って……』

 

 録音が終わり、会議室に重苦しい沈黙が落ちた。

 

 事件の構造が、単なる「逃避」から、さらに一段深い悲劇へと変貌した瞬間だった。

 

 灯里は、単に一方的な被害者として怪異に巻き込まれたわけではない。

 

 彼女もまた、自身の「自己否定」という脆さを突かれたのだ。

 

「……両方、やられてるな」

 

 ジャグラズが、忌々しそうに腕を組んで言った。

 

「佐久間は、プレッシャーと苦しみから逃げるために記憶を売った。だが、灯里という女は、『自分が彼の負担にならないようにしてほしい』と願って、自分自身の存在証明を売っぱらったんだ。店は、その両方の『後悔』を買い叩いた。最悪の商売だ」

 

 烏丸が立ち上がり、ホワイトボードに情報を整理(マッピング)し始めた。

 

 途中から、次回の異界突入のバックアップとして要請を受けた炎堂朱音も合流し、腕を組んでボードを見つめている。

 

「現時点の仮説を整理します」

 

 烏丸のマーカーが、図式を描いていく。

 

「仮説1。佐久間悠介は、『結婚にまつわる苦しみ』を売った。その結果、苦しみの中心にあった宮野灯里への認識と縁を剥奪された」

 

「仮説2。宮野灯里は、『自分が重荷にならないこと』を願った。結果、現世における自身の存在権を喪失し、異界へ引き込まれた」

 

「仮説3。二人の記憶と約束は、『なんでも買います』の店舗に商品として保管されている。ただし、その入口への接続点(ルーティング)は、純喫茶すばるに残された待ち合わせの記憶である」

 

「仮説4。御門様が回収した空の指輪箱は、その約束への導線(パス)である。だが、無防備に開ければ、使用者自身が異界に引き込まれる危険性が高い」

 

 烏丸はペンを置き、悠真と朱音を見据えた。

 

「次に旧地下街へ突入する場合、目的は『なんでも買います』への直接攻撃ではありません。まずは、純喫茶すばるの内部を徹底的に調査し、そこに残る記憶のログから、二人が交わした取引の正確な内容(契約条件)を特定する。その上で、買戻し(ロールバック)の交渉が可能かどうかを判断します」

 

 朱音が、耐火ジャケットのポケットに手を入れて鼻を鳴らした。

 

「つまり、今回は最初から店を燃やしに行くわけじゃないのね」

 

「それは最終手段です。店を燃やせば、保管されている記憶のデータごと焼失する可能性がありますから」

 

「分かってるわよ。冗談半分」

 

「半分は本気ですよね、朱音様」

 

「相手の態度次第ね」

 

 朱音は肩をすくめ、悠真の方を向いた。

 

「行くなら、あたしが火力(ランタン)と退路の確保をやる。記憶のサルベージには、ヤタガラスの記憶系専門班か、神職の結界担当も必要ね。……悠真。あんたは後ろで、お守りスマホを握りしめて、契約の条件をじっくり読むのよ。絶対に、無理に思い出させるような強引なデバッグはしないこと。それでいい?」

 

「……はい。まずは、取引の構造の確認です」

 

 悠真は、確かな決意を込めて頷いた。

 

 *

 

 調査の締めくくりとして、悠真はもう一度だけ、佐久間に面会した。

 

 彼に無理な精神的負荷をかけないよう、時間は五分に限定した。

 

「佐久間さん。一つだけ、確認させてください。『純喫茶すばる』の記憶について、何か思い出せることはありますか」

 

 佐久間の顔が、再び苦痛に歪む。

 

「……雨の音。……赤い傘。……ココアじゃなくて、あいつは……コーヒーを頼んで……」

 

「……」

 

「いつもの席。……待たせたのは、俺の方だ……。俺が、指輪を……」

 

 佐久間が頭を抱え、呼吸が過呼吸のように乱れ始めた瞬間、悠真は即座にスマートフォンの画面を伏せ、対話を打ち切った。

 

「もういいです。佐久間さん、深呼吸してください」

 

「でも、今なら、もう少しで……!」

 

「駄目です。これ以上は、あなたの心が壊れる」

 

 悠真は、佐久間の肩に静かに手を置き、はっきりとした声で告げた。

 

「取り戻すなら、無理やりこじ開けるのではなく、正しい順番を守ります。……少しだけ、時間をください」

 

 悠真は、壊れたシステムのログを無理やり走らせてクラッシュさせるような、三流のエンジニアにはなりたくなかった。

 

 問題を見える場所に戻し、原因を特定し、壊さずに直す。

 

 それが、彼の知る唯一の「正しい仕事」だった。

 

 *

 

 帰り道。

 

 夕暮れの迫る住宅街を歩きながら、ジャグラズが珍しく真面目な声色で悠真に問いかけた。

 

「なあ、悠真。……本当に戻すのか?」

 

「……佐久間さんの記憶をか?」

 

「ああ。記憶を戻したら、あいつはまた苦しむことになるぞ。仕事の重圧も、結婚への不安も、そして何より、灯里って女を傷つけ、自分の手で売ってしまったという絶望的な罪悪感も、全部一緒に戻ってくるんだ。……灯里だってそうだ。自分が重荷だと思って消えることを望んだ女だ。現世に戻ったところで、また同じ自己否定のループに落ちるかもしれない」

 

 ジャグラズは、赤い目を細めて悠真を覗き込んだ。

 

「それでも、戻すのが『正しい処理』なのか?」

 

 怪異を倒してハッピーエンド、という単純な物語ではない。

 

 記憶を取り戻すことが、人間にとって本当に救いになるのか。

 

 悪魔からの、極めて論理的で冷酷な問い。

 

 悠真は、足を止め、夕焼けに染まる空を見上げた。

 

「……楽になることと、幸せになることは、違うと思う」

 

「……」

 

「苦しみを消しただけでは、システムのエラーは解決していない。大事なコード(記憶)ごと削除して、表面上だけ動いているふりをするなんて、それは修復じゃなくてただの『隠蔽』だ。……少なくとも、今の佐久間さんは、自分の内側にある『空白』を心底怖がっている。灯里さんだって、本当に自分が消え去ることを望んでいたとは思えない。あの『見つけてくれるかな』という言葉が、その証拠だ」

 

 悠真は、ジャグラズに視線を戻し、明確な意志を持って答えた。

 

「だから、俺は彼らを『選べる状態(初期状態)』に戻す。……記憶を取り戻した上で、その苦しみと向き合って、それでも二人が別の道を選ぶなら、それは二人の自由な選択だ。だが、自分が何を失ったのかすら分からないままでは、選ぶことすらできない」

 

 祖父が語っていた、万能召喚術の思想。

 

 それは、神や悪魔を力でねじ伏せる術ではなく、それぞれの存在と向き合い、役割を与え、世界に居場所を作るための術だった。

 

 今回向き合うのは、強力な悪魔でも巨大な妖魔でもない。

 

 人間が捨てた記憶。

 

 売られた約束。

 

 自己否定から生まれた、哀しい空白。

 

(……これも、居場所を失った『エラー』だ。なら、戻すべき場所を探してやるのが、召喚師(俺)の仕事なんだろうな)

 

 悠真の中で、自身の役割の軸が、静かに、そして強固に定まっていくのを感じていた。

 

 *

 

 夜。

 

 御門家の書斎。

 

 悠真は、ノートPCに向かい、次回の異界突入に向けた詳細な作戦メモ(デプロイメント・プラン)を作成していた。

 

【次回目的:旧地下街再突入・純喫茶すばる調査】

 

 ・純喫茶すばる跡に残る記憶ログの回収と確認。

 

 ・佐久間悠介と宮野灯里の『待ち合わせの記憶』の特定。

 

 ・「なんでも買います」への直接接触は厳禁(アクセス回避)。

 

 ・宮野灯里本人の存在痕跡を検知した場合、保護方針への移行を検討。

 

【同行者】

 

 ・御門悠真(契約管理・解析担当)

 

 ・炎堂朱音(前衛・火力・退路確保担当)

 

 ・ヤタガラス記憶系補助員

 

 ・ジャグラズ(危険察知・悪魔的直感担当)

 

 ・塵霊隊(少数運用による索敵担当)

 

 キーボードを叩いていると、スマートフォンの画面がふわりと光り、すみかからの通知がポップアップした。

 

『ゆうま』

 

『思い出って、こわい?』

 

 悠真は、少しだけ考えてから、音声入力で返した。

 

「……怖いな」

 

『でも、ないと、さみしい?』

 

「……たぶん、そうだ」

 

 足元の影からは、塵霊隊の微かな囁きが聞こえてくる。

 

『ちり、さがす』

 

『なくしたもの、さがす』

 

『すばる、いく?』

 

『でぐち、まもる』

 

「首突っ込む気満々だな、お前」

 

 ジャグラズが、窓枠から呆れたように言った。

 

「準備(シミュレーション)をしてるだけだ」

 

「人間はそう言って、だいたい後戻りできない深みに嵌っていくんだよ」

 

「今回は、深みに行くしかないバグだからな」

 

「……なら、帰り道だけは絶対に忘れるなよ。お前が消えたら、俺のクッキーの供給源が絶たれるからな」

 

「ああ。そこは絶対に忘れない」

 

 売られた記憶を取り戻すことが、二人にとって本当に救いとなるのか、悠真にはまだ分からない。

 

 それでも御門悠真は、二人がもう一度、自分たちの痛みを選び直せるようにするため、純喫茶すばるへの再突入の準備を、静かに進め始めた。




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