元ITエンジニアの俺、祖先の召喚術から召喚プログラムを組み上げて神も悪魔も従える   作:パラレル・ゲーマー

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第14話 純喫茶すばる、雨の記憶

 内閣府特異事象管理連絡室・都内支部の地下会議室は、現世のあらゆる電磁波や霊的ノイズを完全に遮断する防護壁に囲まれ、潜水艦の底のような静寂が保たれていた。

 

 デスクの白木の上に広げられたのは、昨夜悠真が命懸けで持ち帰った旧商店街地下通路の探索ログと、ヤタガラスのデータベースから抽出された宮野灯里に関する生活記録の数々だ。

 

 烏丸蓮司は、いつも通り皺一つないスーツの袖口を整えながら、眼鏡の奥の目を悠真へと向けた。

 

「御門様。本日の再突入におけるタクティカル・ミッション(作戦目的)は三点です。第一に、純喫茶すばる跡に残留している宮野灯里様の『幼少期の記憶残滓』の回収。第二に、佐久間様との間で交わされた『待ち合わせの記憶』の特定。そして第三に、それらのデータがどのようにして、あの『なんでも買います』への接続ゲートへと変換されたのか、その条件の解釈です」

 

 烏丸は手元のタブレットの画面をスワイプし、警告を示す黄色いマーカーを表示させた。

 

「なお、重ねて警告いたしますが、あの『店舗の形をした怪異』への直接的な接触・突入は、今回も一切許可しません。あくまで、喫茶店の奥に現れるという『扉』の確認とスキャンまでです」

 

「……出てきたらどうするのよ。烏丸さん」

 

 デスクに両肘を突き、不機嫌そうに髪の毛を弄っている炎堂朱音が、低く鋭い声で割り込んだ。

 

 彼女の黒い耐火ジャケットの袖口からは、早くも微かな熱気が陽炎のように立ち上っている。

 

「撤退です。炎堂様」

 

「相手が最初からあたしたちをハメる気満々で、その『扉』の中から灯里さんの魂(オブジェクト)を完全に引きずり込もうとしたら? それでも尻尾を巻いて逃げろって言うわけ?」

 

「現時点では、あの店に干渉している『赤い傘の女』の正体も、その攻撃ルーチンも未確定です。戦闘リソースの全容が分からない以上、正面衝突(交戦)は避けるのが、ヤタガラスのガバナンス(安全基準)です」

 

「……ちっ。お堅い役所仕事だこと」

 

 朱音は手袋を嵌めた拳を握りしめ、ふんと鼻を鳴らした。

 

「じゃあ、燃やす準備だけはしておくわ。相手がルールを破ってこっちの退路(ポート)を塞いできたら、あたしのサラでその『傘』ごと消し炭にしてやるから」

 

「喫茶店の内部では、絶対に強い火は使わないでください。炎堂様」

 

 朱音の言葉を遮るように、静かで、冷徹なまでの落ち着きを持った声が会議室に響いた。

 

 声の主は、今回ヤタガラスの専門班から臨時のオブザーバー(補助員)として同行することになった女性――真柴環(ましばたまき)だった。

 

 年齢は二十代後半から三十代前半ほど。

 

 ヤタガラスの事務用制服の上に、薄手のグレーのカーディガンを羽織り、髪を後ろで低く一つに結んでいる。

 

 その佇まいは、前線で怪異を叩き潰す朱音とは対照的に、戦うための力を一切感じさせない。

 

 だが、彼女がデスクの上に置いた、古い銀の鈴と、複雑な紋様が刻まれた幾枚もの『記憶栞(しおり)』からは、悠真の召喚プログラムすら一瞬処理が遅れるほどの、濃密な精神エネルギーのログが放出されていた。

 

「記憶というものは、現世に残された綺麗な証拠品(ログファイル)ではないのです。それは、空間と魂に刻み込まれた、生々しい『傷跡』そのもの。そこに朱音様のような大火力を不用意にぶつければ、ノイズを焼き払う前に、記憶のデータそのものが熱で融解し、二度と復元できなくなります」

 

 環は、眼鏡の位置を指先で微かに直し、悠真のスマートフォンを見つめた。

 

「私は、その傷跡に溜まった残響を安全に読み解き(パースし)、周囲に一時的な映像として投影(デプロイ)するだけです。中の中を歩き、正しい選択肢を選ぶのは、御門様……あなたのシステム(論理)です。無理をせず、一歩一歩の負荷を計測しながら進みましょう」

 

「……分かりました。真柴さん。リスク管理は俺の本職です」

 

 悠真は頷き、スマートフォンの画面を起動した。

 

 画面には、昨夜の致命的なエラー(アラート・ストーム)を完全にリファクタリングした、新しい『SRM Ver 1.1』の異界探索画面が表示されている。

 

 表示項目は、徹底的に削ぎ落とされていた。

 

【退路マーカー(脱出ルート):常時最優先表示】

 

【危険反応(エマージェンシー):レッドアラート層】

 

【記憶負荷(メモリア・ストレス):真柴環のデバイスと同期中】

 

 前回の失敗で学んだ。

 

 異界という過酷な現場(本番環境)において、情報は多ければいいというわけではない。

 

 使役存在たちの些細なステータスや、すみかからの雑談通知(プライベート・メッセージ)といった低プライオリティのパケットをすべて『保留(ミュート)』に設定したことで、画面の視認性は劇的に向上していた。

 

(よし。これで、どんな突発的な割り込み(インタラプト)が発生しても、退路の緑色のラインだけは見失わずに済む)

 

 悠真が内心でシステムをチェックしていると、影の底からジャグラズが顔を出した。

 

「おい、本当にあのクソ精霊(すみか)の通知、消しちまったのかよ。生きて帰ったら、あいつのヒステリックな通知で画面が埋め尽くされるぞ」

 

「緊急のシステムエラー以外は、すべてログに残る設計にしてある。生きて帰ってから、溜まったパケットをまとめて処理(デバッグ)すればいい。……死んだら、謝ることもできないからな」

 

「へーへー、相変わらず血も涙もない管理者様だこと。……さぁ、お役所のブリーフィングは終了だ。外じゃあ、あいつの『雨』が降り始めてるぜ?」

 

 *

 

 地上に出ると、都心の夜空からは、予報にない細かい小雨がしとしとと降り注いでいた。

 

 アスファルトが黒く濡れ、街灯の光を鈍く反射している。

 

 悠真たちが向かったのは、あの閉鎖された雑居ビルの裏手にある、錆びついたシャッターの前だ。

 

 朱音は、雨粒を耐火ジャケットのフードで弾きながら、忌々しそうに空を仰いだ。

 

「嫌な天気ね。まるで、向こうがこっちの予定をハッキングして、舞台を整えて待ってたみたいじゃない」

 

「怪異というものは、現世のこういう『不確定な偶然(気象条件)』を足場にして、自分の領域の隠蔽率(ステルス)を引き上げるのですよ」

 

 真柴環が、ビニール傘を差しながら静かに告げた。

 

 朱音が、腰の火打石型の触媒を取り出し、シャッターの鍵穴へ向けてカチリと火花を散らす。

 

 だが、今回の挙動は前回とは明らかに異なっていた。

 

 火花が鉄板に触れた瞬間、シャッターの隙間から『ザー……』という、地下にあるはずのない、激しい雨音の残響が、冷たい空気と共に溢れ出してきたのだ。

 

 悠真のポケットの中で、スマートフォンが強く、短く三回震えた。

 

【境界反応を検出:旧商店街地下通路・小異界(Ver 1.1)】

 

【環境バグを検知:地下領域における『雨音波形』の混入】

 

【警戒オブジェクト:赤い傘 / 迷子判定 / 帰路の動的改変】

 

「……モード切り替えを確認。朱音さん、中から雨の匂いがします」

 

「向こうも、あたしたちが『バグを消しにきた』ことに気づいてるのよ。……行くわよ。サラ、灯りをお願い」

 

 朱音がシャッターを押し上げると、彼女の肩から顕現した火蜥蜴(サラ)が、小さな火花をパチパチと散らしながら、階段の下の暗闇を照らし出した。

 

 悠真はスマートフォンを片手にホールドし、今回は塵霊隊の中から、索敵性能と環境耐性の高い五体(DS-001〜005)だけを厳選して影から投入(デプロイ)した。

 

【塵霊隊:索敵巡回(スカウトモード)を開始】

 

『ゆうま……みず、つめたい……』

 

『ちりが濡れて、重くなっちゃう……』

 

『赤い……奥のほうに、赤いものがみえるよ……』

 

 階段を降りきった先、そこに広がっていた地下通路は、前回の探索時よりも明らかに「変質」していた。

 

 コンクリートの床には、天井から滴り落ちるはずのない水滴が、あちこちに浅い水たまりを作っている。

 

 両側に並ぶ靴屋や玩具屋のシャッターは、水分を吸って黒ずみ、いくつかの看板の文字は、まるで水に濡れたインクのように不自然に滲んで読めなくなっていた。

 

 遠くの闇の奥から、ザー……という、激しい雨の音が、反響を伴って波のように押し寄せてくる。

 

「……ここから先は、空間のメモリが宮野灯里様の『記憶』によって上書きされています」

 

 真柴環が、手に持っていた銀の鈴をチリン、と静かに鳴らした。

 

 鈴の音波が空気の分子と衝突した瞬間、通路のあちこちから、一般人には見えない透明な「糸」のような霊的ラインが浮かび上がり、それらがすべて、通路の奥へと一本の導線となって伸びていった。

 

「現実の地下街の構造は、すでに崩壊しています。今のこの通路は、彼女が子供の頃に迷い込んだあの日の『恐怖と未練』が形作った、動的なダンジョン。……御門様、スマホの地図を過信しないでください。向こうは、こちらの退路をいつでも書き換える準備をしています」

 

「了解です。塵霊隊の足跡ログと、真柴さんのラインを常時照合(クロスチェック)しながら進みます」

 

 悠真は画面を伏せ、自分の目をしっかりと前方の暗闇へと向けた。

 

 画面を見るのは最小限。

 

 朱音の教えを、彼は忠実に実行していた。

 

 *

 

 通路を曲がった先。

 

 前回は様々な店舗を通り過ぎた後にようやく辿り着いたはずの『純喫茶 すばる』の看板が、今回は、まるで通路そのものが彼らを誘い出すかのように、目の前に唐突に現れた。

 

 周囲の他の店は、まるで解像度の低い背景のように薄く霞んでいるのに、すばるの割れたネオン看板だけが、やけに鮮やかな橙色の光を放って、チカチカと点滅している。

 

 ショーケースの中に並ぶ、食品サンプルのコーヒーとココア。

 

 その表面には、現世の雨と同じ水滴がびっしりと付着していた。

 

「……完全に、インバウンド(呼び込み)がかかってるわね」

 

 朱音が、ジャケットのポケットから手を出し、サラの火力をわずかに強めた。

 

「罠(トラップ)の可能性が高いですが、ここが目的地であることも間違いありません。入るしか、ないですね」

 

「ええ。だけど、店そのものにアクセス権(魂)を乗っ取られないように気をつけなさいよ、悠真」

 

 朱音が扉のドアノブに手をかけるより先に、チリン……と、乾いたドアベルの音が店内に響き渡った。

 

 誰も触れていないはずの重い木製の扉が、ギギギ……と不器用な音を立てて、自ら半分だけ開いたのだ。

 

 中から溢れ出してきたのは、濃厚に焦げた珈琲の匂いと、それらを包み込むような、ひどく甘くて温かいココアの匂い。

 

 ――そして、衣服が雨に濡れた時の、あの独特の生冷たい湿気だった。

 

【地点:純喫茶すばる 内部への侵入を確認】

 

【記憶濃度:最大値を検出(システム負荷:注意レベル)】

 

【バグの重複:『幼少期の迷子記憶』と『成人期の待ち合わせ記憶』が同一の空間で並行処理されています】

 

 悠真が室内に足を踏み入れると、そこは昭和の面影を色濃く残した、セピア色の空間だった。

 

 深い緑色のベルベットが張られた木製の椅子。

 

 使い込まれて角が丸くなった茶色いテーブル。

 

 カウンターの奥には、埃を被ったガラスのサイフォンが並び、壁には色褪せた星座のポスターが貼られている。

 

 窓の外は、地下通路のはずなのに、なぜか激しい雨が降りしきる現世の夜の路地が、歪んだガラス越しに映し出されていた。

 

 その店内の、二つの席だけが、不自然なほどの存在感(霊圧)を放って、そこに固定されていた。

 

 一つは、部屋の最果て、壁際の暗がりにぽつんと置かれた、小さな一人用のテーブル(席A)。

 

 その上には、中身が乾ききって黒い輪だけが残った、子供用のココアカップが置かれている。

 

 もう一つは、窓際の、雨の夜道が一番よく見える二人用のボックス席(席B)。

 

 そこには、二つの空のコーヒーカップが並び、片方の縁には、色褪せた口紅の跡が残されていた。

 

 そしてテーブルの下の床には、昨日悠真が『空の指輪箱』を回収したあのポイントが、黒い染みとなって不気味に浮かび上がっていた。

 

「……まず、子供時代の席(席A)から解析を始めます」

 

 真柴環が、静かな足取りで壁際の席へと歩み寄り、手元から幾枚もの『記憶栞』を取り出して、ココアカップの横へとそっと並べた。

 

「ここが、宮野灯里様が最初に『赤い傘の女』と接触し、現世の因果を歪められかけた、すべてのエラーの起点(ソース)です。……御門様、ジャグラズ様、朱音様。鈴を鳴らします。周囲の景色(記憶のホログラム)が変わりますが、決して、その中の存在に声をかけたり、干渉しようとしないでください」

 

 環が銀の鈴を、強く、一回だけ振った。

 

 リーン……という、澄んだ音が店内に浸透していく。

 

 次の瞬間、ベルベットの椅子の色が急速に色褪せ、店内の壁紙が、まるで水に濡れた紙のようにベリベリと剥がれ落ちていった。

 

 悠真たちの周囲の空間が、激しいデジタルノイズのようにブレ始め、そこに「あの日」の光景が、立体的な映像となってデプロイされた。

 

 *

 

 ザー……という、激しい雨の音が、部屋の全方位から響いてくる。

 

 薄暗い地下通路。

 

 そこに、一人の小さな女の子が立ち尽くし、激しく泣きじゃくっていた。

 

 年齢は小学生に上がるか上がらないか。

 

 現在の面影を色濃く残した、幼い頃の宮野灯里だ。

 

 彼女は、ずぶ濡れになった細い身体を震わせ、ほどけた片方の靴紐を踏みつけながら、誰もいないシャッター街の暗がりを、彷徨うように歩いていた。

 

「……おかあさん、……おかあさん、どこ……? くらいよ、さむいよぉ……」

 

 子供の、張り裂けんばかりの悲鳴。

 

 悠真は、思わず一歩を踏み出しそうになったが、隣に立つ環が、彼のジャケットの袖を強い力で掴んで制止した。

 

「ダメです、御門様。これは過去の再生(リードオンリー・データ)。あなたはただの観測者です。声をかけた瞬間、あなたの魂がその記憶のループの中に同期され、二度と現在の時間に戻れなくなります」

 

 悠真は奥歯を噛み締め、指先をスマートフォンに食い込ませて足を止めた。

 

 幼い灯里が、泣きながら通路のさらに暗い奥へと進んでいく。

 

 その先――通路の曲がり角の影から、一本の『真っ赤な傘』が、静かに開いた状態で、滑るように現れた。

 

 地下通路の内部。

 

 雨など一滴も降っていないはずの空間なのに、その赤い傘の表面だけは、まるで現世の豪雨を浴びているかのように、激しく水滴を弾いて濡れ光っていた。

 

 傘の下から、遮られた声が響く。

 

 それは、ひどく優しく、母親のそれにも似た、しかし魂の根底を凍らせるような、歪んだ温かさを持った女の声だった。

 

「……迷子なの? かわいそうに」

 

 傘が不自然に傾く。

 

 しかし、その内側の「顔」は、濃い影によって塗り潰されたように、どれだけ目を凝らしても見ることができない。

 

 白く、細い、人間のものとは思えない生気のない手だけが、傘の柄を握りしめていた。

 

「もう泣かなくていいよ。……あたしが、迎えに来てあげたから。あなたの帰る場所は、現世(あっち)じゃない。……この傘の中。暗くて、静かで、誰もあなたを置いていかない、ここがあなたの本当の『お家』だよ」

 

 女の手が、幼い灯里に向かって、ゆっくりと伸ばされる。

 

 灯里は、恐怖と、それ以上の「誰かに見つけてもらえた」という安堵の欲求に支配され、ふらふらと、その赤い傘の影(デッドライン)へと足を一歩、踏み出そうとした。

 

【システム警告:危険反応(迷子判定の書き換え)を検出】

 

【オブジェクト:宮野灯里(幼少期データ)】

 

【干渉ログ:赤い傘の内側への侵入を検知。入った瞬間、対象の現世への帰属権(戸籍・存在証明)が異界側へと完全移転(強制デリート)されます】

 

「……迷子を助けるんじゃない。親切な顔をして、帰るべき場所の定義(仕様)を、中から書き換えようとしてるんだ」

 

 悠真は、背筋に冷や汗を流しながら呟いた。

 

「ケッ。最悪の手口だな」

 

 ジャグラズが影の中で牙を剥く。

 

「悪魔の俺たちなら『お前の魂をくれ』って交渉するが、あいつは違う。最初から『ここは最初からお前の家だよ』って、記憶の根底をハッキングしてやがるんだ。引っかかったら一瞬で終わりだぜ」

 

 灯里の小さな靴が、傘の縁の影をまたごうとした、まさにその瞬間だった。

 

 チリン……と、乾いたドアベルの音が、記憶の映像を激しく震わせた。

 

「お嬢ちゃん。そっちは、出口じゃないよ」

 

 古びたエプロンを身に纏った、一人の老人が、暗闇の中から割って入ってきた。

 

 顔のパーツは不鮮明だが、その手には、湯気を立てる温かい『ココアのカップ』が握られていた。

 

 純喫茶すばるの、当時の店主だ。

 

「お母さんを待つなら、あそこの温かい店内で待ちなさい。こんな冷たい雨の中にいたら、身体が凍ってしまう。……さぁ、おじさんと一緒に、ココアでも飲んで待とう」

 

 店主の老人が、灯里の小さな手をがっしりと握りしめ、自分の店の方へと引き戻した。

 

 その瞬間、通路に佇んでいた赤い傘の女の動きが、不自然に静止した。

 

 傘の下の暗闇から、ピキピキとガラスが割れるような、ひどく冷徹な声が漏れ出す。

 

「……その子は、迷子よ。あたしが、最初に見つけたの。あたしの、商品(コレクション)よ」

 

「迷子なら、なおさら大人が警察に引き渡すまで保護するものだ」

 

 老店主は、灯里を背中に隠し、毅然とした態度で赤い傘を見据えた。

 

「母親は必ず来る。この子は、現世(あっち)に帰るべき存在だ。あなたの入る隙間はない」

 

 長い、凍りつくような沈黙の後、赤い傘の女は、ゆっくりと一歩、後退(ロールバック)を始めた。

 

 だが、通路の闇へと消え去る直前、彼女の裂けたような声が、未来の時間を呪うように響き渡った。

 

「……じゃあ、また今度ね。灯里ちゃん」

 

 傘が、ゆらりと揺れる。

 

「大人になって、また自分の『帰り道』が分からなくなった時。誰も自分を見つけてくれないって、一人で泣く日が来たら。……その時は、今度こそ、あたしが迎えに来てあげるからね」

 

 リーン……! と、真柴環の鈴の音が再度響き、ホログラムの映像は、砂のように崩れて消滅した。

 

 *

 

 元の、セピア色の純喫茶すばるの店内に戻ってきた。

 

 室内の温度は、先ほどの記憶の熱量によって数度低下しており、悠真は自分の呼吸が白くなっていることに気づいた。

 

「……胸糞悪い怪異ね」

 

 朱音が、ジャケットのポケットの中で拳を固く握りしめ、サラの火力を微弱に爆ぜさせた。

 

「子供の迷子を助ける顔をして、その実、現世から存在を掠め取ろうとしてたわけ。……あいつ、次に目の前に現れたら、絶対に許さない。そのクソ長い黒髪ごと、あたしの炎で焼き尽くしてやる」

 

「まだダメです。炎堂様」

 

 真柴環が、トレイの上の『記憶栞』を慎重に回収しながら、厳しい声で釘を刺した。

 

「この時点で、宮野灯里様の魂には、あの赤い傘の女との『迎えの予約(未練の導線)』が、一本の太い光ファイバーのように接続されたまま残ってしまっているのです。すばるの店主は、あの時彼女を一時的に保護(隔離)したに過ぎない。根本的なバグは、彼女の魂の中にずっと眠っていたのです。……だから、大人になって、佐久間様との関係に行き詰まって『自分の居場所がない』と思った瞬間に、あの予約が強制実行(発動)されてしまった」

 

「……子供の頃の迷子を、大人になってから回収しにきた、ってわけか」

 

 悠真は、スマートフォンの画面のログを見つめた。

 

「最悪の遅延処理(タイマー・バグ)だな。……じゃあ、次だ。二つ目の席(席B)、佐久間さんとの待ち合わせの記憶を解析する」

 

 悠真たちは、窓際の二人用のボックス席へと移動した。

 

 環が、空のコーヒーカップの前に新しい栞を置く。

 

 チリン……。

 

 今度は、窓の外の雨音が、激しい豪雨の音へとボリュームを上げた。

 

 店内の照明が一段明るくなり、そこに、大人になった佐久間悠介と宮野灯里の姿が、立体的な映像(インスタンス)として顕現した。

 

 再開発による閉鎖が数日後に迫った、かつての『純喫茶 すばる』の、最後の雨の日の記憶だ。

 

 灯里の手元には、あの『真っ赤な傘』が置かれていた。

 

 だがそれは怪異の品ではない、駅前の売店で買った、ごく普通の市販の傘だ。

 

 彼女は、窓の外の雨を見つめながら、ひどく寂しげな表情でコーヒーカップを弄んでいた。

 

 カチャリと扉が開き、肩を激しく濡らした佐久間が、息を切らせて店内に飛び込んできた。

 

「ごめん! 灯里! プロジェクトの緊急トラブルで抜け出せなくて、一時間も遅刻した!」

 

「……ううん。大丈夫だよ。悠介、お仕事お疲れ様」

 

 灯里は、優しく微笑んだ。

 

 しかし、その笑顔の裏には、自分を納得させるための、ひどく無理を強いた諦念の色が混ざっていた。

 

 佐久間は席に座るなり、カバンから結婚式場の分厚い資料を広げ、忙しそうにペンを走らせた。

 

「式場の見積もりの件だけどさ、やっぱりこっちのプランの方が予算内に収まると思うんだ。灯里はどう思う?」

 

「……ええ。悠介が良いと思う方で、私は構わないよ」

 

「本当に? 無理してないか?」

 

「大丈夫。……大丈夫だよ」

 

 灯里は目を伏せ、自分の細い指を見つめた。

 

「……大丈夫って言う人ほど、本当に限界の時は大丈夫じゃないんだよ。悠介、最近、私の顔を見るたびに、すごく疲れた顔をしてる。……私と結婚することが、あなたの人生の『お荷物』になってるんじゃないかなって、時々、すごく怖くなるの」

 

「そんなわけないだろ! 俺は灯里を幸せにするために、毎日必死に働いてるんだ!」

 

 佐久間は、笑って彼女の言葉を否定した。

 

 だが、その声には、自分自身の余裕のなさを誤魔化すための、トゲのような響きが混ざっていた。

 

 彼は、彼女の言葉の裏にある「私を見つけて、私を安心させて」という本心(シグナル)を、仕事のノイズにかき消されて、完全に読み落としていたのだ。

 

「……ねえ、悠介。もし、私が明日、突然いなくなっちゃったらどうする?」

 

「急に何を言うんだよ。縁起でもない」

 

「もしもの話だよ」

 

「……探すよ。当たり前だろ」

 

「見つからなかったら?」

 

「見つかるまで、何年かかっても探し続ける。……俺には、灯里しかいないんだから」

 

 佐久間は、彼女の手を握りしめようとした。

 

 その瞬間、彼のポケットの中で、スマートフォンの着信音がけたたましく鳴り響いた。

 

 会社からの、緊急の障害報告(アラート)だ。

 

「……あっ、クソ、また仕事だ。……ごめん、灯里、一分だけ外で電話受けてくる!」

 

 佐久間は席を立ち、店の外へと走り去っていった。

 

 残された灯里は、一人、冷めかけたコーヒーカップを見つめ、静かに涙をこぼした。

 

「……嘘つき。私のこと、見てくれてないじゃない……」

 

 その時。

 

 激しい雨が打ち付ける窓ガラスの向こう側。

 

 暗い雨の夜道の中に、あの『真っ赤な傘』を差した、顔のない女の影が、じっと佇んで彼女を見つめていた。

 

 灯里だけが、その視線(バグ)に気づき、吸い寄せられるように窓に顔を近づけた。

 

 ガラスを透過して、女の優しい、しかし脳髄を直接汚染するような囁きが店内に響き渡る。

 

「……ほらね、灯里ちゃん。あたしの言った通りでしょ」

 

 女の手が、ガラスの向こうから、彼女の影を撫でるように動く。

 

「あなたは、あの人の人生の『お荷物』なのよ。あなたがそこにいるだけで、あの人はどんどん擦り切れて、壊れていく。……あなたが自分からその『約束(指輪)』を捨てて、あの人の記憶から消えてあげれば、あの人はすべての苦しみから解放されて、楽になれるの。……さぁ、お家へ帰ろう。誰もあなたを待たせない、あたしの傘の中へ……」

 

 灯里の双眸から、完全に生気の光が失われていった。

 

「……うん。私が消えれば、悠介は、楽に、なれる……」

 

 彼女は座卓の下に、自分の持っていた『婚約指輪の箱』を静かに落とした。

 

 中身の約束を、その場に放棄(デリート)したのだ。

 

 直後、店内の景色が激しく歪み、佐久間の顔がデジタルノイズのように乱れて、ホログラムの映像は完全にバースト(破綻)して消滅した。

 

 *

 

【システム警告:深刻な記憶汚染(メモリ・リーク)を検出】

 

【外的干渉:赤い傘の女による、宮野灯里への精神ハッキングを確認】

 

【判定:彼女は店に行く前から、自己否定のロジックを限界まで増幅(バースト)させられていた】

 

 悠真は、スマートフォンの画面に流れる赤文字のログを、奥歯を鳴らしながら見つめた。

 

「……最初から、仕組まれてたんだ。二人の心のすれ違いのノイズに滑り込んで、お互いを思いやる気持ち(愛情)そのものを、自己否定のバグに変換して、自分から店(なんでも買います)へ行くように背中を押していたんだ……!」

 

「あいつ、マジで燃やす。絶対に燃やす」

 

 朱音の肩の上のサラが、彼女の激しい怒りに呼応して、金色の炎の角を鋭く尖らせた。

 

 その時。

 

 シーンと静まり返ったカウンターの奥から、別の、ひどく掠れた『残響音(ログ)』が聞こえてきた。

 

「……あの子は、また、迷子になってしまったんだね」

 

 悠真がハッとしてカウンターの奥を見ると、そこにはサイフォンを磨く仕草をしたまま、ぼんやりと半透明に透き通った、純喫茶すばるの老店主の『記憶の残骸(ゴースト)』が佇んでいた。

 

 完全な霊ではない。

 

 この店に残された、店主の強い想念のログファイルだ。

 

「……あなたは、すばるのマスター、ですか」

 

 悠真が静かに歩み寄ると、老人の残骸は、穏やかな目で悠真を見つめた。

 

「店主だったもの、かね。もう店は取り壊され、私も現世にはいない。ただの、ここで客を待ち続けていた空間の記憶さ。……御門の孫一族の少年よ。私はあの日、泣いていた幼い灯里ちゃんを、一度だけ現世の側に繋ぎ止める(保護する)ことができた。……だけど、二度目は、間に合わなかった」

 

 老店主の残骸は、カウンターの奥の「壁」を、哀しげに指差した。

 

「あの子は、自分が消えれば彼が救われると思い込み、彼は、彼女を忘れることで仕事の苦しみから逃れられると思い込まされた。……その二人の最悪の合意(エラー)を、あの『なんでも買います』の店は、正当な売買契約として買い叩いたんだよ」

 

「店主さん。あの店と、窓の外にいる『赤い傘の女』は、どういう関係なんですか?」

 

 悠真が尋ねると、老人は静かに首を振った。

 

「仲間ではないよ。……だが、同じ『雨の日』にしか現れない、人の心の脆弱性に群がる同類のバグさ。赤い傘は、居場所を見失った迷子を連れていく。買い取りの店は、迷子が捨て去った大切な思い出を、商品として買い取る。……どちらも、人間が自分の帰り道を見失った時にだけ、親切な顔をして近づいてくるのさ」

 

 *

 

 老店主の残骸が指し示したカウンターの奥の壁。

 

 そこには、前回探索した時には影も形もなかった、古い『スタッフルーム』を思わせる木製の扉が、唐突に実体化してそこに出現していた。

 

 扉の隙間からは、現世のネオン看板のような、歪んだ赤い光がベタベタとにじみ出ている。

 

 その光の文字は、明確にこう刻まれていた。

 

『なんでも買います。お買い戻しのご相談、承ります』

 

 扉の向こうの暗黒から、ザッ、ザッ、と白い手袋を嵌めた店員が歩み寄ってくるような、静かな足音が聞こえてくる。

 

『いらっしゃいませ。お探しの品(記憶)は、すべて当店の棚に保管されておりますよ……』

 

「出たわね、クソ店舗の入り口」

 

 朱音が、即座に耐火ジャケットのジッパーを締め直し、臨戦態勢(スタンバイ)に入った。

 

「……まだ、入らないでください。朱音さん」

 

 悠真は、スマートフォンの画面に表示されるゲートの解析データを注視した。

 

【接続先:概念売買店舗『なんでも買います』内部】

 

【危険度:中(Tier3クラス) / 交渉プロトコル:確立可能】

 

【注意:現時点での無防備な侵入は、術者の名前、または約束の記憶を対価として強制徴収される危険性あり。……システム仕様書の策定後に接触することを推奨します】

 

『御門様! 烏丸です! 現在位置でプロセスを完全に停止してください!』

 

 スマートフォンの通信機から、ヤタガラス支部で後方支援を行っている烏丸の鋭い声が響いた。

 

『店舗内部への侵入は現段階では絶対に許可しません! 扉の接続条件(ログ)の回収が確認できたら、即座に第一段階の撤退シーケンスに移行してください!』

 

「了解です、烏丸さん。……扉の仕様はすべてスキャンしました。これより撤退――」

 

 悠真が命令を入力しようとした、まさにその瞬間だった。

 

 ザーーーーーーーーッ!! という、鼓膜を破壊せんばかりの、凄まじい豪雨の音が、喫茶店の窓ガラスを激しく震わせた。

 

 窓の外。

 

 あの歪んだ現世の雨の夜道の中に。

 

 一本の、真っ赤な傘が、ガラスにへばりつくようにしてそこに佇んでいた。

 

 傘の下の暗闇から、二つの、らんらんと輝く冷酷な黄色い双眸が、悠真たちをガラス越しにじっと見据えていた。

 

「……みーつけた」

 

 女の声が、店内のすべてのコーヒーカップを共鳴させてキィキィと鳴らした。

 

「迷子を、探しにきたの? ……ダメだよ。あの子の帰り道は、もうどこにもないの。……今度こそ、あたしが傘の中に連れて帰って、あたしのコレクションにするんだから。……あなたたちも、一緒に迷子になっちゃえばいいのに」

 

 パキィィィン! と不穏な音がして、窓ガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が走り、そこから現世の冷たい雨水が、店内の床へとドボドボと溢れ出してきた。

 

 床に広がった水たまりが、瞬時に現世の地下通路のロジックを書き換え、底なしの「雨の泥沼」へと変質させていく。

 

【緊急警告:帰路の動的改変(迷子干渉)を検出】

 

【退路マーカー:黄色(不安定状態)に移行】

 

【塵霊隊(DS-001〜005)よりパニックログを受信:『ゆうま! 出口が水に濡れて、消えちゃう! 帰り道が曲がっていくよ!』】

 

「……ちっ、客引きの次は、強制的なシステムロック(強制迷子化)かよ!」

 

 ジャグラズが影を巨大な盾のように広げ、窓ガラスから這い出てこようとする、顔のない黒い髪の毛の束を強引に弾き飛ばした。

 

「朱音さん! 派手に燃やさないでください! 退路の『水たまり』だけを払ってください!」

 

「分かってるわよ! サラ、金色の灯火(リフレクター)! 雨のロジックを焼き切りなさい!」

 

 朱音の肩から飛び出したサラが、赤ではなく、まばゆい金色の光を放つ炎の弾となって、床の水たまりへと突撃した。

 

 激しい水蒸気(スチーム)が立ち上り、水分に侵食されかけていた地下通路の正しい床の座標が、一瞬にして現世の形へと復元(リファクタリング)されていく。

 

「真柴さん! 記憶の栞を回収して撤退です!」

 

「はい! データの回収は完了しました! 御門様、走りなさい!」

 

 真柴環が、銀の鈴をチリンチリンと乱打しながら、悠真の背中を押した。

 

 悠真は、スマートフォンを強くホールドしたまま、異界探索モードの巨大な緑色の退路インジケーターだけを凝視して、店外の通路へと飛び出した。

 

 *

 

「帰るの……? どこへ帰るの……?」

 

「あなたたちの帰るお家なんて、最初からどこにもないのに……」

 

 背後の闇から、赤い傘の女の囁きが、何百人の人間の声となって追いかけてくる。

 

「耳を貸すな、悠真! あいつはこっちの責任感や恐怖の脆弱性を突いて、歩行プロセスをバグらせようとしてるだけだ!」

 

 ジャグラズの怒声が響く。

 

 悠真は一切後ろを振り返らず、ただ前だけを見て走った。

 

 彼の足元では、五体の塵霊たちが、自分たちの身体が濡れて泥になりかけながらも、必死に『埃の導線』を維持して出口へと叫んでいた。

 

『こっち! ゆうまの足跡のデータ、まだここに残ってる!』

 

『火の光を追いかけて! 階段はすぐそこだよ!』

 

 朱音の放つ金色の灯火が、歪もうとする通路の壁を現世の形に繋ぎ止め、塵霊たちの声が、悠真の耳に正しい方向(ポート)を指示し続ける。

 

 画面のデータだけに頼るんじゃない。

 

 仲間のシステム、現場の光、すべてのリソースが合わさって、初めて彼らの「帰り道」は維持されていた。

 

「……見えたぞ、出口の階段だ!」

 

 チカチカと点滅する、あの古い蛍光灯の光。

 

 悠真は、スマートフォンの側面を強く握りしめながら、コンクリートの階段を一気に駆け上がった。

 

 ガシャァァァン!! と激しい金属音がして、背後の錆びついたシャッターが完全に閉鎖され、ヤタガラスの青白い封印の紋章が、異界の雨音を完全にシャットアウトした。

 

 *

 

 地上は、いつの間にか雨が上がり、静かな星空が広がっていた。

 

 ビル街を走り抜ける夜風が、悠真の火照った身体を優しく冷ましていく。

 

「……はぁ、……はぁ、……戻って、これた……」

 

 悠真は、シャッターの前に膝をついて、激しく息を荒らげた。

 

 彼の服は乾いている。

 

 しかし、異界の雨のロジックに直接触れた彼の靴の裏だけが、現世の乾いたアスファルトの上に、黒い、濡れた足跡をベタベタと残していた。

 

「初異界の二次テスト、お疲れ様。御門様」

 

 真柴環が、カーディガンの乱れを整えながら、手元のケースに完全に隔離された『記憶栞』を収めた。

 

 彼女の顔は酷く青ざめており、精神的な疲弊は朱音以上だった。

 

「……赤い傘の女のデータ、想像以上に灯里様の魂の深い階層(カーネル)まで侵食していました。すばるの店主が一度は弾いたバグですが、彼女自身の『私は重荷だ』という自己否定が、あいつへのアクセス権を完全に与えてしまっている。……次にあの扉を開けて『記憶の買い戻し』を実行した瞬間、その復元のパルスを感知して、赤い傘の女が今度こそ灯里様の存在を完全に回収しに実体化(顕現)してくるでしょうね」

 

 朱音が、手袋を嵌めた拳をパチンと鳴らし、鋭い笑みを浮かべた。

 

「……上等じゃない。買い戻した瞬間に、あいつが実体化して現世のインターフェースに出てくるってわけね。だったら、話は簡単よ。悠真が交渉を成立させて彼女のデータを取り戻したその一瞬、あたしの全火力(最大出力)をあいつの『傘』の根元に叩き込んで、因果ごと焼き尽くしてあげるわ」

 

「……ええ。力で勝つのではなく、取引を成立させ、戻ってきたその一瞬の隙を突く。朱音さん、迎撃の仕様(プラン)はそれでいきましょう」

 

 悠真はスマートフォンをポケットに収め、力強く頷いた。

 

 ヤタガラス支部に戻り、烏丸へのデブリーフィング(事後報告)を終えた会議室。

 

 ホワイトボードに描かれた次回の作戦図を見つめながら、真柴環が最後に、重要な警告を悠真に残した。

 

「御門様。一つだけ、絶対に忘れないでください。……私たちは、宮野灯里様のデータを外から強引に引っ張り出す(インポートする)わけではないのです。そんなことをすれば、あの赤い傘の女がやっている『拉致』と何も変わりません。……大事なのは、買い戻した記憶を前にして、灯里様自身が『私は現世へ帰る(悠介の元へ戻る)』という意志を、自分のプログラミング(心)で選択すること。私たちは、そのための『帰り道』をただ目の前に構築するだけです。選ぶのは、彼女本人なのですよ」

 

「……分かっています、真柴さん。無理矢理な復元はシステムを壊す。彼女自身の意志でアクセスを再確立してもらう。そのための仕様書を、俺がこれから書きます」

 

 *

 

 深夜。

 

 御門家の書斎。

 

 悠真は、ノートPCの画面に表示された、次回の最優先ミッションのタスクシートを更新していた。

 

【次期作戦目標:なんでも買います・記憶買戻し交渉(Ver 1.0)】

 

 ・純喫茶すばる奥のゲートを開放し、店舗内部へとアクセス。

 

 ・佐久間悠介が売却した『灯里の記憶』、および灯里が売却した『現世の存在権』の買戻し条件の提示。

 

 ・対価リソース:小型欲望結晶、および記憶紙魚の銀鱗によるセキュリティ・パッチの提供。

 

 ・買戻し成立の瞬間における、赤い傘の女の迎撃シーケンスの同時発動(炎堂朱音との完全同期)。

 

 ・宮野灯里本人による『現世への帰還選択』のインターフェースの確立。

 

 画面の隅で、保留にされていたすみかからの通知が、小さな緑色のランプを点滅させている。

 

『ゆうま、あのお店の奥の扉、ちょっとだけお化け屋敷のバックヤードみたいだったね。……すみか、あそこのクソ店長が人間の思い出をいじめてるの、やっぱり大嫌い。次に行く時は、すみかの怖がらせる力も、ちょっとだけ使っていい?』

 

「……許可するよ、すみか。不法侵入者(あいつら)を威嚇するのは、守護精霊のお前の正しい役割(仕様)だからな」

 

『わーい! すみか、全力でクソ店員を脅かしてやるんだから!』

 

 悠真は画面を閉じ、深く背もたれに体を預けた。

 

 売られた思い出を取り戻すことが、二人にとって本当に救いになるのかは、まだ誰にも分からない。

 

 現世に戻れば、彼らは再び、結婚前の過酷な現実や不安というバグと向き合うことになるのだから。

 

 それでも、御門悠真はキーボードに指を置き、次のコードを紡ぎ始めた。

 

 失われたものを、失われたままにして動いているふりをする世界は、彼の知るエンジニアの誇りが、絶対に認めないからだ。

 

「……次で終わりだ。お前の不当な売買契約を、俺のシステムで完全にデバッグしてやる」

 

 暗い書斎の中で、スマートフォンの画面が、未来の約束を取り戻すための冷徹な光を、静かに放ち続けていた。




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