hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第9話 結ばれた糸

 

 チ、チ、チ、チ、チ、チ……。

 

 一本桜の巨木から吹き降ろす、薄紅色の花びらの暴風。その中心で、僕の胸ポケットにある銀色の懐中時計は、世界が反転したかのような異常な熱量を感知して、いっそう激しく秒針を刻み続けていた。

 

 目の前に立つ、ホロライブ0期生の二人の少女。

 

 さっきまで世界が終わったかのような顔をして石畳に泣き崩れていたはずの彼女たちは、今やその瞳の奥に、言葉を失うほどのギラギラとした情念と、脳髄を痺れさせるような歪な「歓喜」を宿していた。

 

 「……あの、さくらさん、星街さん? 本当に、どういう状況なんですか。僕、さっきからあなたたちの言っていることの意味が、一ミリも理解できないんですけど」

 

 本能的な恐怖に背中を戦慄かせながら、僕は一歩、さらに後ろへと退がった。

 

 しかし僕のそんな明確な拒絶のステップなど、今の彼女たちにとっては、燃え盛る情熱に注がれるささやかな燃料に過ぎなかったらしい。

 

 「もー! 『さくらさん』なんて他人行儀に呼ぶのは禁止にぇ! ユウトはユウトらしく、みこのことは『みこ』って呼び捨てにするのら!」

 

 さくらみこは、涙の跡が白く残る頬をぷっと膨らませながら、さらに一歩、僕との距離を詰めてきた。ピンクの羽飾りがついた星形の髪飾りが、彼女の激しい自己主張に合わせて小刻みに揺れる。

 

 「そうだよ、ユウトさん。すいちゃんのことも、そんな風に芸能人みたいに呼ばないでほしいかな? 記憶がないならさ、これから新しく、すいちゃんがあなたの頭の中に、消えない思い出をいっぱい、いっぱーい、上書きしてあげるからねー?」

 

 すいせいは鈴を転がすような、どこかねじの緩んだ、けれど圧倒的な独占欲を孕んだ笑みを浮かべ、僕の目を真っ直ぐに見つめてきた。彼女の青い瞳の奥にある昏い光に射抜かれ、僕は完全に言葉を失った。

 

 おかしい。何なんだ、この人たちは。

 

 僕が彼女たちのことを「何も覚えていない」と冷たく突きつけたというのに、どうしてこれほどまでに嬉しそうに、僕を捕食せんばかりの距離まで詰め寄ってこられるのだろう。普通なら信じていた相手に忘れられていたら、絶望して立ち去るか怒って拒絶するはずだ。なのに、彼女たちから放たれるのは、まるで「邪魔者がいなくなった」とでも言いたげな、悍ましいまでのエネルギーだった。

 

 「ほらほら! そうやって呆れた顔してないで、早くスマートフォンを出すにぇ! ホロネットの連絡先、交換する!」

 

 「え? いや、待ってください。どうして僕が、あなたたちのような超有名人と連絡先を……」

 

 「いいから出すの! すいちゃんはねー、気が短いの。早くしないと、あなたのその可愛いスマートフォン、私の手でちょっと物理的に初期化しちゃうかもしれないなー?」

 

 「……っ!」

 

 すいせいはニコニコと笑いながら、どこからか金色の斧を取り出した。その斧から放たれる威圧感に、僕はついに逆らうのを諦めた。この人たちは本気だ。ここで拒絶し続ければ、本当にこの枯れない一本桜の下で、僕の平穏な学生生活ごと物理的に消滅させられかねない。

 

 「……分かりましたよ。出せばいいんでしょ、出せば」

 

 僕はため息を交じりにぶっきらぼうに呟くと、ポケットから自分のスマートフォンを取り出し、画面を起動した。

 

 みことすいせいは、待ってましたとばかりに自分たちの最新の端末を素早く取り出し、僕の画面に向けてかざしてきた。

 

 ピッ、ピッ。

 

 電子的な電子音が二回、静かな境内に響く。

 

 僕のスマートフォンの画面に、新しく二つのアカウントが登録された。

 

 『さくらみこ』

 

 『星街すいせい』

 

 世界中の誰もが喉から手が出るほど欲しがるであろう、トップ冒険者にして最上位セレブリティの直通回線。それが、地方都市のただの高校生である僕の、空っぽの端末の中に、あまりにもあっさりと結ばれてしまった。

 

 「にゃはは! つながったにぇ! これでいつでもユウトにメッセージを送れる!」

 

 みこは、画面に表示された僕のIDを見つめながら、本当に嬉しそうに飛び跳ねた。その無邪気な笑顔は、先ほど僕の左肩に頭を乗せて眠っていた時の、あの懐かしい桜の香りを一瞬だけ僕の脳裏に蘇らせる。

 

 「うん、バッチリ。……これで、あなたが世界のどこに逃げても、すいちゃんがGPSで一発で見つけ出せるようになったよねー」

 

 「さらっと恐ろしいこと言わないでくれませんか、すいせいさん……じゃなくて、星街さん」

 

 「だから、すいちゃんでいいって言ってるでしょ? 次に『星街さん』なんて呼んだら、本当に怒っちゃうからね?」

 

 すいせいは、スマートフォンの画面をパチンと閉じると、悪戯っぽくウィンクしてみせた。彼女の青い髪が、ヤマトの風に吹かれて美しく躍る。

 

 連絡先の交換が終わり、僕たちの間には、どこか奇妙で、張り詰めたような沈黙が流れた。

 

 二人の少女の瞳からは、先ほどまでの激しい涙は消え去っていた。けれど、その代わりに宿ったのは、複雑にねじれ、洗練された、僕に対する巨大な感情の質量だった。悲しみ、理不尽な怒り、そして、僕の「白紙の歴史」を奪い合おうという剥き出しの歓喜。それらが三位一体となって、彼女たちの佇まいを異様なほどに気高く、そして恐ろしく見せていた。

 

 「……それじゃあ、僕はそろそろ戻ります。友達が茶屋で待っているので」

 

 僕は、これ以上この場に留まるのは精神的に危険だと判断し、カバンを肩にかけ直した。

 

 二人の少女は、僕の言葉に小さく頷いた。今度は、強引に僕を引き留めようとする動きは見せなかった。自分たちの『縁の糸』を、連絡先という形で確実に僕の魂に結びつけたという、絶対的な余裕が彼女たちにあるからだろう。

 

 「うん、そうだね。今日のところは、見逃してあげるかな」

 

 すいせいは、一歩後ろに下がり、枯れない一本桜の幹に背中を預けた。

 

 「でも、勘違いしないでね、ユウトさん。すいちゃんたちは、あなたを諦めたわけじゃないから。……また、近いうちに、絶対に会いに行くからね」

 

 「みこも、夕方の神事があるから今は行けないけど……絶対に、すぐにメッセージ送るからにぇ! 通知は常にオンにしておいて! 既読無視したら、さくら神社の神罰が下るからにぇ!」

 

 みこは、小さな拳を僕に向けて突き出し、エリート巫女としての威厳を精一杯に示しながら宣言した。

 

 「……うん。分かったよ。通知は切らないでおく。……それじゃあ、また」

 

 僕は、胸ポケットの上からそっと時計を押さえ、二人の少女に向けて、最後にかすかな会釈を返した。

 

 背中を向け、一本桜の広場から、古い石灯籠の並ぶ細い裏道へと歩き出す。

 

 チ、チ、チ、チ、チ、チ……。

 

 歩き出す僕の背後から、風に乗ってハラハラと舞い落ちる薄紅色の花びらの音が聞こえる。

 

 振り返ることはしなかった。けれど、僕の両肩に残されたみことすいせいの、あの温かで狂おしいほどに切ない「体温」の残響だけは、制服の生地を通じて僕の皮膚にいつまでも、いつまでも消えない汚れのように焼き付いていた。

 

 ~~~~~~~~

 

 細い裏道の仄暗い木陰を抜け再び巨大な朱色の鳥居の前に戻ると、そこには先ほどと変わらない、圧倒的な『春』の色彩と活気が広がっていた。

 

 ハラハラと、風に舞い散る薄紅色の桜の花びら。ヤマトの強力な霊脈がもたらすぽかぽかとした暖かな陽気が、裏手の一本桜の冷気に晒されていた僕の身体を優しく包み込んでいく。境内のあちこちでは、相変わらず獣人やエルフの観光客たちが、お守りを買ったり、枯れない桜をバックに賑やかに写真を撮ったりして笑い声を上げていた。

 

 「……あ、いたいた! ユウト、こっちだぜ!」

 

 境内の片隅、赤い野点傘がいくつも並べられた、古風な佇まいの茶屋の席から僕を呼ぶ大きな声が響いた。

 

 声を呼ぶ方向を見てみれば、今回のヤマト観光を提案してくれたあの犬耳のクラスメイトが、僕に向かって大きく両手を振っていた。彼の茶色い犬耳が嬉しそうにピンと立ち、フサフサとした尻尾が椅子の後ろで激しく左右に揺れている。

 

 その隣の席には、お茶の入った湯呑みを上品に両手で包み込んでいるエルフの少女と、口の周りを小豆の餡子でいっぱいにしながら、串に刺さったサクラ団子を頬張っている悪魔の少年も座っていた。

 

 「待たせてごめん、みんな。ちょっと、奥の方まで散歩しちゃってさ」

 

 僕は彼らの座る長いベンチの席へと歩み寄り、カバンを足元に置いて空いている席へと腰を下ろした。

 

 「本当に遅かったじゃない、ユウトくん。迷子にでもなったのかと思って、みんなで心配してたのよ?」

 

 エルフの少女が、長い耳をピコピコと揺らしながら、少しだけ呆れたような、けれどホッとしたような優しい微笑みを僕に向けてくれた。

 

 「そうそう!…でもさ、この神社の奥、本当にすごかっただろ? 空気っていうか、霊力の密度が全然違うんだ!」

 

 犬耳の少年が、お盆に乗せられた温かいヤマトのお茶と、名物のサクラ団子の皿を僕の目の前へと押し出してくれた。

 

 「ほら、ユウトも食べろよ! ここのお団子、ヤマトの霊水を使って作られてるから、食べると一発で疲れが吹き飛ぶって大評判なんだからさ!」

 

 「ありがたくいただくよ。……本当に、綺麗な場所だね、ここは」

 

 僕はぶっきらぼうに笑いながら、串に刺さった薄紅色のサクラ団子を一口、口へと運んだ。口の中に広がる、桜のほのかな香りと上品な餡子の甘さ。

 

 周りを見渡せば、友達の悪魔の少年が「なぁ、次あっちの売店行こうぜ! 限定の魔導お守りがあるらしいんだ」と、相変わらず騒々しく盛り上がっている。

 

 多様な種族が共生する、このホロアースの世界の、他愛のない、けれど眩しい日常の輝き。

 

 僕は再び、その日常の輪の中に、ただの「一人の高校生」として、何の違和感もなく溶け込んでいった。

 

 「……ん? なぁ、ユウト」

 

 お団子を二串目を食べ終え、温かいヤマトのお茶を一口啜っていたとき。

 

 隣に座っていた犬耳の少年が、急に会話を止め、僕の顔をじっと至近距離から覗き込んできた。彼の大きな茶色い瞳が、僕の表情の細部を観察するように、真剣な光を宿して揺れている。

 

 「え……? 何、僕の顔に何か付いてるかな。餡子でも残ってた?」

 

 僕は、戸惑いながら袖で自分の口元を拭った。けれど、獣人の友人は首を横に振り、ピンと立っていた耳を今度はどこか嬉しそうにパタパタと揺らした。

 

 「違う違う。……なんかさ、お前、ここに来る前より、幾分かましな顔をしてるじゃん」

 

 「え……? ましな顔?」

 

 友人の言葉に、僕は思わずお茶の湯呑みを握ったまま、動きを止めてしまった。

 

 「そうよ、ユウトくん。私も今、同じことを思っていたわ」

 

 正面の席から、エルフの少女も優しく目を細めて言葉を重ねてくれた。

 

 「オルタナティブシティを出発する時のあなた、なんだか、無理に笑って『普通の高校生』の仮面を必死に被っているみたいで……今にも焦燥感と空虚さに押し潰されて、消えちゃいそうだった。……でも、今のあなたは、どこか憑き物が落ちたみたいに、ちゃんと目が生き生きしてる」

 

 「そうそう! なんかさ、心の拠り所を見つけたっていうか、ちゃんと地に足がついてる感じがするんだぜ! やっぱり、枯れない桜の奇跡の効果は抜群だったろ! 僕のじいちゃんの言った通りだ!」

 

 犬耳の少年は、自分の手柄のように胸を張り、ガハハと豪快に笑いながら、僕の背中をポンポンと力強く叩いた。

 

 「……そう、かな。自分では、よく分からないけどさ」

 

 僕は、友達の無邪気な笑い声に引きずられるように、今度は仮面の裏側の演技ではない、魂の底からの本物の苦笑を、静かに彼らに向けて返した。

 

 チ、チ、チ、チ、チ、チ……。

 

 胸ポケットの奥で、懐中時計が、僕の不完全な心音を包み込むように、力強く、そして優しく時を刻み続けている。

 

 彼らの言う通りかもしれない、と、僕は胸の中で密かに思った。

 

 確かに、僕の過去の歴史は白紙のままだ。霧の向こうにあるはずの『ホロライブ』の少女たちの本当の正体も、自分がかつて誰のために生きていたのかという一番重要なピースも、何一つとして僕の脳裏には戻ってはこない。この先、自分がどの未来を選べばいいのかという進路希望調査書も、カバンの奥で真っ白なままだ。

 

 けれど。僕の端末の中には、今、彼女たちの名前がある。

 

 「また近いうちに会う」という、ねじれた因果の、けれど絶対に嘘ではない約束の光の糸が、僕のこの手に、確かに結ばれている。

 

 過去が僕に希望をくれるのかは、まだ分からない。

 

 けれど、この胸ポケットの時計が、二人の少女の暖かな体温に触れて、再び新しく時を刻み始めたように。

 

 僕の止まっていたはずの時間、失われたはずの僕の物語の針は、今確実に、明日という未知の光に向かって、凄まじい音を立てて動き始めていた。

 

 「……ありがとう、みんな。この場所に、僕を連れてきてくれて……本当に感謝してるよ」

 

 夕暮れのヤマトの空から、枯れない桜の花びらがハラハラと、僕たちの頭上に祝福のように降り注いでいた。

 

 その薄紅色の光の中で、僕は胸ポケットの時計をそっと上から抱きしめながら、まだ見ぬ明日へと向かって、幾分かましな横顔を上げて静かに微笑んでいた。

 

 ~~~~~~~~

 

 ハラハラと薄紅色の花びらが舞い散る一本桜の巨木を背に、みことすいせいは一歩一歩確実な足取りで木造の古い社務所へと戻る廊下を歩いていた。

 

 先ほどまでの悲痛な慟哭と、その後に脳髄を痺れさせた悍ましいほどの歓喜。あまりにも激しい感情の乱高下を経験した二人の頬は、まだ微かに朱に染まっている。しかし、その手元にあるスマートフォンの画面を見つめる瞳は、まるでこれから過酷な上位遺跡へ突入する冒険者のように、ギラギラとした熱い情熱と輝きに満ちあふれていた。

 

 「もー! みこ、最初のメッセージは何て送ればいいか全然決まらないんだが! 『にゃっはろー! さっきはありがとのら!』でいいにぇ? 軽すぎない!?」

 

 みこは、朱色の袴の裾をせわしなく揺らしながら画面とにらめっこをして頭を抱えていた。ピンクの羽飾りがついた星形の髪飾りが、彼女の焦燥感に同期するように激しく左右に揺れている。

 

 「みこち、落ち着きなよー。そんなに最初からガツガツいったら、せっかく『普通の高校生』のフリをしてるユウトさんに警戒されちゃうでしょ?」

 

 すいせいはどこか余裕の笑みを唇の端に浮かべながら、自分の端末を滑らかにフリックしていた。

 

 「すいちゃんはねー、もう最初のメッセージは決めてるんだよねー。さっき、私の体と接してたときの感想を、ちょっとおねだりするような内容にしようかなーって。……ふふ、ブロックしたら家まで行くって、ちゃんと釘も刺してあるしね」

 

 「すいちゃん、やっぱりやってることが完全に肉食獣なんだが!? 卑怯のら! ズルいにぇ!」

 

 「何とでも言いなよー。今度の世界ではね、先に心を掴んだ方が勝ちなんだから」

 

 二人はあはは、と騒がしく言い合いながら社務所の中にあるみこの自室へと滑り込み、バタンと勢いよく襖を閉めた。そして、暖かなコタツの中へと滑り込むようにして再び腰を下ろす。

 

 コタツに入ってからも、二人の妄想と計画の嵐は一向に収まる気配がなかった。

 

 連絡先を手に入れた、という決定的な事実。それは、過去のない空っぽの少年であるユウトの未来に、自分たちの足跡をいくらでも上書きできるという自由の権利を意味していた。

 

 「ユウトがオルタナティブシティに戻ったらさ、まずは駅前の一番高いたい焼きを奢ってあげるのら! 前の世界みたいにさ、あいつに『また経費で買っただろ』って呆れ顔で突っ込んでもらうんだにぇ!」

 

 「いいねー。すいちゃんはねー、やっぱり彼を私のステージの特等席に招待してあげたいなー。誰もいないプライベートなスタジオで、彼一人のためだけに世界で一番贅沢な新曲を歌ってあげるの。……あはは、私の歌で、彼の頭の中をすいちゃんでいっぱいにしちゃうんだから」

 

 あれをしよう、これをしよう。多岐にわたるデート……いや、次世代のマネージャー獲得計画のアイデアが、コタツの上でこれでもかと炸裂する。みこは鼻息を荒くし、すいせいは目を細めて黒い笑みを浮かべる。

 

 ――しかし。

 

 そんな狂おしいほどの妄想の絶頂のなか、すいせいの端末がチロンと冷淡な電子音を立てた。

 

 画面に表示されたのは、ホロライブの全タレントが共有している、ギルドの緊急通信チャットの通知だった。

 

 その画面を目にした瞬間、二人の動きが、ピタリと凍りついたように止まった。

 

 「……あ」

 

 みこの口から、間の抜けた小さな声が漏れる。

 

 部屋の中に、にわかに冷徹な現実の空気が流れ込んできた。

 

 忘れていたわけではない。ただ、ユウトとの衝撃的な再会と、その後に湧き上がった歪な歓喜のあまり、一時的に脳の片隅へと追いやられていた、最も重要な問題。

 

 白銀ノエルが、ハッシュタグから桜井ユウトの動画を見つけ出し、ホロライブ全体に激震が走っているという事実。そして、代表である谷郷(YAGOO)が『私が指示を出すまで接触を禁止する』という厳命を下しているという、現在の状況。

 

 「ねぇ、みこち……」

 

 すいせいが、コタツの上に端末を置き、青い瞳の奥のネジをきゅっと締め直すような、真面目な顔でみこを見つめた。

 

 「……何にぇ、すいちゃん」

 

 「谷郷さんには……一応、連絡しなきゃダメよね。みこちの神社にユウトさんがいて、私たちが最初に会っちゃいました、って。……渋々だけど、あの人は私たちのボスだし、直々に動くって言ってたから、隠し通すのは無理だと思うんだよねー」

 

 「うう、それは分かってるんだが……。谷郷さんには、みこがちゃんとメッセージ送っておくにぇ。あの人も、前世でユウトに最後の一枚を渡しちゃって、すっごい責任感じてたから……」

 

 みこは、少しだけ寂しそうに眉を下げて頷いた。谷郷元昭という男が、どれほどの贖罪の念を抱えながらこのホロライブを再建したか、彼女たちも理解している。彼への報告は、義務であり筋だった。

 

 「……問題は、さ」

 

 すいせいはそこで言葉を区切り、妖しい獲物を狙うような眼差しでみこの瞳を真っ直ぐに射抜いた。

 

 「他のタレントたち(みんな)に、ユウトさんと会ったこと……教える?」

 

 その問いが室内に響いた瞬間、さくらみこの思考は完全に停止した。

 

 「……あ」

 

 教えるか、否か。

 

 もし、今この瞬間にギルドチャットで『ユウトさんに会ったよ! 連絡先も交換したにぇ!』と書き込めばどうなるか。

 

 一秒後には、王都の教会で祈りを捧げていたはずのときのそらが、結界を突き破るような勢いで最高速のシップを手配するだろう。白上フブキが、湊あくあが、宝鐘マリンが、ラプラス・ダークネスをはじめとするholoXの面々が、すべての任務と配信を投げ打って、この神社へと文字通りの暴風となって押し寄せてくるに違いない。

 

 そして、記憶を失った真っ白で無防備な桜井ユウトの周囲を取り囲み、全員で「おかえりなさい!」と涙の雨を降らせ彼を物理的にも精神的にも完全に包囲してしまうだろう。

 

 「……それは、絶対に嫌なんだが」

 

 みこの口から、地を這うような恐ろしいほどに低い声が漏れた。

 

 彼女の桜色の瞳に、エリート巫女としての、否、一人の強かな乙女としての執念の炎がギラギラと燃え上がる。

 

 「ダメにぇ。他のみんなに教えるなんて、絶対にあり得ないんだが! もし今、そら先輩やフブキちゃんに教えたりしたら……ユウトは一瞬でみんなに囲まれて、みこたちの入る隙間なんて、一ミクロンもなくなっちゃうんだにぇ!」

 

 「そうだよねー。すいちゃんも、全く同じことを思っていたんだよねー」

 

 すいせいは、ククク、と低く、愉しそうに笑った。

 

 彼女たちの胸を支配していたのは、自分たちを忘れてしまったユウトに対する理不尽な怒りと、それ以上に、この状況がもたらす『圧倒的なアドバンテージ』への、恐ろしいほどの独占欲だった。

 

 前世での桜井ユウトの一番は、文句なしにときのそらだった。

 

 けれど、今の彼はすべてを失った白紙の状態だ。

 

 そして、その白紙の少年に一番最初に接触し、そのアドレス帳の最上段に名前を刻み込むという天文学的な確率の『最初の特権』を手に入れたのは、他でもない自分たち二人なのだ。

 

 ここで正直にみんなに共有して、全員でよーいドンのスタートラインに並び直すなんて、そんな殊勝な精神は、星街すいせいという歌姫の辞書にも、さくらみこという巫女の魂にも、最初から一文字も存在していなかった。

 

 「すいちゃんはねー、せっかく手に入れたこのアドバンテージ、誰にも渡したくないんだよねー。そら先輩が王都で泣いている間に、私たちがユウトさんの『一番』の特等席を、完全にロックしちゃえばいいじゃない?」

 

 「にぇ! その通り! 恋の戦場では、遠慮した奴から脱落するって、みこのエリートな本能が叫んでるんだよなぁ! 谷郷さんには『ユウトさんの姿を見かけましたが、記憶を失っているようです。詳しいことは代表の到着を待ちます』って、必要最低限のことだけ送って、他のみんなには……完全秘匿!」

 

 「あはは、みこち、いい事言うじゃん。じゃあ、これは私とみこちだけの『秘密の共同戦線』ね」

 

 二人はコタツの中で悪い魔王のような、けれど、この上なく愛らしくも強かな笑みを互いに交わし合った。

 

 悲しみを知り、絶望を越えた少女たちは、かつて自分たちを置いて消えた男を二度と逃がさないために、恐ろしいほどの狡猾さを身に付けていたのだ。

 

 谷郷さんには、大人の対応として一応の報告を。

 

 けれど、他のライバルたちには、情報の一片すらも与えない。

 

 自分たちだけで、あの少年の空っぽの器を、ゆっくりと、濃密に、自分たちの色彩だけで塗り潰していく。

 

 「……ふふ、待っててね、ユウトさん。今度の世界では、私がお前の、絶対の一番になってあげるんだから」

 

 「みこの方が、絶対にエリートな思い出をたくさん作ってあげるのらぁ!」

 

 夕暮れのヤマトの空から、枯れない桜の花びらがハラハラと社務所の窓を叩く。

 

 世界を救った孤独な英雄(桜井ユウト)は知らない。

 

 自分が手に入れたはずの平穏な高校生活が、記憶を取り戻し、強かに覚醒した二人の恋する乙女たちの手によって、これからどれほど鮮やかに、そして理不尽に引っかき回されようとしているのかを。

 

 襖の奥で、クスクスと悪巧みのように響く二人の笑い声は、届かないはずの因果の針を、さらに深く、深く、少年の未来へと突き刺していく。

 

 悲しみを強さに変えた恋する乙女は――何よりも、強かなのだ。

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