hololive Lost Story 作:ダニエルズプラン
チ、チ、チ、チ、チ、チ――。
胸ポケットの奥で、銀色の懐中時計が規則正しく時を刻んでいる。
いつもの朝。
いつもの部屋。
いつもの窓から差し込む、ホロアースの淡い陽光。
カーテンを開ければ、そこには変わらない景色が広がっていた。
透き通るような青空。
遠くに浮かぶ巨大な浮遊大陸。
その周囲を旋回する翼竜。
空中回廊を歩く翼持つ人々。
眼下の通りを行き交う獣人やエルフ、悪魔、人間たち。
多様な種族が当たり前のように共生する、ホロアースの朝。
僕――桜井ユウトは、今日もその中にいる。
ただの人間として。
ただの高校生として。
ただの、どこにでもいる学生として。
ヤマトのさくら神社へ観光に行ってから、数日が経っていた。
あの日、枯れない一本桜の下で起きた出来事は、今でも現実だったのか夢だったのか判別がつかないほど、あまりにも現実離れしている。
ホロライブ0期生、さくらみこ。
ホロライブ0期生、星街すいせい。
世界中にその名を知られるトップ冒険者であり、配信者であり、アイドルでもある二人。
そんな雲の上の存在と、なぜか連絡先を交換した。
それだけでも、普通なら一生分の運を使い果たしたと言われてもおかしくない。
けれど、問題はそこではない。
彼女たちは、僕を知っていた。
僕の名前を当然のように呼んだ。
僕と再会できたことを、涙を流して喜んだ。
まるで長い間、僕を探し続けていたかのように。
けれど、僕にはその記憶がない。
何一つ、思い出せない。
彼女たちが語る「桜井ユウト」という人物は、僕の名前と顔を持っている。
けれど、今の僕の中には、彼女たちと過ごした記憶も、絆も、思い出も存在していなかった。
そのことを突きつけた時の、二人の顔。
あの絶望の色は、今でも脳裏に焼き付いている。
自分の言葉で、彼女たちを傷つけた。
その事実だけは、記憶がなくても分かった。
「……はぁ」
制服のネクタイを締めながら、僕は小さくため息を吐いた。
鏡の中には、いつも通りの自分が映っている。
少し憂いを帯びた黒い瞳。
目立つわけでもない顔立ち。
体格も、筋肉も、どこにでもいる人間の学生と変わらない。
ただ、胸元には黒い紐がかかっている。
その先にある銀色の懐中時計が、制服の内側で静かに時を刻んでいた。
チ、チ、チ、チ。
この音だけは、変わらない。
僕がどれだけ混乱しても。
過去がどれほど霧に包まれていても。
この時計だけは、僕がここにいることを証明するように、淡々と時を刻み続けている。
けれど。
最近、その音に別のものが重なるようになった。
ピロン。
机の上に置いていた端末が、小さく通知音を鳴らした。
僕はネクタイを整える手を止める。
画面を見るまでもなく、誰からかは何となく分かっていた。
端末を手に取る。
そこには、案の定、二つの名前が並んでいた。
『さくらみこ』
『星街すいせい』
僕は数秒、画面を見つめた。
それから、覚悟を決めて通知を開く。
『にゃっはろー! ユウト、ちゃんと起きてるにぇ? 寝坊してたらエリート巫女の神罰が下るから注意するのら!』
『おはよ、ユウトさん。朝ご飯ちゃんと食べた? 食べてなかったら、すいちゃんが怒るよー?』
朝の七時半。
登校前の、なんでもない時間。
僕は画面を見下ろしながら、思わず口元を緩めていた。
「……何なんだ、この二人」
最初のうちは、二人とも探るようなメッセージを送ってきていた。
『今日は無事に帰れた?』
『体調、大丈夫?』
『時計、ちゃんと動いてる?』
『変な夢とか見てない?』
文面はどこか慎重だった。
僕が警戒しないように。
僕が逃げないように。
距離を測りながら、ゆっくりと言葉を置いている。
そんな印象だった。
けれど、それが崩れるのに、そう時間はかからなかった。
二日目の夜あたりから、堰を切ったようにメッセージが飛んでくるようになったのだ。
『ユウト、今日の晩ご飯なに食べたにぇ?』
『すいちゃんは今レッスン終わった。褒めて』
『ユウト、みこの新作配信見た!? 見てなかったら見るのら!』
『今度の休み、空いてる? 空いてるよね? 空けてね?』
『みこちがうるさいと思ったら、すいちゃんに避難してきてもいいよ』
『すいちゃんの方が危険だから騙されちゃダメにぇ!!』
ひどい時は、数分に一回どころか、連続で通知が鳴る。
授業中に端末をマナーモードにし忘れた時など、机の中で震え続ける端末を押さえるのに必死だった。
普通なら、迷惑だと思うのだろう。
いや、実際、少し困ってはいる。
世界的トップスター二人から怒涛のように個人メッセージが届くという状況は、控えめに言って精神に悪い。
通知が鳴るたびに心臓が跳ねる。
周囲に見られたらどうしようと、冷や汗が出る。
返信の文面にも困る。
けれど。
嫌ではなかった。
むしろ、嬉しいと思っている自分がいる。
それが一番、厄介だった。
「……おはようございます。ちゃんと起きています。朝ご飯はこれから食べます」
僕はそう打って、二人にまとめて返信する。
すると、ほとんど間を置かずに既読が付いた。
早すぎる。
『えらいにぇ! 朝ご飯はちゃんと食べるのがエリートへの第一歩だにぇ!』
『じゃあ今日も頑張ってね。いってらっしゃい、ユウトさん』
たったそれだけのやり取り。
けれど、不思議と胸の奥が温かくなる。
誰かに朝を気にかけられる。
誰かに行ってらっしゃいと言われる。
それだけのことが、こんなにも心を軽くするものだっただろうか。
分からない。
分からないけれど、懐かしい。
まるでずっと昔、同じように彼女たちから無茶な連絡を受けて、呆れながら返信していたような。
そんな、存在しないはずの感覚が胸に残る。
僕は端末をポケットにしまい、胸元の懐中時計を軽く押さえた。
「……行ってきます」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
けれど、その言葉を口にしてから部屋を出ると、いつもより少しだけ足取りが軽かった。
~~~~~~~~
学校での日常は、表面上は何も変わらなかった。
朝のホームルーム。
眠そうなクラスメイト。
浮遊板で通学してきた悪魔の少年が、校門前で教師に説教されている姿。
カイトが朝から購買の新作パンについて熱弁している声。
エルフの少女が、今日の小テスト範囲を真面目に確認している横顔。
すべてが、いつも通りだ。
僕もいつも通り席に座り、授業を受け、ノートを取る。
教師の声が教室に響く。
魔導工学の基礎理論。
歴史におけるギルド制度の変遷。
霊脈と魔導結界の関係。
以前なら、どの言葉も薄い膜の向こう側にあるようだった。
頭には入る。
理解もできる。
けれど、それが自分の未来に繋がっている感覚はない。
進路希望調査書はいまだに白紙だ。
将来何をしたいのかも分からない。
自分が何者なのか分からないまま、未来だけを選べと言われても、何を基準にすればいいのか見当もつかなかった。
でも、最近は少しだけ違う。
授業の合間。
休み時間。
昼休み。
ポケットの中の端末が震えるたび、僕の意識は現実へ引き戻される。
『ユウト、授業中に寝てないにぇ?』
『今、みこちがレッスンで盛大に転びました』
『すいちゃん!? なんで報告するにぇ!?』
『面白かったから』
『ユウト、笑ったら神罰の対象だにぇ!』
『でも笑っていいよ』
『すいちゃん!!』
僕は昼休みの机で弁当を食べながら、端末を見て肩を震わせた。
笑ってはいけない。
ここで笑えば、獣人の友人――カイトに突っ込まれる。
そう思っても、口元が勝手に緩む。
「……ユウト?」
隣から声がした。
カイトがパンを片手に、疑うような目でこちらを見ている。
「何ニヤニヤしてんだ?」
「してないよ」
「してたぞ。めちゃくちゃしてた」
「気のせい」
「いや、今のお前は完全に『誰かから嬉しいメッセージ来ました』って顔だった」
「獣人の観察眼って、そういうところに使うものじゃないと思う」
「話を逸らすな。彼女か?」
「違う」
即答した。
即答したのに、なぜか胸が微妙にざわついた。
「怪しいな」
「怪しくない」
「桜井ユウトに春が来たか……」
「来てない」
「ヤマトの枯れない桜だけに?」
「うまくない」
カイトはゲラゲラ笑いながら、自分の席へ戻っていった。
僕は小さくため息を吐く。
けれど、そのため息には以前のような重苦しさはなかった。
画面に視線を戻す。
そこでは、みこさんとすいせいさんが、いつの間にか二人だけで口論を始めていた。
『ユウトはみこの配信を見るべきだにぇ!』
『いや、今日はすいちゃんの歌枠のアーカイブを見る日でしょ』
『勝手に決めるなにぇ!』
『じゃあ半分ずつでいいよ。先にすいちゃん』
『それ絶対最後まで持っていくやつにぇ!』
僕は少し考えてから、返信を打った。
『どちらも時間がある時に見ます。喧嘩しないでください』
送信。
数秒後。
『はい……』
『ごめんなさい……』
急に大人しくなった。
僕は思わず瞬きをした。
どうして、この二人は僕に注意されるとこんなに素直になるのだろう。
意味が分からない。
けれど、その反応もまた、どこか懐かしかった。
まるで昔から、こうやって二人を宥めていたような。
「……本当に、何なんだろうな」
僕は小さく呟き、端末を伏せた。
胸ポケットの時計が、チ、チ、と優しく鳴っていた。
~~~~~~~~
放課後。
授業が終わり、部活動や帰宅で校内が騒がしくなっていく中、僕は一人、屋上へ向かっていた。
別に、特別な理由があったわけではない。
ただ、少し静かな場所に行きたかった。
最近の僕の心は、以前とは違う意味で落ち着かない。
過去は相変わらず思い出せない。
けれど、何もなかった頃とは違う。
みこさんとすいせいさんから届くメッセージ。
彼女たちと交わす短い言葉。
そのたびに湧き上がる、不可解な懐かしさと嬉しさ。
それは、胸の空白を少しずつ埋めるようでいて、同時に、空白の存在をより強く意識させるものでもあった。
なぜ、自分は彼女たちの言葉にこんなにも反応するのか。
なぜ、彼女たちの笑顔を思い出すと、胸が温かくなるのか。
なぜ、記憶がないのに、二人を悲しませたくないと思うのか。
答えは出ない。
だから、考える場所が欲しかった。
屋上の扉を開ける。
夕方の風が、制服の裾を揺らした。
学校の屋上からは、街の景色がよく見える。
遠くに浮遊大陸。
その下を行き交う魔導船。
校庭では、獣人の生徒たちが部活動で走り回っている。
上空の回廊を、翼を持つ生徒が帰宅していく姿も見えた。
僕はフェンスの近くまで歩き、空を見上げた。
胸元の時計が時を刻んでいる。
チ、チ、チ、チ。
端末は静かだった。
みこさんもすいせいさんも、今は配信か仕事中なのかもしれない。
それが少しだけ寂しいと思ってしまった自分に、僕は苦笑した。
「……ずいぶん毒されてるな、僕も」
ほんの数日前まで、彼女たちは画面の向こうの存在だった。
名前を聞くだけで胸が痛み、理由の分からない焦燥に襲われる、遠い遠い人たち。
それが今では、端末の通知ひとつで一喜一憂するようになっている。
おかしい。
どう考えても、おかしい。
けれど、そのおかしさが、嫌ではなかった。
「へぇ」
不意に、背後から声がした。
「屋上で黄昏れる先輩、ですか。なかなか絵になりますね」
僕は振り向いた。
屋上の入口近くに、一人の生徒が立っていた。
すらりとした長身。
整った顔立ち。
中性的で、どこか儚げな雰囲気。
青を基調とした髪が、夕方の風にさらりと揺れている。
制服をきちんと着こなしているだけなのに、まるで雑誌の表紙から抜け出してきたような存在感があった。
火威青。
僕の一年後輩。
学校では、男子よりも女子にモテると評判の生徒だった。
廊下を歩けば、女子生徒たちが振り返る。
クールで物静か。
所作が綺麗で、どこか王子様のよう。
そんな評価を受けているらしい。
ただし。
僕にとっての火威青は、そういう完成された王子様像とは少し違う。
クールを装っているくせに、どこか抜けている。
格好よく振る舞おうとして、最後の一歩で盛大に転ぶ。
自分の興味があるものにはとことん突っ込んでいく隠れオタク。
そして、漫画家志望の後輩。
それが、僕の知っている火威青だった。
「火威さん」
僕が名前を呼ぶと、彼女は少しだけ眉を動かした。
「青でいいって、何度も言っているじゃないですか、先輩」
「じゃあ、青」
「はい。よろしい」
青は満足そうに頷き、僕の隣まで歩いてきた。
屋上のフェンスに軽く背を預け、空を見上げる。
「こんなところで一人、何をしていたんですか?」
「別に。ちょっと風に当たってただけ」
「それ、悩みがある人の台詞ですよ」
「そうかな」
「そうです。漫画だと、だいたい次のページでヒロインがやってきて相談に乗ります」
「自分をヒロイン枠に置くの、なかなか強いね」
「僕ほどの美形なら、ヒロインもヒーローも兼任できますから」
「すごい自信だ」
「事実なので」
青は涼しい顔でそう言った。
だが、その耳元が少しだけ赤くなっている。
こういうところが、彼女は分かりやすい。
「で、本当は?」
青は横目で僕を見る。
「何かあったんですか、先輩」
「何か、ってほどでもないよ」
「嘘ですね」
「早いな」
「先輩、嘘をつく時に少しだけ目を逸らしますから」
「そう?」
「そうです。僕は観察力が売りなので」
「漫画家志望だもんね」
「はい。人間観察は創作の基本です」
青は胸を張った。
その仕草だけ見れば、確かに格好いい。
けれど、次の瞬間、風で舞ったプリントの端が顔に張り付き、「むぐっ」と妙な声を出した。
僕は思わず笑ってしまった。
「……先輩」
プリントを剥がした青が、恨めしそうにこちらを見る。
「今、笑いましたね」
「ごめん。不可抗力だった」
「僕の格好いい空気が台無しです」
「そういうところだと思うよ」
「どういうところですか」
「いや、何でもない」
青は不満そうに頬を膨らませたが、すぐにふっと表情を緩めた。
「でも、よかった」
「何が?」
「先輩、ちゃんと笑うようになりましたね」
その言葉に、僕は少しだけ黙った。
青はフェンスの向こうの夕空を見ながら続ける。
「前は、笑ってても笑ってないみたいでした」
「……そんなに?」
「はい。すごく」
青の声は静かだった。
「教室で友達と話している時も、購買でパンを選んでいる時も、僕がくだらない漫画の設定を聞かせている時も。先輩はちゃんと相槌を打って、ちゃんと笑って、ちゃんとそこにいるのに……どこか、ずっと遠くにいるみたいでした」
夕風が、彼女の青い髪を揺らす。
「でも、今は少し違います」
「違う?」
「はい」
青は僕を見る。
その瞳は、普段のクールぶったものではなく、真剣だった。
「少しだけ、柔らかくなりました。目の奥が。笑い方も。まるで、なくしたと思っていた大事なものの欠片を、どこかで見つけてきたみたいに」
「……」
僕は何も言えなかった。
青の観察眼は、時々妙に鋭い。
彼女は僕の中に起きた変化を、僕自身よりも先に言葉にしてしまった。
「何があったんですか?」
青が尋ねる。
「ヤマトに行ってからですよね。何か、あったんですか?」
「……大したことじゃないよ」
「先輩」
「本当に、大したことじゃない」
僕は空を見上げる。
夕暮れの光が、雲の端を金色に染めていた。
「ただ、さくら神社に行った」
「枯れない桜の?」
「うん。カイトたちと一緒に」
「それは聞きました。帰ってきた後、カイト先輩が三十回くらい自慢してましたから」
「そんなに?」
「はい。『僕の案内が完璧だったからユウトが元気になった』って」
「……あいつらしいな」
僕は小さく笑った。
「でも、実際、綺麗な場所だったよ。雪山の中なのに、境内だけ春みたいで。桜がずっと咲いていて、風も暖かくて」
「それだけですか?」
青は逃がしてくれなかった。
「それだけで、先輩はそんな顔になったんですか?」
「……鋭いね、青は」
「先輩が分かりやすいんです」
「よく言う」
僕は胸ポケットの懐中時計を軽く押さえた。
どこまで話すべきか迷った。
さくらみこさんと星街すいせいさんに会ったこと。
二人が僕を知っていたこと。
僕自身が何も覚えていないこと。
連絡先を交換したこと。
それ以来、毎日のようにメッセージが届くこと。
全部話せるわけがない。
話したところで、信じてもらえるかも分からない。
いや、青なら信じるかもしれない。
漫画のネタとして目を輝かせながら。
でも、だからこそ話せない。
僕は曖昧に言葉を選んだ。
「神社の奥に、すごく大きな一本桜があったんだ」
「御神木ですか?」
「たぶん。注連縄が巻かれていて、他の桜よりずっと古くて、大きくて。そこにいると、不思議と落ち着いた」
「……それで?」
「夢を見た」
青の目が、わずかに細くなる。
「夢?」
「うん。よく覚えてないけど、たぶん、懐かしい夢だった」
「覚えてないのに、懐かしいんですか?」
「変だろ?」
「先輩は前から変です」
「ひどいな」
「褒めてます」
「それは無理がある」
僕は苦笑した。
「でも、そうなんだ。内容は思い出せない。でも、目が覚めた時に、少しだけ……自分が空っぽじゃないような気がした」
言葉にして、自分でも少し驚いた。
そんなふうに思っていたのか。
自分のことなのに、口に出すまで分からなかった。
「過去は思い出せない。相変わらず、自分が何者なのかもよく分からない。でも、何かが繋がった気がしたんだ」
胸ポケットの時計が、チ、と鳴る。
「多分、あの場所に行ってよかったんだと思う」
僕はそう言って、空を見上げた。
話したのは、ほんの一部だ。
大事なところはぼかした。
みこさんとすいせいさんのことは、何も言っていない。
それでも、青は黙って僕を見ていた。
その横顔には、複雑な感情が浮かんでいた。
「……そうですか」
青は小さく呟いた。
「先輩の心を、少し軽くした誰かがいたんですね」
僕は思わず彼女を見た。
「誰か、とは言ってないけど」
「言ってますよ。顔が」
「僕、そんなに顔に出る?」
「出ます。少なくとも僕には」
青は笑った。
その笑顔は、いつもの王子様めいた余裕あるものだった。
けれど、その奥にほんの少しだけ、苦いものが混ざっているように見えた。
「よかったですね、先輩」
「……うん」
「本当に、よかったです」
その声は優しかった。
けれど、青の胸の中は、それほど単純ではなかった。
火威青は、桜井ユウトという先輩を、入学した時からなぜか放っておけなかった。
最初に見かけたのは、入学式の日だった。
新入生である青が、校舎の場所を間違えて迷っていた時。
ユウトは何でもない顔で声をかけ、案内してくれた。
『そっち、旧校舎だよ。新入生の受付は反対側』
それだけだった。
特別優しかったわけでもない。
過剰に世話を焼いたわけでもない。
けれど、その何気ない声が妙に印象に残った。
その後も、彼はいつもどこか遠くを見ていた。
友人に囲まれていても。
授業を受けていても。
昼休みにパンを食べていても。
そこにいるのに、そこにいない。
まるで、自分だけが世界から少しずれてしまっていることを、誰にも悟られまいとしているような人。
青は、そんなユウトが気になった。
クールな王子様を装って近づいた。
漫画の資料という名目で話しかけた。
くだらない設定を聞かせた。
時には無茶な相談を持ちかけた。
何度も、何度も。
少しずつ距離を詰めてきたつもりだった。
ユウトは青の話を邪険にはしなかった。
呆れながらも聞いてくれた。
間違っていれば指摘し、面白ければ小さく笑った。
その笑顔を見るたび、青は胸の奥が少し温かくなった。
けれど。
彼の中心には、いつも触れられない空白があった。
青がどれだけ手を伸ばしても、その空白に届くことはなかった。
それなのに。
ヤマトから帰ってきたユウトは、少し変わっていた。
ほんの少し。
けれど、確かに。
笑い方が柔らかくなった。
端末を見る時の目が、どこか優しくなった。
ふとした瞬間に、胸元の時計を押さえる手つきが、以前より穏やかになった。
それは、青がずっと見たかった変化だった。
ずっと、彼にそうなってほしかった。
けれど。
その変化をもたらしたのは、自分ではない。
その事実が、青の胸を静かに刺していた。
入学した時から、気にかけてきた。
何度も声をかけた。
彼の隣に立とうとしてきた。
なのに。
出会って十数分か、せいぜい数十分の誰かが、ユウトの心の奥にある固く閉ざされた扉を、ほんの少しとはいえ開けてしまった。
悔しい。
そう思った。
同時に、嫉妬した。
その誰かが、羨ましかった。
ユウトのそんな顔を引き出せた誰かが。
彼の空白に触れられた誰かが。
青は、その人物をまだ知らない。
でも、確かにいる。
ユウトの言葉の端に。
柔らかくなった笑みの奥に。
彼が端末を見る時の、わずかな表情の変化に。
その「誰か」の影がある。
青は、胸の中に生まれた感情に、自分で少し戸惑っていた。
これは何だろう。
尊敬?
独占欲?
先輩を取られたような寂しさ?
それとも、もっと別の名前を持つものなのか。
分からない。
けれど、不快ではなかった。
むしろ、妙に創作意欲を刺激される感情だった。
胸がざわつく。
ペンを握りたくなる。
この感情に名前を付けたくなる。
青は小さく息を吐き、いつものクールな笑みを作った。
「先輩」
「何?」
「今度、そのさくら神社の話、もっと詳しく聞かせてください」
「いいけど、そんなに面白い話じゃないよ」
「面白いかどうかは、僕が決めます」
「漫画のネタにする気?」
「当然です」
「隠す気ないんだ」
「はい。先輩は僕の創作意欲を刺激するので」
「それ、褒められてるのか微妙だな」
「褒めてますよ」
青は一歩近づき、僕の顔を覗き込んだ。
「それに、僕はまだ先輩のことを描き切れていませんから」
「僕を描く?」
「はい」
青の瞳が、夕陽を受けて淡く光った。
「空っぽみたいな顔をしていた先輩が、どうやって自分の物語を取り戻していくのか。僕は、すごく興味があるんです」
「人の人生を勝手に漫画の題材にしないでくれるかな」
「嫌です」
「即答か」
「だって、先輩は面白いので」
僕は呆れてため息を吐いた。
けれど、不思議と嫌な気はしなかった。
青の言葉はいつも少し変だ。
でも、その奥には悪意がない。
むしろ、彼女なりに僕を見てくれているのだと分かる。
「……なら、ちゃんと格好よく描いてよ」
僕がそう言うと、青は目を丸くした。
それから、ふっと笑う。
「もちろんです。僕の漫画の主人公にするなら、世界一格好よく描きますよ」
「主人公にする気なんだ」
「はい。先輩、素材として最高なので」
「やっぱり褒められてる気がしない」
二人で並んで、夕暮れの空を見上げる。
風が吹く。
胸ポケットの時計が鳴る。
その音に重なるように、端末が小さく震えた。
ピロン。
僕は反射的にポケットへ手を伸ばす。
青の目が、その動きを見逃さなかった。
「……例の、先輩の顔を柔らかくした誰かですか?」
「さあね」
「否定しないんですね」
「……ただのメッセージだよ」
画面には、二つの通知が並んでいる。
『ユウト、今日の晩ご飯なに食べるにぇ?』
『放課後終わった? すいちゃんは今から収録。応援して』
僕は画面を見て、また少しだけ笑ってしまった。
青はそれを、横から見ていた。
その笑顔に、胸がちくりと痛む。
けれど同時に、青の中に別の感情も生まれていた。
負けたくない。
まだ名前も知らない、その誰かに。
ユウトの心を少し開かせた誰かに。
自分も、彼の物語の中に入りたい。
ただの後輩としてではなく。
ただの観察者としてでもなく。
もっと深く。
もっと鮮やかに。
彼の空白に、自分の色も残したい。
青はその感情を胸の奥に隠し、いつもの涼しげな笑みを浮かべた。
「先輩」
「何?」
「今度、僕とも出かけましょう」
「急だね」
「取材です」
「また漫画?」
「はい。先輩の表情研究です」
「僕を口実にして遊びたいだけじゃない?」
「それもあります」
「正直だな」
青はフェンスから背を離し、夕陽を背負ってこちらを振り向いた。
その姿は、確かに学校中の女子が騒ぐだけのことはあるくらい、整っていて、様になっていた。
「約束ですよ、先輩」
「まだ了承してない」
「では、今してください」
「強引だな」
「欲しいものは、自分から掴みに行かないと、誰かに先を越されますから」
その言葉に、僕は少しだけ目を細めた。
青の声には、いつもの軽さだけではない、妙な熱があった。
「……何の話?」
「創作論です」
「本当に?」
「もちろん」
青は微笑んだ。
完璧に整えた、王子様のような笑顔。
けれど、その奥にある小さな嫉妬と悔しさには、たぶん僕は気づかなかった。
「じゃあ、考えておくよ」
「約束ですからね」
「考えておくって言っただけ」
「僕の中では約束です」
「勝手だな」
「はい。僕は案外、強欲なので」
そう言って、青は屋上の扉へ向かって歩き出した。
扉の前で一度だけ振り返る。
「先輩」
「まだ何か?」
「さっきの顔、覚えておきます」
「どの顔?」
「大事な誰かからメッセージが来た時の顔です」
「……」
「次に僕と話す時も、そういう顔をさせてみせますから」
そう言い残し、青は屋上を出ていった。
扉が閉まる。
屋上には、僕一人が残された。
「……何だったんだ、今の」
僕は小さく呟いた。
胸ポケットの時計が、チ、チ、と鳴る。
端末の画面には、まだ返信していない二人からのメッセージ。
そして、頭の中には、青の最後の言葉が残っていた。
――次に僕と話す時も、そういう顔をさせてみせますから。
僕は空を見上げる。
夕暮れの空は、少しずつ夜へと変わり始めていた。
過去はまだ戻らない。
自分が何者だったのかも分からない。
けれど、止まっていたはずの日常は、少しずつ、確実に変わり始めている。
みこさん。
すいせいさん。
そして、青。
僕の空白だった物語に、次々と新しい色が落とされていく。
それが希望なのか、混乱の始まりなのかは分からない。
けれど少なくとも。
僕はもう、完全な空っぽではなかった。
チ、チ、チ、チ――。
懐中時計が、静かに時を刻む。
僕は端末を開き、二人への返信を打ち始めた。
『今日の晩ご飯はまだ決めていません。収録、頑張ってください』
送信。
すぐに既読がつく。
そして、ほぼ同時に二つの返信が返ってきた。
『じゃあちゃんと温かいもの食べるにぇ!』
『ありがと。ユウトさんに応援されたから、今日は絶対うまく歌える』
僕はまた、少しだけ笑った。
その笑顔を、屋上の扉の向こうでこっそり見ていた青が、小さく唇を噛んでいたことに。
この時の僕は、まだ気づいていなかった。