hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第10話 青い後輩は気づいてしまう

 

 チ、チ、チ、チ、チ、チ――。

 

 胸ポケットの奥で、銀色の懐中時計が規則正しく時を刻んでいる。

 

 いつもの朝。

 

 いつもの部屋。

 

 いつもの窓から差し込む、ホロアースの淡い陽光。

 

 カーテンを開ければ、そこには変わらない景色が広がっていた。

 

 透き通るような青空。

 

 遠くに浮かぶ巨大な浮遊大陸。

 

 その周囲を旋回する翼竜。

 

 空中回廊を歩く翼持つ人々。

 

 眼下の通りを行き交う獣人やエルフ、悪魔、人間たち。

 

 多様な種族が当たり前のように共生する、ホロアースの朝。

 

 僕――桜井ユウトは、今日もその中にいる。

 

 ただの人間として。

 

 ただの高校生として。

 

 ただの、どこにでもいる学生として。

 

 ヤマトのさくら神社へ観光に行ってから、数日が経っていた。

 

 あの日、枯れない一本桜の下で起きた出来事は、今でも現実だったのか夢だったのか判別がつかないほど、あまりにも現実離れしている。

 

 ホロライブ0期生、さくらみこ。

 

 ホロライブ0期生、星街すいせい。

 

 世界中にその名を知られるトップ冒険者であり、配信者であり、アイドルでもある二人。

 

 そんな雲の上の存在と、なぜか連絡先を交換した。

 

 それだけでも、普通なら一生分の運を使い果たしたと言われてもおかしくない。

 

 けれど、問題はそこではない。

 

 彼女たちは、僕を知っていた。

 

 僕の名前を当然のように呼んだ。

 

 僕と再会できたことを、涙を流して喜んだ。

 

 まるで長い間、僕を探し続けていたかのように。

 

 けれど、僕にはその記憶がない。

 

 何一つ、思い出せない。

 

 彼女たちが語る「桜井ユウト」という人物は、僕の名前と顔を持っている。

 

 けれど、今の僕の中には、彼女たちと過ごした記憶も、絆も、思い出も存在していなかった。

 

 そのことを突きつけた時の、二人の顔。

 

 あの絶望の色は、今でも脳裏に焼き付いている。

 

 自分の言葉で、彼女たちを傷つけた。

 

 その事実だけは、記憶がなくても分かった。

 

 「……はぁ」

 

 制服のネクタイを締めながら、僕は小さくため息を吐いた。

 

 鏡の中には、いつも通りの自分が映っている。

 

 少し憂いを帯びた黒い瞳。

 

 目立つわけでもない顔立ち。

 

 体格も、筋肉も、どこにでもいる人間の学生と変わらない。

 

 ただ、胸元には黒い紐がかかっている。

 

 その先にある銀色の懐中時計が、制服の内側で静かに時を刻んでいた。

 

 チ、チ、チ、チ。

 

 この音だけは、変わらない。

 

 僕がどれだけ混乱しても。

 

 過去がどれほど霧に包まれていても。

 

 この時計だけは、僕がここにいることを証明するように、淡々と時を刻み続けている。

 

 けれど。

 

 最近、その音に別のものが重なるようになった。

 

 ピロン。

 

 机の上に置いていた端末が、小さく通知音を鳴らした。

 

 僕はネクタイを整える手を止める。

 

 画面を見るまでもなく、誰からかは何となく分かっていた。

 

 端末を手に取る。

 

 そこには、案の定、二つの名前が並んでいた。

 

 『さくらみこ』

 

 『星街すいせい』

 

 僕は数秒、画面を見つめた。

 

 それから、覚悟を決めて通知を開く。

 

 『にゃっはろー! ユウト、ちゃんと起きてるにぇ? 寝坊してたらエリート巫女の神罰が下るから注意するのら!』

 

 『おはよ、ユウトさん。朝ご飯ちゃんと食べた? 食べてなかったら、すいちゃんが怒るよー?』

 

 朝の七時半。

 

 登校前の、なんでもない時間。

 

 僕は画面を見下ろしながら、思わず口元を緩めていた。

 

 「……何なんだ、この二人」

 

 最初のうちは、二人とも探るようなメッセージを送ってきていた。

 

 『今日は無事に帰れた?』

 

 『体調、大丈夫?』

 

 『時計、ちゃんと動いてる?』

 

 『変な夢とか見てない?』

 

 文面はどこか慎重だった。

 

 僕が警戒しないように。

 

 僕が逃げないように。

 

 距離を測りながら、ゆっくりと言葉を置いている。

 

 そんな印象だった。

 

 けれど、それが崩れるのに、そう時間はかからなかった。

 

 二日目の夜あたりから、堰を切ったようにメッセージが飛んでくるようになったのだ。

 

 『ユウト、今日の晩ご飯なに食べたにぇ?』

 

 『すいちゃんは今レッスン終わった。褒めて』

 

 『ユウト、みこの新作配信見た!? 見てなかったら見るのら!』

 

 『今度の休み、空いてる? 空いてるよね? 空けてね?』

 

 『みこちがうるさいと思ったら、すいちゃんに避難してきてもいいよ』

 

 『すいちゃんの方が危険だから騙されちゃダメにぇ!!』

 

 ひどい時は、数分に一回どころか、連続で通知が鳴る。

 

 授業中に端末をマナーモードにし忘れた時など、机の中で震え続ける端末を押さえるのに必死だった。

 

 普通なら、迷惑だと思うのだろう。

 

 いや、実際、少し困ってはいる。

 

 世界的トップスター二人から怒涛のように個人メッセージが届くという状況は、控えめに言って精神に悪い。

 

 通知が鳴るたびに心臓が跳ねる。

 

 周囲に見られたらどうしようと、冷や汗が出る。

 

 返信の文面にも困る。

 

 けれど。

 

 嫌ではなかった。

 

 むしろ、嬉しいと思っている自分がいる。

 

 それが一番、厄介だった。

 

 「……おはようございます。ちゃんと起きています。朝ご飯はこれから食べます」

 

 僕はそう打って、二人にまとめて返信する。

 

 すると、ほとんど間を置かずに既読が付いた。

 

 早すぎる。

 

 『えらいにぇ! 朝ご飯はちゃんと食べるのがエリートへの第一歩だにぇ!』

 

 『じゃあ今日も頑張ってね。いってらっしゃい、ユウトさん』

 

 たったそれだけのやり取り。

 

 けれど、不思議と胸の奥が温かくなる。

 

 誰かに朝を気にかけられる。

 

 誰かに行ってらっしゃいと言われる。

 

 それだけのことが、こんなにも心を軽くするものだっただろうか。

 

 分からない。

 

 分からないけれど、懐かしい。

 

 まるでずっと昔、同じように彼女たちから無茶な連絡を受けて、呆れながら返信していたような。

 

 そんな、存在しないはずの感覚が胸に残る。

 

 僕は端末をポケットにしまい、胸元の懐中時計を軽く押さえた。

 

 「……行ってきます」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

 けれど、その言葉を口にしてから部屋を出ると、いつもより少しだけ足取りが軽かった。

 

 ~~~~~~~~

 

 学校での日常は、表面上は何も変わらなかった。

 

 朝のホームルーム。

 

 眠そうなクラスメイト。

 

 浮遊板で通学してきた悪魔の少年が、校門前で教師に説教されている姿。

 

 カイトが朝から購買の新作パンについて熱弁している声。

 

 エルフの少女が、今日の小テスト範囲を真面目に確認している横顔。

 

 すべてが、いつも通りだ。

 

 僕もいつも通り席に座り、授業を受け、ノートを取る。

 

 教師の声が教室に響く。

 

 魔導工学の基礎理論。

 

 歴史におけるギルド制度の変遷。

 

 霊脈と魔導結界の関係。

 

 以前なら、どの言葉も薄い膜の向こう側にあるようだった。

 

 頭には入る。

 

 理解もできる。

 

 けれど、それが自分の未来に繋がっている感覚はない。

 

 進路希望調査書はいまだに白紙だ。

 

 将来何をしたいのかも分からない。

 

 自分が何者なのか分からないまま、未来だけを選べと言われても、何を基準にすればいいのか見当もつかなかった。

 

 でも、最近は少しだけ違う。

 

 授業の合間。

 

 休み時間。

 

 昼休み。

 

 ポケットの中の端末が震えるたび、僕の意識は現実へ引き戻される。

 

 『ユウト、授業中に寝てないにぇ?』

 

 『今、みこちがレッスンで盛大に転びました』

 

 『すいちゃん!? なんで報告するにぇ!?』

 

 『面白かったから』

 

 『ユウト、笑ったら神罰の対象だにぇ!』

 

 『でも笑っていいよ』

 

 『すいちゃん!!』

 

 僕は昼休みの机で弁当を食べながら、端末を見て肩を震わせた。

 

 笑ってはいけない。

 

 ここで笑えば、獣人の友人――カイトに突っ込まれる。

 

 そう思っても、口元が勝手に緩む。

 

 「……ユウト?」

 

 隣から声がした。

 

 カイトがパンを片手に、疑うような目でこちらを見ている。

 

 「何ニヤニヤしてんだ?」

 

 「してないよ」

 

 「してたぞ。めちゃくちゃしてた」

 

 「気のせい」

 

 「いや、今のお前は完全に『誰かから嬉しいメッセージ来ました』って顔だった」

 

 「獣人の観察眼って、そういうところに使うものじゃないと思う」

 

 「話を逸らすな。彼女か?」

 

 「違う」

 

 即答した。

 

 即答したのに、なぜか胸が微妙にざわついた。

 

 「怪しいな」

 

 「怪しくない」

 

 「桜井ユウトに春が来たか……」

 

 「来てない」

 

 「ヤマトの枯れない桜だけに?」

 

 「うまくない」

 

 カイトはゲラゲラ笑いながら、自分の席へ戻っていった。

 

 僕は小さくため息を吐く。

 

 けれど、そのため息には以前のような重苦しさはなかった。

 

 画面に視線を戻す。

 

 そこでは、みこさんとすいせいさんが、いつの間にか二人だけで口論を始めていた。

 

 『ユウトはみこの配信を見るべきだにぇ!』

 

 『いや、今日はすいちゃんの歌枠のアーカイブを見る日でしょ』

 

 『勝手に決めるなにぇ!』

 

 『じゃあ半分ずつでいいよ。先にすいちゃん』

 

 『それ絶対最後まで持っていくやつにぇ!』

 

 僕は少し考えてから、返信を打った。

 

 『どちらも時間がある時に見ます。喧嘩しないでください』

 

 送信。

 

 数秒後。

 

 『はい……』

 

 『ごめんなさい……』

 

 急に大人しくなった。

 

 僕は思わず瞬きをした。

 

 どうして、この二人は僕に注意されるとこんなに素直になるのだろう。

 

 意味が分からない。

 

 けれど、その反応もまた、どこか懐かしかった。

 

 まるで昔から、こうやって二人を宥めていたような。

 

 「……本当に、何なんだろうな」

 

 僕は小さく呟き、端末を伏せた。

 

 胸ポケットの時計が、チ、チ、と優しく鳴っていた。

 

 ~~~~~~~~

 

 放課後。

 

 授業が終わり、部活動や帰宅で校内が騒がしくなっていく中、僕は一人、屋上へ向かっていた。

 

 別に、特別な理由があったわけではない。

 

 ただ、少し静かな場所に行きたかった。

 

 最近の僕の心は、以前とは違う意味で落ち着かない。

 

 過去は相変わらず思い出せない。

 

 けれど、何もなかった頃とは違う。

 

 みこさんとすいせいさんから届くメッセージ。

 

 彼女たちと交わす短い言葉。

 

 そのたびに湧き上がる、不可解な懐かしさと嬉しさ。

 

 それは、胸の空白を少しずつ埋めるようでいて、同時に、空白の存在をより強く意識させるものでもあった。

 

 なぜ、自分は彼女たちの言葉にこんなにも反応するのか。

 

 なぜ、彼女たちの笑顔を思い出すと、胸が温かくなるのか。

 

 なぜ、記憶がないのに、二人を悲しませたくないと思うのか。

 

 答えは出ない。

 

 だから、考える場所が欲しかった。

 

 屋上の扉を開ける。

 

 夕方の風が、制服の裾を揺らした。

 

 学校の屋上からは、街の景色がよく見える。

 

 遠くに浮遊大陸。

 

 その下を行き交う魔導船。

 

 校庭では、獣人の生徒たちが部活動で走り回っている。

 

 上空の回廊を、翼を持つ生徒が帰宅していく姿も見えた。

 

 僕はフェンスの近くまで歩き、空を見上げた。

 

 胸元の時計が時を刻んでいる。

 

 チ、チ、チ、チ。

 

 端末は静かだった。

 

 みこさんもすいせいさんも、今は配信か仕事中なのかもしれない。

 

 それが少しだけ寂しいと思ってしまった自分に、僕は苦笑した。

 

「……ずいぶん毒されてるな、僕も」

 

 ほんの数日前まで、彼女たちは画面の向こうの存在だった。

 

 名前を聞くだけで胸が痛み、理由の分からない焦燥に襲われる、遠い遠い人たち。

 

 それが今では、端末の通知ひとつで一喜一憂するようになっている。

 

 おかしい。

 

 どう考えても、おかしい。

 

 けれど、そのおかしさが、嫌ではなかった。

 

 「へぇ」

 

 不意に、背後から声がした。

 

 「屋上で黄昏れる先輩、ですか。なかなか絵になりますね」

 

 僕は振り向いた。

 

 屋上の入口近くに、一人の生徒が立っていた。

 

 すらりとした長身。

 

 整った顔立ち。

 

 中性的で、どこか儚げな雰囲気。

 

 青を基調とした髪が、夕方の風にさらりと揺れている。

 

 制服をきちんと着こなしているだけなのに、まるで雑誌の表紙から抜け出してきたような存在感があった。

 

 火威青。

 

 僕の一年後輩。

 

 学校では、男子よりも女子にモテると評判の生徒だった。

 

 廊下を歩けば、女子生徒たちが振り返る。

 

 クールで物静か。

 

 所作が綺麗で、どこか王子様のよう。

 

 そんな評価を受けているらしい。

 

 ただし。

 

 僕にとっての火威青は、そういう完成された王子様像とは少し違う。

 

 クールを装っているくせに、どこか抜けている。

 

 格好よく振る舞おうとして、最後の一歩で盛大に転ぶ。

 

 自分の興味があるものにはとことん突っ込んでいく隠れオタク。

 

 そして、漫画家志望の後輩。

 

 それが、僕の知っている火威青だった。

 

 「火威さん」

 

 僕が名前を呼ぶと、彼女は少しだけ眉を動かした。

 

 「青でいいって、何度も言っているじゃないですか、先輩」

 

 「じゃあ、青」

 

 「はい。よろしい」

 

 青は満足そうに頷き、僕の隣まで歩いてきた。

 

 屋上のフェンスに軽く背を預け、空を見上げる。

 

 「こんなところで一人、何をしていたんですか?」

 

 「別に。ちょっと風に当たってただけ」

 

 「それ、悩みがある人の台詞ですよ」

 

 「そうかな」

 

 「そうです。漫画だと、だいたい次のページでヒロインがやってきて相談に乗ります」

 

 「自分をヒロイン枠に置くの、なかなか強いね」

 

 「僕ほどの美形なら、ヒロインもヒーローも兼任できますから」

 

 「すごい自信だ」

 

 「事実なので」

 

 青は涼しい顔でそう言った。

 

 だが、その耳元が少しだけ赤くなっている。

 

 こういうところが、彼女は分かりやすい。

 

 「で、本当は?」

 

 青は横目で僕を見る。

 

 「何かあったんですか、先輩」

 

 「何か、ってほどでもないよ」

 

 「嘘ですね」

 

 「早いな」

 

 「先輩、嘘をつく時に少しだけ目を逸らしますから」

 

 「そう?」

 

 「そうです。僕は観察力が売りなので」

 

 「漫画家志望だもんね」

 

 「はい。人間観察は創作の基本です」

 

 青は胸を張った。

 

 その仕草だけ見れば、確かに格好いい。

 

 けれど、次の瞬間、風で舞ったプリントの端が顔に張り付き、「むぐっ」と妙な声を出した。

 

 僕は思わず笑ってしまった。

 

 「……先輩」

 

 プリントを剥がした青が、恨めしそうにこちらを見る。

 

 「今、笑いましたね」

 

 「ごめん。不可抗力だった」

 

 「僕の格好いい空気が台無しです」

 

 「そういうところだと思うよ」

 

 「どういうところですか」

 

 「いや、何でもない」

 

 青は不満そうに頬を膨らませたが、すぐにふっと表情を緩めた。

 

 「でも、よかった」

 

 「何が?」

 

 「先輩、ちゃんと笑うようになりましたね」

 

 その言葉に、僕は少しだけ黙った。

 

 青はフェンスの向こうの夕空を見ながら続ける。

 

 「前は、笑ってても笑ってないみたいでした」

 

 「……そんなに?」

 

 「はい。すごく」

 

 青の声は静かだった。

 

 「教室で友達と話している時も、購買でパンを選んでいる時も、僕がくだらない漫画の設定を聞かせている時も。先輩はちゃんと相槌を打って、ちゃんと笑って、ちゃんとそこにいるのに……どこか、ずっと遠くにいるみたいでした」

 

 夕風が、彼女の青い髪を揺らす。

 

 「でも、今は少し違います」

 

 「違う?」

 

 「はい」

 

 青は僕を見る。

 

 その瞳は、普段のクールぶったものではなく、真剣だった。

 

 「少しだけ、柔らかくなりました。目の奥が。笑い方も。まるで、なくしたと思っていた大事なものの欠片を、どこかで見つけてきたみたいに」

 

 「……」

 

 僕は何も言えなかった。

 

 青の観察眼は、時々妙に鋭い。

 

 彼女は僕の中に起きた変化を、僕自身よりも先に言葉にしてしまった。

 

 「何があったんですか?」

 

 青が尋ねる。

 

 「ヤマトに行ってからですよね。何か、あったんですか?」

 

 「……大したことじゃないよ」

 

 「先輩」

 

 「本当に、大したことじゃない」

 

 僕は空を見上げる。

 

 夕暮れの光が、雲の端を金色に染めていた。

 

 「ただ、さくら神社に行った」

 

 「枯れない桜の?」

 

 「うん。カイトたちと一緒に」

 

 「それは聞きました。帰ってきた後、カイト先輩が三十回くらい自慢してましたから」

 

 「そんなに?」

 

 「はい。『僕の案内が完璧だったからユウトが元気になった』って」

 

 「……あいつらしいな」

 

 僕は小さく笑った。

 

 「でも、実際、綺麗な場所だったよ。雪山の中なのに、境内だけ春みたいで。桜がずっと咲いていて、風も暖かくて」

 

 「それだけですか?」

 

 青は逃がしてくれなかった。

 

 「それだけで、先輩はそんな顔になったんですか?」

 

 「……鋭いね、青は」

 

 「先輩が分かりやすいんです」

 

 「よく言う」

 

 僕は胸ポケットの懐中時計を軽く押さえた。

 

 どこまで話すべきか迷った。

 

 さくらみこさんと星街すいせいさんに会ったこと。

 

 二人が僕を知っていたこと。

 

 僕自身が何も覚えていないこと。

 

 連絡先を交換したこと。

 

 それ以来、毎日のようにメッセージが届くこと。

 

 全部話せるわけがない。

 

 話したところで、信じてもらえるかも分からない。

 

 いや、青なら信じるかもしれない。

 

 漫画のネタとして目を輝かせながら。

 

 でも、だからこそ話せない。

 

 僕は曖昧に言葉を選んだ。

 

 「神社の奥に、すごく大きな一本桜があったんだ」

 

 「御神木ですか?」

 

 「たぶん。注連縄が巻かれていて、他の桜よりずっと古くて、大きくて。そこにいると、不思議と落ち着いた」

 

 「……それで?」

 

 「夢を見た」

 

 青の目が、わずかに細くなる。

 

 「夢?」

 

 「うん。よく覚えてないけど、たぶん、懐かしい夢だった」

 

 「覚えてないのに、懐かしいんですか?」

 

 「変だろ?」

 

 「先輩は前から変です」

 

 「ひどいな」

 

 「褒めてます」

 

 「それは無理がある」

 

 僕は苦笑した。

 

 「でも、そうなんだ。内容は思い出せない。でも、目が覚めた時に、少しだけ……自分が空っぽじゃないような気がした」

 

 言葉にして、自分でも少し驚いた。

 

 そんなふうに思っていたのか。

 

 自分のことなのに、口に出すまで分からなかった。

 

 「過去は思い出せない。相変わらず、自分が何者なのかもよく分からない。でも、何かが繋がった気がしたんだ」

 

 胸ポケットの時計が、チ、と鳴る。

 

 「多分、あの場所に行ってよかったんだと思う」

 

 僕はそう言って、空を見上げた。

 

 話したのは、ほんの一部だ。

 

 大事なところはぼかした。

 

 みこさんとすいせいさんのことは、何も言っていない。

 

 それでも、青は黙って僕を見ていた。

 

 その横顔には、複雑な感情が浮かんでいた。

 

 「……そうですか」

 

 青は小さく呟いた。

 

 「先輩の心を、少し軽くした誰かがいたんですね」

 

 僕は思わず彼女を見た。

 

 「誰か、とは言ってないけど」

 

 「言ってますよ。顔が」

 

 「僕、そんなに顔に出る?」

 

 「出ます。少なくとも僕には」

 

 青は笑った。

 

 その笑顔は、いつもの王子様めいた余裕あるものだった。

 

 けれど、その奥にほんの少しだけ、苦いものが混ざっているように見えた。

 

 「よかったですね、先輩」

 

 「……うん」

 

 「本当に、よかったです」

 

 その声は優しかった。

 

 けれど、青の胸の中は、それほど単純ではなかった。

 

 火威青は、桜井ユウトという先輩を、入学した時からなぜか放っておけなかった。

 

 最初に見かけたのは、入学式の日だった。

 

 新入生である青が、校舎の場所を間違えて迷っていた時。

 

 ユウトは何でもない顔で声をかけ、案内してくれた。

 

 『そっち、旧校舎だよ。新入生の受付は反対側』

 

 それだけだった。

 

 特別優しかったわけでもない。

 

 過剰に世話を焼いたわけでもない。

 

 けれど、その何気ない声が妙に印象に残った。

 

 その後も、彼はいつもどこか遠くを見ていた。

 

 友人に囲まれていても。

 

 授業を受けていても。

 

 昼休みにパンを食べていても。

 

 そこにいるのに、そこにいない。

 

 まるで、自分だけが世界から少しずれてしまっていることを、誰にも悟られまいとしているような人。

 

 青は、そんなユウトが気になった。

 

 クールな王子様を装って近づいた。

 

 漫画の資料という名目で話しかけた。

 

 くだらない設定を聞かせた。

 

 時には無茶な相談を持ちかけた。

 

 何度も、何度も。

 

 少しずつ距離を詰めてきたつもりだった。

 

 ユウトは青の話を邪険にはしなかった。

 

 呆れながらも聞いてくれた。

 

 間違っていれば指摘し、面白ければ小さく笑った。

 

 その笑顔を見るたび、青は胸の奥が少し温かくなった。

 

 けれど。

 

 彼の中心には、いつも触れられない空白があった。

 

 青がどれだけ手を伸ばしても、その空白に届くことはなかった。

 

 それなのに。

 

 ヤマトから帰ってきたユウトは、少し変わっていた。

 

 ほんの少し。

 

 けれど、確かに。

 

 笑い方が柔らかくなった。

 

 端末を見る時の目が、どこか優しくなった。

 

 ふとした瞬間に、胸元の時計を押さえる手つきが、以前より穏やかになった。

 

 それは、青がずっと見たかった変化だった。

 

 ずっと、彼にそうなってほしかった。

 

 けれど。

 

 その変化をもたらしたのは、自分ではない。

 

 その事実が、青の胸を静かに刺していた。

 

 入学した時から、気にかけてきた。

 

 何度も声をかけた。

 

 彼の隣に立とうとしてきた。

 

 なのに。

 

 出会って十数分か、せいぜい数十分の誰かが、ユウトの心の奥にある固く閉ざされた扉を、ほんの少しとはいえ開けてしまった。

 

 悔しい。

 

 そう思った。

 

 同時に、嫉妬した。

 

 その誰かが、羨ましかった。

 

 ユウトのそんな顔を引き出せた誰かが。

 

 彼の空白に触れられた誰かが。

 

 青は、その人物をまだ知らない。

 

 でも、確かにいる。

 

 ユウトの言葉の端に。

 

 柔らかくなった笑みの奥に。

 

 彼が端末を見る時の、わずかな表情の変化に。

 

 その「誰か」の影がある。

 

 青は、胸の中に生まれた感情に、自分で少し戸惑っていた。

 

 これは何だろう。

 

 尊敬?

 

 独占欲?

 

 先輩を取られたような寂しさ?

 

 それとも、もっと別の名前を持つものなのか。

 

 分からない。

 

 けれど、不快ではなかった。

 

 むしろ、妙に創作意欲を刺激される感情だった。

 

 胸がざわつく。

 

 ペンを握りたくなる。

 

 この感情に名前を付けたくなる。

 

 青は小さく息を吐き、いつものクールな笑みを作った。

 

 「先輩」

 

 「何?」

 

 「今度、そのさくら神社の話、もっと詳しく聞かせてください」

 

 「いいけど、そんなに面白い話じゃないよ」

 

 「面白いかどうかは、僕が決めます」

 

 「漫画のネタにする気?」

 

 「当然です」

 

 「隠す気ないんだ」

 

 「はい。先輩は僕の創作意欲を刺激するので」

 

 「それ、褒められてるのか微妙だな」

 

 「褒めてますよ」

 

 青は一歩近づき、僕の顔を覗き込んだ。

 

 「それに、僕はまだ先輩のことを描き切れていませんから」

 

 「僕を描く?」

 

 「はい」

 

 青の瞳が、夕陽を受けて淡く光った。

 

 「空っぽみたいな顔をしていた先輩が、どうやって自分の物語を取り戻していくのか。僕は、すごく興味があるんです」

 

 「人の人生を勝手に漫画の題材にしないでくれるかな」

 

 「嫌です」

 

 「即答か」

 

 「だって、先輩は面白いので」

 

 僕は呆れてため息を吐いた。

 

 けれど、不思議と嫌な気はしなかった。

 

 青の言葉はいつも少し変だ。

 

 でも、その奥には悪意がない。

 

 むしろ、彼女なりに僕を見てくれているのだと分かる。

 

 「……なら、ちゃんと格好よく描いてよ」

 

 僕がそう言うと、青は目を丸くした。

 

 それから、ふっと笑う。

 

 「もちろんです。僕の漫画の主人公にするなら、世界一格好よく描きますよ」

 

 「主人公にする気なんだ」

 

 「はい。先輩、素材として最高なので」

 

 「やっぱり褒められてる気がしない」

 

 二人で並んで、夕暮れの空を見上げる。

 

 風が吹く。

 

 胸ポケットの時計が鳴る。

 

 その音に重なるように、端末が小さく震えた。

 

 ピロン。

 

 僕は反射的にポケットへ手を伸ばす。

 

 青の目が、その動きを見逃さなかった。

 

 「……例の、先輩の顔を柔らかくした誰かですか?」

 

 「さあね」

 

 「否定しないんですね」

 

 「……ただのメッセージだよ」

 

 画面には、二つの通知が並んでいる。

 

 『ユウト、今日の晩ご飯なに食べるにぇ?』

 

 『放課後終わった? すいちゃんは今から収録。応援して』

 

 僕は画面を見て、また少しだけ笑ってしまった。

 

 青はそれを、横から見ていた。

 

 その笑顔に、胸がちくりと痛む。

 

 けれど同時に、青の中に別の感情も生まれていた。

 

 負けたくない。

 

 まだ名前も知らない、その誰かに。

 

 ユウトの心を少し開かせた誰かに。

 

 自分も、彼の物語の中に入りたい。

 

 ただの後輩としてではなく。

 

 ただの観察者としてでもなく。

 

 もっと深く。

 

 もっと鮮やかに。

 

 彼の空白に、自分の色も残したい。

 

 青はその感情を胸の奥に隠し、いつもの涼しげな笑みを浮かべた。

 

 「先輩」

 

 「何?」

 

 「今度、僕とも出かけましょう」

 

 「急だね」

 

 「取材です」

 

 「また漫画?」

 

 「はい。先輩の表情研究です」

 

 「僕を口実にして遊びたいだけじゃない?」

 

 「それもあります」

 

 「正直だな」

 

 青はフェンスから背を離し、夕陽を背負ってこちらを振り向いた。

 

 その姿は、確かに学校中の女子が騒ぐだけのことはあるくらい、整っていて、様になっていた。

 

 「約束ですよ、先輩」

 

 「まだ了承してない」

 

 「では、今してください」

 

 「強引だな」

 

 「欲しいものは、自分から掴みに行かないと、誰かに先を越されますから」

 

 その言葉に、僕は少しだけ目を細めた。

 

 青の声には、いつもの軽さだけではない、妙な熱があった。

 

 「……何の話?」

 

 「創作論です」

 

 「本当に?」

 

 「もちろん」

 

 青は微笑んだ。

 

 完璧に整えた、王子様のような笑顔。

 

 けれど、その奥にある小さな嫉妬と悔しさには、たぶん僕は気づかなかった。

 

 「じゃあ、考えておくよ」

 

 「約束ですからね」

 

 「考えておくって言っただけ」

 

 「僕の中では約束です」

 

 「勝手だな」

 

 「はい。僕は案外、強欲なので」

 

 そう言って、青は屋上の扉へ向かって歩き出した。

 

 扉の前で一度だけ振り返る。

 

 「先輩」

 

 「まだ何か?」

 

 「さっきの顔、覚えておきます」

 

 「どの顔?」

 

 「大事な誰かからメッセージが来た時の顔です」

 

 「……」

 

 「次に僕と話す時も、そういう顔をさせてみせますから」

 

 そう言い残し、青は屋上を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 屋上には、僕一人が残された。

 

 「……何だったんだ、今の」

 

 僕は小さく呟いた。

 

 胸ポケットの時計が、チ、チ、と鳴る。

 

 端末の画面には、まだ返信していない二人からのメッセージ。

 

 そして、頭の中には、青の最後の言葉が残っていた。

 

 ――次に僕と話す時も、そういう顔をさせてみせますから。

 

 僕は空を見上げる。

 

 夕暮れの空は、少しずつ夜へと変わり始めていた。

 

 過去はまだ戻らない。

 

 自分が何者だったのかも分からない。

 

 けれど、止まっていたはずの日常は、少しずつ、確実に変わり始めている。

 

 みこさん。

 

 すいせいさん。

 

 そして、青。

 

 僕の空白だった物語に、次々と新しい色が落とされていく。

 

 それが希望なのか、混乱の始まりなのかは分からない。

 

 けれど少なくとも。

 

 僕はもう、完全な空っぽではなかった。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 懐中時計が、静かに時を刻む。

 

 僕は端末を開き、二人への返信を打ち始めた。

 

 『今日の晩ご飯はまだ決めていません。収録、頑張ってください』

 

 送信。

 

 すぐに既読がつく。

 

 そして、ほぼ同時に二つの返信が返ってきた。

 

 『じゃあちゃんと温かいもの食べるにぇ!』

 

 『ありがと。ユウトさんに応援されたから、今日は絶対うまく歌える』

 

 僕はまた、少しだけ笑った。

 

 その笑顔を、屋上の扉の向こうでこっそり見ていた青が、小さく唇を噛んでいたことに。

 

 この時の僕は、まだ気づいていなかった。

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