hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第11話 オルタナティブシティの休日

 

 オルタナティブシティは、相変わらず騒がしかった。

 

 空を見上げれば、何十、何百という魔導飛行船が青い航跡を描いて行き交っている。巨大な浮遊大陸から流れ落ちる滝が、夕暮れにはまだ早い陽光を受けて虹色に輝き、超高層ビル群の硝子張りの壁面にその光を反射させていた。

 

 地上では、獣人の商人が威勢よく果物を売り、エルフの魔導技師が最新型の携帯端末を露店で実演し、悪魔の子供たちが浮遊板に乗って歩行者の間をすり抜けていく。中世風の石造りのアーケードの隣に、近未来的な魔導広告が浮かんでいるのだから、この街の景観は相変わらず節操がない。

 

 けれど、その節操のなさこそが、この世界の中心都市らしさでもあった。

 

 「先輩、こっちです。まずはこの店から攻めますよ」

 

 僕の少し前を歩く火威青が、妙にきりっとした顔で振り返った。

 

 青を基調とした髪が、街路に吹き抜ける風に揺れる。すらりとした立ち姿。整った横顔。中性的で、どこか王子様じみた雰囲気。

 

 オルタナティブシティの雑踏の中でも、青はそれなりに目立っていた。

 

 実際、すれ違った女子生徒らしき二人組が、ちらりと青を見て小さく囁き合っている。

 

 「あの人、かっこよくない?」

 

 「分かる。王子様みたい」

 

 青はそれを聞いていないふりをしていたが、耳元が少しだけ赤くなっていた。

 

 僕はそれを見て、思わず口元を緩める。

 

 「何を笑ってるんですか、先輩」

 

 「いや、別に」

 

 「その顔は絶対に別にじゃないです」

 

 「青って、褒められると意外と分かりやすいよね」

 

 「……先輩。今日は荷物持ちとして呼んだんですから、余計な観察はしないでください」

 

 「人間観察は創作の基本じゃなかった?」

 

 「僕がするのはいいんです。されるのは別です」

 

 「横暴だな」

 

 「漫画家志望はだいたい横暴です」

 

 「すごい偏見を自分から背負うね」

 

 青はわざとらしく咳払いをして、目の前の店を指さした。

 

 そこには、古い洋館のような外観をした画材専門店があった。

 

 看板には、流麗な文字で『アルカナ・インク工房』と書かれている。窓の向こうには、色とりどりのインク瓶、魔力を込めることで発光する特殊顔料、霊獣の毛を使った高級筆などが、宝石のように並んでいた。

 

 「ここは、プロの漫画家や絵師も使う専門店です。今日は原稿用のインクと、背景用のスクリーントーン、それから新しいペン先を買います」

 

 「それ、僕が必要?」

 

 「必要です」

 

 「荷物持ち?」

 

 「それもあります」

 

 「それ以外は?」

 

 「僕が悩んだ時に『青ならそれを使いこなせるよ』って言って背中を押す係です」

 

 「すごく都合のいい係だな」

 

 「重要な役目です」

 

 青は真顔でそう言い切った。

 

 数日前。

 

 屋上で「今度、僕とも出かけましょう」と言われた時、僕は正直、もう少し先の話だと思っていた。

 

 けれど、その約束――というより、青が一方的に約束と定義した予定は、思いのほか早く実現した。

 

 理由は単純だった。

 

 『先輩、画材が切れました』

 

 ある日の夜、青からそんな短いメッセージが届いた。

 

 続けて、

 

 『明後日、オルタナティブシティまで付き合ってください。荷物が多くなるので』

 

 と送られてきた。

 

 僕が『急だね』と返すと、

 

 『欲しいものは自分から掴みに行かないと、誰かに先を越されますから』

 

 という、どこかで聞いたような言葉が返ってきた。

 

 それが画材の話なのか、別の何かの話なのかは分からなかった。

 

 ただ、断る理由もなかった。

 

 だから、こうして休日のオルタナティブシティで、僕は青の買い物に付き合っている。

 

 この時点ではまだ、ただそれだけの話だった。

 

 ~~~~~~~~

 

 画材専門店巡りは、想像以上に長かった。

 

 一軒目では、青がインクの発色を確かめるために試し描き用の紙へ線を引き続けた。

 

 「この黒、いいですね。深みがある。夜のシーンに使えそうです」

 

 「黒にもそんなに違いがあるんだ」

 

 「あります。先輩、黒を舐めてますね」

 

 「舐めてはないけど」

 

 「黒は奥が深いんです。絶望の黒、夜空の黒、コーヒーの黒、先輩の目の奥にある面倒くさい黒」

 

 「最後の何?」

 

 「創作表現です」

 

 「人を勝手に画材にしないでほしい」

 

 二軒目では、スクリーントーンの棚の前で三十分以上悩んだ。

 

 「この集中線、すごく勢いがあります。でもこっちの方が主人公の覚醒シーンに合いそうで……」

 

 「どっちも買えば?」

 

 「先輩、簡単に言いますね。予算という概念をご存知ですか?」

 

 「知ってるよ。でも青、さっき高級インクを三本買ってたよね」

 

 「必要経費です」

 

 「じゃあこれも必要経費じゃない?」

 

 「……先輩、悪魔の囁きが上手いですね」

 

 「僕は人間だけど」

 

 三軒目では、珍しい手製のペン先を扱う老舗に入った。

 

 青はそこで完全に目の色を変えた。

 

 普段のクールな王子様然とした雰囲気は消え、完全に隠れオタクの顔になっていた。

 

 「先輩、見てください。これ、線の抜きが綺麗に出るタイプです。しかも魔力の圧に応じて太さが微妙に変わるんですよ。すごい……これで戦闘シーン描いたら絶対気持ちいい……」

 

 「青、顔が近い」

 

 「このペン先の前では距離感なんて些細な問題です」

 

 「店員さんがちょっと笑ってるよ」

 

 「構いません。創作者が画材の前で正気を失うのは自然現象です」

 

 「自然現象なら仕方ないか」

 

 「分かればいいんです」

 

 そうして店を出る頃には、僕の両手には紙袋が増えていた。

 

 インク。

 

 特殊紙。

 

 ペン先。

 

 スクリーントーン。

 

 参考資料用の美術書。

 

 なぜか勢いで買った、古代遺跡の意匠集。

 

 「……青」

 

 「何ですか、先輩」

 

 「本当にこれ全部使うの?」

 

 「使います」

 

 「いつ?」

 

 「いつか」

 

 「それ、使わない人の言い方じゃない?」

 

 「創作者にとって、いつか使う資料は今すぐ必要な資料です」

 

 「便利な言葉だな」

 

 青は満足げだった。

 

 その横顔は、学校で女子たちに騒がれている王子様の顔ではない。

 

 好きなものに夢中になって、目を輝かせている一人の後輩の顔だった。

 

 僕はその表情を見るのが、嫌いではなかった。

 

 ~~~~~~~~

 

 気づけば、昼飯時になっていた。

 

 人通りの多い中央通りを抜けた先に、テラス席のあるレストランがあった。外観はオルタナティブシティらしく、木製の看板と魔導ホログラムのメニューが同居している。

 

 店内は明るく、獣人やエルフ、翼を持つ人たちがそれぞれ食事を楽しんでいた。

 

 「ここにしましょう」

 

 青が即決した。

 

 「決めるの早いね」

 

 「お腹が空きました」

 

 「分かりやすい」

 

 「創作には糖分と炭水化物が必要です」

 

 「今日何回目の必要経費?」

 

 「食事は経費ではありません。生命維持です」

 

 僕たちは窓際の席に案内された。

 

 青はメニューを見るなり、真剣な顔で悩み始めた。

 

 「この霊鳥のクリームパスタも気になります。でも照り焼きサンドも捨てがたい……」

 

 「悩むところそこなんだ」

 

 「食事選びは人生選択の縮図です」

 

 「大げさだな」

 

 「先輩は何にするんですか?」

 

 「日替わりランチでいいかな」

 

 「先輩、そういうところですよ」

 

 「どういうところ?」

 

 「無難すぎます」

 

 「無難は大事だよ」

 

 「もっと攻めましょう。人生は一度きりです」

 

 「昼食にそこまで人生を背負わせたくない」

 

 結局、僕は日替わりランチを頼み、青は悩みに悩んだ末に霊鳥のクリームパスタを選んだ。

 

 注文を終えると、青はふっと息を吐いて椅子に背を預けた。

 

 「楽しかったですね」

 

 「まだ昼だけど」

 

 「午前の部としては、かなり充実していました」

 

 「僕は荷物が重い」

 

 「ありがとうございます。先輩がいて助かりました」

 

 「素直にお礼を言われると調子が狂うな」

 

 「僕はいつも素直です」

 

 「そうかな」

 

 「そうですよ」

 

 青は水の入ったグラスを両手で持ち、窓の外を見た。

 

 魔導車が通りを滑るように走り、空中には小型の配送ドローンが飛んでいる。店の向かいには、若者向けの服飾店があり、カップルらしき二人組が楽しそうに並んで商品を見ていた。

 

 青の視線が、そこにしばらく留まる。

 

 それから、ふと自分たちのテーブルへ戻ってきた。

 

 向かい合って座る自分と、ユウト。

 

 休日。

 

 二人で街へ出かける。

 

 専門店を巡る。

 

 一緒に昼食を取る。

 

 青の思考が、そこで一瞬止まった。

 

 ――これ、もしかしてデートでは?

 

 そう認識した瞬間、青の耳元が一気に赤くなった。

 

 「……っ」

 

 彼女は慌ててグラスの水を飲む。

 

 だが勢い余って少しむせた。

 

 「青?」

 

 僕は眉を上げる。

 

 「大丈夫?」

 

 「だ、大丈夫です。全く問題ありません。完璧にクールです」

 

 「クールな人は水でむせながらそういうこと言わないと思う」

 

 「これは高度な演出です」

 

 「どんな演出?」

 

 「読者の親近感を誘うための……」

 

 「今、漫画の話じゃないよね」

 

 青は目を逸らした。

 

 僕は訝しむ。

 

 「本当にどうしたの? 顔赤いけど」

 

 「店内が少し暑いだけです」

 

 「そうかな。涼しいけど」

 

 「先輩が鈍感だからです」

 

 「何で僕が怒られた?」

 

 「怒ってません」

 

 「怒ってる顔だよ」

 

 「怒ってません。少しだけ、自分の認識が追いついていないだけです」

 

 「認識?」

 

 「何でもありません」

 

 青はぷいっと横を向いた。

 

 その横顔は、いつものクールな王子様の仮面を被ろうとして、完全に失敗している。

 

 僕は首を傾げた。

 

 ただ、正直なところ、僕も青の異変を深く追及している余裕はなかった。

 

 なぜなら、僕の端末がさっきからずっと震えているからだ。

 

 ポケットの中で。

 

 断続的に。

 

 かなりしつこく。

 

 ピロン。

 

 ピロン。

 

 ピロン。

 

 もちろん、通知音は店内用に小さくしている。

 

 けれど、振動はどうにもならない。

 

 僕は青に気づかれないよう、そっと端末を取り出し、テーブルの下で画面を確認した。

 

 『ユウト、今何してるにぇ?』

 

 『既読が遅い。もしかして寝てる?』

 

 『休日だからって昼まで寝てるのはよくないにぇ!』

 

 『みこち、ユウトさんは寝てないと思うよ』

 

 『じゃあ何してるにぇ?』

 

 『まさか誰かと出かけてる?』

 

 『誰と?』

 

 『ねぇ、ユウトさん』

 

 『誰と?』

 

 僕は画面を見て、背筋に冷たいものが走った。

 

 どうしてこういう勘だけは鋭いのか。

 

 僕は素早く返信を打つ。

 

 『今、学校の後輩の買い物に付き合っています。画材を買いに来ただけです』

 

 送信。

 

 すぐ既読。

 

 怖いくらい早い。

 

 『後輩?』

 

 『画材?』

 

 『女の子?』

 

 『男の子?』

 

 『どっち?』

 

 僕は少し迷った。

 

 ここで嘘をつく理由はない。

 

 けれど、正直に言ったら何かが起きそうな気がする。

 

 数秒の逡巡ののち、僕は諦めて返信した。

 

『女子です。漫画家志望の後輩です』

 

 既読。

 

 沈黙。

 

 一秒。

 

 二秒。

 

 三秒。

 

 そして。

 

 『へぇ』

 

 『へー』

 

 短い。

 

 短すぎる。

 

 逆に怖い。

 

 続いて、すいせいさんからメッセージ。

 

 『ユウトさん、今度その後輩ちゃんの漫画、すいちゃんにも見せてね』

 

 みこさんからも。

 

 『みこも見るにぇ。エリート審査してあげるのら』

 

 僕は心の中で頭を抱えた。

 

 これは絶対、何か違う意味が含まれている。

 

 「先輩」

 

 真正面から声がした。

 

 僕は反射的に端末を伏せる。

 

 「な、何?」

 

 青がじっとこちらを見ていた。

 

 「さっきから、端末が気になっているみたいですね」

 

 「そうかな」

 

 「そうです」

 

 「ちょっと連絡が来てて」

 

 「例の、先輩の顔を柔らかくする誰かですか?」

 

 「……ただの知り合いだよ」

 

 「知り合い」

 

 青はゆっくりとその言葉を繰り返した。

 

 その目が、漫画家志望らしい観察眼で僕の表情を射抜いてくる。

 

 「ふぅん」

 

 「何?」

 

 「いえ。何でもありません」

 

 そう言う青の顔は、明らかに何でもない顔ではなかった。

 

 だがその時、ちょうど料理が運ばれてきた。

 

 僕の前には、日替わりランチ。

 

 青の前には、濃厚そうな霊鳥のクリームパスタ。

 

 青の意識は一瞬で料理に移った。

 

 「……これは」

 

 「どうしたの」

 

 「見てください、先輩。このソースの艶。これは勝ちです」

 

 「食べる前から?」

 

 「分かります。創作者は直感が命です」

 

 青はフォークを手に取り、慎重にパスタを巻いて口へ運んだ。

 

 そして、目を閉じる。

 

 「……勝ちました」

 

 「何に?」

 

 「今日という日に」

 

 「大げさだな」

 

 僕もランチに手をつける。

 

 温かい料理の匂い。

 

 外から差し込む午後の日差し。

 

 向かいで嬉しそうにパスタを食べる青。

 

 ポケットの中で時々震える端末。

 

 穏やかで、少しだけ騒がしい休日。

 

 普通なら、それで終わるはずだった。

 

 けれど。

 

 その数分後。

 

 僕の端末が、今度はメッセージではなく、はっきりとした着信音を鳴らした。

 

 画面には、青い星のアイコン。

 

 『星街すいせい』

 

 僕は一瞬、固まった。

 

 青の視線が端末に落ちる。

 

 「電話、ですか?」

 

 「……うん」

 

 「出ないんですか?」

 

 「出る、けど」

 

 僕は画面を見たまま、少しだけ迷う。

 

 すいせいさんが電話をかけてくるのは珍しい。

 

 メッセージならともかく、通話。

 

 何か用があるのだろう。

 

 でも、青の前で出るわけにはいかない。

 

 「ごめん、青。ちょっと外で出てくる」

 

 「どうぞ」

 

 青は微笑んだ。

 

 完璧な、何でもないという顔。

 

 「料理、冷めないうちに戻ってきてくださいね」

 

 「すぐ戻る」

 

 僕は席を立ち、店の外へ出た。

 

 外に出ると、オルタナティブシティの雑踏が一気に耳へ入ってくる。

 

 人々の声。

 

 魔導車の走行音。

 

 空中広告の音楽。

 

 遠くで大道芸をしている獣人の歓声。

 

 僕は店の壁際に移動し、通行人の邪魔にならない場所で通話を受けた。

 

 「もしもし」

 

 『あ、出た』

 

 端末の向こうから、すいせいさんの声が聞こえた。

 

 それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 

 『ユウトさん、今、大丈夫?』

 

 「大丈夫です。一応、食事中なので長くは話せませんけど」

 

 『あー、例の後輩ちゃんと?』

 

 「……そうです」

 

 『ふぅん』

 

 その「ふぅん」に含まれる圧がすごい。

 

 「本当に画材の買い物に付き合っているだけですから」

 

 『別に疑ってないよ?』

 

 「疑っている声に聞こえます」

 

 『すいちゃんはね、ただユウトさんが休日に女の子と二人でオルタナティブシティを歩いて、ご飯まで食べてるんだなーって思っただけ』

 

 「言い方に悪意があります」

 

 『事実でしょ?』

 

 「事実ではありますけど」

 

 『じゃあデートだね』

 

 「違います」

 

 『即答だ』

 

 「後輩の買い物の手伝いです」

 

 『ふーん。ユウトさん、そういうところ変わらないよね』

 

 「変わらない?」

 

 『うん。自分のことになると、妙に鈍いところ』

 

 その言葉に、僕は少しだけ黙った。

 

 変わらない。

 

 すいせいさんは、時々そういう言い方をする。

 

 今の僕の知らない僕を、当然のように知っている人の言葉。

 

 その響きは胸に引っかかる。

 

 痛いようで、少し嬉しいような、変な感覚。

 

 「……それで、何か用があったんですか?」

 

 『うん。最初はね、ちょっと声が聞きたかっただけ』

 

 「それだけで電話してきたんですか」

 

 『駄目?』

 

 「駄目ではないですけど」

 

 『じゃあいいじゃん』

 

 すいせいさんは、いたずらっぽく笑ったようだった。

 

 『ユウトさん、今日は何食べてるの?』

 

 「日替わりランチです」

 

 『無難』

 

 「後輩にも同じようなことを言われました」

 

 僕は通行人の流れを見ながら、小さく息を吐いた。

 

 こんな何でもない会話なのに、不思議と落ち着く。

 

 すいせいさんの声は、画面越しでもどこか近い。

 

 初めて会ったはずなのに。

 

 数日前まで話したこともなかったはずなのに。

 

 彼女の声を聞いていると、胸の空白の縁が少しだけ柔らかくなる。

 

 『ねぇ、ユウトさん』

 

 数度、他愛ないやり取りを交わした後、すいせいさんの声色が少し変わった。

 

 さっきまでの軽い調子が引っ込み、静かな真剣さが滲む。

 

 「はい」

 

 『今日電話したの、実はもう一つ理由があるんだ』

 

 「……何ですか?」

 

 『谷郷さんがね』

 

 その名前を聞いた瞬間、胸ポケットの懐中時計が、チ、と少し強く鳴った気がした。

 

 『ホロライブの代表。私たちはYAGOOって呼んでるんだけど』

 

 「……知っています。ホロライブプロダクションの代表ですよね」

 

 『うん。その谷郷さんが、ユウトさんに会って話をしてみたいって言ってる』

 

 僕は、言葉を失った。

 

 街の喧騒が、一瞬遠ざかる。

 

 谷郷元昭。

 

 ホロライブの代表。

 

 世界最大級の冒険者プロダクションを率いる人物。

 

 そして――なぜか、僕の胸の奥に深く引っかかる名前。

 

 YAGOO。

 

 その響きに、どこか懐かしさがある。

 

 でも、思い出せない。

 

 何も。

 

 「……どうして、僕に?」

 

 ようやく絞り出した声は、自分でも分かるほど硬かった。

 

 『ユウトさんのことを、知っているから』

 

 すいせいさんは静かに言った。

 

 『たぶん、私たちよりもずっと前から。谷郷さんは、ユウトさんに会うべき人だと思う』

 

 「僕は……その人のことも、覚えていないんですよね」

 

 『うん』

 

 「会ったとしても、また傷つけるだけかもしれない」

 

 『それでも』

 

 すいせいさんの声は揺れなかった。

 

 『谷郷さんは、会いたいんだと思う。代表としてじゃなくて、一人の大人として。ユウトさんを、最初に見つけた人として』

 

 最初に見つけた人。

 

 その言葉が、胸の奥を小さく刺した。

 

 胸ポケットの時計が、チ、チ、と鳴る。

 

 『もちろん、無理にとは言わないよ。ユウトさんが嫌なら、断っていい』

 

 「……すいちゃんらしくないですね」

 

 『え?』

 

 「いつもなら、もう少し強引に来るのかと思いました」

 

 電話の向こうで、彼女が少しだけ黙った。

 

 それから、小さく笑う。

 

 『本当はね、今すぐ会ってほしいって言いたい。谷郷さんだけじゃなくて、私たちみんなにも。今すぐ、全部思い出してほしいって思ってる』

 

 「……」

 

 『でも、ユウトさんは今、私たちの知ってるユウトさんじゃない。記憶がなくて、混乱してて、それでもちゃんと今の生活をしてる。そこに無理やり踏み込むのは……違うって、分かってるから』

 

 彼女の声は、少しだけ痛そうだった。

 

 『だから、決めるのはユウトさんでいいよ』

 

 「……考えさせてください」

 

 『うん。急がなくていい』

 

 「谷郷さんに、そう伝えてもらえますか」

 

 『伝える。……でも、できれば前向きに考えて』

 

 「はい」

 

 『あと』

 

 「はい?」

 

 『後輩ちゃんとのデート、楽しんでね』

 

 「だから違います」

 

 『はいはい』

 

 「本当に違いますから」

 

 『じゃあ、またね。ちゃんと温かいうちにご飯食べるんだよ』

 

 「分かっています。……電話、ありがとうございました」

 

 『うん。声聞けて嬉しかった』

 

 その一言を最後に、通話は切れた。

 

 僕はしばらく、端末を耳に当てたまま立ち尽くしていた。

 

 YAGOO。

 

 谷郷元昭。

 

 僕を知っているという人。

 

 僕が覚えていない、僕の過去を知っているかもしれない人。

 

 会うべきなのだろうか。

 

 会えば、何かが分かるのだろうか。

 

 それともまた、誰かを傷つけるだけなのだろうか。

 

 胸ポケットの懐中時計が、チ、チ、チ、と淡々と時を刻んでいる。

 

 その音は、答えを教えてはくれない。

 

 ただ、時間だけが進んでいく。

 

 ~~~~~~~~

 

 そんなユウトの姿を、少し離れた路地の角から見つめている二つの影があった。

 

 一人は、猫の耳を持つ少女。

 

 柔らかな紫がかった髪。

 

 眠そうで、けれど底の読めない瞳。

 

 気だるげな雰囲気をまといながらも、周囲の空気をすべて見透かしているような、不思議な存在感。

 

 猫又おかゆ。

 

 もう一人は、犬の耳を持つ少女。

 

 明るい茶色の髪。

 

 人懐っこい笑顔。

 

 しかし今、その瞳は普段の朗らかさを失い、信じられないものを見たかのように大きく見開かれていた。

 

 戌神ころね。

 

 ホロライブゲーマーズの二人だった。

 

 二人は今日、偶然オルタナティブシティへ遊びに来ていた。

 

 おかゆが気になっていた新作ゲームショップ。

 

 ころねが行きたいと言っていた古いアーケード。

 

 ついでに、ゲーマーズで使う配信用の小物を探す。

 

 そんな、何でもない休日のはずだった。

 

 けれど、通りを歩いていた時、ころねが突然足を止めた。

 

 『……おがゆ』

 

 『んー? どうしたの、ころさん』

 

 『あそこにいる人……』

 

 ころねの指差した先。

 

 レストランの外で端末を耳に当て、誰かと通話している一人の少年。

 

 黒髪。

 

 少し憂いを帯びた横顔。

 

 制服の胸元に見える黒い紐。

 

 そして、電話をしながら無意識に胸ポケットを押さえる仕草。

 

 おかゆの眠たげな瞳が、一瞬で細くなった。

 

 見間違えるはずがない。

 

 写真は消えた。

 

 記録も残っていない。

 

 世界から、彼の存在は一度消えた。

 

 けれど、魂に刻み込まれた姿は消えていない。

 

 桜井ユウト。

 

 彼女たちが、ずっと探し続けていた人。

 

 「……ユウト、さん?」

 

 ころねの声が震えた。

 

 今にも駆け出しそうな彼女の腕を、おかゆがそっと掴む。

 

 「待って、ころさん」

 

 「でも、おがゆ……!」

 

 「うん。分かってる。分かってるけど、今は待って」

 

 おかゆの声はいつも通り柔らかかった。

 

 けれど、その指先は震えていた。

 

 彼女もまた、平静ではなかった。

 

 ユウトがそこにいる。

 

 生きている。

 

 歩いている。

 

 誰かと電話している。

 

 それだけで、胸の奥が張り裂けそうだった。

 

 ころねの瞳には、すでに涙が浮かんでいる。

 

 「ほんとに……ほんとにユウトさんだよね……? ころね、夢見てないよね……?」

 

 「夢じゃないと思う」

 

 おかゆは小さく息を吸う。

 

 「でも、ノエルちゃんが見つけたって言ってた動画の人と、たぶん同じだね」

 

 「じゃあ、声かけようよ! 今すぐ!」

 

 「……谷郷さん、接触禁止って言ってたでしょ」

 

 「でも、でもぉ……!」

 

 ころねは唇を噛んだ。

 

 尻尾が落ち着きなく揺れる。

 

 「ずっと会いたかったんだよ……。お礼言いたかったんだよ……。ころねのこと、忘れないでいてくれてありがとうって……違う、忘れてたのはころねたちの方だったけど……でも、でも……!」

 

 言葉がぐちゃぐちゃになっていた。

 

 おかゆはそんなころねの手を、静かに握る。

 

 「うん。僕も会いたい」

 

 おかゆの声も少しだけ震えていた。

 

 「あの人に、また『ほどほどにしろ』って言われたい。ゲームやりすぎて怒られたい。夜更かし配信の後に、呆れた顔で温かい飲み物置いてほしい」

 

 「おがゆ……」

 

 「でも、たぶん今、何か大事な話してる」

 

 おかゆの視線は、通話を終えたユウトの横顔に向けられていた。

 

 ユウトは端末を下ろし、胸ポケットを押さえたまま、どこか迷子のような顔をしている。

 

 その表情を見て、おかゆは小さく眉を寄せた。

 

 「それに……」

 

 「それに?」

 

 「なんか、様子が変」

 

 おかゆは呟く。

 

 「あの人、僕たちの知ってるユウトさんみたいだけど……目が、少し違う」

 

 「目?」

 

 「うん。誰かを探してるみたいで、でも何を探してるのか分かってないみたいな目」

 

 ころねは、じっとユウトを見つめた。

 

 その横顔に、胸が痛くなる。

 

 会いたい。

 

 今すぐ駆け寄って、手を握って、名前を呼びたい。

 

 けれど。

 

 もし、彼が自分たちを覚えていなかったら。

 

 その可能性が、ふと脳裏をよぎった。

 

 ころねの足が止まる。

 

 「……おがゆ」

 

 「ん?」

 

 「ユウトさん、ころねたちのこと……覚えてるかな」

 

 おかゆは答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 ちょうどその時、ユウトが端末をしまい、レストランの中へ戻っていく。

 

 その扉の向こう。

 

 窓際の席に、青い髪の中性的な少女が座っているのが見えた。

 

 火威青。

 

 その姿を見た瞬間、おかゆところねは、ユウトを見つけた時とはまた別種の驚きに目を見開いた。

 

 「……あれ、青くんだよね?」

 

 ころねが、小さく呟く。

 

 「うん。間違いないと思う」

 

 おかゆは、眠たげな瞳をわずかに細めた。

 

 前世の記憶が戻っている彼女たちにとって、火威青という存在は見知らぬ相手ではなかった。

 

 ReGLOSS。

 

 そして、その先に続くFLOW GLOW。

 

 この世界においては、まだホロライブプロダクションに所属していない、新しい世代の魂たち。

 

 けれど、おかゆたちは知っている。

 

 彼女たちが本来、いずれホロライブの名のもとに集うはずの仲間であることを。

 

 そして、YAGOOやホロライブの先輩たちが、まだこの世界で彼女たちを正式にスカウトしていないことも。

 

 「青くん、この街にいたんだ……」

 

 ころねの声には、懐かしさと驚きが混ざっていた。

 

 「しかも、ユウトさんと一緒にご飯食べてる」

 

 「……うん」

 

 おかゆは、レストランの窓越しに二人を見つめた。

 

 休日の街。

 

 向かい合う席。

 

 テーブルの横には、大量の画材らしき紙袋。

 

 ユウトが何かを説明し、青がそれを聞きながら少しだけ頬を赤くしている。

 

 その光景は、どう見てもただの偶然の相席ではなかった。

 

 「……デート?」

 

 ころねがぽつりと言った。

 

 「ころさん」

 

 「だってぇ! 青くん、まだホロライブに入ってないんでしょ? それなのにユウトさんと先に仲良くなってるって、なんか、なんかすごくない!?」

 

 「うん。すごいというか……ちょっとまずいかもね」

 

 おかゆの声には、わずかな警戒が混じっていた。

 

 ReGLOSSやFLOW GLOWの面々は、この世界ではまだホロライブに所属していない。

 

 つまり、前世の記憶を持つ自分たちとは違い、青たちは桜井ユウトという男が何者だったのかを知らない。

 

 それなのに。

 

 記憶を失ったユウトの隣に、前世では後輩であり、いずれホロライブへ連なるはずの少女がいる。

 

 しかも、彼女は今のユウトにとって「学校の後輩」として、自然に隣に立っている。

 

 それは、みこやすいせいが得たものとはまた別の種類の、恐ろしいほど強い距離の近さだった。

 

 「……青くん、今のユウトさんのこと、どれくらい知ってるんだろ」

 

 ころねが不安そうに呟く。

 

 「少なくとも、今の生活の中ではかなり近い位置にいるんじゃないかな」

 

 おかゆはそう言って、端末を取り出した。

 

 「これは、谷郷さんに報告した方がいいね。ユウトさんのことだけじゃなくて、火威青くんが一緒にいることも」

 

 そして、おかゆは短いメッセージを打ち込む。

 

 『オルタナティブシティ中央区で、桜井ユウトさんを確認しました。接触はしていません。現在、火威青くんと一緒にレストランにいます。青さんはまだ未所属のはずですが、ユウトさんとは親しい様子です』

 

 送信。

 

 ころねは隣で、レストランの窓をじっと見つめていた。

 

 ユウトが席へ戻り、青に何かを言っている。

 

 青が少し心配そうな顔をする。

 

 ユウトは困ったように笑う。

 

 その笑顔を見て、ころねの胸がぎゅっと締め付けられた。

 

 「……ユウトさん」

 

 彼の名前を、そっと呟く。

 

 届くはずのない声。

 

 けれど、レストランの中のユウトが、ほんの一瞬だけ窓の外へ視線を向けた。

 

 ころねは息を呑む。

 

 目が合ったわけではない。

 

 ユウトはすぐに視線を戻した。

 

 それでも、胸が跳ねた。

 

 おかゆもまた、その一瞬を見逃さなかった。

 

 「……やっぱり、近いね」

 

 「何が?」

 

 「因果、みたいなやつ」

 

 「おがゆ、難しいこと言ってる」

 

 「僕もよく分かってない」

 

 おかゆは苦笑した。

 

 「でも、もうすぐだと思う」

 

 「何が?」

 

 「たぶん、止まってたものが、全部動き出す」

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