hololive Lost Story 作:ダニエルズプラン
オルタナティブシティは、今日も世界の中心らしく騒がしかった。
上空を行き交う魔導飛行船の航跡が、青い空に幾重もの線を描いている。高層ビル群の壁面には、巨大な広告が次々と映し出され、冒険者ギルドの求人、最新型端末の宣伝、有名配信者のライブ告知が、目まぐるしく切り替わっていた。
地上には、人、人、人。
獣人の親子が屋台で串焼きを買い、エルフの青年が空中投影された地図を見ながら道に迷い、悪魔の少女たちが最新の服飾店の前で歓声を上げている。天使の翼を持つ配達員が、空中回廊から軽やかに降り立ち、ビルの入口へ荷物を届けていた。
何度来ても、この街には慣れない。
あらゆる種族と文化と欲望が渦巻いている。
そして、その渦の中心に立っているだけで、自分がひどく小さな存在に思えてくる。
僕――桜井ユウトは、中央区の一角にある時計塔前の広場で、待ち合わせの時間を確認していた。
胸ポケットの奥では、銀色の懐中時計が規則正しく時を刻んでいる。
チ、チ、チ、チ、チ、チ――。
今日、僕がこの街へ来た目的は一つだった。
谷郷元昭。
ホロライブプロダクション代表。
通称、YAGOO。
その人に会うためだ。
数日前、星街すいせいさんから電話で聞かされた。
『谷郷さんが、ユウトさんに会って話をしてみたいって言ってる』
その言葉は、あれからずっと胸の奥に引っかかっていた。
ホロライブの代表。
世界最高峰の冒険者・配信者グループを率いる人物。
そして、みこさんやすいせいさんが言うには、僕を最初に見つけた人。
もちろん、僕にはその記憶がない。
谷郷元昭という名前を聞いても、何かが胸の奥で軋むだけで、具体的な記憶は何一つ浮かんでこない。
けれど。
その名前を聞いた時、胸ポケットの懐中時計は確かに反応した。
チ、と。
まるで、忘れてはいけない何かに触れたように。
だから、会うことにした。
怖くないと言えば嘘になる。
みこさんやすいせいさんと会った時のように、また誰かの期待を裏切るかもしれない。
僕を知っているという人に、僕は何も覚えていないと告げなければならないかもしれない。
そのたびに、相手の顔を曇らせるのかもしれない。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。
過去を知りたい。
自分が何者だったのかを知りたい。
その気持ちは、日を追うごとに強くなっていた。
僕は端末の画面を確認する。
待ち合わせ時間までは、まだ二十分ほどあった。
「……少し早く着きすぎたかな」
呟きながら、広場のベンチに腰掛けようとした、その時だった。
背後から、気配がした。
いや、気配というより。
突風のような勢いで、二つの何かがこちらへ接近してきた。
「え――」
次の瞬間。
右腕と左腕が、それぞれ別方向からがっちりと抱きしめられた。
「っ!?」
反射的に体が硬直する。
右腕には、柔らかい感触。
左腕にも、同じく逃げ場のない温もり。
そして、左右から同時に聞こえてきた声。
「にゃっはろー、ユウト!」
「お待たせ、ユウトさん」
聞き覚えがありすぎる声だった。
僕は慌てて左右に顔を向ける。
右側にいたのは、キャップを目深に被り、薄い色のサングラスをかけた少女だった。青い髪はゆるく後ろでまとめられ、服装も街に溶け込むようなカジュアルなものになっている。
左側には、白いパーカーのフードを被り、大きめの丸眼鏡をかけた少女。桜色の髪は内側に押し込まれているが、ところどころから薄紅色の束がはみ出していた。
どちらも明らかに変装している。
しているのだが。
正体を隠す気があるのか疑わしいほど、雰囲気が本人そのものだった。
「……すいちゃん。みこさん」
「みこ」
「え?」
「みこって呼ぶにぇ」
「……みこ」
「よろしい!」
左腕にしがみついたみこさん――いや、みこは満足そうに頷いた。
右腕を抱えているすいちゃんも、サングラスの奥でにこにこしている。
「すいちゃんのことは?」
「……すいちゃん」
「うん、えらい」
「この会話、広場のど真ん中ですることですか?」
僕は周囲を気にしながら小声で言った。
幸い、広場の人々はそれぞれの用事に夢中で、こちらを凝視している者はいない。だが、それでも油断はできない。
今、僕の両腕にしがみついているのは、世界的に有名なホロライブ0期生の二人なのだ。
もし正体がバレたら、広場が大騒ぎになる。
というか、その前に僕が社会的に死ぬ。
「何で二人がここにいるんですか」
「密命にぇ!」
みこが胸を張る。
「YAGOOからの、ちょー重要な密命なのら!」
「密命?」
「そう」
すいちゃんが僕の腕を抱いたまま、さらりと言った。
「谷郷さんから、ユウトさんを待ち合わせ場所からお店まで案内するようにって頼まれたんだよねー」
「……案内?」
「うん」
「だったら、普通に声をかければよかったんじゃないですか。後ろから両腕を抱きしめる必要ありました?」
「必要あったにぇ」
「ないと思うけど」
「みこたちにとっては必要だった」
「どういう理屈?」
「ユウト成分の補給」
「その言い方やめてくれない?」
僕が眉をひそめると、すいちゃんがふふっと笑った。
「だって、ユウトさん、最近返信はしてくれるけど、通話はあんまりしてくれないし」
「学校もありますし、生活もありますから」
「だからこうして直接補給しに来ました」
「だから言い方」
すいちゃんは悪びれもしない。
みこも反対側からぐいぐいと腕を抱き直してくる。
「それに、案内役が必要なのは本当だにぇ。今日行くお店、会員制で場所も分かりづらいから、普通に歩いてたら迷うと思うのら」
「そうなんですか?」
「うん。谷郷さん、目立たない場所を選んだからね」
すいちゃんの声が少しだけ落ち着いた。
「今日は、たぶん大事な話になるから」
その言葉に、僕の中の空気も少しだけ変わった。
大事な話。
谷郷元昭が、僕に何を話すのか。
僕は何を聞くことになるのか。
その重さを、改めて思い出す。
「……分かりました。案内、お願いします」
「うん」
「任せるにぇ!」
二人は同時に頷いた。
そして、そのまま歩き出そうとする。
当然のように、僕の両腕を組んだまま。
「あの」
「何?」
「何にぇ?」
「腕、離してもらっていいですか」
二人は同時に僕を見た。
その表情は、まるで信じられないものを聞いたかのようだった。
「……なんで?」
「なんでって」
「ユウト、みこたちが案内するんだから、はぐれたら困るにぇ」
「大人なんだからはぐれません」
「オルタナティブシティは人が多いからねー。すいちゃん、心配だなー」
「僕は子供じゃないです」
「でも記憶ないし」
「それは関係あります?」
「あるにぇ」
「あるかなー」
「絶対ない」
僕は軽く腕を引こうとした。
だが二人とも、思った以上にしっかりと掴んでいる。
特にすいちゃんの腕力が妙に強い。
トップ冒険者は伊達ではないらしい。
「……これは、決定事項ですか」
「決定事項にぇ」
「諦めて、ユウトさん」
「はぁ……」
僕は深くため息を吐いた。
通行人の視線が痛い。
いや、実際にはそれほど見られていないのかもしれない。
しかし、僕には全員がこちらを見ているように感じられた。
両腕に、変装したトップスター二人。
どう考えても、普通の高校生が置かれていい状況ではない。
だが、不思議なことに。
嫌ではなかった。
恥ずかしい。
困る。
逃げたい。
そのすべては本当だ。
けれど、左右から伝わる体温に、胸の奥が静かに凪いでいく感覚もまた、本当だった。
さくら神社の一本桜の下で感じた、あの奇妙な安心感。
それと同じものが、今も確かにある。
僕はそれを認めたくなくて、わざとぶっきらぼうに言った。
「……せめて、目立たないようにしてください」
「はーい」
「了解にぇ!」
二人は全然反省していない声で返事をした。
こうして僕は、オルタナティブシティの中央区を、変装したホロライブ0期生二人に両腕を組まれた状態で歩くことになった。
人生、何が起きるか分からない。
自分の人生が何なのか分からない僕が言うのも、おかしな話だけれど。
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目的の店は、中央区の華やかな大通りから少し外れた場所にあった。
人の流れが少しずつ薄くなり、高層ビル群の影に隠れるような石畳の小道へ入る。そこからさらに細い路地を抜けると、古いレンガ造りの建物が現れた。
看板は出ていない。
扉の横に、小さな金属板がはめ込まれているだけだった。
そこには、古い文字で店名らしきものが刻まれている。
読めない。
「ここですか?」
「うん」
「会員制の喫茶店兼レストランって感じかな」
すいちゃんが言う。
「谷郷さん、たまに大事な話をする時にここ使うんだよね」
「YAGOO、変に雰囲気ある場所好きだからにぇ」
「代表にその言い方はどうなんだろう」
「みこたちからしたらYAGOOはYAGOOだから」
みこはあっけらかんと言った。
すいちゃんが扉の横にある魔導認証盤へ指をかざす。
淡い青い光が走り、重厚な扉が音もなく開いた。
中に入ると、外の喧騒が嘘のように消えた。
落ち着いた照明。
磨き込まれた木の床。
壁には古い時計や絵画が飾られている。
微かに香る珈琲と、焼き菓子の匂い。
都市の中心にあるはずなのに、まるで時間から切り離されたような静けさがあった。
胸ポケットの懐中時計が、チ、チ、と小さく鳴る。
この場所も、何かに似ている。
そう思った。
何に似ているのかは分からない。
けれど、古い珈琲の匂いと、静かな照明が、胸の奥に薄く沈んでいた記憶の残響を撫でた。
店員らしき初老のエルフが、静かに頭を下げる。
「お待ちしておりました。奥のお席へどうぞ」
案内されたのは、店の一番奥にある半個室だった。
厚い木製の仕切りと、柔らかな魔導遮音結界によって、周囲の音はほとんど届かない。
その席に、一人の男性が座っていた。
谷郷元昭。
写真や映像では見たことがある。
ホロライブプロダクション代表。
世界的ギルドを率いる人物。
それなのに、そこに座る彼は、思っていたよりもずっと静かだった。
派手な威圧感はない。
英雄たちを束ねる王のような仰々しさもない。
落ち着いたスーツ姿。
眼鏡の奥の穏やかな瞳。
けれど、その奥底には、長い時間をかけて積もった疲労と、消えない後悔のようなものが見えた。
彼は、僕たちが入ってきた瞬間、ゆっくりと顔を上げた。
そして。
僕の両腕に絡みついたままの、みことすいちゃんを見て。
わずかに、言葉を失った。
「……」
「にゃっはろー、YAGOO!」
「お待たせ、谷郷さん」
二人は平然としている。
僕は死にたい気持ちになった。
「……すみません。何度も離れてくださいとは言ったんですけど」
僕がそう言うと、谷郷さんは一度だけ目を閉じた。
深く、長く息を吐く。
「……いや。いいんだ」
その声には、諦めと、ほんの少しだけ懐かしむような響きがあった。
「君たちらしい、と言えばいいのかな」
「でしょ?」
「さすがYAGOO、分かってるにぇ!」
「褒めてはいないと思うけどね」
谷郷さんは静かに言った。
けれど、その口元には微かな苦笑が浮かんでいた。
彼が本来、どんな形で僕を迎えるつもりだったのかは分からない。
おそらく、もっと静かに。
もっと慎重に。
僕を不安にさせないよう、丁寧に話を始めるつもりだったのだろう。
けれど、変装したみことすいちゃんに両腕を組まれた僕が現れたことで、その厳粛な空気は完全に出鼻をくじかれた。
谷郷さんは、少しだけ困ったように眼鏡を押し上げた。
「二人とも、できれば席に着いてもらえるかな」
「はーい」
「了解にぇ」
ようやく、二人が僕の腕を離した。
両腕に残っていた温もりが消えた瞬間、少しだけ寂しいと思ってしまった自分がいて、僕は内心で顔をしかめる。
僕は谷郷さんの向かいの席に座った。
みこは当然のように僕の左隣。
すいちゃんは右隣。
完全に逃げ場を塞がれた形になった。
谷郷さんは、その配置を見てまた一瞬だけ何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わなかった。
店員が静かに飲み物を置いていく。
僕の前には、温かい珈琲。
谷郷さんの前にも同じもの。
みことすいちゃんには、それぞれ桜の香りのする紅茶と、星屑のような光が浮かぶハーブティー。
珈琲の香りが、ふわりと立ち上った。
その瞬間。
胸の奥が、小さく軋んだ。
古いオフィス。
安っぽいマグカップ。
誰かに淹れた、苦すぎるブラックコーヒー。
そんな断片が、霧の向こうで一瞬だけ揺れた気がした。
けれど、掴もうとした瞬間、消えた。
「……桜井くん」
谷郷さんの声がした。
僕は顔を上げる。
彼は、こちらを見ていた。
その瞳は、映像で見た代表のものではなかった。
企業のトップとしての顔でも、世界有数のギルドを率いる指導者の顔でもない。
もっと個人的で、もっと痛みを帯びた目。
長い間探していた誰かを、ようやく見つけた人の目だった。
「今日は、来てくれてありがとう」
「……いえ」
僕は小さく頭を下げた。
「こちらこそ、お時間をいただいてありがとうございます」
その言葉を聞いた瞬間、谷郷さんの瞳がわずかに揺れた。
みことすいちゃんも、左右で息を呑んだ気配がした。
「……相変わらず、礼儀正しいね」
谷郷さんが、ぽつりと言った。
僕は返答に困った。
「相変わらず、なのかは……僕には分かりません」
「そう、だったね」
谷郷さんは静かに頷く。
「すいせいくんから聞いている。君は、前の記憶をほとんど失っていると」
「はい」
僕は両手を膝の上で軽く握った。
「あなたのことも、覚えていません。みこやすいちゃんのことも、ホロライブのことも……僕が過去に何をしていたのかも」
「……」
「ただ、何かがあったのだろうという感覚だけはあります。身体は、時々勝手に動く。知らないはずの人や場所に、胸が反応する。この時計も……」
僕は胸ポケットの上に手を置いた。
銀色の懐中時計が、布地の奥で時を刻んでいる。
「この時計も、なぜか僕にとって大事なものらしい。でも、何も思い出せないんです」
谷郷さんは、長い沈黙のあと、小さく言った。
「……そうか」
その声は、深く沈んでいた。
責める響きはなかった。
けれど、痛みがあった。
彼は、何かを後悔している。
それだけは、僕にも分かった。
「桜井くん」
「はい」
「まず、謝らせてほしい」
谷郷さんは、静かに頭を下げた。
僕は驚いて目を見開く。
世界的な組織の代表が、ただの高校生である僕に向かって、深く頭を下げていた。
「谷郷さん……?」
「私は、前の世界で君に取り返しのつかないことをした」
低く、静かな声だった。
「君の献身に甘えた。君の孤独に気づきながら、完全には止められなかった。そして最後には……私の中に残っていた、君に関する最後の記憶をカードとして君に渡した」
みこの手が、膝の上でぎゅっと握られる。
すいちゃんも、唇を結んでいた。
僕は何も言えない。
カード。
赤いカード。
その言葉に、胸の奥が焼けるように痛んだ。
脳裏に、一瞬だけ赤い光が走る。
けれど、それ以上は何も見えない。
「君はそのカードを使って、最後の敵を倒した。そして、世界から消えた」
谷郷さんの声がわずかに震えた。
「私たちは、君を忘れた。君が何をしてくれたのかも、君がそこにいたことも、何もかも。理由も分からないまま涙を流し、君が守った未来だけを受け取った」
「……」
「この世界に来て、記憶が戻った時、私は思い知った。自分たちがどれほど残酷なことをしていたのかを」
谷郷さんは顔を上げた。
その瞳には、後悔と、それでも消えない意志が宿っていた。
「だから、私はホロライブをもう一度作った。彼女たちが輝ける場所を作るため。そして、いつか君が戻ってきた時、帰れる場所を残すために」
帰れる場所。
その言葉が、胸に深く落ちた。
帰る。
僕には、その感覚が分からない。
自分がどこから来たのかも、何を失ったのかも分からないのだから。
けれど、その言葉を聞いた時、胸ポケットの時計が、チ、と優しく鳴った。
「……どうして」
僕は気づけば、問いかけていた。
「どうして、そこまでしてくれるんですか」
谷郷さんは、まっすぐ僕を見た。
「君が、私たちの最初の仲間だったからだ」
「僕が?」
「ああ」
彼は静かに頷いた。
「前の世界で、私はまだ小さな事務所を始めたばかりだった。何もかも手探りで、夢だけは大きくて、現実はいつも足りなかった」
谷郷さんの声が、少しだけ遠くを見るようなものになる。
「そんな時、君に会った」
その瞬間、店内の空気が変わった気がした。
みこも、すいちゃんも、静かに黙っている。
谷郷さんは、珈琲のカップに視線を落とした。
「君は最初から、自分を大きく見せようとはしなかった。どちらかと言えば物静かで、礼儀正しくて、でも芯があった。誰かのために動くことを、苦にしない人間だった」
僕は、息を呑んだ。
それは、僕のことなのだろうか。
僕が知らない、僕。
「私は君に言った」
谷郷さんは顔を上げた。
「『君の力を貸してほしい』と」
その言葉が、僕の胸を強く叩いた。
――君の力を貸してほしい。
古いオフィス。
白い蛍光灯。
まだ何も揃っていない机。
真剣な目をした一人の男。
そんな断片が、一瞬だけ脳裏に浮かぶ。
「っ……」
僕は思わず胸を押さえた。
みこがすぐに身を乗り出す。
「ユウト……?」
「大丈夫」
僕は小さく息を吐いた。
「少し、何かが見えた気がしただけ」
すいちゃんが泣きそうな顔をした。
谷郷さんは、痛みを堪えるように目を細めた。
「……無理に思い出さなくていい」
「でも」
「思い出してほしい気持ちはある。正直に言えば、今すぐすべてを思い出して、私たちを叱ってほしい。なぜ忘れたのかと。なぜ一人にしたのかと。そう言ってほしい」
谷郷さんは苦く笑った。
「だが、それは私たちの
僕は彼を見る。
「君は今、この世界で生きている。学校に通い、友人がいて、日常がある。私たちが無理に踏み込めば、その日常を壊してしまうかもしれない」
その言葉は、慎重だった。
みこやすいちゃんの、押し寄せるような感情とは違う。
谷郷さんは、踏み込みたいのに踏み込めない人の顔をしていた。
「だから今日は、君を無理に連れ戻すために呼んだわけではない」
「連れ戻す……」
「ホロライブへ、という意味だ」
谷郷さんは言った。
「前の世界で、君はホロライブのマネージャーだった。0期生の頃から、ずっと彼女たちを支えていた」
マネージャー。
その言葉に、胸が鳴った。
以前から断片的に聞かされていた言葉。
みこたちの一番大切なマネージャー。
僕が、彼女たちのマネージャー。
「君は、裏方だった。ステージに立つ人間ではなかった。だが、私にとって、そして彼女たちにとって、君は紛れもなくホロライブの始まりを支えた一人だった」
谷郷さんは、静かに続けた。
「だから、私は君にもう一度聞きたい」
その瞬間。
場の空気が、さらに深く沈んだ。
みこが息を止める。
すいちゃんの指が、テーブルの下で震える。
僕は、目の前の男性から視線を逸らせなかった。
谷郷さんの瞳は、前を見ていた。
過去ではなく。
今の僕を。
記憶を失った、ただの高校生である僕を。
「桜井ユウトくん」
谷郷さんは、僕の名前を呼んだ。
不思議だった。
みこやすいちゃんに呼ばれた時とは、少し違う。
その声には、懐かしさと後悔があった。
けれど、それ以上に、未来へ向けた静かな祈りがあった。
「もし君が望むなら」
彼は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「もう一度、私たちに君の力を貸してくれないだろうか」
胸ポケットの時計が、強く鳴った。
チ――。
まるで、止まっていた時間が、一瞬だけ過去と重なったようだった。
古いオフィス。
まだ何もない部屋。
夢を語る一人の男。
その前に立つ、若い自分。
――君の力を貸してほしい。
同じ言葉。
けれど、違う世界。
違う時間。
違う自分。
目の前の谷郷さんは、静かに僕を見ている。
みこは、祈るように両手を握っている。
すいちゃんは、今にも泣き出しそうな顔で、けれど何も言わず僕の答えを待っている。
僕は、カップの中の黒い珈琲を見下ろした。
苦い香りが立ち上る。
なぜか懐かしい香り。
「……僕は」
声が、少し掠れた。
「僕は、まだ何も思い出せていません」
谷郷さんは頷いた。
「はいと答える資格があるのかも分からない。あなたたちが求めている桜井ユウトは、きっともっと強くて、もっと頼れる人だったんだと思います」
「……」
「今の僕は、ただの学生です。過去もなくて、進路すら決められない。大剣の振り方は身体が覚えていても、自分がどう生きればいいのかも分からない」
言葉にするたび、胸が痛んだ。
けれど、止まらなかった。
「そんな僕が、ホロライブに関わっていいのか分かりません。みこやすいちゃんのそばにいていいのかも、分からない」
「ユウト……」
みこが小さく呟く。
僕は彼女の方を見なかった。
見たら、言葉が揺らいでしまいそうだったから。
「でも」
胸ポケットの時計に手を置く。
チ、チ、チ。
時は進んでいる。
「知りたいです」
僕は顔を上げた。
「僕が何を失ったのか。何を守ったのか。あなたたちが、どうしてそこまで僕を覚えていてくれるのか」
谷郷さんの瞳が揺れる。
「それを知らないまま、逃げたくない」
僕はゆっくりと息を吸った。
「だから、すぐに答えは出せません。でも……話を聞かせてください。僕がホロライブで何をしていたのか。あなたが、僕に何を見ていたのか」
少し迷ってから、続けた。
「そのうえで、僕がどうしたいのかを決めたいです」
沈黙が落ちた。
けれど、それは冷たい沈黙ではなかった。
谷郷さんは、深く、深く頷いた。
「それでいい」
彼の声は、少しだけ震えていた。
「それで十分だ。今日、君がそう言ってくれただけで……私は、救われた気がする」
「そんな大げさな」
「大げさではないよ、桜井くん」
谷郷さんは微笑んだ。
それは初めて見る、少しだけ柔らかい笑みだった。
「君は昔から、自分の価値を低く見積もるところがある」
「……また、相変わらずですか」
「ああ」
谷郷さんは、小さく笑った。
「相変わらずだ」
みこが鼻をすすった。
すいちゃんが、僕の右手をそっと握った。
僕は一瞬驚いたが、振り払わなかった。
みこも負けじと、左手を握ってくる。
「……何で二人とも手を握るの」
「必要だからにぇ」
「感情の安定のため」
「誰の?」
「みこたちの」
「正直だな」
谷郷さんは、その光景を見て、ついに小さく吹き出した。
それは代表としての笑いではなく、どこか懐かしい日常を見つけた人の笑いだった。
「……まったく」
彼は珈琲を一口飲んだ。
「本当なら、もう少し厳粛に話すつもりだったんだけどね」
「すみません」
「君が謝ることではないよ」
谷郷さんは、みことすいちゃんを見る。
「だいたい、この二人のせいだ」
「にぇ!?」
「すいちゃんたちは案内役として真面目に任務を遂行しただけだよ?」
「腕を組む必要はなかったと思うが」
「ありました」
「ありましたにぇ」
「……そうか」
谷郷さんは諦めたように息を吐いた。
けれど、表情はどこか穏やかだった。
「まあ、いい。桜井くん」
「はい」
「今日は、長くなりすぎない程度に話そう。君の負担にならないように、少しずつ」
「お願いします」
「まずは、前の世界で私が君をスカウトした日のことから話そうか」
僕は姿勢を正した。
みこも、すいちゃんも、静かに口を閉じる。
店内には、珈琲の香りと、懐中時計の音だけが残った。
チ、チ、チ、チ。
谷郷さんは、ゆっくりと話し始める。
あの日のことを。
まだホロライブが小さな夢でしかなかった頃。
まだ誰も、未来の巨大な光を知らなかった頃。
一人の男が、一人の青年に手を伸ばした日のことを。
――君の力を貸してほしい。
その言葉から始まった物語を。
僕は、何一つ思い出せないまま聞いていた。
けれど、不思議と胸は逃げ出そうとはしなかった。
むしろ、もっと聞きたいと思っていた。
自分が失った物語を。
自分がまだ知らない、自分自身の始まりを。
窓の外では、オルタナティブシティの空を魔導飛行船が横切っていく。
過去と現在が、静かに重なり始めていた。
あの日と同じように。
谷郷元昭は、桜井ユウトの前に座っている。
そして、もう一度、彼に未来への扉を差し出していた。