hololive Lost Story 作:ダニエルズプラン
チ、チ、チ、チ、チ、チ――。
耳元ではない。
胸の奥でもない。
けれど、自分のすぐ近くで、確かに何かが時を刻んでいた。
規則正しく、冷たく、それでいてどこか優しい音。
銀色の懐中時計の音だ。
その音を聞きながら、僕はまた夢を見ていた。
いつもの夢。
何度も、何度も、数えきれないほど繰り返してきた夢。
目覚めれば忘れてしまう。
掴もうとすれば指の間をすり抜ける。
確かに見ていたはずなのに、朝の光を浴びた瞬間、霧のように消えてしまう。
そんな、僕の失われた過去の残骸。
けれど。
今朝の夢は、少し違っていた。
いつもなら、そこには戦いがあった。
吹き荒れる冷たい夜風。
灰色の死神のような異形。
赤く錆びた装甲。
握りしめた大剣。
砕けていくカード。
自分という存在が、砂のように世界から零れ落ちていく感覚。
夢の中の僕は、いつも何かと戦っていた。
何かを守ろうとして。
何かを失いながら。
誰かに忘れられながら。
それでも、剣を振るっていた。
目覚めた後には、胸の奥に冷たい空洞だけが残る。
自分の大切な何かが、また少し遠くへ行ってしまったような喪失感だけが残る。
それが、いつもの朝だった。
けれど。
今朝の夢は、違った。
戦いの夢ではなかった。
別れの夢でもなかった。
もっと、騒がしくて。
もっと、くだらなくて。
もっと、どうしようもなく暖かい夢だった。
『ユウトさん! この企画、絶対面白いと思うんだよね!』
誰かがそう言って、紙の束を僕の机に叩きつけてくる。
白い狐耳が揺れていたような気がした。
『ねぇ、これ朝までゲームしてそのまま配信って無茶じゃない?』
別の誰かが、呆れたように笑う。
穏やかで、包み込むような声。
黒い狼の耳が、ゆっくり動いていたような気がする。
『ユウトさん、ころね、まだやれる! あと五時間くらいいけるよぉ!』
『ころさん、それはもうやれるとかじゃなくて寝た方がいいやつだねぇ』
明るい声と、眠たげな声。
犬のような元気な笑顔。
猫のように気だるい微笑み。
その向こうで、桜色の髪の少女が笑っている。
『にゃっはろー! みこも混ぜるにぇ!』
『みこちはまず昨日の反省文ね』
『なんでにぇ!?』
『配信中に備品壊したから』
『あれは事故にぇ!』
青い髪の少女が、隣で肩を震わせて笑っていた。
『ユウトさん、相変わらず容赦ないねー』
『お前も笑ってないで止めろ、すいせい』
『やだ。面白いから』
『仕事しろ』
『はーい』
自分の声が聞こえた。
少しぶっきらぼうで。
少し呆れていて。
でも、どこか楽しそうな声。
そこは、どこかの事務所だった。
広いわけではない。
むしろ少し狭い。
机には資料が積まれ、ケーブルが床を這い、誰かの飲みかけの紙コップが置きっぱなしになっている。
洗練されたホロライブ事務所ではない。
もっと古くて。
もっと手狭で。
もっと始まりに近い場所。
そこで、僕は誰かと一緒にいた。
騒がしくて。
面倒で。
手がかかって。
けれど、胸が張り裂けそうなほど愛おしい人たちと。
誰かが笑った。
誰かが怒った。
誰かが僕の名前を呼んだ。
ユウト。
ユウトさん。
桜井くん。
いくつもの声が重なる。
その全部が、優しかった。
夢の中の僕は、いつもみたいに剣を握っていなかった。
誰かを見送ってもいなかった。
ただ、少し苦すぎるブラックコーヒーを片手に、騒がしい彼女たちを見ながら、呆れたようにため息を吐いていた。
そして、思っていた。
――ああ。
――僕は、この場所が好きだったんだ。
その瞬間、胸の奥に暖かなものが広がった。
忘れていたはずの何か。
失ったはずの何か。
もう戻らないと思っていたものが、ほんの少しだけ、朝焼けの光のように差し込んできた気がした。
けれど。
夢は夢だ。
どれだけ暖かくても、目覚めれば消える。
視界の端から色が抜けていく。
声が遠くなる。
笑い声が、霧の向こうへ沈んでいく。
僕は思わず手を伸ばそうとした。
いつものように。
消えないでくれ、と。
待ってくれ、と。
けれど、不思議と今朝は、その手を必死に伸ばすことはなかった。
消えてしまうのは怖い。
忘れてしまうのは悲しい。
それでも、夢の中にあった暖かさは、すべてが霧散した後も、胸の奥に微かな残り火として残っている気がした。
チ、チ、チ、チ――。
懐中時計の音が、遠くから近くへ戻ってくる。
そして、僕は目を覚ました。
~~~~~~~~
「……」
天井が見えた。
いつもの自室の天井。
窓の外からは、ホロアースの朝の光が差し込んでいる。
カーテンの隙間から入る陽光が、床の上に細長い光の線を作っていた。
僕は数秒、何も考えずに天井を見つめていた。
夢を見ていた。
それは分かる。
いつものように、内容はほとんど残っていない。
誰がいたのか。
何を話していたのか。
どんな表情をしていたのか。
細部は、もう霧の向こうへ消えていた。
けれど。
胸の奥が、冷たくなかった。
いつもの朝なら、目覚めた瞬間に空白が広がる。
大切なものをまた取り逃がした喪失感に、肺の奥を冷たい手で握られるような気分になる。
けれど、今朝は違った。
寂しさはある。
夢が消えた悲しさもある。
でも、それ以上に、暖かかった。
まるで誰かに「おかえり」と言われたような。
あるいは、誰かに「またね」と手を振られたような。
そんな、奇妙に穏やかな余韻が残っている。
「……変な夢」
僕は小さく呟いた。
けれど、声には苦さがなかった。
むしろ、ほんの少しだけ笑っていた。
自分でも気づかないうちに、口元が緩んでいたのだ。
そのことに気づいて、僕は少し驚いた。
「……僕、今笑ってた?」
誰に聞くでもなく呟く。
答える者はいない。
ただ、ベッド脇の机に置かれた銀色の懐中時計が、黒い紐を静かに垂らしながら、チ、チ、と時を刻んでいた。
僕は時計を手に取る。
指先で、裏面に刻まれた英文をなぞった。
the past should give us hope.
過去が希望をくれる。
骨董品店で初めてこの文字を見た時には、その意味がよく分からなかった。
過去がない僕にとって、過去は希望どころか、底なしの空白そのものだった。
けれど。
今なら、少しだけ分かる気がした。
過去は、失った痛みだけではないのかもしれない。
そこには、笑い声もあった。
誰かと過ごした時間もあった。
呆れて、怒って、支えて、それでも一緒にいた日々があったのかもしれない。
たとえ今の僕が覚えていなくても。
誰かが覚えていてくれる。
谷郷さんが。
みこが。
すいちゃんが。
ゲーマーズの四人が。
そしてきっと、まだ会っていない誰かたちも。
僕の過去は、完全に消えてしまったわけではない。
誰かの中に残っている。
それが、ほんの少しだけ救いのように思えた。
ピロン。
机の上の端末が鳴った。
画面を見ると、いつものように二つの通知が並んでいた。
『ユウト、おはようにぇ! 昨日ちゃんと寝た? 夜更かししてない?』
『おはよ。今日は学校? 無理しないでね』
みことすいちゃんだ。
僕は画面を見て、また少し笑ってしまった。
昨日、事務所で何があったのかは知らない。
けれど、どうやら二人は無事らしい。
メッセージの勢いが、いつもより少しだけ控えめな気もする。
何かあったのだろうか。
まあ、だいたい想像はつく。
ゲーマーズの四人に何か言われたのだろう。
僕は端末を手に取り、返信を打った。
『おはよう。ちゃんと寝ました。今日は学校です』
少し迷ってから、もう一文追加する。
『今朝は、少しだけ暖かい夢を見た気がします』
送信。
すぐに既読がついた。
本当に早い。
数秒後、みこから返信が来た。
『暖かい夢!? どんな夢にぇ!? みこ出てた!?』
続いてすいちゃん。
『無理に思い出さなくていいよ。でも、嫌な夢じゃなかったならよかった』
僕は画面を見ながら、少しだけ考える。
『内容は覚えていません。でも、誰かが笑っていた気がします』
送ると、しばらく返信が止まった。
珍しい。
一分ほどして、すいちゃんから短い返事が来た。
『そっか』
続いて、みこ。
『それなら、よかったにぇ』
その二つの短い文面に、なぜか胸が締めつけられた。
きっと、二人は何かを感じ取ったのだろう。
僕が覚えていない夢の中に、彼女たちが知っている誰かがいたかもしれないと。
僕は端末を伏せ、深く息を吸った。
「……よし」
今日も学校だ。
身支度をしなければならない。
僕は懐中時計を首にかけ、制服の胸ポケットへしまう。
洗面所で顔を洗い、髪を整え、ネクタイを締める。
鏡の中の自分は、昨日までと同じ顔をしている。
記憶は戻っていない。
過去も分からない。
進路も決まっていない。
それでも、どこか少しだけ違って見えた。
目の奥に、以前よりもほんのわずかに光がある。
そう見えたのは、気のせいだろうか。
「……まあ、多少ましな顔にはなったかな」
カイトや青が聞いたら、また何か言いそうだ。
僕は苦笑しながら、カバンを手に取った。
部屋を出る前に、ふと机の上を見る。
そこには、まだ白紙の進路希望調査書が置かれていた。
以前は、それを見るだけで胸が重くなった。
何も書けないことが、自分の空白そのもののように思えた。
けれど、今朝は少し違う。
まだ書けない。
でも、いつか書けるかもしれない。
そう思えた。
僕は進路希望調査書をカバンに入れる。
そして、部屋の扉を開けた。
「行ってきます」
今朝のその言葉は、昨日よりも少しだけ自然に出た。
~~~~~~~~
通学路は、いつも通りだった。
犬耳の子供たちが、朝から元気に走り回っている。
エルフの老人が、店先で魔導具の調整をしている。
悪魔の少年が、浮遊板で通学して教師に怒られている。
天使の少女たちが、空中回廊を歩きながら楽しそうに談笑していた。
ホロアースの朝。
多種多様な種族が入り混じる、賑やかで当たり前の日常。
僕はその中を歩いていく。
胸ポケットの時計が、チ、チ、と鳴っている。
駅前の巨大な魔導ビジョンには、今日もホロライブの広告が流れていた。
『ホロライブ冒険譚特別配信――今夜公開』
画面には、数人のタレントたちの姿が映る。
以前なら、それを見るだけで眩暈がした。
吐き気がした。
胸の奥に空白が広がって、呼吸が浅くなった。
今も、完全に平気というわけではない。
画面の中で笑う彼女たちを見ると、胸は痛む。
知らないはずなのに、知っているような感覚に襲われる。
けれど、その痛みは以前とは違っていた。
ただ苦しいだけではない。
そこに、暖かさが混じっている。
みこ。
すいちゃん。
谷郷さん。
フブキさん。
ミオさん。
ころねさん。
おかゆさん。
昨日出会った人たちの顔が浮かぶ。
彼女たちは、僕を覚えていた。
僕は覚えていない。
その事実はまだ重い。
でも、それでも彼女たちは、僕に「また会えて嬉しい」と言ってくれた。
「……騒がしい人たちだな、本当に」
僕は小さく呟いた。
けれど、その声には笑みが混じっていた。
駅前の広場を抜け、学校へ向かう。
校門の前では、獣人の友人が大きく手を振っていた。
「おーい、ユウト!」
「おはよう」
「おはよう! ……って、ん?」
カイトは僕の顔を見て、ぴくりと犬耳を動かした。
「何?」
「いや、なんか今日のお前、昨日よりさらに顔色いいな」
「そう?」
「うん。何かいいことあった?」
「どうだろう。暖かい夢は見た」
「何だそれ、詩人か?」
「僕にもよく分からない」
獣人の友人は首を傾げたが、すぐににっと笑った。
「まあ、いい夢だったならいいじゃん!」
「うん。そうかもね」
「おっ、否定しない。珍しいな」
「いちいち人の反応を分析するの、青みたいになってるよ」
「それは困るな。あいつ、観察眼鋭すぎてたまに怖いし」
そんな会話をしながら、僕たちは校舎へ入る。
教室に着くと、朝のざわめきが迎えてくれた。
いつもの席。
いつものクラスメイト。
いつもの騒がしさ。
僕はカバンを机に置き、椅子へ座る。
その瞬間、後ろの席からひょいと顔が出てきた。
「おはようございます、先輩」
「青」
火威青だった。
今日も相変わらず、整った顔立ちで涼しげに微笑んでいる。
ただし、手元にはなぜか分厚いスケッチブックがある。
「また何か描いてるの?」
「はい。昨日、いい構図を思いついたので」
「どんな?」
「秘密です」
「僕をモデルにしてないよね」
「……」
「青?」
「創作において、沈黙は肯定とは限りません」
「限る場合も多いと思う」
「先輩は疑い深くなりましたね」
「青に鍛えられたからね」
青は満足そうに頷いた。
「それは光栄です」
そこで、青の視線が僕の顔に留まった。
数秒。
彼女はじっと僕を観察する。
「……何?」
「先輩」
「うん」
「今日、少し表情が柔らかいですね」
「カイトにも似たようなこと言われたよ」
「でしょうね。分かりやすいですから」
「僕、そんなに顔に出るかな」
「少なくとも、僕には」
青は少しだけ目を細めた。
その奥に、昨日とは違う何かを読み取ろうとする光がある。
「何か、いい夢でも見ましたか?」
僕は驚いた。
「……本当に観察眼が鋭いね」
「当たりですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「内容は覚えてない。でも、嫌な夢じゃなかった」
「そうですか」
青は少しだけ黙った。
それから、ふっと柔らかく笑った。
「なら、よかったです」
その声は、本当に安心しているようだった。
僕は何となく気恥ずかしくなり、視線を逸らす。
「……ありがとう」
「いえ。先輩の表情が柔らかいと、僕の創作意欲も上がります」
「やっぱりそっちなんだ」
「もちろんです」
青はスケッチブックを胸に抱え、得意げに笑った。
いつもの青だ。
クールぶっていて、でもどこかポンコツで、創作の話になると急に距離が近くなる後輩。
その存在もまた、僕の日常の一部だった。
ホームルームのチャイムが鳴る。
担任が教室へ入ってきた。
ざわめきが少しずつ収まる。
「はい、みんな席について。今日は予定通り、午後からダンジョン訓練を行います」
その言葉に、教室の空気が一気に変わった。
何人かが「おお」と声を上げる。
カイトが僕の方を振り返り、犬耳をぴんと立てた。
「来たな、ユウト!」
「うん」
本日は、何度目かのダンジョン訓練の日だった。
前回の白銀聖騎士団管轄の訓練で、僕は大剣を手にし、身体が覚えていた戦い方を発揮してしまった。
その結果、クラスメイトたちからは妙な期待を向けられるようになっている。
正直、少し気が重い。
戦える。
それは分かった。
でも、なぜ戦えるのかは分からない。
身体は覚えているのに、記憶は戻らない。
その事実は、今でも胸に引っかかっている。
けれど、以前ほど怖くはなかった。
僕は胸ポケットの懐中時計を、制服の上からそっと押さえる。
チ、チ、チ、チ――。
時計の音は、今日も変わらない。
でも今朝の僕は、少しだけ違う。
暖かな夢の残響が、まだ胸の奥に残っている。
たとえ戦いの中に身を置いたとしても。
たとえまた、自分の知らない自分と向き合うことになったとしても。
僕はもう、完全な一人ではない。
そう思えるだけで、呼吸が少し楽になった。
「桜井」
担任の声がした。
「前回の訓練ではかなり目立っていたが、今日は無理をしないように。訓練はあくまで訓練だ。分かっているな?」
「はい」
僕は頷く。
「無理はしません」
言いながら、自分で少し不思議に思った。
前なら、その言葉はきっと薄っぺらかった。
自分でも信じていない、ただの返事だった。
でも今は違う。
無理をしない。
その言葉の裏に、僕を心配する人たちの顔が浮かぶ。
みこに怒られそうだ。
すいちゃんに静かに詰められそうだ。
ころねさんは泣くかもしれない。
ミオさんには優しく説教される気がする。
フブキさんは笑顔で圧をかけてくるだろう。
おかゆさんは眠そうに、でも逃げ道を塞いできそうだ。
谷郷さんは、深くため息を吐くかもしれない。
想像したら、少しだけ笑いそうになった。
獣人の友人が隣で小声で言う。
「ユウト、何か楽しそうだな」
「そう見える?」
「見える」
「……そっか」
僕は窓の外を見た。
青い空。
浮遊大陸。
遠くを飛ぶ魔導船。
そして、その向こうに広がるまだ知らない世界。
今日のダンジョン訓練で、何が起きるかは分からない。
また身体が勝手に動くかもしれない。
また何かを思い出しかけるかもしれない。
あるいは、何も得られないかもしれない。
それでも、今朝の僕は、少しだけ前を向けていた。
チ、チ、チ、チ――。
懐中時計が、静かに時を刻む。
過去はまだ霧の中。
けれど、その霧の向こうから、暖かな笑い声が聞こえた気がした。