hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第23話 1期生メモリー・チェックアウト

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 胸ポケットの奥で、銀色の懐中時計が静かに時を刻んでいる。

 

 ホロライブ事務所の会議室。

 

 テーブルの上には、春先のどかが用意した少し甘めの紅茶と、小皿に盛られた焼き菓子。

 窓の外では、オルタナティブシティの昼下がりの光が、硝子越しに柔らかく差し込んでいた。

 

 その穏やかな空気とは対照的に、部屋の中に満ちている感情は、簡単に言葉にできるものではなかった。

 

 1期生たちが、順番に話してくれている。

 

 前の世界のこと。

 ホロライブがまだ今ほど大きくなかった頃のこと。

 そして、そこにいたという「桜井ユウト」という男のこと。

 

 ユウトは、それを静かに聞いていた。

 

 すぐ隣には谷郷元昭――YAGOO。

 少し後ろにはAちゃんと春先のどか。

 正面には、夜空メル、アキ・ローゼンタール、赤井はあと、夏色まつり、白上フブキ。

 

 まつりとフブキの首からは、相変わらず『私は抜け駆けしました』の看板が下がっている。

 

 ただし、さっきまでの空気とは違って、誰もその看板を茶化そうとはしなかった。

 

 話は、静かに続いていた。

 

「前のユウトさんはね」

 

 夜空メルが、両手で紅茶のカップを包み込むように持ちながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「すごく、気づく人だったんだ」

 

「気づく、ですか」

 

 ユウトが尋ねると、メルは小さく頷いた。

 

「うん。私たちが何か言う前に、困っていることに気づいてくれる人。例えば、配信前にちょっと調子が悪い時とか、笑って誤魔化していても、ユウトさんだけはすぐに分かっちゃうの」

 

 メルは懐かしそうに目を細めた。

 

「『夜空、今日は無理するな』って言って、いつの間にか温かい飲み物を置いてくれたり。スタッフさんにこっそり相談して、配信内容を少し軽めに調整してくれたり」

 

「……僕が、ですか」

 

「そう。ユウトさんが」

 

 メルは、少しだけ笑った。

 

「でもね、本人は絶対に『心配した』なんて言わないの。『吸血鬼が倒れたら面倒だろ』とか、『予定が崩れるとこっちが困る』とか、そんな言い方ばっかり」

 

「……それは、少し口が悪いですね」

 

 ユウトが静かに言うと、フブキが小さく吹き出した。

 

「少し、ですかねぇ」

 

「かなりだったよね」

 

 アキロゼが柔らかく笑う。

 

 まつりは看板を揺らしながら、うんうんと大きく頷いた。

 

「でも、その口の悪さがユウトさんだったんだよ!」

 

「褒められている気がしません」

 

「褒めてる! すっごく褒めてる!」

 

 まつりが勢いよく言う。

 

 その声は明るかったが、目元にはまだ少し赤みが残っていた。

 

 ユウトは紅茶のカップを置き、静かに視線を戻す。

 

 メルは、ほんの少しだけ表情を和らげた。

 

「ユウトさんはね、優しい人だったよ。誰よりも優しいのに、優しいって言われるのが苦手な人だった」

 

 その言葉に、部屋の中が少し静かになる。

 

 ユウトは何も言わなかった。

 

 ただ、胸ポケットの時計だけが、チ、チ、と小さく鳴っていた。

 

 次に話し始めたのは、アキロゼだった。

 

「私が覚えているユウトくんは、いつも後ろにいた人かな」

 

「後ろ、ですか」

 

「うん。ステージの袖。配信ブースの外。打ち合わせの端っこ。いつも中心にはいないのに、気づいたら一番大事なところを支えてくれている人」

 

 アキロゼは、ゆっくりと言葉を選びながら続ける。

 

「私たちがステージに立つ時、ユウトくんはよく袖にいたの。照明の確認をしたり、進行表を見たり、音響さんと話したり。自分は表に出ないのに、誰よりもステージを見ていた」

 

 彼女はふっと笑った。

 

「一度ね、私がリハーサルで振りを間違えたことがあったの」

 

「振りを?」

 

「そう。ほんの少しだけ。たぶん、普通なら見逃すくらいの小さなズレ。でもユウトくんは、終わった後に私のところに来て、こう言ったの」

 

 アキロゼは少しだけ声色を変える。

 

「『アキ、二番の入り、半拍遅れてた。疲れてるなら休め。無理して本番で崩れる方が困る』って」

 

「……細かいですね」

 

「細かいの」

 

 アキロゼは嬉しそうに笑った。

 

「でも、それがすごく嬉しかった。ちゃんと見てくれているんだって分かったから。私が頑張っているところも、無理しているところも、全部見てくれているんだって」

 

 ユウトは、テーブルの木目へと一瞬だけ視線を落とした。

 

 するとAちゃんが、静かに言葉を添える。

 

「ユウトさんは、タレントの皆さんの小さな変化に本当に敏感でした。声の調子、歩き方、表情、打ち合わせ中の返事の間。そういう細かいところから、体調や気持ちの揺れを拾っていました」

 

「……仕事として、ですか」

 

 ユウトがそう尋ねると、YAGOOが少しだけ目を細めた。

 

「仕事として始めたことだったのかもしれません。ただ、途中からはそれだけではなかったと思います」

 

 その言葉に、1期生たちは誰も否定しなかった。

 

 ユウトは、ゆっくりと頷いた。

 

「……そうですか」

 

 短い返事。

 

 けれど、誰もそれ以上を求めなかった。

 

 次に、赤井はあとが腕を組んだまま口を開いた。

 

「私の場合は……まあ、怒られた記憶の方が多いかも」

 

「怒られたんですか」

 

「怒られた」

 

 はあちゃまは、どこか不満そうに、けれど懐かしそうに言った。

 

「企画が暴走しそうになった時とか、料理配信で危険な方向に行きそうになった時とか、海外とのやり取りで無茶なスケジュール組もうとした時とか」

 

「……かなり怒られる理由があるように聞こえます」

 

「そこは否定しないけど!」

 

 はあちゃまは少しだけ声を張った。

 

 しかし、すぐに表情を落ち着ける。

 

「でも、ユウトはただ止めるだけじゃなかった。私が何かやりたいって言った時、普通なら『危ないからダメ』で終わるところを、ユウトは一回考えてくれた」

 

「考える」

 

「うん。『やるならここを変えろ』『この部分は危ない』『このままだと誰かに迷惑がかかる』『でも、こっちの形ならいける』って」

 

 はあちゃまの視線が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 

「私のやりたいことを、ちゃんと企画として成立させようとしてくれた。めちゃくちゃなこと言っても、最初からバカにしたりしなかった」

 

 彼女は唇を尖らせた。

 

「口は悪かったけど」

 

「そこは共通なんですね」

 

「共通」

 

 まつりが即答した。

 

 フブキも頷く。

 

「ユウトくんの口の悪さは、もはや安心材料みたいなところがありましたね」

 

「安心材料」

 

「はい。辛辣なツッコミが飛んでくると、『あ、ちゃんと見てくれてるな』って思えるんです」

 

「変な信頼関係ですね」

 

「ホロライブなので」

 

「理由になってますか、それ」

 

 ユウトの淡々とした返しに、室内の空気が少し緩む。

 

 メルがくすくすと笑い、アキロゼも肩を揺らした。

 

 はあちゃまは、そんな空気の中でふっと真面目な顔に戻った。

 

「でもさ」

 

 彼女は、まっすぐにユウトを見た。

 

「そういう人だったんだよ。前のユウトは。誰かのやりたいことを、ただ笑って見てるんじゃなくて、本当に形にしようとしてくれる人だった」

 

「……はい」

 

「だから、私は……また会えてよかったと思ってる」

 

 はあちゃまはそこまで言うと、少し照れたように顔を背けた。

 

「それだけ」

 

「ありがとうございます。はあとさん」

 

「……はあとでいいってば」

 

「まだ、少し慣れないので」

 

「じゃあ、そのうち慣れて」

 

「努力します」

 

「そこは即答してよ」

 

 はあちゃまがむっとする。

 

 ユウトはわずかに苦笑した。

 

 まつりが、それを見て小さく息を呑んだ。

 

 彼女は正座したまま、看板を握りしめる。

 

「まつりの話もしていい?」

 

「もちろんです」

 

 ユウトが答えると、まつりは一度、大きく息を吸った。

 

「まつりはね、ユウトさんにいっぱい迷惑かけた」

 

「そうなんですか」

 

「うん。いっぱい。元気すぎて怒られたこともあるし、寂しくて困らせたこともあるし、泣きながら電話したこともある」

 

 まつりの声が少しずつ震え始める。

 

 しかし彼女は、無理に笑おうとはしなかった。

 

 そのまま、言葉を続ける。

 

「でも、ユウトさんは何だかんだ聞いてくれた。すごく眠そうな声で『今何時だと思ってる』って言いながら、最後まで電話切らなかった」

 

 フブキが横で優しく目を伏せる。

 

「イベントの前に怖くなった時も、ユウトさんは『怖いなら怖いまま出ろ』って言ったの」

 

「……厳しいですね」

 

「でもね、その後に言ってくれたんだ」

 

 まつりは、涙を滲ませながら笑った。

 

「『怖くても立てるなら、それはもう強いってことだろ』って」

 

 ユウトの手が、カップの取っ手に触れたまま止まる。

 

 まつりは続ける。

 

「まつり、それがすごく嬉しかった。怖がってる自分を否定しなくていいんだって思えた。ユウトさんは、まつりの強いところだけじゃなくて、弱いところも見てくれてた」

 

 声が詰まる。

 

 まつりは看板を握りしめたまま、深く頭を下げた。

 

「だから……昨日は本当にごめんなさい。飛びついたことも、驚かせたことも。反省してます」

 

 そして、顔を上げる。

 

「でも、会えて嬉しかった。これは、何回でも言う」

 

 ユウトは、少しの間黙っていた。

 

 やがて、静かに言う。

 

「……昨日は、驚きました」

 

「うん」

 

「今日も、看板に驚きました」

 

「うん……」

 

「でも、謝罪は受け取りました」

 

 まつりの目が大きく開かれる。

 

「本当?」

 

「はい」

 

「じゃあ……また、会ってくれる?」

 

「こうして顔合わせに来ていますから」

 

「それはYAGOOさんの予定でしょ?」

 

「……僕も、来ると決めました」

 

 まつりは、今度こそ堪えきれずに泣き出しそうになった。

 

 だが、その瞬間、Aちゃんが静かに言う。

 

「夏色さん。看板が涙で濡れると文字が滲みます」

 

「そこ!?」

 

 まつりが思わず叫び、部屋に小さな笑いが起きる。

 

 最後に話すのは、フブキだった。

 

 白上フブキは、看板を下げたまま、けれど背筋を伸ばして座っていた。

 

 いつもの飄々とした笑顔。

 

 だが、その奥にあるものは、軽くなかった。

 

「白上から見たユウトくんはですね」

 

 彼女は、いつもの調子で始めた。

 

「とても頼りになる、でもとても困った人でした」

 

「困った人」

 

「はい。自分のことを後回しにしすぎるんです」

 

 フブキの声が、少しだけ低くなる。

 

「私たちの予定、配信、イベント、体調、メンタル、将来。そういうものを全部気にしてくれるのに、自分のことになると急に雑になる」

 

 YAGOOの表情が、わずかに曇った。

 

 Aちゃんも、のどかも、何も言わなかった。

 

 フブキは続ける。

 

「白上は、何度か言いました。『ユウトくんも休んでください』って。でもユウトくんはいつも、『俺は裏方だからいい』って言ってました」

 

「……裏方」

 

「はい。裏方だから。自分は表に出る人間じゃないから。そう言って、どんどん自分を削っていった」

 

 フブキの笑顔が、少しだけ歪む。

 

「だから、白上は怒っています」

 

 ユウトは、フブキを見る。

 

「僕に、ですか」

 

「はい。前のユウトくんに。勝手に消えたユウトくんに。全部背負って、最後まで私たちに何も言わなかったユウトくんに」

 

 その言葉は、静かだった。

 

 静かだからこそ、重かった。

 

「でも、同時に感謝しています」

 

 フブキは、目を細めた。

 

「あなたが守ってくれたから、今のホロライブがあります。あなたが未来を繋いでくれたから、私たちはここにいます。だから怒っているし、感謝しているし、また会えて嬉しい」

 

 彼女は、少しだけ笑った。

 

「感情が忙しいですねぇ」

 

「……そうですね」

 

「だから、これから少しずつ返していきます。白上たちが覚えているあなたのことを。あなたが忘れてしまった時間を。迷惑かもしれませんが、受け取ってください」

 

「迷惑とは、思いません」

 

 ユウトはそう答えた。

 

 その一言に、フブキの耳がわずかに動いた。

 

「……そうですか」

 

「ただ、全部をすぐに理解できるかは分かりません」

 

「それでいいです」

 

 フブキは、静かに頷いた。

 

「急ぎません。……急ぎたい気持ちは、ものすごくありますけど」

 

「本音が漏れてます」

 

「狐なので」

 

「狐は関係ありますか」

 

「あります」

 

 フブキは真顔で言い切った。

 

 ユウトは、返答に少し困った。

 

 その様子を見て、1期生たちがまた笑う。

 

 重くなりすぎた空気が、少しだけ柔らかくほどけていく。

 

 それからも、話は続いた。

 

 メルは、前世でユウトが夜遅くまで配信トラブルの対応をしてくれた話をした。

 アキロゼは、ステージ裏で一度だけユウトが差し入れのサンドイッチを片手に寝落ちしていた話をした。

 はあちゃまは、無茶な企画書にユウトが赤字を入れすぎて真っ赤になった書類を見せられた時の話をした。

 まつりは、泣いたあとにユウトから渡されたハンカチを返しそびれた話をした。

 フブキは、ユウトが誰にも見られないように会場の隅で小さく拍手していた話をした。

 

 どれも、ユウトには覚えのない話だった。

 

 だが、彼女たちの語る声は、どれも嘘には聞こえなかった。

 

 嬉しそうに。

 寂しそうに。

 時々笑って。

 時々言葉を詰まらせて。

 

 彼女たちは、前の世界の桜井ユウトを語り続けた。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 時計の音だけが、その時間を淡々と刻む。

 

 どれほど経っただろうか。

 

 YAGOOがふと壁の時計を見た。

 

「……そろそろ、時間ですね」

 

 その一言に、部屋の空気が少しだけ止まった。

 

 まつりが真っ先に反応する。

 

「え、もう!?」

 

「もう、というより、予定時間はかなり過ぎています」

 

 Aちゃんが冷静に言う。

 

「まつりさんとはあとさんの話が予定より長かったですね」

 

「私!?」

 

「まつりだけじゃないでしょ!?」

 

 はあちゃまが抗議する。

 

 のどかが手元のメモを見ながら、柔らかく言った。

 

「皆さん、ほぼ全員予定より長かったです」

 

「のどかちゃん、優しい顔で公平に刺すよね」

 

 フブキが苦笑する。

 

 YAGOOはユウトの方を向いた。

 

「桜井くん。今日はここまでにしましょう。長い時間、ありがとう」

 

「こちらこそ、ありがとうございました」

 

 ユウトは席を立とうとして、ふと動きを止めた。

 

 そして、YAGOOを見る。

 

「あの、谷郷さん」

 

「はい」

 

「次回は、いつ頃になりますか」

 

 その問いに、YAGOOは少しだけ目を丸くした。

 

 1期生たちも、静かにユウトを見る。

 

 YAGOOは、わずかに声を柔らかくした。

 

「……大丈夫ですか、桜井くん。無理をしていませんか」

 

「大丈夫です」

 

 ユウトの返事は短かった。

 

 けれど、迷いはなかった。

 

「今日も、皆さんからいろいろ聞かせてもらいました。全部を理解できたとは言えません。でも……聞けてよかったと思っています」

 

 まつりの目が潤む。

 

 メルが口元を押さえた。

 

 アキロゼは静かに微笑み、はあちゃまは照れ隠しのように視線を逸らす。

 

 フブキは、看板を下げたまま小さく息を吐いた。

 

 YAGOOは数秒、ユウトの顔を見つめた。

 

 そして、ゆっくりと頷く。

 

「分かりました」

 

 彼は端末を取り出した。

 

「次は2期生の皆さんを予定しています。こちらで候補日を確認してみますね」

 

 YAGOOの指が画面を滑る。

 

 Aちゃんが横から覗き込む。

 

「代表、2期生用の連絡スレッドですね」

 

「はい。今、確認を送ります」

 

 YAGOOが短く文面を打ち込み、送信する。

 

 数秒。

 

 本当に、数秒だった。

 

 端末が震えた。

 

 YAGOOの眉がわずかに上がる。

 

「早いですね」

 

 Aちゃんが画面を見る。

 

「湊さんから返信です」

 

「早すぎませんか」

 

 フブキが思わず突っ込む。

 

 YAGOOは続けて届く通知を見た。

 

「紫咲さんからも。百鬼さん、大空さん、癒月さんからも来ています」

 

「全員じゃん」

 

 はあちゃまが呟いた。

 

 YAGOOは、少しだけ困ったように笑った。

 

「全員、明日でも構わないそうです」

 

 ユウトは一瞬だけ沈黙した。

 

「……明日、ですか」

 

「はい。ただ、本当に無理はしなくて大丈夫です。今日も長時間でしたし、学校生活もあるでしょう」

 

 YAGOOの声には、明確な気遣いがあった。

 

 まつりも身を乗り出す。

 

「ユウトさん、無理しないでね? 会ってほしいけど、疲れてるなら休んでほしいし、でも会ってほしいし、でも……!」

 

「まつり、感情が渋滞してる」

 

 フブキが小声で言う。

 

 ユウトは少しだけ考えた。

 

 部屋の視線が集まる。

 

 時計が鳴る。

 

 チ、チ、チ――。

 

 やがて、ユウトは顔を上げた。

 

「明日、来ます」

 

 その瞬間、室内に小さなどよめきが走った。

 

 YAGOOはもう一度確認する。

 

「本当に大丈夫ですか」

 

「はい。明日も予定は空いています」

 

「分かりました。では、2期生の皆さんには明日で調整すると伝えます」

 

「お願いします」

 

 YAGOOが返信を打ち込む。

 

 すると、またすぐに通知が鳴った。

 

 Aちゃんが画面を見て、少しだけ目を細める。

 

「湊さんが『ぜったい行く』と送っています」

 

「紫咲さんは?」

 

「『寝坊しなければ』と」

 

「不安ですね」

 

「大空さんが『起こしに行く』と返しています」

 

「連携が取れているようで何よりです」

 

 YAGOOはそう言ったが、表情には若干の疲労が滲んでいた。

 

 まつりがむむっと頬を膨らませる。

 

「2期生、明日会えるのずるい……」

 

「まつりさんたちは今日会いましたよ」

 

 のどかが言う。

 

「でも、まつりはもっと会いたい!」

 

「その発言は看板の重みを増しますね」

 

 Aちゃんが淡々と言うと、まつりは看板をぎゅっと押さえた。

 

「うぅ……反省してます……」

 

 フブキも小さく手を挙げる。

 

「ちなみに白上は、明日の案内役などに立候補することは」

 

「却下です」

 

 Aちゃんが即答した。

 

「まだ最後まで言ってませんよぉ」

 

「言わなくても分かります」

 

「さすがAちゃん」

 

「褒めても却下です」

 

 フブキはしゅんとした。

 

 ユウトはそのやり取りを見ながら、席を立つ。

 

「それでは、今日はこれで失礼します」

 

 その一言に、1期生たちも一斉に立ち上がった。

 

 メルが少し慌てたように言う。

 

「玄関まで、見送ってもいいかな?」

 

「はい。大丈夫です」

 

「やった」

 

 まつりが小さく拳を握る。

 

 Aちゃんがすかさず言う。

 

「夏色さん、飛びつき禁止です」

 

「分かってるよ!?」

 

「白上さん、尾行禁止です」

 

「今日は堂々と見送りますよぉ」

 

「看板はそのままでお願いします」

 

「えっ、このままですか?」

 

「はい」

 

 フブキは自分の看板を見る。

 

『私は抜け駆けしました』

『尾行しました』

 

「……なかなかの公開処刑ですね」

 

「再発防止策です」

 

 Aちゃんは揺るがなかった。

 

 YAGOOが軽く咳払いをする。

 

「では、皆で入口まで行きましょう」

 

 こうして、ユウトを先頭に、YAGOO、Aちゃん、のどか、1期生五人が会議室を出た。

 

 廊下を歩く。

 

 前回は、入口でまつりとフブキに遭遇した。

 

 今日は、そのまつりとフブキが看板を下げたまま横を歩いている。

 

 奇妙な状況だった。

 

 だが、誰も笑い飛ばすだけでは終わらせなかった。

 

 メルは時折、ユウトの横顔をそっと見ていた。

 アキロゼは穏やかな表情で歩きながら、何かを噛み締めているようだった。

 はあちゃまは「また話すから」とだけ小さく呟き、すぐにそっぽを向いた。

 まつりは何度も何度も話しかけたそうにしていたが、飛びつき禁止を思い出して両手を握りしめていた。

 フブキはいつもの笑みを浮かべていたが、その耳は少しだけ落ち着きなく揺れていた。

 

 ロビーに着く。

 

 今日は、誰も待ち伏せしていなかった。

 

 自動扉の向こうには、オルタナティブシティの午後の光が広がっている。

 

 ユウトは入口の前で振り返った。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

 深く頭を下げる。

 

 1期生たちは、それぞれの表情でその姿を見つめていた。

 

 メルが優しく言う。

 

「こちらこそ、来てくれてありがとう」

 

 アキロゼが続ける。

 

「また、ゆっくり話そうね」

 

 はあちゃまは腕を組んだまま、少しだけ強い声で言った。

 

「次はもっとちゃんと、私の話も聞いてもらうから」

 

「はい」

 

 まつりは、泣きそうな顔で笑った。

 

「またね、ユウトさん。今度は飛びつかないから」

 

「お願いします」

 

「でも、ちょっとだけなら?」

 

「だめです」

 

 Aちゃんとのどかが同時に言った。

 

 まつりは「はい……」と肩を落とした。

 

 フブキは看板を揺らしながら、穏やかに手を振る。

 

「また会いましょう、ユウトくん。次は看板なしで」

 

「そうなるといいですね」

 

「手厳しいですねぇ」

 

「尾行されたので」

 

「正論です」

 

 フブキは苦笑した。

 

 YAGOOが最後に声をかける。

 

「明日も、無理のないように来てください。何かあれば、すぐ連絡を」

 

「分かりました」

 

 ユウトは頷く。

 

「それでは、失礼します」

 

 自動扉が開く。

 

 ユウトはホロライブ事務所を出た。

 

 今日は、誰かと遭遇することもなかった。

 

 誰かに飛びつかれることも。

 尾行されることも。

 突然名前を呼ばれることも。

 

 ただ、午後の街の喧騒が、いつものように彼を迎えた。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 胸ポケットの時計が、変わらず時を刻む。

 

 ユウトは一度だけ、事務所の建物を振り返った。

 

 ロビーの硝子越しに、1期生たちがまだこちらを見送っているのが見えた。

 

 まつりが大きく手を振る。

 メルも小さく手を振る。

 アキロゼは穏やかに微笑む。

 はあちゃまは照れくさそうに片手を上げる。

 フブキは看板を下げたまま、いつもの白上スマイルを浮かべている。

 

 Aちゃんとのどかは、その後ろでしっかりと二人の抜け駆け組を監視していた。

 

 YAGOOは、少し疲れたように、けれどどこか安心したように立っていた。

 

 ユウトは軽く会釈を返し、歩き出す。

 

 明日は2期生。

 

 また、新しい誰かが、自分の知らない自分を語るのだろう。

 

 その言葉をどう受け止めればいいのか、まだ分からない。

 

 けれど、足取りは止まらなかった。

 

 オルタナティブシティの午後の光の中、桜井ユウトは静かに帰路へついた。

 

 その背中を、事務所の中から1期生たちがいつまでも見送っていた。

 

 そして。

 

 ユウトの姿が人混みの向こうに消えたあと。

 

 まつりは、ぽつりと呟いた。

 

「……また、会えたね」

 

 誰に向けた言葉でもない。

 

 けれど、その場にいた全員が、その意味を理解していた。

 

 フブキは静かに目を細める。

 

「はい。また、会えました」

 

 メルが涙を拭う。

 

 アキロゼがそっと息を吐く。

 

 はあちゃまは何も言わず、ただ拳を握りしめていた。

 

 YAGOOは、端末に届いている2期生たちからの追加メッセージを見て、少しだけ苦笑した。

 

 明日もきっと、穏やかには終わらない。

 

 そんな予感だけは、誰もが共有していた。

 

 それでも。

 

 今日という日は、確かに終わった。

 

 抜け駆けの看板を下げたままの二人と、涙を堪えた1期生たちに見送られながら。

 

 桜井ユウトは、誰とも遭遇することなく、静かに帰宅したのだった。

 

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