hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第24話 2期生と崇拝のブルー

 

 チ、チ、チ、チ、チ、チ……。

 

 ホロライブプロダクション事務所ビルの前で、僕――桜井ユウトは、胸ポケットから取り出した銀色の懐中時計を見下ろしたまま、しばらく固まっていた。

 

 日曜日。

 

 オルタナティブシティの空は、いつも通り騒がしいほどに鮮やかだった。上空では魔導シップが幾筋もの光の航跡を描き、通りの向こうでは獣人の親子が屋台の焼き菓子を買い、近くの大型ビジョンにはホロライブ所属タレントたちの冒険記録番組の告知映像が流れている。

 

 そのすべてが、数週間前までの僕にとっては、ただの「日常の風景」に過ぎなかった。

 

 けれど今は違う。

 

 ホロライブという言葉を見るたびに、胸ポケットの時計がほんのわずかに熱を帯びる。

 

 画面に映る誰かの姿を見るたびに、頭の奥の霧がざわりと揺れる。

 

 それでも、記憶は戻らない。

 

 ただ、確かに何かがそこにあるのだと、僕の身体だけが知っている。

 

「……早すぎた」

 

 懐中時計の針が示していた時刻は、集合時間のちょうど一時間前だった。

 

 自分でも呆れるほど早い。

 

 昨日の夜、YAGOOさんから送られてきた連絡には、今日の午後に2期生の人たちとの顔合わせを行うと書かれていた。

 

 0期生、1期生に続いての顔合わせ。

 

 そこにどんな意味があるのか、僕はまだ十分には理解できていない。

 

 ただ、彼女たちが僕の過去を知っている。

 

 そして、僕が知らない僕のことを、まるで宝物のように抱えている。

 

 それだけは、もう疑いようがなかった。

 

 だからこそ、昨日の夜はなかなか眠れなかった。

 

 眠れなかった結果、いつもより早く家を出てしまい、気づけば予定より一時間も早く事務所の前に立っている。

 

 我ながら、かなり間抜けだった。

 

「近くの喫茶店で時間でも潰すか……」

 

 僕は懐中時計を閉じ、胸ポケットへ戻した。

 

 この辺りには、魔導焙煎を売りにしている喫茶店がいくつもある。少し歩けば、落ち着いた店も見つかるだろう。

 

 そう考え、踵を返そうとした、その瞬間だった。

 

 ドンッ。

 

「うわっ……!?」

 

 背中に、柔らかいようでいて凄まじい勢いを伴った衝撃がぶつかってきた。

 

 反射的に足を踏ん張ったが、身体が前に倒れそうになる。慌ててバランスを取り、何事かと背後を振り返ろうとした。

 

 しかし、その前に。

 

 僕の腰のあたりへ、ぎゅう、と細い腕が回されていた。

 

「……つかまえた」

 

 耳元で、震えるような、けれど甘く溶けるような声がした。

 

「ユウトさん……本当に、来てくれた……」

 

「え……?」

 

 僕はぎこちなく首を動かし、自分の背中に抱きついている人物を見た。

 

 柔らかそうな淡い髪。

 

 小柄な身体。

 

 僕の背中に顔を埋めるようにして、両腕を回している少女。

 

 彼女の名前を、僕は知っていた。

 

 湊あくあ。

 

 ホロライブ2期生。

 

 数多のダンジョン攻略配信で伝説的な記録を残し、凄まじい戦闘センスと、不思議なほど危うい生活力の低さで知られているトップ冒険者。

 

 その彼女が今、僕の背中にぴったりと張り付き、まるで何年も迷子になっていたものをやっと見つけたように、震えながら僕を抱きしめていた。

 

「湊、さん……?」

 

「……あくあ」

 

「え?」

 

「あくあ、って呼んでください」

 

 背中越しに伝わる声は、あまりにも真剣だった。

 

「ユウトさんに名字で呼ばれるの、いやです。遠いから。そんなの、あくあ、いやです」

 

「いや、でも……」

 

 どう返せばいいか分からず、僕は言葉に詰まる。

 

 すると、今度は別方向から、もう一つの勢いが来た。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 

「え、何――」

 

 僕が顔を上げた瞬間、視界に飛び込んできたのは、両手を前に突き出し、全力疾走の勢いそのままに僕の背中を押してくる少女の姿だった。

 

 大空スバル。

 

 ホロライブ2期生。

 

 明るく快活で、誰とでも距離を詰められる太陽のような存在として知られ、同時に冒険者としても前線で仲間を支える頼れる存在。

 

 そのスバルさんが、まるで暴走した荷車を押す村人のような勢いで、僕の背中をぐいぐいと押していた。

 

「よし! 行くぞユウト! 集合時間より早い? 関係ない! こっちはもう一秒だって待てないんだよ!」

 

「ちょ、ちょっと待ってください! 僕、まだ心の準備が……!」

 

「心の準備ならスバルたちもできてない!」

 

「じゃあなんで押してるんですか!?」

 

「身体が勝手に動いた!」

 

「正直すぎる!」

 

 思わずツッコミが出た。

 

 その瞬間、スバルさんの目が大きく見開かれた。

 

「あ……」

 

「え?」

 

「今の、ユウトだ」

 

 スバルさんは、僕の背中を押していた手をほんの少し緩め、泣きそうな顔で笑った。

 

「そのツッコミ……うん。やっぱり、ユウトだ」

 

 その言葉に、僕は何も返せなかった。

 

 湊あくあさんは僕の背中に抱きついたまま、さらに腕に力を込める。

 

「そうです。ユウトさんです。あくあの、ユウトさんです……」

 

「あくあ、それ言い方がちょっと危ないぞ」

 

 スバルさんが半笑いで突っ込む。

 

 その後ろから、三人の少女が歩いてきた。

 

 一人は、赤い瞳に柔らかな笑みを宿した、鬼の少女。

 

 百鬼あやめ。

 

 一人は、どこか妖艶で、けれど落ち着いた包容力を感じさせる魔界の保健医。

 

 癒月ちょこ。

 

 そしてもう一人は、紫色の髪を揺らしながら、少し照れくさそうに視線を逸らしている魔法使い。

 

 紫咲シオン。

 

 三人は僕と、僕の背中に張り付いたあくあさん、そして僕を事務所方向へ押しているスバルさんを見て、困ったような顔をしていた。

 

 しかし、その表情の奥には、明らかに別の感情も混ざっている。

 

 止めたい。

 

 でも、自分も本当はそうしたい。

 

 そんな、複雑で、熱を帯びた視線。

 

「……あくあ、スバル。いきなりはユウトさんが困るでな」

 

 あやめさんが、柔らかな声で言った。

 

 その声音は穏やかだったが、彼女の指先は着物の袖をぎゅっと握りしめていた。

 

「うんうん。ユウト様はまだ状況を整理できていないでしょうし、もう少し優しくしてあげないとね?」

 

 ちょこさんが微笑む。

 

 しかし、その視線は僕の顔から一度も離れていない。

 

 僕を見る目が、まるで失くした宝物をようやく見つけた人のようだった。

 

「……まあ、早く会いたかったのは分かるけどさ」

 

 シオンさんが腕を組む。

 

「でも、玄関前でいきなり抱きつくのは、さすがに目立ちすぎ。ほら、周り見て」

 

 言われて、僕は周囲を見た。

 

 事務所前の通りを行き交う人々が、こちらをちらちらと見ていた。

 

 中には、ホロライブ2期生の面々だと気づいた者もいるのだろう。驚きと興奮が入り混じった視線が、じわじわと集まりつつある。

 

 このままでは、面倒なことになる。

 

 というか、もうなっている。

 

「……とりあえず、中に入りませんか」

 

 僕がそう言うと、あくあさんが小さく頷いた。

 

「はい。あくあが、案内します」

 

「案内というより、拘束されてるんですけど」

 

「あくあが離したら、ユウトさんどこかに行っちゃうかもしれないので」

 

「行きませんよ」

 

「前に、いなくなりました」

 

 その一言は、小さかった。

 

 けれど、僕の背中に押し当てられた額が、微かに震えた。

 

 冗談ではない。

 

 彼女は本気でそう思っている。

 

 そのことだけは、痛いほど伝わってきた。

 

「……今日は、帰る時間まではいます」

 

 僕は、できるだけ静かにそう言った。

 

 あくあさんの腕に、さらに力が入る。

 

「じゃあ、その時間まで、絶対に離しません」

 

「それは困ります」

 

「困ってください」

 

「なんでですか」

 

「困ったユウトさんも、あくあは覚えているので」

 

 会話が成立しているようで、微妙にしていない。

 

 スバルさんは困ったように笑いながら、僕の背中を押し続けた。

 

「まあまあ、細かいことは中で話そうぜ! 受付行くぞ受付!」

 

「スバルさん、押さなくても歩きますから」

 

「信用していいのか?」

 

「なぜ信用されてないんですか」

 

「ユウトは気づいたら一人で全部抱え込んで、勝手にどっか行くからだよ」

 

 スバルさんは、当たり前のように言った。

 

 僕は、また返事に詰まった。

 

 僕には、その言葉に反論する材料がない。

 

 なぜなら、僕自身は覚えていないからだ。

 

 彼女たちの中にある僕は、どんな人間だったのだろう。

 

 何を背負い、何を抱え込み、何を残して消えたのだろう。

 

 その答えを知るために、僕は今日ここへ来た。

 

 なのに、彼女たちは僕を見るたびに、僕自身よりもずっと深く、僕を知っている顔をする。

 

 そのことが、まだ少しだけ怖かった。

 

 事務所の自動扉が開く。

 

 涼しい空調の風が、外の熱気を洗い流すように頬を撫でた。

 

 受付にいたスタッフが、こちらに気づいて目を見開く。

 

「あ、あの、百鬼さん、癒月さん、スバルさん、あくあさん、シオンさん。桜井様のご案内は、こちらで――」

 

「大丈夫だ余」

 

 あやめさんが、にこりと微笑んだ。

 

「今日は、余たちが案内するでな」

 

「え、ですが……」

 

「問題ありませんよ」

 

 ちょこさんも柔らかく続ける。

 

「YAGOOさんには、あとで連絡が行くでしょう? それに、ユウト様を迷子にするわけにはいきませんから」

 

「いや、僕は迷子には……」

 

「なるかもしれない」

 

 シオンさんが即答した。

 

「初めて来る事務所って迷うし。あと、ユウトって変なところで一人で勝手に行動しそうだし」

 

「会ってまだ数分ですよね?」

 

「記憶がないだけで、こっちは知ってるし」

 

 シオンさんはそう言って、少しだけ視線を逸らした。

 

 その横顔は、拗ねているようにも、泣きそうなのを隠しているようにも見えた。

 

 受付スタッフは一瞬迷ったものの、すぐに状況を理解したのか、丁寧に頭を下げた。

 

「承知しました。では、会議室は予定通り第三応接室になります。代表にはこちらから連絡しておきます」

 

「ありがとな!」

 

 スバルさんが明るく手を振る。

 

 そして僕は、2期生五人に囲まれるようにして、事務所の奥へと進むことになった。

 

 右側にスバルさん。

 

 左側にシオンさん。

 

 少し前をあやめさんとちょこさん。

 

 そして背中には、未だに湊あくあさん。

 

「……あの、湊さん」

 

「あくあです」

 

「……あくあさん」

 

「さんも、いりません」

 

「それはさすがに段階を踏ませてください」

 

「段階……」

 

 あくあさんは、小さく考え込んだようだった。

 

「じゃあ、今日はあくあさんで我慢します」

 

「ありがとうございます」

 

「明日は、あくあです」

 

「勝手に予定を決めないでください」

 

 スバルさんが横で吹き出した。

 

「ははっ、ユウトとあくあ、もう漫才みたいになってるじゃん」

 

「スバル先輩」

 

 シオンさんがじとっとした目でスバルさんを見る。

 

「笑ってる場合? あくあ、抜け駆けしてるけど」

 

「してないです」

 

 あくあさんが即答した。

 

「これは再会の確認です」

 

「抱きついたまま移動する確認って何?」

 

「生命反応の確認です」

 

「それはもっと怖い」

 

 シオンさんが呆れたように言う。

 

 あやめさんはくすくすと笑っていたが、ふと僕を振り返った。

 

「ユウトさん、歩きにくくはないか?」

 

「正直、かなり歩きにくいです」

 

「そうか」

 

 あやめさんは少し困ったように笑った。

 

「でも、あくあの気持ちも分かるのだ。少しだけ、許してやってほしい余」

 

「……はい」

 

 その言い方は、ずるかった。

 

 そんな顔で言われたら、強く拒むことなんてできない。

 

 やがて僕たちは、第三応接室と書かれた扉の前に着いた。

 

 まだ予定時間よりかなり早い。

 

 当然、YAGOOさんたちはまだ来ていないだろう。

 

 あやめさんが扉を開ける。

 

 中は、前回までと同じような落ち着いた応接室だった。

 

 大きめのテーブル。

 

 ゆったりした椅子。

 

 壁際には飲み物の用意。

 

 窓の外には、オルタナティブシティのビル群が広がっている。

 

 そして、室内にはまだ誰もいなかった。

 

「よし、先に始めよう!」

 

 スバルさんが元気よく言った。

 

「いや、YAGOOさんたちを待った方がいいんじゃ……」

 

「自己紹介くらいなら大丈夫だろ!」

 

「それはそうかもしれませんけど」

 

「というか、ユウトさん」

 

 ちょこさんが、僕に椅子を勧めながら優しく微笑んだ。

 

「私たちは、少しでも早くあなたとお話ししたいんです。代表が来るまで、ほんの少しだけ時間をくださいませんか?」

 

 柔らかい声。

 

 丁寧な言葉。

 

 けれど、その奥にある熱は、決して柔らかいだけではなかった。

 

 僕は小さく頷き、椅子に座った。

 

 あくあさんは、名残惜しそうに僕の背中から離れた。

 

 けれど、席は僕の隣だった。

 

 正確には、僕の右隣に座った。

 

 かなり近い。

 

 近いというか、椅子の距離がおかしい。

 

「あの、近くないですか」

 

「近い方が声が聞こえます」

 

「この距離なら反対側の席でも聞こえます」

 

「心の声が聞こえません」

 

「聞かないでください」

 

 あくあさんは真顔だった。

 

 スバルさんが左隣に座ろうとして、シオンさんに引っ張られた。

 

「ちょっと、スバル。そこ座る気?」

 

「え、ダメなのか?」

 

「ダメ。バランス悪いでしょ。あくあが右なら、左は抽選」

 

「抽選!?」

 

「公平性は大事」

 

「シオンちゃん、公平性って言いながら自分が座る気だよね?」

 

 ちょこさんがくすりと笑う。

 

 シオンさんは視線を逸らした。

 

「べ、別に。そういうわけじゃないし」

 

「顔に書いてある余」

 

 あやめさんが楽しそうに言う。

 

 結局、僕の左隣にはスバルさんが座り、その向かいにあやめさん、ちょこさん、シオンさんが並ぶ形になった。

 

 あくあさんは少し不満そうだったが、僕の右隣を確保したことでとりあえず納得したらしい。

 

「じゃあ、改めて自己紹介だな!」

 

 スバルさんが両手を膝に置き、真っ直ぐに僕を見る。

 

「ホロライブ2期生、大空スバル! 前世でも、今世でも、たぶん結構うるさい方だ!」

 

「自分で言うんですね」

 

「自覚はある! でも、ユウトに何度も助けられた。だから……また会えて、本当に嬉しい」

 

 最後の声は、少しだけ震えていた。

 

 けれどスバルさんは、泣かなかった。

 

 泣きそうな顔のまま、力強く笑っていた。

 

「次は余だな」

 

 あやめさんが背筋を伸ばす。

 

「ホロライブ2期生、百鬼あやめだ余。鬼で、剣を扱う。前の世界でも、今の世界でも……ユウトさんには、たくさん助けてもらった」

 

 彼女はそこで一度言葉を切り、僕を見つめた。

 

「覚えていなくても、構わないのだ。余が覚えている。だから、今日は少しずつ話せれば嬉しい」

 

「……よろしくお願いします」

 

「うむ。よろしく頼む余」

 

 あやめさんの笑顔は、どこか懐かしい光を含んでいた。

 

 次に、ちょこさんが軽く胸に手を当てる。

 

「ホロライブ2期生、癒月ちょこです。こちらの世界では、魔界医術と治癒魔法を扱う保健医のようなお仕事もしています。ユウト様とは、前世で何度もお話ししましたよ?」

 

「僕と、ですか」

 

「ええ。あなたはよく、自分の怪我を隠していましたから」

 

 ちょこさんの目が、少しだけ細くなる。

 

「タレントの体調管理にはうるさいのに、自分のことになると本当に雑で。私、何度も怒ったんですよ?」

 

「……すみません」

 

「ふふ。謝るのは、思い出してからで構いません」

 

 柔らかい言葉だった。

 

 だが、その奥には、忘れられた時間への痛みがある。

 

 次に、シオンさんが面倒くさそうに髪をいじりながら口を開いた。

 

「ホロライブ2期生、紫咲シオン。天才魔法使い。以上」

 

「短い」

 

 スバルさんが即座に突っ込む。

 

「いいでしょ別に。自己紹介なんて短い方が覚えやすいし」

 

「シオンちゃん、せっかくユウトさんと話せるんだから、もう少しちゃんと……」

 

「分かってるって」

 

 シオンさんは少しだけ頬を赤くし、僕を見た。

 

「……前の世界では、色々あったらしいよ。まあ、私はちゃんと覚えてるけど。ユウトが、うるさいくらい世話焼きだったこととか。こっちが魔法の練習で無茶した時に、呆れた顔で止めてきたこととか」

 

 そこで、彼女は少しだけ唇を尖らせた。

 

「今は忘れてるみたいだけど。……別に、怒ってないし」

 

 怒っていないと言いながら、少し怒っている顔だった。

 

 最後に、あくあさんが僕の隣で姿勢を正した。

 

 彼女は両手を膝の上に置き、深く息を吸う。

 

「ホロライブ2期生、湊あくあです」

 

 その声は、先ほどまでとは違っていた。

 

 震えている。

 

 けれど、その震えの中に、祈りのような熱がある。

 

「あくあは……あてぃしは前の世界で、ユウトさんに何度も助けられました。きっと、ユウトさんは覚えていないと思います。でも、私は全部覚えています」

 

 あくあさんは、僕を見た。

 

 その瞳は、まっすぐすぎるほどまっすぐだった。

 

「ユウトさんは、私が沈みそうになるたびに、手を伸ばしてくれました。誰にも見られないところで、何度も、何度も。私が失敗して、怖くて、もう無理だって思った時も……ユウトさんだけは、あくあのことを見捨てませんでした」

 

 彼女の指先が震える。

 

「だから、私にとってユウトさんは……」

 

 言葉が止まる。

 

 まるで、その先を口にしてしまえば、戻れなくなると知っているように。

 

 それでも、彼女は言った。

 

「光、です」

 

 部屋が静まり返った。

 

「ユウトさんは、あてぃしの光です。だから……また会えて、本当に、嬉しいです」

 

 あくあさんは、微笑んだ。

 

 泣いてはいない。

 

 けれど、その笑顔は泣くよりもずっと苦しそうで、ずっと眩しかった。

 

 僕は、胸の奥が詰まるような感覚を覚えた。

 

 何か言わなければならない。

 

 けれど、何を言えばいいのか分からない。

 

「……よろしくお願いします。湊さん」

 

「あくあです」

 

「あくあさん」

 

「今日は、それで許します」

 

 あくあさんは小さく頷いた。

 

 その時、応接室の扉がノックされた。

 

「失礼します」

 

 扉が開き、YAGOOさんが入ってきた。

 

 その後ろにはAちゃん、春先のどかさんの姿もある。

 

 三人とも、すでに受付から話を聞いていたのだろう。

 

 YAGOOさんは部屋の状況を見て、ほんの少しだけ目を閉じた。

 

 Aちゃんはすまし顔だった。

 

 のどかさんは、困ったように笑っている。

 

「……皆さん」

 

 YAGOOさんの声は穏やかだった。

 

 穏やかだったが、疲れていた。

 

「集合時間より一時間早いのですが」

 

「すみません!」

 

 スバルさんが勢いよく頭を下げた。

 

「身体が勝手に!」

 

「正直でよろしい」

 

 YAGOOさんは苦笑する。

 

 Aちゃんが隣で小さく咳払いをした。

 

「桜井くん、驚いたでしょう?」

 

「はい。かなり」

 

「ごめんね。2期生は、今日をずっと待っていたから」

 

「……いえ」

 

 僕は首を横に振った。

 

「嫌だったわけではないです。ただ、少し驚いただけで」

 

 その言葉に、2期生の五人が一斉にこちらを見た。

 

 特にあくあさんの目が、強く揺れた。

 

 YAGOOさんはそれを見て、どこか安心したように息を吐いた。

 

「では、改めて始めましょうか」

 

 YAGOOさんたちも席に着く。

 

 こうして、予定より一時間早く、2期生との顔合わせは本格的に始まった。

 

 話の内容は、これまでと同じだった。

 

 僕の前世。

 

 カバー株式会社。

 

 ホロライブの黎明期。

 

 僕がマネージャーとして、彼女たちの裏側にいたこと。

 

 そして、仮面ライダーゼロノスとして、彼女たちを守るために戦っていたこと。

 

 何度聞いても、現実感のない話だった。

 

 世界を救った。

 

 時間を守った。

 

 存在を削った。

 

 自分自身を忘れられる代償を支払い続けた。

 

 その話の中心にいるのが、僕だという。

 

 けれど、僕の中には何もない。

 

 ただ、身体だけが反応する。

 

 スバルさんが、前世で僕に怒鳴られた話をすると、胸の奥が微かに熱くなる。

 

 あやめさんが、戦いの後に僕が何も言わずに絆創膏を置いていった話をすると、指先が何かを思い出そうとする。

 

 ちょこさんが、医務室で僕が怪我を隠して倒れたことを話すと、背中に古い痛みが走る。

 

 シオンさんが、僕に魔導具の扱いを注意されたと不満げに語ると、なぜか口元が勝手に呆れた形になりそうになる。

 

 あくあさんが、僕が彼女の配信前に震える手を見て、何も言わずに温かい飲み物を置いていった話をした時。

 

 僕の胸ポケットの時計が、チ、チ、チ、と少しだけ大きく鳴った。

 

「……ユウトさんは」

 

 あくあさんは、僕の方を見ずに話していた。

 

 自分の両手を、膝の上で強く握っている。

 

「あてぃしが泣いてても、あんまり慰めるの上手じゃありませんでした。『泣くなら泣け。終わったら立て』って、すごく雑で」

 

「それは……ひどいですね」

 

「ひどかったです」

 

 あくあさんは小さく笑う。

 

「でも、立つまでずっと隣にいてくれました。あてぃしが顔を上げるまで、どこにも行かずに」

 

 その言葉で、彼女の声が震えた。

 

「だから、あてぃしは立てました」

 

 僕は、その話を聞きながら、ただ静かに息を吸った。

 

 本当に、それは僕なのだろうか。

 

 そう疑う気持ちは、まだ消えない。

 

 けれど、彼女たちが語る「僕」は、少なくとも彼女たちの中で確かに生きている。

 

 それは、たぶん。

 

 僕が覚えているかどうかとは別の場所にある、どうしようもない事実だった。

 

 時間は、またしても早く過ぎた。

 

 最初は一時間も早く始まったはずだった。

 

 それなのに、気づけば窓の外の空は夕方の色に変わり始めている。

 

 ホロライブ事務所の廊下には、収録を終えたらしいスタッフやタレントたちの足音が増え始めていた。

 

 僕は懐中時計を確認し、小さく息を吐く。

 

「……そろそろ帰らないと」

 

 その一言で、部屋の空気が少しだけ止まった。

 

 あくあさんの手が、僕の袖に伸びかける。

 

 しかし、彼女は途中で止めた。

 

 代わりに、ぎゅっと自分の膝の上で拳を握る。

 

「……帰るんですか」

 

「はい。明日は学校なので」

 

「学校……」

 

 スバルさんが苦笑した。

 

「そうだよな。ユウト、今は高校生なんだもんな」

 

「忘れがちだけど、学生さんなのよね」

 

 ちょこさんが頷く。

 

 シオンさんは腕を組みながら、少し不満そうに言った。

 

「学生なら仕方ないけど。……次も来るんでしょ?」

 

「YAGOOさんが調整してくれるなら」

 

「します」

 

 YAGOOさんが即答した。

 

 その速度に、僕は少し驚いた。

 

 YAGOOさんは穏やかに微笑む。

 

「無理のない範囲で、ですが。桜井くんが望むなら、機会は作ります」

 

「……ありがとうございます」

 

 僕は頭を下げた。

 

 すると、あやめさんが立ち上がった。

 

「では、見送りくらいはさせてほしい余」

 

「スバルも行く!」

 

「あてぃしも行きます」

 

「私も」

 

「ちょこも参りますね」

 

 結局、2期生全員が立ち上がった。

 

 YAGOOさん、Aちゃん、のどかさんも続く。

 

 僕は少し困ったが、もう慣れ始めている自分もいた。

 

 ホロライブの人たちは、基本的に距離が近い。

 

 物理的にも、感情的にも。

 

 それが怖い時もある。

 

 けれど、嫌ではない。

 

 少なくとも、今はそう思えた。

 

 応接室を出て、廊下を歩く。

 

 あくあさんは僕の袖をほんの少しだけ掴んでいた。

 

 スバルさんは隣で、今日話し足りなかったことを次々に口にする。

 

 あやめさんは楽しそうに頷き、ちょこさんは時折僕の顔色を確認し、シオンさんは「疲れてない?」とぶっきらぼうに聞いてきた。

 

 僕は一つひとつに返事をしながら、エントランスへ向かった。

 

 今回は、何事もなく帰れる。

 

 そう思っていた。

 

 甘かった。

 

 ホロライブ事務所において「何事もなく」は、どうやらかなり贅沢な願いらしい。

 

 エントランス近くの廊下へ差しかかった瞬間。

 

 横手にあるスタジオ区画の扉が開いた。

 

 そこから、賑やかな声が聞こえてくる。

 

「ふはははは! 今日の収録も完璧だったな! さすが我輩率いる秘密結社holoX!」

 

「総帥、最後の台詞で噛んでましたけど」

 

「噛んでない! あれは高度な発音魔法だ!」

 

「ラプ様、それはちょっと無理がありますねぇ」

 

「こより的にも、噛んでいたという観測結果が出ています!」

 

「いや、まあ、無事終わったなら何よりでござるな」

 

 聞き覚えのない、しかし画面では見たことのある声。

 

 次の瞬間、角を曲がって現れたのは五人の少女たちだった。

 

 先頭に立つ、小柄で威厳たっぷりに胸を張る少女。

 

 ラプラス・ダークネス。

 

 その隣で眼鏡を押さえ、冷静な顔をしている高嶺ルイ。

 

 白衣めいた衣装を揺らしながら目を輝かせる博衣こより。

 

 少し後ろを歩く沙花叉クロヱ。

 

 そして風間いろは。

 

 ホロライブ6期生。

 

 秘密結社holoX。

 

 彼女たちは、僕たちの姿を見た瞬間、ぴたりと動きを止めた。

 

 正確には。

 

 僕の姿を見た瞬間に。

 

「……え」

 

 高嶺ルイさんの手から、持っていた資料端末が滑り落ちそうになった。

 

 博衣こよりさんの瞳が、信じられないほど大きく見開かれる。

 

 ラプラスさんの口が、開いたまま止まる。

 

 その一瞬の静寂。

 

 そして。

 

 僕の背後で、気配が消えた。

 

「え?」

 

 振り返るより早く、左右から柔らかい衝撃が来た。

 

 ぎゅっ。

 

「うわっ……!?」

 

 背後から、二人分の腕が僕に絡みついた。

 

 一人は、少し湿ったような甘い声で囁く。

 

「……見つけちゃった」

 

 沙花叉クロヱさんだった。

 

 彼女は僕の背中にぴたりと身体を寄せ、僕の肩越しに顔を覗かせる。

 

 その表情は笑っている。

 

 しかし、瞳の奥は笑っていなかった。

 

「ユウトさん、本当にいたんだ。へぇ……そっかぁ……」

 

 もう一人は、反対側から僕の腕にしがみついていた。

 

「ユウト殿……」

 

 風間いろはさん。

 

 彼女の声は、震えていた。

 

「本当に、ユウト殿でござるか……?」

 

「え、あの……」

 

「失礼」

 

 いろはさんは小さく息を吸うと、さらに強く腕を抱きしめた。

 

「少しだけ、このまま確認させてほしいでござる」

 

「確認される側の許可は……」

 

「今は、難しいでござる」

 

「正直ですね!?」

 

 思わず声が裏返る。

 

 前方では、ラプラスさんがようやく我に返ったように叫んだ。

 

「な、な、な……なぜ貴様がここにいる!? いや、違う! 貴様ではない! ユウト! いや、でも、え、待て、我輩の威厳が今ちょっと迷子に……!」

 

「ラプ様、落ち着いてください」

 

 ルイさんがそう言いつつ、自分もまったく落ち着いていなかった。

 

「ユウトさん……ですよね。本当に……?」

 

 博衣こよりさんは、目に涙を浮かべながら、両手を胸の前で握っていた。

 

「記録では、まだ正式な顔合わせは先のはずで……でも、目の前に……生体反応、魔力波長、姿勢、全部……」

 

「こより、分析する前に落ち着く余」

 

 あやめさんが困ったように言う。

 

 しかし、2期生側にも緊張が走っていた。

 

 あくあさんは、僕の袖を握る手に力を込めている。

 

 スバルさんは、holoXの面々と僕の間に自然に半歩出た。

 

 シオンさんは小さく舌打ちする。

 

「また遭遇イベント……」

 

「ホロライブ事務所、遭遇率高すぎませんか」

 

 僕が呟くと、Aちゃんが遠い目をした。

 

「否定できないね」

 

 YAGOOさんは額に手を当てた。

 

「今日は、2期生との顔合わせの日だったはずなのですが……」

 

「代表」

 

 ルイさんが真剣な顔で一歩前へ出た。

 

「これは、その……偶然です」

 

「偶然」

 

「はい。収録終わりに廊下を歩いていたら、偶然、ユウトさんがいました」

 

「それは確かに偶然ですね」

 

「なので、これは抜け駆けではありません」

 

 ルイさんの声は真面目だった。

 

 しかし、その後ろでクロヱさんが僕に抱きついたまま、にこにこと言った。

 

「じゃあ、偶然なら仕方ないっすね」

 

「沙花叉さん、離れてください」

 

「やだ」

 

「即答」

 

「だって、正式な顔合わせはまだ先なんでしょ? なら今触っとかないと、次いつになるか分かんないじゃないですか」

 

「その理屈は危険です」

 

「危険な女なので」

 

 クロヱさんは悪びれなかった。

 

 いろはさんは顔を赤くしながらも、僕の腕を離さない。

 

「い、いろはは、危険なつもりはないでござる。ただ、その……ユウト殿が、また消えてしまわぬか心配で……」

 

 その言葉に、廊下の空気が少しだけ変わった。

 

 誰も、すぐには笑えなかった。

 

 また消える。

 

 その恐怖は、ここにいるホロライブの人たち全員に共通しているものなのだろう。

 

 だからこそ、誰も本気ではクロヱさんやいろはさんを責めきれない。

 

 僕は、小さく息を吐いた。

 

「……今日は、もう帰らないといけないので」

 

 その一言に、holoXの五人が一斉にこちらを見た。

 

「正式な顔合わせは、また今度お願いします」

 

 そう言うと、ラプラスさんがぐっと拳を握った。

 

「ふ、ふん! よかろう! 我輩は秘密結社holoXの総帥、ラプラス・ダークネス! 正式な場であれば、貴様……いや、ユウトに、我輩の偉大さをたっぷり教えてやる!」

 

「はい。よろしくお願いします」

 

「素直に返されると調子が狂う!」

 

 ルイさんは、静かに頭を下げた。

 

「また、お会いできるのを楽しみにしています。ユウトさん」

 

 こよりさんは涙を拭きながら、必死に笑顔を作る。

 

「こより、聞きたいことがたくさんあります。話したいことも、たくさん。だから……絶対、また来てくださいね」

 

「はい」

 

 クロヱさんは、僕の背中から離れる直前、耳元で小さく囁いた。

 

「逃げても、見つけますから」

 

「怖いです」

 

「褒め言葉っすね」

 

「違います」

 

 いろはさんは、最後まで名残惜しそうに腕を離した。

 

「ユウト殿。今日は、このくらいで我慢するでござる」

 

「ありがとうございます」

 

「でも、次はもう少し長く話したいでござる」

 

「……はい」

 

 その返事を聞いて、いろはさんはようやく柔らかく微笑んだ。

 

 エントランスへ向かう僕の周囲は、いつの間にか大所帯になっていた。

 

 2期生。

 

 holoX。

 

 YAGOOさん、Aちゃん、のどかさん。

 

 総勢で見送られるただの高校生。

 

 どう考えても、ただの高校生に許される光景ではない。

 

 自動扉の前で、僕は振り返った。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

 僕が頭を下げると、彼女たちはそれぞれの表情で僕を見ていた。

 

 嬉しそうに。

 

 泣きそうに。

 

 悔しそうに。

 

 愛おしそうに。

 

 まるで、僕という存在の中に、彼女たちの失われた時間そのものを見ているかのように。

 

「また来ます」

 

 僕はそう言った。

 

 その瞬間、あくあさんの瞳が大きく揺れた。

 

 スバルさんが明るく笑う。

 

 あやめさんが穏やかに頷く。

 

 ちょこさんが手を振る。

 

 シオンさんが小さく「絶対だから」と呟く。

 

 holoXの五人も、それぞれに反応を見せた。

 

 ラプラスさんは胸を張り、ルイさんは静かに微笑み、こよりさんは涙目で手を振り、クロヱさんはにやりと笑い、いろはさんは深く一礼した。

 

 僕は事務所を出た。

 

 外の空気が、少しだけ冷たかった。

 

 胸ポケットの懐中時計が、チ、チ、チ、と穏やかに時を刻んでいる。

 

 今日もまた、僕の知らない僕を知る人が増えた。

 

 それは怖いことでもあり、少しだけ温かいことでもあった。

 

 背後のホロライブ事務所では、きっと今頃、大人たちとタレントたちが何かしらの会議を始めているのだろう。

 

 特に、予定外に遭遇したholoXについて。

 

 そして、僕が帰宅した後。

 

 案の定、事務所のエントランスでは、YAGOOさんが静かに天井を見上げていた。

 

「……次回以降、収録スケジュールと顔合わせの動線は完全に分離しましょう」

 

「そうですね」

 

 Aちゃんが即答する。

 

「でも、たぶん無理だと思います」

 

 のどかさんが控えめに言った。

 

 YAGOOさんは、少しだけ遠い目をした。

 

「でしょうね」

 

 一方、2期生とholoXの面々は、互いに微妙な距離感で向かい合っていた。

 

「あくあ先輩、さっきずっとユウトさんにくっついてましたよね?」

 

 クロヱがにこにこと言う。

 

「あれは、再会の確認です」

 

 あくあは真顔で答える。

 

「じゃあ、クロヱのも確認っすね」

 

「違います」

 

「何が違うんすか?」

 

「あくあの方が先です」

 

「先輩権限?」

 

「信仰の問題です」

 

「急に重いっすね」

 

 スバルが頭を抱えた。

 

「頼むから廊下で火花散らすなって! まだ正式顔合わせもしてないんだから!」

 

「そうですよ」

 

 ルイが咳払いする。

 

「holoXとしても、正式な場までは節度を持って――」

 

「ルイ姉、さっきめっちゃ目潤んでたよね?」

 

 こよりが無邪気に刺した。

 

「こより」

 

「はい」

 

「あとで少しお話ししましょう」

 

「怖い!」

 

 ラプラスは腕を組み、ふんぞり返っていた。

 

「ふははは! つまり我輩たちは、偶然にもユウトとの接触に成功したわけだな! これは運命が我輩に味方している証拠――」

 

「総帥、正式な顔合わせ順はまだ先ですからね」

 

「ぐぬぬ……!」

 

 いろはは、さきほどユウトの腕に触れていた自分の手を見つめていた。

 

「……温かかったでござる」

 

 その小さな呟きに、周囲の空気が一瞬だけ静かになる。

 

 そして全員が、同じことを思った。

 

 彼は、ここにいる。

 

 消えていない。

 

 忘れていても。

 

 遠くても。

 

 まだ、手を伸ばせば届く場所にいる。

 

 その事実が、彼女たちの胸の奥に、狂おしいほどの熱を灯していた。

 

 YAGOOさんは、そんな彼女たちを見つめながら、静かに息を吐いた。

 

「……桜井くん」

 

 その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。

 

「君が知ったら、きっと困った顔をするでしょうね」

 

 けれど、その困った顔すら。

 

 彼女たちはきっと、愛おしく思ってしまうのだろう。

 

 ホロライブという巨大な感情の渦は、少しずつ、しかし確実に。

 

 記憶を失った一人の少年の周囲へと、再び集まり始めていた。

 

 そしてその中心にいる桜井ユウトは、まだ知らない。

 

 次に待っている正式な顔合わせが、さらに濃く、さらに重く、さらに逃げ場のないものになっていくことを。

 

 チ、チ、チ、チ、チ、チ……。

 

 銀色の懐中時計だけが、彼の胸元で静かに時を刻み続けていた。

 

 まるで、止まっていた物語の針が、もう二度と止まらないと告げるように。

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