hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第2話 懐中時計

 Side:桜井ユウト

 

 キーンコーンカーンコーン……。

 

 放課後を告げるチャイムの音が、重苦しい余韻を残しながら教室の天井に吸い込まれていった。

 

 その合音を合図に、それまで静まり返っていた室内は、堰を切ったような賑やかさに包まれる。教科書をカバンに押し込む音、机を引きずる音、そして弾むような笑い声。

 

 僕は、机の上に置き去りにされていた『進路希望調査書』を、視線すら合わせずに乱暴に二つ折りにし、カバンの奥底へと突っ込んだ。名前の欄以外は何も書かれていない、ただの白い紙。それが今の僕という存在をそのまま象徴しているようで、酷く胸が痛んだ。

 

 「おい、ユウト! 今日この後、駅前のゲームセンター行こうぜ! 新しいレースゲームが入荷したらしいんだ!」

 

 声をかけてきたのは、同じクラスの獣人の少年だった。ピンと立った茶色い犬耳を嬉しそうに揺らしながら、僕の机に身を乗り出してくる。その後ろからは、小さな黒い翼をパタパタと羽ばたかせた悪魔の少年も、ニヤニヤと笑いながら近づいてきた。

 

 「いいねぇ。負けた奴が今日の買い食い奢りな。ユウトも行くでしょ? 」

 

 いつも通りの、他愛のない友達の誘い。

 

 いつも通りの、穏やかで平和な放課後の風景。

 

 普段の僕なら、胸の中の違和感に蓋をして、「いいよ、じゃあ僕が圧勝して奢ってもらおうかな」と、適当に笑って彼らの輪に混ざっていただろう。そうやって普通の高校生の仮面を被っている間だけは、自分が何者でもないという恐怖から目を背けることができたからだ。

 

 けれど、今日ばかりは、どうしてもそんな気になれなかった。

 

 昼休みに聞いたクラスメイトたちの会話。画面の向こうで理由も分からずに涙を流していたという、あのホロライブの少女――ときのそらの笑顔。そして、それを見た瞬間に僕の肉体と魂を襲った、あの引き裂かれるような強烈な拒絶反応と、狂おしいほどのノスタルジー。

 

 それらの残響が、未だに僕の脳細胞を激しく揺さぶり、呼吸を浅くさせていた。

 

 「……悪い、みんな。今日はちょっと、頭痛がひどくてさ。先に帰らせてもらうよ」

 

 僕はカバンの紐を強く握りしめ、精一杯の作り笑いを顔に張り付けた。

 

 犬耳の友人は、不満そうに耳を寝かせたが、僕の青白い顔色に気づいたのか、すぐに心配そうな表情を浮かべた。

 

 「マジか? 顔、かなり白いぞ。大丈夫かよ、家まで送ろうか?」

 

 「ううん、大丈夫。ちょっと横になれば治ると思うから。……また明日ね」

 

 これ以上ここにいたら、自分の内側にある圧倒的な空白が漏れ出して彼らの鮮やかな日常を侵食してしまうかもしれない。そんな理不尽な恐怖に背中を押されるようにして、僕は逃げるように教室を飛び出した。

 

 ~~~~~~~~

 

 学舎の門をくぐり、僕は歩き始めた。

 

 どこかによる用事もないけれど、あの薄暗く、生活感の希薄なアパートの自室へと真っ直ぐ帰る気分には、どうしてもなれなかった。あの部屋に帰れば、自分がいつから、なぜそこにいるのか分からないという冷たい現実と、再び一対一で対峙しなければならなくなる。

 

 それはどうしてもいやだった。

 

 僕はあてもなく街を彷徨い始めた。

 

 夕暮れの陽光が、天を突くように建ち並ぶ高層建築の影を、石畳の道路へと長く不気味に引き延ばしていく。空を往く巨大な飛行船の重低音の駆動音が、遠くでハミングのように街全体を震わせている。

 

 行き交う人々は誰もが、自分の歴史を持ち、自分の種族の誇りを胸に、それぞれの目的地へと向かって歩いている。美しい白い羽を夕日に輝かせて上空の回廊を歩く天使の少女。大きな荷物を背負いながらも、楽しそうに談笑するエルフの親子。

 

 その色鮮やかな世界の中心で、僕の存在だけが輪郭を失ってモノクロームに透けていくような錯覚を覚えた。

 

 (僕は、一体誰なんだろう)

 

 何度考えたって答えの出ない問いが、頭の中でぐるぐると回る。

 

 自分が桜井ユウトだということはわかっている。

 

 しかし家族の顔、幼い頃の思い出、初めて友達ができた日のこと……。それらはすべて、水の中に落としたインクのように、跡形もなく拡散して消えている。あるのは高校生であるという、現在の都合の良い設定だけだ。

 

 まるで、誰かが僕の過去を根こそぎ消去し、この世界にぽつんと放り込んだかのような、歪な不自然さ。

 

 賑やかな中央大通りを外れ、僕は気づけばこれまで一度も足を踏み入れたことのない、ひっそりとした路地裏へと迷い込んでいた。

 

 近代的なネオンの光も届かない、古い建物がひしめき合う場所。まるで街そのものが過去の記憶を隠すように、ひっそりと静まり返っている。

 

 そこで、一軒の奇妙な店が、僕の目に留まった。

 

 今にも朽ち果てそうな、深い緑色に塗装された木製のドア。煤けて中の様子がほとんど見えないガラス窓の奥には、いつの時代に、どの世界で作られたかも分からないような、埃を被った古い魔導具や異界のガラクタが、脈絡もなく雑多に並べられている。

 

 看板すら出ていない、時間の流れから見捨てられたような小さな骨董品店。

 

 どうしてだろう。その薄暗い店構えを見た瞬間、僕の足が勝手に動き出した。

 

 胸の奥の空白が、まるで冷たい風に吹かれたようにかすかに疼いた気がしたのだ。

 

 僕は吸い寄せられるようにドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を押し開けた。

 

 ちりんと錆びついた真鍮の鈴が、悲しげに頼りない音を立てて僕の入店を告げる。

 

 店内に一歩足を踏み入れると、そこは外の世界とは完全に隔絶された、濃密な過去の空気が満ちていた。

 

 カビの生えた古い紙の匂い、乾いたオイルの臭い、そして経年変化した古い鉄の匂い。薄暗い照明の中、棚には壊れた魔導時計や、刃の欠けた古びた儀礼用の短剣、出所の分からない奇妙な神像などが、まるでお墓のように静かに並んでいる。

 

 僕は言葉を失ったまま、導かれるように店の奥へと歩みを進めた。

 

 棚の埃っぽい商品を何気なく眺めていた僕の視線は、カウンターの片隅にぽつんと置かれた小さなガラスケースの中で完全に釘付けになった。

 

 「……これ、は」

 

 思わず、声が漏れていた。

 

 ケースの中に古びた布に包まれてあるものが横たわっている。

 

 今流行しているような、きらびやかな魔導水晶をあしらった派手な時計とは、根本から一線を画していた。魔力の光もなければ豪華な彫刻もない。ただただ、装飾の一切をストイックに削ぎ落とした機能美だけを追求したデザイン。

 

 それは鈍く、けれど気高く落ち着いた輝きを放つ銀色の懐中時計だった。

 

 心臓が、妙なリズムで鼓動を刻み始める。

 

 目が離せない。まるでその時計自体が、目に見えない無数の糸を伸ばして僕の魂を強く引き寄せているかのような異常な吸引力があった。

 

 「……お前さん、それが気になるのかい?」

 

 低く、掠れた声がして、僕はビクリと肩を揺らした。

 

 奥の帳場の暗がりから、いつの間にか、一人の老人が姿を現していた。顔中に深い皺が刻まれ、衣服にはオイルのシミがいくつもついた、いかにも偏屈そうなこの店の店主だった。

 

 「あ、すいません。……これ、見せてもらっても、いいですか?」

 

 店主は、僕の顔とガラスケースの中の時計を、値踏みするような鋭い眼差しで交互に見つめた。やがて、小さくため息をつくと、腰からジャラジャラと錆びた鍵の束を取り出し、ガラスケースの錠前を開けた。

 

 「構わんよ。触ってみるといい」

 

 僕は、壊れ物を扱うように、そっと両手でその銀色の時計を持ち上げた。

 

 ずしりとした、心地よい鉄の重みが手のひらに伝わる。

 

 不思議だった。夕暮れの冷え切った店内に置かれていたはずなのに、その金属は、僕の肌に触れた瞬間に、まるで最初から僕の体温を知っていたかのように、驚くほどの速さでじんわりと馴染んでいった。ずっと昔から、僕のポケットの中にあったかのような、理屈を超えた安心感。

 

 何気なく、その時計を裏返した時だった。

 

 光の加減で、裏面に深く、見事な書体で刻まれた、見たことのない異国の言語の文字列が目に飛び込んできた。

 

 『the past should give us hope』

 

 学校の授業でも、街の魔導書でも、見たことのない並びの文字。

 

 なのに、なぜだろう。

 

 その言葉の意味が翻訳魔導を通すまでもなく、僕の脳裏に直接鮮烈なイメージとなって流れ込んできたのだ。

 

 (過去が、希望をくれる……)

 

 過去がわからず、自分の歴史がピンボケしているはずの僕に、その言葉はあまりにも痛烈だった。

 

 過去があるからこそ、人は明日を夢見ることができる。なら、過去を持たない僕には、希望を持つ権利すらないというのか。その残酷な問いかけが胸を刺すと同時に、なぜだか目頭が熱くなるほどの狂おしい郷愁が僕の全身を支配した。

 

 涙が零れ落ちそうになるのを必死に堪えながら、僕はまるでそうすることが定められていたかのように、時計の上部にあるリューズを親指で静かに押し込んでみた。

 

 カチリ。

 

 小さな、けれど確実に世界の歯車が噛み合ったような、奇妙に澄んだ音が店内に響く。

 

 その瞬間だった。

 

 チ、チ、チ、チ、チ、チ……。

 

 それまで、死んだように完全に固まっていた長針と短針が、まるで冷え切った心臓に熱い血液が注ぎ込まれたかのように、滑らかに、そして力強く時間を刻み始めたのだ。

 

 それは、気の遠くなるような長い、長い旅路の果てに、ようやく「いなくなった時の主」を見つけ出したことを、心から祝福し、歓喜しているかのような、誇らしげな駆動音だった。

 

 「なん……だと……!?」

 

 それまで物静かだった店主が、大声を上げてカウンターに身を乗り出した。その老いた目が見開かれ、驚愕のあまり細かく震えている。彼は僕の手の中の時計と、僕の顔を、信じられないものを見るような目で行ったり来たりさせた。

 

 「お前さん……今、何をした?」

 

 「え? あ、いや……ただ、リューズを押してみただけですけど……。これ、どこか壊れてたんですか?」

 

 あまりの店主の剣幕に、僕は思わず一歩身を引いた。時計は僕の手の中で、今も嬉しそうに規則正しい音を奏で続けている。

 

 店主は震える手で自分の頭を抱え、大きな溜息を吐きながら首を激しく振った。

 

「壊れているどころの話じゃない! 少年、お前さんはそれが何だか分かっていないのか? それはな……数ヶ月前、国でも指折りの高位の冒険者パーティーが、大陸の最果てにある古代遺跡の奥地から、命からがら持ち帰ってきた代物なんだよ」

 

「遺跡……ですか?」

 

「ああ。そこは『時の狭間』と呼ばれる、過去の因果と未来の歴史が複雑にねじれ、歪んでしまった異常空間だ。普通の人間なら、足を踏み入れた瞬間に時間の渦に呑まれて消滅するような地獄さ。その歪みの中心、時が静止した祭壇の上に、ぽつんと落ちていたのがその時計だ」

 

店主はカウンターを指で叩きながら、さらに言葉を熱くさせた。

 

「店に持ち込まれてから、私はありとあらゆる一流の時計師や、高名な魔導工学者に見せた。だがな、いくらゼンマイを巻こうが、高純度の魔力を流し込もうが……一度すべてをバラバラに分解し、清掃して一ミクロンも狂いなく組み立て直そうが……その針が動くことは、ただの一秒すらなかったんだ。文字通り『時が完全に止まった呪いの時計』として、誰もが匙を投げたガラクタだったんだよ!」

 

 店主の言葉が、僕の脳細胞の奥深くを激しく殴りつける。

 

 時の狭間。因果の歪み。誰も動かせなかった、止まった時間。

 

 それが、どうして——何の魔力も持たない、ただの、過去すら曖昧な人間の僕の手の中で、こんなにも嬉しそうに駆動しているのだろう。

 

 まるで、僕がこのリューズを押すその瞬間のために、何百年、何万年もの間、その遺跡の底でじっと息を潜めて待っていたかのように。

 

「……僕に、これを買わせてください」

 

 言葉が、思考を追い越して口を突いて出ていた。

 

 理由は分からなかった。けれど、この時計を他人の手に渡してはいけない、これだけは絶対に、僕の肌のすぐ近くに置いておかなくてはならないという、魂の最も深い場所からの絶対的な命令が身体を突き動かしていた。

 

 僕はカバンを開け、なけなしの生活費が入った財布を取り出そうとした。しかし、店主はどこか諦めたような、そして酷く穏やかな苦笑を浮かべて、僕の手をそっと遮った。

 

 「いや金は要らんよ、少年」

 

 「え? でも、そんなわけにはいきません。これ、冒険者の方が命がけで持ってきたものなんでしょう?」

 

 「骨董屋を長くやっているとな、時折こういう理不尽な奇跡に出会うのさ」

 

 店主は腰を屈めカウンターの奥の引き出しから、一本の細く、けれど丈夫に編み込まれた黒い紐を取り出した。そして僕の手からそっと時計を預かると、その銀色のボウに長年の経験を感じさせる器用な手つきで黒い紐を結びつけていく。

 

 「品物がな自ら真の主を見つけることが、ごく稀にある。いくら国中の天才が手を尽くしても動かなかった偏屈な時計が、お前さんが触れた瞬間に息を吹き返した。それがすべてさ。その時計は、最初からお前さんの元へ帰りたがっていたんだよ、桜井ユウトくん」

 

 店主が、僕の制服の胸ポケットに縫い付けられていた小さな名札を見て、その名前を静かに呼んだ。

 

 名乗ってもいないのに呼ばれた、自分の名前。

 

 『桜井ユウト』

 

 その響きが店内に響く時計の音と重なった瞬間、僕の胸の奥の空白が、カチリと小さな音を立てて震えた。

 

 「……ありがとうございます」

 

 僕は店主から、黒い紐のついた懐中時計を受け取った。

 

 その紐を自分の首にかけ、銀色の本体を制服の胸ポケットへとそっと滑り込ませる。

 

 ~~~~~~~~

 

 チ、チ、チ、チ、チ、チ……。

 

 制服の薄い布地を隔てて、時計の規則正しい、揺るぎない拍動が、僕の不完全で頼りない心音と重なり合うようにして伝わってくる。

 

 不思議だった。時計が胸ポケットに収まった瞬間、あれほど僕を苦しめていた頭痛も、激しい目眩も、嘘のように綺麗に消え去っていた。身体の中心に、一本の、決して折れることのない強固な「芯」が通ったような、奇妙な感覚が僕を満たしていく。

 

 相変わらず、僕の過去は白い霧の中のままだ。

 

 自分が誰なのか、家族の顔も、何一つ思い出せはしない。

 

 あの巨大な画面の向こうで笑っていた、ホロライブの少女たちの正体も、なぜ彼女たちの涙を見て僕の心がこれほどまでに引き裂かれたのかも、相変わらず何一つ分からないままだ。

 

 けれど。胸のポケットで静かに、けれど雄弁に響き続けるこの時計の鼓動だけが。

 

 過去のない、寄る辺ない僕の肉体に、微かな、けれど絶対に消えない確かな温もりを与えてくれていた。

 

 「過去が希望をくれる、か……」

 

 僕は店を出て、夕闇が完全に世界を包み込もうとしている旧市街の路地へと歩き出した。

 

 胸ポケットの上から、そっと手のひらで時計を握りしめる。

 

 黒い紐に繋がれた銀色の時計は、僕の歩みに合わせて、規則正しく時を刻み続けている。

 

 街の遙か上空、浮遊大陸の影から、新年の始まりを祝うかのような美しい魔導の光が、夜空へと一筋放たれた。世界は僕を置いて、眩しい明日へと進んでいく。

 

 けれど、もう恐怖はなかった。

 

 僕の、止まっていた時間が。

 

 失われたはずの僕の物語が、今、静かに動き始めようとしている。

 

 そんな予感がしていた。

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