hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第33話 ドラゴンズメモリー・静かなチェックイン

 

 翌週土曜日の午後。

 

 桜井ユウトは、いつものようにホロライブ事務所の中を歩いていた。

 

 ロビーには相変わらず人の出入りが多い。

 

 端末を抱えたスタッフが足早に通り過ぎ、獣人の配達員が受付で荷物を確認し、壁面のホログラムには本日の配信予定とスタジオ使用状況が流れている。

 

 科学技術と魔導技術が当たり前のように混ざり合う、ホロアースの大手芸能事務所。

 

 その光景にも、ユウトは少しずつ慣れてきていた。

 

 いや。

 

 慣れてきてしまっていた。

 

「桜井様、本日の顔合わせですね。ご案内を――」

 

 受付近くにいた案内役のスタッフが、端末を片手に声をかけてくる。

 

 しかし、彼女は明らかに忙しそうだった。

 

 片手の端末には複数の通知が流れ、耳元の通信機からは別のスタッフの声が漏れている。

 

 ユウトは軽く頭を下げた。

 

「ありがとうございます。でも、今日は一人で向かえます。いつもの顔合わせ用の部屋ですよね?」

 

「え? あ、はい。そうですが……」

 

「何度か来ていますので、大丈夫です」

 

 大丈夫。

 

 その言葉を口にして、ユウトは一瞬だけ止まった。

 

 最近、この言葉は信用審査が必要になっている。

 

 特に3期生との顔合わせ以降。

 

 大丈夫と雑に言えば、ぺこらさんに耳を立てられ、マリンさんに詰め寄られ、ノエルさんに真剣な顔で確認され、フレアさんに静かに見抜かれ、るしあさんにじっと見つめられる気がした。

 

 ユウトは、少しだけ言い直す。

 

「……道は覚えています。もし分からなくなったら、すぐに連絡します」

 

 スタッフは少し驚いたように瞬きをし、それから微笑んだ。

 

「分かりました。では、お気をつけて」

 

「はい」

 

 ユウトはもう一度頭を下げ、廊下へ向かった。

 

 7組目。

 

 0期生。

 

 1期生。

 

 2期生。

 

 5期生。

 

 ゲーマーズ。

 

 3期生。

 

 そして今日、4期生。

 

 最初の頃なら、事務所の中を一人で歩くことにも少し緊張していた。

 

 空間拡張された廊下は外観よりずっと広く、曲がり角も多い。

 

 スタジオの位置も、休憩室の場所も、普通の建物とは違う感覚が必要だった。

 

 だが、さすがに何度も来ていれば分かる。

 

 どの角を曲がれば、顔合わせ用の部屋へ行けるか。

 

 どの廊下はスタッフ用で、どのエリアから先は許可が必要か。

 

 それに、さすがに今日は骸骨騎士に案内されることもない。

 

 そう思ってから、ユウトは少しだけ眉を寄せた。

 

「……慣れる方向がおかしい気がする」

 

 3期生の時は、案内役のスタッフが潤羽るしあの召喚した骸骨騎士だった。

 

 本来のスタッフは眠らされており、ユウトは人気のない廊下へ誘導され、骸骨騎士に囲まれた。

 

 顔合わせ前の出来事としては、どう考えても異常だった。

 

 しかし、今のユウトはそれを「前回はそういうことがあった」と受け止めている。

 

 慣れとは恐ろしい。

 

 胸ポケットの銀色の懐中時計が、静かに時を刻んでいた。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 その音は、今日は比較的穏やかだった。

 

 ユウトは廊下を歩きながら、ふと窓の外を見る。

 

 オルタナティブシティの空には、小型の魔導船がゆっくりと浮かび、遠くの高層ビル群にはホログラム広告が重なっている。

 

 その景色を見ても、胸の痛みは以前ほど強くない。

 

 少しずつ。

 

 本当に少しずつだが、この場所を歩く自分に違和感がなくなってきている。

 

 それが良いことなのか、怖いことなのか。

 

 まだ、ユウトには分からなかった。

 

 やがて、顔合わせ用の部屋の前に着く。

 

 扉の前で一度立ち止まり、息を整える。

 

 今日会うのは、4期生。

 

 天音かなた。

 

 角巻わため。

 

 常闇トワ。

 

 姫森ルーナ。

 

 桐生ココ。

 

 名前は、事前に聞いている。

 

 前の世界で自分と関わりがあり、今も自分を覚えている人たち。

 

 そして、今の自分は彼女たちを覚えていない。

 

 何度経験しても、そこだけは慣れなかった。

 

 ユウトは軽く拳を握り、扉をノックした。

 

「桜井です」

 

 中から、Aちゃんの声が聞こえた。

 

「どうぞ」

 

 扉を開ける。

 

 そこにいたのは、いつものYAGOO、Aちゃん、のどか。

 

 そして、4期生たちだった。

 

 しかし。

 

 ユウトは、部屋に入った瞬間、少しだけ足を止めた。

 

 今までの顔合わせとは、空気が違った。

 

 0期生は、懐かしさと涙があった。

 

 1期生は、騒がしさと暴走があった。

 

 2期生は、勢いと密着と混乱があった。

 

 5期生は、明るさと押しの強さがあった。

 

 ゲーマーズは、ゲームと笑い声の中に重さがあった。

 

 3期生は、最初から最後まで波乱だった。

 

 だが、今日の4期生は違う。

 

 騒がしくない。

 

 誰も先に飛び出してこない。

 

 誰も奇襲してこない。

 

 魔導陣も、落とし穴も、骸骨騎士もない。

 

 ただ、静かだった。

 

 少しだけ、しんみりとした空気が部屋の中に満ちていた。

 

 天音かなたは、両手を膝の上でぎゅっと握っていた。

 

 握る力が強すぎるのか、椅子の肘掛けがわずかに軋んでいる。

 

 角巻わためは、柔らかく微笑んでいる。

 

 けれど、その目元はどこか潤んでいた。

 

 常闇トワは腕を組み、そっぽを向くように座っている。

 

 だが、尻尾は落ち着きなく小さく揺れていた。

 

 姫森ルーナは頬を膨らませ、何かを言いたそうにしながらも、じっとユウトを見ている。

 

 そして、桐生ココ。

 

 彼女は椅子にもたれ、腕を組んでいた。

 

 表情は、どこか豪快で、余裕があるように見える。

 

 けれど、その瞳だけは、まっすぐユウトを見ていた。

 

 強く。

 

 懐かしそうに。

 

 そして、少しだけ痛そうに。

 

「……こんにちは」

 

 ユウトは静かに頭を下げた。

 

「桜井ユウトです。本日はよろしくお願いします」

 

 しばらく、誰もすぐには返さなかった。

 

 沈黙。

 

 それは気まずさというより、全員がそれぞれの感情を抑えている時間だった。

 

 最初に動いたのは、ココだった。

 

「おう」

 

 低く、少しだけ掠れた声。

 

「よく来たな、ユウト」

 

 名前を呼ばれた瞬間、懐中時計が小さく鳴った。

 

 チ。

 

 ユウトの胸が、わずかに痛む。

 

 知らないはずの声。

 

 けれど、どこか懐かしい声だった。

 

「……はい」

 

 ユウトは、もう一度頭を下げた。

 

 Aちゃんが端末を確認し、静かに進行を始める。

 

「では、4期生との顔合わせを始めます。まずは、自己紹介からお願いします」

 

 いつもなら、ここで誰かが勢いよく手を上げたり、順番を奪おうとしたり、変な演出を入れようとしたりする。

 

 だが、今日は違った。

 

 4期生たちは一度だけ互いに視線を交わし、自然と順番が決まったように、天音かなたがゆっくり立ち上がった。

 

「ホロライブ4期生、天音かなたです」

 

 声は少し震えていた。

 

 けれど、言葉は丁寧だった。

 

「えっと、天使です。かなたんって呼ばれたり、ゴリ……じゃなくて、握力がちょっと強いって言われたりします」

 

「今、自分で止めましたね」

 

 ユウトが思わず言うと、かなたは少しだけ目を丸くした。

 

 そして、小さく笑った。

 

「うん。ユウトくんなら、そこ拾ってくれる気がしてた」

 

「そうなんですか」

 

「うん。前も、そうだったから」

 

 その言葉で、場の空気がまた少しだけ静かになる。

 

 かなたは、両手をそっと握り直した。

 

 今度は椅子ではなく、自分の指を包むように。

 

「前のユウトくんは、私が力加減を間違えそうになると、すぐに止めてくれたんだ。『天音さん、それ以上握ると備品が負けます』って」

 

「備品が負ける」

 

「うん。普通は壊れるって言うよね。でも、ユウトくんはそう言ったの」

 

 かなたは、泣きそうな顔で笑った。

 

「それが、すごくユウトくんらしくて。ちゃんと注意してくれるのに、私が傷つかない言い方をしてくれた」

 

 ユウトは、返事を探した。

 

 自分が言った言葉だという記憶はない。

 

 それでも、言いそうだと思ってしまった。

 

「……今も、備品は大事にした方がいいと思います」

 

「うん」

 

 かなたは頷く。

 

「だから今日は、ちゃんと三割くらいにしてる」

 

「握力をですか?」

 

「うん」

 

「三割でも危ない気がします」

 

「ひどい!」

 

 かなたは少しだけいつもの調子を取り戻したように声を上げた。

 

 だが、すぐに表情を柔らかくする。

 

「でも、またそうやって話せて嬉しい。よろしくね、ユウトくん」

 

「よろしくお願いします。天音さん」

 

 かなたの表情が、少しだけ切なげに揺れた。

 

「天音さん、かぁ」

 

「すみません。今は、まだ」

 

「分かってる」

 

 かなたは慌てて首を振った。

 

「分かってるよ。今のユウトくんには初めてだもんね。だから、今はそれで大丈夫」

 

 今は。

 

 その言葉には、少しだけ願いが混ざっていた。

 

 次に立ち上がったのは、角巻わためだった。

 

「ホロライブ4期生、角巻わためです」

 

 柔らかな声だった。

 

 部屋の空気を包み込むような、温かい声。

 

「わためぇって呼ばれてます。羊です。悪くないよねぇ?」

 

「よろしくお願いします。角巻さん」

 

「うん。よろしくね、ユウトくん」

 

 わためは、穏やかに微笑んだ。

 

 その笑顔を見ると、なぜか胸の奥が少しだけ緩む。

 

 優しさが、押しつけではなく、そこに置かれているような人だった。

 

「前のユウトくんはね」

 

 わためは、ゆっくりと言葉を選んだ。

 

「よく、あったかい飲み物をくれたんだ」

 

「飲み物、ですか」

 

「うん。夜遅くまで作業してる時とか、配信の前にちょっと緊張してる時とか。何も言わずに、そっと置いてくれるの。『冷めないうちにどうぞ』って」

 

 わためは、両手でカップを包むような仕草をした。

 

「私が何か失敗した時も、ユウトくんは怒る前に、まず話を聞いてくれた。で、最後に言うんだよ。『次に直せるなら、まだ悪くないです』って」

 

「……それは」

 

 ユウトは、少しだけ目を伏せた。

 

「少し、偉そうですね」

 

「ふふ。そうかな」

 

 わためは小さく笑った。

 

「でも、私はその言葉に何度も助けられたよ」

 

 彼女の声が、少しだけ揺れる。

 

「だから、会えて嬉しい。ユウトくんが覚えてなくても、今ここにいてくれるだけで、本当に嬉しい」

 

 ユウトは、わための目を見る。

 

 涙はこぼれていない。

 

 けれど、もうすぐ落ちそうだった。

 

「……ありがとうございます。わためさん」

 

 自然に、そう呼んでいた。

 

 わためが、少しだけ目を丸くする。

 

 それから、とても嬉しそうに笑った。

 

「うん。ありがとう」

 

 次に、常闇トワが立ち上がった。

 

「ホロライブ4期生、常闇トワ」

 

 短い自己紹介。

 

 腕を組んだまま、どこかそっけない。

 

 だが、視線はユウトから離れない。

 

「よろしくお願いします。常闇さん」

 

「……まあ、よろしく」

 

 トワは少しだけ顔を背けた。

 

 尻尾が揺れている。

 

 ユウトは、それを見ないようにした。

 

 見てしまうと、たぶん指摘したくなる。

 

 そして指摘すると、怒られそうだった。

 

「ユウト」

 

 トワが呼ぶ。

 

「はい」

 

「あんた、前もそうだったけどさ」

 

「はい」

 

「自分のこと、軽く見すぎ」

 

 最初から、かなり核心に近い言葉だった。

 

 ユウトは返事に詰まる。

 

 トワは、少しだけ眉を寄せる。

 

「みんなの予定とか、配信の準備とか、トラブル対応とか、そういうのはちゃんと見るのに。自分が疲れてるとか、しんどいとか、そういうのは全然見ない」

 

「……よく言われます」

 

「今も?」

 

「はい」

 

「じゃあ変わってないじゃん」

 

 トワは、少し怒ったように言った。

 

 だが、その声の奥には心配があった。

 

「前の私はさ、悪魔だから平気とか、強いから大丈夫とか、そういう顔してた時があった。でも、ユウトはそういうのに気づくんだよ。『常闇さん、無理なら無理と言ってください』って」

 

 トワは、ほんの少しだけ視線を落とす。

 

「そう言うくせに、自分は言わなかった」

 

 静かだった。

 

 それは怒りというより、悔しさに近い。

 

「だから今度は、言って」

 

「……はい」

 

「雑な大丈夫は禁止」

 

「それも、よく言われます」

 

「なら覚えといて」

 

 トワはそう言って、少しだけ顔を赤くした。

 

「あと、常闇さんって呼び方、硬い」

 

「あ、すみません」

 

「別に謝れって言ってない。トワでいい」

 

「では、トワさんで」

 

「さん、いる?」

 

「今は、つけさせてください」

 

「……まあ、いいけど」

 

 トワはそっぽを向いた。

 

 しかし、尻尾は少しだけ嬉しそうに揺れていた。

 

 次は、姫森ルーナだった。

 

 彼女は椅子からぴょこんと立ち上がり、頬を膨らませたままユウトを見た。

 

「ホロライブ4期生、姫森ルーナなのら」

 

「よろしくお願いします。姫森さん」

 

「姫森さんじゃないのら」

 

 即答だった。

 

 ユウトは少しだけ瞬きをする。

 

「えっと」

 

「ルーナなのら」

 

「……ルーナさん」

 

「さんもいらないのら」

 

「段階を踏ませてください」

 

「むぅ」

 

 ルーナは不満そうに唇を尖らせた。

 

「みんな段階段階って言うのら。ルーナは待ってたのら。ずっと待ってたのら」

 

 その声は可愛らしい。

 

 だが、言葉の奥に寂しさがあった。

 

「前のユウトは、ルーナのことちゃんとルーナ姫って呼んでくれたのら」

 

「ルーナ姫」

 

 口にした瞬間、懐中時計が小さく鳴った。

 

 チ。

 

 ユウトの胸の奥に、淡い光のようなものが揺れる。

 

 小さな王冠。

 

 甘いお菓子。

 

 夜の事務所。

 

 誰かが「んなっ」と怒る声。

 

 そして、自分の声。

 

 ――分かりました、ルーナ姫。ですが、夜更かしはほどほどに。

 

 そこまで浮かんで、すぐに消えた。

 

「……」

 

 ユウトは胸元を押さえた。

 

 ルーナの目が大きくなる。

 

「ユウト?」

 

「すみません。少しだけ、何か」

 

「何か、思い出したのら?」

 

「はっきりとは。ただ、僕があなたをそう呼んでいたような気がしました」

 

 ルーナの表情が、くしゃりと崩れそうになる。

 

 だが、彼女は必死にこらえた。

 

「……そうなのら」

 

「はい」

 

「じゃあ、今はルーナさんでも許してあげるのら」

 

「ありがとうございます」

 

「でも、いつかルーナ姫って呼ぶのら」

 

「……努力します」

 

「絶対なのら」

 

 ルーナは強く言った。

 

 ユウトは小さく頷いた。

 

「はい」

 

 最後に、桐生ココが立ち上がった。

 

 その瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。

 

 それは恐怖ではない。

 

 緊張でもない。

 

 もっと複雑なものだった。

 

 かなたが息を呑む。

 

 わためが手を膝の上で重ねる。

 

 トワが表情を引き締める。

 

 ルーナが黙る。

 

 Aちゃんも、YAGOOも、のどかも、静かに見守っていた。

 

 ココは、腕を組んだままユウトを見た。

 

「ホロライブ4期生、桐生ココだ」

 

「よろしくお願いします。桐生さん」

 

 ユウトがそう言うと、ココは小さく笑った。

 

 少し苦い笑いだった。

 

「桐生さん、か。ずいぶん遠くなったな」

 

「すみません」

 

「謝んな。今のあんたにとっちゃ、それが普通だ」

 

 ココは椅子から一歩離れ、ユウトの正面に立った。

 

 距離は近すぎない。

 

 だが、存在感が強い。

 

 龍。

 

 そう呼ばれる理由が、何となく分かる気がした。

 

「前の世界で、あたしは一度ホロライブを卒業してる」

 

 ココは、静かに話し始めた。

 

「2021年。あんたが消えるより前だ」

 

 ユウトは黙って聞いた。

 

「その時、あんたは笑って送り出してくれた。寂しそうなくせに、ちゃんと笑ってた。『ココさんが選んだ道なら、僕は応援します』ってな」

 

 胸が痛んだ。

 

 はっきりとした記憶ではない。

 

 けれど、言葉が胸の奥に刺さる。

 

「本当は寂しかっただろ」

 

 ココの声が、少しだけ低くなる。

 

「でも、あんたは止めなかった。あたしが決めたことだからって、最後まで背中を押してくれた」

 

 彼女は笑う。

 

 豪快に見せようとしている。

 

 けれど、その笑顔は痛そうだった。

 

「それが、ずっと嬉しかった」

 

 ユウトは何も言えない。

 

 ココは続ける。

 

「でもな」

 

 その声に、重さが混ざった。

 

「あたしは、あんたを忘れた」

 

 部屋の空気が止まる。

 

「送り出してもらった側なのに。あんたがあたしの卒業をちゃんと覚えて、ちゃんと寂しがって、ちゃんと笑ってくれたのに。あたしは、あんたのことを忘れた」

 

 ココは、ユウトから目を逸らさなかった。

 

「しかも、あんたが消えた時、あたしはもう現役じゃなかった。隣にいなかった。最後に何があったのかも、後から思い出すまで分からなかった」

 

 彼女の拳が、わずかに震える。

 

「悔しかったよ」

 

 短い言葉だった。

 

 だが、重かった。

 

「すげぇ悔しかった。あたしを送り出してくれたあんたを、今度はあたしが見送ることもできなかった。忘れちまってた。そんな自分が、ずっと許せなかった」

 

 ユウトは、胸ポケットに手を当てる。

 

 懐中時計が鳴る。

 

 チ、チ、チ――。

 

 少しだけ、音が近くなる。

 

 視界に、何かが揺れた。

 

 薄暗い事務所。

 

 画面の向こうの光。

 

 たくさんのコメント。

 

 泣き笑いの声。

 

 龍の背中。

 

 自分の手。

 

 ひび割れた緑のカードではない。

 

 それより前の、もっと温かい記憶。

 

 ――ココさん。

 

 自分の声が聞こえる。

 

 ――お疲れさまでした。

 

 誰かが笑う。

 

 誰かが泣く。

 

 そして、自分は言う。

 

 ――卒業しても、ココさんがいた時間は消えません。だから、行ってらっしゃい。

 

 そこで、映像は霧のように消えた。

 

「……っ」

 

 ユウトは、軽く息を呑んだ。

 

 かなたが立ち上がりかける。

 

「ユウトくん?」

 

 トワが身を乗り出す。

 

「大丈夫って言うなよ」

 

 ユウトは、その言葉で自分の返答を止めた。

 

 大丈夫です、と言いかけていた。

 

 代わりに、ゆっくり息を吸う。

 

「……少し、見えました」

 

 部屋の全員が、息を止める。

 

 ココの瞳が揺れた。

 

「何が」

 

「はっきりではありません。でも、僕が……ココさんに、行ってらっしゃいと言っていたような気がします」

 

 ココは動かなかった。

 

 ただ、目だけが大きく開かれる。

 

「卒業しても、あなたがいた時間は消えない、と」

 

 言葉にした瞬間、ユウト自身の胸も痛んだ。

 

 それは記憶なのか。

 

 夢なのか。

 

 前の世界の残響なのか。

 

 分からない。

 

 けれど、確かに自分の中から出てきた言葉だった。

 

 ココはしばらく黙っていた。

 

 それから、顔を伏せた。

 

「……ああ」

 

 声が、震えていた。

 

「あんた、言ったよ」

 

 ココは笑った。

 

 泣きそうな顔で。

 

 それでも、笑った。

 

「言った。そうやって、あたしを送り出した」

 

「……僕は」

 

「まだ全部思い出さなくていい」

 

 ココが遮った。

 

「無理に思い出して壊れられる方が困る。あたしたちは、あんたに思い出してほしい。でも、それ以上に、今ここにいてほしいんだよ」

 

 その言葉に、4期生全員が頷いた。

 

 かなたも。

 

 わためも。

 

 トワも。

 

 ルーナも。

 

 ユウトは、静かに目を伏せた。

 

「……ありがとうございます」

 

「礼を言うのはこっちだ」

 

 ココは言った。

 

「送り出してくれて、ありがとな。ユウト」

 

 その一言に、部屋の空気が深く沈んだ。

 

 けれど、それは暗いだけではなかった。

 

 ようやく言えた言葉。

 

 ようやく渡せた感謝。

 

 それが、静かに部屋の中へ広がっていく。

 

 ~~~~~~~~

 

 その後も、4期生との顔合わせは静かに進んだ。

 

 今までの組のように、大きな騒動は起きなかった。

 

 かなたが感情のままにカップを握り潰しかけ、Aちゃんに「三割でお願いします」と言われた程度。

 

 ルーナが「ユウトの隣に座るのら」と少しだけ拗ね、トワに「順番守りなよ」と言われた程度。

 

 ココが一度だけ「holoXの前に会えてよかったな」と冗談めかして言い、Aちゃんに「次回への煽りは控えてください」と注意された程度。

 

 平和だった。

 

 この事務所基準では、かなり平和だった。

 

 過去の話になると、空気は何度も静かになった。

 

 かなたは、ユウトが自分の緊張に気づいて、何も言わずにそばにいてくれた話をした。

 

 わためは、深夜にユウトが温かい飲み物を置いてくれた話をした。

 

 トワは、悪魔だから平気だと強がる自分に、ユウトが「平気なふりと平気は違います」と言った話をした。

 

 ルーナは、ユウトがちゃんと姫扱いしてくれたこと、けれど夜更かしだけは厳しく止めたことを話した。

 

 ココは、多くを語りすぎなかった。

 

 だが、時折、短く言葉を挟んだ。

 

 ユウトが忙しそうにしていたこと。

 

 笑いながらも、目の奥ではいつも何かを考えていたこと。

 

 誰かを送り出すのは得意なくせに、自分が見送られる側になることをまるで考えていなかったこと。

 

 そのたびに、ユウトの胸は少しずつ痛んだ。

 

 しかし、今日は不思議と苦しさだけではなかった。

 

 4期生の言葉は、静かだった。

 

 責めるよりも、確かめるように。

 

 泣くよりも、抱えてきたものを少しずつ置いていくように。

 

 ユウトは、その一つ一つを聞いた。

 

 自分が知らない自分の話。

 

 自分が忘れてしまった時間。

 

 彼女たちが、ずっと覚えていたもの。

 

 気づけば、時間はあっという間に過ぎていた。

 

 窓の外の光が夕方の色に変わり、壁面の魔導照明が柔らかい色へ切り替わる。

 

 ユウトは胸ポケットから懐中時計を取り出した。

 

 針は、帰るべき時間を示している。

 

「……そろそろ、帰らないと」

 

 その言葉に、4期生たちは一瞬だけ黙った。

 

 かなたの手が、また膝の上でぎゅっと握られる。

 

 わための羊耳が少し下がる。

 

 トワは何か言いかけて、口を閉じる。

 

 ルーナは分かりやすく頬を膨らませる。

 

 ココは腕を組み、短く息を吐いた。

 

「そっか」

 

 わためが、静かに言う。

 

「学校、あるもんね」

 

「はい」

 

「じゃあ、ちゃんと帰らないとね」

 

 かなたが立ち上がる。

 

「見送るよ」

 

「いえ、そこまでしていただかなくても」

 

「する」

 

 トワが即答した。

 

「今回はまだ何もしてないんだから、見送りくらい普通にさせてよ」

 

「何もしていないことが強調されるんですね」

 

「今までの組が色々やりすぎなんだよ」

 

「否定できません」

 

 ルーナも椅子から立ち上がる。

 

「ルーナも行くのら」

 

「もちろんだよ」

 

 わためが微笑む。

 

 ココは軽く肩を回した。

 

「んじゃ、行くか。出口までな」

 

 YAGOO、Aちゃん、のどかも立ち上がる。

 

 今回も、顔合わせ組による見送りが始まった。

 

 ~~~~~~~~

 

 廊下へ出ると、少しだけ空気が変わった。

 

 部屋の中にあったしんみりとした雰囲気が、歩き出すにつれてゆっくりほどけていく。

 

 最初に調子を取り戻したのは、ルーナだった。

 

「ユウト」

 

「はい」

 

「次に来る時は、ルーナのお菓子を食べるのら」

 

「お菓子ですか」

 

「プリンなのら」

 

「分かりました。機会があれば」

 

「機会は作るのら」

 

 ルーナは胸を張った。

 

「あと、ルーナ姫って呼ぶ練習もするのら」

 

「練習が必要なんですか」

 

「必要なのら」

 

「厳しいですね」

 

「姫なのら」

 

 その横で、トワが呆れたように言う。

 

「ルーナ、最初から飛ばしすぎ」

 

「トワも本当はユウトに連絡してほしいのら」

 

「はっ!? 別に!?」

 

「尻尾、動いてるのら」

 

「見んな!」

 

 トワの尻尾が、分かりやすく跳ねた。

 

 ユウトは見ないふりをした。

 

「トワさん」

 

「何」

 

「連絡先、後ほど交換してもらえると助かります」

 

「……まあ、いいけど」

 

 トワは顔を逸らした。

 

「別に、いつでも返すわけじゃないから」

 

「無理のない範囲で大丈夫です」

 

「その大丈夫は?」

 

「……無理に返信しなくていいという意味です」

 

「ならよし」

 

 トワは少し満足そうだった。

 

 かなたは、ユウトの横を歩きながら、どこかそわそわしていた。

 

「ユウトくん」

 

「はい」

 

「その、握手とかは……まだ早い?」

 

 ユウトは少し考えた。

 

 握手。

 

 それ自体は問題ない。

 

 ただし、相手は天音かなた。

 

 先ほど椅子を軋ませていた人である。

 

「……三割であれば」

 

「三割!」

 

 かなたはぱっと明るい顔をした。

 

 そして、すぐに真剣な顔になる。

 

「いや、二割にする」

 

「ありがとうございます」

 

「一割でもいい?」

 

「安全面では助かります」

 

「安全面」

 

 かなたは少しだけ笑った。

 

「やっぱりユウトくん、言い方がユウトくんだ」

 

 わためが隣で穏やかに言う。

 

「帰ったら、ちゃんと休んでね」

 

「はい」

 

「あったかいもの飲む?」

 

「帰ってから飲みます」

 

「よし」

 

 わためは満足そうに頷いた。

 

「あと、無理して思い出そうとしなくていいからね」

 

「……はい」

 

「でも、忘れたままでいいって意味じゃないよ」

 

 その声は優しい。

 

 けれど、芯があった。

 

「一緒に、少しずつ思い出していこう」

 

 ユウトは、わためを見る。

 

「はい。お願いします」

 

 わためは、嬉しそうに微笑んだ。

 

 ココは少し後ろを歩いていた。

 

 だが、ユウトが振り返ると、彼女はすぐに目を合わせた。

 

「ユウト」

 

「はい」

 

「明日はholoXなんだろ?」

 

 ユウトは少し驚いた。

 

「もう決まっているんですか?」

 

 Aちゃんが後ろから答える。

 

「はい。桜井くんの予定確認がまだでしたが、明日日曜日の午後を第一候補として調整しています。可能でしょうか」

 

「明日、ですか」

 

 思ったより早い。

 

 4期生との顔合わせの翌日に、6期生こと秘密結社holoX。

 

 少しだけ息を呑む。

 

 だが、ユウトはすぐに考えた。

 

 日曜日の午後なら予定は空いている。

 

 それに、先延ばしにすればするほど、待っている側の気持ちは重くなる。

 

 今日の4期生を見て、改めて分かった。

 

 待つ時間は、ただの時間ではない。

 

 記憶を持つ側にとって、それはずっと胸に残り続ける痛みなのだ。

 

「……大丈夫です」

 

 言ってから、ユウトは少しだけ訂正する。

 

「予定としては、問題ありません」

 

 トワが小さく頷いた。

 

「言い直した」

 

「成長なのら」

 

 ルーナが偉そうに言う。

 

「ありがとうございます」

 

 Aちゃんは端末に入力した。

 

「では、明日日曜日午後、holoXとの顔合わせで調整します」

 

 ココがにやりと笑った。

 

「holoXはなかなか濃いぞ」

 

「これまでの皆さんも十分濃かったです」

 

「そりゃそうだ」

 

 ココは笑う。

 

 その笑い声は、部屋にいた時より少しだけ軽かった。

 

「でもまあ、あいつらも待ってる。ちゃんと会ってやってくれ」

 

「はい」

 

 ユウトは頷いた。

 

 出口が近づいてくる。

 

 ロビーには夕方の光が差し込み、魔導ネオンの反射が床に淡い色を落としていた。

 

 自動扉の向こうには、オルタナティブシティの街並みが見える。

 

 今日は、何事もなくここまで来た。

 

 本当に何事もなく。

 

 そう思った瞬間、かなたがうっかりロビーの手すりを握り、みし、と小さな音がした。

 

「かなたさん」

 

 ユウトが言う。

 

「はい!」

 

「三割」

 

「すみません!」

 

 何事もなく、とは言い切れないかもしれない。

 

 だが、少なくとも骸骨騎士も落とし穴もなかった。

 

 十分に平和だった。

 

 出口の前で、4期生たちは立ち止まる。

 

 ユウトは端末を取り出した。

 

「連絡先、交換してもよろしいですか」

 

 その瞬間、4期生全員の表情が変わった。

 

 かなたはぱっと顔を明るくし。

 

 わためは嬉しそうに目を細め。

 

 トワは「別にいいけど」と言いながら端末を出し。

 

 ルーナは「早くするのら」とそわそわし。

 

 ココは少しだけ驚いたように目を開き、それから笑った。

 

「いいのか?」

 

「はい。皆さんとは、これからも話すことがあると思うので」

 

「……そっか」

 

 ココは端末を出した。

 

「なら、遠慮なく」

 

 一人ずつ、連絡先を交換していく。

 

 かなた。

 

 わため。

 

 トワ。

 

 ルーナ。

 

 ココ。

 

 画面に新しい名前が並ぶたびに、ユウトの胸の奥で何かが少しずつ増えていくようだった。

 

 記憶ではない。

 

 けれど、今の自分が得たつながり。

 

 過去から押し寄せるものだけではなく、今ここで結び直していくもの。

 

 それが、確かに手の中にあった。

 

「ユウトくん」

 

 かなたが言う。

 

「帰ったら、無事についたって連絡してね」

 

「はい」

 

「絶対だよ」

 

「分かりました」

 

 わためも頷く。

 

「ちゃんと休んでね」

 

「はい」

 

 トワは腕を組む。

 

「変な時間まで起きてたら怒るから」

 

「気をつけます」

 

 ルーナは指を立てる。

 

「プリンの約束、忘れちゃだめなのら」

 

「覚えておきます」

 

 最後に、ココが一歩前に出た。

 

「ユウト」

 

「はい」

 

「今日は来てくれてありがとな」

 

「こちらこそ。話してくれて、ありがとうございます」

 

「ああ」

 

 ココは、少しだけ口元を緩めた。

 

「次に会う時は、もうちょい騒がしくするわ」

 

「今日は抑えていたんですか?」

 

「かなりな」

 

「そうですか」

 

 ユウトは、思わず少し笑った。

 

「では、次は覚悟しておきます」

 

「おう。そうしとけ」

 

 4期生たちの笑い声が、ロビーに響いた。

 

 最初のしんみりとした空気は、もう少し薄れている。

 

 寂しさは消えていない。

 

 痛みも残っている。

 

 それでも、彼女たちは最後には笑っていた。

 

 それが、ユウトには少しだけ嬉しかった。

 

「では、失礼します」

 

 ユウトは深く頭を下げ、事務所の外へ出た。

 

 自動扉が閉まる直前まで、4期生たちは手を振っていた。

 

 かなたは両手で大きく。

 

 わためは柔らかく。

 

 トワは少し照れくさそうに。

 

 ルーナはぴょこぴょこと。

 

 ココは片手を上げて、いつものように豪快に。

 

 外の空気は、少し冷たい。

 

 夕暮れのオルタナティブシティには、魔導ネオンの光が灯り始めていた。

 

 ユウトは胸ポケットから懐中時計を取り出す。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 銀色の針は、静かに進んでいる。

 

「……4期生」

 

 小さく呟く。

 

 今日は、今までで一番静かな顔合わせだった。

 

 騒がしさよりも、言葉の重さがあった。

 

 涙よりも、言えなかった感謝があった。

 

 そして、桐生ココが抱えていた複雑な思い。

 

 送り出された側だった彼女が、今度は自分を忘れてしまったという痛み。

 

 それを聞いて、ユウトの中にも、確かに何かが揺れた。

 

 まだ思い出したとは言えない。

 

 だが、何かが近づいている。

 

 そんな気がした。

 

 端末が震える。

 

 Aちゃんからの通知だった。

 

『明日日曜日午後、秘密結社holoXとの顔合わせで確定しました。よろしくお願いします』

 

 ユウトは、画面を見つめる。

 

 6期生。

 

 秘密結社holoX。

 

 名前だけでも、すでに少し不穏だった。

 

 けれど、逃げるつもりはない。

 

 今日、4期生に会った。

 

 なら、明日も進むだけだ。

 

 ユウトは返信を打った。

 

『分かりました。よろしくお願いします』

 

 送信。

 

 懐中時計が、胸元で静かに鳴る。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 七組目の顔合わせは、何事もなく終了した。

 

 そして明日。

 

 次の扉の向こうで待っているのは、6期生こと秘密結社holoX。

 

 失われた時間へ向かう列車は、また次の駅へと進んでいく。

 

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