hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第35話 短い時間とラストチケット

 

 holoXの自己紹介が終わった。

 

 正確には、ラプラス・ダークネスの大仰な名乗りはAちゃんによって三十秒で照明ごと打ち切られ、博衣こよりの研究者としての説明も途中で止められ、沙花叉クロヱが仕掛けていた扉の演出ロックも解除された。

 

 それでも、自己紹介は終わった。

 

 部屋の照明は、もういつもの明るさに戻っている。

 

 先ほどまでの暗闇も、スポットライトも、秘密結社らしい重々しい効果音も消えていた。

 

 中央のテーブル。

 

 人数分の椅子。

 

 飲み物。

 

 軽い菓子。

 

 見慣れた顔合わせ用の部屋。

 

 そこに、秘密結社holoXの五人が座っている。

 

 ラプラス・ダークネス。

 

 鷹嶺ルイ。

 

 博衣こより。

 

 沙花叉クロヱ。

 

 風真いろは。

 

 彼女たちは、まだどこか緊張した空気をまとっていた。

 

 さっきまでの芝居がかった登場演出は、ある意味で彼女たちなりの鎧だったのかもしれない。

 

 笑わせるため。

 

 驚かせるため。

 

 秘密結社らしさを見せるため。

 

 そして、今の桜井ユウトと真正面から向き合う怖さを、少しだけ誤魔化すため。

 

 ユウトは、そんなことを考えながら、胸ポケットの懐中時計にそっと触れた。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 時計は静かに鳴っている。

 

 けれど、この部屋に来てから、その音は少しだけ近い。

 

 まるで、心臓の奥から響いているようだった。

 

「では」

 

 Aちゃんが端末を確認しながら言った。

 

「自己紹介は終わりましたので、ここからは前の世界での桜井くんとの関わりについて、順番にお話しいただきます」

 

 その言葉で、holoXの空気がまた変わった。

 

 ラプラスが腕を組む。

 

 ルイが背筋を正す。

 

 こよりが端末を胸の前で抱え直す。

 

 クロヱが眠たげな目の奥で、じっとユウトを見る。

 

 いろはが両手を膝の上に置き、真っ直ぐこちらを見つめる。

 

 最初に口を開いたのは、やはり総帥だった。

 

「ふん。では、吾輩から話してやろう」

 

 ラプラスは偉そうに顎を上げる。

 

 だが、その声は先ほどの名乗りほど大きくはなかった。

 

「ユウト。貴様と吾輩たちが過ごした時間は、他の者たちに比べれば短い」

 

「……そう、なんですよね」

 

 ユウトは静かに頷いた。

 

 holoXは、前の世界でも後発の世代だった。

 

 ユウトがホロライブに関わっていた時間の中で見れば、彼女たちと共有した時間は決して長くない。

 

 年単位で深く関わった0期生や1期生、2期生たちとは違う。

 

 それは、ユウトにも何となく分かっていた。

 

 だが、ラプラスはすぐに眉を寄せた。

 

「勘違いするな」

 

「え?」

 

「短いから軽い、などという話ではない」

 

 その言葉は、はっきりしていた。

 

「吾輩たちがholoXとして動き始めたばかりの頃、貴様はよく吾輩に言った。『総帥なら、まず予定表を支配してください』とな」

 

「予定表を支配」

 

 ユウトは思わず復唱した。

 

 言い方に覚えはない。

 

 だが、言いそうではあった。

 

 ラプラスはふんと鼻を鳴らす。

 

「吾輩は世界を支配する総帥だぞ? 予定表など些末なものだと言った」

 

「言いそうですね」

 

「そこは否定しろ!」

 

「いえ、今の話を聞く限りでは」

 

「むぅ……」

 

 ラプラスは少しだけ頬を膨らませたが、すぐに表情を戻した。

 

「だが、貴様は吾輩の言葉を笑わなかった。秘密結社だの、世界征服だの、総帥だの。そういう吾輩の在り方を、馬鹿にはしなかった」

 

 ラプラスの声が、少しだけ低くなる。

 

「ただ、言った。『本気で総帥を名乗るなら、部下の時間も守ってください』と」

 

 ユウトの胸が小さく痛んだ。

 

 それは、知らない言葉だ。

 

 だが、自分の言葉のようでもあった。

 

「吾輩は、その時むかついた」

 

「そうなんですか」

 

「ああ。とてもむかついた。だが、嬉しくもあった」

 

 ラプラスは、少しだけ視線を外す。

 

「貴様は、吾輩を子供扱いしなかった。面倒な新人としても扱わなかった。総帥だと名乗る吾輩を、そのまま総帥として扱ったうえで、必要なことを言った」

 

 小さな手が、ぎゅっと握られる。

 

「だから、吾輩は覚えている。短い時間でも、貴様が吾輩たちをちゃんと見ていたことを」

 

「……ありがとうございます」

 

「礼を言うな。吾輩が勝手に覚えているだけだ」

 

 ラプラスはそう言った。

 

 しかし、その声は少しだけ震えていた。

 

「でも、吾輩は忘れた」

 

 部屋の空気が静かになる。

 

「総帥なのに。部下を率いる者なのに。貴様がいなくなったことも、貴様が何を失っていたのかも、忘れていた」

 

 ラプラスは唇を噛む。

 

「それが、ずっと気に入らない」

 

 怒り。

 

 それはユウトに向けられたものではない。

 

 自分自身に向いた怒りだった。

 

「だから、今度は覚えておく。貴様が今ここにいることも、また吾輩たちの前に来たことも、全部だ」

 

 彼女は、まっすぐユウトを見る。

 

「忘れさせんぞ、ユウト」

 

「……はい」

 

「吾輩の名前もだ」

 

「ラプラスさん」

 

「総帥だ!」

 

「今はラプラスさんで」

 

「むぅ!」

 

 いつもの調子を取り戻したように見えて、ラプラスの耳は赤かった。

 

 ルイが、隣で小さく笑う。

 

「総帥らしいですね」

 

「ルイ、笑うな!」

 

「すみません」

 

 そう言ってから、ルイはユウトへ向き直った。

 

「次は私だね」

 

 鷹嶺ルイの声は、落ち着いていた。

 

 holoXの中では、彼女が一番場を整えている。

 

 それは今も変わらない。

 

「ユウトくんは、holoXの中では私によく進行確認をしてくれていたの」

 

「進行確認、ですか」

 

「うん。総帥が勢いで予定を増やしたり、こよりが資料を増やしたり、沙花叉が寝たり、いろはちゃんが真面目に全部抱えようとしたりするから」

 

「大変そうですね」

 

「大変だったよ」

 

 ルイは苦笑した。

 

 ラプラスが抗議する。

 

「待てルイ! 吾輩だけが原因のように言うな!」

 

「総帥は大きめの原因です」

 

「大きめ!?」

 

 こよりが手を上げる。

 

「こよの資料は必要な情報をまとめた結果で――」

 

「六十ページは多い」

 

 クロヱがぼそりと言う。

 

「クロヱはまず起きて」

 

「起きてるし」

 

 いろはが小さく頭を下げる。

 

「拙者も、つい力が入りすぎることがあったでござる」

 

「いろはちゃんは真面目だからね」

 

 ルイは優しく言ってから、少しだけ目を伏せた。

 

「でも、ユウトくんは私にも言ってくれた。『鷹嶺さんも、holoXの一員ですよ』って」

 

 ユウトは、静かに聞いていた。

 

「まとめ役とか、保護者役とか、女幹部とか。そういう役割も大事だけど、それだけじゃないって。私も誰かに頼っていいって」

 

 ルイは小さく笑う。

 

「変だよね。ユウトくん自身は、全然頼ってくれなかったのに」

 

「……それも、よく言われます」

 

「うん。だから言うね」

 

 ルイの声は穏やかだった。

 

 けれど、逃げられない強さがある。

 

「ユウトくん。今度は、休む側にも、頼る側にも入ってください」

 

 ユウトは、反射的に「大丈夫です」と言いかけた。

 

 しかし、口の中で止める。

 

 holoX全員の視線が、すぐにこちらへ集まった。

 

 ラプラスはじっと見ている。

 

 こよりは観察するように目を輝かせている。

 

 クロヱは少しだけ目を細めている。

 

 いろはは真剣な顔をしている。

 

 ルイは、穏やかなまま待っている。

 

 ユウトは、言葉を選んだ。

 

「……はい。できるだけ、そうします」

 

「できるだけ?」

 

 ルイが微笑む。

 

「いえ」

 

 ユウトは、少しだけ息を吐いた。

 

「少なくとも、何も言わずに無理をするのはやめるようにします」

 

「よし」

 

 ルイは満足そうに頷いた。

 

「それなら、今は合格」

 

「合格制なんですね」

 

「そうだよ。ユウトくんの大丈夫は、審査が必要だから」

 

「それも、よく言われます」

 

 ルイは少しだけ楽しそうに笑った。

 

 次に、こよりがそわそわと手を上げた。

 

「こよの番ですね!」

 

 Aちゃんが、念のためと言わんばかりに端末を構える。

 

「こよりさん、研究発表ではありません」

 

「分かってます! 今回はちゃんと、思い出の話です!」

 

「本当ですか?」

 

「本当です!」

 

 こよりは力強く頷いた。

 

 しかし、すぐに白衣のポケットから小さなメモを取り出した。

 

 Aちゃんの視線が鋭くなる。

 

「研究資料では?」

 

「思い出メモです!」

 

「枚数は?」

 

「十二枚です!」

 

「多いです」

 

「厳選しました!」

 

 ユウトは、思わず少しだけ笑ってしまった。

 

 こよりが、それを見てぱっと顔を明るくする。

 

「今、笑いましたね!」

 

「はい。少し」

 

「記録したい!」

 

「しないでください」

 

「はい!」

 

 こよりは素直にメモを下ろした。

 

 そして、少しだけ落ち着いた声で話し始める。

 

「前のユウトくんは、こよの企画書をちゃんと最後まで読んでくれました」

 

「企画書」

 

「うん。新企画とか、研究風配信とか、検証系とか。こよが思いついたことをまとめると、どうしても資料が厚くなるんだけど」

 

「六十ページ」

 

 クロヱがぼそりと言う。

 

「それは一回だけ!」

 

「一回でも多いでござる」

 

 いろはが真面目に言う。

 

 こよりは少しだけ頬を赤くした。

 

「でも、ユウトくんは読んでくれたの。全部。危ないところには赤字で『要確認』って書いて、分かりづらいところには『ここはリスナーさんに説明が必要です』って書いて」

 

 こよりの声が、少しだけ柔らかくなる。

 

「それで、最後に必ず一言くれた。『面白いと思います』って」

 

 ユウトの胸が、ほんの少し温かくなった。

 

「……前の僕は、ちゃんと読んでいたんですね」

 

「うん。ちゃんと読んでた。こよの早口も、長い説明も、途中で切らないで聞いてくれた」

 

 こよりはメモを胸の前で握る。

 

「でも、ユウトくんのことは、あまり聞けなかった」

 

「僕のこと?」

 

「うん。こよは、記憶のこととか、体調のこととか、データとして気になるところはたくさんあったと思う。でも、もっと前に聞くべきことがあった」

 

 彼女は、まっすぐユウトを見た。

 

「ユウトくんは、今どう思ってるのって。つらくないのって。助けてほしいことはないのって」

 

 こよりの声が、少し震える。

 

「研究者なのに、ちゃんと観察できてなかった。仲間なのに、ちゃんと聞けてなかった」

 

「……こよりさん」

 

「だから今度は、こよはちゃんと聞きます」

 

 こよりは深呼吸した。

 

「ユウトくんの記憶や身体のことも、もちろん気になる。でも、それより先に、ユウトくん本人の気持ちを聞く。勝手に調べたりしない。ちゃんと確認する」

 

 Aちゃんが、少しだけ表情を緩めた。

 

 ルイも静かに頷く。

 

 ユウトは、こよりの言葉を受け止める。

 

「ありがとうございます。僕自身も分からないことが多いので、いつか相談することがあるかもしれません」

 

「本当!?」

 

 こよりの目が輝く。

 

「はい。ただし」

 

「ただし?」

 

「実験ではなく、相談として」

 

「……うん」

 

 こよりは、端末ではなく自分の胸に手を当てた。

 

「分かった。相談として、ちゃんと聞く」

 

「お願いします」

 

「任せて!」

 

 こよりは元気よく頷いた。

 

 その元気さに、少しだけ部屋の空気が明るくなる。

 

 だが、次に立ち上がったクロヱが口を開くと、また静かになった。

 

「じゃ、次は沙花叉かな」

 

 沙花叉クロヱは、気だるげに立ち上がった。

 

 姿勢は緩い。

 

 声も眠たげ。

 

 けれど、目だけはユウトから離れない。

 

「ユウトくんと過ごした時間、短かったよね」

 

「……そうですね」

 

「でも、短いのにさ」

 

 クロヱは小さく笑う。

 

「けっこう覚えてるんだよね」

 

 彼女は、少しだけ視線を落とした。

 

「沙花叉が寝坊しそうな時、ユウトくん、何回も起こしに来た」

 

「それは……大変そうですね」

 

「大変だったと思う。沙花叉、起きないし」

 

「自覚はあるんですね」

 

「あるよぉ」

 

 クロヱは悪びれずに言った。

 

 だが、その後の声は少しだけ静かだった。

 

「でも、ユウトくんは怒るだけじゃなかった。起こしに来て、怒って、でも水とか置いてくれた。『起きたら飲んでください』って」

 

 彼女の指先が、テーブルの端を軽くなぞる。

 

「沙花叉がだるいって言った時も、さぼりたいだけか、本当に調子悪いのか、ちゃんと見てた」

 

「……」

 

「だからね、ユウトくん」

 

 クロヱは顔を上げる。

 

「沙花叉、けっこう安心してたんだよ」

 

 その言葉は、妙に幼く響いた。

 

「この人、見ててくれるんだって。だるいって言っても、めんどくさいって言っても、ちゃんと本当かどうか見てくれるんだって」

 

 クロヱの目が、少しだけ潤む。

 

 だが、彼女は泣かなかった。

 

「なのに、ユウトくんはいなくなった」

 

 静かな声。

 

「さかまたを起こしに来てた人が、今度は自分が帰ってこなくなった」

 

 ユウトの胸が痛む。

 

「……すみません」

 

「うん。今のユウトくんが謝ることじゃないって、みんな言うよね」

 

「はい」

 

「でも、言わせたくなるくらい、こっちも痛かったんだよ」

 

 その一言は、やわらかくなかった。

 

 けれど、責めるだけでもなかった。

 

 正直な痛みだった。

 

 ユウトは、目を逸らさずに頷いた。

 

「はい」

 

「だからさ」

 

 クロヱは、少しだけ身を乗り出した。

 

「帰ったら、ちゃんと連絡して」

 

「帰宅連絡ですか」

 

「うん。既読だけでもいい」

 

「分かりました」

 

「あと、無理してない時も、してる時も、ちゃんと言って」

 

「努力します」

 

「努力じゃなくて」

 

 クロヱの目が細くなる。

 

「ちゃんと、ね」

 

 ユウトは、少しだけ息を吐く。

 

「……はい。ちゃんと言うようにします」

 

「よし」

 

 クロヱは満足そうに笑った。

 

 その笑みは、最初の気だるげなものより、ずっと柔らかかった。

 

「じゃあ、沙花叉もちゃんと起きるようにする」

 

「本当ですか?」

 

「たぶん」

 

「たぶん」

 

「そこは許して」

 

 クロヱの言葉に、ルイが小さくため息を吐いた。

 

「沙花叉はそこもちゃんとしようね」

 

「ルイ姉、厳しい」

 

「いつものことです」

 

 ユウトは、そのやり取りを見ながら少しだけ笑った。

 

 最後に、風真いろはが立ち上がる。

 

 先ほどの自己紹介でも真っ直ぐだった彼女は、今もまっすぐだった。

 

「拙者は」

 

 いろはは、少しだけ目を伏せる。

 

「桜井殿に、何度も助けられました」

 

 静かな声だった。

 

「holoXとして動き始めたばかりの頃、拙者は用心棒として、皆を守らねばと思っていたでござる。総帥を守り、ルイ殿を支え、こより殿を止め、沙花叉殿を起こし、何かあれば前に出る」

 

「全部入っているんですね」

 

「はい」

 

 いろはは真面目に頷いた。

 

「けれど、桜井殿は拙者に言いました。『風真さんが全部背負う必要はありません』と」

 

 ユウトは黙って聞く。

 

「拙者は、守る側でありたいと思っていました。だから、誰かに守られることや、支えられることを少し苦手に感じていたでござる」

 

 いろはの手が、膝の上で握られる。

 

「でも桜井殿は、それを責めませんでした。ただ、言ってくれました。『守る人にも、隣に立つ人は必要です』と」

 

 ユウトの胸ポケットで、懐中時計が鳴った。

 

 チ。

 

 その言葉に、何かが反応した。

 

 夜の廊下。

 

 明るい声。

 

 遠くのスタジオ。

 

 刀のように真っ直ぐな瞳。

 

 自分の隣に立とうとする誰か。

 

 それを止めるのではなく、少しだけ笑って受け入れる自分。

 

 映像は一瞬で消えた。

 

「……」

 

 ユウトは胸元に手を当てる。

 

 いろはが、すぐに気づいた。

 

「桜井殿?」

 

「すみません。少しだけ、何か見えました」

 

「無理はしないでください」

 

 いろはは即座に言った。

 

「はい。大丈夫……ではなく、今は落ち着いています」

 

 言い直すと、holoX全員が小さく反応した。

 

 ラプラスは満足げに頷く。

 

「ふん。学習しているな」

 

「皆さんに言われ続けていますから」

 

「よいことだ」

 

 いろはは、少し安心したように息を吐いた。

 

 そして、再び言葉を続ける。

 

「拙者は、守りたかったでござる」

 

 その声が、少しだけ震えた。

 

「桜井殿が何かと戦っていることを、本当の意味で分かっていませんでした。何を失っていたのかも、どれほど一人で抱えていたのかも、気づけなかった」

 

「……風真さん」

 

「だから、今度は」

 

 いろはは顔を上げる。

 

 その瞳に、強い決意が宿っていた。

 

「拙者は、隣に立ちます」

 

 言葉は短い。

 

 だが、重かった。

 

「桜井殿が戦うなら、止めるべき時は止めます。必要なら、共に立ちます。逃げようとするなら、追いかけます。黙って消えようとするなら、絶対に見つけます」

 

 最後の言葉だけ、少し強かった。

 

「もう、守れなかったとは言いたくないでござる」

 

 ユウトは、しばらく言葉を返せなかった。

 

 守る。

 

 そう言われることには、まだ慣れない。

 

 自分が守られる側になることも。

 

 誰かに隣に立つと言われることも。

 

 けれど、いろはの言葉を拒むことはできなかった。

 

 それはきっと、彼女が前の世界から抱えてきた痛みそのものだったからだ。

 

「……ありがとうございます」

 

 ユウトは静かに頭を下げた。

 

「僕は、まだ皆さんが覚えている僕のことを全部は思い出せません。でも、今の言葉は覚えておきます」

 

「はい」

 

 いろはは、少しだけ微笑む。

 

「それで、今は十分でござる」

 

 今は。

 

 やはり、その言葉がつく。

 

 けれど、その「今は」には、焦らせない優しさもあった。

 

 ~~~~~~~~

 

 その後も、holoXとの顔合わせは続いた。

 

 ラプラスは、前の世界のユウトがどれほど自分の総帥らしさを真面目に受け止めていたかを、やたら偉そうに語った。

 

 途中で何度も「吾輩は偉大だからな!」と自分で補足した。

 

 そのたびにルイが「はいはい」と流し、こよりがメモを取り、クロヱが欠伸をし、いろはが真面目に頷いた。

 

 ルイは、ユウトがholoXの初期の不安定さをどう支えていたかを話した。

 

 誰かが暴走すれば止め、誰かが沈めば気づき、誰かが無理をすれば予定を調整していたこと。

 

 その中で、ルイ自身も支えられていたこと。

 

 こよりは、ユウトが読んだ企画書の話から始まり、いつの間にか懐中時計の反応について語りかけ、Aちゃんに三回ほど止められた。

 

 だが、最後にはちゃんと「ユウトくん本人の気持ちを大事にする」と繰り返した。

 

 クロヱは、あまり多くを語らなかった。

 

 けれど、ぽつりぽつりと、ユウトが何気なくしてくれたことを話した。

 

 水を置いてくれたこと。

 

 遅刻しそうな時に起こしに来たこと。

 

 眠そうな顔を見て、ちゃんと休めと言ったこと。

 

 どれも小さな出来事だった。

 

 けれど、クロヱにとっては、小さくない記憶だった。

 

 いろはは、最後まで真っ直ぐだった。

 

 ユウトが誰かを守るために動いていたこと。

 

 なのに、自分はその背中しか見られなかったこと。

 

 今度こそ隣に立ちたいということ。

 

 その一つ一つを、丁寧に言葉にしていった。

 

 ユウトは、ただ聞いた。

 

 知らない時間の話。

 

 短いけれど、確かに積み重なっていた時間。

 

 holoXと自分の間にも、ちゃんと思い出があった。

 

 それを知るたびに、胸が痛んだ。

 

 けれど、同時に温かくもなった。

 

 短いから軽いわけではない。

 

 ラプラスの言葉が、何度も胸の中で響いた。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 懐中時計は、静かに時を刻み続ける。

 

 気づけば、窓の外の光は夕方に変わっていた。

 

 昨日の4期生回と同じように、時間はあっという間に過ぎていた。

 

 ユウトは懐中時計を取り出し、針を見る。

 

 帰るべき時間。

 

 立ち上がろうとして、ふと動きを止めた。

 

「……YAGOOさん」

 

 ユウトは、奥に座るYAGOOへ声をかけた。

 

 YAGOOが顔を上げる。

 

「はい、桜井くん」

 

「少し、相談があります」

 

 部屋の空気が、少しだけ変わる。

 

 holoXの五人も、ユウトを見る。

 

 ユウトは懐中時計を手の中で閉じ、言葉を選んだ。

 

「来週の土曜日ですが、午前と午後を使って、最後の二組と顔合わせを行えないでしょうか」

 

 YAGOOの表情が変わった。

 

 Aちゃんものどかも、すぐに視線を上げる。

 

「最後の二組というと」

 

「ホロライブインドネシアと、ホロライブEnglishです」

 

 ユウトは続けた。

 

「これまで、皆さんが待っていてくれたことを知りました。顔合わせをした人たちだけではなく、まだ会えていない人たちも、ずっと待っているんだと思います」

 

 ラプラスが黙る。

 

 ルイが静かに目を伏せる。

 

 こよりが端末を握る手を止める。

 

 クロヱが、少しだけ寂しそうな顔をする。

 

 いろはは、真っ直ぐユウトを見ていた。

 

「だから、できるなら、これ以上待たせたくありません」

 

 ユウトは、YAGOOを見た。

 

「土曜日の午前と午後で、最後の二組に会いたいです」

 

 部屋は静かになった。

 

 YAGOOは、しばらくユウトを見ていた。

 

 そして、ゆっくりと言う。

 

「桜井くん」

 

「はい」

 

「無理をしていませんか」

 

 その問いは、優しかった。

 

 けれど、とても真剣だった。

 

 ユウトは、すぐには答えなかった。

 

 無理をしていない。

 

 そう言うのは簡単だ。

 

 大丈夫です。

 

 そう返すのはもっと簡単だ。

 

 だが、その言葉を雑に使うなと、これまで何度も言われてきた。

 

 ユウトは、少し考えてから答える。

 

「負担がないとは言いません」

 

 holoXの五人が、わずかに反応する。

 

「たぶん、疲れると思います。午前と午後で二組に会えば、今までよりも重くなるかもしれません」

 

「それなら」

 

 YAGOOが言いかける。

 

 ユウトは首を横に振った。

 

「でも、休憩は取ります。つらい時は言います。途中で無理だと思ったら、そこで止めます」

 

 ルイの表情が少し緩む。

 

 クロヱが小さく頷く。

 

 いろはが、わずかに安心したように息を吐く。

 

「それでも、会いたいです」

 

 ユウトは言った。

 

「僕が忘れてしまった時間を、皆さんは覚えています。なら、僕はそれを聞きに行くべきだと思います」

 

 YAGOOは、静かに目を伏せた。

 

 Aちゃんが端末を手に取る。

 

「……分かりました。ただし、必ず休憩時間を挟みます。午前と午後の間には、最低でも二時間の空白を入れます。体調に異変があれば中止します」

 

「はい」

 

「当日の進行はこちらで調整します」

 

「お願いします」

 

 YAGOOは、まだ少し心配そうだった。

 

 だが、やがて頷いた。

 

「では、確認を取りましょう」

 

 Aちゃんが、すぐに長距離通信端末を操作する。

 

 対象は、ホロライブインドネシアとホロライブEnglish。

 

 最後の顔合わせ対象となる、ユウトと関わりのあったライバーたち。

 

 送信。

 

 返答を待つ。

 

 普通なら、少し時間がかかるはずだった。

 

 時差もある。

 

 予定もある。

 

 移動や準備の調整も必要になる。

 

 だが。

 

 数秒で、端末が鳴った。

 

 ピコン。

 

 続けて、もう一度。

 

 ピコン。

 

 Aちゃんが画面を見る。

 

「……返信が早いですね」

 

 のどかが覗き込む。

 

「どちらも、もう返ってきたんですか?」

 

「はい」

 

 Aちゃんは少しだけ目を細めた。

 

「インドネシア側、全員確認前ですが、代表者から即時承諾。文面は……」

 

 Aちゃんは読み上げる。

 

「『もちろんOKです。午前でも午後でも、必要なら前日から事務所で待機します』」

 

「本気ですね」

 

 YAGOOが呟く。

 

 Aちゃんは続ける。

 

「English側も、代表者から即時承諾。『We’re in. Tell him thank you.』とのことです」

 

「……」

 

 ユウトは、少しだけ目を伏せた。

 

 ありがとう。

 

 そう言われるようなことを、自分はまだしていない気がした。

 

 ただ、会いに行こうとしているだけだ。

 

 それでも、彼女たちは待っていたのだろう。

 

 自分が来るのを。

 

 自分が、忘れてしまったままでも、会いに来ることを。

 

 Aちゃんが端末に予定を打ち込む。

 

「では、来週土曜日。午前にホロライブインドネシア、午後にホロライブEnglishを第一案として調整します」

 

「はい」

 

「詳細は追って連絡します」

 

「よろしくお願いします」

 

 ラプラスが腕を組み、少しだけ唇を尖らせた。

 

「ふん。吾輩たちとの顔合わせの余韻があるうちに、次を決めるとはな」

 

「すみません」

 

「謝るな」

 

 ラプラスは、すぐにそう言った。

 

「待っている者がいるのだろう。なら、行け」

 

 その声は、総帥らしく少し偉そうだった。

 

 けれど、優しかった。

 

 ルイが微笑む。

 

「ただし、ちゃんと休憩は取ってね」

 

「はい」

 

 こよりが身を乗り出す。

 

「体調変化があったらすぐ教えてね! 研究じゃなくて、相談として!」

 

「はい。相談として」

 

 クロヱは、少しだけ眠そうに目を細める。

 

「帰ったら連絡。来週も、終わったら連絡」

 

「はい」

 

「既読だけでもいいから」

 

「分かりました」

 

 いろはは、深く頷いた。

 

「桜井殿が進むと言うなら、拙者は止めません。ただ、無理をする時は止めます」

 

「お願いします」

 

「はい」

 

 ようやく、ユウトは立ち上がった。

 

 それに合わせるように、holoXの五人も立ち上がる。

 

 ラプラスは少し偉そうに。

 

 ルイは落ち着いて。

 

 こよりはそわそわしながら。

 

 クロヱは少しだるそうに。

 

 いろはは真っ直ぐに。

 

「出口まで見送るぞ」

 

 ラプラスが言った。

 

「ありがとうございます」

 

「ふん。総帥自らの見送りだ。光栄に思え」

 

「はい。光栄です」

 

「……素直すぎると調子が狂う」

 

 ラプラスは小さく呟いた。

 

 ~~~~~~~~

 

 廊下に出ると、さっきまでの暗闇演出が嘘のように明るかった。

 

 スタッフが行き交い、遠くからスタジオ準備の音が聞こえてくる。

 

 平和だった。

 

 本当に平和だった。

 

 少なくとも、今のところは。

 

「ラプラスさん」

 

「総帥だ!」

 

「ラプラスさん」

 

「むぅ」

 

「今日は、演出の準備ありがとうございました」

 

 そう言うと、ラプラスはまた一瞬動きを止めた。

 

「……別に、貴様のためだけではない。holoXの威厳を示すためだ」

 

「はい」

 

「だが、まあ」

 

 ラプラスは顔をそらす。

 

「次は、最後まで名乗りを聞かせてやる」

 

「一分以内なら」

 

「まだ言うか!」

 

 ルイが横で笑う。

 

「ユウトくん、総帥の扱いが上手いね」

 

「そうでしょうか」

 

「うん。前もそんな感じだったよ」

 

 その言葉に、ユウトは少しだけ胸が痛んだ。

 

 だが、今日はその痛みも受け止められる気がした。

 

 こよりは、横を歩きながらユウトの懐中時計をちらちら見ている。

 

「こよりさん」

 

「はい!」

 

「見ていますよね」

 

「見てます!」

 

「正直ですね」

 

「だって気になるから!」

 

「触るのは」

 

「許可が出るまで触りません!」

 

「ありがとうございます」

 

 こよりは胸を張った。

 

 クロヱは、ユウトの少し近くを歩いていた。

 

 近すぎない。

 

 だが、離れすぎない。

 

「ユウトくん」

 

「はい」

 

「今日、ちゃんと怖かった?」

 

「最初の暗闇は、少し」

 

「そっか」

 

「でも、途中から演出だと分かったので」

 

「じゃあ、嫌じゃなかった?」

 

「驚きはしましたが、嫌ではなかったです」

 

 クロヱは、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

「よかった」

 

 いろはは、そんな二人の横で静かに歩いている。

 

 ユウトが視線を向けると、すぐに目が合った。

 

「風真さん」

 

「はい」

 

「来週の件、心配をかけるかもしれません」

 

「心配はします」

 

 いろはは即答した。

 

「ですが、桜井殿が自分で決めて進むなら、拙者はその決意を尊重します」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし」

 

「はい」

 

「一人で抱えたら、怒るでござる」

 

「……気をつけます」

 

「気をつけるだけでは足りないでござる」

 

「では、抱えないようにします」

 

「はい」

 

 いろはは満足そうに頷いた。

 

 ロビーへ到着する。

 

 夕方の光が、自動扉の向こうから差し込んでいた。

 

 オルタナティブシティの街は、魔導ネオンが少しずつ灯り始めている。

 

 出口の前で、holoXの五人が並んで立ち止まった。

 

 ユウトは、端末を取り出す。

 

「連絡先、交換してもよろしいですか」

 

 その瞬間、五人の反応が分かりやすく変わった。

 

 ラプラスは偉そうに腕を組んだまま、しかし目だけは少し輝かせる。

 

「ふん。総帥の連絡先を得られるとは、光栄に思え」

 

「はい」

 

 ルイは微笑みながら端末を出す。

 

「何かあったら、いつでも連絡してね」

 

「ありがとうございます」

 

 こよりはすでに端末を構えていた。

 

「準備万端です!」

 

「早いですね」

 

「待ってたから!」

 

 クロヱは、少しだるそうにしながらも端末を差し出す。

 

「帰ったら、連絡ね」

 

「はい」

 

 いろはは、丁寧に端末を差し出した。

 

「拙者にも、何かあれば必ず」

 

「はい。いろはさん」

 

 その呼び方に、いろはの表情が少しだけ柔らかくなる。

 

 一人ずつ、連絡先を交換していく。

 

 画面に新しい名前が増える。

 

 ラプラス。

 

 ルイ。

 

 こより。

 

 クロヱ。

 

 いろは。

 

 holoXとの今のつながり。

 

 前の世界の記憶ではない。

 

 今、この世界で結び直したもの。

 

 ユウトは、それを少しだけ不思議な気持ちで見つめた。

 

「では、今日はありがとうございました」

 

 ユウトは頭を下げる。

 

 ラプラスが腕を組んで言う。

 

「次に来た時は、吾輩の完全版名乗りを聞かせる」

 

「検討します」

 

「聞け!」

 

 ルイが笑う。

 

「ちゃんと休んでね」

 

「はい」

 

 こよりが手を振る。

 

「何か思い出したら、メモしておいてね! 無理にじゃなくて、自然に!」

 

「分かりました」

 

 クロヱは小さく手を振った。

 

「またね、ユウトくん。ちゃんと帰ってね」

 

「はい。また」

 

 いろはは深く一礼した。

 

「お気をつけて、桜井殿」

 

「ありがとうございます」

 

 ユウトはもう一度頭を下げ、事務所の外へ出た。

 

 自動扉が閉まるまで、holoXの五人は見送っていた。

 

 ラプラスは偉そうに。

 

 ルイは穏やかに。

 

 こよりは元気よく。

 

 クロヱは少し眠そうに。

 

 いろはは真っ直ぐに。

 

 何事もなく。

 

 本当に、何事もなく。

 

 ユウトは帰路に就いた。

 

 外の空気は少し冷たかった。

 

 夕方のオルタナティブシティには、魔導ネオンの光が滲み始めている。

 

 ユウトは歩きながら、胸ポケットの懐中時計を取り出した。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 銀色の針は、静かに進んでいる。

 

 holoXと過ごした時間は、前の世界では短かった。

 

 だが、短いから軽いわけではない。

 

 ラプラスの言葉。

 

 ルイの優しい釘刺し。

 

 こよりの真っ直ぐな反省。

 

 クロヱの寂しさ。

 

 いろはの誓い。

 

 それらが、今のユウトの中に残っている。

 

 端末が震えた。

 

 クロヱからだった。

 

『帰ったら連絡。既読だけでもいいから』

 

 続けて、こより。

 

『体調変化があったら無理せず報告! 相談として!』

 

 ルイからも。

 

『今日はお疲れさま。ちゃんと休んでね』

 

 少し遅れて、ラプラス。

 

『吾輩の名乗りは次回完全版を聞かせてやる。覚悟せよ』

 

 最後に、いろは。

 

『桜井殿、本日はありがとうございました。どうかお気をつけて』

 

 ユウトは、少しだけ笑った。

 

「……本当に、皆さんらしい」

 

 そして、Aちゃんから届いた予定表を開く。

 

 来週土曜日。

 

 午前、ホロライブインドネシア。

 

 午後、ホロライブEnglish。

 

 最後の二組。

 

 最後の顔合わせ。

 

 失われた時間へ向かう列車は、いよいよ終点に近づいている。

 

 けれど、それは終わりではない。

 

 きっと、始まりなのだ。

 

 忘れてしまった過去を聞き終えた先で、今の桜井ユウトが何を選ぶのか。

 

 そのための、最後の切符が切られた。

 

 ユウトは懐中時計を胸ポケットに戻し、夕暮れの街を歩いていく。

 

 次の土曜日。

 

 彼は、海を越えて待つ者たちと、時差を越えて待つ者たちに会う。

 

 そしてまた、自分の知らない自分の話を聞くのだ。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 銀色の時計は、静かに時を刻み続けていた。

 

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