hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第3話 鋼の記憶

 

 チ、チ、チ、チ、チ、チ……。

 

 制服の胸ポケットの奥から、規則正しく、そしてどこか誇らしげな駆動音が絶え間なく響いている。

 

 あの日、旧市街の薄暗い骨董品店で手に入れた、銀色の懐中時計。国中のどんな天才時計師が手を尽くしても、どんな高等な魔導を注ぎ込んでも一秒たりとも動かなかったという「止まった遺物」は、僕がリューズを押したその瞬間から、まるで僕の心臓の伴奏を気取るように、休むことなく時を刻み続けていた。

 

 この不思議な時計を身に付けるようになってから、僕の日常にはある程度の落ち着きが戻っていた。

 

 駅前の巨大な魔導ビジョンで「ホロライブ」の少女たちの姿を見た時に襲ってきた、あの脳髄を割られるような激しい目眩や、内臓を急激にねじ切られるような悍ましい吐き気は、不思議と鳴りを潜めていた。

 

 クラスメイトの獣人の少年たちと他愛のない雑談を交わし、悪魔の少年が放課後に仕掛けてくる他愛のない悪戯を適当にいなし、授業のノートを淡々と取る。そんな「普通の高校生としての一日」を、僕は大きな破綻もなく送ることができていた。

 

 けれど。それは決して、根本的な解決ではなかった。

 

 「……やっぱり、何も思い出せないな」

 

 夜、僕以外誰もいない静まり返ったアパートの自室で、僕は首にかけた黒い紐を引き、胸ポケットから銀色の懐中時計を取り出した。

 

 カーテンの隙間から差し込む、夜空に浮かぶ浮遊大陸の淡い光線。それを反射して、鈍く洗練された輝きを放つ銀の文字盤をじっと見つめる。その裏面に刻まれた『the past should give us hope』という異国の文字列を、僕は指先で何度も、何度もなぞった。

 

 時計が僕に落ち着きを与えてくれたのは、おそらく、僕のなかに穿たれた決定的な『空白』に対して、この時計が仮初めの蓋をしてくれているからに過ぎない。

 

 蓋の裏側では、いまもドロドロとした焦燥感が、ふつふつと泡を立てて僕の精神を蝕み続けていた。

 

 思い出すことのできない、僕の過去。

 

 正確な日付も、大切だったはずの人たちの顔も、自分がかつて誰のために生きていたのかという一番重要な記憶も、すべてが濃い霧の向こう側に隠されたままだ。

 

 自分が誰かも分からないのに、どうして僕はこうしてのうのうと生きているんだろう。

 

 なぜ、このホロアースの世界の人々は、僕を『桜井ユウト』として認識し、何事もないように僕を受け入れているんだろう。

 

 時計の針が進むたび、僕の歴史の白紙部分が、どんどん後ろへと追いやられていくような恐怖があった。過去がない僕には、これから進むべき未来の選択肢さえ、すべて誰かが作った偽物のように思えてしまう。

 

 街ですれ違う人々が、自分の歴史や種族の絆を当たり前のように語り合っている姿を見るたびに、僕の胸には鋭い棘が突き刺さる。僕には、僕をこの世界に繋ぎ止めるための「根拠」が何一つないのだ。

 

 机の上に放置されたままの進路希望調査書は、今も真っ白なまま。

 

 過去を持たない僕に、未来を選択する権利なんてあるのだろうか。そんな底なしの哲学的な問いが、毎日毎日、僕の頭の中でループを繰り返す。

 

 僕はまた何度目かもわからないため息を吐き、時計をベッドわきに置いた。

 

 チ、チ、チ、チ……。

 

 時計はただ、僕の焦燥をあざ笑うこともなく、淡々と、残酷なほどに正確な時間を刻み続けていた。

 

 ~~~~~~~~

 

 「おーい、ユウト! 早く魔導船に乗ろうぜ! 良い席が埋まっちゃうぞ!」

 

 青空に浮かぶ乗船デッキから、犬耳のクラスメイトが僕に向かって大きく手を振っていた。

 

 今日は、僕たち高校三年生にとって、ある意味では人生の分岐点とも言える特別な行事の日だった。

 

 ――ダンジョン実戦訓練。

 

 この世界において、ダンジョンに潜り、戦闘の基礎を学ぶことは、人間や獣人といった種族を問わず、すべての若者に課せられた「義務教育」の一つだ。

 

 天を衝く浮遊大陸、神秘的な魔導の恩恵。その豊かさの裏側には、常に野生の魔物をはじめとした、人間の生存圏を脅かす危険な生物たちの存在がある。どれほど平和な都市であっても、いつ結界が破れ、化け物たちが街に流れ込んでくるか分からない。

 

 だからこそ、この世界では高校3年生の段階で、国や有力な防衛組織の厳重な管理下にある安全なダンジョンへと赴き、実戦を模した訓練を行うことが法律で定められていた。自分の身は、最低限自分で守れるように。それがこの世界の、厳しくも現実的なルールだった。

 

 「今行くよ」

 

 僕はカバンを肩にかけ直し、学校がチャーターした巨大な魔道飛行船へと足を踏み入れた。

 

 船内は、これから始まる未知の試練に対する、生徒たちの興奮と緊張が入り混じった熱気で満ち満ちていた。

 

 「なぁなぁ、聞いたか? 今日の訓練場所、ただの初等ダンジョンじゃないらしいぜ」

 

 「マジで? どこが管理してるところなんだよ」

 

 「あの【白銀聖騎士団】だよ! ホロライブの白銀ノエル様が団長を務める、最強の防衛組織の一つだぞ!」

 

 クラスメイトたちの会話が耳に飛び込んできた瞬間、僕の胸ポケットの時計が、カチリと小さく高い音を立てたような気がした。

 

 白銀ノエル。白銀聖騎士団。

 

 そして——【ホロライブ】。

 

 また、その名前だ。駅前の巨大ビジョンで見た時、僕の心臓を狂わせた、あの忌まわしくも愛おしい名前。

 

 クラスメイトたちは、憧れのトップアイドルの名前を口にするように、目を輝かせて語り合っている。

 

 「ノエル様、最近の配信でも言ってたよな。『私たちが守るこの世界を、次の世代にも繋げていきたい。だから、訓練生のみんなも頑張ってね』って。ああっ、もしダンジョンの奥でノエル様に偶然会えたりしたら、俺、もうそれだけで冒険者を目指しちゃうかも!」

 

 「バカ言え、初等ダンジョンに団長自らが出張ってくるわけないだろ。でも、あの聖騎士団の直轄地に入れるってだけでも、相当なステータスだよな」

 

 僕は彼らの輪から少し離れた窓際の席に腰を下ろし、ガラス窓の向こうに広がる景色を眺めた。

 

 魔導船がゆっくりと浮上を始め、街並みが小さくなっていく。遥か上空に見える浮遊大陸の影が、船体に大きな影を落としていた。

 

 みんなはホロライブの少女たちを遠い世界の憧れの英雄として見ている。けれど、僕にとって彼女たちの名前は、胸の奥の空白を冷たい風で掻きむしる、正体不明の痛みの引き金でしかなかった。

 

 僕は制服の上から、胸ポケットの時計をそっと包み込むように握りしめた。手のひらに伝わる微かな振動だけが、僕の狂いそうな思考を、静かに宥めてくれていた。

 

 ~~~~~~~~

 

 飛行船が要塞のドックに着陸し、僕たちは重々しい石造りの通路を通って、ダンジョンの入り口前にある、広大な前線基地の受付ロビーへと案内された。

 

 壁の至る所には、クロスした2本のメイスと白銀の盾をあしらった、白銀聖騎士団の美しいエンブレムが掲げられている。行き交う人々は皆、洗練された白銀の甲冑を身に纏い、凛とした空気を放つ現役の騎士たちだ。その一人ひとりが、ただの高校生である僕たちを、厳しくも温かい目で見守っている。

 

 「これより、訓練用ダンジョンへの入場を開始する! 各自、支給された防具を装着し、あちらの兵器棚から自分が使用する武器を一つ選択しなさい! 扱いきれない重い武器や、馴染みのない武器を選ぶと、実戦で命を落とすことになるぞ!」

 

 白銀聖騎士団の一隊を率いる隊長と思しき、屈強な体躯の騎士が響き渡る声で指示を出した。

 

 ロビーの壁際にずらりと並べられた、無数の武具の棚。そこには初心者用とはいえ、白銀聖騎士団の卓越した鍛冶技術によって作られた、一級品の武器が整然と並べられていた。

 

 生徒たちは、歓声を上げながら自分の武器を選びに向かった。

 

 ある者は軽快な片手剣を手に取り、ある者は獣人の筋力を活かして重量級の槍を回してみせる。エルフの生徒たちは魔力を込めやすい洗練された弓や、銃の重さを確かめていた。

 

 僕もまた、人混みに押されるようにして、兵器棚の前へと立った。

 

 胸ポケットの懐中時計は、今も僕の心臓のすぐ隣で、チ、チ、チ、チ、と静かな拍動を続けている。

 

 「さて……何を選べばいいんだろう」

 

 僕はまず、最も一般的とされる片手剣(ショートソード)を棚から引き抜いてみた。

 

 白銀に磨かれた刀身は美しく、重量のバランスも完璧だった。けれど、それを順手に握って構えてみた瞬間、致命的なまでの違和感が僕の腕を駆け巡った。

 

 (……軽い。軽すぎる)

 

 おかしかった。僕のような特筆すべき筋力のない人間の腕にとって、鋼製の剣は十分に重いはずだ。なのにこの片手剣を握っていると、まるで中が空洞のプラスチックのおもちゃを握らされているかのような、頼りない感覚しか湧いてこないのだ。しっくりこない。これを振って戦う自分の姿が、どうしてもイメージできなかった。

 

 僕は片手剣を棚に戻し、次に長いリーチを持つ(ランス)を手に取ってみた。

 

 両手で木製の柄を握り、前方に突き出す構えをとる。しかし、これも違った。どこに重心を置いていいのかが分からず、身体が勝手に拒絶反応を示す。

 

 さらに、エルフたちが好む弓や、人間でも十分ダメージを与えることができる銃にも触れてみた。

 

 けれど、それら精密な遠距離武器を構えてみても、僕の指先はまるで木偶の坊のように強張るだけだった。引き金を引く、矢を番える。その一連の動作のどれ一つとして、僕の肉体に染みついている「あの無意識の癖」とは噛み合わなかった。

 

 「なぁ、ユウトはまだ決まらないのか? 僕はこれにしたぜ!」

 

 友達の獣人の少年が、小ぶりだが頑丈そうな戦斧(バトルアクス)を自慢げに見せてきた。周りの生徒たちも、すでに各自の得物を決定し、ダンジョンのゲート前に並び始めている。

 

 「うん……なんだか、どれも僕の手には馴染まなくてさ」

 

 「贅沢言うなよ、どれも名門の騎士団が用意してくれた極上品だぞ? ……あ、そうだ。あそこの棚、まだ誰も見てないぜ」

 

 友達が指差した先。それは、ロビーの一番隅、魔導照明の影になった薄暗い場所に置かれた、ひときわ巨大な武具棚だった。

 

 そこには、初心者用の訓練にはまず使われることのない、規格外の重量武器が並べられていた。

 

 僕は吸い寄せられるように、その棚へと歩みを進めた。

 

 棚の最上段。そこに鎮座していたのは、一振りの、あまりにも無骨で一メートルほどはある両手剣(ツーハンデッドソード)だった。

 

 その大剣は、洗練された騎士団のエンブレムとは裏腹に、一切の装飾を排除した、鉄の塊のような武具だった。

 

 子供の胴体ほどもある幅広の刀身。長い年月を経て風化したかのような鈍い鈍色の輝き。それは、美しさよりもただ目の前の敵を叩き潰すことだけを目的に作られたかのような、圧倒的な威圧感を放っていた。

 

 普通の高校生なら、一目見ただけで自分には扱えないと敬遠するだろう。実際、他の生徒たちは誰もその大剣に見向きもしなかった。

 

 けれど。その鈍色の鉄塊を見つめた、まさにその瞬間。

 

 僕の胸ポケットの懐中時計が、まるで歓喜の悲鳴を上げるかのように、ジジジジッと激しく震えた。

 

 「……あ」

 

 鼓動が急速に速くなる。

 

 僕は、何かに操られるように両手を伸ばした。革のグローブを嵌めた両手で、大剣の太い柄(ヒルト)を、包み込むように深く握りしめる。

 

 その、瞬間だった。

 

 ――ドクンッ!!

 

 全身の血管を、熱く沸騰した血液が逆流するような、凄まじい衝撃が突き抜けた。

 

 脳裏に、かつてないほどに鮮烈な映像の断片が、薄くよみがえる

 

 ボロボロに朽ち果てた、錆びついた赤い装甲。

 

 激しく吹き荒れる、冬の凍てつくような冷たい夜風。

 

 目の前に佇む、長い大鎌を持った、灰色の死神のような異形の怪物。

 

 そして——自分の両手の中にあった、緑と黒を基調とした、空間そのものを焼き切るほどの熱を帯びた、一振りの大剣。

 

 (知っている……! 僕は、この重さを、この感覚を……確実に知っている!)

 

 記憶にはない。

 

 しかし身体が、肉体が、細胞のすべてが、その大剣の重みを「あって当然である」かのように受け入れていた。

 

 僕は歯を食いしばり、両腕に力を込めた。

 

 ズシ、と、これまでに触れたどの武器よりも重い、圧倒的な質量が両腕にかかる。普通なら持ち上げることすら困難なはずの鉄塊が、なぜか僕の身体の軸と完璧に噛み合い、驚くほど滑らかな軌道を描いて、床から引き抜かれた。

 

 僕は大剣を両手で保持し、腰を深く落として、右脇へと構えた。

 

 それは教官からも、ましてや学校の授業でも一度だって習ったことのない、けれど僕の肉体が何万回、何億回と繰り返してきたはずの、完璧な戦闘の構えだった。

 

 「なっ……嘘だろ、ユウト……!?」

 

 後ろで見ていた友達が、驚愕のあまり声を裏返した。

 

 周りにいた生徒たちや、貸し出しを担当していた現役の白銀聖騎士団の騎士たちまでもが、一斉に僕の方を振り向き、信じられないといった様子で目を見開いている。

 

 筋力のないはずの、地味で目立たない人間の少年が、大人の騎士でも両手で扱うのがやっとの重量級の大剣を、一ミクロンのブレもなく、完璧な構えで保持しているのだから、無理もなかった。

 

 「……これだ」

 

 構えを解き、大剣の切っ先を床へと下ろしながら、僕は小さく、けれど確信を込めて呟いた。

 

 この世界で支給されたこの大剣は、僕の脳裏に一瞬だけ浮かんだ「あの武器」そのものではない。デザインも違えば、放つエネルギーの色も違う、ただの訓練用の鋼の剣だ。

 

 けれど、確実に似ていた。

 

 両手にかかる凄まじい重量のバランス。敵の攻撃を真っ向から受け止めるための、分厚い鋼の安心感。僕の肉体は、この重さと共に、かつてどこかの時間軸で、命を賭けた凄絶な戦いを繰り広げていたのだ。

 

 「おい、少年……本当にその武器で行くつもりか?」

 

 貸し出し担当の騎士が、戸惑いながらも、僕の構えの見事さに圧倒されたような目つきで問いかけてきた。僕は胸ポケットの奥で、再びチ、チ、チ、チ、と静かで確固たる音を刻み始めた懐中時計の拍動を感じながら、力強く頷いた。

 

 「はい。僕の武器は……これにします」

 

 大剣を背中のホルダーへと固定する。背中にかかる圧倒的な重みは、不思議と僕の心を、これまでにないほどに深く、深く落ち着かせてくれた。

 

 僕には過去がない。記憶もない。

 

 けれど、僕が握りしめたこの鋼の重みだけは、僕がかつて「何か」であったことを、無言のまま雄弁に証明しているようだった。

 

 ダンジョンの巨大な鉄門が、重々しい音を立てて開き始めた。

 

 奥から漂ってくる、冷たい土と魔獣の気配。

 

 僕は背中の大剣の柄にそっと手をかけ、過去を思い出せないかという淡い期待を胸に、暗闇の奥へと静かに一歩を踏み出した。

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