hololive Lost Story 作:ダニエルズプラン
デンライナーは、現在へ戻ってきた。
車窓の外に広がっていた虹色の荒野が、少しずつ薄れていく。
砂の大地も、幾重にも枝分かれした線路も、遠くを並走していたゼロライナーの影も、光の粒となって流れていった。
代わりに見えてきたのは、夜のオルタナティブシティだった。
嵐は、まだ完全には収まっていない。
黒い雲が高層ビルの上に垂れ込め、遠くでは魔導雷が薄紫に光っている。
雨は少し弱まっていたが、風はまだ強い。
ビルの壁面を流れる水滴が、魔導ネオンの光を細く引き伸ばしていた。
その中を、デンライナーは音もなく進んでいく。
そして、ホロライブ事務所の屋上に横付けするように、空中で静かに停車した。
「……事務所の屋上」
ユウトは窓の外を見て呟いた。
さっきまで自分たちは、時間の荒野を走っていた。
過去を見た。
未来を見た。
前の桜井ユウトが守ったものを見た。
それが、今こうして一気に現実へ引き戻されると、夢だったのではないかと思いそうになる。
だが、手の中には緑色のカードがあった。
胸ポケットには、銀色の懐中時計が静かに鳴っている。
夢ではない。
これは、確かに起きたことだった。
「到着でーす!」
ナオミの明るい声が車内に響く。
「お忘れ物のないよう、ご注意ください!」
「忘れ物……」
みこが、少し疲れたように呟いた。
「見たものが多すぎて、何を持って帰ればいいか分からないにぇ」
「全部、じゃないかな」
ロボ子さんが静かに言う。
「忘れないようにするんじゃなくて、置いていかないように」
そらは窓の外を見つめていた。
雨に濡れた屋上。
その先にある、ホロライブ事務所。
さっきまで見てきた過去と未来の中心にあった場所。
すいせいは黙っていた。
だが、その表情は旅に出る前よりも少しだけ変わっている。
痛みはある。
けれど、目を逸らさない強さもあった。
AZKiは、車内の音を聞くように目を伏せている。
「この列車の音、忘れないと思う」
ユウトは立ち上がった。
降りなければならない。
現在へ。
彼女たちが待つ場所へ。
自分がこれから生きていく時間へ。
そう思ってデンライナーの扉へ向かおうとした時だった。
「桜井ユウトくん」
背後から声がかかった。
振り返ると、オーナーが立ち上がっていた。
先ほどまで愛用のスプーンを磨いていた彼は、そのスプーンを丁寧に片付け、ゆっくりとユウトの前へ歩いてくる。
相変わらず優雅な足取りだった。
だが、その表情には、いつもの飄々とした雰囲気とは少し違う真剣さがある。
「そのカードを、こちらへ」
「これを、ですか」
ユウトは、手の中の緑色のカードを見た。
デンライナーへ導いたカード。
過去と未来を見せた旅の始まり。
前の自分が戦うために使っていたもの。
それを渡すことに、一瞬ためらいがあった。
だが、オーナーの目には急かすような色はない。
ただ、当然そうするべき時が来たという静けさがあった。
ユウトは、両手でカードを差し出した。
「お願いします」
「ええ」
オーナーは緑のカードを受け取った。
そして、反対側の手を上着の内ポケットへ差し入れる。
そこから取り出したのは、黒いパスケースだった。
何の変哲もないように見えて、どこか深い黒をしている。
ただの革でも、ただの魔導具でもない。
時間の影をそのまま形にしたような黒。
オーナーは、片手に緑のカード、もう片手に黒いパスケースを持った。
「これは」
ユウトが問いかけるより早く、オーナーはそれらを後ろ手に回した。
ほんの一瞬。
握るような動作。
そして、再びユウトの前に差し出す。
そこにはもう、緑のカードも黒いパスケースもなかった。
代わりに、オーナーの手には新しいパスケースが握られていた。
緑と黒で構成されたパスケース。
深い緑。
重い黒。
その二色が、まるで最初からそうであったかのように馴染んでいる。
表面には、どこかゼロライナーを思わせる意匠があった。
ユウトは、息を呑んだ。
そのパスケースを見た瞬間、胸ポケットの懐中時計が小さく鳴った。
チ。
「これは……」
オーナーは、パスケースをユウトへ差し出した。
「このパスケースは、もともとあのゼロライナーのもの」
ゼロライナー。
緑色の牛のような車両と、黄色い鳥のような車両。
時間の荒野をデンライナーと並走していた、もう一つの列車。
「あのゼロライナーもまた、あなた自身のものです」
「僕自身の……」
ユウトは、パスケースを受け取る。
手に馴染んだ。
恐ろしいほど自然に。
まるで、ずっと昔から自分の手の中にあったもののように。
「使い方は、あなた次第です」
オーナーは言った。
「戦うために使うのか。繋ぐために使うのか。あるいは、二度と使わずに持ち続けるのか。それを決めるのは、今のあなたです」
「今の、僕」
「ええ」
オーナーは微笑む。
「前のあなたが何をしたのかは、もう見たはずです。では、今のあなたが何を選ぶのか。それは、これからの時間の問題です」
ユウトは、パスケースを見つめた。
過去の自分は戦った。
守った。
失った。
消えた。
なら、今の自分はどうするのか。
同じように戦うのか。
違う道を選ぶのか。
まだ分からない。
けれど、逃げてはいけないことだけは分かった。
「……ありがとうございます」
ユウトが頭を下げると、オーナーは満足そうに頷いた。
「よろしい」
そして、一歩歩き出す。
その瞬間だった。
食堂車の端。
先ほどまで皿の上で誇らしげに立っていたチャーハンの旗が、ふらりと傾いた。
「あ」
みこが声を漏らす。
旗は、ゆっくりと倒れた。
ぱたり。
静かな音。
オーナーの足が止まる。
車内の全員が、旗を見る。
オーナーはゆっくり振り返った。
そして。
ものすごい変顔をした。
「……」
ユウトは固まった。
そらも固まった。
すいせいは口元を押さえた。
ロボ子さんは処理が追いついていない顔をした。
みこは今にも吹き出しそうで、AZKiは静かに目を逸らした。
モモタロスが腹を抱えて笑いかける。
「ぶっ――」
「モモタロス」
良太郎が慌てて止める。
オーナーは何事もなかったかのように顔を戻した。
「……失礼」
そして、ステッキを手に、優雅に食堂車を後にした。
旗が倒れた事実だけを置き去りにして。
「最後まで濃いにぇ……」
みこが小さく呟いた。
「ホロライブと同じくらい、こっちも濃いね」
ロボ子さんが真顔で言う。
「そこ並べるの?」
すいせいが突っ込む。
少しだけ、笑いが戻った。
重い旅の終わりに、あまりにも奇妙で、あまりにもデンライナーらしい余韻だった。
~~~~~~~~
一人、また一人と、デンライナーを降りていく。
まず、そら。
次にロボ子さん。
みこ。
すいせい。
AZKi。
彼女たちは、屋上へ降りるたびに一度振り返り、列車の中を見た。
そして最後に、ユウトが扉の前で立ち止まった。
その手には、緑と黒のパスケース。
胸ポケットには銀色の懐中時計。
彼は、食堂車の中へ向き直る。
そこには、良太郎がいた。
モモタロスがいた。
ウラタロス、キンタロス、リュウタロス、ジーク、ナオミ。
時間の列車で出会った者たち。
いや、前の世界の自分は、きっとすでに出会っていた者たち。
「良太郎さん」
「うん」
「ありがとうございました」
ユウトは、深く頭を下げた。
「僕は、記憶を取り戻したわけではありません。でも、見ました。前の僕が何をして、何を守って、何を失ったのか。そして、守った未来がどう続いたのか」
良太郎は静かに聞いている。
「まだ、全部を受け止められたとは言えません。でも、もう、自分には資格がないとは言わないようにします」
「うん」
良太郎は、柔らかく微笑んだ。
「それでいいと思う」
ユウトは、モモタロスたちへ目を向ける。
「モモタロスさんも、皆さんも。ありがとうございました」
「ふん」
モモタロスは腕を組み、顔を逸らす。
「礼なんざいらねぇよ。次に会った時は、もうちょいシャキッとしてろ」
「はい」
「あと、そのさん付けやめろ。気持ち悪ぃ」
「検討します」
「検討じゃねぇ!」
ウラタロスが笑う。
「相変わらず、真面目だね」
「覚えていないのに、相変わらずと言われるのは不思議です」
「でも、そういうところは変わってないよ」
キンタロスは重く頷いた。
「泣ける話やった。だが、これからが大事やで」
「はい」
リュウタロスは、身を乗り出す。
「また来る? 今度は踊ろうよ!」
「踊るかどうかは分かりませんが、また会えたら」
「約束ね!」
ジークは優雅に片手を上げる。
「王たる私に謁見できたこと、誇りに思うがいい」
「はい。光栄です」
「ふむ。素直でよろしい」
ナオミは笑顔で手を振った。
「またいつでも来てくださいね! コーヒー用意しておきます!」
「……ありがとうございます」
次に飲む覚悟が必要だと思った。
それからユウトは、良太郎へもう一度向き直る。
「それと」
「うん」
「僕に発破をかけてほしいと頼んだ、その誰かにも伝えてください」
良太郎の表情が、ほんの少しだけ変わった。
ユウトは続ける。
「ありがとうございました、と。僕はまだ全部思い出せていません。でも、逃げないようにします」
良太郎は、静かに頷いた。
「必ず伝えるよ」
「お願いします」
ユウトはもう一度頭を下げた。
そして、デンライナーを降りた。
足元に、ホロライブ事務所の屋上の感触が戻る。
濡れたコンクリート。
嵐の名残を含んだ冷たい空気。
遠くで鳴る雷。
屋上の縁には、安全用の魔導柵が淡く光っている。
デンライナーの扉が閉まった。
ゆっくりと、赤い列車が動き出す。
車輪の音はない。
ただ、空中に伸びる見えない線路を進むように、デンライナーは夜の中へ滑っていく。
窓の向こうで、良太郎が手を振っていた。
モモタロスはそっぽを向いたまま片手だけ上げている。
ウラタロスは優雅に。
キンタロスは静かに。
リュウタロスは大きく両手を振り。
ジークは王のように頷き。
ナオミは満面の笑顔で手を振っていた。
やがて、デンライナーは光の粒となって遠ざかり、夜空の向こうへ消えていった。
ユウトたちは、しばらくそのまま立っていた。
誰もすぐには話さなかった。
嵐は、少しずつ弱まっている。
雨は細くなり、雲の切れ間から夜空の色が見え始めていた。
遠くの街には、魔導ネオンが淡く光っている。
ホロライブ事務所の屋上。
現在。
帰ってきた場所。
ユウトは、手元のパスケースを見る。
緑と黒。
ゼロライナーのもの。
自分自身のもの。
使い方は、自分次第。
その重さを、どう受け止めればいいのか、まだ分からない。
けれど、もう手放すつもりはなかった。
その時。
「……ねえ」
そらが、ぽつりと言った。
ユウトは顔を上げる。
そらは何かを思いついたような顔をしていた。
やわらかくて、少しだけいたずらっぽい。
それでいて、どこか真剣。
「みんな、ちょっと」
そらが小さく手招きする。
ロボ子さん、みこ、すいせい、AZKiがそらのそばへ集まる。
五人は顔を突き合わせ、何やら小声で話し始めた。
「ここで?」
「うん。今だけ」
「機材ないよ?」
「アカペラでいいんじゃない?」
「まだ配信してないけど……」
「だからこそ、今だけ」
「ユウトくんのために?」
「うん」
ユウトは少し離れて、その様子を見ていた。
「何を」
問いかけようとした時、すいせいが振り向いた。
「ユウト」
「はい」
「そこに立ってて」
「え?」
「いいから」
みこが、少しだけ涙の跡を残した顔で笑う。
「今度は逃げちゃだめだにぇ」
「逃げません」
ロボ子さんが頷く。
「うん。逃走経路は塞がないけど、逃げないで」
「それは塞いでいるのと同じでは」
AZKiが静かに微笑んだ。
「聴いてほしい歌があるの」
そらが、一歩前に出る。
「この世界でも有名な曲」
ユウトは、そのタイトルを聞いた。
知っている曲だった。
この世界でも有名な曲。
だが、今ここにいる0期生がカバーとして配信したことはまだない。
つまり、これは配信でも、ライブでもない。
記録に残すための歌でもない。
今だけ。
ユウトのためだけに歌われる歌。
「いいんですか」
ユウトは思わず聞いた。
「僕だけが聞いて」
「いいんだよ」
そらは、迷いなく答えた。
「今は、ユウトくんに聴いてほしいから」
すいせいが夜空を見上げる。
「嵐も、ちょうど静かになってきたしね」
みこが胸元に手を当てる。
「みこ、さっきの未来で背中押してもらった分も歌うにぇ」
ロボ子さんが小さく笑う。
「音程補正は自前で」
「ロボ子さん、それ言う?」
AZKiが、静かに目を閉じた。
「大丈夫。届くよ」
ユウトは、何も言えなかった。
ただ、屋上の真ん中に立つ。
0期生の五人が並ぶ。
ときのそら。
ロボ子さん。
さくらみこ。
星街すいせい。
AZKi。
彼女たちの背後には、嵐の残した雲。
その切れ間から、ほんの少し星が見え始めていた。
夜風が吹く。
屋上の水たまりが小さく揺れる。
そして、歌が始まった。
アカペラだった。
楽器はない。
照明もない。
観客もいない。
ただ、夜の屋上に五人の声が重なっていく。
そらのまっすぐな声。
ロボ子さんの柔らかい響き。
みこの少し震えながらも温かい声。
すいせいの芯のある歌声。
AZKiの遠くまで届くような音。
その五つが混ざり合い、夜空へ伸びていく。
ユウトは、その歌を聴いていた。
雨上がりの空気。
胸の奥に残る過去の痛み。
未来で見た光。
自分が消えた瞬間。
みこの背中を押した感触のない手。
良太郎の言葉。
オーナーのパスケース。
デンライナーの車輪の音。
すべてが、歌の中で静かにほどけていく。
やがて、短い一節が夜に落ちた。
**「大丈夫だ あの痛みは」**
その言葉が、ユウトの胸を打った。
歌詞の続きを、彼女たちは直接なぞりすぎることなく、声の温度で伝えていく。
痛みは消えない。
忘れても、なかったことにはならない。
でも、それを抱えたままでも光の方へ歩いていける。
そう言われている気がした。
ユウトは、目を閉じた。
忘れてしまった時間。
消えてしまった自分。
守った未来。
そして、今ここにいる自分。
全部が、ひとつにはならない。
まだ空白はある。
まだ分からないこともある。
でも、痛みがあることを怖がらなくてもいいのかもしれない。
痛みが残っているからこそ、そこに確かに大切なものがあったと分かる。
そらたちの歌声が、夜空へ溶けていく。
雲の切れ間から、一筋の光が落ちた。
朝ではない。
まだ夜だ。
けれど、嵐の向こうに月か星か、何かの光が覗いていた。
その光が、屋上の水たまりに反射する。
まるで一本の細いrayのように。
ユウトは、手の中の緑と黒のパスケースを握った。
強くではなく。
確かめるように。
歌が終わる。
最後の音が、夜風に溶ける。
しばらく、誰も話さなかった。
ユウトは、目を開ける。
0期生の五人がこちらを見ていた。
少し照れくさそうに。
少し不安そうに。
でも、どこか満足そうに。
「……ありがとうございます」
ユウトは、そう言った。
声が少し震えていた。
「今の歌は、忘れたくないです」
そらが、優しく笑う。
「うん」
すいせいが、少しだけ目を細めた。
「忘れそうになったら、また歌うよ」
「配信で、ですか」
「それもいいけど」
すいせいは、少しだけ肩をすくめる。
「まずは、ユウトのために」
みこが胸を張る。
「そうだにぇ。みこたち0期生の特別ライブだにぇ」
「チケット代は?」
ロボ子さんが冗談めかして言う。
ユウトは少し考えてから答えた。
「……今度、温かい飲み物を用意します」
AZKiが小さく笑った。
「それ、前のユウトくんみたい」
ユウトは、少しだけ目を伏せる。
けれど、今度は苦しくなりすぎなかった。
「そうですか」
「うん」
AZKiは頷く。
「でも、今のユウトくんの言葉でもあるよ」
その言葉に、ユウトは静かに息を吸った。
胸ポケットの懐中時計が鳴る。
チ、チ、チ、チ――。
手には、緑と黒のパスケース。
目の前には、0期生の五人。
背後には、嵐が過ぎつつある夜空。
ユウトはまだ、すべてを思い出したわけではない。
けれど、過去を見た。
未来を見た。
そして今、自分のために歌ってくれた彼女たちの声を聞いた。
だから、少しだけ分かった。
自分は、前の自分の続きを生きるのではない。
今の自分として、彼女たちとまた時間を作っていくのだ。
嵐の残した雲の向こうから、細い光が差していた。
その光は、夜を完全に晴らすにはまだ足りない。
けれど、歩き出すためには十分だった。