hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第47話 淑女協定・恋の包囲網

 

 その週の土曜日。

 

 ホロライブ事務所の大会議室には、妙な緊張感が漂っていた。

 

 広い会議室。

 

 長机。

 

 壁に設置された大型モニター。

 

 普段なら企画会議や大型収録前の打ち合わせ、あるいはスタッフを交えた全体説明などに使われるその場所に、今日はホロライブJPの面々が集まっていた。

 

 もちろん全員ではない。

 

 収録中の者もいる。

 

 配信準備で席を外している者もいる。

 

 別件の打ち合わせで後から合流する者もいる。

 

 それでも、0期生からholoXまで、主だった顔ぶれはほとんど揃っていた。

 

 ときのそら。

 

 ロボ子さん。

 

 さくらみこ。

 

 星街すいせい。

 

 AZKi。

 

 白上フブキ。

 

 夏色まつり。

 

 大神ミオ。

 

 猫又おかゆ。

 

 戌神ころね。

 

 百鬼あやめは今はいない。

 

 大空スバル。

 

 湊あくあ。

 

 紫咲シオン。

 

 兎田ぺこら。

 

 宝鐘マリン。

 

 白銀ノエル。

 

 不知火フレア。

 

 潤羽るしあ。

 

 天音かなた。

 

 角巻わため。

 

 常闇トワ。

 

 姫森ルーナ。

 

 桐生ココ。

 

 雪花ラミィ。

 

 桃鈴ねね。

 

 獅白ぼたんも今はいない。

 

 尾丸ポルカも今はいない。

 

 ラプラス・ダークネス。

 

 鷹嶺ルイ。

 

 博衣こより。

 

 沙花叉クロヱ。

 

 風真いろは。

 

 数人分の席は空いている。

 

 しかし、その空席が気にならないほど、会議室内の圧は濃かった。

 

 ホワイトボードには、フブキの丁寧な字でこう書かれている。

 

『緊急議題:桜井ユウトと火威青・音ノ瀬奏・轟はじめの距離感について』

 

 その下に、誰が書いたのか分からない赤字が追加されていた。

 

『※プリクラ問題を含む』

 

 さらにその下に、別の筆跡でこう書かれている。

 

『※腕引っぱり問題も含む』

 

 そして最後に、みこの字で大きくこう書き足されていた。

 

『※みこもユウトとプリクラ撮りたいにぇ!!!!』

 

「みこち、議題に私情を混ぜない」

 

 すいせいが冷静に言った。

 

「すいちゃんだって撮りたいくせに!」

 

「撮りたいよ」

 

「即答にぇ!?」

 

「そこを隠す段階はもう過ぎた」

 

 会議室が、わずかにざわつく。

 

 フブキが、議長席のような場所に座って両手を組んだ。

 

「さて。皆さん、落ち着いてください」

 

「フブちゃんが一番目が据わってるにぇ」

 

「私は落ち着いています」

 

「その声の平坦さが怖いんだよなぁ!」

 

 スバルが叫んだ。

 

 ミオが隣で肩を叩く。

 

「スバルも落ち着こうね」

 

「ミオしゃ、これ落ち着ける議題か!? ユウトが青たちとプリクラ撮ってたって話だぞ!?」

 

「うん。落ち着けないね」

 

「ミオしゃ!?」

 

 そらは、苦笑しながら全員を見回した。

 

 その表情には困惑もある。

 

 けれど、同時にどこか優しいものもあった。

 

「でも、まずはよかったって思うところからじゃないかな」

 

 そらの声に、会議室が少し静かになる。

 

「青ちゃんたちが、元気にこの世界にいるって分かったんだよね」

 

 その言葉で、空気がわずかに変わった。

 

 騒ぎの中心にあるのは確かに嫉妬だった。

 

 プリクラ。

 

 腕を引っ張る距離感。

 

 ユウトの隣で笑う後輩たち。

 

 それは、恋する乙女たちにとって、無視できるものではない。

 

 だが、それ以前に。

 

 火威青。

 

 音乃瀬奏。

 

 轟はじめ。

 

 前世でホロライブの後輩だった彼女たちが、この世界で無事に生きている。

 

 笑っている。

 

 そして、ユウトの近くにいる。

 

 それは本来、喜ぶべきことでもあった。

 

「そうだね」

 

 AZKiが静かに頷く。

 

「見つからなかった仲間が見つかった。それは、ちゃんと嬉しい」

 

「うん」

 

 わためも柔らかく微笑んだ。

 

「青くんたちが元気なら、それはよかったことだよね」

 

「それはそう」

 

 マリンが腕を組んだまま頷く。

 

「それはそうなんですけど」

 

 そこで船長は、すっと目を細めた。

 

「恋する乙女としては、話が別なんですよ」

 

「船長が真面目な顔で変なこと言ってる」

 

 トワが半眼で言う。

 

「変じゃないですぅ! 極めて重要な問題ですぅ!」

 

 ラプラスが机の上に両手をつき、椅子の上で立ち上がった。

 

「そうだ! 吾輩も総帥として看過できん! 配下であるユウトが、吾輩の知らぬところで後輩三人に腕を引かれ、プリクラなる密室型記録装置へ連行されていたなど――」

 

「ラプラス、座って」

 

 ルイが落ち着いた声で言う。

 

「吾輩はまだ演説の途中だが!?」

 

「座って」

 

「はい」

 

 ラプラスは座った。

 

 ぺこらが耳をぴんと立てながら、腕を組む。

 

「ぺこらは現地で見たぺこ。あれはかなり近かったぺこ」

 

「そう」

 

 すいせいが頷く。

 

「あれは近かった」

 

「どのくらい近かったの?」

 

 ラミィが尋ねる。

 

 すいせいは少し考えた。

 

「左右から腕」

 

 おかゆが補足する。

 

「背中から押されてたねぇ」

 

 ころねもにこにこしながら言う。

 

「あと、ユウトくん楽しそうだった」

 

 その一言で、会議室が沈黙した。

 

 重い沈黙だった。

 

 何なら、さっきまでの騒がしさよりもずっと重かった。

 

「……楽しそう」

 

 あくあが小さく呟いた。

 

 その声は、淡く震えていた。

 

「ユウトさんが、楽しそうに……」

 

「いいことだよ」

 

 ミオが優しく言う。

 

「ユウトが今の学校生活をちゃんと楽しめているなら、それはすごくいいこと」

 

「分かってます」

 

 あくあは頷く。

 

「分かってます。ユウトさんが笑っているのは、嬉しいです」

 

 そこで、彼女はぎゅっと手を握った。

 

「でも、隣にいたかったです」

 

 会議室のあちこちで、無言の頷きが起きた。

 

 あくあの言葉は、多くの者に刺さっていた。

 

 ユウトが笑っているのは嬉しい。

 

 彼が日常を楽しめているのも嬉しい。

 

 前世の痛みや記憶だけに囚われていないことも、本当は喜ぶべきことだ。

 

 だが。

 

 その笑顔の隣にいるのが、自分たちではなかった。

 

 それが、苦しい。

 

「しかも青くんたち、ユウトくんに呼び捨てで呼ばれてるんでしょ?」

 

 まつりが言った。

 

「ユウトが青、奏、はじめって呼んでた」

 

 すいせいが答える。

 

「呼び捨て」

 

 るしあがぽつりと言った。

 

 会議室の温度が、二度ほど下がった気がした。

 

「るしあ?」

 

 フレアがそっと声をかける。

 

「大丈夫。大丈夫だよ、フレア」

 

 るしあは微笑んだ。

 

 微笑んでいる。

 

 いるのだが、机の下で握っている手に、尋常ではない力が入っていた。

 

「ユウトが今の生活を大事にするのは、いいこと。青くんたちは前世のことを覚えていない。今のところ普通の女の子。だから、何かするのは違う」

 

「う、うん」

 

「分かってる。分かってるから」

 

 るしあは、ゆっくりと息を吸う。

 

「でも、距離が近い」

 

 その言葉に、また全員が頷いた。

 

 近い。

 

 近すぎる。

 

 ユウトと青たちの距離感は、前世の記憶を持つホロライブメンバーから見ても、今の学校の後輩としてはかなり近かった。

 

 腕を引く。

 

 袖を掴む。

 

 背中を押す。

 

 プリクラに連れ込む。

 

 クレープを一緒に食べる。

 

 何より、ユウトがそれを受け入れている。

 

 困った顔をしながら。

 

 でも、楽しそうに。

 

「まず確認したいんだけど」

 

 ルイが手元のメモを見ながら言った。

 

「青くんたちは、やっぱり前世の記憶を持っていないという認識でいいのよね?」

 

「たぶん」

 

 すいせいが答える。

 

「私たちのこと、画面の向こうの有名人として見てた」

 

「すごく緊張してました」

 

 おかゆが続ける。

 

「青くん、外向きの顔だったし」

 

「はじめちゃんは感動して震えてたよぉ」

 

 ころねが言う。

 

「奏も、ちゃんとファンとして挨拶してたぺこ」

 

 ぺこらが頷く。

 

「前世の後輩としての反応ではなかったぺこ」

 

 ルイは少しだけ目を伏せた。

 

「そう」

 

「前世の仲間なのに、今は覚えていない」

 

 こよりが真剣な顔で呟く。

 

「これは非常に興味深い記憶保持の差異です。ReGLOSSとFLOW GLOWは記憶非保持。けれど現世界での関係性はユウトくんの学校生活に直結している。となると、ユウトくんの現在の心的安定には――」

 

「こより」

 

 ルイが横から止める。

 

「研究対象にしない」

 

「してません! まだ!」

 

「まだって言ったぺこ」

 

「こよちゃん、語ると研究スイッチ入るからねぇ」

 

 おかゆが笑う。

 

 こよりは咳払いをした。

 

「と、とにかく、青くんたちは敵ではありません。むしろ、現在のユウトくんの生活を支える重要な存在です」

 

「それは分かってる」

 

 フブキが頷いた。

 

「だからこそ、直接的な牽制はしない」

 

 その言葉で、会議室の空気が少し引き締まった。

 

 フブキはホワイトボードの前に立つ。

 

「青くゆたちは今のところ、前世の記憶を持っていない一般人です。戦う力も、状況を理解する情報も、こちら側の事情も持っていない」

 

「うん」

 

 そらが頷く。

 

「そんな子たちに、私たちの感情だけで圧をかけるのは違うと思う」

 

「そうですね」

 

 いろはが真剣な顔で頷いた。

 

「守るべき相手であって、斬る相手ではないでござる」

 

「いろはちゃん、斬るって言葉がもう物騒」

 

 ポルカはいないが、もしこの場にいたら間違いなくそう突っ込んでいただろう。

 

 代わりにスバルが叫んだ。

 

「いやほんとにそう! 青たちは何も悪くない! 何も悪くないけど、距離は近い! この二つが同時に成立してるから面倒なんだよ!」

 

「スバルのまとめ、分かりやすいにぇ」

 

 みこが真顔で頷いた。

 

「つまり、青くんたちは悪くない。でもユウトとの距離は問題」

 

「そう」

 

 フブキが頷く。

 

「なので、今回の会議の目的は青くゆたちへの対処ではありません」

 

 ホワイトボードに新しい文字が書かれる。

 

『目的:ユウトへのアプローチ強化と、ライバー間の抜け駆け防止』

 

 会議室が、少しざわついた。

 

「抜け駆け防止」

 

 マリンが腕を組む。

 

「ついに来ましたね、この議題が」

 

「船長、嬉しそうに言わないでください」

 

 ノエルが苦笑する。

 

「だって団長、重要ですよ。ここを曖昧にすると大航海時代が始まります」

 

「何の海なの?」

 

 フレアが首を傾げる。

 

「恋の海です」

 

「沈没船だらけになりそう」

 

 トワがぼそっと言った。

 

 ココが腕を組み、低く笑った。

 

「要するに、みんなでルール作ろうぜってことだろ?」

 

「そういうことです」

 

 フブキが頷く。

 

「ユウトは今、かなり不安定な立場にいます。前世の記憶を完全に取り戻したわけではない。けれど、私たちとの関係を受け入れようとしている。さらに学校では青ちゃんたちとの日常がある」

 

 ミオが続ける。

 

「そこで私たちがそれぞれ勝手に動くと、ユウトが疲れちゃうかもしれない」

 

「通知爆撃とか」

 

 すいせいが言う。

 

 数人が目を逸らした。

 

「みこち」

 

「すいちゃんも送ってたにぇ!」

 

「私は節度ある追撃だった」

 

「追撃は追撃にぇ!」

 

「すいちゃん、みこちゃん、そこは後で反省会ね」

 

 そらが笑顔で言った。

 

 二人は同時に黙った。

 

 そらの笑顔は、時々とても強い。

 

「それで」

 

 ルイが手元の紙を整える。

 

「暫定的な協定案を作るということでいいんですか」

 

「名前は?」

 

 シオンが興味なさそうに見えて、わりと興味ありげに尋ねた。

 

「桜井ユウト保護及び恋愛的接近に関する暫定行動規範」

 

 こよりが即答した。

 

「長い」

 

 全員がほぼ同時に言った。

 

「じゃあ、ユウト包囲網」

 

 マリンが言う。

 

「それは本人に聞かれたら最悪でござる」

 

 いろはが真顔で止める。

 

「ユウトくん見守り協定?」

 

 わためが言う。

 

「柔らかいけど、実態をごまかしてる気がする」

 

 トワが言った。

 

 そこで、AZKiが静かに口を開いた。

 

「淑女協定、でいいんじゃないかな」

 

 会議室が静かになった。

 

「淑女協定」

 

 フブキが反復する。

 

「いいですね」

 

「淑女かどうかはさておき」

 

 スバルが言う。

 

「スバル?」

 

「いや、だってこの会議室の圧、淑女っていうより戦国大名会議――痛っ、誰か今足踏んだ!?」

 

「気のせいぺこ」

 

 ぺこらが前を向いたまま言った。

 

 フブキはホワイトボードに大きく書いた。

 

『暫定・淑女協定』

 

「では、内容を決めていきましょう」

 

     ◇

 

 その頃。

 

 当の桜井ユウトは、そんな大会議室の熱量など知る由もなく、スタジオフロア近くにある休憩室にいた。

 

 ライバーたちが収録の合間に使う、広めの休憩スペースだ。

 

 ソファ。

 

 自販機。

 

 簡易キッチン。

 

 ゲーム機。

 

 雑誌ラック。

 

 隅には、仮眠用のクッションまで置かれている。

 

 ユウトはその一角のテーブル席に座っていた。

 

 目の前には、一枚の紙。

 

 学校から配られた進路希望調査票。

 

 そこには、すでに文字が書かれていた。

 

『第一希望:ホロライブ事務所スタッフ兼マネージャー』

 

 ユウトは、それを前に腕を組んでいた。

 

「……」

 

 書いた。

 

 書いたのだ。

 

 勢いで書いたわけではない。

 

 何度も考えた。

 

 考えて、消そうとして、消せなくて、結局そのまま残している。

 

 でも、提出するとなると、急にその文字が重く見えてくる。

 

「そんなに睨んでも紙は逃げないよ」

 

 少し離れたソファで、獅白ぼたんがゲームコントローラーを握ったまま言った。

 

 画面の中では、銃火器を持ったキャラクターが無駄のない動きで敵を倒している。

 

「睨んでいるつもりはないんですけど」

 

「じゃあ圧をかけてる」

 

「紙に?」

 

「進路って、たまに敵より手ごわいからねぇ」

 

 ぼたんは軽く笑いながら、画面の敵をまた一体倒した。

 

 別のソファでは、尾丸ポルカが仰向け気味に座って、紙パック飲料を吸っている。

 

「進路希望調査かぁ。いいねぇ、青春だねぇ。ポルカの人生にもそういう紙があった気がする。たぶんサーカスのチラシと一緒にどっか行ったけど」

 

「失くさないでください」

 

「大丈夫大丈夫。人生の進路なんて、だいたい途中で曲がるから」

 

「それは励ましですか?」

 

「名言です」

 

「名言かな……」

 

 少し離れた畳スペースでは、百鬼あやめがクッションを抱えてくつろいでいた。

 

「やりたいなら、書けばいい余」

 

 あやめが目を閉じたまま言った。

 

 ユウトは顔を上げる。

 

「あやめさん、起きてたんですか」

 

「起きてる余。半分くらい」

 

「半分」

 

「半分でも聞こえる余」

 

 あやめは目を開け、ゆっくり身体を起こした。

 

「ユウトは、また難しく考えてる」

 

「……そう見えますか」

 

「見える余」

 

 ポルカが体を起こし、ユウトの紙を横から覗き込んだ。

 

「おおー。第一希望、ホロライブ事務所スタッフ兼マネージャー。なかなか凄いところ書くねぇ」

 

「やっぱり、変ですか」

 

「変ではない」

 

 ポルカは真顔で言った。

 

「ただし倍率が高い」

 

「採用の倍率ですか?」

 

「精神的倍率」

 

「精神的倍率」

 

「この職場、担当タレントからの愛が重い場合があります」

 

「……」

 

「今ちょっと思い当たる顔をしたね?」

 

「してません」

 

「したした。ポルカは見逃さない女」

 

 ぼたんがゲームを一時停止し、振り返った。

 

「でも、いいんじゃない?」

 

「ぼたんさん」

 

「ユウトがやりたいなら」

 

「僕が、やりたいのかどうかが……まだ少し分からなくて」

 

 ユウトは、進路希望調査票に目を落とした。

 

「前の僕が、そういう仕事をしていたらしいから。だからこの文字を書いたのかもしれない。ホロライブの皆さんが、僕にそういう姿を重ねているから、応えようとしているのかもしれない」

 

 胸ポケットの銀色の懐中時計が、静かに時を刻んでいる。

 

「これが、今の僕の希望なのか。前の僕をなぞろうとしているだけなのか、まだ分からないんです」

 

 休憩室が少しだけ静かになった。

 

 ポルカは紙パックを置き、ぼたんはコントローラーを膝に置いた。

 

 あやめは、ユウトをじっと見る。

 

「ユウト」

 

「はい」

 

「前の自分をなぞったら、今の自分ではなくなるの?」

 

 あやめの問いに、ユウトはすぐには答えられなかった。

 

「それは……」

 

「過去に好きだったものを、今も好きになることはある余。前に選んだ道を、今の自分がもう一度選ぶこともある」

 

 あやめは、ゆっくりと言う。

 

「大事なのは、それを誰のためだけに選ぶかじゃなくて、選んだ後に自分が歩けるかどうかではない?」

 

 ユウトは黙った。

 

 あやめの言葉は、ゆるく聞こえて、妙に深いところへ刺さった。

 

 ぼたんも頷く。

 

「誰かのためって理由でもいいと思うよ」

 

「いいんですか?」

 

「うん。ただし、自分が完全に空っぽになるならダメ」

 

 ぼたんは、少しだけ真面目な顔をする。

 

「ユウトの場合、すぐ自分を弾にしそうだからね」

 

「……そんなことは」

 

「ある」

 

 ぼたんは即答した。

 

 ポルカも頷く。

 

「あるねぇ。ユウトくん、自己犠牲の香りがするもん。こう、湿度高めの廊下で漂ってる感じ」

 

「どんな香りですか」

 

「ポルカレーダーに反応する香り」

 

「信用していいのか分からないレーダーですね」

 

「失礼な。ポルカレーダーは情緒不安定な時ほど精度が上がります」

 

「それはそれで不安です」

 

 ユウトは小さく笑った。

 

 その笑みを見て、ぼたんが少しだけ口元を緩める。

 

「まあ、第一希望に書くくらいならいいんじゃない? 提出した瞬間に人生確定ってわけじゃないし」

 

「そう、ですか」

 

「うん。ゲームで言うなら、今はキャラメイクの方向性を決めてるくらい」

 

「まだ序盤っぽいですね」

 

「でも初期ビルドは大事」

 

「急に重い」

 

「大丈夫。振り直しもある」

 

 ポルカが片手を上げる。

 

「人生、スキルツリーぐちゃぐちゃでも意外と何とかなる!」

 

「ポルカさんらしいですね」

 

「褒めてる?」

 

「たぶん」

 

「たぶんかぁ」

 

 ユウトはもう一度、進路希望調査票を見る。

 

 第一希望の欄。

 

 ホロライブ事務所スタッフ兼マネージャー。

 

 その文字は、まだ重い。

 

 けれど、さっきより少しだけ息苦しさが減っていた。

 

 ユウトはペンを持つ。

 

 第二希望の欄で少し迷った後、そこに小さく書いた。

 

『未定』

 

 そして、備考欄に短く書く。

 

『誰かの未来を支える仕事に興味があるため』

 

 書いてから、ユウトは少し照れたように目を逸らした。

 

「……変ですかね」

 

 ぼたんが画面を見たまま言う。

 

「いいんじゃない?」

 

 ポルカが大きく頷く。

 

「いいねぇ。青春ポイント高い」

 

 あやめも微笑んだ。

 

「よいと思う余」

 

 ユウトは、小さく息を吐いた。

 

「ありがとうございます」

 

 その時。

 

 遠くの方で、何かがどっと盛り上がるような気配がした。

 

 音としては聞こえない。

 

 けれど、何となく分かる。

 

 妙に強い圧。

 

 戦闘前の殺気とは違う。

 

 もっとこう、熱量が高くて、逃げ道が少ない気配。

 

 ユウトは思わず顔を上げた。

 

「……何か、すごい気配がしませんか?」

 

 ぼたんが画面を見たまま言った。

 

「会議室じゃない?」

 

「会議室?」

 

「うん。今日は大会議室で集まりがあるから」

 

「何の会議ですか?」

 

「さあ」

 

 ぼたんは笑った。

 

「ユウトにはまだ早い会議かな」

 

「僕に関係あるんですか?」

 

 ポルカが口笛を吹いた。

 

「さあー? ポルカ何も知らないなぁー?」

 

「その言い方は知ってる人の言い方です」

 

「ポルカ、知らないなぁー?」

 

 あやめは楽しそうに笑った。

 

「知らぬが花というやつだ余」

 

「……不安なんですけど」

 

「大丈夫大丈夫」

 

 ぼたんがゲームを再開する。

 

「たぶん今日のボス戦は、まだ始まってないから」

 

「ボス戦?」

 

「こっちの話」

 

 ユウトはますます不安になった。

 

     ◇

 

 一方、大会議室では。

 

 淑女協定の条文作りが、なかなかの混沌を迎えていた。

 

「第一条」

 

 フブキがホワイトボードに書く。

 

『ユウト本人の意思を最優先とする』

 

「これは絶対」

 

 そらが言う。

 

「うん」

 

 全員が頷いた。

 

 ここだけは、誰も異論がなかった。

 

 ユウトを大事にしたい。

 

 だからこそ、ユウトを追い詰めてはいけない。

 

 自分たちの感情をぶつけるだけでは、前世と同じことを繰り返してしまうかもしれない。

 

 それだけは、避けなければならない。

 

「第二条」

 

 ルイがメモを読み上げる。

 

『青ちゃん・奏ちゃん・ばんちょうに対して、不当な圧力、牽制、威圧、囲い込みを行わない』

 

「囲い込みはこっちがされてる側ぺこでは?」

 

 ぺこらが小声で言う。

 

「ぺこら」

 

 ミオが見た。

 

「はいぺこ」

 

「青ちゃんたちは悪くない」

 

「分かってるぺこ」

 

 ぺこらは耳を少し下げた。

 

「分かってるから、余計むずかしいぺこ」

 

 その言葉には、素直な感情があった。

 

 青たちが悪いわけではない。

 

 むしろ、今のユウトにとって大切な存在なのだろう。

 

 だから排除も牽制もできない。

 

 できないし、してはいけない。

 

 それでも、嫉妬は消えない。

 

「第三条」

 

 フブキが続ける。

 

『ユウトへの連絡は節度を持つ』

 

 会議室がざわついた。

 

「節度って何にぇ?」

 

 みこが首を傾げる。

 

「一日何通まで?」

 

 すいせいが真面目に考える。

 

「上限を決めるのはどうかなぁ」

 

 おかゆが言う。

 

「でも、決めないとみんな送るよ」

 

 ころねがにこにこ言った。

 

「ころさんも送るでしょ」

 

「送るよぉ?」

 

「正直」

 

 ミオがため息を吐く。

 

「ユウトが返信できない時は追撃しない。これくらいから始めようか」

 

「追撃禁止」

 

 フブキが書く。

 

 みこが小さく手を上げた。

 

「質問にぇ」

 

「どうぞ」

 

「追撃と応援メッセージの違いは?」

 

「受け取る側が圧を感じるかどうか」

 

「難しいにぇ……!」

 

「みこち、まず『返信まだかにぇ』は追撃」

 

「ぐぬぬ」

 

 すいせいがさらりと言うと、みこは机に突っ伏した。

 

「第四条」

 

 こよりが勢いよく手を上げる。

 

『ユウトくんの現在の生活環境に関する情報共有を――』

 

「こより」

 

 ルイが止める。

 

「監視みたいな言い方はしない」

 

「では、生活接点把握?」

 

「もっとダメ」

 

「現状理解?」

 

「それならギリギリ」

 

 フブキが書き直す。

 

『ユウトの現在の生活を尊重し、必要な範囲で情報共有する』

 

「必要な範囲って何ぺこ?」

 

「ユウトが困っている時、危険がある時、明らかに無理をしている時」

 

 ミオが答える。

 

「プリクラは?」

 

 あくあが小さく言った。

 

「危険ではないかな」

 

 そらが優しく言う。

 

「腕を引っ張られるのは?」

 

 るしあが言った。

 

「それも、本人が嫌がっていないなら危険ではない……かな」

 

 フレアが慎重に答える。

 

「クレープのクリームを拭いてあげるのは?」

 

 ころねが言った。

 

 会議室が凍った。

 

「何それ」

 

 すいせいがころねを見る。

 

「見たの?」

 

「ちょっとだけ」

 

「ころさん、いつ」

 

「別れた後、ちょっとだけ遠くから見えたよぉ」

 

「それは危険です」

 

 あくあが即答した。

 

「危険度高いです」

 

「いや待て待て待て!」

 

 スバルが立ち上がる。

 

「クリーム拭いただけだろ!?」

 

「スバル」

 

 マリンが重々しく言った。

 

「恋愛戦線において、口元クリーム拭きは上位イベントです」

 

「何の攻略本読んでんだよ!」

 

「人生です」

 

「人生にそんなチャートあるの!?」

 

 ノエルが少し頬を赤くして言う。

 

「で、でも確かに、距離は近いかもしれませんね……」

 

「団長まで!?」

 

「口元は近いですから……」

 

 かなたが机に両手をつく。

 

「握力でクレープを粉砕しそう」

 

「かなたん、落ち着いて」

 

 トワが肩を押さえる。

 

「粉砕するのはクレープじゃなくて気持ちだけにして」

 

「それもだいぶ危ないよ、トワちゃん」

 

 わためが苦笑する。

 

 フブキは額に手を当てた。

 

「ころね、そういう重要情報は早めに出してください」

 

「ごめんねぇ」

 

 ころねは笑っている。

 

 笑っているが、少しだけ目が細い。

 

「でも、ユウトくん、自然にやってた」

 

「自然に」

 

 るしあの声がまた低くなる。

 

「自然に、女の子の頬を」

 

「るしあちゃん、深呼吸」

 

 フレアが優しく背中を撫でる。

 

 そらが両手を合わせた。

 

「みんな、落ち着こう。ユウトくんはたぶん、そういう意味でやってないよ」

 

「そこが問題なんです!」

 

 マリン、まつり、あくあ、みこが同時に叫んだ。

 

 そして、お互いを見て気まずそうに黙った。

 

「……一致団結してるにぇ」

 

「嫌な団結ですね」

 

 シオンが呟いた。

 

「第五条」

 

 ルイがやや強引に進行する。

 

『ユウトに対するアプローチは、本人の負担にならない形で強化する』

 

「強化はするんですね」

 

 ねねが言った。

 

「する」

 

 すいせいが即答した。

 

「しない理由がない」

 

「すいせい先輩、強い」

 

 ねねが感心したように頷く。

 

「具体的には?」

 

 ラミィが尋ねる。

 

「まず、事務所に来た時にちゃんと話す時間を作る」

 

 ミオが言う。

 

「偶然を装った待ち伏せは?」

 

「禁止寄り」

 

「偶然なら?」

 

「偶然を作りに行くのは禁止」

 

「ミオしゃ、言葉が強い!」

 

 スバルが叫ぶ。

 

 フブキは淡々と書く。

 

『偶然を作らない』

 

 ぺこらが耳をぺたんと下げた。

 

「ぺこら、もう何も言えないぺこ」

 

「言えないくらいでちょうどいいかも」

 

 おかゆが笑った。

 

「おかゆも現地にいたぺこ!」

 

「偶然だよぉ」

 

「まだ言うぺこか!?」

 

 そらが静かに言った。

 

「でも、アプローチって言っても、焦らない方がいいと思う」

 

 会議室がそらを見る。

 

「ユウトくんは、やっと私たちと向き合うって決めてくれたところだから。あんまり一気に進めようとすると、また自分を後回しにしちゃうかもしれない」

 

 その言葉に、全員が黙った。

 

 ユウトは優しい。

 

 優しすぎる。

 

 そして、自分を最後に回す癖がある。

 

 自分がどうしたいかより、相手が何を望んでいるかを優先してしまう。

 

 それを知っているからこそ、全員が言葉を失った。

 

「だから」

 

 そらは続ける。

 

「私たちの気持ちは大事。でも、ユウトくんがちゃんと自分の気持ちで選べるようにしないと」

 

「……そうだね」

 

 すいせいが頷いた。

 

「そこは、ちゃんとしないと」

 

 ココが腕を組んだまま笑う。

 

「ま、つまり全員で押すけど潰すなってことだな」

 

「ココちゃんのまとめ方は雑だけど合ってる」

 

 トワが言った。

 

「第六条」

 

 フブキが書く。

 

『抜け駆け禁止』

 

 会議室の空気が、一瞬で変わった。

 

「来た」

 

 マリンが呟く。

 

「これが本丸」

 

「抜け駆けの定義は?」

 

 シオンが言う。

 

「二人きりで食事は?」

 

「状況による」

 

「プリクラは?」

 

「事前申告」

 

「プリクラ事前申告制って何!?」

 

 スバルが頭を抱えた。

 

「じゃあ、ユウトくんと二人で配信の相談をするのは?」

 

 AZKiが尋ねる。

 

「仕事なら可」

 

「仕事を理由に私情を混ぜるのは?」

 

 ルーナが小さく言う。

 

「んなっ……それは難しいのら」

 

「難しいのは姫様が言った側では?」

 

 かなたが突っ込む。

 

「ユウトとお茶するのは?」

 

 まつりが尋ねる。

 

「事前共有」

 

「散歩は?」

 

「事前共有」

 

「買い物は?」

 

「事前共有」

 

「じゃあ、偶然会った場合は?」

 

 ぺこらが言う。

 

 全員がぺこらを見た。

 

「何ぺこ、その目は」

 

「偶然」

 

 すいせいが言う。

 

「偶然」

 

 おかゆが言う。

 

「偶然」

 

 ころねが言う。

 

「偶然」

 

 ぺこらは視線を逸らした。

 

「……偶然の扱いは慎重に」

 

 ルイがまとめた。

 

 フブキが書く。

 

『偶然を主張する場合、後日報告すること』

 

「もう裁判みたいになってるぺこ」

 

「恋のコンプライアンスぅ」

 

 ココが笑う。

 

「笑いごとじゃないですけど、笑わないとやってられませんね」

 

 フレアが苦笑する。

 

「第七条」

 

 いろはが手を上げる。

 

「ユウト殿が助けを求めた場合、全ての競争を一時停止し、全員で支える。これは入れてほしいでござる」

 

 その言葉には、誰も異論を挟まなかった。

 

 フブキが丁寧に書く。

 

『ユウトが困っている時は、競争より支援を優先する』

 

 会議室が静かになる。

 

 それは、この会議で最も大切な条文だった。

 

 恋。

 

 嫉妬。

 

 独占欲。

 

 焦り。

 

 それらは確かにある。

 

 隠せないほどある。

 

 けれど、それ以上に。

 

 彼を失いたくない。

 

 彼に、今度こそ笑っていてほしい。

 

 その思いだけは、全員に共通していた。

 

「……うん」

 

 そらが微笑んだ。

 

「これなら、いいと思う」

 

 ミオも頷く。

 

「淑女協定、暫定版としては十分かな」

 

「ただし」

 

 すいせいが指を立てる。

 

「ホロライブプリクラ会は別途開催します」

 

「そこは諦めてなかったにぇ」

 

「諦める理由がない」

 

 ころねがにこにこ頷く。

 

「ユウトくん、約束したもんねぇ」

 

「証人いるもんねぇ」

 

 おかゆも笑う。

 

「ぺこらも聞いたぺこ」

 

「みこも撮るにぇ!」

 

「あくあも……撮りたいです」

 

「るしあも撮る」

 

「船長も当然参加です」

 

「スバルも? いや、え、これ全員で撮るのか!? 筐体壊れない!?」

 

「そこは魔導技術で何とかするにぇ」

 

「何ともならねえよ!」

 

 また会議室が騒がしくなる。

 

 しかし、さっきまでの刺すような空気とは少し違っていた。

 

 青たちに対する嫉妬は消えていない。

 

 ユウトとの距離感への危機感も消えていない。

 

 だが、ひとまず方向性は決まった。

 

 青たちには手を出さない。

 

 彼女たちの今を尊重する。

 

 そのうえで、自分たちもユウトとの時間を増やす。

 

 そして、ライバー同士の抜け駆けは防ぐ。

 

 暫定的な淑女協定。

 

 それは、恋する乙女たちが暴走しないためのブレーキであり。

 

 同時に、全員で少しずつアクセルを踏むための合図でもあった。

 

「では」

 

 フブキがホワイトボードを振り返る。

 

「暫定・淑女協定、採択でよろしいですか?」

 

 全員が、それぞれの形で頷いた。

 

「異議なし」

 

「異議なしにぇ」

 

「異議なしぺこ」

 

「異議なしです」

 

「異議なーし」

 

「異議なしでござる」

 

「異議なし余……って、あやめいないじゃん」

 

 スバルが思わず突っ込んだ。

 

 誰かが真似したらしい。

 

「まあ、あやめちゃんもたぶん異議なしということで」

 

 ミオが苦笑する。

 

 その時、会議室の扉が軽くノックされた。

 

 全員が一斉に振り返る。

 

 ドアが開き、Aちゃんが顔を出した。

 

「皆さん、そろそろ次の収録に移動する方はお願いします。あと、会議室の使用時間が延長されていますけど、議題は終わりましたか?」

 

 会議室内の面々は、なぜか一斉に姿勢を正した。

 

 フブキが咳払いをする。

 

「はい。とても有意義な会議でした」

 

「そうですか」

 

 Aちゃんはホワイトボードを見た。

 

『暫定・淑女協定』

 

『抜け駆け禁止』

 

『偶然を作らない』

 

『プリクラ事前申告』

 

 Aちゃんは数秒黙った。

 

 そして、何も聞かなかったことにした。

 

「……ユウトくん、今休憩室にいますよ」

 

 その一言で、会議室の空気がまた変わった。

 

 すいせいの目が動く。

 

 みこの耳がぴくっと動く。

 

 あくあが小さく息を呑む。

 

 るしあの指がぴくりと動く。

 

 ころねがにこにこ笑う。

 

 おかゆがのんびり立ち上がる。

 

「皆さん」

 

 ミオがすかさず言った。

 

「淑女協定、第一条」

 

 フブキが続ける。

 

「ユウト本人の意思を最優先」

 

 そらが微笑む。

 

「ゆっくりね」

 

「……はい」

 

 全員が答えた。

 

 だが、その返事には、どこか遠足前の子どものような浮つきが混じっていた。

 

     ◇

 

 休憩室。

 

 ユウトは進路希望調査票をクリアファイルにしまっていた。

 

 第一希望は、消さなかった。

 

 ホロライブ事務所スタッフ兼マネージャー。

 

 その文字が本当に自分の願いなのかは、まだ分からない。

 

 それでも、提出してみようと思った。

 

 今はまだ、それでいい気がした。

 

 ユウトがファイルを鞄に入れた瞬間、廊下の向こうから複数の足音が聞こえてきた。

 

 普通の足音ではない。

 

 なぜか整っている。

 

 なぜか勢いがある。

 

 なぜか、見えない圧がある。

 

 ユウトの身体が、無意識に反応した。

 

 危険察知。

 

 戦闘勘。

 

 ゼロノスとして刻まれた身体の記憶。

 

 だが、感じるのは殺気ではない。

 

 もっと別の、逃げ道の少ない何か。

 

「……ぼたんさん」

 

「んー?」

 

「何か来てませんか」

 

「来てるねぇ」

 

 ぼたんはゲーム画面を見たまま答えた。

 

「敵ですか」

 

「敵じゃないよ」

 

 ポルカが笑う。

 

「味方だよ。とても強い味方」

 

「強い味方」

 

「そして圧がある味方」

 

「それは味方なんですか?」

 

 あやめがくすくす笑う。

 

「ユウト、逃げるなら今だ余」

 

「え」

 

「冗談だ余」

 

「今の間、冗談じゃなかった気がします」

 

 休憩室の扉が開いた。

 

 そこには、すいせいがいた。

 

 その後ろに、みこ、おかゆ、ころね、そら、フブキ、ミオ、あくあ、ぺこら、るしあ、マリン、その他数名。

 

 明らかに人数が多い。

 

 明らかに、ただ休憩に来た雰囲気ではない。

 

「ユウト」

 

 すいせいが言う。

 

「はい」

 

「今、時間ある?」

 

 ユウトは、思わずぼたんを見た。

 

 ぼたんは画面を見たまま、楽しそうに笑っている。

 

 ポルカは親指を立てた。

 

 あやめは、クッションを抱えたままにこにこしていた。

 

 誰も助ける気がない。

 

 ユウトはゆっくりと息を吐いた。

 

「……少しなら」

 

 その瞬間。

 

 ホロライブの少女たちの表情が、ぱっと明るくなった。

 

 それは、あまりにも分かりやすくて。

 

 少しだけ重くて。

 

 けれど、確かに温かかった。

 

「じゃあ」

 

 そらが優しく言う。

 

「少しだけ、お話ししよっか」

 

 ユウトは頷いた。

 

 その胸ポケットで、銀色の懐中時計が小さく時を刻む。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 過去を覚えている者たち。

 

 今を掴む者たち。

 

 その間で、ユウトはまた一つ、新しい時間の中へ足を踏み入れようとしていた。

 

 そして彼は、まだ知らない。

 

 たった今、自分を巡る恋と嫉妬と節度のための協定が、正式に採択されたことを。

 

 淑女協定。

 

 それは一見、ブレーキのようで。

 

 実のところ、ホロライブ全体によるアプローチ強化作戦の発車ベルでもあった。

 

 次の列車は、もうホームに入っている。

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