hololive Lost Story 作:ダニエルズプラン
重々しく開かれた鉄門の向こう側は、外とは完全に隔絶された、冷徹な静寂の空間だった。
壁面に等間隔に配置された灯りが、青白い光で湿った岩肌を照らし出している。空気はひんやりと冷たく、微かに獣の残臭と苔の匂いが混ざり合っていた。
「ここからは訓練区域だ。班ごとの隊列を絶対に崩すな。我々聖騎士団の団員が先頭と最後尾を固めるが、油断すれば怪我だけでは済まないぞ」
先導する白銀聖騎士団の騎士が、甲冑を小さく鳴らしながら警告を発した。
僕たち生徒は、支給された軽装の防具を身に纏い、緊張で強張った面持ちで後に続く。
数分も歩かないうちに、迷宮の奥から粘質な足音が聞こえてきた。現れたのは、この世界のダンジョンにおける最も基本的な魔物――半透明の身体を蠢かせるスライムや、鋭い牙を持つ小型の魔獣の群れだった。
「よし、第一班、前へ! 習った通りの構えで、落ち着いて対処しろ!」
騎士の鋭い号令とともに、訓練が本格的に始まった。
生徒たちは次々と前に出され、それぞれの得物を手に魔物へと挑んでいく。獣人の少年がその卓越した身体能力で槍を突き出し、エルフの少女が魔導弓から放たれた光の矢でスライムを射抜く。聖騎士団の手厚い支援と確実な船頭があるため、戦況は極めて順調だった。
けれど、僕の視線は彼らの華麗な戦いには向いていなかった。
背中に背負った、あの無骨な鉄の塊——一メートルを超える大剣の重量が、ずっしりと僕の背骨を通じて全身にのしかかっていたからだ。
「次、桜井ユウト! 前に出ろ!」
教官の騎士に名前を呼ばれ、僕の心臓が大きく跳ねた。
胸ポケットの奥で、懐中時計がチチチチと、まるで僕の背中を押すように激しく駆動音を立てる。
「……よし」
僕は深く息を吐き出し、一歩前へと踏み出した。背中のホルダーから、一切の装飾のない鈍色の鉄塊を引き抜く。
その瞬間、目の前の暗闇から、大人の狼ほどもある獰猛な小型魔獣が、低い唸り声を上げながら僕を睨み据えた。
最初の数歩、僕は自分の選択を呪いそうになった。
構えた大剣は、やはり圧倒的に重かった。静止した状態で保持するのとは違い、実戦の動きの中で振り回すとなると、遠心力と重量に僕の華奢な肉体が振り回されそうになる。
ガルルッ! と、魔獣が地を蹴って僕の喉元へと跳びかかってきた。
「危ない、ユウト! 避けろ!」
後ろから友達の悲鳴のような声が聞こえる。
大剣をただ力任せに振り上げようとしても、肉体が鋼の重さに追いつかない。力のない僕の腕は悲鳴を上げ、刀身は無様に地面を擦った。
――けれど。魔獣の鋭い爪が僕の顔面に届く、まさにその直前だった。
チチチチチチッ! と、胸ポケットの時計が、耳鳴りのような速度で激しく拍動した。
その瞬間、僕の脳の思考よりも早く、僕の『肉体』が完全に勝手に動き出した。
「……っ!」
僕は大剣を強引に持ち上げるのをやめ、逆にその自重を利用して、刀身を地面に滑らせるように身体を深く沈み込ませた。
僕が元いた空間を、魔獣の鋭い爪が空しく通り抜けていく。
避けた、のではない。肉体が「次の動き」のために、最も効率の良い重心へと勝手に移動したのだ。
着地し、体勢を崩した魔獣の隙を、僕の身体は見逃さなかった。
力がないなら、腕力で振るわなければいい。
大剣の持つ圧倒的な質量。それを遠心力とテコの原理、そして足腰の重心移動だけでコントロールする――。
脳の記憶にはない、けれど僕の細胞に完全に焼き付いている、狂気的なまでに洗練された剣技が、一気に覚醒した。
キィン、と鋼が鳴る。
僕は両腕の力を抜き、大剣の柄を支点にするようにして、下半身の捻りだけで鉄塊を横一文字に薙ぎ払った。
腕の力は最低限。なのに、大剣は凄まじい速度の円運動を描き、突進の慣性が残っていた魔獣の胴体を真っ向から叩き潰した。
「ガハッ……!?」
魔獣は一撃で弾き飛ばされ、壁面の岩肌に激突して霧のように消滅した。
「な……んだ、あいつの身のこなし……」
先導していた聖騎士団の騎士の目が、驚愕に変わった。
今の一撃は、ただ大剣の重さに振り回されたビギナーの奇跡ではない。大剣という武器の特性を完璧に理解し、最小の筋力で最大の破壊力を生み出す、熟練の戦士だけが到達できる技の極致だったからだ。
一度動き出した肉体の奔流は、もう誰にも止められなかった。
次々と現れる魔物を前に、僕は大剣を振るい続けた。
最初は難儀していたはずの重さが、戦うたびに、まるで僕の身体の一部になるように馴染んでいく。
一歩踏み込み、大剣の重さを乗せて叩き斬る。敵の攻撃を分厚い刀身で真っ向から受け止め、その衝撃を受け流しながら、即座に斬り返す。
無駄な動きが、一つひとつ削ぎ落とされていく。
僕の容姿は、霧に包まれた記憶にある、どこか憂いを帯びた、戦闘にはおよそ向いていないように見える物静かな容姿のままだ。その細い身体で、己の身の丈ほどもある大剣を、まるで羽毛のように軽々と操る姿は、薄暗いダンジョンの中で異様なまでの存在感を放っていることだろう。
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訓練もいよいよ最終局面を迎えた頃、目的の最深部近くの広場で、このエリアのボスとも言える、一回り大きな上位魔獣が姿を現した。
岩のような皮膚を持つその怪異は、雄叫びを上げながら、生徒たちの隊列へと突進してくる。
「全員下がれ! これは訓練生の手に負える相手ではない、我々が――」
騎士が前に出ようとした、その瞬間。
誰よりも早く、地を蹴って飛び出した影があった。
「……僕が、やります」
自分でも驚くほど冷徹な声が、僕の喉から漏れていた。
胸の時計は、今や僕の心臓と完全に同期し、熱い波動を全身へと送り込んでいる。僕の肉体は、限界を超えて研ぎ澄まされていた。
自分を制止する騎士団員やクラスメイト達の声を無視し、突進してくる岩の魔獣に対して僕は正面から駆け出す。
魔獣が巨大な前足を振り下ろす。それを僕は大剣を斜めに滑らせることで受け流し、火花を散らしながら懐へと潜り込んだ。
そして――。
肉体が、最後の一歩を命じた。
「ウオォォォォッ!!」
僕は、左手を大剣の柄から離した。
周囲の騎士たちが「バカか!?」と絶望の悲鳴を上げる。両手でも扱いきれない大剣を、片手にするなど自殺行為だと。
けれど、違った。
大剣を逆手に取るようにして、遠心力を極限まで溜め込んだその瞬間、僕は右手一本だけで、その巨大な鉄塊を完全に保持したのだ。
限定的。ほんの一瞬の、肉体の奇跡。
だが、僕の右手は大剣の重さに微塵も負けることなく、完璧な固定軸を作り出していた。
咆哮とともに、右手一本で振り抜かれた大剣が、凄まじい風切り音を立てて魔獣の首元へと炸裂した。
ギチ、と岩の皮膚が裂ける音が響き、次の瞬間、大剣の圧倒的な質量と勢いをそのままに振り抜かれ、上位魔獣の巨体は真っ二つに両断され、光の粒子となって爆散した。
静寂が、広場を支配した。
ユウトは、右手で持った大剣の切っ先をゆっくりと床へ下ろし、荒い息を整えた。
これで、すべてのダンジョン訓練は終了だった。
「す、げえ……。おい、見たかよ今の……」
「ユウト、お前本当に人間かよ!? 片手であの大剣を……!」
クラスメイトたちが、割れんばかりの歓声を上げながら僕の元へと駆け寄ってくる。先導していた騎士たちも畏敬の念を隠せない表情で、僕のその見事な戦いぶりに拍手を送っていた。
けれど。友達に肩を叩かれ、賞賛の嵐の中に身を置きながらも、僕の心の中にあったのは、深い、深い落胆だけだった。
(……何も、思い出せなかった)
大剣を背中のホルダーへと戻しながら、僕は自分の手のひらを見つめた。
確かに戦闘に関する圧倒的な技術と、身体の動かし方は得られた。肉体が戦いを覚えていた。
だけど。
僕が本当に求めていた、霧の向こうにある「過去」に関する記憶。自分がかつて誰のために生きていたのか、あの少女たちとどんな関係だったのかという一番重要なピースは、何一つとして僕の脳裏に戻ってはこなかった。
得られたのは、ただ戦うための技術という、空っぽの器だけ。
僕は、胸ポケットの時計が静かに奏でるチ、チ、チ、という音を聴きながら、ただ一人、深い孤独の闇へと再び沈んでいくのを感じていた。
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すべての行程を終え、ユウトたちを乗せた魔導飛行船は、夕暮れに染まるホロアースの空を静かに飛行していた。
船内は、無事に初ダンジョンを攻略し終えた生徒たちの、安堵と興奮の入り混じったお祭り騒ぎのような空気で満ちていた。あちこちで、自分がどれだけ活躍したか、魔物がどれだけ怖かったかという話で盛り上がっている。
「いやー、でも今日のMVPは完全にユウトだろ! あの大剣を片手でブン振った瞬間、マジでどこの英雄かと思ったぜ!」
隣の席で、犬耳の少年が自分のことのように嬉しそうに騒いでいる。ユウトはそれに「たまたま重心が上手くハマっただけだよ」と、いつも通りの気のない苦笑を返して、窓の外を眺めていた。
夕日が浮遊大陸の端を真っ赤に染め上げ、雲海を黄金色に輝かせている。その美しささえも、今のユウトの胸の空白を埋めてはくれない。
そんな喧騒の中、ユウトの席の斜め前に座っていた一人の女子生徒が、自分のスマートフォンをいじりながら、楽しそうに声を上げた。
「ねえねえ、今日の訓練の様子、私後ろから動画で撮ってたんだよね! 桜井くんの大剣のシーン、めちゃくちゃ綺麗に映ってるから、これ、ホロネットにアップしちゃおーっと!」
「お、マジ? 見せて見せて! 『白銀聖騎士団のダンジョンに行ってきた!』ってハッシュタグつければ、結構いいね貰えるんじゃない?」
「あはは、確かに! 『うちのクラスの地味メンが覚醒した件』ってタイトルにしよ!」
女子生徒の指先が、端末の画面を軽快にタップしていく。
動画がアップロードされ、ホロアース中に張り巡らされた広大なインターネットの海へと、一筋のデータが放たれた。
本来であれば、それは本当に、無数に存在する一般人の投稿の一つに過ぎなかった。
毎日、何百万、何千万と投稿される、学生たちの日常の記録。特別な加工もされていないその動画は、瞬く間に情報の波に揉まれ、誰の目にも留まることなく、数時間後にはタイムラインの底へと沈んで消え去るはずの、泡沫の記録。
――しかし。因果の糸は、ユウトの知らないところで、すでに音を立てて絡み合い始めていた。
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同じ時刻。
夕日に照らされる、白銀聖騎士団の重厚な総本部・団長執務室。
部屋の中には、厳かな沈黙が流れていた。壁には数々の勲章と、歴代の戦いの記録が飾られ、中央の立派なマホガニーのデスクには、山積みにされた報告書が並んでいる。
そのデスクの前に置かれた椅子に、一人の女性が腰掛けていた。
洗練された黒の胸当て。豊かで美しい灰色の髪。そして、見る者を包み込むような優しさと、戦士としての圧倒的な強さを同時に宿した、気高き瞳。
【ホロライブ】3期生であり、この聖騎士団の頂点に立つ団長――白銀ノエルだった。
「ふぅ~~」
ノエルは、ペンを置き、そっと自分の眉間を押さえた。
今日も、王都周辺の防衛任務と、騎士団の運営に関する書類仕事で、彼女の身体は疲弊していた。けれど、彼女の心を本当に疲弊させているのは、肉体的な労働ではなかった。
このホロアースの世界に転生し、すべての記憶を取り戻したあの日から。
彼女たち3期生、そしてホロライブの全員は、ずーっと、一人の男を探し続けている。
自分たちのために存在を抹消し、誰の記憶からも消え去ってしまった、あの不器用で、誰よりも優しかったマネージャー。
桜井ユウトの姿を。
どれだけ探しても、世界には戸籍一つ残っていない。手掛かりは何もない。
それでも彼女たちは、自分たちが最前線で輝き続ければ、いつか彼が見つけてくれると信じて、戦い続けていた。それは、終わりなき祈りのような日々だった。
「息抜きに、今日の訓練用ダンジョンの様子でもチェックしようかな。団員さんたちは頑張ってくれたかな~?」
ノエルは、手元のスマートフォンを手に取った。
何気なく開いたのは、ありふれた日常を投稿するSNSのタイムライン。普段なら、ファンからの応援コメントをチェックするためのものだ。彼女は無意識のうちに、自分が管理している直轄のダンジョンの状況を確認するため、『#白銀聖騎士団』『#訓練ダンジョン』というハッシュタグを検索欄に入力した。
画面には、今日訓練に訪れた様々な学校の生徒たちの、楽しそうな写真や動画がずらりと並ぶ。
「みんな、怪我もなく無事に終わったみたいでよかった」と、ノエルが優しい微笑みを浮かべながら画面をスクロールさせていた、その時だった。
一つの、再生回数も数十程度の一介の女子生徒の投稿が、彼女の視界に入った。
添付されていたのは、たった十数秒足らずの動画。
それを見たノエルの指先がピタリ、と凍りついたように止まった。
動画のタイトルは『うちのクラスの地味メンが覚醒した件』。
再生された画面の中で、一人の人間の少年が、身の丈ほどもある無骨な大剣を構えていた。
腰を深く落とし、右脇へと構える、独特な、けれど完璧な戦闘の構え。
そして――魔獣の懐へ入るため身体を滑らせた、その少年の顔が、ダンジョンの灯りに照らされて、画面に大きく映し出された。
「……え?」
ノエルの喉から、掠れた声が漏れた。
心臓が、痛いくらいに激しくドクンと脈打つ。
彼女の美しい瞳が、驚愕と、歓喜と、そして溢れ出しそうな涙で、急激に潤んでいく。
見間違うはずがなかった。
写真データはすべて消え、記録も改変された。けれど、自分たちの魂に、あの忘却の地獄の果てに血を吐くような思いで刻み込んだあの愛しい人の容姿。
憂いを帯びた瞳、細いけれど芯のある佇まい。画面の中で大剣を振るっているその少年の顔は――彼女たちが何年も、何年も探し続けていた、あの桜井ユウトその人の容姿だった。
数年間、どこを探しても見つからなかった、自分たちの命の恩人。自分たちの
「あ……、あ、ああ……っ!」
ノエルは端末を握りしめ、椅子から立ち上がった。その衝撃でデスクの書類が床へと散らばるが、彼女の視線は画面から微塵も外れなかった。
動画の最後、少年は右手一本で大剣を保持し、魔獣を両断していた。その圧倒的な戦闘スタイル、その容姿。
「見つけた……。ついに、見つけた……っ、ユウトさん……!!」
白銀ノエルの瞳から、大粒の涙がボロボロとデスクへと零れ落ちた。
場所を変え、ユウトは思い出すことができない失意のまま、空っぽの胸を抱えて高校からの家路についていた。
しかしその背後で、失われたはずの因果の歯車が、今、凄まじい音を立てて再び噛み合い、時計の針が動き始めようとしていた。