hololive Lost Story 作:ダニエルズプラン
その日の昼休み。
桜井ユウトは、いつもの屋上にはいなかった。
普段ならば、昼食を持って屋上へ向かう。
そこは風が通る。
人が少ない。
空が広い。
銀色の懐中時計の音も、教室より少しだけよく聞こえる気がする。
だからユウトは、何となく屋上へ行くことが多かった。
けれど、その日の昼休み。
彼が座っていたのは、屋上のベンチではなく、職員室の来客用椅子だった。
目の前には、長机。
その向こうには、担任教師。
隣には進路指導担当の教師。
さらに少し離れた場所から、ほかの教師たちもちらちらとこちらを見ている。
明らかに、普通の進路相談ではなかった。
「桜井」
担任教師が、手元の紙を見下ろしながら言った。
その紙は、今朝ユウトが提出した進路希望調査票だった。
「これは、本気で書いたんだな?」
「はい」
ユウトは、背筋を伸ばして答えた。
声は落ち着いていた。
ただし、手は少しだけ膝の上で固く握られている。
進路希望調査票。
第一希望の欄。
『ホロライブ事務所スタッフ兼マネージャー』
その文字は、朝の教室に続いて、職員室にも激震をもたらしていた。
◇
時間は少し戻る。
ホームルーム後。
担任教師は、回収した進路希望調査票を軽く確認しながら職員室へ戻った。
いつもの作業だった。
進学希望。
専門学校希望。
冒険者育成機関希望。
技術系企業希望。
家業継承。
未定。
高校生の進路希望調査票には、毎年いろいろな文字が並ぶ。
真剣なものもある。
とりあえず書いたものもある。
夢が大きすぎて、後で面談が必要になりそうなものもある。
担任教師は、それらを一枚ずつ確認しながら、必要な生徒の名前に印をつけていった。
そして。
桜井ユウトの紙を見た瞬間。
手が止まった。
『第一希望:ホロライブ事務所スタッフ兼マネージャー』
「……」
担任教師は、一度まばたきをした。
もう一度見た。
文字は変わらなかった。
さらにもう一度見た。
やはり変わらなかった。
「……え?」
思わず声が漏れた。
近くにいた進路指導担当の教師が、顔を上げる。
「どうしました?」
「いや、桜井の進路希望なんですが」
「桜井くん?」
進路指導教師は、担任の手元を覗き込んだ。
そして、同じように固まった。
「……ホロライブ?」
「はい」
「スタッフ兼マネージャー?」
「はい」
「桜井くんが?」
「はい」
二人はしばらく黙った。
それから、進路指導教師が眼鏡を外して、眉間を揉んだ。
「これは……」
「どう見ます?」
「まず、ふざけて書いたとは考えにくいですね」
「ですよね」
「桜井くんは、そういうことをする生徒ではありません」
「ですよね」
担任教師も頷く。
ユウトは、目立ちたがる生徒ではない。
むしろ目立つことを避ける。
成績は悪くない。
戦闘訓練でも異様に優秀。
態度も真面目。
ただ、進路についてだけはどこか曖昧だった。
何を聞いても、少し遠くを見るような顔をする。
自分がどこへ向かいたいのか分からない。
そんな空気を、教師たちも感じ取っていた。
だからこそ、今回こうして明確な第一希望を書いてきたこと自体は、前向きな変化のはずだった。
問題は。
その第一希望が、あまりにも大きすぎることだった。
「ホロライブのスタッフか……」
別の教師が、横から紙を覗き込む。
「しかもマネージャー?」
「募集しているんですか、そもそも」
「極稀に求人が出ることはあるはずですが、詳しい採用基準なんて一般には分かりませんよ」
「普通の高校生が進路希望で書いて、そのまま入れるような場所ではないでしょう」
「いや、桜井なら戦闘力は申し分ないが……」
「だからこそ心配なんです」
進路指導教師が、静かに言った。
職員室の空気が少し変わる。
「ホロライブの活動には、ダンジョン配信や危険区域での収録もあります。タレント本人の戦闘能力が高いとはいえ、現場を支えるスタッフにも相応の判断力と危機対応能力が求められる」
「桜井くんの場合、同行要員として期待される可能性もある、ということですか」
「十分にあります」
担任教師は、進路希望調査票を見つめた。
桜井ユウト。
普段は静かで、丁寧で、少し距離を取る生徒。
だが、模擬戦やダンジョン訓練では別人のような反応を見せる。
武器を持った時の姿勢。
危機察知。
剣を振るう判断の速さ。
あれは、ただの学生のものではない。
教師としては頼もしい。
だが、同時に危うい。
高い能力は、危険な場所へ向かう理由にされることがある。
本人が断れない性格なら、なおさら。
「昼休みに呼びましょう」
担任教師は言った。
「本人の意思を確認します」
「ええ」
進路指導教師も頷いた。
「ただし、頭ごなしに否定はしない方向で」
「もちろんです」
担任教師は、進路希望調査票を丁寧にファイルへ入れた。
「桜井が、初めてちゃんと前を向いて書いた進路かもしれませんから」
◇
そして現在。
昼休みの職員室。
ユウトは、担任教師と進路指導教師の前に座っていた。
「まず確認したい」
担任教師が言う。
「この進路希望は、誰かに言われて書いたものか?」
「いいえ」
ユウトは首を横に振った。
「自分で考えて書きました」
「ホロライブ側から、強く勧められたわけではない?」
「強く、というわけではありません」
「では、何かきっかけがあったのか?」
ユウトは、少しだけ黙った。
どこまで話すか。
朝、友人たちに話した時と同じ迷いが胸をよぎる。
全部は話せない。
ゼロノスのことも。
前世のことも。
記憶のことも。
だが、ここで何も話さないままでは、教師たちの心配は消えない。
ユウトは、膝の上で手を握り直した。
「ホロライブの代表である、谷郷元昭さんから」
その名前を出した瞬間。
職員室の空気が止まった。
「……谷郷、さん?」
担任教師が聞き返す。
「はい」
「ホロライブの代表の?」
「はい」
「本人から?」
「はい」
進路指導教師が眼鏡を軽く押さえた。
「少し待ってください。桜井くん、君は谷郷代表と直接会ったことがあるのですか?」
「あります」
近くで聞き耳を立てていた教師の一人が、持っていた湯呑みを危うく落としかけた。
「直接……」
「会った……」
「谷郷代表と……」
職員室のあちこちで、小さな声が漏れる。
担任教師は、咳払いをした。
「静かに。今は面談中です」
教師たちは慌てて視線を逸らした。
だが、耳は明らかにこちらを向いていた。
「それで、桜井」
担任教師は、声を落ち着けて続ける。
「谷郷代表から、どのような話があった?」
「ホロライブのスタッフとして働く道を考えてみないか、と言われました」
「……なるほど」
担任教師は、驚きを隠しきれていなかった。
それでも、先ほどより表情は少し和らいだ。
無謀な夢を何となく書いただけではない。
少なくとも、向こう側と何らかの接点がある。
代表本人から話があったというのなら、学校としても扱いを変える必要がある。
「正式な内定や採用というわけではないんだな?」
「はい。まだ、そういう話ではありません」
「進路の選択肢として考えてみないか、という段階か」
「そうです」
進路指導教師は、ゆっくり頷いた。
「それなら、こちらとしても現実的な進路相談として扱えます」
ユウトは、少しだけ肩の力を抜いた。
頭ごなしに否定されるかもしれない。
そう思っていたわけではない。
だが、不安はあった。
ホロライブ。
しかもスタッフ兼マネージャー。
あまりにも特殊すぎる希望だ。
教師たちが困惑するのは当然だった。
「ただし」
進路指導教師は、そこで声を少し強めた。
「心配がないわけではありません」
「……はい」
「桜井くん、君の戦闘訓練の成績は非常に高い。特に近接戦闘と危機察知能力は、学生の水準を大きく超えています」
「自分では、そこまでとは」
「そこまでです」
担任教師がきっぱり言った。
ユウトは黙った。
「だからこそ、心配しています」
担任教師は続ける。
「ホロライブのスタッフ、特にマネージャーがどのような業務を担うか、我々もすべてを把握しているわけではない。だが、この世界におけるホロライブの活動には、危険を伴うものもある」
「ダンジョン配信、魔導災害区域での企画、上位ダンジョン同行」
進路指導教師が具体的に挙げていく。
「君の能力が評価されれば、そういった現場へ同行する可能性もあるでしょう」
「……はい」
「そして、君はおそらく」
担任教師は、ユウトをまっすぐ見た。
「頼まれたら断れないタイプだ」
ユウトは返事ができなかった。
否定したかった。
だが、できなかった。
教師の目が、思ったよりもよく見ていたからだ。
「桜井」
「はい」
「人を支える仕事は尊い。裏方として誰かの夢を支えるのも、立派な進路だ」
担任教師の声は、厳しい。
だが、温かかった。
「だが、自分を壊してまで支えることを、我々は進路とは呼びたくない」
ユウトは、息を呑んだ。
その言葉は、朝の友人たちの言葉とよく似ていた。
無茶するな。
自分の命も守れ。
怪我で済まない場所に行く可能性がある。
友人たちも、教師たちも、同じことを言っている。
それはつまり。
自分は、それほど危うく見えているということなのだろう。
「……気をつけます」
「気をつける、だけでは足りないかもしれません」
進路指導教師が言う。
「今後、ホロライブ側と話を進めるなら、業務内容、安全管理、卒業後の研修体制、学業との兼ね合い、保護者への説明。確認しなければならないことが多くあります」
「はい」
「学校としても、君の希望を支援したい。ただし、安全を軽視する形では進められません」
「分かりました」
ユウトは、膝の上で握っていた手をほどいた。
そして、ゆっくり頭を下げた。
「ありがとうございます。僕も、ちゃんと考えます」
担任教師は、少しだけ目を細めた。
「その言葉を聞けて安心した」
「え?」
「以前のお前なら、おそらく『大丈夫です』だけで済ませた」
ユウトは黙る。
「今は、『考えます』と言った。そこは、いい変化だ」
担任教師の言葉に、ユウトは少しだけ驚いた。
自分では分からない。
でも、周りは見ている。
友人たちも。
教師たちも。
ホロライブの人たちだけではない。
学校にも、自分を見てくれている人がいる。
その事実が、胸の奥に静かに落ちていった。
「桜井くん」
進路指導教師が、少し表情を和らげた。
「正直に言えば、非常に難しい進路です」
「はい」
「しかし、代表本人から話があったというのなら、ただの夢物語ではありません。君が真剣に考えているなら、学校としても応援します」
ユウトは、ゆっくり顔を上げた。
「……はい」
「ただし」
担任教師が指を一本立てる。
「進路が大きいからといって、授業や提出物を疎かにするな」
「はい」
「戦闘訓練で無茶をするな」
「はい」
「ホロライブ関係者と会う時は、必要があれば学校にも報告すること」
「はい」
「それから」
担任教師は、少しだけ困ったように眉を下げた。
「職員室に妙な圧を持ち込むな」
「僕が持ち込んだんですか?」
「進路希望調査票が持ち込んだ」
「それは……すみません」
ユウトが頭を下げると、周囲の教師たちが小さく笑った。
その笑いで、職員室の空気が少し緩む。
進路指導教師が、調査票をファイルへ戻した。
「では、今後の流れですが」
その時。
職員室の端にある内線端末が鳴った。
事務室からの連絡音だった。
近くにいた教師が受話パネルを取る。
「はい、職員室です。……はい。え?」
教師の声が止まる。
視線が、ゆっくりとユウトの方へ向いた。
ユウトは嫌な予感がした。
「……はい。校長先生へ。はい。承知しました」
通話を終えた教師が、やや硬い表情で言う。
「校長先生宛に、外部から連絡が入ったそうです」
「外部?」
担任教師が尋ねる。
「カバー株式会社、ホロライブプロダクション代表、谷郷元昭氏の秘書室から」
職員室が、再び止まった。
ユウトも止まった。
「……今ですか?」
担任教師が思わず聞き返す。
「今です」
進路指導教師は、眼鏡の位置を直した。
「タイミングが良すぎますね」
「そうですね」
担任教師は、ユウトを見る。
「桜井」
「はい」
「本当に話は通っているんだな?」
「僕は、そのつもりです」
「そのつもり、か」
担任教師は深く息を吐いた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「どうやら、職員室だけで収まる話ではなくなりそうだ」
◇
その日の午後。
学校内では、すでに噂が走り始めていた。
噂というものは、いつだって足が速い。
特に、昼休みの職員室に呼ばれた生徒が、朝から教室で話題になっていた進路希望の本人であり。
その進路希望がホロライブ関係であり。
しかも、谷郷元昭本人からスカウトを受けたらしい。
そんな燃料が揃っていれば、広がらない方が難しかった。
「桜井先輩、ホロライブにスカウトされたらしいよ」
「え、スタッフとして?」
「マネージャー希望って聞いた」
「代表から直接ってマジ?」
「職員室に呼ばれてたって」
「夕方に正式連絡来るらしいって誰か言ってた」
「それもう進路相談じゃなくて事件じゃん」
廊下。
階段。
購買前。
中庭。
校舎のあちこちで、小さな声が交わされる。
もちろん、その噂は彼女たちの耳にも届いた。
◇
放課後前の短い休み時間。
火威青、音乃瀬奏、轟はじめの三人は、校舎裏に近い渡り廊下の端に集まっていた。
いつもの場所ではない。
人目が少ない場所を選んだ。
青は壁に背を預け、腕を組んでいる。
奏は端末を片手に、集めた情報を整理している。
はじめは落ち着かなさそうに、青と奏の間を行ったり来たりしていた。
「ユウト先輩が、ホロライブにスカウト……」
はじめが呟く。
「しゅごいっしゅ……でも、なんか、むずむずするっしゅ」
「分かります」
奏が端末から目を離さずに言う。
「すごいことです。ユウト先輩が自分で進路を決めたのも、応援したいです。でも」
「でも?」
青が聞く。
奏は少しだけ口を結んだ。
「卒業したら、ユウト先輩はホロライブ側へ行く可能性が高くなりました」
その言葉に、はじめの動きが止まった。
青も、目を伏せる。
それは、三人とも薄々分かっていたことだった。
ユウトとホロライブの間には、何かがある。
ただのファンではない。
ただの知り合いでもない。
それは、ミラージュ・パークで星街すいせいたちと会った時にはっきりした。
ユウトはホロライブの人たちから大切にされている。
そして、ユウト自身も彼女たちと向き合おうとしている。
そこに今回の進路希望。
代表からのスカウト。
高校卒業後、ユウトがホロライブに関わっていく可能性は、もはや噂ではなく現実味を帯びていた。
「……そっか」
青が小さく言った。
「ユウト先輩、そっちへ行くんだ」
「まだ決まったわけではありません」
奏がすぐに言う。
「でも、可能性は高いです」
「うん。分かってる」
青は笑った。
いつもの王子様めいた笑みだった。
だが、奏はそれが外向きの笑顔だとすぐに分かった。
「青くん」
「何?」
「無理して格好つけていますね」
「奏ちゃん、こういう時くらい見逃してくれない?」
「見逃しません」
「手厳しいなぁ」
はじめが、ぎゅっと両手を握る。
「ユウト先輩、卒業したら遠く行っちゃうっしゅか?」
「物理的には、オルタナティブシティの事務所だから、そんなに遠くはないです」
奏が冷静に言う。
「でも、関わる世界は遠くなります」
「それ、もっとやだっしゅ」
はじめの声は、少しだけ小さかった。
「うちたち、ユウト先輩と遊びたいっしゅ。放課後も、クレープも、ゲームも、またプリクラも撮りたいっしゅ」
「ばんちょう」
「ホロライブさんがすごいのは分かるっしゅ。すいせいさんも、おかゆさんも、ころねさんも、ぺこらさんも、みんなしゅごかったっしゅ」
はじめは、俯きながら続ける。
「でも、ユウト先輩はうちたちの先輩っしゅ」
その言葉が、青と奏の胸に刺さった。
そうだ。
ユウトは、ホロライブの誰かにとって大切な人なのだろう。
過去に何かあったのだろう。
自分たちの知らないところで、深い関係があるのだろう。
それでも。
今の学校で、自分たちの前にいる彼は、ユウト先輩なのだ。
呼べば振り返る。
困ったように笑う。
袖を引けば、ちゃんと立ち止まる。
無茶をすれば叱ってくれる。
プリクラに連れ込めば、最後には「楽しかった」と書いてくれる。
その人が、卒業後に別の世界へ行ってしまう。
それが、怖い。
「……なら」
青が口を開いた。
奏とはじめが、青を見る。
「僕たちも、そっちに関わればいいんじゃないかな」
奏は、数秒黙った。
それから、ゆっくり眉を寄せた。
「青くん」
「うん」
「今、勢いだけで言いました?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「本気」
青は、壁から背を離した。
「ユウト先輩がホロライブに関わるなら、僕たちが学校の後輩のままでは、いつか距離が開くかもしれない」
「……」
「でも、僕たちがホロライブに関わる側になれば、少なくとも同じ世界を見ることはできる」
奏は、端末を握る手に少し力を込めた。
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないのは分かってるよ」
青は苦笑する。
「ホロライブは有名人の集まりで、冒険者としても配信者としても、歌手としても、企画者としても一流。そこに関わるなんて、普通に考えたらとんでもないことだ」
「分かっているなら」
「でも、無理だと決めるのは早い」
青の目が、少しだけ真剣になる。
「奏ちゃん、僕たちにもできることはあるよ」
奏は黙った。
青は続ける。
「奏ちゃんには音楽がある。ばんちょうには動きと、あの真っ直ぐさがある。僕には……」
「漫画語りと格好つけ?」
「奏ちゃん?」
「冗談です」
「冗談に聞こえないんだよなぁ」
青は少しだけ肩を落とした。
だが、すぐに笑う。
「僕には、表に立つ覚悟くらいはある」
奏とはじめは、青を見る。
「ユウト先輩を追いかけたいだけなら、きっと駄目だと思う」
青は、静かに言った。
「それはたぶん、ユウト先輩も喜ばない。ホロライブの人たちも、きっと見抜く」
ミラージュ・パークで出会った、すいせいたちの姿が脳裏をよぎる。
彼女たちは優しかった。
けれど、軽くはなかった。
ユウトを大切に思う目。
今の自分たちを見極める目。
あの人たちの前で、ただ「ユウト先輩がいるから入りたい」だけでは、きっと届かない。
「だから」
青は、自分の胸に手を当てた。
「自分たちのやりたいこととして、ホロライブに関わる道を考える」
奏は、深く息を吐いた。
「……青くんにしては、ちゃんと考えていますね」
「奏ちゃん、僕の評価が低い」
「普段の積み重ねです」
「反論できない」
はじめが、ぱっと顔を上げた。
「うち、やるっしゅ!」
「ばんちょう、まだ何をやるか決まってないよ」
「でも、やるっしゅ!」
はじめは、拳を握った。
「ユウト先輩が行くところに、ただついていくんじゃなくて、うちも自分で走って行くっしゅ!」
その言葉に、奏の表情が少しだけ緩んだ。
「……それは、いいですね」
「奏ちゃん?」
「私も、考えてみます」
奏は端末を閉じた。
「音楽で関わるのか、配信で関わるのか、冒険者活動で関わるのか。まだ分かりません。でも、ユウト先輩が行く世界を、遠い画面越しの場所のままにしておくのは嫌です」
「奏……」
青が少し感動したように見る。
「奏ちゃん、今すごくいいことを」
「青くん」
「はい」
「泣きそうな顔をしないでください」
「してないよ」
「しています」
「青たん、ちょっとしてるっしゅ」
「ばんちょうまで」
三人の間に、少しだけ笑いが戻る。
けれど、その笑いの下には、確かな熱があった。
ユウトがホロライブへ行く。
なら、自分たちも考える。
自分たちが、どこへ行きたいのか。
何になりたいのか。
ただ置いていかれないためではなく。
自分の足で、同じ未来へ向かうために。
「まずは情報収集ですね」
奏が言う。
「ホロライブについて。活動内容。所属するにはどういう道があるのか。スタッフ、タレント、協力者、外部クリエイター、冒険者枠……この世界なら可能性はいくつかあります」
「奏ちゃん、急に現実的」
「勢いだけで動くと青くんになります」
「僕を失敗例みたいに使わないで」
はじめが手を上げる。
「うちは、ダンスと体動かすのがんばるっしゅ!」
「ばんちょうはそれが一番強いですね」
「青たんは?」
「僕は……」
青は、少しだけ考えた。
そして、薄く笑う。
「まずは、ユウト先輩に置いていかれないくらい、格好いい自分になる」
「抽象的ですね」
「奏ちゃん、本当に容赦ないなぁ」
「でも、悪くないです」
奏は小さく笑った。
「青くんらしいです」
「それは褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんかぁ」
はじめが、勢いよく頷く。
「じゃあ、うちたちも進路会議っしゅ!」
「そうですね」
奏が頷く。
「ただし、ユウト先輩にはまだ言わない方がいいかもしれません」
「どうして?」
青が尋ねる。
「今言うと、たぶん心配されます」
「ああ」
青とはじめは、同時に納得した。
ユウトなら言うだろう。
無理しなくていい。
僕のことで進路を決めない方がいい。
ちゃんと自分のことを考えて。
そう言うに決まっている。
優しいから。
そして、自分を後回しにする人だから。
「だから」
奏は言った。
「ユウト先輩に言われる前に、私たち自身の理由を作りましょう」
青は、少しだけ目を見開いた。
「奏ちゃん、それいいね」
「当然です」
「かっこいいっしゅ!」
はじめが笑う。
青は、渡り廊下の向こうを見た。
校舎の先。
遠くに見えるオルタナティブシティの高層群。
そのどこかに、ホロライブの事務所がある。
ユウトが向かおうとしている場所。
すいせいたちがいる場所。
画面の向こうの有名人たちが、現実として立っていた場所。
青は、静かに拳を握った。
「ユウト先輩」
その声は、誰にも届かないほど小さかった。
「僕たちも、ちゃんと考えます」
◇
夕方。
職員室の奥にある応接室には、校長、教頭、担任教師、進路指導教師が集まっていた。
机の上には、通信端末。
学校外部との正式な映像通話に使われるものだ。
普段は教育委員会や企業説明会、進路連携先との打ち合わせに使用される。
だが、今日の相手は普通ではなかった。
端末の画面に、接続準備中の表示が浮かんでいる。
担任教師は、少しだけ姿勢を正した。
「緊張していますか?」
進路指導教師が小声で尋ねる。
「していないと言えば嘘になりますね」
「同感です」
校長は静かに頷いた。
「しかし、こちらは学校です。生徒の進路を守る立場として、聞くべきことは聞きます」
「はい」
通信端末が短く鳴った。
画面が切り替わる。
そこに映ったのは、穏やかな表情をした男性だった。
谷郷元昭。
ホロライブプロダクションを率いる代表。
この世界では、ホロライブという巨大な存在の中心にいる人物として、あまりにも有名な人物だった。
『初めまして。カバー株式会社、ホロライブプロダクション代表の谷郷です』
画面越しの谷郷は、丁寧に頭を下げた。
『本日は突然のご連絡となり、申し訳ありません』
校長も頭を下げる。
「こちらこそ、ご連絡ありがとうございます。本校校長の――です」
形式的な挨拶が交わされる。
その間、担任教師は内心で思っていた。
本当に来た。
本当に、谷郷元昭本人から連絡が来た。
つまり、桜井ユウトの話は誇張でも噂でもない。
現実だ。
『本日は、貴校の生徒である桜井ユウトさんの進路に関して、正式にお話しさせていただきたくご連絡いたしました』
谷郷の声は落ち着いていた。
だが、その言葉の一つ一つには、軽さがなかった。
『桜井さんには以前、弊社及びホロライブプロダクションに関わる仕事について、将来的な選択肢として考えてみないかとお話ししました』
進路指導教師が静かに頷く。
「本人からも、そのように聞いております」
『はい。ただし、これは現時点で採用を確約するものではありません。桜井さんが高校生であること、学業と生活を最優先すべき時期であることは、こちらも十分理解しております』
校長の表情が少し和らいだ。
「その点を確認できて安心しました」
『もちろんです』
谷郷は、画面越しに真剣な表情を見せる。
『我々としても、桜井さんの能力や人柄には大きな可能性を感じています。しかし、それ以上に大切なのは、彼自身が自分の意思で未来を選ぶことだと考えています』
担任教師は、その言葉にわずかに目を細めた。
ユウトのことを分かっている。
そう感じた。
『また、もし将来的に弊社と関わる道を本格的に検討する場合は、学校様、保護者様、そして本人と十分に相談しながら進めたいと考えております。安全面、研修、業務内容、学業への影響についても、段階を踏んでご説明します』
「ありがとうございます」
進路指導教師が答える。
「本校としても、桜井くんの希望を応援したいと考えています。ただ、彼の能力の高さゆえに、危険な現場へ過度に関わることにならないかを懸念しております」
『ごもっともです』
谷郷は、すぐに頷いた。
『その点は、こちらとしても慎重に考える必要があります』
ほんの一瞬。
谷郷の目に、痛みのようなものがよぎった。
それは教師たちには分からなかった。
だが、もしホロライブのライバーたちがこの場にいたなら、気づいただろう。
彼もまた、前世のユウトを覚えている。
彼がどれほど自分を削ってホロライブを守ったのか。
最後に、どのように消えていったのか。
知っている。
だからこそ、同じ道を歩ませるつもりはなかった。
『桜井さんには、誰かを支える力があります』
谷郷は静かに言った。
『しかし、その力は彼自身が失われていい理由にはなりません』
担任教師は、思わず息を呑んだ。
昼休みに自分が伝えたかったことと、同じだった。
『我々は、彼に無理をさせるために声をかけたのではありません。彼がもし望むなら、彼自身の人生として、誰かを支える道を一緒に考えたい。そのためのご相談です』
応接室は、しばらく静かだった。
やがて、校長が深く頷く。
「分かりました。学校としても、桜井ユウト本人の意思と安全を最優先に、進路支援を行います」
『ありがとうございます』
「今後、正式な説明の場を設けさせてください。本人、保護者、学校、御社の四者で確認する機会が必要だと思います」
『ぜひ、その形でお願いいたします』
谷郷は丁寧に頭を下げた。
『桜井さんの未来に関わることです。急がず、しかし誠実に進めさせてください』
通話は、その後もしばらく続いた。
業務内容。
高校卒業までの流れ。
見学や職場体験の可能性。
安全管理。
守秘義務。
保護者説明。
確認すべきことは山ほどあった。
だが、最初の不安は少しずつ形を変えていった。
無謀な希望。
そう見えていたものが。
まだ遠いが、確かに線路の敷かれ始めた進路へと変わっていく。
◇
その頃。
校舎の外は、夕焼けに染まり始めていた。
部活動へ向かう生徒たちの声が響く。
グラウンドでは、魔導ランニング用の光のラインが点灯し始める。
中庭の木々の影が長く伸びる。
ユウトは、職員室から少し離れた廊下の窓際に立っていた。
谷郷から正式な連絡が入ったことは、まだ本人には知らされていない。
ただ、何となく。
今日一日で、自分の周りの何かが動き始めた感覚はあった。
チ、チ、チ、チ――。
胸ポケットの懐中時計が、いつものように時を刻む。
過去の時間。
今の時間。
そして、これからの時間。
ユウトは、窓の外の夕焼けを見つめた。
「……ホロライブ、か」
自分で書いた第一希望。
友人たちに驚かれた。
教師たちにも心配された。
それでも、誰も笑わなかった。
誰も、馬鹿にしなかった。
心配しながら、応援してくれた。
それは、思っていたよりもずっと大きなことだった。
ユウトは、胸ポケットにそっと手を当てる。
懐中時計の感触。
そして、奥にしまわれた緑と黒のパスケースの存在。
自分の道は、まだはっきり見えていない。
けれど、行き先表示は少しずつ点滅をやめようとしている。
その時、廊下の向こうから聞き慣れた声がした。
「ユウト先輩!」
はじめの声だった。
振り向くと、青、奏、はじめの三人がこちらへ歩いてくる。
青はいつものように整った笑みを浮かべていた。
奏は少しだけ真剣な顔。
はじめは、何か言いたくて仕方ないという顔をしている。
「青、奏、はじめ」
ユウトが呼ぶ。
三人は、その呼び方にほんの少しだけ反応した。
呼び捨て。
いつもの距離。
今の自分たちだけの、学校での距離。
「職員室、大丈夫でしたか?」
青が尋ねる。
「うん。思ったより、大丈夫だった」
「思ったより」
奏が反復する。
「つまり、少しは大変だったんですね」
「少しね」
「ユウト先輩、すごい噂になってるっしゅ!」
はじめが身を乗り出す。
「YAGOOさんからスカウトされたって、みんな言ってるっしゅ!」
「……もう広がってるんだ」
「広がってます」
奏が淡々と言う。
「校内情報網を甘く見ない方がいいです」
「怖いな」
「特にホロライブ絡みは、広がる速度が違います」
「そうなんだ」
ユウトは、少しだけ困ったように笑った。
青は、その笑顔を見つめる。
以前より柔らかくなった笑顔。
でも、今は少しだけ遠くを見ている笑顔。
青は、胸の奥にある寂しさを、表に出さないようにした。
「ユウト先輩」
「何?」
「本当に、ホロライブに行くんですか?」
その問いに、ユウトはすぐには答えなかった。
廊下の窓から、夕焼けの光が差し込む。
赤と金の光が、四人の影を床に伸ばしている。
「まだ、決まったわけじゃないよ」
ユウトは答えた。
「でも、考えてる」
「……そうですか」
青は頷いた。
奏も静かに息を吐く。
はじめは、少しだけ唇を尖らせた。
「ユウト先輩、遠く行っちゃうっしゅか?」
「遠く?」
「ホロライブさんの方に行ったら、うちたちと遊ぶ時間、なくなるっしゅか?」
ユウトは目を瞬かせた。
それから、少しだけ困ったように笑う。
「なくならないよ」
「ほんとっしゅか?」
「うん」
「約束っしゅ?」
「約束」
はじめが、少しだけ安心したように笑った。
だが、青と奏は分かっていた。
時間は、なくならないかもしれない。
だが、同じではいられない。
高校を卒業すれば、ユウトは進む。
学校の先輩ではなくなる。
ホロライブに関われば、さらに遠い世界へ足を踏み入れる。
だから、自分たちも考えなければならない。
「ユウト先輩」
奏が言う。
「私たちも、進路のことを少し考えようと思いました」
「奏たちが?」
「はい」
ユウトは少し驚いた顔をする。
「まだ早くない?」
「早くても、考えるだけならできます」
「それはそうだけど」
「ユウト先輩だけが進むのを、黙って見ているのは嫌なので」
その言葉に、ユウトは黙った。
青がすぐに笑う。
「もちろん、ユウト先輩のためだけじゃありませんよ」
「青」
「僕たちにも、やりたいことがあるかもしれない。見たい景色があるかもしれない。そう思っただけです」
はじめが元気よく頷く。
「うちも、いっぱい考えるっしゅ! 走って、踊って、歌って、しゅごいことするっしゅ!」
「しゅごいことって、ざっくりだね」
「ざっくりでいいっしゅ! これから決めるっしゅ!」
ユウトは三人を見た。
青。
奏。
はじめ。
彼女たちは、自分の過去を知らない。
ホロライブで前世の後輩だったことも知らない。
でも、今のユウトの後輩として、確かにそこにいる。
そして、ユウトが前へ進もうとしたことで、彼女たちも何かを考え始めている。
それが、少し不思議だった。
自分が誰かの未来に影響を与える。
前世では、きっとそれを当たり前のようにやっていたのかもしれない。
でも今のユウトには、少し怖くて、少し嬉しかった。
「……そっか」
ユウトは、静かに言った。
「応援するよ」
青たちは、一瞬だけ驚いた。
「止めないんですか?」
奏が尋ねる。
「どうして?」
「ユウト先輩なら、『僕のことで進路を決めない方がいい』とか言うかと思いました」
「言おうか迷った」
「やっぱり」
「でも、奏たちが自分で考えるなら、僕が止めることじゃないから」
ユウトは、少しだけ笑った。
「ただ、無理はしないこと」
青が、すぐに笑う。
「それ、そのままユウト先輩に返します」
「僕?」
「はい」
奏も頷く。
「特大ブーメランです」
はじめも両手を上げる。
「ユウト先輩も無理しちゃだめっしゅ!」
「……分かった」
「本当に分かってます?」
青がじっと見る。
「たぶん」
「たぶん」
奏が呆れたように言う。
「そこは自信を持ってください」
「努力する」
「なら、今はそれで許します」
はじめが、ぱっと笑った。
「じゃあ、進路会議の後はクレープっしゅ!」
「また?」
「大事っしゅ!」
「今日は職員室の後だから、甘いものいるっしゅ!」
「それは少し分かる」
ユウトが言うと、三人は顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
夕焼けの廊下に、四人分の笑い声が響く。
遠くで、ホームルーム後のチャイムが鳴った。
今日という一日が終わりに近づいていく。
だが、何かが始まった日でもあった。
ユウトの進路。
学校の支援。
谷郷からの正式な連絡。
青たちの小さな決意。
それぞれの線路が、まだ見えない場所で少しずつ交差し始める。
チ、チ、チ、チ――。
胸ポケットの銀色の懐中時計が、静かに時を刻む。
その針の先で、次の停車駅の表示が、ぼんやりと浮かび上がっていた。
行き先は、まだ未定。
けれど。
ユウト一人だけを乗せる列車では、もうなくなり始めていた。