hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第50話 膝枕と未通知とスバルストップ

 

 大空スバルは、人生で何度目か分からない「どうしてこうなった」を味わっていた。

 

 ホロライブ事務所。

 

 スタジオフロアの近くにある休憩室。

 

 普段なら、収録やレッスンの合間にライバーたちが集まり、飲み物を片手に雑談したり、軽食を食べたり、ゲームをしたりする場所。

 

 今日もそのはずだった。

 

 そのはずだったのだが。

 

「……いや、マジでどうしてこうなったんだよ」

 

 スバルは、できるだけ小さな声で呟いた。

 

 膝の上には、桜井ユウトの頭があった。

 

 銀色の髪が、スバルの制服風衣装の膝元にさらりと落ちている。

 

 顔は横を向いていて、瞼は閉じられていた。

 

 呼吸は静か。

 

 普段はどこか緊張を残している肩も、今は少しだけ力が抜けている。

 

 つまり。

 

 桜井ユウトは、今。

 

 大空スバルに膝枕をされながら眠っていた。

 

「……これ、アウトか? いや、不可抗力だよな? 不可抗力だよな、これ」

 

 スバルは、誰にともなく確認する。

 

 だが、休憩室には誰もいない。

 

 誰もいないからこそ、こうなっているとも言える。

 

 もし他に誰かがいたら、絶対にここまでにはならなかった。

 

 いや。

 

 いたらいたで、別の意味で大惨事だったかもしれない。

 

 スバルは、テーブルの上に置いた端末をちらりと見る。

 

 画面には、ホロライブのライバー全員が入っているグループチャットが開かれていた。

 

 そこには、先日採択されたばかりの淑女協定の条文をまとめた固定メッセージがある。

 

『ユウト本人の意思を最優先』

 

『偶然を作らない』

 

『偶然遭遇した場合は後日報告』

 

『ユウトが困っている時は競争より支援を優先』

 

 スバルはその文字を見て、もう一度自分の膝を見る。

 

 膝の上では、ユウトが眠っている。

 

「……後日報告でいいよな?」

 

 端末は何も答えない。

 

 当然である。

 

     ◇

 

 少し時間は戻る。

 

 その週の土曜日。

 

 ユウトは、ホロライブ事務所の入口にいた。

 

 最近のユウトは、学校の友人や青たち後輩三人組から誘いがなければ、こうして事務所に顔を出すことが増えていた。

 

 最初の頃は、受付で来訪目的を聞かれ、AちゃんやYAGOOに確認が入り、どこかへ案内される形だった。

 

 だが、今は違う。

 

「あ、ユウトくん。こんにちは」

 

 受付のスタッフが、ユウトを見るなり自然に笑った。

 

「こんにちは」

 

 ユウトは軽く頭を下げる。

 

「今日は休憩室ですか?」

 

「はい。邪魔にならなければ」

 

「大丈夫ですよ。今日はスタジオの使用予定が多いので、休憩室は逆に空いていると思います」

 

「ありがとうございます」

 

「何かあったら呼んでくださいね」

 

「はい」

 

 照会もない。

 

 案内もない。

 

 受付のスタッフとは、すでに顔馴染みになっていた。

 

 ユウトはそのことにまだ少し慣れていない。

 

 けれど、事務所の中に入る時の緊張は、最初の頃よりずっと小さくなっていた。

 

 廊下を歩く。

 

 壁にはライブや企画のポスター。

 

 スタジオのランプ。

 

 レッスン室から漏れる音。

 

 どこかの部屋から聞こえる笑い声。

 

 ホロライブ事務所は、いつ来ても誰かの時間が動いている。

 

 ただ、今日は少し静かだった。

 

 それもそのはずである。

 

 本日は、複数の大型企画収録。

 

 誰かの自宅で行われる大人数コラボ配信。

 

 ダンスレッスン。

 

 ボイス収録。

 

 外部打ち合わせ。

 

 イベント関係の準備。

 

 それらが見事に重なっており、普段なら土曜日でも事務所に居座っているライバーたちの姿が少なかった。

 

 正確には。

 

 ユウトがいると分かっていれば、予定の合間を縫ってでも誰かしら来た。

 

 だが、今日はその情報が共有されていなかった。

 

 最近、ユウトはいつの間にかホロライブのタレント全員が入っているグループチャットに追加されていた。

 

 本人は、ただの連絡用チャットだと思っている。

 

 だが実態は違う。

 

 ユウトが「今日は事務所へ行きます」と一言送るだけで、既読が爆速で増え、スタンプが飛び交い、スケジュール調整の名を借りた椅子取りゲームが水面下で始まる、なかなか恐ろしい場所だった。

 

 ユウトはそこまで理解していなかった。

 

 だから今日も、特に連絡はしなかった。

 

 学校の進路面談。

 

 谷郷から学校への正式連絡。

 

 友人たちや青たちとの会話。

 

 その一週間を経て、少しだけ頭を整理したかった。

 

 それだけだった。

 

 休憩室の扉を開ける。

 

「失礼します」

 

「ん?」

 

 中にいたのは、大空スバルだけだった。

 

 ソファに座り、テーブルの上に飲み物と資料を置き、端末で何かを確認している。

 

 ユウトを見た瞬間、スバルの目が丸くなった。

 

「ユウト!?」

 

「はい」

 

「いや、はいじゃなくて! 何でいるんだ!?」

 

「来たので」

 

「その説明で納得できると思うなよ!?」

 

 スバルは勢いよく立ち上がりかけ、テーブルに膝をぶつけそうになって止まった。

 

 ユウトは、少し困ったように首を傾げる。

 

「今日は来ない方がよかったですか?」

 

「いや、違う違う違う! 来るのはいい! むしろ来ていい! いつでも来ていい! ただ、連絡しろ!」

 

「連絡?」

 

「グループチャットあるだろ!」

 

「ああ」

 

 ユウトは端末を取り出す。

 

「あれ、毎回送った方がいいんですか?」

 

「送った方がいい!」

 

「でも、皆さん忙しいと思ったので」

 

「忙しいからこそだよ!」

 

「そうなんですか?」

 

「そうなんだよ!」

 

 スバルは頭を抱えた。

 

 言えない。

 

 正確には言えない。

 

 ユウトが来ると知れば、忙しい面々が忙しいなりに事務所へ来ようとするなどとは言えない。

 

 収録の合間に顔だけ出す者。

 

 レッスン時間を前倒ししようとする者。

 

 偶然を装う者。

 

 事務所に荷物を忘れたと言い出す者。

 

 そして、それらを防ぐために淑女協定が存在しているなど、もっと言えない。

 

「と、とにかくだ」

 

 スバルは咳払いをする。

 

「来るなら、せめて誰かに言っとけ。受付だけじゃなくて」

 

「分かりました。次からそうします」

 

「よし」

 

 スバルは頷いた。

 

 そして、改めてユウトを見る。

 

 その瞬間、眉を寄せた。

 

「……お前、寝てる?」

 

「起きてます」

 

「そういう意味じゃねえよ。顔」

 

「顔?」

 

「目の下」

 

 スバルは、自分の目元を指差した。

 

「ちょっと疲れてんだろ」

 

「そう見えますか?」

 

「見える」

 

「ちゃんと寝ています」

 

「何時間」

 

「……」

 

「何時間?」

 

「日によります」

 

「それ寝てないやつの答えだろ!」

 

 スバルの声が休憩室に響いた。

 

 ユウトは、申し訳なさそうに視線を逸らす。

 

「今週、少し色々あったので」

 

「知ってるよ」

 

 スバルは腕を組む。

 

「進路のやつだろ」

 

「知ってるんですか?」

 

「知ってる。お前がホロライブ事務所スタッフ兼マネージャーって書いたことも、学校が大騒ぎになったことも、YAGOOさんが学校に連絡したことも」

 

「そこまで」

 

「そこまで」

 

 スバルは、少しだけ表情を柔らかくした。

 

「すごいことだよな」

 

「……まだ、決まったわけじゃありません」

 

「分かってる。でも、お前が自分で第一希望を書いたんだろ」

 

「はい」

 

「なら、すごいことだ」

 

 ユウトは、少しだけ目を伏せた。

 

「そう、なんでしょうか」

 

「そうだよ」

 

 スバルは、いつもの勢いより少しだけ静かな声で言った。

 

「お前、前はそういうの書けなかっただろ」

 

「……僕のこと、そんなに分かりますか?」

 

「分かるよ」

 

 スバルは即答した。

 

 その声には、少しだけ前世の重みが混じっていた。

 

「スバルは、知ってるから」

 

 ユウトは、返事をしなかった。

 

 知っている。

 

 ホロライブのライバーたちは、皆そう言う。

 

 自分の知らない自分を知っている。

 

 その事実に、以前ほど怯えなくなった。

 

 けれど、まだ胸が揺れることはある。

 

「……すみません」

 

「謝るな」

 

「でも」

 

「今、謝るところじゃない」

 

 スバルは、ユウトの前のソファを指差した。

 

「とりあえず座れ」

 

「はい」

 

 ユウトは素直に座った。

 

 スバルも向かい側ではなく、同じソファの端に腰を下ろす。

 

 テーブルの上には、ユウトが持ってきたノートと進路関係の資料が置かれた。

 

 マネージャーの仕事。

 

 タレントサポート。

 

 安全管理。

 

 スケジュール調整。

 

 企画補助。

 

 学校の先生から渡されたメモもある。

 

 ユウトはそれらを開き、何かを読み始めた。

 

 スバルは、しばらく黙って見ていた。

 

 ページをめくる指は丁寧。

 

 姿勢も悪くない。

 

 けれど、目の動きが少し遅い。

 

 文章を追っているのに、頭に入っていない時の動きだった。

 

「ユウト」

 

「はい」

 

「寝ろ」

 

「え?」

 

「寝ろ」

 

「ここでですか?」

 

「ここで」

 

「でも、資料を」

 

「資料は逃げない」

 

「さっきから紙や資料に逃げないと言われることが多いです」

 

「みんな同じこと思ってるんだよ」

 

 スバルは、ソファの背もたれに置いてあったクッションを掴んだ。

 

「十分だけでいい。目を閉じろ」

 

「大丈夫です」

 

「出た」

 

「え?」

 

「大丈夫禁止」

 

 スバルはびしっと指を立てた。

 

「スバルの前で大丈夫って言ったら、だいたい大丈夫じゃないって判断するからな」

 

「厳しくないですか」

 

「お前に関しては厳しくする」

 

 ユウトは困ったように笑った。

 

 だが、スバルは引かなかった。

 

「ほんとに十分だけ。寝れなくてもいいから、目を閉じろ。頭を休ませろ」

 

「……分かりました」

 

 ユウトは、渋々といった様子で資料を閉じた。

 

 ソファの端に置かれたクッションを枕にして、横になろうとする。

 

 しかし。

 

 そこで、ユウトの動きが一瞬止まった。

 

 眠気が、予想以上に強かったのだろう。

 

 身体がふらりと傾いた。

 

「おわっ!?」

 

 スバルが慌てて手を伸ばす。

 

 倒れかけたユウトの頭を、両手で受け止めた。

 

 受け止めた。

 

 そこまではよかった。

 

 問題は、そのままユウトの頭が、ちょうどスバルの膝の上に落ち着いてしまったことだった。

 

「……」

 

「……」

 

 沈黙。

 

 ユウトは目を開けたまま、数秒固まった。

 

 スバルも固まった。

 

 お互いに、状況を理解するまで少し時間がかかった。

 

「す、すみません」

 

 ユウトが起き上がろうとする。

 

「待て待て待て!」

 

 スバルは反射的に止めた。

 

「急に起きるな! ぶつかる!」

 

「でも」

 

「いいから! とりあえず、そのまま!」

 

「そのまま?」

 

「そのまま!」

 

 言ってから、スバルは自分の発言を理解した。

 

 そのまま。

 

 つまり、膝枕継続である。

 

「いや違う! 違うけど違わない! えっと、頭、クッションに移すから」

 

「はい」

 

 ユウトは大人しくしていた。

 

 大人しくしすぎていた。

 

 目を閉じている。

 

 呼吸が、すでに深くなっている。

 

「……ユウト?」

 

 返事がない。

 

「おい、寝た?」

 

 返事がない。

 

「早っ」

 

 スバルは、小声で突っ込んだ。

 

 さっきまで大丈夫だと言っていた男が、膝に頭を預けた瞬間、ほとんど落ちるように眠っている。

 

 それだけ疲れていたということだ。

 

 スバルは、クッションを持ったまま動けなくなった。

 

 起こして移動させるべきか。

 

 このまま寝かせるべきか。

 

 淑女協定的には、明らかにまずい。

 

 だが、本人の体調的には寝かせるべき。

 

 第一条。

 

 ユウト本人の意思を最優先。

 

 第七条。

 

 ユウトが困っている時は、競争より支援を優先。

 

「……これは支援。これは支援だ」

 

 スバルは自分に言い聞かせた。

 

「膝枕じゃない。支援だ。いや、膝枕だけど、支援だ」

 

 彼女は、クッションをそっと隣に置いた。

 

 そして、ソファの背もたれにあった薄いブランケットを手に取り、ユウトの肩にかけた。

 

 その動きは、思ったよりも自然だった。

 

 自分でも驚くほどに。

 

     ◇

 

 静かな休憩室に、時計の音だけが聞こえる。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 ユウトの胸ポケットに入っている銀色の懐中時計。

 

 スバルは、その音を聞きながら、ユウトの寝顔を見下ろしていた。

 

「……お前、寝顔だと年相応なんだな」

 

 小さな声で呟く。

 

 起きている時のユウトは、どこか大人びている。

 

 高校生なのに、時々ひどく遠い目をする。

 

 誰かを支える側に回ろうとする。

 

 自分の疲れや痛みを、すぐ後回しにする。

 

 それは、前世のユウトを知っているスバルには、見慣れた姿でもあった。

 

 見慣れていて。

 

 だからこそ、腹が立つ姿でもあった。

 

「なあ、ユウト」

 

 返事はない。

 

 スバルは、それを分かっていて続けた。

 

「スバルさ、怒ってんだぞ」

 

 声は静かだった。

 

 いつもの元気なツッコミとは違う。

 

「勝手に守って、勝手に消えて、勝手にみんなの中からいなくなって」

 

 喉の奥が、少しだけ詰まる。

 

「それで今度は、前の自分をなぞるみたいにホロライブのスタッフになろうとしてる」

 

 スバルは、膝の上のユウトを見下ろす。

 

「応援してるよ。ほんとだぞ。お前が自分で選んだなら、スバルは応援する」

 

 そこで、一度言葉を切った。

 

「でも、同じことしたら怒るからな」

 

 眠るユウトは、答えない。

 

 その寝顔は穏やかで、どこか幼い。

 

 スバルは、そっと息を吐いた。

 

「いや、もう怒ってるけど」

 

 自分で言って、少しだけ笑った。

 

 その時。

 

 ユウトが小さく何かを呟いた。

 

「……スバル」

 

「え?」

 

 スバルは身を乗り出す。

 

 ユウトは目を閉じたまま、かすかな声で言った。

 

「……喉、無理しないで……ください」

 

 スバルの動きが止まった。

 

 休憩室の空気が、急に遠くなる。

 

 それは、今のユウトが知っているはずのない声だった。

 

 いや、完全に知らないわけではない。

 

 デンライナーで見た過去。

 

 旅の中で見た前世の自分。

 

 断片的な夢。

 

 そういうものが、ユウトの中に残っているのかもしれない。

 

 けれど。

 

 その言い方は。

 

 あまりにも、前世のユウトのそれだった。

 

 配信で叫びすぎた後。

 

 収録が重なった時。

 

 ライブ前に無茶をしようとした時。

 

 彼はよく、同じようなことを言った。

 

 スバルさん、喉を休めてください。

 

 水、置いておきます。

 

 明日の予定、少し調整しました。

 

 大丈夫じゃなくなる前に言ってください。

 

 自分は全然大丈夫じゃなかったくせに。

 

 他人のことばかり見ていた。

 

「……ばか」

 

 スバルは、笑おうとした。

 

 けれど、声が少し震えた。

 

「寝てる時まで人の心配すんなよ」

 

 ユウトは眠ったままだ。

 

 スバルは、伸ばしかけた手を途中で止める。

 

 髪を撫でたいと思った。

 

 でも、それは少しだけ怖かった。

 

 触れたら、この静かな時間が壊れてしまいそうだったから。

 

 それでも、結局。

 

 スバルは、ユウトの前髪にかかった一房だけを、そっと横へ流した。

 

「今度はさ」

 

 スバルは言う。

 

「お前も休めよ」

 

 返事はない。

 

 でも、それでよかった。

 

     ◇

 

 数分後。

 

 スバルの端末が震えた。

 

 びくりと肩が跳ねる。

 

 慌てて端末を取る。

 

 画面には、グループチャットの通知が並んでいた。

 

『星街すいせい:今日、事務所静か?』

 

『大神ミオ:私は夕方までレッスンです』

 

『白上フブキ:こちら外部収録中です』

 

『さくらみこ:みこ、あとで行けるかもにぇ』

 

『大空スバル:』

 

 スバルは何も送っていない。

 

 だが、入力欄には自分の名前が出ている。

 

 どうやら、先ほど慌てて端末を触った時にチャットを開いたままになっていたらしい。

 

 スバルは画面を見つめた。

 

 送るべきか。

 

 送らないべきか。

 

 ユウトが来ていることを、共有するべきか。

 

 だが、送ればどうなる。

 

 読まれる。

 

 反応される。

 

 誰かが来る。

 

 いや、今日は皆忙しいから来られないかもしれない。

 

 しかし、来られないからこそチャットが荒れる可能性がある。

 

 そして何より。

 

 今、自分の膝の上でユウトが寝ている。

 

 この情報をどう報告する。

 

『ユウトが来ています』

 

 これだけならいい。

 

 だが、状況を聞かれたら。

 

『寝ています』

 

 まだいい。

 

 どこで、と聞かれたら。

 

 詰む。

 

「……」

 

 スバルは、しばらく考えた。

 

 そして、慎重に文字を打った。

 

『大空スバル:ユウトが事務所に来てる』

 

 送信。

 

 既読が増える。

 

 速い。

 

 怖いほど速い。

 

『星街すいせい:聞いてない』

 

『さくらみこ:聞いてないにぇ!?』

 

『白上フブキ:未通知?』

 

『大神ミオ:スバル、偶然?』

 

『大空スバル:偶然』

 

『兎田ぺこら:偶然の扱いは慎重に、ぺこ』

 

『大空スバル:マジで偶然!』

 

『猫又おかゆ:ユウトくん元気?』

 

 スバルは、膝の上のユウトを見る。

 

 眠っている。

 

 元気かと聞かれれば、疲れている。

 

 でも、今は少し休めている。

 

 だから。

 

『大空スバル:疲れてたから休ませてる』

 

 一瞬、チャットが止まった。

 

 次に来たのは、ミオだった。

 

『大神ミオ:第七条適用だね』

 

 スバルは、心の中でミオに感謝した。

 

 やはりミオは頼りになる。

 

『白上フブキ:支援優先』

 

『ときのそら:うん、休ませてあげて』

 

『星街すいせい:分かった。起こさないで』

 

『さくらみこ:ユウト寝てるにぇ?』

 

『大空スバル:寝てる』

 

『湊あくあ:どこで寝てますか?』

 

 スバルの指が止まった。

 

 来た。

 

 最も恐れていた質問が。

 

『大空スバル:ソファ』

 

 嘘ではない。

 

 ソファにいる。

 

 ただし、頭は膝の上だ。

 

『宝鐘マリン:ソファのどの位置ですか?』

 

「船長ぉ……!」

 

 スバルは小声で呻いた。

 

 何でそこを掘る。

 

 いや、掘るに決まっている。

 

 恋する乙女たちの危機察知能力は、時にダンジョン探知魔法より鋭い。

 

『大空スバル:休憩室のソファ』

 

『宝鐘マリン:違います。そういう意味ではなく』

 

『戌神ころね:スバルちゃん』

 

『大空スバル:何』

 

『戌神ころね:ユウトくん、ひざ?』

 

「ころねぇぇぇぇ!」

 

 スバルは、声を出しかけて慌てて口を塞いだ。

 

 膝の上のユウトが、少しだけ身じろぎする。

 

 スバルは固まった。

 

 ユウトは起きなかった。

 

 ほっと息を吐く。

 

 端末を見る。

 

 既読が爆増している。

 

 全員が待っている。

 

 スバルは、天井を仰いだ。

 

 逃げたい。

 

 しかし、ここで黙ると余計に怪しまれる。

 

 いや、もう怪しまれている。

 

 詰み。

 

 完全に詰み。

 

 スバルは、覚悟を決めた。

 

『大空スバル:不可抗力』

 

 送信。

 

 一秒。

 

 二秒。

 

 三秒。

 

 チャットが爆発した。

 

『星街すいせい:不可抗力?』

 

『さくらみこ:どういう不可抗力にぇ!?』

 

『湊あくあ:膝ですか?』

 

『潤羽るしあ:膝?』

 

『宝鐘マリン:上位イベントです』

 

『大空スバル:違う! いや違わないけど違う!』

 

『大神ミオ:みんな落ち着いて。ユウトが寝てるなら通知音切って』

 

『白上フブキ:まず音を切りましょう』

 

『ときのそら:スバルちゃん、ユウトくんを休ませるの優先で大丈夫だよ』

 

『大空スバル:そら先輩……!』

 

『星街すいせい:あとで報告』

 

『大空スバル:はい』

 

『猫又おかゆ:膝の角度も?』

 

『大空スバル:角度って何!?』

 

『戌神ころね:ころねも今度やる』

 

『大空スバル:宣言するな!』

 

『兎田ぺこら:淑女協定に膝枕条項が必要ぺこ』

 

『宝鐘マリン:緊急改定ですね』

 

『大空スバル:やめろ!』

 

 スバルは必死にツッコミを打ち込んだ。

 

 片手で。

 

 もう片方の手は、ユウトがずれないように、ブランケットの端を軽く押さえている。

 

 その事実に気づいて、スバルはさらに顔を赤くした。

 

「……何してんだ、スバル」

 

 自分で自分に突っ込む。

 

 だが、膝の上のユウトは眠ったままだ。

 

 この穏やかな寝息を聞いていると、騒がしいチャットの向こう側すら、少し遠く感じる。

 

     ◇

 

 ユウトが目を覚ましたのは、それから十五分ほど後だった。

 

 瞼がゆっくり開く。

 

 しばらく、焦点が合っていない。

 

 それから、自分がどこにいるのかを理解し始める。

 

 天井。

 

 休憩室。

 

 ブランケット。

 

 そして。

 

 視界の上に、スバルの顔。

 

「……」

 

「……起きたか?」

 

「……スバルさん」

 

「お、おう」

 

「僕は、今」

 

「休んでた」

 

「どこで」

 

「ソファで」

 

「頭が」

 

「……スバルの膝にある」

 

 ユウトは、数秒間黙った。

 

 次の瞬間、勢いよく起き上がろうとする。

 

「すみません!」

 

「だから急に起きるなって!」

 

 スバルが慌てて止める。

 

 ユウトは中途半端な姿勢で固まった。

 

「すみません、本当に」

 

「謝るなって。倒れそうになったお前をスバルが受け止めたらこうなっただけ」

 

「それは、余計に申し訳ないです」

 

「だから謝るな!」

 

 スバルは、少し強めに言った。

 

 ユウトが目を瞬かせる。

 

 スバルは、自分の声が思ったより大きかったことに気づき、少しだけ息を吐いた。

 

「……休むのに謝るなよ」

 

「え?」

 

「疲れてたんだろ」

 

「……」

 

「疲れてる時に寝るのは、悪いことじゃない。誰かに支えられて休むのも、悪いことじゃない」

 

 スバルは、少しだけ視線を逸らした。

 

「お前、そういうのすぐ謝るから」

 

 ユウトは、起き上がりきらずに、少しだけ目を伏せた。

 

「……癖かもしれません」

 

「知ってる」

 

「知ってるんですね」

 

「知ってるよ」

 

 スバルは、今度ははっきりと言った。

 

「前からずっと、そうだったから」

 

 ユウトは、黙った。

 

 その沈黙に、拒絶はなかった。

 

 ただ、受け止めようとしている沈黙だった。

 

「寝言で」

 

 スバルは、少し迷ってから言う。

 

「スバルの喉の心配してた」

 

「……僕が?」

 

「うん」

 

「すみません」

 

「また謝った」

 

「あ」

 

 ユウトは、少しだけ困ったように笑った。

 

「でも、覚えていません」

 

「だろうな」

 

「ただ」

 

「ただ?」

 

「何となく、言った気がします」

 

 ユウトは、自分の胸元に手を当てた。

 

 銀色の懐中時計。

 

 そして、その奥にある緑と黒のパスケース。

 

「スバルさんが無理をしているのを見ると、止めたくなる気がして」

 

 スバルは、少しだけ目を見開いた。

 

「……今のスバル、無理して見えるか?」

 

「少し」

 

「え、マジ?」

 

「はい」

 

「どこが?」

 

「声が、いつもより高いです」

 

「それはお前が膝にいるからだよ!」

 

 言ってから、スバルは口を押さえた。

 

 ユウトも固まった。

 

 数秒後。

 

 ユウトは、静かに起き上がった。

 

 今度はゆっくり。

 

 スバルも止めなかった。

 

 ユウトはソファに座り直し、ブランケットを畳む。

 

「すみません」

 

「だから」

 

「ありがとうございます」

 

 スバルの言葉が止まった。

 

 ユウトは、少しだけ照れたように視線を落としている。

 

「休ませてくれて、ありがとうございました」

 

 スバルは、反射的に何か言おうとした。

 

 だが、うまく言葉が出なかった。

 

 代わりに、乱暴に頭をかく。

 

「……おう」

 

「スバルさん?」

 

「おう! スバルが休ませた! だから感謝しろ!」

 

「はい。感謝しています」

 

「そこは真面目に返すなよ!」

 

 ユウトは小さく笑った。

 

 それを見て、スバルも少しだけ笑った。

 

 休憩室の空気が、ようやくいつもの温度へ戻る。

 

「進路のこと」

 

 スバルが、少しだけ真面目な声で切り出した。

 

「怖くないか?」

 

「怖いです」

 

 ユウトは、意外なほど素直に答えた。

 

「怖いのか」

 

「はい」

 

「そっか」

 

「でも、前よりは……怖いと言えるようになった気がします」

 

 スバルは、黙って聞いた。

 

「学校の友人たちにも、先生たちにも言われました。無茶するな、自分の命を守れって」

 

「言われるだろうな」

 

「言われました」

 

 ユウトは、少しだけ苦笑する。

 

「皆、同じことを言うんです」

 

「それだけ、お前が同じ心配されてるってことだよ」

 

「……そうですね」

 

「ホロライブに来るなとは言わない」

 

 スバルは言った。

 

「スバルは、来てほしいと思ってる」

 

 その言葉に、ユウトは静かに目を上げた。

 

「でも、前みたいな来方はするな」

 

「前みたいな」

 

「全部一人で抱えて、守って、消えるような来方」

 

 ユウトは、何も言えなかった。

 

 スバルは、まっすぐ彼を見る。

 

「もしお前がマネージャーになるなら、スバルたちを支えるんだろ」

 

「はい」

 

「じゃあ、スバルたちもお前を支える」

 

「でも」

 

「でもじゃない」

 

 スバルの声は強かった。

 

「支える側だから支えられちゃダメとか、そんなルールないだろ」

 

 ユウトは、その言葉を受け止める。

 

 胸ポケットの懐中時計が、小さく鳴った。

 

 チ、と。

 

「……はい」

 

 ユウトは頷いた。

 

「覚えておきます」

 

「ほんとか?」

 

「努力します」

 

「そこは即答しろ!」

 

「即答すると嘘になるかもしれないので」

 

「真面目か!」

 

 スバルは思わず突っ込んだ。

 

 だが、嫌ではなかった。

 

 むしろ、その答えの方がユウトらしいと思った。

 

 すぐに「大丈夫」と言わなかった。

 

 すぐに「できます」と言わなかった。

 

 努力する。

 

 覚えておく。

 

 それは、少しずつでも変わろうとしている証拠だった。

 

「じゃあ、今日はもう資料禁止な」

 

「え」

 

「寝たばっかりだろ。頭使うな」

 

「でも」

 

「でも禁止」

 

「それは禁止が多くないですか」

 

「今日はスバル権限で多い」

 

「スバル権限」

 

「そう。スバル権限」

 

 スバルは、テーブルの上の資料をまとめて端に寄せた。

 

「代わりにゲームするぞ」

 

「ゲームですか」

 

「軽いやつな。頭使わないやつ」

 

「スバルさんが勝てるやつ?」

 

「お前、だいぶ言うようになったな!?」

 

「すみません」

 

「謝るなって言っただろ!」

 

 ユウトが笑う。

 

 スバルも笑う。

 

 その時、端末がまた震えた。

 

 スバルは嫌な予感がして画面を見る。

 

『星街すいせい:起きた?』

 

『大空スバル:起きた』

 

『さくらみこ:膝から?』

 

『大空スバル:その話は後!』

 

『宝鐘マリン:後日報告、楽しみにしています』

 

『大神ミオ:ユウトを無理させないでね』

 

『大空スバル:分かってる』

 

『戌神ころね:ころねも膝枕予約』

 

『大空スバル:予約制にするな!』

 

 スバルは端末を伏せた。

 

 ユウトが首を傾げる。

 

「何かありました?」

 

「何もない」

 

「本当ですか?」

 

「何もない!」

 

「声が高いです」

 

「だからそれはお前のせいだよ!」

 

 休憩室に、スバルの声が響いた。

 

 その声はいつも通り賑やかで、少しだけ照れていて。

 

 そして、どこか安心していた。

 

     ◇

 

 夕方に近づく頃。

 

 休憩室には、二人分のゲーム音と笑い声があった。

 

 ユウトは、資料を読む代わりにスバルと簡単な対戦ゲームをしていた。

 

 スバルは、最初こそ勢いよく勝ちに行った。

 

 だが、ユウトの反射神経が妙に鋭く、三戦目あたりから本気になった。

 

「ちょ、待て待て待て! 何で初見でそんな動きできるんだよ!」

 

「何となくです」

 

「その何となくが一番怖いんだよ!」

 

「スバルさん、右から来ます」

 

「言うな! 言われると余計焦る!」

 

 画面の中で、スバルのキャラクターが吹き飛ばされる。

 

「うわああああ!」

 

「すみません」

 

「だから謝るな! いや今のは謝っていいかもしれない!」

 

「どっちですか」

 

「スバルにも分からん!」

 

 ユウトが笑った。

 

 スバルも、負けたのに笑っていた。

 

 その光景は、何でもない休日の一場面に見えた。

 

 けれど、二人にとっては少し違っていた。

 

 ユウトは、事務所で眠った。

 

 誰かの前で、力を抜いた。

 

 スバルは、それを受け止めた。

 

 前世の後悔と、今の温度を重ねながら。

 

 小さなことかもしれない。

 

 でも、確かに変化だった。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 銀色の懐中時計が、ユウトの胸ポケットで静かに時を刻んでいる。

 

 過去の彼なら、休むことさえ後回しにしたかもしれない。

 

 今の彼は、少しだけ休めた。

 

 誰かの膝の上で。

 

 誰かに叱られながら。

 

 誰かに支えられながら。

 

 それは、あまりにも小さな前進で。

 

 けれど、ホロライブの少女たちにとっては、奇跡のように大きな一歩だった。

 

 そして。

 

 その日の夜。

 

 ホロライブのグループチャットには、新たな固定メッセージが追加された。

 

『淑女協定・追記案:膝枕など、偶発的な高親密度イベントが発生した場合は、ユウト本人の休息を最優先すること』

 

 さらにその下に、すいせいが短く書き込んだ。

 

『ただし後日報告』

 

 おかゆが続けた。

 

『角度も?』

 

 スバルは、即座に返信した。

 

『角度は報告しない!!』

 

 既読は、いつもより少しだけ速かった。

 

 次の列車は、どうやら休憩室発。

 

 行き先表示には、こう出ていた。

 

『休むことも、前に進むこと』

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