hololive Lost Story 作:ダニエルズプラン
夏休み。
それは学生にとって、楽園のような響きを持つ言葉である。
朝、決められた時間に起きなくてもいい。
教室の椅子に縛られなくてもいい。
昼休みの短さに絶望しなくてもいい。
課題という名の魔物はいるが、それでも自由時間という宝箱があちこちに転がっている。
だが。
楽園へ至る道には、必ず門番がいる。
ゲームでいうなら、中ボス。
ラストダンジョンほどではない。
しかし油断すれば普通に全滅する。
学生たちは、その中ボスの名をこう呼ぶ。
期末テスト、と。
◇
ホロライブ事務所。
スタジオフロア近くの休憩室。
テーブルの上には、高校の参考書が数冊広げられていた。
数学。
現代文。
英語。
魔導基礎理論。
社会総合。
そして、その横にはノート。
丁寧にまとめられた文字。
要点を抜き出したメモ。
色分けされた付箋。
見た目だけなら、真面目な高校生の試験勉強そのものだった。
桜井ユウトは、ペンを持ったまま参考書を見つめていた。
「……」
数式を確認する。
例題を一つ解く。
答え合わせをする。
間違っていない。
次の問題。
これも解ける。
その次も。
さらに次も。
ユウトは、静かにページをめくった。
もともと、ユウトは地頭がよかった。
極端に成績上位を狙っているわけではない。
だが、授業内容を普通に聞いて、適当に復習をしていれば、中の上から上の中あたりの成績は問題なく取れる。
本人はそれを特別だと思っていない。
周囲からすれば、かなり厄介なタイプの優等生だった。
がりがり勉強しているようには見えないのに、点は落とさない。
戦闘訓練もできる。
課題も忘れない。
ついでに最近は、ホロライブ関係で学校中の話題まで持っていく。
担任教師が少し胃を押さえたくなるのも無理はなかった。
「……ここは、もういいか」
ユウトは参考書を閉じた。
試験勉強を始めてから、まだ一時間も経っていない。
それでも、確認した範囲は頭に入っている。
忘れていた部分もあったが、一度見れば思い出す。
なら、ここから先は時間をかけすぎても効率が悪い。
ユウトは高校の参考書を横に重ねた。
そして、鞄から別の本を取り出す。
表紙に書かれていた文字は、学生の期末テストとはだいぶ距離があった。
『マネジメント入門』
『タレントサポートとチーム運営』
『プロジェクト進行管理の基礎』
『リスクマネジメント概論』
『配信企画と権利調整』
ユウトは、その中から一冊を開いた。
期末テスト前の高校生が読むには、少し早すぎる本だった。
だが、ユウトにとってはこちらの方が重要に思えた。
ホロライブ事務所スタッフ兼マネージャー。
進路希望調査に書いた第一希望。
まだ決定したわけではない。
採用されたわけでもない。
高校卒業後の道として、ようやく線路が敷かれ始めたばかりだ。
それでも、学べることは学んでおきたかった。
前の自分が何をしていたのか。
今の自分が何を選ぼうとしているのか。
その輪郭を、少しでも掴みたかった。
「タレントの目標設定支援……短期目標と長期目標の整理……活動内容と健康状態のバランス……」
ユウトは、ノートに言葉を書き写す。
ペン先が走る。
一度読んだ内容が、妙にすんなり頭に入ってくる。
高校の参考書とは違う感覚だった。
初めて学ぶ内容のはずなのに、どこか見覚えがある。
知らない言葉なのに、意味が先に分かる。
ページをめくるたびに、頭の奥で何かが繋がっていく。
スケジュール管理。
タレントの体調確認。
企画ごとの優先順位。
外部企業との調整。
配信前の確認事項。
トラブル時の初動。
炎上リスク。
メンタルケア。
権利関係。
配信機材。
収録現場。
ライブ準備。
「……」
ユウトのペンが止まった。
胸の奥に、霧のような感覚が広がる。
頭の中に、ほんの一瞬だけ景色が浮かんだ。
小さな事務所。
机の上の大量の資料。
誰かの配信スケジュール。
夜遅くのチャット。
急なトラブル。
眠そうなライバーの声。
泣きそうな声。
笑っている声。
自分の手が、端末を操作している。
誰かに「大丈夫です」と言っている。
誰かに「休んでください」と言っている。
誰かの背中を押している。
そして、自分自身には休むと言っていない。
「……っ」
ユウトは軽く目を閉じた。
深呼吸する。
それは記憶ではない。
完全に思い出したわけではない。
デンライナーで見た過去の映像。
夢の断片。
身体に残った癖。
そのどれかが、本の内容に反応しているのかもしれない。
ただ、一つだけ分かることがあった。
これは初めてではない。
少なくとも、前の自分は知っていた。
この仕事の重さも。
難しさも。
そして、喜びも。
「……やっぱり」
ユウトは、小さく呟いた。
「僕は、これをやっていたんだな」
その声は、誰にも聞こえないはずだった。
だが。
「うん。やってたよぉ」
すぐ横から、柔らかい声がした。
ユウトは、反射的に顔を上げた。
いつの間にか、隣に猫又おかゆが座っていた。
「おかゆさん」
「やっほー」
おかゆはいつものように、ゆるく手を振る。
休憩室の扉が開いた音に、ユウトは気づかなかった。
それほど集中していたらしい。
「いつから?」
「ユウトくんが『タレントの目標設定支援』って呟いてたあたりから」
「結構前ですね」
「結構前だねぇ」
おかゆは、ユウトの開いている本を覗き込む。
「難しそうなの読んでる」
「勉強です」
「期末テストの?」
「最初は」
「最初は?」
おかゆがくすっと笑う。
「今はマネージャーさんの勉強?」
「はい」
「まじめだねぇ」
その言い方は、からかうようでいて、どこか優しかった。
ユウトは少しだけ目を伏せる。
「まだ何も決まっていませんけど、何もしないよりはいいかと思って」
「うん」
おかゆは頷いた。
「ユウトくんらしい」
「そうですか?」
「そうだよぉ」
おかゆは、テーブルに頬杖をつく。
「昔も、そういう本をいっぱい読んでた」
ユウトの指が、ページの端で止まった。
おかゆは、声を軽くしたまま続ける。
「配信のこと、機材のこと、企画のこと、メンタルケアのこと、法律とか権利とか。あと、喉にいい飲み物とか、寝不足の時のご飯とか」
「……そんなことまで?」
「うん」
おかゆは目を細める。
「自分はカロリーメイトと水で済ませるのにねぇ」
ユウトは返す言葉を失った。
前世の自分の話なのに、なぜか反論しづらかった。
「それは……効率がよかったんだと思います」
「そういうところ」
「え?」
「そういうところだよぉ」
おかゆは笑った。
その笑顔に、少しだけ懐かしさが混じっている。
ユウトは、それ以上何も言えなかった。
休憩室の扉がまた開く。
「おっかゆー! ユウトくーん!」
元気な声とともに、戌神ころねが入ってきた。
片手には飲み物。
もう片方の手には、袋入りのお菓子。
ユウトを見るなり、ぱっと笑う。
「ユウトくん、勉強してる!」
「はい」
「えらいねぇ!」
「ありがとうございます」
「じゃあ、ごほうびいる?」
「まだ何もしていません」
「勉強してるだけでえらいから、ごほうび対象だよぉ」
ころねは、当然のようにユウトの反対側へ座った。
これでユウトの左右は、おかゆところねに挟まれた形になる。
ユウトは、一瞬だけ姿勢を正した。
だが、すぐに諦めたように息を吐いた。
「……近くないですか?」
「近いねぇ」
おかゆが言う。
「近いよぉ」
ころねも言う。
「自覚があるなら」
「でも、邪魔しないよ?」
おかゆが言った。
「ユウトくん、勉強してていいよぉ」
「ころねも静かにする!」
「ころさん、静かにできる?」
「できるよぉ!」
ころねは元気よく言った。
元気よく言った時点で静かではなかった。
ユウトは少しだけ笑う。
「分かりました。でも、収録や配信は大丈夫なんですか?」
「ころねは、この後スタジオ」
「おかゆもあとで収録あるよぉ」
「それなら、準備を」
「大丈夫」
おかゆが、ユウトのノートの端を指で軽く押さえる。
「休憩も仕事のうちだから」
「それは、僕が言われる側の言葉では?」
「今日は僕たちが使う側」
「使う側」
「うん」
ころねが、お菓子の袋を開けながらにこにこする。
「ユウトくんも休憩大事だよぉ」
「今は勉強中です」
「じゃあ、ころねたちは休憩しながらユウトくんの勉強を見守る係」
「そんな係が」
「今できた」
「即席すぎませんか」
「大丈夫。ころね、係の仕事ちゃんとするから」
ユウトは困ったように笑い、再び本へ視線を落とした。
左右から視線を感じる。
だが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、少し落ち着く。
おかゆは本当に静かに座っていた。
ころねも、最初こそお菓子の袋をがさがささせていたが、ユウトがペンを動かし始めると、音を抑えようと努力していた。
努力の結果、袋の音は逆に不自然にゆっくりになった。
ユウトは気づかないふりをした。
◇
「……タレントとの信頼関係は、短期間で構築されるものではない。日常的な会話、状況把握、本人の希望の尊重、無理の兆候の早期発見……」
ユウトは、本の一文をノートにまとめる。
書いている途中で、手が止まった。
無理の兆候の早期発見。
その言葉に、頭の奥で何かが反応する。
ころねの声。
おかゆの声。
スバルの声。
みこの声。
すいせいの声。
あくあの声。
たくさんの声。
その声の調子で、体調や精神状態を判断していたような気がする。
配信中の笑い声。
通話越しの沈黙。
返信の速度。
絵文字の数。
いつもと違う句読点。
小さな変化。
そこに気づいて、スケジュールを調整する。
休みを提案する。
時には叱る。
時には何も言わずに飲み物を置く。
「……」
ユウトは、無意識にころねの方を見た。
「ん?」
ころねが首を傾げる。
「どうしたの、ユウトくん」
「いえ」
「ころねの顔に何かついてる?」
「ついてません」
「じゃあ、見惚れた?」
「違います」
「早い!」
ころねが笑う。
おかゆも隣でくすくす笑った。
「ユウトくん、ころさんの体調チェックしてたんじゃない?」
「え?」
おかゆの言葉に、ユウトは目を瞬かせた。
「そう見えたよぉ」
「……そう、かもしれません」
「ころね、元気だよ!」
ころねは両手を上げた。
「今日もいっぱい動ける!」
「それは、動きすぎるという意味にも聞こえます」
「む」
「配信や収録の前に、あまりはしゃぎすぎるのは」
そこまで言って、ユウトは止まった。
自分が今、自然に何を言おうとしていたのかに気づいたからだ。
ころねは、嬉しそうに目を細めた。
「言っていいよぉ」
「……」
「ユウトくん、言って」
その声は、優しかった。
けれど、逃がす気のない優しさだった。
ユウトは、少しだけ目を伏せてから言った。
「この後スタジオなら、水分を取って、喉も少し休ませてください。テンションを上げるのは本番でいいと思います」
ころねは、ぱあっと笑った。
「うん!」
「……そんなに嬉しいですか?」
「嬉しいよぉ」
ころねは、飲み物を両手で持つ。
「ユウトくんがころねのこと見てくれてるから」
その言葉に、ユウトは少しだけ返答に困った。
おかゆが、横からゆるく付け足す。
「昔も、よく言ってたねぇ」
「おかゆさん」
「ころさん、楽しいと止まらないから」
「おかゆんもでしょ」
「おかゆは省エネだよぉ」
「おかゆん、さらっと長時間ゲームするじゃん」
「それは省エネで長持ちしてるだけ」
「なるほどぉ」
ころねは納得したように頷いた。
ユウトは少しだけ笑った。
この二人の空気は、不思議だ。
ゆるい。
とてもゆるい。
だが、そのゆるさの中に、逃げ道を塞ぐような自然さがある。
スバルのように勢いで押してくるわけではない。
すいせいのように鋭く踏み込むわけでもない。
みこのように感情をぶつけてくるわけでもない。
おかゆところねは、隣にいる。
気づいた時には、隣にいる。
そして、当たり前のように距離を詰めている。
それは、ある意味で一番対応が難しかった。
◇
しばらくして、ユウトは再び本に集中し始めた。
おかゆは、ユウトの左隣でスマホを見ている。
ころねは、右隣で静かに飲み物を飲んでいる。
静かだった。
本当に、驚くほど静かだった。
ただし、距離は近い。
おかゆの肩が、時々ユウトの腕に触れる。
ころねの尻尾が、ユウトの足元でゆるく揺れる。
ユウトは何度か何か言おうとした。
近いです。
勉強しづらいです。
もう少し離れてください。
言うべき言葉はいくつもあった。
だが、ここ最近、事務所の休憩室ではかなりの頻度で似たようなことが起きていた。
すいせいが隣に座る。
みこが正面に陣取る。
あくあが少し離れた場所からじっと見ている。
マリンが会話に紛れて距離を詰める。
フブキが自然に飲み物を置く。
ミオが体調確認をする。
スバルが勢いよく休めと言う。
そして、つい先日は膝枕まで発生した。
それを考えると、左右に座られる程度はまだ平和なのかもしれない。
ユウトは、考えるのをやめた。
黙ってペンを動かす。
おかゆが、その様子を横目で見てにこりと笑った。
ころねも、お菓子を一つ口に入れながら小さく笑った。
二人は、互いに目を合わせる。
言葉はない。
だが、通じていた。
今のところ、ユウトは逃げていない。
つまり、成功。
◇
「そういえば」
ころねが、小さな声で言った。
「スバルちゃん、ユウトくんに膝枕したんだよねぇ」
ユウトのペン先が、紙の上で止まった。
おかゆが、にこにこと笑う。
「あったねぇ。膝枕事件」
「事件にしないでください」
ユウトは顔を上げた。
「不可抗力でした」
「スバルちゃんもそう言ってたねぇ」
「でも、膝だったんだよねぇ」
ころねがにこにこする。
「それは……結果的に」
「ふーん」
「ころねさん?」
「ユウトくん」
ころねは、両手を膝に置いた。
「ころねの膝も空いてるよ」
「勉強中です」
「じゃあ、休憩中に」
「今は休憩ではありません」
「じゃあ、次の休憩」
「予定が組まれている」
「マネジメントだよぉ」
おかゆが感心したように言う。
「休憩予定を先に確保する。ころさん、やるねぇ」
「えへへ」
「褒めないでください」
ユウトは額に手を当てた。
おかゆが、今度は自分の膝を軽く叩く。
「おかゆも空いてるよぉ」
「おかゆさんまで」
「スバルちゃんだけっていうのは、不公平かなって」
「公平性の問題なんですか?」
「うん。大事だよ」
ころねも頷く。
「大事だよぉ」
「……膝枕は公平に配分するものではないと思います」
「じゃあ、どう配分するの?」
「配分しないです」
「厳しい」
おかゆが、少しだけ残念そうに言った。
声音は残念そうだが、顔は楽しそうだった。
ユウトは、参考書を閉じた。
「お二人とも、僕を休ませたいのか、からかいたいのか、どちらですか?」
「どっちも」
おかゆが即答した。
「ころねも!」
ころねも即答した。
「正直ですね」
「嘘はよくないからねぇ」
「うんうん」
ユウトはため息を吐いた。
しかし、怒ってはいなかった。
むしろ、少しだけ口元が緩んでいる。
それを見て、おかゆところねはまた目を合わせた。
この表情。
昔より少しだけ幼くて、今のユウトらしい困り顔。
前世の彼もよく困っていた。
けれど、今の困り方は少し違う。
背負い込んだ結果の困り顔ではない。
誰かに甘やかされ、距離を詰められ、対応に困っている顔。
それが、二人にはたまらなく嬉しかった。
「ユウトくん」
おかゆが言った。
「膝枕がだめなら、逆は?」
「逆?」
ユウトが首を傾げる。
その瞬間。
おかゆは、するりと立ち上がった。
そして、ユウトが座っているソファの前を通り、何食わぬ顔で体勢を変える。
次の瞬間、ユウトの膝の上に、おかゆの頭が乗っていた。
「……」
「……おかゆさん?」
「んー?」
「何をしているんですか」
「休憩」
「僕の膝で?」
「うん」
おかゆは、まるで自分の定位置だと言わんばかりに、ゆったりと目を細めた。
「ユウトくん、膝枕されるのがだめなら、する側ならいいかなって」
「そういう問題では」
「おかゆん、ずるい!」
ころねが立ち上がる。
「ころねも!」
「待ってください」
ユウトが止める間もなく、ころねは反対側からソファに回り込んだ。
そして、ユウトの膝の空いている部分に頭を乗せようとして、位置を探す。
「ころねさん、無理があります」
「ある?」
「あります」
「じゃあ、こう」
ころねは、ユウトの太ももではなく、膝の横に頬を寄せるように座った。
完全な膝枕ではない。
だが、ほぼ占拠だった。
おかゆは左側。
ころねは右側。
ユウトの膝周辺は、ゲーマーズ二人によって制圧された。
「……」
ユウトは、天井を見た。
何か言うべきだ。
絶対に言うべきだ。
しかし、これまでの経験が彼に教えていた。
言っても、たぶん状況はあまり変わらない。
むしろ、楽しそうに返されて終わる。
それに。
おかゆところねは、本当に邪魔をしないようにしている。
おかゆは静かに目を閉じているだけ。
ころねも、ユウトの膝横で満足そうにしているだけ。
危険はない。
勉強を妨害しているかと言えば、かなり妨害している。
だが、ページを読むことはできる。
手も動かせる。
たぶん。
「……分かりました」
ユウトは諦めた。
「十分だけですよ」
おかゆの耳がぴくりと動く。
ころねの尻尾がぱたぱた揺れる。
「やったぁ」
「ユウトくん、やさしいねぇ」
「優しいというか、諦めです」
「諦めも優しさだよぉ」
「違うと思います」
ユウトはため息を吐きながら、マネジメントの本を再び開いた。
膝の上におかゆ。
膝の横にころね。
テーブルの上には、マネジメント参考書。
窓の外には、夏に近づく空。
期末テスト前の高校生の勉強風景としては、かなりおかしかった。
◇
しばらく、穏やかな時間が流れた。
おかゆは本当に静かだった。
膝の上で目を閉じ、時々尻尾をゆるく揺らすだけ。
ころねも、最初は嬉しそうにしていたが、やがて静かになった。
ユウトは、最初こそ集中しづらそうにしていた。
だが、少しずつページを読み進める。
不思議なことに、内容は頭に入ってきた。
むしろ、二人の温度があることで、妙に落ち着いている自分に気づく。
タレントの休息。
心身の安全。
長期的な活動支援。
信頼関係。
そうした言葉が、本の上でただの用語ではなく、膝の上と隣の温度に繋がっていく。
支える、というのは、管理することではない。
前へ押すことだけでもない。
隣にいること。
何もしない時間を守ること。
相手が力を抜ける場所を作ること。
それもまた、支えるということなのかもしれない。
「……なるほど」
ユウトは、ノートに短く書いた。
『支援とは、動かすことだけではなく、休める場所を作ること』
おかゆが、薄く目を開ける。
「いいこと書いてる」
「見えたんですか?」
「見えたよぉ」
「寝ていたのでは」
「おかゆは省エネで起きてる」
ころねも小さく声を出す。
「ころねも起きてるよぉ」
「本当ですか?」
「半分くらい」
「半分」
「おかゆさんみたいなことを」
ユウトが小さく笑う。
その笑いに、おかゆところねは満足そうだった。
ユウトが笑っている。
今ここで。
何かを背負ってではなく。
ただ、困りながら、諦めながら、少しだけ楽しそうに。
それを見るためなら、多少の抜け駆けくらい、まあ仕方ない。
おかゆはそう思った。
ころねもたぶん同じことを思っていた。
◇
その頃。
グループチャットは静かだった。
少なくとも、表面上は。
誰も、今ユウトが休憩室でおかゆところねに膝周辺を占拠されているとは知らない。
おかゆもころねも、報告する気はなかった。
淑女協定。
抜け駆け禁止。
偶然遭遇した場合は後日報告。
高親密度イベントが発生した場合は、ユウト本人の休息を最優先。
条文はある。
ちゃんとある。
だが、世の中には抜け道というものがある。
おかゆは思う。
これは膝枕ではない。
自分が膝枕をしているのではなく、ユウトくんに膝を貸してもらっているだけ。
ころねは思う。
ころねは膝の横だから、膝枕ではない。
だからセーフ。
そして、二人は同時に思っていた。
バレなければ、抜け駆けではない。
恋する乙女は、強かなのだ。
◇
「そういえば」
ユウトが、本を読みながら言った。
「お二人は、今日はこの後も収録ですか?」
「おかゆはあと一つ」
「ころねもこの後スタジオ」
「なら、そろそろ準備した方が」
「まだ五分あるよぉ」
おかゆが膝の上で答える。
「五分前行動という言葉があります」
「ユウトくん、マネージャーっぽい」
ころねが笑う。
「ぽいというか、目指しているので」
「じゃあ、マネージャーさん」
おかゆが、ユウトを見上げる。
「今のおかゆたちは、もう行った方がいい?」
ユウトは、少しだけ考えた。
そして、頷く。
「はい。余裕を持って移動した方がいいと思います。飲み物も持っていってください。スタジオ内が冷えるなら、上着も」
「うん」
おかゆは、ゆっくり身体を起こした。
「じゃあ、行こっか、ころさん」
「はーい」
ころねも名残惜しそうに立ち上がる。
ユウトは、少しだけほっとしたような、少しだけ寂しそうな顔をした。
その表情を、二人は見逃さなかった。
「ユウトくん」
ころねが言う。
「何ですか?」
「またあとで来るね」
「はい」
「勉強、がんばってね」
「ありがとうございます」
おかゆは、テーブルの上に小さなおにぎり型の菓子を置いた。
「糖分補給」
「ありがとうございます。でも、これは」
「差し入れ」
「……では、いただきます」
「うん」
おかゆは満足そうに笑う。
「あと、ユウトくん」
「はい」
「一時間に一回は休憩」
「分かりました」
「目も休める」
「はい」
「肩も回す」
「はい」
「水も飲む」
「はい」
「ちゃんと寝る」
「努力します」
「そこは、はい」
「……はい」
おかゆは、よし、と小さく頷いた。
ころねもにこにこしながら付け加える。
「無理したら、ころねがぎゅーってするからね」
「それは罰なんですか?」
「罰とごほうび」
「どっちですか」
「どっちも!」
ユウトは困ったように笑った。
おかゆところねは、休憩室の扉へ向かう。
出ていく直前、二人は同時に振り返った。
「ユウトくん」
「はい」
「ただいまって言える場所、増えてきた?」
おかゆの問いに、ユウトは一瞬だけ黙った。
休憩室。
学校。
屋上。
青たちとの放課後。
友人たちのいる教室。
ホロライブ事務所。
まだ、完全にそう言えるわけではない。
けれど。
「……少しだけ」
ユウトは答えた。
「増えてきた気がします」
おかゆは嬉しそうに笑った。
ころねも、目を細める。
「そっか」
「よかったねぇ」
二人は、それ以上何も言わずに休憩室を出ていった。
◇
扉が閉まる。
休憩室には、ユウト一人が残された。
テーブルの上には、高校の参考書。
マネジメントの本。
ノート。
おかゆが置いていった小さなお菓子。
ころねの飲み物の跡。
そして、ついさっきまで膝の上にあった温度の名残。
ユウトは、しばらく何も言わずに座っていた。
胸ポケットの懐中時計が鳴る。
チ、チ、チ、チ――。
期末テスト。
夏休み。
進路。
ホロライブ。
マネージャー。
過去。
現在。
未来。
いろいろなものが、少しずつ重なっていく。
ユウトは、ノートの新しいページを開いた。
そして、先ほどの言葉の下に、もう一行書き足す。
『支える側も、誰かの居場所に支えられる』
書いてから、少しだけ照れたように笑った。
「……らしくないかな」
だが、消さなかった。
そのまま、ペンを置く。
そして、おかゆの置いていったお菓子を一つ手に取った。
「いただきます」
小さく言って、口に入れる。
甘かった。
勉強で疲れた頭に、少しだけ染みる甘さだった。
休憩室の外では、どこかのスタジオで配信準備の音がしている。
誰かの笑い声。
スタッフの足音。
遠くで鳴る呼び出し音。
ホロライブの事務所は、今日も動いている。
その中で、ユウトは再び本を開いた。
今度は、少しだけ肩の力を抜いて。
◇
なお。
その日の夜。
ホロライブのグループチャットには、おかゆところねからの報告は最後までなかった。
スバルが膝枕事件の後日報告で散々いじられたことを考えれば、二人の判断は極めて合理的だったと言える。
ただし。
休憩室の監視ログを確認していたAちゃんが、後に小さくため息をついた。
「……淑女協定、形骸化してません?」
その呟きは、誰にも共有されなかった。
大人の判断である。
抜け駆けは、バレなければ抜け駆けではない。
そして恋する乙女は、時に規約の余白を読む。
次の停車駅は、期末テスト。
行き先表示には、こう出ていた。
『中ボス前、膝上セーブポイント』