hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第52話 夏休みファースト・背中合わせの彗星

 

 期末試験明けの教室には、二種類の生徒がいる。

 

 一つは、返却された答案を見て安堵する者。

 

 もう一つは、返却された答案を見て現実から逃げたくなる者。

 

 そして、ユウトの友人である獣人の少年は、後者だった。

 

「……終わった」

 

 彼は、返ってきたテスト用紙を両手で持ったまま、膝から崩れ落ちていた。

 

 床に膝をつき、顔を伏せる。

 

 耳はぺたりと倒れ、尻尾も力なく床に落ちている。

 

 まるで、ラスボスに挑んだものの、開幕全体攻撃で全滅したパーティの前衛のようだった。

 

「まだ終業式前だよ」

 

 ユウトが静かに言う。

 

「俺の夏休みは、今ここで終わったんだ……」

 

「始まってもいないのに?」

 

「赤点補習という名の監獄が、俺を待ってる……」

 

 悪魔族の少年が、そんな獣人の少年の肩をぽんぽんと優しく叩いた。

 

「大丈夫だ。お前はよく戦った」

 

「戦って負けたんだよ……」

 

「違う。問題用紙という名の魔王が強すぎただけだ」

 

「お前、慰めるの下手だな……」

 

「俺の点もまあまあ死んでるからな。今は仲間意識で喋ってる」

 

「お前もかよ」

 

 二人は沈痛な顔で互いを見た。

 

 謎の連帯感が生まれていた。

 

 エルフの少女は、そんな二人を呆れたように見てから、自分のテスト用紙へ視線を落とした。

 

 悪くない点数だった。

 

 むしろかなり良い。

 

 しかし、彼女はふと隣のユウトの机を見る。

 

 そこに置かれている答案用紙。

 

 各教科、どれも安定して高い。

 

 満点こそないが、どれも上位に食い込む点数。

 

 それも、テスト前に必死で詰め込んだような跡はない。

 

 彼は普段通りだった。

 

 ホロライブ事務所に行き、マネジメントの本を読み、時々学校の参考書を開き、それでこの結果だった。

 

 エルフの少女は、自分の答案とユウトの答案を見比べた。

 

 そして、小さく溜息を吐いた。

 

「桜井くん」

 

「何?」

 

「あなた、ちゃんと勉強した?」

 

「一応」

 

「一応でその点数なのが、少し腹立たしいわ」

 

「腹立たしいと言われても」

 

「こっちは普通に努力したのよ」

 

「僕もしました」

 

「高校の勉強より、マネージャーの勉強の方を多めにしていたでしょう」

 

「……どうして分かったの?」

 

「顔に出てるもの」

 

 ユウトは、少しだけ気まずそうに目を逸らした。

 

 獣人の少年が床から顔を上げる。

 

「ユウト……お前、期末テストを中ボスくらいにしか思ってないだろ……」

 

「そんなことはないよ」

 

「じゃあ何ボスだと思ってる?」

 

「……中ボス?」

 

「認めた!」

 

 悪魔族の少年が笑いながら言う。

 

「まあ、ユウトからすれば、期末テストよりホロライブの進路面談の方がよっぽどラスボス感あるだろ」

 

「それは否定できないかもしれない」

 

「否定しろよ!」

 

 教室に笑い声が広がる。

 

 赤点の気配に沈んでいた獣人の少年も、少しだけ笑った。

 

 夏休みは近い。

 

 しかし、その前にはまだ終業式という、眠気との戦いが待っている。

 

     ◇

 

 場所は変わって、体育館。

 

 終業式。

 

 生徒たちは、学年ごとに整列していた。

 

 天井には大型の冷却魔導機が回っているが、人が多いため、完全に涼しいとは言い難い。

 

 壇上では校長が話していた。

 

 長い。

 

 とにかく長い。

 

 夏休みの過ごし方。

 

 生活リズム。

 

 事故防止。

 

 ダンジョンへの無断立ち入り禁止。

 

 魔導端末の使い方。

 

 進路について。

 

 地域行事への参加。

 

 熱中症対策。

 

 話題が列車のように連結され、なかなか終点が見えない。

 

 獣人の少年は、立ったまま魂が抜けかけていた。

 

 悪魔族の少年は、目を開けたまま寝る技術を習得しつつあった。

 

 エルフの少女は、真面目に聞いているように見えたが、耳だけがわずかに疲れていた。

 

 ユウトは、黙って壇上を見ていた。

 

 ただし、意識の半分は別のところにあった。

 

 夏休み。

 

 友人たちと遊ぶ予定。

 

 青、奏、はじめとの予定。

 

 ホロライブ事務所へ行く予定。

 

 YAGOOやAちゃん、のどかとの進路相談。

 

 ライバーたちから送られてくる、なぜか妙に具体的な誘い。

 

 すでに夏休みのカレンダーは、思っていたよりも埋まり始めている。

 

 去年までの自分なら、夏休みはほとんど一人で過ごしていたかもしれない。

 

 屋上。

 

 自宅。

 

 図書館。

 

 せいぜい訓練施設。

 

 だが、今年は違う。

 

 誰かが呼ぶ。

 

 誰かが予定を入れる。

 

 誰かが、自分の時間の中に入ってくる。

 

 それが少し不思議で。

 

 少し怖くて。

 

 それ以上に、少し嬉しかった。

 

 ようやく校長の話が終わった時、体育館全体に見えない安堵が広がった。

 

 終業式は終わった。

 

 夏休みという名の楽園行き列車が、ようやくホームに入ってきた。

 

     ◇

 

 そして、その翌日。

 

 夏休み初日。

 

 桜井ユウトの自宅は、静かだった。

 

 必要最低限のものしかない部屋。

 

 テレビ。

 

 折り畳みの机。

 

 薄い座布団。

 

 生活用品。

 

 小さな棚。

 

 簡素な調理道具。

 

 余計な装飾はほとんどない。

 

 暮らしている、というより、ただ生活機能だけを置いた部屋。

 

 そんな印象の部屋だった。

 

 夏休み中、ユウトの予定はそれなりに埋まっている。

 

 友人たちと遊ぶ日。

 

 青たちと出かける日。

 

 ホロライブ事務所へ行く日。

 

 進路相談の日。

 

 ライバーたちからの誘いも多い。

 

 だが、夏休み初日だけは違った。

 

 この日だけは、予定がなかった。

 

 友人たちからの誘いもない。

 

 青たちとの約束もない。

 

 事務所へ行く用事もない。

 

 だからこそ、ユウトは変わらず勉強していた。

 

 折り畳み机の前に座り、ノートを開き、参考書を横に置く。

 

 夏休み課題。

 

 進路用の資料。

 

 マネジメント関連の本。

 

 ペン先が紙の上を滑る。

 

 静かな部屋に、書く音だけが響く。

 

 ただし。

 

「……すいちゃん」

 

「んー?」

 

 ユウトの背中には、星街すいせいが寄り掛かっていた。

 

 変装用の帽子と眼鏡は、すでに机の端に置かれている。

 

 彼女はユウトの背中に体重を預け、持参したノートパソコンを膝の上に置き、動画の編集画面を開いていた。

 

「重くはないですけど、書きづらいです」

 

「重くないならいいじゃん」

 

「書きづらいと言いました」

 

「じゃあ、頑張って」

 

「そこは離れるところでは?」

 

「やだ」

 

「即答」

 

 すいせいは、ユウトの背中に額を軽く預けたまま、キーボードを打つ。

 

 かちゃかちゃと小さな音がする。

 

 ユウトは、小さく溜息を吐いた。

 

 どうしてこうなったのか。

 

 答えは、数時間前にある。

 

     ◇

 

 朝。

 

 ユウトは一人で朝食を作っていた。

 

 炊いたご飯。

 

 味噌汁。

 

 卵焼き。

 

 簡単な焼き魚。

 

 小鉢代わりの野菜。

 

 質素だが、きちんとした朝食だった。

 

 自分一人なら、もっと簡単に済ませてもいい。

 

 だが、最近はホロライブの面々や友人たちから食生活について何度か指摘されている。

 

 カロリーメイトと水だけで済ませると怒られる。

 

 怒られるというより、心配される。

 

 だから、最近は少しだけ気をつけていた。

 

 味噌汁をよそおうとしたところで、玄関のチャイムが鳴った。

 

「……こんな時間に?」

 

 ユウトは手を止めた。

 

 宅配の予定はない。

 

 学校関係者が来る予定もない。

 

 ホロライブ関係なら、普通は事前に連絡が来る。

 

 警戒しすぎるほどではないが、不思議ではあった。

 

 ユウトは火を止め、玄関へ向かう。

 

 ドアスコープを覗く。

 

 帽子。

 

 大きめの眼鏡。

 

 薄手の上着。

 

 顔は隠れている。

 

 だが、立ち姿と雰囲気に見覚えがありすぎた。

 

 ユウトは、少しだけ嫌な予感を覚えながら扉を開けた。

 

「おはよ、ユウト」

 

 そこに立っていたのは、変装した星街すいせいだった。

 

「……すいちゃん?」

 

「正解」

 

「どうしてここに?」

 

「来たから」

 

「その説明、最近よく聞く気がします」

 

「じゃあ、入るね」

 

「待ってください」

 

 ユウトが止める前に、すいせいはするりと玄関へ入ってきた。

 

 あまりにも自然だった。

 

 あまりにも迷いがなかった。

 

 まるで、前からこの家に何度も来たことがあるような動きだった。

 

 実際には、今の世界で来たことはないはずなのに。

 

「すいちゃん」

 

「ん?」

 

「僕の住所を知っているのは、YAGOOさんとAちゃん、のどかさんくらいのはずなんですけど」

 

「そうだね」

 

「そうだね、じゃないです」

 

「大丈夫。ちゃんと怒られない範囲で来たから」

 

「その言い方が一番不安です」

 

 すいせいは、靴を脱ぎながら笑った。

 

「のどかちゃんから差し入れを預かってきた」

 

「差し入れ?」

 

「うん。夏休み初日からユウトが一人で勉強して、ご飯適当に済ませないようにって」

 

「……それは」

 

「あと、YAGOOさんも知ってる」

 

「知ってるんですか」

 

「知ってる」

 

「止めなかったんですか」

 

「たぶん、止められなかったんじゃない?」

 

「……」

 

 ユウトは額に手を当てた。

 

 説明になっているようで、なっていない。

 

 だが、すいせいが本当に無許可で住所を探ったわけではないらしいことだけは分かった。

 

 それでも、突然自宅に現れたことへの驚きは消えない。

 

「すいちゃん、こういう時は事前に連絡してください」

 

「連絡したら、断るでしょ」

 

「断るかどうかは内容によります」

 

「じゃあ、『朝からユウトの家に行って、一緒に朝ごはん食べて、そのまま居座る』って送ったら?」

 

「断ると思います」

 

「ほら」

 

「ほらじゃないです」

 

 すいせいは満足そうに頷いた。

 

 ユウトは深く溜息を吐く。

 

「……朝食は?」

 

「食べてない」

 

「即答」

 

「ユウトのご飯、食べたいなと思って」

 

「事前連絡なしで来る理由にはなりません」

 

「でも、お腹空いた」

 

 すいせいは、少しだけ首を傾げる。

 

 変装の奥で、青い瞳がこちらを見る。

 

 ユウトは数秒耐えた。

 

 耐えたが、勝てなかった。

 

「……量はあります」

 

「やった」

 

「手を洗ってください」

 

「はーい」

 

 すいせいは、楽しそうに洗面所へ向かった。

 

 ユウトは、もう一度溜息を吐いた。

 

 今日の予定は何もないはずだった。

 

 だが、どうやら夏休み初日から予定は勝手に発生するらしい。

 

     ◇

 

 二人で朝食を取った。

 

 ユウトの部屋には食卓らしい食卓がないため、折り畳み机を挟んで座る形になった。

 

「いただきます」

 

「いただきます」

 

 すいせいは、味噌汁を一口飲んだ。

 

 そして、少し目を丸くする。

 

「おいしい」

 

「普通ですよ」

 

「普通においしい」

 

「それならよかったです」

 

「ユウト、ちゃんと料理するんだ」

 

「最近は少し」

 

「最近?」

 

「怒られるので」

 

「誰に?」

 

「いろいろな人に」

 

 すいせいは、箸を止めた。

 

「カロリーメイトと水?」

 

「……その情報、どこまで広がってるんですか」

 

「ホロライブ内ではかなり」

 

「なぜ」

 

「みんな心配してるから」

 

 ユウトは、少しだけ目を伏せた。

 

「心配されすぎですね」

 

「されるようなことしてるからね」

 

「それは」

 

「否定できないでしょ」

 

「……はい」

 

 すいせいは、小さく笑った。

 

「でも、今日のご飯はちゃんとしてる」

 

「夏休み初日くらいは」

 

「毎日ちゃんとして」

 

「努力します」

 

「努力じゃなくて」

 

「……ちゃんとします」

 

「よし」

 

 すいせいは満足そうに頷いた。

 

 それから、卵焼きを一口食べる。

 

「これもおいしい」

 

「ありがとうございます」

 

「ユウト、前も卵焼き作ってた気がする」

 

 ユウトの手が、ほんの少し止まった。

 

「前の僕が?」

 

「うん」

 

 すいせいは、何でもないことのように言った。

 

「忙しい日の朝とか、夜食とか。料理上手っていうより、ちゃんと食べさせようとしてくる感じ」

 

「……そうですか」

 

「自分は雑に済ませるのにね」

 

「それ、最近よく言われます」

 

「言われることしてるから」

 

 二度目だった。

 

 ユウトは反論しなかった。

 

 すいせいは、味噌汁の湯気越しにユウトを見る。

 

 この部屋は、少し寂しい。

 

 必要なものはある。

 

 でも、生活の温度が薄い。

 

 誰かを招くためのものがない。

 

 誰かと長く過ごすための余白がない。

 

 ユウトが今まで、どれだけ一人で過ごしてきたのかが見えるようで、胸が少し痛んだ。

 

「今度、何か買いに行こうよ」

 

「何をですか?」

 

「座椅子とか、クッションとか、食器とか」

 

「足りています」

 

「足りてるけど、寂しい」

 

「寂しい?」

 

「この部屋、ユウトみたい」

 

 ユウトは目を瞬かせた。

 

「僕みたい?」

 

「必要なものはあるけど、自分を楽しませるものが少ない」

 

 すいせいの声は軽かった。

 

 でも、その目は少し真剣だった。

 

「もう少し、居心地よくしてもいいと思う」

 

 ユウトは、部屋を見回した。

 

 テレビ。

 

 折り畳み机。

 

 生活用品。

 

 たしかに、必要なものはある。

 

 それで十分だと思っていた。

 

 だが、誰かに言われると、少しだけ違って見えた。

 

「考えておきます」

 

「一緒に買いに行くから」

 

「決定なんですか」

 

「決定」

 

「……分かりました」

 

 すいせいは、嬉しそうに笑った。

 

     ◇

 

 朝食を終えると、ユウトは食器を片づけた。

 

 すいせいも手伝おうとしたが、ユウトに「座っていてください」と言われ、少しむくれた。

 

 片づけが終わると、ユウトは折り畳み机に参考書を広げた。

 

「本当に勉強するんだ」

 

「予定がないので」

 

「私がいる」

 

「すいちゃんは予定外です」

 

「じゃあ、予定外イベントじゃん」

 

「イベントを発生させないでください」

 

「もう発生してるから無理」

 

 すいせいは、ユウトの向かい側に座った。

 

 しばらくは大人しくしていた。

 

 しばらくは。

 

「ユウト」

 

「はい」

 

「夏休みの宿題、どのくらいあるの?」

 

「これくらいです」

 

「ふーん」

 

「……すいちゃん、参考書を閉じないでください」

 

「閉じてない。ちょっと触っただけ」

 

「今、明らかに閉じようとしていました」

 

「気のせい」

 

 ユウトは参考書を引き戻す。

 

 数分後。

 

「ユウト」

 

「はい」

 

「この問題、難しい?」

 

「難しくはないです」

 

「じゃあ、これは?」

 

「そこは解答欄です」

 

「そっか」

 

「すいちゃん」

 

「何?」

 

「指で問題文を隠さないでください」

 

「見つかった」

 

「見つかります」

 

 さらに数分後。

 

「ユウト」

 

「はい」

 

「こっち見て」

 

「今、問題を解いています」

 

「一秒だけ」

 

「……」

 

 ユウトは顔を上げた。

 

 すいせいは、両手で頬杖をついていた。

 

「見た」

 

「はい。見ました」

 

「じゃあ続けていいよ」

 

「何だったんですか」

 

「見てほしかっただけ」

 

 ユウトは、軽く息を吐いてノートへ視線を戻す。

 

 また数分後。

 

 すいせいの足が、机の下でユウトの足先に触れた。

 

「すいちゃん」

 

「偶然」

 

「二回目です」

 

「二回までは偶然」

 

「そのルールは初めて聞きました」

 

 三回目で、ユウトは黙ってすいせいの足を避けた。

 

 すいせいは頬を膨らませる。

 

「ユウト、反応が薄い」

 

「勉強していますから」

 

「私が来てるのに」

 

「すいちゃんが来ていても、勉強はします」

 

「む」

 

「む、じゃないです」

 

「つまんない」

 

 すいせいは、むすっとした顔で立ち上がった。

 

 ユウトは一瞬だけ身構える。

 

 何かまた妨害されるのかと思った。

 

 しかし、すいせいは机の向かいではなく、ユウトの背後へ回った。

 

 そして、そのまま床に座る。

 

「すいちゃん?」

 

「もういい」

 

 すいせいは、ユウトの背中に寄り掛かった。

 

「こうする」

 

「……それは、勉強の妨害では?」

 

「してない。手元は邪魔してない」

 

「背中は邪魔されています」

 

「背中で勉強しないでしょ」

 

「理屈が強引です」

 

「強引でいい」

 

 すいせいは、持ってきていたノートパソコンを開いた。

 

 動画編集ソフト。

 

 素材フォルダ。

 

 サムネイル案。

 

 いくつかのタブ。

 

 ユウトの背中に体重を預けたまま、作業を始める。

 

「すいちゃん、仕事ですか?」

 

「半分仕事、半分趣味」

 

「それなら、ちゃんと机を使った方が」

 

「ここがいい」

 

「……」

 

「ユウトも勉強すれば?」

 

 ユウトは、数秒だけ黙った。

 

 そして、諦めたように参考書へ視線を戻す。

 

「分かりました」

 

「うん」

 

「ただ、姿勢が辛くなったら言ってください」

 

「ユウトもね」

 

「僕は大丈夫です」

 

「出た」

 

「何がですか」

 

「大丈夫」

 

 すいせいは背中越しに軽く頭を預ける。

 

「大丈夫禁止ってスバルも言ってたでしょ」

 

「それ、共有されてるんですか」

 

「されてる」

 

「……」

 

 ユウトは、何も言えなくなった。

 

     ◇

 

 そこからの時間は、不思議なほど静かだった。

 

 ユウトは勉強をする。

 

 すいせいは編集作業をする。

 

 時々、キーボードの音。

 

 時々、ペンの音。

 

 たまに、すいせいが小さく鼻歌を歌う。

 

 ユウトは、そのたびに少しだけ手を止める。

 

 前世の記憶ではない。

 

 だが、聞き覚えがあるような気がする。

 

 澄んでいて、強くて、真っ直ぐな声。

 

 ホロライブの未来で、たくさんの人を照らしていた歌。

 

 自分が守った未来。

 

 自分が完全には覚えていないのに、確かに胸を温かくするもの。

 

「ユウト」

 

 すいせいが背中越しに言う。

 

「何ですか?」

 

「手、止まってる」

 

「あ」

 

「私の歌に聞き惚れてた?」

 

「……少し」

 

 すいせいのキーボードを打つ手が止まった。

 

「今、素直に言った?」

 

「言いました」

 

「珍しい」

 

「そうですか?」

 

「うん」

 

 すいせいは、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

「じゃあ、もっと歌おうかな」

 

「勉強に戻ります」

 

「そこは聞いてよ」

 

「勉強中なので」

 

「む」

 

 また頬を膨らませる気配がした。

 

 ユウトは笑いを堪えながらノートへ目を戻す。

 

 静かな時間。

 

 けれど、甘い時間だった。

 

 派手な言葉はない。

 

 抱きしめるわけでもない。

 

 手を繋ぐわけでもない。

 

 ただ背中合わせで、それぞれの作業をしている。

 

 それだけなのに、部屋の温度が朝より少し高く感じる。

 

 すいせいの体温が背中越しに伝わる。

 

 キーボードを打つ振動が、わずかに背中へ響く。

 

 ユウトは、自分の部屋が少しだけ違う場所になったように感じていた。

 

 一人でいるための部屋ではなく。

 

 誰かがいてもいい部屋。

 

 そう思うと、胸の奥が少し落ち着かなくなった。

 

     ◇

 

 昼前になり、すいせいは軽く伸びをした。

 

「そろそろ行く」

 

「もうですか?」

 

 ユウトは、思わずそう言ってから自分で驚いた。

 

 すいせいも、目を丸くする。

 

 それから、にやりと笑った。

 

「何? 寂しい?」

 

「そういう意味では」

 

「寂しいんだ」

 

「違います」

 

「顔赤いよ」

 

「暑いだけです」

 

「冷却魔導具つけてるのに?」

 

「……」

 

 ユウトは答えに詰まった。

 

 すいせいは楽しそうにパソコンを閉じる。

 

「今日はこのくらいにしといてあげる」

 

「何をですか」

 

「いろいろ」

 

「すいちゃん、たまに言い方が不穏です」

 

「たまに?」

 

「……わりと」

 

「よろしい」

 

「褒めてないです」

 

 すいせいは変装用の帽子と眼鏡を身につけた。

 

 それだけで、雰囲気が少し変わる。

 

 星街すいせいではなく、街中にいてもすぐには気づかれない誰かになる。

 

 それでもユウトには、すいせいにしか見えなかった。

 

 玄関まで見送る。

 

 靴を履くすいせいの背中を見ながら、ユウトは言った。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

「何が?」

 

「朝食を一緒に食べたことと、差し入れと……その、部屋のことも」

 

「部屋?」

 

「少し、考えてみます。必要なものだけじゃなくて、居心地のいいものも」

 

 すいせいは、振り返った。

 

 眼鏡の奥の目が、柔らかくなる。

 

「うん」

 

「次からは、来る前に連絡してください」

 

「それは考える」

 

「そこは約束してください」

 

「やだ」

 

「即答」

 

 ユウトは溜息を吐く。

 

 だが、その表情は柔らかかった。

 

「じゃあ、気をつけて帰ってください」

 

「うん」

 

 すいせいは一歩、玄関の外へ出た。

 

 そして。

 

 ふいに振り返った。

 

「ユウト」

 

「はい?」

 

 次の瞬間。

 

 すいせいの両手が、ユウトの頭を捕まえた。

 

 乱暴ではない。

 

 けれど、逃げる間もないほど確かな動き。

 

 ユウトの視界が、すいせいの顔でいっぱいになる。

 

 青い瞳。

 

 赤く染まった頬。

 

 少しだけ震える睫毛。

 

「すいちゃ――」

 

 言葉は、最後まで出なかった。

 

 唇に、静かに触れる柔らかい感触。

 

 ほんの一瞬。

 

 けれど、確かに。

 

 短いリップ音が、玄関の静けさに落ちた。

 

 時間が止まった。

 

 ユウトの思考が止まった。

 

 胸ポケットの懐中時計の音すら、一瞬だけ遠くなる。

 

 すいせいはゆっくり離れた。

 

 彼女の顔も赤かった。

 

 耳まで赤い。

 

 それでも、目だけはユウトをまっすぐ見ていた。

 

「すいちゃんの初めて……忘れちゃだめだぞ……」

 

 声は小さかった。

 

 けれど、はっきり届いた。

 

 ユウトは顔を真っ赤にしたまま、目を白黒させている。

 

「え、あ……その、すいちゃ――」

 

「じゃあね」

 

 すいせいは、くるりと振り向いた。

 

 帽子のつばを少し下げ、玄関先から歩き出す。

 

 数歩進んだところで、もう一度だけ振り返った。

 

 その顔に浮かんでいたのは、いつもの歌姫の笑みではなかった。

 

 勝ち誇るようで。

 

 照れ隠しのようで。

 

 少しだけ悪戯っぽい。

 

 ユウトにとって、それは完全に小悪魔の笑みだった。

 

 彼女はそのまま、夏の朝の光の中へ歩いていく。

 

 ユウトは、玄関に立ち尽くしたまま動けなかった。

 

 唇に残る感触。

 

 短い音。

 

 赤い頬。

 

 そして、あの言葉。

 

「……忘れちゃだめって」

 

 ユウトは、ようやく小さく呟いた。

 

 忘れられるわけがなかった。

 

 胸ポケットの懐中時計が、遅れて思い出したように時を刻み始める。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 夏休み初日。

 

 予定は何もなかったはずの日。

 

 だが、その日。

 

 桜井ユウトの予定表には、誰にも見えない文字で、確かに一つの出来事が書き込まれた。

 

『星街すいせい、初めてのキス』

 

 もちろん。

 

 その日のホロライブグループチャットに、すいせいからの報告はなかった。

 

 淑女協定。

 

 抜け駆け禁止。

 

 後日報告。

 

 そんな文字がどこかで光っていたかもしれない。

 

 だが、恋する乙女は時に強かで。

 

 そして、彗星は誰よりも速く夜を駆ける。

 

 次の停車駅は、夏休み。

 

 行き先表示には、こう出ていた。

 

『忘れちゃだめな、ファーストサマー』

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総合評価:181/評価:7.33/連載:9話/更新日時:2026年06月28日(日) 12:00 小説情報

全てはホロメンのために(作者:夜桜透)(原作:ホロライブ)

ホロライブプロダクションで働くスタッフ、「桜木宏斗」こと『S君』。▼彼はタレント達の活動を支える裏方として、忙しくも充実した日々を送っていた。▼収録、配信準備、イベント対応——華やかな舞台の裏側には、支える人間たちの地道な努力がある。▼これは、そんな“支える側”として生きる一人の男と、彼を取り巻く人々の物語。▼注意!!▼・この作品は、完全にオリジナル主人公物…


総合評価:75/評価:-.--/連載:13話/更新日時:2026年07月04日(土) 19:50 小説情報

ホロライブに男社員?修羅場でしょ(作者:たちなみ)(原作:ホロライブ)

▼二番煎じですが、ホロライブに男社員をぶち込むっていう話です▼誰かと付き合い始めたら……そりゃあ修羅場だよなぁ?▼(ハーレム予定)▼活動報告にアイデアを募集しています、気軽にコメントしてくれるとありがたいです。▼https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338692&uid=508249


総合評価:32/評価:2/連載:8話/更新日時:2026年06月01日(月) 12:27 小説情報

冰龍の魂を宿す者。異世界《ホロノア・ユクモ》の巨大ギルドの歌姫たちとの日常(作者:レリ)(原作:ホロライブ にじさんじ)

▼「……カナ君、なの……? 本当に、カナ君……カナ君……!!」▼数十年という永い沈黙を破り、彼女は子供のように泣きじゃくりながら抱きついてきた。▼かつてその身に宿る「氷」が彼女を傷つけることを恐れ、何も言わずに姿を消した少年は――今、白銀の翼を携えた最強の龍人として、大切な女性(ひと)を優しく、温かく抱きしめ返す。▼舞台は和風の異世界《ホロノア・ユクモ》。▼…


総合評価:62/評価:-.--/連載:4話/更新日時:2026年05月18日(月) 21:13 小説情報

元ヤクザ、ホロライブに就職する(作者:リハビリマン)(原作:ホロライブ)

元ヤクザが再生するために、ホロライブに就職するお話。


総合評価:37/評価:-.--/連載:2話/更新日時:2026年04月27日(月) 17:00 小説情報


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