hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第53話 彗星キス・協定クラッシュ

 

 夏休みに入ってから、桜井ユウトの生活は少し変わった。

 

 大きく変わったわけではない。

 

 朝起きる。

 

 食事を作る。

 

 勉強する。

 

 出かける。

 

 帰ってくる。

 

 そうした基本的な流れは、以前と同じだった。

 

 ただ、その中に入ってくる名前が増えた。

 

 学校の友人たち。

 

 火威青、音乃瀬奏、轟はじめ。

 

 そして、ホロライブ。

 

 友人たちに誘われれば、街へ出る。

 

 青たちに腕を引かれれば、ゲームセンターやクレープ屋へ行く。

 

 ホロライブ事務所へ向かえば、休憩室で勉強をしたり、タレントたちに構われたり、時にはAちゃんや春先のどかの仕事を少し手伝ったりする。

 

 手伝う、と言っても大きな業務ではない。

 

 資料整理。

 

 備品確認。

 

 配信部屋の簡単な片づけ。

 

 差し入れの仕分け。

 

 事務作業の補助。

 

 それでも、ユウトの手つきは妙に慣れていた。

 

 初めて触るはずの管理端末。

 

 初めて見るはずの配信チェック表。

 

 初めて聞くはずの進行管理用語。

 

 それらを、彼は一度説明されるとすぐに飲み込んだ。

 

 まるで、失われた技能を取り戻すように。

 

 Aちゃんは、その様子を見るたびに少しだけ目を細めた。

 

 のどかは、嬉しそうにしながらも、同時に心配そうにユウトへ飲み物を差し出した。

 

 ホロライブのタレントたちは、それぞれにユウトへ近づいてきた。

 

 勉強を見る者。

 

 邪魔する者。

 

 差し入れを置く者。

 

 ゲームに誘う者。

 

 膝を狙う者。

 

 休憩室は、すっかりユウトを中心とした不思議な居場所になりつつあった。

 

 だが。

 

 夏休み初日。

 

 星街すいせいがユウトの自宅へ押しかけ、そして帰り際に彼の唇へ自分の初めてを刻みつけた日から。

 

 ユウトとすいせいの間には、少しだけ違う空気が流れるようになっていた。

 

     ◇

 

「ユウト、これ」

 

「ありがとうございます、すいちゃん」

 

 事務所の休憩室。

 

 すいせいが、ユウトの前に冷たい飲み物を置いた。

 

 それ自体は普通だった。

 

 最近では、誰かがユウトに飲み物を差し入れることなど珍しくない。

 

 ユウトも自然に礼を言う。

 

 すいせいも自然に頷く。

 

「勉強?」

 

「はい。今日はマネジメントの方を少し」

 

「ふーん」

 

「すいちゃんは収録ですか?」

 

「この後ね」

 

「喉、無理しないでください」

 

「分かってる」

 

 ここまでは普通。

 

 いつも通り。

 

 事務所にいるタレントと、よく顔を出すようになった高校生。

 

 あるいは、前世を覚えているライバーと、少しずつ今の関係を作り直している少年。

 

 そう見える。

 

 だが。

 

 ユウトの視線が、ふとすいせいの唇に落ちた。

 

 一瞬だった。

 

 本当に一瞬。

 

 だが、落ちた。

 

 そして、すいせいはそれに気づいた。

 

 すいせいの手が、持っていた台本の端を少し強く握る。

 

 今度はすいせいの視線が、ユウトの口元へ向かった。

 

 ユウトも、それに気づいた。

 

「……」

 

「……」

 

 二人は同時に目を逸らした。

 

 ユウトは参考書へ。

 

 すいせいは台本へ。

 

 明らかに不自然だった。

 

「……今日は暑いですね」

 

 ユウトが言う。

 

「冷房効いてるよ」

 

 すいせいが答える。

 

「そうですね」

 

「うん」

 

「……」

 

「……」

 

 会話が死んだ。

 

 休憩室の隅で資料を整理していたAちゃんが、ちらりと二人を見る。

 

 その近くでタブレットを持っていたのどかも、ちらりと見る。

 

 さらにソファで寝転がっていたロボ子さんが、半分閉じかけていた目を開いた。

 

 さくらみこは、飲み物を飲む手を止めた。

 

 AZKiは、静かに瞬きをした。

 

 ときのそらは、優しく微笑んだまま、少しだけ首を傾げた。

 

 全員が思った。

 

 何かあった。

 

 あまりにも分かりやすかった。

 

 本人たちは隠しているつもりなのだろう。

 

 普通に話せているつもりなのだろう。

 

 しかし、前世から付き合いのあるタレントやスタッフたちにとっては、むしろ分かりやすい変化だった。

 

 特にすいせい。

 

 普段なら、もっと平然とする。

 

 ユウトに距離を詰める時も、もっと堂々としている。

 

 軽口を叩く時も、目を逸らさない。

 

 それなのに、今はふとした瞬間に頬が赤くなる。

 

 ユウトと目が合うと、ほんの少しだけ言葉が遅れる。

 

 そして、ユウトもユウトである。

 

 すいせいを見る時だけ、妙に視線が泳ぐ。

 

 唇を見てしまい、すぐに逸らす。

 

 顔に見惚れてしまい、慌てて参考書へ戻る。

 

 隠せていない。

 

 まるで隠せていない。

 

「……みこち」

 

 ロボ子さんが小声で言った。

 

「なににぇ」

 

「これ、何かあったよね」

 

「ありすぎるにぇ」

 

 みこは真顔で頷く。

 

「すいちゃん、あれはやった顔にぇ」

 

「やった顔って何?」

 

 AZKiが冷静に尋ねる。

 

「何かをやった顔にぇ」

 

「何か」

 

「何か」

 

 ロボ子さんとみこが同時に頷いた。

 

 そらは、少し困ったように笑う。

 

「でも、聞き方は優しくね」

 

「そらちゃん」

 

「すいちゃん、たぶん言わないと思うけど」

 

「だから聞くんだにぇ」

 

「優しくね」

 

「……はいにぇ」

 

 みこは少しだけ背筋を伸ばした。

 

 そらの笑顔は強かった。

 

     ◇

 

 その数分後。

 

 ユウトは休憩室の中央から、自然に切り離されていた。

 

「ユウトくん、こっちでゲームしよ」

 

 おかゆが言った。

 

「今ですか?」

 

「今」

 

 ころねが両手を上げる。

 

「ユウトくん、ころねと勝負!」

 

「でも、勉強が」

 

「休憩も大事だよぉ」

 

 ミオがにこやかに言う。

 

「一時間に一回は休憩って、おかゆも言ってたでしょ?」

 

「それはそうですが」

 

「はい、こっち」

 

 フブキが飲み物を持ってユウトの横に立つ。

 

「ちょっとだけです。ちょっとだけ」

 

「ちょっとで済むんですか?」

 

「たぶん」

 

「そのたぶんは信用できますか?」

 

「できません」

 

「正直ですね」

 

 ユウトは困ったように笑いながら、ゲーマーズやミオ、フブキたちに連れていかれる。

 

 スバルも加わり、妙に大きな声で言った。

 

「ユウト! 今日は反射神経ゲームだ! 勉強ばっかりだと頭が爆発するぞ!」

 

「爆発はしません」

 

「する! たぶん!」

 

「たぶん」

 

 そのままユウトは、休憩室の反対側にあるゲームスペースへ連行された。

 

 彼の視界から、0期生の一団が見えない位置。

 

 しかも、フブキとミオがさりげなく立ち位置を調整し、ユウトからすいせいたちが見えないようにブロックしている。

 

 ユウトはそれに気づかない。

 

 いや、何となく不自然だとは思ったが、最近のホロライブ事務所では不自然なことが多すぎるため、考えるのをやめた。

 

「……まあ、少しだけなら」

 

「よーし!」

 

 スバルがコントローラーを渡す。

 

「今度こそ勝つ!」

 

「スバルさん、前回もそう言っていました」

 

「前回は前回! 今回は今回!」

 

「そうですか」

 

 ユウトはコントローラーを受け取った。

 

 そして、背後で何が始まろうとしているかを知らないまま、ゲーム画面へ向き直った。

 

     ◇

 

 休憩室の一角。

 

 0期生が、すいせいを囲んでいた。

 

 ときのそら。

 

 ロボ子さん。

 

 さくらみこ。

 

 AZKi。

 

 そして、中央に星街すいせい。

 

 逃げ道はない。

 

 いや、物理的にはある。

 

 だが、精神的にはない。

 

「すいちゃん」

 

 そらが優しく呼んだ。

 

「なに?」

 

 すいせいは平静を装っている。

 

 装っているが、すでに少し目が泳いでいる。

 

「ユウトくんと、何かあった?」

 

「何もないよ」

 

 即答だった。

 

 即答すぎた。

 

 みこが目を細める。

 

「早いにぇ」

 

「何が」

 

「返事が早いにぇ」

 

「普通でしょ」

 

「普通じゃないにぇ」

 

 ロボ子さんが頷く。

 

「すいちゃん、さっきユウトくんの顔見て赤くなってた」

 

「なってない」

 

「なってたよ?」

 

「なってない」

 

「なってた」

 

「なってない」

 

 AZKiが静かに言う。

 

「すいせい、嘘が雑になってる」

 

「AZKiまで」

 

「普段のすいせいなら、もっと上手く誤魔化す」

 

「評価が変な方向に高い」

 

 すいせいは腕を組む。

 

「本当に何もないって」

 

「じゃあ、質問を変えるにぇ」

 

 みこが身を乗り出す。

 

「夏休み初日、どこ行ってたにぇ?」

 

「家」

 

「誰の?」

 

「自分の」

 

「その後は?」

 

「作業」

 

「どこで?」

 

「……」

 

「すいちゃん?」

 

「……カフェ」

 

「どこの?」

 

「駅前」

 

「何時から何時まで?」

 

「みこち、尋問みたいになってる」

 

「尋問じゃないにぇ。確認にぇ」

 

 そらが、みこの肩に手を置く。

 

「みこちゃん、優しく」

 

「優しくしてるにぇ」

 

 すいせいは、内心で舌打ちしたい気分だった。

 

 0期生は厄介だ。

 

 仲が良いからこそ、少しの変化を見逃さない。

 

 しかも、前世のユウトを知っている。

 

 ユウトとすいせいの間に流れる空気が変わったことも、当然のように気づいてくる。

 

「すいちゃん」

 

 そらが言う。

 

「怒ってるわけじゃないんだよ」

 

「分かってる」

 

「ただ、心配で」

 

「心配?」

 

「うん」

 

 そらは、少しだけ視線を柔らかくした。

 

「ユウトくんも、すいちゃんも、何か大事なことを一人で抱えようとする時があるから」

 

 その言葉に、すいせいは一瞬だけ黙った。

 

 そらのこういうところが、ずるい。

 

 責めるのではなく、心配してくる。

 

 だからこそ、言葉に詰まる。

 

 しかし、言うわけにはいかない。

 

 あの日のこと。

 

 夏休み初日。

 

 ユウトの家で朝食を食べたこと。

 

 背中に寄り掛かって過ごしたこと。

 

 帰り際に、初めてのキスをしたこと。

 

 それを言えば、間違いなく会議になる。

 

 いや、会議どころでは済まない。

 

 淑女協定が燃える。

 

 すいせいは確信していた。

 

 だから言わない。

 

 意地でも言わない。

 

「何もない」

 

 すいせいは、もう一度言った。

 

「ユウトとは普通に話してるだけ」

 

「普通」

 

 AZKiが反復する。

 

「普通にしては、二人とも唇見すぎ」

 

「っ」

 

 すいせいの頬が赤くなった。

 

 みこの目が輝く。

 

「今反応したにぇ!」

 

「してない!」

 

「したにぇ!」

 

「してない!」

 

「すいちゃん、分かりやすすぎるにぇ!」

 

「うるさいなぁ!」

 

 すいせいの声が少し大きくなる。

 

 ゲームスペースの方から、ユウトが一瞬こちらを見ようとした。

 

 だが、その瞬間、スバルが叫んだ。

 

「ユウト! 今だ! 今右! 右から来てる!」

 

「右ですか」

 

「違う左だった!」

 

「どっちですか」

 

「スバルにも分からん!」

 

 ユウトの意識はゲームへ戻された。

 

 ブロックは完璧だった。

 

 すいせいは、深く息を吐いた。

 

「……皆、しつこい」

 

「だって気になるにぇ」

 

「気になるよねぇ」

 

 ロボ子さんも頷く。

 

「すいちゃんがあんなに分かりやすいの、珍しいもん」

 

「珍しくない」

 

「珍しいよ」

 

「珍しくない」

 

 AZKiがさらに言う。

 

「ユウトも分かりやすい」

 

「……」

 

「二人で目が合うたびに逸らしてる」

 

「……」

 

「照れてる」

 

「……」

 

「何かあった」

 

「……」

 

 すいせいのこめかみが、ぴくりと動いた。

 

 何度も聞かれる。

 

 誘導される。

 

 見抜かれる。

 

 言わないと決めているのに、少しずつ逃げ道を塞がれていく。

 

 それが、だんだん腹立たしくなってきた。

 

 もちろん、0期生の皆が悪意で聞いているわけではないことは分かっている。

 

 分かっている。

 

 でも、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 

 大事なものは、簡単に差し出したくない。

 

 あれは自分とユウトだけの時間だ。

 

 少なくとも、今は。

 

 すいせいは、ふと視線を上げた。

 

 その時だった。

 

 ゲームスペースの向こう。

 

 休憩室の中央を通って、飲み物を取りに来たユウトが見えた。

 

 ゲームが一段落したのだろう。

 

 コントローラーを置き、少し離れた自販機へ向かっている。

 

 フブキたちのブロックを抜けた、ほんの一瞬の隙。

 

 ユウトは、こちらの状況に気づいていない。

 

 すいせいの中で、何かが切れた。

 

 いや。

 

 切れたというより、火がついた。

 

「……そんなに気になるなら」

 

 すいせいは、小さく呟いた。

 

 そらが目を瞬かせる。

 

「すいちゃん?」

 

 すいせいは笑った。

 

 0期生たちは、その笑みに少しだけ嫌な予感を覚えた。

 

 勝負を決めに行く時の笑みだった。

 

     ◇

 

 ユウトは、自販機の前で飲み物を選んでいた。

 

「水……いや、今日は少し甘いものでも」

 

 勉強とゲームで少し頭を使った。

 

 糖分を取ってもいいかもしれない。

 

 そう考えていると、横から足音が近づいた。

 

「ユウト」

 

「はい?」

 

 振り向く。

 

 そこにいたのは、すいせいだった。

 

 いつものように見える。

 

 少しだけ頬が赤い。

 

 けれど、目は妙に強い。

 

「すいちゃん、どうかしまし――」

 

 言い終える前に、すいせいの手がユウトの腕を掴んだ。

 

「え……?」

 

 ユウトが困惑の声を漏らす。

 

 すいせいは、そのまま一歩近づいた。

 

 休憩室の空気が止まった。

 

 0期生も。

 

 ゲームスペースにいた面々も。

 

 ソファでくつろいでいた者も。

 

 書類を持って入ってきかけたスタッフも。

 

 全員が、何かが起きると理解した。

 

 次の瞬間。

 

 すいせいは、まるで見せつけるように、ユウトの唇へ自分の唇を重ねた。

 

 短い。

 

 静か。

 

 けれど、誰の目にも明らかな口づけだった。

 

 音はほとんどしなかった。

 

 しかし、休憩室にいた全員には、確かに聞こえた気がした。

 

 何かが壊れる音が。

 

 主に、淑女協定の。

 

「……」

 

 ユウトは完全に固まった。

 

 押しかけていた飲み物のボタンを押すことすら忘れている。

 

 目を見開き、顔が一瞬で赤く染まっていく。

 

 すいせい自身も赤かった。

 

 だが、離れた後の彼女は逃げなかった。

 

 むしろ、さらに一歩踏み込んだ。

 

 ユウトの頭を、自分の胸元へ抱え込むように引き寄せる。

 

「す、すいちゃ……」

 

「黙ってて」

 

「はい」

 

 ユウトは、混乱のあまり素直に黙った。

 

 すいせいは、0期生たちへ顔を向けた。

 

 その目は、赤い頬とは裏腹に、勝ち誇っていた。

 

「これで分かった?」

 

 休憩室が爆発した。

 

     ◇

 

「すいちゃあああああああん!?」

 

 最初に叫んだのは、みこだった。

 

「今! 今! 今何したにぇ!? みこ見たにぇ!? 見たよね!? 今したよね!?」

 

「見た」

 

 ロボ子さんが呆然と頷く。

 

「見たね」

 

 AZKiも静かに言う。

 

「証拠として十分」

 

「何の証拠!?」

 

 すいせいが突っ込む。

 

 そらは両手を口元に当てて、目を丸くしていた。

 

「す、すいちゃん……大胆……」

 

「そらちゃん、感想がそこ!?」

 

 スバルがゲームスペースから飛び上がる。

 

「おいおいおいおい! 待て待て待て! 淑女協定は!? あれ何だったんだよ!?」

 

 フブキが眼鏡もかけていないのに眼鏡を押さえるような仕草をした。

 

「緊急会議です」

 

「フブちゃん、声が低い!」

 

 ミオが額に手を当てる。

 

「みんな落ち着いて。まずユウトの呼吸確認」

 

「そこ!?」

 

 おかゆが、にこにこしながら言う。

 

「ユウトくん、顔真っ赤だねぇ」

 

 ころねも尻尾を揺らした。

 

「ころねもやる」

 

「やらない!」

 

 スバルが即座に止める。

 

「ころね! 今それ言う場面じゃない!」

 

「じゃあ後で」

 

「後でもだめ!」

 

 あくあは、休憩室の入口で固まっていた。

 

 ちょうど飲み物を買いに来たところだったらしい。

 

 手に持っていた紙パックが、ぎゅっと握られている。

 

「キス……」

 

 小さな声。

 

 その横で、るしあが無言だった。

 

 無言なのが逆に怖かった。

 

 フレアがすぐ隣に立つ。

 

「るしあちゃん、深呼吸しよう」

 

「……すいせいちゃん」

 

「はい」

 

 すいせいの返事が少しだけ硬くなる。

 

「後で話そうね」

 

「……はい」

 

 すいせいは少しだけ目を逸らした。

 

 さすがに、今のるしあの圧には勝ち誇りきれなかった。

 

 マリンは、両手で顔を覆っていた。

 

「これは……これは大航海時代どころか、先制砲撃です」

 

「船長、例えが物騒」

 

 ノエルが困ったように言う。

 

「でも、確かにこれは……」

 

 かなたが両手を握りしめて震えている。

 

「握力で何か壊しそう」

 

「かなたん、手! 机はだめ!」

 

 トワが慌てて止める。

 

 ラプラスは、椅子の上に立ち上がっていた。

 

「総帥として抗議する! これは明確な抜け駆けであり、協定違反であり、吾輩も――」

 

「ラプ、座って」

 

 ルイが止める。

 

「しかし!」

 

「座って」

 

「はい」

 

 ラプラスは座った。

 

 こよりは、端末を取り出しかけてルイに止められていた。

 

「記録を」

 

「しない」

 

「でもこれは重要な観測事例で」

 

「しない」

 

「はい」

 

 休憩室の喧騒は、収まる気配がなかった。

 

 その中心で、ユウトはまだすいせいの腕の中にいた。

 

 顔は赤い。

 

 完全に混乱している。

 

 だが、抵抗はしていなかった。

 

 というより、脳が処理を放棄していた。

 

「すいちゃん」

 

 ユウトが、ようやく小さな声を出す。

 

「何」

 

「これは、その」

 

「……嫌だった?」

 

 その問いだけは、小さかった。

 

 先ほどまでの勝ち誇った声ではない。

 

 少しだけ不安が混じっていた。

 

 ユウトは、赤い顔のまま固まる。

 

 そして、ゆっくり首を横に振った。

 

「嫌では、ないです」

 

 休憩室の喧騒が、一瞬止まった。

 

 すいせいの顔が、さらに赤くなる。

 

「そ」

 

「ただ」

 

「ただ?」

 

「心臓に悪いです」

 

 すいせいは、数秒黙った。

 

 それから、ユウトの頭を抱える腕に少しだけ力を込める。

 

「私もだよ」

 

 声は小さかった。

 

 だが、ユウトには聞こえた。

 

     ◇

 

「はい、そこまで」

 

 パン、と手を叩く音がした。

 

 Aちゃんだった。

 

 いつの間にか休憩室の入口に立っている。

 

 隣には、春先のどかもいる。

 

 のどかは顔を赤くしながらも、手元のタブレットを抱えていた。

 

 Aちゃんは、休憩室全体を見回した。

 

「まず、皆さん。ここは休憩室です。スタジオではありません。収録中でもありません。叫びすぎない」

 

「はい……」

 

 何人かが素直に返事をした。

 

「次に、ユウトくん」

 

「はい」

 

「呼吸できていますか?」

 

「……はい」

 

「ならよし」

 

 Aちゃんは頷いた。

 

「すいせいさん」

 

「はい」

 

「後でお話があります」

 

「……はい」

 

 すいせいは、さすがに少し小さくなった。

 

 Aちゃんはさらに続ける。

 

「そして、皆さん」

 

 その声に、休憩室の全員が少しだけ姿勢を正した。

 

「淑女協定については、再協議が必要そうですね」

 

 その一言で、空気がまた揺れた。

 

「破棄ではなく再協議ですか?」

 

 フブキが尋ねる。

 

「現時点では」

 

 Aちゃんは冷静に言った。

 

「ただし、かなり大規模な改定になると思います」

 

「Aちゃん、労務みたいな言い方にぇ」

 

 みこが言う。

 

「実際、管理案件です」

 

 Aちゃんは即答した。

 

 のどかが、小さく付け加える。

 

「えっと、皆さん、ユウトさんをびっくりさせすぎないように……」

 

 全員の視線が、ユウトへ向かった。

 

 ユウトは、いまだにすいせいの腕の中で赤い顔をしている。

 

 完全に放心している。

 

 たしかに、びっくりしすぎている。

 

「……すいちゃん」

 

 そらが優しく言った。

 

「ユウトくん、そろそろ離してあげようか」

 

「……やだ」

 

「すいちゃん?」

 

「もう少しだけ」

 

 すいせいは、ユウトを抱えたまま小さく言う。

 

 それは勝ち誇った声ではなかった。

 

 ただ、離したくないという声だった。

 

 ユウトは、その声を聞いて動けなくなった。

 

 周囲のタレントたちも、少しだけ言葉を失う。

 

 嫉妬はある。

 

 ものすごくある。

 

 協定違反だという気持ちもある。

 

 叫びたい。

 

 問い詰めたい。

 

 自分も、と言いたい者もいる。

 

 だが、すいせいの表情があまりにも赤くて、あまりにも必死だったから。

 

 ほんの少しだけ、誰も動けなかった。

 

 その沈黙を破ったのは、みこだった。

 

「……すいちゃん」

 

「何」

 

「あとで全部聞くにぇ」

 

「言わない」

 

「聞くにぇ」

 

「言わない」

 

「聞くにぇ」

 

「言わない」

 

 二人は睨み合った。

 

 だが、さっきまでとは違い、そこに少しだけ笑いが混じっていた。

 

 AZKiが静かに呟く。

 

「これは、もう隠しきれないね」

 

 ロボ子さんが頷く。

 

「うん。隠す気もなさそう」

 

 そらは、小さく笑った。

 

「夏休み、始まったばかりなのにね」

 

 休憩室の誰かが、ぽつりと言った。

 

「淑女協定、早かったな……」

 

 誰の声かは分からない。

 

 だが、全員が思った。

 

 確かに早かった。

 

 採択からそう時間も経っていない。

 

 膝枕事件。

 

 膝上ゲーマーズ。

 

 未報告の抜け駆け疑惑。

 

 そして今回の、休憩室公開キス。

 

 淑女協定は、もはや原形を保っているのか怪しかった。

 

 いや、そもそも最初から保つ気があったのかすら怪しい。

 

 恋する乙女たちは、強かで。

 

 そして、想定よりずっと前のめりだった。

 

     ◇

 

 しばらくして、ユウトはようやくすいせいから解放された。

 

 解放された、という表現が正しいかどうかは分からない。

 

 ただ、彼はふらふらとソファへ座らされ、ミオから水を渡され、フブキから「深呼吸しましょう」と言われ、スバルから「お前ほんと大丈夫か!?」と肩を揺さぶられかけ、そらに止められた。

 

 すいせいは、0期生に囲まれ直していた。

 

 さっきよりも包囲が厳重になっている。

 

「すいちゃん」

 

 そらが言う。

 

「はい」

 

「何があったか、ちゃんと話せるところだけでいいから話そうか」

 

「……」

 

「話そうか」

 

「……はい」

 

 すいせいは観念したように頷いた。

 

 みこが小さくガッツポーズをする。

 

 AZKiは静かに記録用のメモを取り出した。

 

「AZKi、メモはやめて」

 

「記憶用」

 

「やめて」

 

 ロボ子さんは、にこにこしながらすいせいの隣に座る。

 

「大丈夫。怒らないよ」

 

「本当?」

 

「たぶん」

 

「たぶんかぁ」

 

 すいせいは顔を赤くしたまま、視線を落とした。

 

 その姿は、いつもの堂々とした歌姫ではなかった。

 

 ただの、恋をしている少女だった。

 

 ユウトは少し離れたソファで、その姿を見てしまった。

 

 目が合う。

 

 二人とも、同時に顔を逸らした。

 

 また、気恥ずかしい空気が流れる。

 

 だが、今度は隠しようがなかった。

 

 休憩室中が見ていた。

 

 全員が察した。

 

 そして全員が、たぶん同じことを考えていた。

 

 これは、大変な夏休みになる。

 

     ◇

 

 その日の夜。

 

 ホロライブのグループチャットは、かつてないほど荒れた。

 

『白上フブキ:緊急議題。淑女協定改定について』

 

『大空スバル:もう協定どころじゃねえだろ!』

 

『さくらみこ:すいちゃんがやったにぇ!!!!』

 

『星街すいせい:うるさい』

 

『宝鐘マリン:公開キスは上位イベントどころではありません。ルート確定演出です』

 

『大神ミオ:落ち着いて』

 

『湊あくあ:落ち着けません』

 

『潤羽るしあ:落ち着けない』

 

『戌神ころね:ころねもする』

 

『猫又おかゆ:ころさん、順番待ちかなぁ』

 

『大空スバル:順番制にするな!』

 

『兎田ぺこら:淑女協定とは何だったぺこ』

 

『桐生ココ:歴史は破られるためにあるってことだな』

 

『鷹嶺ルイ:破りすぎです』

 

『博衣こより:この事例から推測するに、協定は感情負荷が一定値を超えると機能停止する可能性が――』

 

『鷹嶺ルイ:こより、分析しない』

 

『ときのそら:みんな、ユウトくんを困らせすぎないようにね』

 

 その一言で、少しだけチャットの速度が落ちた。

 

 だが、完全には止まらない。

 

 すいせいは、自室で端末を眺めながら、頬を赤くしたままベッドに倒れ込んだ。

 

「……やった」

 

 小さく呟く。

 

 後悔はしていない。

 

 恥ずかしい。

 

 ものすごく恥ずかしい。

 

 明日、どんな顔でユウトに会えばいいのか分からない。

 

 でも、後悔はしていない。

 

 あの時、あの場で、自分は確かに言いたかったのだ。

 

 隠すくらいなら、見せてしまえ。

 

 問い詰められるくらいなら、自分から証明してしまえ。

 

 ユウトは自分にとって特別だ。

 

 そして、自分もユウトにとって特別でありたい。

 

 それを。

 

 星街すいせいは、誰よりも速く、誰よりも強く、休憩室の真ん中で示してしまった。

 

 一方その頃。

 

 ユウトは、自宅の折り畳み机の前で、勉強道具を開いたまま固まっていた。

 

 参考書の文字が、まったく頭に入ってこない。

 

 唇に残る感触。

 

 すいせいの赤い顔。

 

 胸元へ抱え込まれた時の温度。

 

 勝ち誇った声。

 

 そして、その後の喧騒。

 

「……勉強にならない」

 

 ユウトは小さく呟いた。

 

 当たり前だった。

 

 胸ポケットの懐中時計が、静かに時を刻む。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 その音だけはいつも通り。

 

 けれど、ユウトの時間は確実に少し早く進み始めていた。

 

 夏休みは、まだ始まったばかり。

 

 淑女協定は、早くも脱線寸前。

 

 次の停車駅は、緊急再協議。

 

 行き先表示には、こう出ていた。

 

『キスから始まる、協定崩壊』

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