hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第54話 ファーストじゃないキス・まつりの帰り道

 

 星街すいせいが、休憩室の真ん中で桜井ユウトの唇を奪った。

 

 その日を境に、淑女協定はほぼ形骸化した。

 

 いや、正確に言えば、文面上はまだ存在している。

 

 グループチャットの固定メッセージにも残っている。

 

『ユウト本人の意思を最優先』

 

『抜け駆け禁止』

 

『偶然を作らない』

 

『ユウトが困っている時は支援を優先』

 

 どれも大事な条文だった。

 

 美しい理念だった。

 

 だが、美しい理念とは往々にして、現実の熱量に焼かれる。

 

 それも、恋する乙女たちの熱量に。

 

     ◇

 

 ホロライブ事務所の休憩室。

 

 ユウトは、机の前でマネジメントの本を開いていた。

 

 開いてはいた。

 

 開いてはいたが、読む速度は以前より明らかに落ちていた。

 

「ユウトくーん」

 

「はい」

 

 猫又おかゆが、自然な動きで隣に座る。

 

 近い。

 

 以前より近い。

 

「そこ、難しい?」

 

「そうですね。タレントごとの活動方針と長期計画の整合性を」

 

「ふーん」

 

 おかゆは頷きながら、ユウトの肩に軽く頭を預けた。

 

「おかゆさん」

 

「んー?」

 

「近いです」

 

「近いねぇ」

 

「離れるという選択肢は?」

 

「今日はないかなぁ」

 

「今日は」

 

 別のソファでは、戌神ころねが両手を上げた。

 

「ユウトくん! あとでころねとゲームしよ!」

 

「勉強が終わったら」

 

「じゃあ、膝枕しながら待つ!」

 

「どちらがですか?」

 

「どっちでもいいよぉ」

 

「よくないです」

 

 ころねはにこにこしている。

 

 その笑顔は優しい。

 

 優しいが、逃げ道を用意していない。

 

 さらに別の日には、湊あくあが控えめに近づいてきた。

 

「ユウトさん……その、隣、いいですか?」

 

「どうぞ」

 

「ありがとうございます……」

 

 そう言って隣に座ったあくあは、最初こそ控えめだった。

 

 だが、五分後にはユウトの袖をそっと掴んでいた。

 

 十分後には、肩が触れていた。

 

 十五分後には、緊張でぷるぷる震えながらも、ユウトの膝の上に置かれた資料を一緒に覗き込んでいた。

 

「近くないですか?」

 

「ち、近くないです……!」

 

「近いと思います」

 

「近くないです。これくらい、普通です」

 

「普通」

 

「たぶん、普通です……!」

 

 ユウトは、判断を諦めた。

 

 また別の日には、宝鐘マリンが笑顔で腕を絡めてきた。

 

「ユウトくん、船長のこともちゃんと見てくださいよぉ」

 

「見ています」

 

「資料越しじゃなくて」

 

「今は資料を」

 

「資料に嫉妬する日が来るとは思いませんでした」

 

「資料は悪くないです」

 

「そこを庇う!?」

 

 白銀ノエルは、差し入れを置きながら、ユウトの頭を撫でた。

 

 不知火フレアは、それを見て苦笑しながらも、結局ユウトの肩にそっとブランケットをかけた。

 

 天音かなたは握力を抑えながら手を握ろうとし、常闇トワに止められた。

 

 姫森ルーナは「ユウトも休むのら」と言いながら、当然のように隣を占拠した。

 

 ラプラスは「総帥権限で隣を命じる!」と言い、ルイに座らされた。

 

 沙花叉クロヱは気だるげに近づいて、何も言わずにユウトの背中へもたれた。

 

 風真いろはは、真面目な顔で「護衛でござる」と言いながら真横に座った。

 

 それぞれのやり方で。

 

 それぞれの距離で。

 

 ユウトへのアプローチは、明らかに強まっていた。

 

 そして、ユウトはそれを受け止めていた。

 

 受け止めざるを得なかった。

 

「……これは、慣れてはいけない気がする」

 

 ユウトはある日、小さく呟いた。

 

「何にぇ?」

 

 目の前にいたみこが首を傾げる。

 

「いえ、何でもないです」

 

「何でもない顔じゃないにぇ」

 

「本当に、何でも」

 

 言いかけたユウトの膝に、みこがぽすんと座った。

 

「……みこさん?」

 

「みこも膝、座ってみたかったにぇ」

 

「勉強中です」

 

「みこ、軽いから大丈夫にぇ」

 

「重さの問題では」

 

「じゃあ何の問題にぇ?」

 

「……」

 

 ユウトは答えられなかった。

 

 何が問題なのか。

 

 それを言語化しようとすると、自分が意識してしまっていることを認めることになる。

 

 前世の記憶がなくても。

 

 ゼロノスだったとしても。

 

 現在のユウトは、健全な高校生だった。

 

 目の前で笑う彼女たちは魅力的で。

 

 距離は近くて。

 

 香りも、体温も、声も、表情も、意識しない方が難しかった。

 

 だからユウトは、なるべく考えないようにした。

 

 考えない。

 

 意識しない。

 

 これはホロライブの人たちが、自分を大切にしてくれているだけ。

 

 前世からの繋がりがあって、距離感が少し特殊なだけ。

 

 そう自分に言い聞かせる。

 

 だが、すいせいのキス以降、その言い訳は明らかに弱くなっていた。

 

     ◇

 

 そして、そのアプローチ合戦において、星街すいせいには一つ大きなアドバンテージがあった。

 

 ユウトの住所を知っている。

 

 しかも、YAGOOやAちゃん、春先のどか以外にはまだ共有されていないはずの住所を。

 

 もちろん、本人はそれを大々的に言いふらすつもりはない。

 

 むしろ、言えば確実に大惨事になる。

 

 だから黙っていた。

 

 黙っていたが、活用しないとは言っていない。

 

     ◇

 

 ある日。

 

 ユウトには予定がなかった。

 

 友人たちとの約束もない。

 

 青たちとの外出もない。

 

 事務所へ行く用事もない。

 

 夏休みに入ってから珍しい、完全な空白日。

 

 ユウトは朝食を終え、部屋の片づけをしていた。

 

 相変わらず、部屋には物が少ない。

 

 テレビ。

 

 折り畳み机。

 

 最低限の生活用品。

 

 少し増えたものといえば、すいせいに言われて買ったクッションと、フブキが渡してきた小さな狐のキーホルダーと、みこが「飾れにぇ」と押しつけた小さな桜色の置物くらいだった。

 

 自分の部屋なのに、少しずつホロライブの気配が増えている。

 

 それに気づいて、ユウトは軽く頭を抱えた。

 

「……いつの間に」

 

 その時、玄関のチャイムが鳴った。

 

 ユウトは、少しだけ嫌な予感がした。

 

 ドアスコープを覗く。

 

 帽子。

 

 眼鏡。

 

 変装。

 

 しかし、隠しきれない青い気配。

 

 ユウトは扉を開けた。

 

「おはよ、ユウト」

 

 そこに立っていたのは、いつものように変装したすいせいだった。

 

「……すいちゃん」

 

「来ちゃった」

 

「来ちゃった、じゃないです」

 

「予定ないって言ってたじゃん」

 

「言いましたけど、来るとは聞いていません」

 

「聞かれなかったから」

 

「そういう問題では」

 

「入っていい?」

 

「駄目と言ったら?」

 

「入る」

 

「聞く意味がないですね」

 

 ユウトは溜息を吐き、扉を開けた。

 

 すいせいは、勝ち誇ったような顔で玄関へ入る。

 

 その瞬間だった。

 

 玄関が閉まる直前。

 

 三つの影が、するりと隙間へ滑り込んできた。

 

「はい、失礼しまーす!」

 

「お邪魔しまーす」

 

「お、お邪魔しますね……!」

 

 ユウトとすいせいが同時に固まった。

 

 玄関に立っていたのは、白上フブキ、夏色まつり、夜空メルの三人だった。

 

 全員、変装している。

 

 変装しているが、知っている人間から見れば、ほぼ意味がない。

 

「……フブキさん」

 

「こんこんきーつね」

 

「まつりさん」

 

「やっほー、ユウトくん!」

 

「メルさん」

 

「ごめんね、急に来ちゃって」

 

 ユウトは、ゆっくりすいせいを見る。

 

 すいせいは、顔を引きつらせていた。

 

「すいちゃん」

 

「私は呼んでない」

 

「でしょうね」

 

 フブキがにこにこ笑う。

 

「いやー、偶然ですね」

 

「偶然」

 

 ユウトは反復する。

 

「偶然、街で変装したすいせい先輩を見つけまして」

 

 まつりが続ける。

 

「偶然、ちょっと気になって」

 

 メルが小さく手を上げる。

 

「偶然、後ろを歩いていたら」

 

 フブキが締める。

 

「偶然、ユウトくんの家に入ろうとしていたので、一緒に来ました」

 

「偶然が多すぎます」

 

 ユウトは冷静に言った。

 

「偶然の扱いは慎重に、ってぺこらも言ってたよね」

 

 すいせいが低い声で言う。

 

「すいせい先輩が言います?」

 

 フブキが笑顔で返す。

 

 すいせいとフブキの視線がぶつかった。

 

 玄関の空気が一瞬で緊張する。

 

 メルが慌てて両手を振る。

 

「け、喧嘩はだめだよ? ユウトくんのお家だし」

 

「そうだよ、すいちゃん」

 

 まつりがにこにこして言う。

 

「ユウトくんのお家に一人で上がろうとしてたすいちゃんが悪いんだよ?」

 

「まつり、言い方」

 

「事実だよ?」

 

「……」

 

 すいせいは反論できなかった。

 

 ユウトは、玄関で四人を見ながら深く息を吐いた。

 

「……とりあえず、上がるなら手を洗ってください」

 

「ユウトくん、諦め早いね」

 

 フブキが言う。

 

「最近、諦めることを覚えました」

 

「よくない成長」

 

「誰のせいだと思っているんですか」

 

 四人は靴を脱ぎ、洗面所へ向かった。

 

 ユウトの静かな休日は、玄関の時点で終わった。

 

     ◇

 

 折り畳み机を囲むには、五人は少し多かった。

 

 ユウト。

 

 すいせい。

 

 フブキ。

 

 まつり。

 

 メル。

 

 部屋は急に賑やかになった。

 

「ユウトくんの部屋、ほんとに物少ないね」

 

 まつりがきょろきょろと見回す。

 

「生活感はあるけど、趣味のものが少ないですね」

 

 フブキも頷く。

 

「この狐のキーホルダーはセンスありますけど」

 

「それ、フブキさんが渡したものですよね」

 

「はい。センスあります」

 

「自己評価」

 

 メルは、クッションを見つけて微笑んだ。

 

「でも、前より少し居心地よくなってる気がする」

 

「すいちゃんに言われて少し買いました」

 

 ユウトが答えると、すいせいが少しだけ得意げにする。

 

 その顔を見て、まつりの目が細くなった。

 

「へー。すいちゃんが」

 

「何」

 

「別にー?」

 

 まつりは笑っている。

 

 笑っているが、目は笑っていなかった。

 

 フブキは、その様子を楽しそうに見ていた。

 

「まあまあ。せっかく来たんですから、ユウトくんのお家イベントを楽しみましょう」

 

「イベントにしないでください」

 

「ユウトくん、お茶ある?」

 

 メルが尋ねる。

 

「あります。簡単なものですが」

 

「手伝うね」

 

「座っていてください」

 

「でも」

 

「お客様なので」

 

 ユウトは立ち上がり、キッチンへ向かう。

 

 その背中を見ながら、まつりがぽつりと言った。

 

「……ユウトくん、ほんと自然にお世話するよね」

 

「うん」

 

 メルが頷く。

 

「前もそうだった」

 

 フブキの表情が少しだけ柔らかくなる。

 

「自分は後回しなのにね」

 

「だから心配なんですけどね」

 

 すいせいが小さく言う。

 

 その声には、先ほどまでの勝ち気な響きはなかった。

 

 フブキは、すいせいをちらりと見た。

 

「それで、心配だから一人で来たんですか?」

 

「そう」

 

「本当に?」

 

「……会いたかったから」

 

 すいせいは、少しだけ視線を逸らした。

 

 まつりは、その横顔を見た。

 

 胸の奥に、ちくりとした痛みが走る。

 

 すいせいは進んだ。

 

 休憩室で、全員の前で、ユウトにキスをした。

 

 それだけでなく、ユウトの住所も知っている。

 

 こうして自宅へ来ることもできる。

 

 あまりにも大きいアドバンテージ。

 

 まつりは、笑顔のまま膝の上で手を握った。

 

 負けたくない。

 

 その感情が、静かに膨らんでいく。

 

     ◇

 

 その後は、思ったより穏やかな時間だった。

 

 ユウトが淹れたお茶を飲みながら、五人で話す。

 

 夏休みの予定。

 

 学校のこと。

 

 進路のこと。

 

 ホロライブ事務所での勉強。

 

 すいせいの押しかけについては、何度か話題になったが、ユウトが困った顔をするたびにメルが話題を変えた。

 

 フブキは終始楽しそうだった。

 

「ユウトくん、夏休み課題は?」

 

「少しずつ進めています」

 

「偉い」

 

「普通です」

 

「普通の高校生は夏休み初日からそんなに進めないと思いますよ」

 

「そうなんですか?」

 

「そうなんです」

 

 まつりがにやりと笑う。

 

「ユウトくん、夏休みの宿題は最終日に泣きながらやるものだよ?」

 

「それは計画性が」

 

「正論やめて」

 

 メルがくすっと笑う。

 

「ユウトくんらしいね」

 

「そうでしょうか」

 

「うん。真面目で、ちょっと不器用」

 

「不器用ですか」

 

「不器用だよ」

 

 すいせいが横から言う。

 

「自分のことになると特に」

 

「……否定できません」

 

「少しは否定してよ」

 

「できないので」

 

 すいせいは小さく笑う。

 

 ユウトも困ったように笑う。

 

 その二人の空気は、以前より近かった。

 

 言葉の隙間が柔らかい。

 

 目が合うと少し照れる。

 

 それでも、どこか安心している。

 

 まつりは、それを見ていた。

 

 胸の奥が、またちくりとした。

 

     ◇

 

 昼過ぎ。

 

 フブキ、メル、まつり、すいせいは帰ることになった。

 

 玄関先で、フブキが楽しそうに言う。

 

「ユウトくん、今日はありがとうございました」

 

「こちらこそ。狭くてすみません」

 

「いえいえ。次はもう少し大きい机が必要ですね」

 

「次がある前提なんですね」

 

「ありますよ?」

 

「フブキさん」

 

「ね、メルちゃん」

 

「うん。ユウトくんのご飯も食べてみたいし」

 

「メルさんまで」

 

 すいせいが横から言う。

 

「次は私が先だから」

 

「すいちゃんはもう何回か来てるでしょう」

 

 まつりが言った。

 

「何回かってほど来てない」

 

「来てるじゃん」

 

「二回」

 

「二回も」

 

「二回だけ」

 

「だけって言った」

 

 フブキがにこにこしながら言う。

 

「これは次回、正式な順番表が必要ですね」

 

「順番表を作らないでください」

 

 ユウトは頭を抱えた。

 

 そんなやり取りをしながら、四人は玄関を出ていく。

 

 ユウトは、彼女たちが角を曲がるまで見送った。

 

「……嵐みたいだった」

 

 小さく呟き、部屋に戻る。

 

 茶器を片づける。

 

 机の上の菓子の袋をまとめる。

 

 クッションを元の位置へ戻す。

 

 少し散らかっただけなのに、部屋の中には先ほどまでの賑やかな温度が残っていた。

 

 ユウトは、湯呑みをキッチンへ運ぶ。

 

 その時だった。

 

 再びチャイムが鳴った。

 

「……忘れ物かな」

 

 ユウトは玄関へ向かう。

 

 扉を開けると、そこには夏色まつりが立っていた。

 

 一人だった。

 

「まつりさん?」

 

「ごめんね、ユウトくん」

 

 まつりは、いつもの明るい笑顔で言った。

 

「忘れ物しちゃったみたいで」

 

「忘れ物ですか?」

 

「うん。たぶん中」

 

「何を忘れたんですか?」

 

「えっと……小物」

 

「小物」

 

 ユウトは首を傾げる。

 

「ありましたかね」

 

「ちょっと見てもいい?」

 

「どうぞ」

 

 ユウトはまつりを中へ入れた。

 

 まつりは玄関で靴を脱ぐ。

 

 その動作は、さっきまでと少し違っていた。

 

 静かだった。

 

 ユウトは、違和感を覚えた。

 

「まつりさん?」

 

「ん?」

 

「大丈夫ですか?」

 

「大丈夫だよ」

 

 そう言って笑う顔は、いつもの夏色まつりだった。

 

 だが、どこか違う。

 

 明るい。

 

 けれど、少しだけしっとりしている。

 

 騒がしい太陽のような笑みではなく、夕方の光のような表情だった。

 

 ユウトは、机の周りを見回す。

 

「忘れ物らしいものは……」

 

 言いながら、振り返ろうとした。

 

 その瞬間。

 

 まつりの手が、ユウトの頭をそっと捕まえた。

 

「え」

 

 強引ではない。

 

 だが、はっきりと逃がさない手つきだった。

 

 ユウトの視界が、まつりの顔で満たされる。

 

 いつもの元気溌剌な顔ではなかった。

 

 頬が赤い。

 

 瞳が潤んでいる。

 

 でも、目は逸らしていない。

 

 まつりは、すいせいのように突然奪うのではなかった。

 

 しっかりとユウトの目を見る。

 

 ユウトが困惑しながらも、自分を見返すのを待つ。

 

 そして、小さく息を吸った。

 

「ユウトくん」

 

「まつり、さん」

 

「嫌なら、止めて」

 

 声は震えていた。

 

 けれど、逃げていなかった。

 

 ユウトは、何も言えなかった。

 

 その沈黙を、まつりは拒絶とは受け取らなかった。

 

 ゆっくり距離が近づく。

 

 額が触れそうになる。

 

 息がかかる。

 

 ユウトの心臓が、強く鳴った。

 

 次の瞬間。

 

 まつりは、ユウトに口づけた。

 

 静かな口づけだった。

 

 短い。

 

 けれど、確かに自分の意思で交わされたもの。

 

 すいせいのような宣戦布告ではない。

 

 見せつけるためでもない。

 

 ただ、ユウトにだけ向けたもの。

 

 まつりが、ユウトへ自分を意識してほしいと願った、ひとつの答えだった。

 

 唇が離れる。

 

 ユウトは言葉を失っていた。

 

 顔が赤い。

 

 目は揺れている。

 

 思考が追いついていない。

 

「まつり、さん……」

 

 かろうじて名前を呼ぶ。

 

 それだけだった。

 

 まつりは、そんなユウトをぎゅっと抱きしめた。

 

 腕に力が入る。

 

 震えている。

 

 顔は真っ赤だった。

 

 けれど、彼女は逃げなかった。

 

 ユウトの肩に顔を寄せ、口元を耳の近くへ近づける。

 

 そして、囁くように言った。

 

「まつりのこと……意識してもいいよ……?」

 

 その声は、いつもの配信で聞く元気な声ではなかった。

 

 甘くて。

 

 怖がっていて。

 

 それでも、まっすぐだった。

 

 ユウトは、何も言えなかった。

 

 まつりは、少しだけ身体を離す。

 

 目が合う。

 

 その目は、泣きそうなくらい赤いのに、どこか勝負を挑むようでもあった。

 

「じゃあね」

 

「え、まつりさん」

 

「忘れ物、見つかったから」

 

「どこに?」

 

 まつりは、自分の胸に手を当てた。

 

「ここ」

 

「……」

 

「忘れそうだった気持ち、ちゃんと持って帰る」

 

 そう言って、まつりは靴を履いた。

 

 扉を開ける。

 

 夏の光が玄関に差し込む。

 

 帰り際、まつりは一度だけ振り返った。

 

 いつもの明るい笑顔に戻りきれていない。

 

 でも、確かに笑っていた。

 

「ユウトくん」

 

「はい」

 

「すいちゃんだけじゃないから」

 

 その言葉だけ残して、まつりは帰っていった。

 

 玄関の扉が閉まる。

 

 部屋が静かになる。

 

 ユウトは、その場から動けなかった。

 

 唇に残る感触。

 

 耳元に残る声。

 

 抱きしめられた温度。

 

 まつりの赤い顔。

 

 そのすべてが、頭の中でぐるぐる回る。

 

「……意識してもいいよ、って」

 

 ユウトは、かすれた声で呟いた。

 

 そんなことを言われて。

 

 意識しないでいられるはずがなかった。

 

     ◇

 

 一方その頃。

 

 少し離れた道の角。

 

 フブキとメル、そしてすいせいが、まつりを待っていた。

 

 まつりが戻ってくる。

 

 顔は赤い。

 

 だが、どこかすっきりした顔でもあった。

 

「まつり」

 

 すいせいが目を細める。

 

「忘れ物、あった?」

 

「うん」

 

 まつりは笑った。

 

「ちゃんと取ってきた」

 

 フブキが、にこにこと言う。

 

「何をですか?」

 

「内緒」

 

「内緒ですか」

 

「内緒」

 

 メルは、まつりの赤い顔を見て、少しだけ目を丸くした。

 

「まつりちゃん……もしかして」

 

「メルちゃん」

 

「う、うん」

 

「内緒」

 

「……うん」

 

 メルはそれ以上聞かなかった。

 

 だが、察した。

 

 フブキも察した。

 

 すいせいも、当然察した。

 

 すいせいとまつりの視線がぶつかる。

 

 火花が散るような、けれど不思議と険悪ではない視線。

 

「まつり」

 

「何、すいちゃん」

 

「やった?」

 

「さあ?」

 

「やったでしょ」

 

「すいちゃんには言われたくないなぁ」

 

「……」

 

「……」

 

 数秒の沈黙。

 

 それから、フブキが楽しそうに手を叩いた。

 

「いやー、夏ですね」

 

「フブキちゃん、感想それ?」

 

 メルが困ったように言う。

 

「恋の季節ですから」

 

「それで済ませていいのかな……」

 

「済みませんね」

 

 フブキはにこにこしている。

 

 だが、その目は鋭かった。

 

 彼女もまた、考えている。

 

 すいせいが進み。

 

 まつりも進んだ。

 

 淑女協定は、もはやほとんど形をなしていない。

 

 それなら。

 

 自分はどう動くべきか。

 

 白上フブキは、静かに尻尾を揺らした。

 

     ◇

 

 その日の夜。

 

 ホロライブのグループチャットには、当然ながら、まつりからの報告はなかった。

 

 すいせいも何も言わなかった。

 

 フブキもメルも、何も言わなかった。

 

 ただ、フブキが一言だけ投稿した。

 

『白上フブキ:夏ですね』

 

 すぐに、みこが反応した。

 

『さくらみこ:何があったにぇ?』

 

『白上フブキ:夏です』

 

『大空スバル:その言い方、絶対何かあっただろ!』

 

『猫又おかゆ:夏だねぇ』

 

『戌神ころね:夏だよぉ』

 

『宝鐘マリン:この「夏ですね」はかなり黒です』

 

『大神ミオ:みんな落ち着いて』

 

『星街すいせい:夏だね』

 

『湊あくあ:すいせい先輩の反応が怪しいです』

 

『潤羽るしあ:何があったの?』

 

『夏色まつり:夏だよー!』

 

 そのメッセージを見て、何人かは確信した。

 

 何かあった。

 

 だが、証拠はない。

 

 報告もない。

 

 それでも、空気だけは明らかだった。

 

 淑女協定は、もう崩壊寸前ではない。

 

 崩壊後の瓦礫の上で、みんなが次のルールを探している段階だった。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 ユウトは、自宅の折り畳み机の前に座っていた。

 

 参考書は開いている。

 

 ノートも開いている。

 

 ペンも持っている。

 

 だが、何も書けない。

 

 すいせい。

 

 まつり。

 

 二つの口づけ。

 

 二つの言葉。

 

 すいちゃんの初めて、忘れちゃだめだぞ。

 

 まつりのこと、意識してもいいよ。

 

「……勉強にならない」

 

 最近、同じことを言った気がする。

 

 ユウトは、顔を両手で覆った。

 

 耳まで赤い。

 

 心臓の音がうるさい。

 

 胸ポケットの懐中時計の音が、いつもより遠い。

 

 前世の記憶はない。

 

 過去の自分が、彼女たちにどう接していたのかも完全には分からない。

 

 だが、今の自分は分かってしまった。

 

 これはもう、過去だけの話ではない。

 

 彼女たちは、今のユウトにも向かってきている。

 

 今の自分に、見てほしいと。

 

 意識してほしいと。

 

 選んでほしいと。

 

「……どうすればいいんだ」

 

 答えは出ない。

 

 夏休みはまだ始まったばかり。

 

 それなのに、線路はすでに大混線していた。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 銀色の懐中時計が時を刻む。

 

 まるで、焦らなくていいと言うように。

 

 けれど、夏の列車は止まらない。

 

 次の停車駅は、未定。

 

 行き先表示には、こう出ていた。

 

『意識しても、いいですか?』

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