hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第55話 海と視線とリップライン

 

 桜井ユウトの夏休みは、ホロライブだけでできているわけではない。

 

 ホロライブ事務所。

 

 タレントたちからの誘い。

 

 Aちゃんや春先のどかの仕事の手伝い。

 

 進路相談。

 

 マネジメントの勉強。

 

 すいせいとまつりの、忘れられない口づけ。

 

 それらが夏休みの大きな部分を占めているのは間違いない。

 

 だが、ユウトには学校の友人たちがいる。

 

 後輩たちがいる。

 

 今の世界で出会った、今のユウトを見ている人たちがいる。

 

 だから、その日。

 

 ユウトはホロライブ事務所ではなく、海にいた。

 

     ◇

 

 電車を乗り継いで二時間ちょっと。

 

 窓の外に見える建物が少なくなり、代わりに空が広がっていく。

 

 潮の匂いが、駅へ近づくほどに強くなる。

 

 改札を抜けた瞬間、獣人の少年が大きく伸びをした。

 

「海だああああああ!」

 

「まだ駅前だよ」

 

 ユウトが静かに突っ込む。

 

「でも匂いが海だろ! もう九割海だ!」

 

「残り一割は?」

 

「気合い!」

 

「雑だな」

 

 悪魔族の少年が笑いながら荷物を肩に担ぎ直す。

 

「まあ、でもテンション上がるのは分かる。夏休み、海、そして赤点補習からの一時逃亡」

 

「逃亡って言うな!」

 

「補習は来週からだったかしら」

 

 エルフの少女が淡々と言う。

 

「現実を突きつけるなよ……」

 

 獣人の少年の耳がぺたりと倒れた。

 

「今日だけは忘れさせてくれ……」

 

「忘れても補習は消えないわ」

 

「エルフって時々残酷だな」

 

「事実を言っているだけよ」

 

 そのやり取りを聞きながら、ユウトは少しだけ笑った。

 

 その隣では、火威青が涼しげな帽子を片手で押さえながら歩いている。

 

「ふふ、海。青春。眩しい太陽。まさに物語の一ページですね」

 

「青くん、駅前で詩的にならないでください」

 

 音乃瀬奏がすかさず言う。

 

「奏ちゃん、今のは結構いい感じだったと思うんだけど」

 

「海に着いてから言ってください」

 

「場所の判定が厳しい」

 

 轟はじめは、すでに全身で楽しそうだった。

 

「ユウト先輩! 海っしゅ! 泳ぐっしゅ! かき氷も食べるっしゅ!」

 

「はじめ、まだ着替えてもいないよ」

 

「気持ちはもう海っしゅ!」

 

「それは獣人くんと同じこと言ってる」

 

「うちも九割海っしゅ!」

 

「残り一割は?」

 

「クレープっしゅ!」

 

「海に来てもクレープなんだ」

 

 ユウトがそう言うと、はじめは胸を張った。

 

「甘いものはどこでも正義っしゅ!」

 

 青と奏が同時に頷いた。

 

「そこは同意ですね」

 

「ですね」

 

「そこは合うんだ」

 

 ユウトは少し呆れながらも、口元を緩めた。

 

 ホロライブの事務所とは違う賑やかさ。

 

 前世の重さを知らない、今の学校生活の空気。

 

 それは、ユウトにとって少しだけ眩しくて、少しだけ落ち着くものだった。

 

     ◇

 

 海水浴場は、すでに多くの人で賑わっていた。

 

 青い海。

 

 白い砂浜。

 

 色とりどりのビーチパラソル。

 

 海の家から漂う焼きそばやとうもろこしの匂い。

 

 子どもたちの笑い声。

 

 波の音。

 

 夏そのもののような景色が広がっている。

 

 海の家で荷物を預け、着替えを済ませた一行は、砂浜へ出た。

 

 ユウトは黒を基調にしたシンプルな水着姿だった。

 

 派手さはない。

 

 だが、訓練で鍛えられた身体つきは、隠しようがない。

 

 獣人の少年が、じっとユウトを見た。

 

「……ユウト」

 

「何?」

 

「お前、ちゃんと高校生だよな?」

 

「どういう意味?」

 

「なんか戦闘職の人みたいな身体してる」

 

「それは褒めてるの?」

 

「たぶん」

 

 悪魔族の少年も頷く。

 

「いや、正直羨ましい。俺も鍛えようかな」

 

「まず補習を乗り越えてからにしなさい」

 

 エルフの少女が冷静に言う。

 

「それ一番きつい筋トレじゃん」

 

 そんな会話をしていると、青たち三人も着替えを終えて戻ってきた。

 

 青は、青を基調にした上品な水着姿だった。

 

 中性的な雰囲気はそのままに、海辺らしい軽やかさが加わっている。

 

 奏は、動きやすさを重視した明るい色合いの水着で、髪をまとめていた。

 

 はじめは、元気さがそのまま形になったような水着姿で、すでに砂浜を走り出しそうな勢いだった。

 

「ユウト先輩!」

 

 はじめが両手を広げる。

 

「どうっしゅか!?」

 

「どう、って」

 

 ユウトは一瞬だけ言葉に詰まった。

 

 視線をどう置けばいいのか、少し迷う。

 

 だが、青たちの表情は期待に満ちている。

 

 ここで何も言わないのは、それはそれで失礼だ。

 

 ユウトは、なるべく自然に、なるべく真面目に言った。

 

「三人とも、似合ってると思う」

 

 青、奏、はじめが同時に固まった。

 

「……先輩」

 

 青が少しだけ目を見開く。

 

「今、さらっと言いましたね」

 

「褒めてほしそうだったから」

 

「それをそんな自然に言えるのが、ずるいんですよ」

 

「ずるい?」

 

 奏は少し赤くなった顔を、手で扇ぐようにした。

 

「ユウト先輩、こういう時だけ直球です」

 

「いや、変なことは言ってないよ」

 

「変なことじゃないから困るんです」

 

 はじめは、数秒遅れて意味を噛みしめたのか、ぱあっと笑った。

 

「ユウト先輩に似合ってるって言われたっしゅ!」

 

「うん」

 

「やったっしゅ!」

 

 はじめがその場でぴょんぴょん跳ねる。

 

「はじめ、砂浜で跳ねると転ぶよ」

 

「だいじょぶっしゅ!」

 

 次の瞬間、はじめは本当に足を取られかけた。

 

 ユウトが反射的に腕を伸ばし、肩を支える。

 

「ほら」

 

「えへへ、ありがとっしゅ」

 

「気をつけて」

 

「ユウト先輩がいるからだいじょぶっしゅ!」

 

「そういう問題じゃない」

 

 青がその様子を見て、少しだけ唇を尖らせた。

 

「ばんちょう、ずるいなぁ」

 

「何がですか?」

 

 奏が聞く。

 

「自然に支えられてる」

 

「青くんも転べばいいんじゃないですか」

 

「奏ちゃん、発想が物騒」

 

「自業自得型アプローチです」

 

「新しいジャンルを作らないで」

 

 ユウトは、三人のやり取りを聞きながら苦笑した。

 

 少しだけ胸が軽くなる。

 

 海に来てよかった。

 

 そう思った。

 

     ◇

 

 しばらくの間、一行は普通の夏休みを楽しんだ。

 

 泳ぐ。

 

 浮き輪で流されかける獣人の少年をユウトが引き戻す。

 

 悪魔族の少年が調子に乗って水をかけ、エルフの少女から冷たい視線を浴びる。

 

 青が格好よく泳ごうとして、波に足を取られて奏に笑われる。

 

 はじめは全力で水を蹴り、なぜか誰よりも前へ進む。

 

「はじめ、泳ぐの上手いね」

 

「うち、体動かすの得意っしゅ!」

 

「確かに」

 

「ユウト先輩も速いっしゅ!」

 

「そうかな」

 

「速いっしゅ! なんか、泳ぐっていうより水の中を斬ってる感じっしゅ!」

 

「斬ってる?」

 

 青が少しだけ真面目な顔をする。

 

「ユウト先輩、泳ぎ方まで戦闘っぽいですね」

 

「そんなことはないと思うけど」

 

「ありますよ」

 

 奏が頷く。

 

「動きが無駄に綺麗です」

 

「無駄に」

 

「褒めています」

 

「本当に?」

 

「半分くらい」

 

「半分」

 

 海の中で笑い声が弾ける。

 

 ユウトも笑った。

 

 波を受け、夏の太陽を浴び、友人たちと後輩たちに囲まれて。

 

 それは確かに、普通の高校生らしい夏休みだった。

 

 だが。

 

 ふとした瞬間に、頭の奥へ別の景色が差し込む。

 

 玄関。

 

 夏の朝の光。

 

 すいせいの赤い顔。

 

 唇に触れた柔らかい感触。

 

 忘れちゃだめだぞ、という小さな声。

 

 次に浮かぶのは、まつり。

 

 いつもの元気な顔ではない、しっとりとした表情。

 

 視線を合わせてからの口づけ。

 

 耳元で囁かれた言葉。

 

 まつりのこと……意識してもいいよ……?

 

「……っ」

 

 ユウトは、海水を顔にかけるようにして頭を冷やした。

 

「ユウト?」

 

 青が気づく。

 

「大丈夫ですか?」

 

「うん。少し、海水が目に入っただけ」

 

「本当ですか?」

 

「本当」

 

 青は、その返事を聞いてもすぐには頷かなかった。

 

 奏も、少し離れた場所からユウトを見ている。

 

 はじめも、心配そうに首を傾げた。

 

「ユウト先輩、なんかぼーっとしてたっしゅ」

 

「そう?」

 

「してたっしゅ」

 

「少し疲れたのかもしれない」

 

「じゃあ休むっしゅ!」

 

 はじめが即座に言った。

 

「海の家で借りたパラソルのとこ行くっしゅ!」

 

「まだ皆遊んでるよ」

 

「ユウト先輩が休むなら、うちも休むっしゅ!」

 

 青が頷く。

 

「僕も少し休みたいですね。さっき波に負けましたし」

 

「青くんは格好つけ疲れですか?」

 

「奏ちゃん、今日は刺すね」

 

「いつもです」

 

「自覚あり」

 

 結局、ユウトと青たち三人は一度海から上がることになった。

 

     ◇

 

 海の家で借りたビーチパラソルの下は、少しだけ涼しかった。

 

 砂浜に敷いたシート。

 

 買ってきた冷たい飲み物。

 

 遠くでは、友人たちがまだ海ではしゃいでいる。

 

 獣人の少年が悪魔族の少年に水をかけ、反撃され、エルフの少女にまとめて注意されている。

 

 平和な光景だった。

 

 青たちは、それぞれ飲み物を手に座る。

 

 ユウトはパラソルの影から海を眺めていた。

 

 波の音。

 

 笑い声。

 

 夏の風。

 

 けれど、頭の中には別の音が残っている。

 

 短いリップ音。

 

 すいせい。

 

 まつり。

 

 忘れようとすればするほど、鮮明になる。

 

 意識してはいけない。

 

 そう思うほど、意識してしまう。

 

 すいせいの唇。

 

 まつりの声。

 

 どちらも、今のユウトに向けられたものだった。

 

 前世の自分ではない。

 

 今ここにいる桜井ユウトに。

 

「ユウト先輩」

 

 青の声で、ユウトは我に返った。

 

「何?」

 

「さっきから、かなり遠いところを見ています」

 

「海を見てただけだよ」

 

「海じゃないと思います」

 

 青は、いつもの王子様めいた笑みを浮かべている。

 

 けれど、目は真剣だった。

 

 奏も、飲み物のストローを指で弄びながら言う。

 

「何かありましたよね」

 

「……」

 

「ホロライブ関係ですか?」

 

 その問いに、ユウトはすぐには答えられなかった。

 

 青たちは、その沈黙だけで十分だった。

 

 はじめが、ユウトの隣に膝を抱えて座る。

 

「ユウト先輩、苦しいっしゅか?」

 

「苦しい、というほどではないよ」

 

「じゃあ、むずむずするっしゅか?」

 

 ユウトは少しだけ驚いた。

 

「むずむず?」

 

「うち、むずむずする時あるっしゅ。楽しいのに、なんか胸がぎゅーってする時っしゅ」

 

 はじめは、自分の胸を押さえながら言った。

 

「ユウト先輩、今そういう顔してるっしゅ」

 

 ユウトは、言葉を失った。

 

 はじめの言葉は幼く聞こえる。

 

 でも、時々とても真っ直ぐに核心を突いてくる。

 

 青が少しだけ苦笑した。

 

「ばんちょう、たまにすごいこと言うよね」

 

「そうっしゅか?」

 

「うん」

 

 奏が頷く。

 

「今のは、かなり当たっている気がします」

 

「……」

 

 ユウトは、視線を海へ戻した。

 

 話していいことではない。

 

 少なくとも、すいせいやまつりの名前を出して、あったことをそのまま話すわけにはいかない。

 

 それは彼女たちの気持ちに関わることだ。

 

 軽々しく口にしていいものではない。

 

 だが、何も話さないと、青たちはきっと心配する。

 

「……最近」

 

 ユウトは、ゆっくり口を開いた。

 

「ホロライブの人たちとの距離が、少し変わってきた気がして」

 

「距離」

 

 奏が反復する。

 

「前から近かったと思いますけど」

 

「さらに、ですか?」

 

 青が聞く。

 

「うん」

 

 ユウトは頷く。

 

「僕は、前の自分の記憶を全部持っているわけじゃない。だから、皆さんが僕に向けてくれる気持ちの重さを、どこまで受け止めていいのか、まだ分からないところがある」

 

 青たちは黙って聞いていた。

 

「でも、最近は……前の僕じゃなくて、今の僕に向けられているものもあるんだって、分かってきて」

 

 ユウトは、そこで言葉に詰まった。

 

 唇に残る感触が、また蘇る。

 

 すいせいの声。

 

 まつりの囁き。

 

 顔が熱くなる。

 

「……それで、少し混乱してる」

 

 青は、ユウトの横顔を見つめた。

 

 奏はストローを動かす手を止めた。

 

 はじめは、小さく首を傾げる。

 

「ユウト先輩」

 

「何?」

 

「誰かに、すごいことされたっしゅか?」

 

 ユウトの肩が、わずかに跳ねた。

 

 ほんのわずか。

 

 だが、青たちは見逃さなかった。

 

「……はじめ」

 

 ユウトは困ったように笑う。

 

「すごいことって、曖昧だね」

 

「でも、されたっしゅよね?」

 

「……」

 

 沈黙。

 

 青の目が、少しだけ細くなる。

 

 奏は、静かにユウトを見る。

 

 ユウトは、何か言おうとした。

 

 だが、その時。

 

 視線が、ふと青の顔へ向いた。

 

 いつもの整った顔。

 

 海辺の光を受けて、少し柔らかく見える表情。

 

 そして。

 

 唇。

 

「……っ」

 

 ユウトは慌てて視線を逸らした。

 

 海へ。

 

 友人たちへ。

 

 波打ち際へ。

 

 悪魔族の少年が派手に転び、獣人の少年が笑い、エルフの少女が呆れている光景へ。

 

 視線を戻す。

 

 戻したが、遅かった。

 

 青は気づいた。

 

 奏も気づいた。

 

 はじめも、少し遅れて気づいた。

 

 今、ユウトの視線は自分たちの唇へ行きかけた。

 

 それは、今までなかった視線だった。

 

 ユウトは礼儀正しい。

 

 少し鈍いところもあるが、人の身体をじろじろ見るようなことはしない。

 

 水着を褒めた時も、目を逸らしすぎず、かといって変なところを見ることもなかった。

 

 そのユウトが、唇を意識した。

 

 なぜか。

 

 青たちは、答えにたどり着きかけていた。

 

 誰かとキスをした。

 

 それも、おそらく最近。

 

 だから、唇を意識している。

 

 だから、すいせいやまつりのことを思い出しているような顔をしている。

 

 だから、今、自分たちの唇まで見そうになった。

 

「……ユウト先輩」

 

 青の声は、少しだけ低かった。

 

「はい」

 

 ユウトは、なぜか敬語で返した。

 

「今、どこ見ました?」

 

「海」

 

「嘘ですね」

 

「友人たち」

 

「その前です」

 

「……」

 

 奏が静かに畳みかける。

 

「ユウト先輩、今、私たちの顔を見ました」

 

「顔は見たよ」

 

「その中でも、特定の場所を見ようとしていました」

 

「……奏」

 

「否定しないんですね」

 

 ユウトは、額に手を当てた。

 

 暑い。

 

 これは夏のせいだ。

 

 海辺の太陽のせいだ。

 

 そう思いたかった。

 

 だが、たぶん違う。

 

 はじめが、自分の口元に手を当てる。

 

「ユウト先輩、ここ見たっしゅか?」

 

「はじめ」

 

「見たっしゅね?」

 

「……」

 

 ユウトは、完全に逃げ場を失った。

 

 青たちは、顔を見合わせる。

 

 三人とも、少しだけ頬が赤い。

 

 だが、同時に目が真剣だった。

 

「ユウト先輩」

 

 青が言う。

 

「誰かと、何かありましたね」

 

「……それは」

 

「答えられないなら、答えなくていいです」

 

 青は、そう言った。

 

 その声は、いつもの軽さより少しだけ静かだった。

 

「でも、何かあったことは分かりました」

 

 奏も頷く。

 

「ホロライブの誰かですか?」

 

 ユウトは答えなかった。

 

 だが、答えないことが答えになっていた。

 

 はじめは、少しだけ唇を尖らせる。

 

「ユウト先輩、またホロライブさんに連れてかれてるっしゅ」

 

「連れていかれてるわけじゃ」

 

「でも、ユウト先輩、今ここにいるのに、心がちょっと向こうにあるっしゅ」

 

 その言葉は、思った以上に深く刺さった。

 

 ユウトは、海を見た。

 

 友人たちは笑っている。

 

 青たちは隣にいる。

 

 今ここには、確かに現在の日常がある。

 

 なのに、自分の意識はすいせいやまつりへ引っ張られていた。

 

 それは、青たちに寂しい思いをさせることだったのかもしれない。

 

「……ごめん」

 

 ユウトが言うと、青はすぐに首を横に振った。

 

「謝らないでください」

 

「でも」

 

「謝ってほしいわけじゃないです」

 

 青は、少しだけ笑う。

 

「ただ、ちょっと悔しいだけなので」

 

「悔しい?」

 

「はい」

 

 奏が続ける。

 

「私も悔しいです」

 

「奏も?」

 

「はい。ユウト先輩が今まで意識していなかった場所を見るようになった。それは、誰かがそうさせたということです」

 

 奏の言葉は淡々としていた。

 

 だが、耳が少しだけ赤かった。

 

「それがホロライブの誰かなら、やっぱり悔しいです」

 

「……」

 

 はじめも、ぎゅっと拳を握る。

 

「うちも悔しいっしゅ」

 

「はじめ」

 

「ユウト先輩がどきどきしてるの、うちたちじゃない誰かのせいっしゅ」

 

 はじめは、真っ直ぐに言った。

 

「それ、ちょっとやだっしゅ」

 

 ユウトは、何も言えなかった。

 

 青たちに、前世の記憶はない。

 

 ホロライブのライバーたちのような重さはない。

 

 だが、今のユウトを見ている。

 

 今のユウトが遠くへ行くことに、寂しさを覚えている。

 

 それは、決して軽い感情ではなかった。

 

「ユウト先輩」

 

 青が、いつもの王子様めいた笑みを浮かべる。

 

 だが、その笑みは少し拗ねていた。

 

「今日は、海に来てるんですよ」

 

「うん」

 

「ホロライブさんのことを考えるな、とは言いません」

 

「……」

 

「でも、少しは僕たちのことも見てください」

 

 奏が、静かに付け加える。

 

「唇ではなく、ちゃんと顔を見てください」

 

「奏」

 

「今のは大事です」

 

「かなり踏み込んだね」

 

「踏み込みました」

 

 はじめが、両手を上げる。

 

「うちも見てほしいっしゅ!」

 

「見てるよ」

 

「もっとっしゅ!」

 

「もっと?」

 

「いっぱいっしゅ!」

 

 ユウトは困ったように笑った。

 

 その笑みを見て、青たちは少しだけ安心した。

 

 ようやく、今ここに戻ってきた気がしたから。

 

     ◇

 

 その後、ユウトたちは再び海へ戻った。

 

 青が、少しだけ大げさに手を差し出す。

 

「ユウト先輩、エスコートしましょうか?」

 

「海に?」

 

「海に」

 

「逆では?」

 

「僕がしたいんです」

 

「青、波に負けたばかりだよね」

 

「それを言わないのが優しさでは?」

 

 奏が横から言う。

 

「青くん、また格好つけて転ばないでくださいね」

 

「奏ちゃん、今日の僕への信頼がずっと低い」

 

「実績です」

 

 はじめがユウトの腕を引く。

 

「ユウト先輩、行くっしゅ!」

 

「はじめ、走ると」

 

「転ばないっしゅ!」

 

 数歩後、はじめは少しつまずいた。

 

 ユウトが支える。

 

「ほら」

 

「えへへ」

 

「本当に気をつけて」

 

「ユウト先輩がまた支えてくれたっしゅ」

 

 はじめは嬉しそうだった。

 

 青が少しだけ羨ましそうに見る。

 

 奏はその青を見て、呆れたように笑った。

 

 波打ち際へ戻ると、友人たちが手を振った。

 

「ユウトー! 戻ってきたか!」

 

「遅いぞー!」

 

「今度はビーチボールよ」

 

 エルフの少女がボールを掲げる。

 

「チーム分けは?」

 

 ユウトが聞くと、悪魔族の少年がにやりと笑った。

 

「ユウトはハンデで青たちと同じチームな」

 

「それ、ハンデなの?」

 

「お前がいる時点で戦力バランスおかしくなるからな」

 

「ユウト先輩、うちたちとチームっしゅ!」

 

 はじめが喜ぶ。

 

「勝つっしゅ!」

 

「勝ちましょう、ユウト先輩」

 

 奏が言う。

 

「僕も格好いいところを見せますよ」

 

 青が胸を張る。

 

「転ばないようにね」

 

「ユウト先輩まで!?」

 

 笑い声が、海辺に広がる。

 

 ユウトも、その中にいた。

 

 まだ、完全に心が落ち着いたわけではない。

 

 すいせいやまつりのことは、きっとまた思い出す。

 

 ホロライブの他のタレントたちから、同じようなことが起きたら、自分はどうすればいいのか。

 

 その答えも出ていない。

 

 だが、今は海にいる。

 

 青たちがいる。

 

 友人たちがいる。

 

 それをちゃんと見よう。

 

 ユウトは、そう思った。

 

     ◇

 

 夕方。

 

 海水浴を終えた一行は、海の家の近くでかき氷を食べていた。

 

 獣人の少年はブルーハワイで舌を青くし、悪魔族の少年に笑われている。

 

 エルフの少女は宇治金時を選び、「渋い」と言われて少し不満そうだった。

 

 はじめはいちご味を両手で抱え、幸せそうに食べている。

 

「冷たいっしゅ!」

 

「ゆっくり食べてください」

 

 奏が言う。

 

「頭きーんってなるっしゅ!」

 

「言ったそばから」

 

 青はレモン味を選び、なぜか格好よく食べようとしていた。

 

「かき氷を格好よく食べる必要ある?」

 

 ユウトが聞く。

 

「あります」

 

「あるんだ」

 

「夏の王子様なので」

 

「青くん、今のはかなり痛いです」

 

「奏ちゃん?」

 

 ユウトは少し笑った。

 

 笑いながら、ふと視線が青たちの顔へ向かう。

 

 先ほどのことを思い出し、すぐに目を逸らしそうになる。

 

 だが、今度は逃げなかった。

 

 ちゃんと顔を見る。

 

 青の少し拗ねた顔。

 

 奏の鋭いようで優しい目。

 

 はじめの素直な笑顔。

 

 唇ではなく。

 

 ちゃんと、その人を見る。

 

「ユウト先輩?」

 

 奏が気づく。

 

「何ですか?」

 

「いや」

 

 ユウトは、少しだけ笑った。

 

「楽しいなと思って」

 

 三人は、また固まった。

 

「……ユウト先輩」

 

 青が額に手を当てる。

 

「そういうところですよ」

 

「また?」

 

「またです」

 

 奏も小さく頷く。

 

「不意打ちが過ぎます」

 

「今の、うち好きっしゅ!」

 

 はじめが笑う。

 

「ユウト先輩、今日も楽しいっしゅか?」

 

「うん」

 

 ユウトは頷いた。

 

「楽しいよ」

 

 その言葉に、青たちは少しだけ安心した。

 

 ホロライブに何かがあった。

 

 誰かが、ユウトの視線を変えた。

 

 それは悔しい。

 

 悔しくて、少し怖い。

 

 けれど今、ユウトはここにもいる。

 

 海辺の夕方。

 

 かき氷。

 

 友人たちの笑い声。

 

 後輩三人組。

 

 この時間も、ユウトの夏休みの中にある。

 

 それだけは、確かだった。

 

     ◇

 

 帰りの電車。

 

 遊び疲れた獣人の少年は座席で眠り、悪魔族の少年もその隣でうとうとしている。

 

 エルフの少女は本を開いているが、ページはあまり進んでいない。

 

 奏とはじめも眠そうだった。

 

 青だけが、窓の外を見ながら起きていた。

 

 ユウトは、その隣に座っていた。

 

「ユウト先輩」

 

「何?」

 

「今日、楽しかったですか?」

 

「うん。楽しかった」

 

「ならよかったです」

 

 青は、少しだけ笑う。

 

「でも、次はもっと僕たちを見てくださいね」

 

「……うん」

 

「約束です」

 

「約束」

 

 青は満足そうに頷いた。

 

 それから、少しだけ声を落とす。

 

「ホロライブの誰かが、ユウト先輩に何をしたのかは聞きません」

 

「青」

 

「でも、負けませんから」

 

 ユウトは言葉を失った。

 

 青は、窓の外を見たまま続ける。

 

「僕たちは前のユウト先輩を知りません。ホロライブの皆さんみたいに、深い過去もありません」

 

「……」

 

「でも、今のユウト先輩と過ごす時間なら、これから作れます」

 

 ユウトは、青の横顔を見る。

 

 青は、少しだけ耳まで赤くなっていた。

 

「だから、見ていてください」

 

 その声は、いつもの格好つけた声ではなかった。

 

 少し不器用で、少し真剣な後輩の声だった。

 

 ユウトは、静かに頷く。

 

「見るよ」

 

「本当ですか?」

 

「うん」

 

「唇じゃなくて?」

 

「青」

 

「冗談です」

 

 青は笑った。

 

 今度は、いつもの王子様めいた笑みだった。

 

 しかし、その奥に少しだけ照れが残っている。

 

 ユウトは苦笑する。

 

「今日はそれ、しばらく言われるんだろうね」

 

「しばらくで済むといいですね」

 

「済まないのか」

 

「奏ちゃんとばんちょう次第です」

 

「青も言うでしょ」

 

「言います」

 

「言うんだ」

 

 小さな笑い声が、電車の揺れに混じった。

 

 夏の海は遠ざかっていく。

 

 けれど、その日の時間は、確かにユウトの中に残った。

 

 すいせいやまつりの口づけがユウトの意識を変えたように。

 

 青たちとの海もまた、ユウトの今を少しだけ形作っていく。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 胸ポケットの懐中時計が、電車の揺れに合わせるように時を刻む。

 

 過去を知る人たち。

 

 今を見ている人たち。

 

 どちらの時間も、ユウトの夏休みを走っている。

 

 次の停車駅は、まだ見えない。

 

 行き先表示には、夕焼け色の文字でこう出ていた。

 

『夏の海、視線はまだ迷子』

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