hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

58 / 58
第57話 寝坊と肉じゃが・代金はあと払い不可

 

 桜井ユウトが目を覚ました時、部屋の中は妙に明るかった。

 

 カーテンの隙間から差し込む日差し。

 

 いつもより高い位置から照りつける夏の光。

 

 それをぼんやり見つめながら、ユウトは数秒間、自分が何時に起きたのか理解できなかった。

 

「……朝?」

 

 声がかすれていた。

 

 枕元に置いた携帯端末を手探りで掴む。

 

 画面を見る。

 

 表示された時刻は、午前十一時前。

 

「……昼前」

 

 ユウトは、しばらく画面を見つめた。

 

 寝坊。

 

 明らかな寝坊だった。

 

 普段のユウトは、遅くとも朝には起きる。

 

 学校がある日でなくても、生活リズムを大きく崩すことは少ない。

 

 だが昨夜は、ホロライブのタレントたちの配信アーカイブを見ていた。

 

 すいせいの歌。

 

 フブキのゲーム配信。

 

 まつりの雑談。

 

 メルの配信。

 

 みこ、おかゆ、ころね、スバル、あくあ、マリン、そら。

 

 気づけば、画面の向こうの彼女たちを追いかけるように、いくつもの配信を見ていた。

 

 そのせいで、寝たのはいつもよりかなり遅い時間だった。

 

「……見すぎた」

 

 自分で言って、少しだけ苦笑する。

 

 昨日、グループチャットに「少し配信を見ていました」と送っただけで、あれだけの反応が返ってきた。

 

 もし、実際にはかなりの数を見ていたと知られたらどうなるのか。

 

 考えたくなかった。

 

 ユウトは携帯で今日の予定を確認する。

 

 カレンダーアプリ。

 

 夏休みに入ってから、予定はかなり増えていた。

 

 友人たちと遊ぶ日。

 

 青、奏、はじめとの約束。

 

 ホロライブ事務所へ行く日。

 

 進路相談。

 

 買い物。

 

 配信の見学。

 

 誰かの「偶然」を装った予定。

 

 だが、今日の欄だけは空白だった。

 

「予定なし」

 

 ユウトは、ぽつりと呟いた。

 

 珍しい日だった。

 

 誰とも会う予定がない。

 

 事務所へ行く予定もない。

 

 買い物も、課題の締切も、友人たちからの誘いもない。

 

 本当に何もない日。

 

 ユウトは、もう一度ベッドに倒れ込んだ。

 

 柔らかい寝具に背中が沈む。

 

 夏の午前。

 

 寝起きの頭。

 

 妙に静かな部屋。

 

「昼食……何にしよう」

 

 考える。

 

 冷蔵庫には食材がある。

 

 最近、誰かが急に来ることが増えたため、以前より多めに買ってある。

 

 湯呑みも増えた。

 

 食器も増えた。

 

 ローテーブルも大きくなった。

 

 そのうちホロライブ全員に住所がバレるだろうという確信に基づいた、ある意味で前向きな生活改善だった。

 

 だが、寝起きの頭では昼食の案が浮かばない。

 

 うどん。

 

 炒飯。

 

 味噌汁。

 

 卵焼き。

 

 昨日の残り。

 

 どれもぼんやりしている。

 

「……あと五分」

 

 ユウトは目を閉じた。

 

 もう一度眠りに落ちかける。

 

 意識がふわりと沈む。

 

 その瞬間。

 

 ぴんぽーん。

 

 玄関のチャイムが鳴った。

 

「……」

 

 ユウトは目を開けた。

 

 ぴんぽーん。

 

 二度目。

 

「……はい」

 

 返事をしたつもりだった。

 

 だが、声はたぶん玄関まで届いていない。

 

 ユウトは半分寝ぼけたままベッドから起き上がった。

 

 寝癖が少しついている。

 

 服も部屋着のまま。

 

 それでも、チャイムは鳴っている。

 

 誰だろう。

 

 宅配か。

 

 近所の人か。

 

 それとも。

 

 ホロライブか。

 

 最後の可能性が真っ先に浮かぶあたり、ユウトの生活はすでにだいぶ変わっていた。

 

 足取りも曖昧なまま玄関へ向かう。

 

 ドアスコープを覗く。

 

 白い髪。

 

 狐耳。

 

 黒髪。

 

 狼耳。

 

 ユウトは、寝ぼけた頭で数秒かけて理解した。

 

「……フブキさんと、ミオさん?」

 

 扉を開ける。

 

 そこには、白上フブキと大神ミオが立っていた。

 

「おはようございます、ユウトくん」

 

 フブキはにこにこと笑っている。

 

「おはよう、ユウト」

 

 ミオは少し心配そうにユウトを見た。

 

「……おはようございます」

 

 ユウトは、反射的に頭を下げた。

 

 それから、自分の状態に気づく。

 

 寝癖。

 

 部屋着。

 

 半分開いた目。

 

 明らかに寝起き。

 

「すみません、今起きたところで」

 

「うん、見れば分かる」

 

 ミオが苦笑した。

 

「昨日、遅くまで配信見てたんでしょ?」

 

「……どうして」

 

「グループチャットで言ってたじゃん」

 

 フブキが笑顔で言う。

 

「そのあと既読のつき方と返信の遅さから推測すると、かなり見てましたね?」

 

「推測の精度が高いです」

 

「フブキなので」

 

「それで説明されることが増えてきましたね」

 

「便利でしょう?」

 

「便利ではあります」

 

 ユウトは小さく息を吐いた。

 

「とりあえず、上がってください。今、お茶を」

 

 言いながら一歩下がろうとしたユウトの肩に、フブキの手が置かれた。

 

「はい、ストップ」

 

「え?」

 

「ユウトくんは今、寝起きです」

 

「はい」

 

「顔色は悪くないですが、頭はまだ起きてません」

 

「……そうかもしれません」

 

「なので、おもてなし禁止」

 

「禁止」

 

 ユウトが聞き返す前に、フブキはするりと玄関へ入った。

 

「失礼しまーす」

 

「フブキさん」

 

「ミオしゃ、作戦通りで」

 

「はいはい」

 

 ミオも靴を脱ぎながら、手に持っていた買い物袋を軽く持ち上げた。

 

「ユウト、冷蔵庫使っていい?」

 

「え、はい。構いませんが」

 

「じゃあ、ちょっと借りるね」

 

「待ってください。何を」

 

「ご飯」

 

「ご飯?」

 

「昼前に起きて、まだ何食べるか決めてなかったでしょ」

 

「……」

 

 ユウトは黙った。

 

 ミオはその反応で察したように頷く。

 

「やっぱり」

 

「ミオさんまで推測の精度が」

 

「これは推測じゃなくて、顔に書いてある」

 

「顔に」

 

 フブキは、ユウトの背中を押した。

 

「はい、ソファへどうぞ」

 

「いや、僕も手伝います」

 

「寝起きのユウトくんは座っていてください」

 

「でも」

 

「でも禁止です」

 

「それ、スバルさんも言います」

 

「ホロライブ内で共有されています」

 

「共有しないでほしいです」

 

 ユウトは抵抗しようとした。

 

 だが、寝起きの身体と頭ではフブキに勝てなかった。

 

 気づけば、ソファへ座らされている。

 

 フブキは満足そうに頷いた。

 

「よし」

 

「よし、ではなく」

 

「ユウトくん、水飲みましょう」

 

 フブキは勝手に台所からコップを取り出し、水を入れて持ってくる。

 

 その動きが妙に自然だった。

 

 すでに人の家の動線を把握している。

 

 ユウトは、受け取ったコップを見つめる。

 

「……フブキさん」

 

「はい」

 

「最近、皆さん僕の家に慣れすぎでは?」

 

「慣れるほど来たいと思ってるので」

 

「答えになっているようで、なっていません」

 

「飲んでください」

 

「はい」

 

 ユウトは水を飲んだ。

 

 冷たい水が喉を通る。

 

 少しだけ頭がはっきりする。

 

 その間に、ミオは台所へ向かっていた。

 

 冷蔵庫を開ける音。

 

 食材を取り出す音。

 

 包丁とまな板の音。

 

 鍋を出す音。

 

 それらが、ユウトの部屋に響く。

 

 自分の家の台所から、誰かが料理する音がする。

 

 それだけで、部屋の空気が変わった気がした。

 

     ◇

 

 ユウトはソファに座ったまま、ぼんやりと台所を見る。

 

 ミオは手際よく食材を確認していた。

 

「じゃがいも、人参、玉ねぎ、豚肉……よし、肉じゃができるね」

 

「肉じゃが?」

 

「うん」

 

「昼からですか?」

 

「昼だからこそ。ちゃんと食べる」

 

「そんなに手間をかけなくても」

 

「手間じゃないよ。こういうの、嫌いじゃないし」

 

 ミオはそう言いながら、じゃがいもの皮を剥く。

 

 動きが慣れていた。

 

 派手さはない。

 

 だが、無駄がない。

 

 家庭的、という言葉が自然に浮かぶ。

 

 フブキは、ユウトの向かい側に座っていた。

 

 足を揃え、尻尾をゆるく揺らしながら、にこにこ見ている。

 

「ユウトくん」

 

「はい」

 

「昨日、誰の配信を見ました?」

 

「その話をしますか」

 

「します」

 

「今ですか」

 

「今です」

 

「……何人かです」

 

「具体的に」

 

「すいちゃん、フブキさん、まつりさん、メルさん、みこさん、そらさん、おかゆさん、ころねさん、あくあさん、マリンさん、スバルさん……少しずつですが」

 

 フブキの耳がぴくりと動いた。

 

「私の見たんですね」

 

「はい」

 

「感想は?」

 

「話しながら場を作るのが上手いと思いました。コメントの流れを見て、盛り上げたり、少し落ち着かせたりするのが自然で」

 

「……」

 

 フブキが一瞬黙った。

 

「フブキさん?」

 

「いえ」

 

 フブキは咳払いをした。

 

「思ったより真面目な感想が来て、少し照れました」

 

「照れるんですか」

 

「照れますよ。フブキもタレントなので」

 

 そう言って笑うフブキの頬は、ほんの少しだけ赤かった。

 

「ほかには?」

 

「楽しそうでした」

 

「それは何より」

 

「見ている人に、居場所を作っているように見えました」

 

 フブキの笑みが、少しだけ柔らかくなる。

 

「……ユウトくん」

 

「はい」

 

「それ、マネージャー志望としての見方ですか?」

 

「たぶん、そうです」

 

「たぶん」

 

「まだ、よく分かりません。でも、ただ楽しいだけじゃなくて、場が保たれている感じがしました」

 

「そっか」

 

 フブキは、尻尾をゆるく揺らした。

 

「ちゃんと見てくれたんですね」

 

「はい」

 

「なら、このパソコンを渡した甲斐がありました」

 

「やっぱり、そこまで考えていましたよね」

 

「何のことでしょう?」

 

「フブキさん」

 

「こんこんきーつね」

 

「ごまかし方が強引です」

 

 台所からミオが笑う声が聞こえた。

 

「フブキは昔からそういうところあるよね」

 

「ミオしゃ、私は何も企んでませんよ」

 

「企んでる時ほどそう言う」

 

「ひどい」

 

「事実」

 

 フブキは肩をすくめた。

 

 ユウトはそのやり取りを見て、小さく笑った。

 

 その空気は、どこか心地よかった。

 

 友人のような。

 

 家族のような。

 

 同じ時間を長く過ごしてきた者同士のような。

 

 自分はその中の過去を覚えていない。

 

 それでも、今こうしてその空気の中にいる。

 

 不思議だった。

 

     ◇

 

 少しずつ、料理の匂いが部屋に広がっていった。

 

 醤油。

 

 砂糖。

 

 だし。

 

 煮込まれるじゃがいもと肉の匂い。

 

 それに味噌汁の香り。

 

 焼き魚。

 

 簡単な和え物。

 

 ミオは、ユウトの冷蔵庫にある食材と、持ってきた食材を組み合わせて、手早く数品を作っていった。

 

 その手際を見ながら、ユウトはだいぶ目が覚めてきた。

 

「ミオさん、手伝います」

 

「もう遅いよ。ほとんど終わってる」

 

「そうですか……」

 

「ユウトは座ってて」

 

「でも」

 

 フブキが、すっと視線を向ける。

 

「でも禁止」

 

「……はい」

 

 ユウトは素直に引き下がった。

 

 フブキは満足そうに頷く。

 

「成長しましたね」

 

「これを成長と言っていいんですか」

 

「休むことを覚えたなら成長です」

 

 ユウトは、言葉に詰まった。

 

 それを言われると、反論しづらい。

 

 ミオが料理を運んでくる。

 

 大きめのローテーブルの上に、皿が並んでいった。

 

 肉じゃが。

 

 味噌汁。

 

 焼き魚。

 

 小松菜の和え物。

 

 卵焼き。

 

 漬物。

 

 ユウトの自宅の食卓にしては、明らかに豪華だった。

 

「……すごいですね」

 

「あり合わせだけどね」

 

 ミオは笑う。

 

「ちゃんと食べて」

 

「はい」

 

「いただきますは?」

 

「いただきます」

 

 三人で手を合わせる。

 

 ユウトは、まず肉じゃがを一口食べた。

 

 味が染みている。

 

 ほっとする味だった。

 

「……おいしいです」

 

 自然に言葉が出た。

 

 ミオは、少し嬉しそうに笑う。

 

「よかった」

 

「本当においしいです」

 

「ユウトくん、ちゃんと言葉にするようになりましたね」

 

 フブキが言う。

 

「そうですか?」

 

「前なら、黙って食べて、最後に小さく『ごちそうさまでした』だった気がします」

 

「それは、前の僕の話ですか?」

 

「前のユウトくんも、今のユウトくんも、どっちも少し」

 

 ユウトは、箸を止めた。

 

 フブキは、すぐに軽く笑う。

 

「でも今は、前よりちゃんと表情に出てます」

 

「……それなら、いいんですが」

 

「いいんです」

 

 ミオが頷く。

 

「おいしいなら、おいしいって言っていいんだよ」

 

「はい」

 

 ユウトは、もう一口食べた。

 

 温かい。

 

 ただ料理が温かいだけではなく、部屋そのものが温かくなったような気がした。

 

 昼前に起きて、何を食べるかも決まらず、もう一度寝ようとしていたはずなのに。

 

 今は、テーブルに料理が並び、フブキとミオがいる。

 

 自分の家が、自分だけの場所ではなくなっていく。

 

 少し怖い。

 

 でも、嫌ではない。

 

「……ありがとうございます」

 

 ユウトは、改めて言った。

 

「来てくれて」

 

 フブキとミオが、少しだけ目を丸くした。

 

 ミオが先に微笑む。

 

「どういたしまして」

 

 フブキも、柔らかく笑った。

 

「お礼は後でいただきますね」

 

「お礼?」

 

 ユウトは首を傾げた。

 

 その時は、まだ意味を理解していなかった。

 

     ◇

 

 昼食の後、ユウトは食器を片づけようとした。

 

 しかし、ミオに止められた。

 

「料理したのは私だけど、片づけは一緒でいいよ」

 

「それなら」

 

「ただし、無理に全部やろうとしない」

 

「はい」

 

 フブキは、そんな二人を見ながら、ローテーブルの端に置かれたノートパソコンを開いていた。

 

「ユウトくん、配信を見るなら、次はリアルタイム配信も見てみるといいですよ」

 

「リアルタイムですか」

 

「アーカイブと違って、コメントの流れとか、その場の空気がありますから」

 

「なるほど」

 

「あと、見た感想は本人に言うと喜びます」

 

「言っていいんですか?」

 

「もちろん」

 

 フブキはにこりと笑う。

 

「ただし、一斉に感想を求められる覚悟は必要です」

 

「それは少し怖いです」

 

「怖がってください」

 

「怖がらせるんですね」

 

「はい」

 

 ミオが台所から戻ってくる。

 

「フブキ、変なこと教えてない?」

 

「良いことしか教えてません」

 

「怪しい」

 

「ミオしゃ、私への信頼が」

 

「あるから怪しんでるんだよ」

 

「それは信頼なんですか」

 

「信頼」

 

 ユウトは、二人のやり取りを見てまた笑った。

 

 フブキとミオ。

 

 彼女たちは、ホロライブの中でも長い付き合いなのだろう。

 

 画面で見たフブキ。

 

 配信で見たミオ。

 

 今、目の前にいる二人。

 

 それぞれが繋がり始めている。

 

 昨日配信を見てよかったと、ユウトは思った。

 

 ただ有名な人たちではない。

 

 ただ前世で自分を知っている人たちではない。

 

 彼女たちは、今もこうして活動している。

 

 誰かを楽しませ、誰かを安心させ、誰かの居場所になっている。

 

 自分が目指そうとしているのは、その裏側を支える仕事なのだ。

 

「ユウト」

 

 ミオの声で、ユウトは顔を上げた。

 

「何ですか?」

 

「また遠い顔してた」

 

「すみません」

 

「謝らなくていいよ」

 

 ミオは、少しだけ困ったように笑う。

 

「考えるのはいいこと。でも、ご飯食べてすぐ難しい顔しない」

 

「はい」

 

「今日は、寝坊した日なんだから。そういう日は少しゆっくりでいいの」

 

「寝坊した日」

 

「うん」

 

 フブキが横から付け足す。

 

「寝坊記念日ですね」

 

「記念日にしないでください」

 

「じゃあ、肉じゃが記念日」

 

「それも」

 

「語呂が悪いですね」

 

「そういう問題ではありません」

 

 ユウトは呆れながらも、口元が緩んでいた。

 

     ◇

 

 夕方前。

 

 フブキとミオは帰ることになった。

 

 玄関で靴を履きながら、ミオが言う。

 

「今日はちゃんと早めに寝るんだよ」

 

「はい」

 

「夜更かしして配信見るなら、次の日の予定を考えること」

 

「分かりました」

 

「あと、ご飯を抜かない」

 

「はい」

 

「水分も取る」

 

「はい」

 

 フブキがにこにこしながら言う。

 

「ミオしゃ、完全にお母さんですね」

 

「フブキも心配してたでしょ」

 

「してました」

 

「なら同罪」

 

「はい」

 

 ユウトは、二人へ頭を下げた。

 

「今日は本当にありがとうございました。このお礼は、必ずします」

 

 そう言った瞬間。

 

 フブキとミオの目が、ほぼ同時に細くなった。

 

「では」

 

 フブキが一歩近づく。

 

「え?」

 

「今ここで、代金をいただきましょう」

 

「代金?」

 

 ミオも、少し頬を赤くしながら前へ出た。

 

「うん。お礼、してくれるんだよね?」

 

「もちろん、そのつもりですが」

 

「じゃあ、今」

 

 ユウトは、そこでようやく嫌な予感を覚えた。

 

 最近、この流れには覚えがある。

 

 すいせい。

 

 まつり。

 

 意識してはいけないと思えば思うほど、意識してしまう出来事。

 

 ユウトが一歩下がろうとした瞬間、フブキが袖をそっと掴んだ。

 

「ユウトくん」

 

「はい」

 

「逃げます?」

 

「……逃げません」

 

「よろしい」

 

 フブキは笑った。

 

 いつもの、白上フブキらしい笑み。

 

 軽くて、楽しそうで、どこか策士めいた笑み。

 

 だが、頬は少し赤かった。

 

「じゃあ、フブキから」

 

「フブキさん」

 

「嫌なら止めてください」

 

 その言葉に、ユウトは黙った。

 

 フブキは、すいせいのように奪うでもなく、まつりのようにしっとりと視線を合わせて待つでもなく。

 

 少しだけ悪戯っぽく、でも丁寧に、ユウトの顔を覗き込んだ。

 

「ちゃんと、見てくださいね」

 

 ユウトは、息を呑む。

 

 フブキの顔が近づく。

 

 白い髪。

 

 揺れる耳。

 

 赤く染まった頬。

 

 そして、唇。

 

 触れる。

 

 短い口づけだった。

 

 軽い。

 

 けれど、確かに残る。

 

 狐の悪戯のようで、しかしその奥に隠しきれない本気があった。

 

 離れたフブキは、少しだけ照れたように笑う。

 

「代金、一つ目。受け取りました」

 

 ユウトは完全に固まっていた。

 

 顔が赤い。

 

 言葉が出ない。

 

「フブキ」

 

 ミオが少しだけ呆れたように言う。

 

「順番、決めてなかったでしょ」

 

「早い者勝ちです」

 

「そういうところ」

 

「ミオしゃも、どうぞ」

 

 ミオは、ユウトを見る。

 

 さっきまで台所で料理をしていた時の穏やかな表情とは違う。

 

 優しい。

 

 けれど、少し緊張している。

 

「ユウト」

 

「……はい」

 

「嫌だったら、ちゃんと言ってね」

 

「……嫌では、ないです」

 

 その言葉を聞いて、ミオは少しだけ目を細めた。

 

「そっか」

 

 ミオは、ゆっくり近づいた。

 

 フブキよりもさらに静かに。

 

 まつりほど切なげではなく。

 

 すいせいほど強くもなく。

 

 ただ、包み込むような距離で。

 

 ユウトの頬に手を添える。

 

 その手は温かかった。

 

「ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと頼ること」

 

「……はい」

 

「約束」

 

「約束します」

 

 ミオは、小さく笑った。

 

 そして、ユウトに口づけた。

 

 優しい口づけだった。

 

 短いのに、長く感じた。

 

 肉じゃがの温かさ。

 

 味噌汁の湯気。

 

 昼前の寝ぼけた時間。

 

 そのすべてが混じったような、安心する温度だった。

 

 離れた後、ミオの顔は真っ赤だった。

 

「……代金、もらいました」

 

 声が小さい。

 

 いつもの面倒見のいいミオとは少し違う、照れた少女の声だった。

 

 ユウトは、完全に言葉を失っていた。

 

「……あの」

 

 ようやく声を出す。

 

「これは、お礼として適切なんでしょうか」

 

 フブキは、にこにこと笑う。

 

「適切です」

 

「本当に?」

 

「フブキ基準では」

 

「その基準、かなり危険では」

 

 ミオが少しだけ笑う。

 

「でも、ユウトが嫌じゃないなら」

 

「……嫌では、ないです」

 

 言ってから、ユウトはまた顔を赤くした。

 

 フブキの尻尾が楽しそうに揺れる。

 

「言質いただきました」

 

「フブキさん」

 

「では、今日はこれで」

 

「待ってください。何か、また僕だけ混乱して終わる流れでは」

 

「大丈夫です」

 

 フブキは玄関の扉を開ける。

 

「私たちも混乱しています」

 

「説得力が」

 

「顔、赤いでしょ?」

 

 確かに、フブキもミオも赤かった。

 

 それでも、二人はどこか満足そうだった。

 

 ミオは最後に、ユウトを見た。

 

「今日はゆっくりしてね」

 

「はい」

 

「あと、晩ご飯は残りを温めて食べて」

 

「分かりました」

 

「ちゃんとね」

 

「はい」

 

 フブキが軽く手を振る。

 

「ユウトくん」

 

「はい」

 

「次、私たちの配信を見た感想も、ちゃんと聞かせてくださいね」

 

「……はい」

 

「それも代金とは別です」

 

「別なんですか」

 

「別です」

 

 フブキは笑いながら外へ出た。

 

 ミオも、少し照れたように手を振って続く。

 

 玄関の扉が閉まる。

 

 部屋が静かになる。

 

 ユウトは、その場に立ち尽くした。

 

 唇に、二つの感触が残っている。

 

 フブキの軽く悪戯っぽい口づけ。

 

 ミオの温かく包むような口づけ。

 

 すいせい。

 

 まつり。

 

 フブキ。

 

 ミオ。

 

 増えていく。

 

 意識しないようにするには、あまりにも増えていく。

 

「……本当に、どうすればいいんだ」

 

 ユウトは、小さく呟いた。

 

     ◇

 

 ローテーブルの上には、まだ肉じゃがの入った鍋が置かれていた。

 

 味噌汁の残り。

 

 和え物。

 

 洗い終えた食器。

 

 誰かがいた温度。

 

 その全部が、部屋に残っている。

 

 ユウトは、ゆっくりソファへ戻った。

 

 腰を下ろす。

 

 顔を両手で覆う。

 

 心臓がうるさい。

 

 頭が回らない。

 

 寝坊して、昼前に起きて、何を食べるか考えていたはずの日。

 

 それが、気づけばフブキとミオに昼食を作ってもらい、そして代金として口づけを受け取られる日になった。

 

 夏休みは、どうしてこうも予定外ばかりなのか。

 

 胸ポケットの懐中時計が鳴る。

 

 チ、チ、チ、チ――。

 

 その音だけが、いつも通りだった。

 

 ユウトは、深く息を吐いた。

 

「……晩ご飯は、肉じゃがか」

 

 考えるべきことは山ほどある。

 

 だが、とりあえず。

 

 今日の晩ご飯は決まった。

 

 それだけは、少し安心できた。

 

     ◇

 

 一方その頃。

 

 マンションの外へ出たフブキとミオは、しばらく無言で歩いていた。

 

 夏の夕方。

 

 少し湿った風。

 

 どこかで鳴る蝉の声。

 

 数十メートルほど歩いたところで、フブキが突然しゃがみ込んだ。

 

「フブキ?」

 

 ミオが慌てて覗き込む。

 

 フブキは両手で顔を覆っていた。

 

「……やりました」

 

「うん」

 

「やりましたね、私」

 

「やったね」

 

「思ったより、心臓に来ますね」

 

「うん」

 

 ミオも、両手で自分の頬を押さえた。

 

「私も、まだ顔熱い」

 

「ミオしゃ、すごく優しかったですね」

 

「見てたの?」

 

「見てました」

 

「見ないでよ……」

 

「ミオしゃも見てたでしょう?」

 

「……見てた」

 

 二人は顔を見合わせた。

 

 そして、同時に小さく笑った。

 

 淑女協定。

 

 そんなものは、もはや遠い昔の単語になりつつあった。

 

 だが、二人とも分かっていた。

 

 これはただの競争ではない。

 

 ユウトを困らせたいわけではない。

 

 彼に、自分たちを見てほしい。

 

 ただ過去の関係ではなく。

 

 今の自分たちを。

 

 その一歩を、今日踏み出した。

 

「報告します?」

 

 ミオが小声で言う。

 

 フブキは、少しだけ考えた。

 

 そして、笑った。

 

「今日は、肉じゃがの報告だけで」

 

「……フブキ」

 

「何でしょう?」

 

「強かだね」

 

「狐なので」

 

「それで説明するの、ずるい」

 

「便利でしょう?」

 

 ミオは呆れながらも笑った。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 ホロライブのグループチャットに、フブキが一枚の写真を投稿した。

 

 肉じゃがの写真。

 

 湯気の立つ味噌汁。

 

 和え物。

 

 卵焼き。

 

 ユウトのローテーブルらしき木目。

 

『白上フブキ:ミオしゃの肉じゃが、おいしかったです』

 

 すぐに反応が来た。

 

『大神ミオ:フブキ、写真上げるなら先に言って』

 

『大空スバル:待て。どこだこれ』

 

『さくらみこ:木目に見覚えがあるにぇ』

 

『星街すいせい:ユウトの家?』

 

『白上フブキ:夏ですね』

 

『宝鐘マリン:またその言い方』

 

『猫又おかゆ:夏だねぇ』

 

『戌神ころね:夏だよぉ』

 

『湊あくあ:また何かありましたか?』

 

『潤羽るしあ:何があったの?』

 

『夏色まつり:肉じゃがいいなー!』

 

『星街すいせい:フブキ、あとで話そう』

 

『白上フブキ:こんこんきーつね』

 

 その返答で、何人かは確信した。

 

 何かあった。

 

 ただし、証拠はない。

 

 肉じゃがの写真しかない。

 

 ユウトは、そのチャットを見ていなかった。

 

 彼はその頃、ミオの言いつけ通り、残った肉じゃがを温めて晩ご飯にしていた。

 

 唇に残る感触を、なるべく意識しないようにしながら。

 

 しかし、肉じゃがはとてもおいしかった。

 

 それがまた、少し困った。

 

 次の停車駅は、夕食後の混乱。

 

 行き先表示には、こう出ていた。

 

『寝坊のち肉じゃが、ときどきキス』

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

ホロライブ事務所は今日も平常運転です(作者:ダニエルズプラン)(原作:ホロライブ)

 桜井ユウトは、ホロライブ事務所に所属するスタッフである。▼ ホロライブ黎明期からAちゃんとともに事務所を支え、ときのそらをはじめとする多くのタレントたちと関わってきた彼は、いつしかリスナーからも「ホロライブの表に出てくるスタッフ」として知られるようになっていた。▼ 本人はあくまで裏方のつもり。▼ しかし現実は、公式番組の司会進行、配信の人数合わせ、企画の補…


総合評価:214/評価:7.75/連載:9話/更新日時:2026年06月28日(日) 12:00 小説情報

全てはホロメンのために(作者:夜桜透)(原作:ホロライブ)

ホロライブプロダクションで働くスタッフ、「桜木宏斗」こと『S君』。▼彼はタレント達の活動を支える裏方として、忙しくも充実した日々を送っていた。▼収録、配信準備、イベント対応——華やかな舞台の裏側には、支える人間たちの地道な努力がある。▼これは、そんな“支える側”として生きる一人の男と、彼を取り巻く人々の物語。▼注意!!▼・この作品は、完全にオリジナル主人公物…


総合評価:77/評価:-.--/連載:13話/更新日時:2026年07月04日(土) 19:50 小説情報

ホロライブに男社員?修羅場でしょ(作者:たちなみ)(原作:ホロライブ)

▼二番煎じですが、ホロライブに男社員をぶち込むっていう話です▼誰かと付き合い始めたら……そりゃあ修羅場だよなぁ?▼(ハーレム予定)▼活動報告にアイデアを募集しています、気軽にコメントしてくれるとありがたいです。▼https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=338692&uid=508249


総合評価:33/評価:2/連載:8話/更新日時:2026年06月01日(月) 12:27 小説情報

冰龍の魂を宿す者。異世界《ホロノア・ユクモ》の巨大ギルドの歌姫たちとの日常(作者:レリ)(原作:ホロライブ にじさんじ)

▼「……カナ君、なの……? 本当に、カナ君……カナ君……!!」▼数十年という永い沈黙を破り、彼女は子供のように泣きじゃくりながら抱きついてきた。▼かつてその身に宿る「氷」が彼女を傷つけることを恐れ、何も言わずに姿を消した少年は――今、白銀の翼を携えた最強の龍人として、大切な女性(ひと)を優しく、温かく抱きしめ返す。▼舞台は和風の異世界《ホロノア・ユクモ》。▼…


総合評価:62/評価:-.--/連載:4話/更新日時:2026年05月18日(月) 21:13 小説情報

元ヤクザ、ホロライブに就職する(作者:リハビリマン)(原作:ホロライブ)

元ヤクザが再生するために、ホロライブに就職するお話。


総合評価:37/評価:-.--/連載:2話/更新日時:2026年04月27日(月) 17:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>