hololive Lost Story 作:ダニエルズプラン
世界のすべての文化が交錯する未来的な都市――オルタナティブシティ
上空を何百隻もの魔導飛行船が行き交い、巨大な浮遊大陸から流れ落ちる滝が美しい虹の架け橋を街並みに架けている。超近代的な高層ビル群の足元では、中世を思わせる石造りの伝統的な建築物が立ち並び、獣人、エルフ、悪魔、天使、そして人間が、それぞれの言葉と文化を鳴らしながら、うねるような雑踏を形成していた。
そんな、世界の中心とも言える大都市の賑やかな一角に、その建物はひっそりと、しかし確かな拒絶と受容のオーラを放って佇んでいた。
超大手の冒険者グループであり、全世界に熱狂的なファンを持つ一大プロダクション【ホロライブ】。
彼らが総本部として使っているにしては、その建物はあまりにも地味で、なんの変哲もないオフィスビルにしか見えなかった。外壁は少し色褪せたグレーのコンクリートで覆われ、派手なネオンも、巨大なギルドの紋章も掲げられていない。通りすがりの一般人が見れば、地方の小さな交易会社か、冴えない魔導具の卸業者が入っているビルだと思うだろう。
しかし。
知っている者が見れば、話は完全に異なっていた。
ひとたびその本質を知る者がその前に立てば、全身の肌が粟立つような、濃密で気高き英雄たちの気配――そして、世界を幾度も救ってきた少女たちの始まりの場所としての因果の重みが、狂おしいほどに伝わってくるのだ。
地味だからこそ、かえって異様な風格を際立たせる。それは、まぎれもなくホロライブプロダクションの事務所ビルだった。
ビルの最上階。防護魔導によって完全に遮音された、静謐な代表執務室。
窓の外に広がる大都市の夕暮れを背に、一人の男がデスクの前で、彫刻のように深く、静かに身を沈めていた。
谷郷元昭。
タレントたちや世界中のファンからYAGOOの愛称で呼ばれる、ホロライブプロダクションの代表である。
洗練された仕立てのスーツを纏い、眼鏡の奥にある瞳は、常に穏やかで底知れない優しさを湛えている。しかし、今の彼の表情には、世界中を飛び回る大企業のトップとしての疲労とは全く異なる、魂の根源を揺さぶられたような「激しい動揺」が刻まれていた。
「……桜井くん」
谷郷は、誰に聞かせるわけでもない掠れた声で、その名前を呟いた。
彼の手の中にあるスマートフォンの画面には、先ほど白銀聖騎士団の団長・白銀ノエルから泣き叫ぶような通信と共に送られてきたわずか十数秒のショート動画が、何度も何度も自動再生を繰り返していた。
谷郷元昭は、前世界で起きたことのすべてを記憶していた。
あの地球という世界で、自分がまだ小さな事務所を立ち上げたばかりの頃。
『君の力を貸してほしい』と、自らの手でスカウトした最初のマネージャーである桜井ユウトのことを。
タレントたちが笑顔でステージに立つ裏側で、時間を改変しようとする
そして――変身の代償として、ユウトが自分たちの記憶から少しずつ、確実に消え去っていった、あの地獄のような日々のことも。
2022年の大晦日。谷郷は自分の中に残された最後のユウトの記憶を、彼自身の手で赤いカードに変えてユウトに手渡してしまった。それこそが、ユウトをこの世界に繋ぎ止める最後の鎖だと知りながら。
カードが砕け散った瞬間、谷郷の頭からは桜井ユウトという男の存在が完全に消滅した。あの時、オフィスで理由も分からずに涙を流していた自分の、底なしの喪失感。
けれど、運命は残酷な奇跡を起こした。
この世界に転生してからしばらく経ったころ、突然谷郷の脳内に失われていたはずのすべての記憶が、凄まじい濁流となって蘇ったのだ。
ユウトがどれほどの孤独の中で戦っていたのか。自分たちがどれほど無慈悲に彼の献身を踏みにじり、彼を忘れることでその命を削り殺してきたのか。その罪の記憶が、剥き出しの刃となって谷郷の魂を切り裂いた。
『もう一度、彼女たちが輝ける場所を。そして……彼が、あのバカなマネージャーが、いつ戻ってきてもいい場所を作らなければならない』
その盲目的な決意だけが、この異世界での谷郷の原動力だった。
目覚めてからの谷郷の行動は迅速だった。
彼は一人の開拓者として世界を回り、前世でのホロライブタレントやスタッフたちの魂を一人ひとり探し求めた。
ある時は深い森の奥で孤高に魔導を紡いでいたエルフを。
ある時は王都の裏路地で歌う場所を探していた彗星を。
ある時は戦なき世で自らの義に迷っていた侍を。
彼らがこの世界に合わせた種族や能力を持って生まれているのを見つけ出し、前世の記憶を呼び覚まさせ、再びホロライブの旗のもとへとスカウトしていった。そうして、この異世界ホロアースの過酷な環境に適応した、新たなる冒険者・配信者グループとしてのホロライブプロダクションを作り上げたのだ。
すべては、いつか世界のどこかで、記憶の砂となって消えたはずの彼と再会できる日のために。
そして今その瞬間が、十数秒のデジタル映像というあまりにも唐突なカタチで、彼の目の前に突きつけられていた。
「ノエルくんが、見つけるとはね……」
画面の中で、無骨な大剣を構えているのは、前世の容姿から何一つ変わっていない、あの少し憂いを帯びた物静かな桜井ユウトの姿だった。
力のない華奢な身体。それでありながら、大剣の重さを完璧にコントロールし、最後には右手一本だけで巨獣を両断してみせる、狂気的なまでに洗練された剣技。そして、風に揺れた前髪をぶっきらぼうに左手でスッと払う、あの癖。
写真データも、歴史の記録もすべて消去されたはずの世界で、その動画に映る少年は、まぎれもなく桜井ユウトその人だった。
「ユウトさんを見つけました……っ! 団長の管轄するダンジョンに、ユウトさんがいたんです……っ!」
端末から聞こえてきたノエルの音声は、過呼吸寸前の歓喜と嗚咽の混ざり合った激しいものだった。その通信はすでに、ホロライブの全メンバーへと共有され、プロダクション全体がかつてないほどの激震と歓喜の渦に包まれている。
今すぐにでも、そらやフブキ、ルイやマリンたちが、ユウトのいる地方都市へと魔導シップを飛ばし、彼を取り囲んで「おかえりなさい!」と涙を流して抱きしめるだろう。彼女たちは、ユウトが前世の記憶を完全に保持したまま、何らかの理由で身を隠し、あるいは普通に暮らしていたのだと、そう信じ込んでいるのだから。
だが。谷郷は、全タレントに対して『私が指示を出すまで、絶対に本人に接触してはならない』と、代表としての権限を使い、極めて異例の「厳命」を下していた。
「……スカウト、するべきなのか。それとも……」
谷郷は、眼鏡を外し、深く、深くため息を吐きながら、両手で顔を覆った。
一人残された執務室で、彼はあまりにも重い、そしてあまりにも残酷な『天秤』を前に、長考の海へと沈んでいった。
谷郷の胸を締め付けていたのは、歓喜の後ろに隠された、深い恐怖と罪悪感だった。
なぜ、桜井ユウトをすぐにホロライブへ引き入れることを躊躇うのか。
普通の人間であれば、世界を救った恩人との再会を無条件で喜ぶだろう。だが、谷郷は『仮面ライダーゼロノス』というシステムの、あの悍ましいまでの対価を誰よりも熟知している。
変身するたびに、人々の記憶から消える。
ユウトは前世で、ホロライブの少女たちの日常と未来を守るためだけに、自分の人生のすべてを砂に変えて燃やし尽くした。誰からも忘れられ、感謝の言葉すら届かない極限の孤独の中で、ボロボロになりながら、それでも『彼女たちが笑っていればそれでいい』と、不敵に笑って戦い続けた。
そんな彼が、今、この新しいホロアースの世界で、ようやく「ただの人間」として、普通の高校生としての平穏な人生を手に入れているのだ。
あの過酷な戦いから解放され、誰に記憶を消されることもなく、明日という日を恐れることもない、当たり前の、ありふれた幸せ。
(もし……もし、僕たちがまた彼をホロライブに巻き込んだら、どうなる?)
谷郷の脳裏に、最悪のシナリオが過る。
この世界は平和に見えて、未だ多くの遺跡や魔獣の脅威が存在する世界だ。【ホロライブ】は最前線で戦う冒険者ギルドであり、常に危険と隣り合わせにある。
もし、ユウトを再びマネージャーとして、あるいは仲間として迎え入れれば、彼はまた彼女たちのために、自分の命を、魂を投げ出すような戦いに身を投じてしまうのではないか。彼という人間は、そういう「理不尽なまでの自己犠牲」を当然のようにやってのけた男なのだから。
「ユウトくん。君は、この世界で、普通の人間として生きた方が、幸せなんじゃないのかい……?」
ポツリと漏れた言葉が、広い執務室に虚しく響く。
彼をスカウトしない。ホロライブの存在を彼から遠ざけ、このまま、ただの一人の高校生『桜井ユウト』として、平穏な天寿を全うさせてあげること。それこそが、前世で彼を磨り潰してしまった自分たちができる、唯一の「償い」なのではないか。
けれど。もう一つの感情が、谷郷の胸を激しく踏みつける。
タレントたちの想いだ。
ときのそらは、理由も分からずに配信のエンディングで涙を流すほど、ユウトの残響を求めていた。白上フブキも、湊あくあも、宝鐘マリンも、ラプラス・ダークネスも、全員が「今度こそ、彼にありがとうと伝えたい」「今度こそ、彼の隣で一緒に歩みたい」と、その魂を焦がし続けている。
もし、ユウトを見つけたにもかかわらず、代表の判断で接触を断ち切れば、彼女たちの心には、一生埋まることのない深い絶望の傷が残るだろう。
何より、谷郷自身も、また彼と一緒に働きたかった。
あの小さなオフィスで、共に未来を語り合い、タレントの成功を裏方としてガッツポーズを交わし合った、あの泥臭くも愛おしい日々。もう一度、彼の淹れた苦いブラックコーヒーを飲みながら、くだらない雑談を交わしたかった。
「……答えが、出ないな」
デスクの上の時計が、チクタクと静かに時間を刻んでいる。
あの日、ユウトが遺していき、いつの間にか手に持っていた何の魔力も持たない緑色のカードの破片が、谷郷のポケットの中でかすかな冷たさを放っていた。
スカウトするべきか。それとも、このまま他人のままでいさせるべきか。
長考の末、谷郷は一度完全に時間を作った上で、ユウトに『直接会いに行く』ことに決めた。
ノエルやタレントたちは、まだ彼が記憶を失っているという事実、そして彼自身が「空っぽの器」として焦燥感に苛まれていることなど、微塵も知る由はない。もちろん、谷郷自身も、まだユウトの記憶が完全に抹消されているという決定的な悲劇には気づいていなかった。
ただ、今のユウトがどのような環境で、どのような表情をして生きているのか。それを、一人の「桜井ユウトの最初の理解者」として、自分のこの目で確かめなければならない。スカウトするかどうかの最終決定は、彼に直接会って、その意思を確かめてからでも遅くはない。
デスクの上の動画の中のユウトは、右手一本で大剣を振り抜き、ぶっきらぼうに前髪を払っていた。その姿は、あまりにも前世のままで、あまりにも眩しかった。
「待っていてくれ、桜井くん。……今度こそ、私は君を一人にはさせない」
谷郷はコートを手に取り、静かに団長執務室の明かりを消した。
オルタナティブシティの夜景が、窓の外で星空のように煌めいている。ホロライブという巨大な光の物語が、その生みの親である一人の少年の元へと、再び収束しようとしていた。
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そんな運命の胎動など、ただの高校生に過ぎない僕には、今の僕には知る由もなかった。
決意を固める谷郷さんの動向とは裏腹に、あのダンジョン訓練の日以降、僕――桜井ユウトの胸の中は、冷たい失意の泥に深く沈み込んでいた。
身体は完璧な大剣の戦闘技術を覚えているのに、頭の霧は一向に晴れない。自分が何者なのか、誰のために傷つき、誰のために戦っていたのか、一番大切なはずの過去の記憶は、いくら手を伸ばしても指の間をすり抜けて消えてしまう。
戦うための技術という、ただ強固なだけの『空っぽの器』。自分の歪さをまざまざと突きつけられたような感覚が、僕の心を絶え間なく削り続けていた。
けれど、それを周囲に悟られるわけにはいかない。
これ以上、心配そうな目で僕を覗き込んでくる友達に、嘘の理由を並べて逃げ回るような真似はしたくなかった。
「なぁユウト、昨日の数学の課題見せてくれよ〜! 浮遊板の調整に夢中で完全に忘れてたんだ!」
「いいよ。その代わり今日の昼休みのアイス、僕に奢ってよね」
僕はいつものように、気のない苦笑を顔に張り付け、「普通の高校生」としての仮面を深く被り直して生活していた。
友達の犬耳の少年と他愛のない言葉を交わし、ノートを貸しくだらない冗談に声を上げて笑ってみせる。仮面の裏側にどれほど深い孤独と焦燥感を隠していようとも、表面的にはどこにでもいる、少し物静かなだけの学生を完璧に演じきっていた。
チ、チ、チ、チ、チ、チ……。
制服の胸ポケットの奥で、銀色の懐中時計だけが、僕の仮面の裏の悲鳴を知るように、静かに、そして残酷なほど正確な拍動を伝えてくる。
この落ち着いた駆動音だけが、僕が「ここにいる」という、ただ一つの拠り所だった。
そんな、いつもの退屈な日常が繰り返されていた、ある日の放課後――
「……はぁ。なんか、最近のお前、見てて息が詰まるんだよな」
夕暮れに染まる学舎の裏手で、犬耳のクラスメイトが、不満そうに耳を寝かせながら僕に缶コーヒーを突き出してきた。
「え……? 僕、そんなに妙な顔をしてたかな」
受け取った缶の冷たさに指先を浸しながら、僕は取り繕うように笑ってみせた。けれど、長年の付き合いであるはずの(それさえ、僕には不確かな記憶なのだが)獣人の友人は、騙されてはくれなかった。
「笑えてないんだよ、全然。ダンジョン訓練が終わってからさ、お前ずっと、どっか遠くの空ばっかり見てるじゃん。進路希望調査書も、まだ真っ白のまま提出してないんだろ? 先生が困ってたぞ」
「……あはは、バレてたか」
僕は視線を落とした。胸のポケットで、時計がチ、チ、チ、と静かに僕の嘘を暴くように鳴っている。
「……ごめん。ちょっと、自分のことで色々と考えちゃうことがあってさ」
「だろ? だからさ、次の休み、ちょっと遠出してリフレッシュしようぜ! お前に最高の観光地を提案してやるよ!」
犬耳の少年は、僕の暗い空気を強引に吹き飛ばすように、ぱっと顔を輝かせると、カバンから一枚の美しい絵葉書のようなものを取り出して僕の目の前に突きつけた。
「観光……? どこに行くの?」
「僕の先祖たちの故郷でもある、東方の神秘の国『ヤマト』さ! そのヤマトの片隅に、めちゃくちゃ不思議で綺麗な場所があるんだ」
ヤマト。
ホロアースの遥か東方に存在するという、独自の和風の文化と、強力な霊脈が流れる獣人たちの故郷。エルフの魔導科学とは異なる、古い「陰陽術」や「神印」の力が今なお息づく神秘の土地だ。
「ここだよ。ヤマトの山奥に存在する、一年中、桜が枯れることなく咲き続ける神社――さくら神社っていうんだ」
友人が指差した絵葉書には、息を呑むほどに美しい光景が描かれていた。
周囲の山々が深い雪に覆われているというのに、その古風な神社の境内だけは、現世のものとは思えないほどに鮮やかな、薄紅色の桜の花びらが咲き乱れ、風に舞っている。
「一年中、枯れない桜……?」
「そう! どんなに厳しい冬だろうが、その神社の桜だけは絶対に散らないし、枯れないんだって。ヤマトの強力な霊力による奇跡らしいぜ。そこを歩くだけで、心のモヤモヤなんて一発で吹き飛ぶって、僕のじいちゃんも言ってたんだ!」
少年が熱弁を振るう声を聴きながら、僕はその絵葉書に描かれた、咲き誇る桜の風景をじっと凝視していた。
さくら神社。
枯れない、桜。
――その、瞬間だった。
チチチチチチチチチッ!!!
胸ポケットの奥で、懐中時計が、あの大剣を握った時と同じように、まるで歓喜と焦燥の悲鳴を上げるかのように激しく、激しく震え出した。
心臓がドクンと大きく波打ち、僕の脳裏の霧の向こうで、またしても正体不明の『誰か』の声が再生される。
『……お前はもうエリートだ、胸を張れ』
『……さくらみこ、お前は……』
「っ……、う、あ……」
知らないはずの声。けれど、その言葉の響きが、狂おしいほどの懐かしさと、胸を引き裂くような切なさを伴って僕の魂を揺さぶる。
さくら神社。その名前に、その枯れない桜の景色に、僕の失われた過去の糸が、確実に繋がっている。そんな確信めいた本能の呼び声が、僕の身体を駆け巡った。
「おい、ユウト!? また目眩か?」
「あ……ううん、大丈夫。……行こう。その、さくら神社に。僕も……その枯れない桜を、この目で見てみたいんだ」
僕は胸ポケットの上からそっと時計を握りしめ、仮面の奥で、今度は偽物ではない、静かな決意を込めた瞳で友人を見つめた。
僕の過去が何なのかは、まだ分からない。
けれど、あの散らない桜の向こうに、僕の物語の続きが待っているような気がしてならなかった。