hololive Lost Story   作:ダニエルズプラン

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第63話 朝ごはんは静かに逃げて

 

 星街家滞在、二日目の早朝。

 

 桜井ユウトは、目を覚ました瞬間に硬直した。

 

 場所は、星街家のリビング横に用意された客用布団。

 

 昨夜、寝落ちハグ騒動のあと、ユウトは早めに休むように言われた。

 

 それは覚えている。

 

 すいせいに「ソファで寝落ち禁止」と言われたことも覚えている。

 

 みこがブランケット巻きにされて抗議していたことも覚えている。

 

 そらが顔を赤くしながら「おやすみ」と言ってくれたことも。

 

 ロボ子さんが「睡眠ログ、開始」と妙に高性能なことを言っていたことも。

 

 AZKiが「いい夢になるといいね」と静かに笑っていたことも。

 

 姉街が「明日の朝ごはん、楽しみにしててね」と言っていたことも。

 

 そして、すいせいが最後に、少し照れた声で「おやすみ、ユウト」と言ってくれたことも覚えている。

 

 だから、ユウトは一人で寝たはずだった。

 

 寝たはずだった。

 

 なのに。

 

「……」

 

 右側に、ときのそらがいた。

 

 穏やかな寝息を立てながら、すぐ隣の布団で眠っている。

 

 左側にはAZKi。

 

 少し丸まるようにして、静かに眠っている。

 

 足元側に、さくらみこ。

 

 なぜか自分の布団から半分はみ出し、ユウトの布団の端を掴んでいた。

 

 少し離れたところにロボ子さん。

 

 端末を抱えたまま眠っている。

 

 そして。

 

 すいせいが、ユウトの布団のすぐ近くで眠っていた。

 

 昨夜の時点では、確かに各自の寝る場所が分かれていた。

 

 少なくとも、そう見えていた。

 

 なのに朝になったら、0期生がユウトの周囲に集結している。

 

 まるで、夜の間に引き寄せられた星座のようだった。

 

 綺麗な例えをしている場合ではない。

 

「……っ」

 

 声が出そうになった。

 

 だが、ユウトは寸前で口を押さえた。

 

 起こしてはいけない。

 

 ここで変な声を出して全員を起こしたら、朝から説明不能の混沌になる。

 

 特にみこが起きた場合、昨夜のハグ騒動の続きが始まる可能性がある。

 

 それは危険だった。

 

 主に精神的に。

 

 ユウトは、ゆっくり息を吐く。

 

 まず状況確認。

 

 自分は寝ている。

 

 周囲に0期生がいる。

 

 すいせいは近い。

 

 そらも近い。

 

 みこは布団の端を掴んでいる。

 

 ロボ子さんの端末はたぶん睡眠ログを取っている。

 

 AZKiは静かに眠っている。

 

 姉街はここにはいない。

 

 つまり、脱出するなら今。

 

 いや、脱出ではない。

 

 朝の支度だ。

 

 あくまで朝の支度。

 

 ユウトは慎重に体を起こした。

 

 肩が少しだけ重い。

 

 脇腹も、寝起きのせいか少し張る。

 

 だが、昨日よりずっとましだった。

 

 大丈夫。

 

 そう思ってから、ユウトは心の中で訂正する。

 

 大丈夫ではないが、動ける。

 

 最近、この言い換えが自然になってきた。

 

 良いことなのか、悲しいことなのかは分からない。

 

 みこの手から布団の端をそっと外す。

 

「んにぇ……ユウト……逃げるなにぇ……」

 

「……」

 

 寝言だった。

 

 ユウトは固まった。

 

 起きてはいない。

 

 みこは眉を少し動かしただけで、また寝息を立て始めた。

 

 次に、すいせいの横を通る。

 

 すいせいは、膝を軽く抱えるように眠っていた。

 

 普段の強気な表情とは違う。

 

 少し幼く見える。

 

 ユウトは、ほんの一瞬だけ足を止めた。

 

「……昨日は、ありがとう」

 

 声にならないくらい小さく呟く。

 

 それから、静かに立ち上がった。

 

 ゼロノスとしての戦闘経験は、こういう時にも役に立つらしい。

 

 床を鳴らさず歩く。

 

 障害物を避ける。

 

 気配を抑える。

 

 まさか魔獣相手ではなく、寝ている0期生から抜け出すために使うことになるとは思わなかった。

 

 ユウトは、星街家のリビングから、そっと廊下へ抜け出した。

 

     ◇

 

 台所から、微かな音が聞こえた。

 

 水の流れる音。

 

 まな板に包丁が当たる軽い音。

 

 鍋の蓋が触れる音。

 

 朝の匂い。

 

 出汁。

 

 炊き立てのご飯。

 

 焼き魚の香ばしさ。

 

 ユウトがそっと覗くと、そこには姉街がいた。

 

 髪を軽くまとめ、エプロンをつけて、手際よく朝食の準備をしている。

 

 昨日の夜も思ったが、この家の台所はよく使われている。

 

 ただ綺麗なだけではない。

 

 物の位置に生活の癖がある。

 

 使いやすいように置かれた調味料。

 

 洗った後、すぐ使えるように伏せられた器。

 

 少し大きめの鍋。

 

 姉街とすいせいの日常が、そこにあった。

 

「おはようございます」

 

 ユウトが小さく声をかける。

 

 姉街が振り返った。

 

「あれ、ユウトくん。おはよう。早いね」

 

「目が覚めてしまって」

 

「痛みは?」

 

「大丈夫ではないですが、昨日より軽いです」

 

「よろしい」

 

 姉街はにこっと笑った。

 

 完全にこの言い換えを理解している。

 

「みんなは?」

 

「寝ています」

 

「そっか。昨日遅かったもんね」

 

「はい」

 

 ユウトは一瞬迷った。

 

 言うべきか。

 

 言わないべきか。

 

 そして、正直に言った。

 

「……ただ、なぜか僕の周囲に集まって寝ていました」

 

 姉街は手を止めた。

 

 数秒。

 

 それから、口元を押さえて笑い始めた。

 

「ふふっ……そうなんだ」

 

「姉街さん?」

 

「いや、ごめんね。想像できちゃって」

 

「僕は起きた時、少し心臓に悪かったです」

 

「それはそうだよね」

 

 姉街は笑いながらも、鍋の火加減を見る。

 

「たぶん、心配だったんだと思うよ」

 

「心配」

 

「うん。ユウトくんがちゃんと寝てるか、痛くないか、急に起きてどこか行かないか」

 

「僕は子どもですか?」

 

「怪我人だね」

 

「強い」

 

「今日はこの言葉が万能だから」

 

 昨日から、星街家における怪我人という言葉は万能札になっている。

 

 ユウトは少しだけ苦笑した。

 

「何か手伝えることはありますか?」

 

 その瞬間、姉街の目が細くなった。

 

「ユウトくん」

 

「はい」

 

「座ってて」

 

「ですが」

 

「座ってて」

 

「……はい」

 

 ユウトは一度、素直に頷きかけた。

 

 だが、台所を見る。

 

 朝食はかなりしっかり準備されている。

 

 昨日の夕食ほどではないにせよ、人数が多い。

 

 姉街一人で準備するのは大変そうだった。

 

 もちろん、彼女の手際なら問題なくできるだろう。

 

 だが。

 

 昨日から自分は、してもらってばかりだ。

 

 食べさせてもらい、休ませてもらい、見守られ、寝かせてもらった。

 

 感謝している。

 

 だからこそ、少しだけでも何か返したい。

 

「姉街さん」

 

「うん?」

 

「家事をしようとしているわけではありません」

 

「今から手伝いたいって言うよね?」

 

「……はい」

 

「それを家事って言うんだよ」

 

「正論です」

 

 ユウトは負けかけた。

 

 だが、ここで引くと本当に何もできない。

 

 彼は少し考えてから、言葉を選んだ。

 

「では、健康観察の一環として」

 

「うん?」

 

「座ったままでできる範囲の、軽い作業をさせてください」

 

「健康観察の一環?」

 

「はい。握力や痛みの確認、食欲の確認、朝の活動状態の確認です」

 

「それ、ロボ子ちゃんが言いそう」

 

「ロボ子さんに怒られますかね」

 

「たぶん記録すると思う」

 

 姉街は、ユウトの顔をじっと見た。

 

 ユウトは真面目だった。

 

 真面目に、手伝いたいと言っている。

 

 無理をしたいのではない。

 

 役に立ちたい。

 

 感謝を形にしたい。

 

 そういう顔だった。

 

 姉街は小さく息を吐く。

 

「すいちゃんに怒られるよ?」

 

「その時は、僕が説得しましたと言います」

 

「私も怒られそう」

 

「僕が責任を」

 

「怪我人が責任を取ろうとしない」

 

「……はい」

 

 姉街は少し笑った。

 

 そして、椅子を引いた。

 

「じゃあ、条件付き」

 

「はい」

 

「立ちっぱなし禁止。包丁禁止。重いもの禁止。熱い鍋禁止。痛みが出たら即終了。すいちゃんたちが起きてきたら、私が許可したって言うけど、怒られる時は一緒に怒られる」

 

「最後、いいんですか?」

 

「共犯だから」

 

「共犯」

 

「朝ごはん共犯」

 

 姉街は楽しそうに言った。

 

 ユウトは、少しだけ笑って頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

「じゃあ、そこに座って。卵を混ぜてもらおうかな。出汁巻き用」

 

「分かりました」

 

「片手で無理しないでね」

 

「はい」

 

 ユウトは椅子に座り、ボウルと菜箸を受け取った。

 

 卵を混ぜる。

 

 それだけの作業。

 

 だが、少し嬉しかった。

 

     ◇

 

 朝の台所は、静かだった。

 

 リビングでは0期生がまだ眠っている。

 

 台所では、姉街が味噌汁の具を整え、ユウトが椅子に座って卵を混ぜている。

 

 包帯の巻かれた手は使わない。

 

 痛みが出ないようにゆっくり。

 

 姉街は時折、ちらりとユウトを見る。

 

「痛くない?」

 

「大丈夫ではないですが、痛みはありません」

 

「便利な言い方になってきたね」

 

「皆さんに鍛えられました」

 

「いいことだね」

 

 姉街は味噌汁の味見をする。

 

 それから、小皿に少し取ってユウトへ差し出した。

 

「味、見てもらっていい?」

 

「僕がですか?」

 

「うん。ユウトくん、ちゃんと言ってくれそうだから」

 

「では」

 

 ユウトは味噌汁を一口飲んだ。

 

 出汁が効いている。

 

 味噌は濃すぎず、朝にちょうどいい。

 

 具材の甘みも出ている。

 

「おいしいです」

 

「ほんと?」

 

「はい。朝にちょうどいい味です。昨日の茶碗蒸しもそうでしたが、姉街さんの料理は優しいですね」

 

「……ユウトくん」

 

「はい」

 

「朝からそれは強い」

 

「え?」

 

「すいちゃんが効く理由、分かった気がする」

 

「効く?」

 

「こっちの話」

 

 姉街は少し笑って、味噌汁の火を弱めた。

 

「でも、ありがとう。嬉しい」

 

「本当のことですから」

 

「うん。そういうところ」

 

 姉街は楽しそうだった。

 

 ユウトはよく分からないまま、卵を混ぜ続けた。

 

「ユウトくんってさ」

 

「はい」

 

「自分で思ってるより、周りに大事にされ慣れてないよね」

 

 急に核心を突かれた。

 

 ユウトの手が止まりかける。

 

「……そう見えますか」

 

「見える」

 

 姉街は、責めるでもなく言った。

 

「昨日もそうだったけど、何かしてもらうとすごく恐縮するでしょ」

 

「それは、当然では」

 

「当然だけど、ユウトくんの場合、ちょっと申し訳なさが勝ちすぎるかな」

 

「……」

 

「すいちゃんたちが怒るのも、そこだと思うよ」

 

 ユウトは、ボウルの中の卵を見る。

 

 黄色がゆっくり混ざっていく。

 

「昨日、たくさん言われました」

 

「うん」

 

「自分を軽く見るな、と」

 

「うん」

 

「でも、まだ少し難しいです」

 

 姉街は、黙って聞いていた。

 

「誰かを助ける時、自分を計算に入れるのが、少し遅いのだと思います」

 

「自覚はあるんだ」

 

「昨日、痛いほど」

 

「痛かった?」

 

「怪我より、皆さんの顔が」

 

 ユウトは小さく息を吐いた。

 

「みこさんが泣きそうになっていた顔も、すいちゃんが怖かったと言ってくれた声も、忘れられません」

 

「そっか」

 

「だから、直します。すぐには無理でも」

 

「うん」

 

 姉街は優しく頷いた。

 

「朝ごはんもそうだよ」

 

「朝ごはん?」

 

「全部自分で返そうとしなくていいの」

 

「……はい」

 

「でも、こうやって少し手伝いたいって思ってくれたのは、嬉しいよ」

 

「ありがとうございます」

 

「だから今日は、ちゃんと座ったまま手伝って」

 

「はい」

 

「すいちゃんに怒られたら、一緒に謝ろう」

 

「それは申し訳ないです」

 

「ほら、また」

 

「……一緒に謝ります」

 

「よろしい」

 

 姉街は満足そうに笑った。

 

     ◇

 

 最初に起きてきたのは、そらだった。

 

 リビングの方から、柔らかい足音が聞こえる。

 

 少し寝ぼけた声。

 

「おはよう……」

 

「おはようございます、そらさん」

 

 ユウトが声をかけると、そらは目を瞬かせた。

 

「ユウトくん?」

 

「はい」

 

「台所にいる」

 

「います」

 

「どうして?」

 

「朝食の準備を少し」

 

 そらの眠気が、すっと消えた。

 

「ユウトくん」

 

「はい」

 

「怪我人」

 

「座っています」

 

「手伝ってる」

 

「座ってできる範囲です」

 

「姉街さん?」

 

 そらが姉街を見る。

 

 姉街は両手を軽く上げた。

 

「私が許可しました」

 

「……条件付き?」

 

「もちろん。包丁なし、重いものなし、座ったまま」

 

 そらは少しだけ考えた。

 

 それから、ユウトの前まで来て、彼の顔を覗き込む。

 

「痛くない?」

 

「大丈夫ではないですが、痛みはありません」

 

「うん。よく言えました」

 

「子どもみたいですね」

 

「今日は怪我人だから」

 

「また万能札」

 

 そらはくすっと笑った。

 

「でも、無理はしないでね」

 

「はい」

 

「私も何か手伝う?」

 

 姉街が頷く。

 

「じゃあ、お茶の準備お願いしていい?」

 

「はい」

 

 そらは自然にキッチンへ入り、姉街の隣に立った。

 

 その姿は、朝の光に似ていた。

 

 次に起きてきたのは、AZKiだった。

 

「おはよう」

 

「おはようございます、AZKiさん」

 

 AZKiは状況を見て、少しだけ首を傾げた。

 

「ユウトくん、朝の道を見つけたんだね」

 

「道?」

 

「布団から台所までの」

 

「見つけました」

 

「誰にも起こされずに?」

 

「はい」

 

「すごいね」

 

「褒められることなんでしょうか」

 

「みんなの包囲を抜けたなら、すごいと思う」

 

「包囲だったんですね」

 

 AZKiは静かに笑う。

 

 そして、姉街の指示で器を並べ始めた。

 

 もちろん、ユウトが立とうとすると、そらとAZKiの両方から視線が飛んできた。

 

 ユウトは大人しく座った。

 

 次に起きてきたのは、すいせいだった。

 

 髪は少しだけ寝乱れている。

 

 目元にまだ眠気が残っている。

 

 普段の鋭さが少し薄く、家での顔が出ている。

 

 だが、台所にいるユウトを見た瞬間、その眠気は消えた。

 

「ユウト」

 

「おはようございます、すいちゃん」

 

「何してるの」

 

「朝食の準備を少し」

 

「怪我人」

 

「座っています」

 

「手伝ってる」

 

「座っています」

 

「答えになってない」

 

 すいせいは、つかつかと近づいてきた。

 

 ユウトは菜箸を持ったまま固まる。

 

「すいちゃん、これは姉街さんに許可を」

 

「姉街?」

 

 すいせいが姉を見る。

 

 姉街はにこっと笑った。

 

「許可しました」

 

「姉街」

 

「条件付き。座ったまま。包丁なし。重いものなし。熱いものなし」

 

「でも、ユウトはすぐ無理する」

 

「だから私が見てた」

 

「……」

 

 すいせいはユウトを見る。

 

 ユウトも真面目に見返す。

 

「本当に無理してない?」

 

「はい」

 

 すいせいの目が細くなる。

 

 ユウトはすぐに言い直した。

 

「大丈夫ではないですが、無理はしていません」

 

「……よし」

 

 すいせいは小さく頷いた。

 

 それから、少しだけ視線を逸らす。

 

「起きたらいなくて、びっくりした」

 

「すみません。皆さんを起こさないようにと思って」

 

「声かけて」

 

「寝ていたので」

 

「それでも」

 

「……次からは、書き置きします」

 

「そういうことじゃない」

 

 すいせいは、軽くユウトの額を指で押した。

 

 痛くない程度に。

 

「いなくなるのが嫌なの」

 

 その言葉は小さかった。

 

 朝の台所に、静かに落ちる。

 

 ユウトは、胸が少し痛くなった。

 

「……ごめん」

 

「うん」

 

「次は、ちゃんと分かるようにします」

 

「約束」

 

「約束します」

 

 すいせいは、ようやく少し表情を緩めた。

 

 そして、ユウトの混ぜた卵を見た。

 

「それ、出汁巻き?」

 

「はい」

 

「すいちゃんが焼く」

 

「すいちゃんが?」

 

「何その顔」

 

「いえ」

 

「できるし」

 

「疑っていません」

 

「昨日もその顔した」

 

「していません」

 

「した」

 

 姉街が横から言う。

 

「じゃあ、すいちゃん焼く?」

 

「焼く」

 

「焦がさないでね」

 

「焦がさない!」

 

 朝から星街姉妹のやり取りが始まった。

 

 ユウトは、少し笑った。

 

     ◇

 

 次に起きてきたのは、みこだった。

 

「んにぇ……おはようにぇ……」

 

 眠そうな声。

 

 少しふらふらした足取り。

 

 だが、台所の光景を見た瞬間、みこの目が開いた。

 

「ユウトが台所にいるにぇ!」

 

「おはようございます、みこち」

 

「おはようじゃないにぇ! 怪我人にぇ!」

 

「座っています」

 

「それ、さっきから言ってるにぇ?」

 

「はい」

 

「すいちゃん、許したにぇ?」

 

「条件付き」

 

 すいせいが卵焼き器を手に答える。

 

「みこも手伝うにぇ!」

 

 みこが元気よく手を挙げる。

 

 すいせいと姉街が同時に言った。

 

「待って」

 

「えっ」

 

 みこが固まる。

 

「何でにぇ!?」

 

「眠そうだから」

 

 すいせいが言う。

 

「あと、昨日ペンを持った前科」

 

「それ関係ないにぇ!」

 

「朝から落書きされても困る」

 

「しないにぇ!」

 

 姉街が笑いながら言う。

 

「じゃあ、みこちゃんは箸を並べてもらっていい?」

 

「任せるにぇ!」

 

「落とさないでね」

 

「落とさないにぇ!」

 

 数秒後。

 

 みこは箸を一本落とした。

 

「にぇ」

 

「みこち」

 

「今のは床が悪いにぇ」

 

「床は悪くない」

 

 最後に起きてきたのは、ロボ子さんだった。

 

 端末を抱え、髪が少し跳ねている。

 

「おはよ……睡眠ログ……あれ、ユウトくんがいない……」

 

「います」

 

「いた」

 

 ロボ子さんは台所のユウトを見て、端末を操作する。

 

「起床後単独移動、台所にて軽作業。記録」

 

「記録されました」

 

「痛みは?」

 

「大丈夫ではないですが、痛みはありません」

 

「よし。言い直し成功」

 

「採点されている」

 

「高性能だから」

 

 ロボ子さんは少しだけ笑い、コーヒーの準備を始めた。

 

 こうして、星街家の朝は完全に動き出した。

 

     ◇

 

 朝食の食卓は、昨日の夕食とは違う温かさがあった。

 

 炊き立てのご飯。

 

 味噌汁。

 

 すいせいが焼いた出汁巻き卵。

 

 焼き魚。

 

 小鉢の煮物。

 

 浅漬け。

 

 姉街が用意したサラダ。

 

 そして、ユウトが座ったまま盛り付けを少し手伝った果物。

 

 ローテーブルを囲むように、全員が座る。

 

 ユウトは当然のように、昨日と同じく楽な位置へ座らされた。

 

 右隣にすいせい。

 

 左隣にそら。

 

 正面に姉街。

 

 みこはすいせいの隣で「今日は近いにぇ」と満足そうにしている。

 

 AZKiとロボ子さんも、それぞれ落ち着いた場所に座った。

 

「いただきます」

 

 全員の声が重なる。

 

 ユウトはまず味噌汁を飲んだ。

 

 朝の体に染みる。

 

「……おいしいです」

 

 姉街が嬉しそうに笑う。

 

「よかった」

 

「昨日も思いましたけど、やっぱり姉街さんの料理は落ち着きます」

 

「朝から褒めるねえ」

 

「本当のことなので」

 

「すいちゃん、聞いた?」

 

「聞いてる」

 

 すいせいは出汁巻き卵を少し切り分けながら言った。

 

 耳が少し赤い。

 

「卵焼きも食べて」

 

「はい」

 

 ユウトは、すいせいが焼いた出汁巻き卵を口に運んだ。

 

 少し形は不揃い。

 

 だが、出汁がちゃんと効いている。

 

 火も通りすぎていない。

 

 優しい味だった。

 

「おいしいです」

 

「ほんと?」

 

「はい。少し甘くて、でも出汁の味もあって。すいちゃんの味ですね」

 

「っ」

 

 すいせいの箸が止まった。

 

 そらが微笑む。

 

 AZKiが静かに目を細める。

 

 ロボ子さんが「心拍上昇」と呟き、すいせいに睨まれて黙る。

 

 みこが口を尖らせた。

 

「ユウト、みこの並べた箸も褒めるにぇ」

 

「箸を?」

 

「綺麗に並んでるにぇ」

 

「一本落としたけどね」

 

 すいせいが言う。

 

「拾って交換したにぇ!」

 

「みこさん、箸を並べてくれてありがとうございます」

 

「にぇっへっへ。もっと褒めてもいいにぇ」

 

「調子に乗った」

 

 すいせいが呟く。

 

 ロボ子さんはコーヒーを飲みながら、眠気を徐々に飛ばしていた。

 

「ユウトくん、昨日より顔色いいね」

 

「よかったです」

 

「寝落ちハグが効いた?」

 

 みこがむせた。

 

 すいせいがロボ子さんを見る。

 

 そらが顔を赤くする。

 

 AZKiが静かにお茶を飲む。

 

 姉街がにやける。

 

 ユウトは箸を止めた。

 

「……その件については、改めて皆さんに謝罪を」

 

「しなくていい」

 

 すいせいが即答した。

 

「でも」

 

「寝ぼけてた。以上」

 

 みこが手を挙げる。

 

「みこは謝罪より再現を」

 

「みこち」

 

「何でもないにぇ!」

 

 すいせいの一睨みで、みこはご飯をかき込んだ。

 

 そらは、少し照れながらも言う。

 

「ユウトくん、ちゃんと眠れたならよかったよ」

 

「はい。おかげさまで」

 

「途中でみんなが近くに行っちゃったのは、ごめんね」

 

「いえ、驚きはしましたが」

 

 ユウトは少しだけ笑う。

 

「心配してくれていたんですよね」

 

 そらは目を丸くした。

 

 それから、柔らかく笑った。

 

「うん」

 

 すいせいが、小さく呟く。

 

「起きたらいなかったけどね」

 

「すみません」

 

「書き置き」

 

「次からは」

 

「次からじゃなくて、今日から」

 

「はい」

 

 姉街が楽しそうに言った。

 

「すいちゃん、完全に見張り役だね」

 

「健康観察」

 

「はいはい」

 

「姉街も昨日から混ぜるのやめて」

 

「謹慎お泊まり会?」

 

「混ぜないで」

 

 食卓には笑いが生まれる。

 

 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、ローテーブルの上の湯気を照らす。

 

 ユウトは、その光景を静かに見ていた。

 

 ホロライブ0期生。

 

 星街家。

 

 姉街。

 

 朝食。

 

 昨日までなら、想像もしていなかった場所。

 

 でも今は、ここに座っている。

 

 座らされている、と言った方が近いかもしれない。

 

 それでも。

 

 悪くなかった。

 

     ◇

 

 朝食後。

 

 ユウトは当然のように片づけを手伝おうとした。

 

 そして当然のように止められた。

 

「ユウト」

 

「はい」

 

「朝、手伝った」

 

「はい」

 

「だから片づけはなし」

 

「ですが」

 

「なし」

 

 すいせいの声は強い。

 

 姉街も頷く。

 

「朝ごはん共犯はここまで」

 

「共犯終了ですか」

 

「うん。あとは座ってて」

 

 そらが湯呑みを持ってくる。

 

「ユウトくんはお茶ね」

 

「ありがとうございます」

 

 ロボ子さんは自分用にコーヒーを淹れ、AZKiは温かいお茶を選んだ。

 

 すいせいはコーヒー。

 

 みこは甘めのカフェオレ。

 

 姉街はほうじ茶。

 

 ローテーブルには、朝食の皿の代わりに、それぞれの飲み物が並んだ。

 

 湯気がゆっくり上がる。

 

 朝の余韻。

 

 少し眠気の残る穏やかな時間。

 

「さて」

 

 姉街がカップを置く。

 

「今日どうする?」

 

「外出はなし」

 

 すいせいが即答した。

 

「早いですね」

 

 ユウトが言う。

 

「謹慎」

 

「はい」

 

「怪我人」

 

「はい」

 

「昨日の今日」

 

「はい」

 

「だから外出なし」

 

「何も言えません」

 

 みこがカフェオレを飲みながら言う。

 

「でも、ずっと家にいるのも楽しいにぇ」

 

「そうだね」

 

 そらが頷く。

 

「昨日はゲームしたから、今日は映画とかもいいかも」

 

「映画」

 

 ユウトは少し反応した。

 

「何か見たいものある?」

 

 AZKiが聞く。

 

「いえ、あまり詳しくないので」

 

「ユウトくん、配信アーカイブも最近見始めたんだよね」

 

「はい。ホロライブの活動を知るために」

 

「じゃあ、今日は映画とか音楽とか、みんなで見たり聴いたりする日にしよう」

 

 ロボ子さんが端末を操作する。

 

「ゲーム、映画、音楽。休養スケジュールとしては良好」

 

「スケジュールにするんですか」

 

「休むのが苦手な人には必要」

 

「正論ですね」

 

 すいせいがコーヒーを飲みながら言う。

 

「昼までは軽めのゲーム」

 

「昨日みたいな叫ぶやつ?」

 

 姉街が聞く。

 

「みこちが叫ぶだけ」

 

「みこが悪いみたいにぇ!」

 

「だいたいそう」

 

「にぇええ!?」

 

 そらが笑う。

 

「じゃあ、協力ゲームにする?」

 

「協力なら落とされないにぇ!」

 

 みこが元気よく言う。

 

 すいせいが横を見る。

 

「みこち、協力でも落ちる時は落ちるよ」

 

「不吉なこと言わないでにぇ!」

 

 ロボ子さんが提案する。

 

「午後は映画。ユウトくんが寝ても大丈夫なやつ」

 

「寝る前提なんですか」

 

「昨日寝落ちしたから」

 

「否定できません」

 

 AZKiが続ける。

 

「夕方は音楽を聴く時間にしよう。すいせいの曲でも、そらちゃんの曲でも、みこの曲でも、ロボ子さんの曲でも」

 

「AZKiさんの曲も」

 

 ユウトが言う。

 

 AZKiが少し目を丸くした。

 

「私のも?」

 

「はい。聴きたいです」

 

 AZKiは、静かに微笑んだ。

 

「じゃあ、少しだけ」

 

 すいせいがユウトを見る。

 

「すいちゃんの曲もちゃんと聴く?」

 

「もちろんです」

 

「感想言う?」

 

「言います」

 

「ちゃんと?」

 

「ちゃんと」

 

「よし」

 

 みこが身を乗り出す。

 

「みこの曲も!」

 

「はい」

 

「感想!」

 

「言います」

 

「褒めるにぇ!」

 

「本当にそう思ったら」

 

「そこは無条件で褒めるにぇ!」

 

「それは違うと思います」

 

「真面目にぇ!」

 

 そらが穏やかに言う。

 

「でも、ユウトくんがどう感じるか聞けるのは、嬉しいね」

 

「はい。僕も、ちゃんと知りたいです」

 

 ユウトは湯呑みを両手で包む。

 

「画面の向こうの皆さんも、ステージの上の皆さんも、こうして家で過ごす皆さんも。全部、ちゃんと見たいので」

 

 少しだけ、空気が静かになった。

 

 すいせいがカップを持つ手を止める。

 

 そらが優しく目を細める。

 

 ロボ子さんが端末から顔を上げる。

 

 AZKiがユウトを見つめる。

 

 みこが少しだけ照れたように視線を逸らす。

 

 姉街は、その様子を黙って見ていた。

 

「……ユウトはさ」

 

 すいせいが、小さく言う。

 

「そういうこと、急に言う」

 

「すみません」

 

「謝るところじゃない」

 

「では」

 

「覚えておいて」

 

「はい」

 

「すいちゃんたちは、ちゃんと見てもらえるの嬉しいから」

 

「……はい」

 

 ユウトは頷いた。

 

 胸の奥が少し温かかった。

 

     ◇

 

 こうして、星街家滞在二日目の予定は決まった。

 

 どこかへ出かけるわけではない。

 

 派手なイベントもない。

 

 街へ行くこともない。

 

 魔獣も出ない。

 

 鉄パイプもない。

 

 ホロウィッチの変身もない。

 

 ただ、家で過ごす。

 

 ゲームをする。

 

 映画を見る。

 

 音楽を聴く。

 

 お茶を飲む。

 

 誰かが笑う。

 

 誰かが眠くなる。

 

 誰かが照れる。

 

 誰かが突っ込む。

 

 そんな一日。

 

 ユウトにとっては、それがむしろ特別だった。

 

 昨日まで、自分は何かをしなければと思っていた。

 

 守らなければ。

 

 支えなければ。

 

 返さなければ。

 

 そう思う癖は、まだ体に残っている。

 

 けれど今日、星街家で迎えた朝は、違った。

 

 目覚めたら、誰かが隣にいた。

 

 台所には、朝ごはんを作る人がいた。

 

 少しだけ手伝わせてもらった。

 

 怒られかけた。

 

 許された。

 

 一緒に食べた。

 

 これから一緒に、何もしないようで、たくさんの時間を過ごす。

 

 休むこと。

 

 誰かと一緒にいること。

 

 見守られること。

 

 それもきっと、今の自分が覚えなければいけないことなのだろう。

 

 ユウトは、湯呑みをテーブルに置いた。

 

「今日は、よろしくお願いします」

 

 そう言うと、みこが即座に手を挙げた。

 

「まず協力ゲームにぇ!」

 

「みこち、朝からテンション高い」

 

 すいせいが言う。

 

「昨日のリベンジにぇ!」

 

「協力ゲームで何にリベンジするの?」

 

「すいちゃんに!」

 

「協力とは」

 

 ロボ子さんが端末を操作する。

 

「ゲーム候補、出すね」

 

 AZKiが少し笑う。

 

「映画も選ばないとね」

 

 そらがユウトに声をかける。

 

「ユウトくん、眠くなったら言ってね」

 

「はい」

 

 姉街が席を立つ。

 

「じゃあ私は、お昼に何を作るか考えておこうかな」

 

「姉街さん、本当にありがとうございます」

 

「どういたしまして。今日はちゃんと休む日だからね」

 

「はい」

 

 すいせいが、ユウトの隣で少しだけ身を寄せた。

 

「逃げないでね」

 

「逃げません」

 

「書き置き」

 

「移動する時は」

 

「よし」

 

 ユウトは苦笑した。

 

 だが、その苦笑は柔らかかった。

 

 胸ポケットではない。

 

 今日は鞄の中に置いてある懐中時計が、リビングの隅で静かに時を刻んでいる。

 

 チ、チ、チ、チ。

 

 昨日よりも、少し軽い音に聞こえた。

 

 星街家滞在二日目。

 

 謹慎処分という名の、休むための一日。

 

 行き先表示には、こう出ていた。

 

『朝ごはんは静かに逃げて』

 

 白いバンで運ばれた先にあったのは、罰ではなく。

 

 朝の匂いと、湯気と、隣に誰かがいる時間だった。

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