hololive Lost Story 作:ダニエルズプラン
星街家の夕食は、すき焼きだった。
甘辛い割り下の香りが、リビングいっぱいに広がっている。
ローテーブルの中央には、大きな鍋。
その中では、牛肉、白菜、長ねぎ、焼き豆腐、しらたき、しいたけ、春菊が、艶やかな湯気を立てながら煮えていた。
卵を溶いた器。
取り皿。
箸。
飲み物。
そして、鍋を囲む0期生と姉街とユウト。
どこからどう見ても、幸せな夕食の光景だった。
ただし。
平和かどうかは、別である。
「すいちゃん、それみこの肉にぇ!」
「名前書いてない」
「みこが目をつけてたにぇ!」
「目をつけた肉は所有権発生しない」
「するにぇ! すき焼き界ではするにぇ!」
「しない」
「するにぇええ!」
鍋の中で、ひときわ大きな肉が揺れている。
脂の入り方も、火の通り方も、明らかに今日の鍋の中で上位個体。
それをめぐって、星街すいせいとさくらみこ――みこちは、箸を構えたまま静かな戦争を始めていた。
すいせいの箸が伸びる。
みこちの箸が遮る。
肉が揺れる。
割り下が跳ねそうになる。
「みこち、箸で戦わない」
すいせいが言う。
「先に仕掛けたのはすいちゃんにぇ!」
「私は肉を取ろうとしただけ」
「それが仕掛けにぇ!」
「お肉は早い者勝ち」
「愛は譲り合いにぇ!」
「なら譲って」
「それは違うにぇ!」
ユウトは、卵の器を手に持ったまま、その争いを見ていた。
止めるべきか。
止めないべきか。
少なくとも、二人とも本気で怒っているわけではない。
むしろ、じゃれ合いに近い。
だが、鍋の中の肉は本当に大きい。
そして、すき焼きの肉をめぐる争いには、人を本気にさせる力がある。
「すいちゃん、みこち」
姉街の声がした。
柔らかい。
とても柔らかい。
だが、その瞬間、二人の箸が止まった。
「お鍋の前で喧嘩しない」
「喧嘩じゃない」
すいせいが言う。
「すき焼き協議にぇ」
みこちが続ける。
「協議なら、ちゃんと話し合いで決めようね」
姉街はにこにこしていた。
にこにこしているのに、なぜか逆らいにくい。
星街家の主導権を握る者の貫禄だった。
「半分こ」
「……はい」
「にぇ……」
姉街は慣れた手つきで、その大きな肉を箸で分けた。
ちょうどいい大きさに裂き、片方をすいせいの器へ、もう片方をみこちの器へ入れる。
「はい。仲良く食べる」
「ありがと」
「ありがとうにぇ……」
すいせいとみこちは、それぞれ器を見た。
まだ少し不満そう。
けれど、肉の誘惑には勝てない。
二人はほぼ同時に卵へくぐらせ、口へ運んだ。
「……おいしい」
「うまいにぇ……」
戦争は終結した。
肉は偉大である。
姉街は満足そうに頷いた。
「よし」
その横で、ときのそら、AZKi、ロボ子さん、そしてユウトは、実に静かに箸を進めていた。
そらは上品に、けれどしっかり食べている。
AZKiは鍋の中の具材を眺めながら、少しずつ味わっている。
ロボ子さんは時折「このしらたき、熱い」と言いながら、ふうふう冷ましている。
ユウトは、姉街やすいせいが取り分けてくれるものを、ありがたく受け取っていた。
「ユウトくん、白菜も食べてね」
そらが言う。
「はい。ありがとうございます」
「熱くない?」
「大丈夫ではないですが、気をつけます」
「うん、よろしい」
そらは少し嬉しそうに頷いた。
彼女の手元には、度数の弱いチューハイ缶が置かれている。
缶の側面には、薄い果実のイラスト。
そらの頬は、ほんのり赤い。
酔っているというほどではない。
けれど、普段より少しだけ声が柔らかく、笑う回数も多い。
AZKiの手元にも、同じようにチューハイ缶がある。
彼女は缶を指先で軽く包みながら、夜の音を聴くように静かに飲んでいた。
目元がほんの少し赤い。
言葉の間が、いつもより少し長い。
ロボ子さんも、弱いチューハイを飲んでいた。
「高性能だから酔わない」
最初はそう言っていた。
だが、今は少しだけ頬を赤くして、箸で豆腐をつかむのに苦戦している。
「豆腐、逃げる」
「ロボ子さん、豆腐は逃げません」
ユウトが言う。
「逃げてる。高性能な逃走」
「豆腐が?」
「うん」
ロボ子さんは真剣だった。
そらがくすくす笑い、AZKiも小さく肩を揺らした。
ユウトの手元には、ジュースの入ったコップがある。
もちろん酒ではない。
怪我人。
謹慎中。
健康観察対象。
そして何より、ユウト自身が飲もうとしていない。
そのため、彼の飲み物は果実ジュースだった。
すいせいが選んだ。
「ユウトはこっち」
そう言って、少し甘めのものを渡された。
飲んでみると、確かにおいしかった。
ただ、すいせいが自分で選んだことをあまりにも当然のようにしていたので、ユウトは少しだけ照れた。
「ユウト」
「はい」
すいせいが肉を食べ終え、次の具材を狙いながら言う。
「ちゃんと食べてる?」
「はい」
「野菜も?」
「はい」
「肉も?」
「いただいています」
「よし」
「すいちゃん、完全に監督にぇ」
みこちが言う。
「健康観察」
「またそれにぇ」
「便利だから」
「便利に使いすぎにぇ!」
姉街が笑う。
「でも、ユウトくんの食べる量、昨日より増えてるかも」
「そうですね」
ユウトは自分の器を見る。
「安心しているからかもしれません」
何気なく言った言葉だった。
けれど、周囲の箸が少し止まった。
すいせいがユウトを見る。
そらが柔らかく微笑む。
AZKiが静かに目を伏せる。
ロボ子さんは「安心ログ」と小さく呟く。
姉街は、少しだけ表情を和らげた。
「そっか」
すいせいが、小さく言った。
「安心してるんだ」
「はい」
「ならいい」
その声は、少しだけ嬉しそうだった。
◇
夕食は、少しずつ騒がしくなっていった。
みこちが肉を取ろうとして、すいせいに先を越される。
すいせいが春菊を避けようとして、姉街に見つかる。
「すいちゃん、春菊」
「あとで食べる」
「今」
「……はい」
そらがチューハイを一口飲んで、ふわっと笑う。
「すき焼きって、みんなで食べると楽しいね」
「そらさん、少し酔ってます?」
ユウトが聞く。
「少しだけかも」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫……あ、ユウトくんに言うと怒られる言葉だね」
「僕は怒りません」
「でも、ちゃんと言い直すね。大丈夫ではないけど、楽しいです」
「それは……いいんでしょうか」
「いいと思う」
そらは楽しそうだった。
AZKiは、缶を軽く揺らしながら鍋の湯気を見つめている。
「湯気って、歌みたい」
「歌ですか?」
ユウトが聞く。
「うん。見えるけど、掴めない。すぐ形が変わる。でも、確かにそこにある」
「AZKiさんらしいですね」
「そう?」
「はい」
AZKiは少しだけ笑った。
いつもより、表情が柔らかい。
チューハイのせいかもしれない。
それとも、星街家の空気のせいかもしれない。
ロボ子さんは、しらたきとの戦いに勝利していた。
「勝った」
「おめでとうございます」
「ユウトくん、見てた?」
「見ていました」
「高性能だった?」
「はい。高性能でした」
「やった」
ロボ子さんは満足そうにしらたきを食べる。
その横で、みこちが再び肉へ箸を伸ばした。
すいせいも同時に伸ばした。
「にぇ」
「……」
「すいちゃん」
「みこち」
二人の視線がぶつかる。
姉街が静かに箸を置いた。
「二人とも」
「はい」
「にぇ」
また優しく怒られた。
ユウトは、思わず小さく笑う。
その笑いを見て、すいせいが言った。
「ユウト、笑ってる場合じゃない」
「すみません」
「謝るところでもない」
「では、どうすれば」
「肉食べて」
「はい」
姉街がユウトの器へ新しい肉を入れる。
「はい、ユウトくんの分」
「ありがとうございます」
みこちが羨ましそうに見る。
「ユウトの肉、いいやつにぇ」
「みこちも食べたでしょ」
すいせいが言う。
「でもユウトのは姉街が入れたにぇ」
「それが何?」
「特別感にぇ」
「じゃあ、すいちゃんが入れる」
「すいちゃん!?」
すいせいは、鍋から肉を取り、ユウトの器へ入れた。
「はい」
「あ、ありがとうございます」
「食べて」
「はい」
みこちも負けじと鍋を見る。
「みこも入れるにぇ!」
「みこち、今取ったの豆腐」
「にぇ?」
ユウトの器へ、焼き豆腐が入った。
「ありがとうございます、みこち」
「……豆腐もおいしいにぇ」
「はい。おいしいです」
「ユウトは優しいにぇ」
みこちは少し照れたように笑った。
鍋の湯気。
甘辛い香り。
笑い声。
軽く赤くなった頬。
揺れる缶。
箸の音。
ユウトは、その全部を静かに受け取っていた。
だが、少しだけ胸の奥が騒がしくなった。
温かい時間が、温かすぎる時。
人は時々、少し離れたくなる。
逃げたいのではない。
ただ、受け取ったものを整理するために、少しだけ静かな場所が欲しくなる。
ユウトは、食事が一段落した頃、そっと立ち上がった。
「ユウト?」
すいせいがすぐに気づく。
「少しだけ、外の空気を吸ってきます」
「一人で?」
「ベランダです。すぐそこです」
すいせいは少し迷った。
だが、ユウトの表情を見て、小さく頷いた。
「寒かったら戻ってきて」
「はい」
「書き置きは?」
「今回は見える範囲なので」
「……まあ、いい」
「ありがとうございます」
みこちが手を挙げる。
「みこも行くにぇ!」
「みこち、肉まだあるよ」
姉街が言う。
「にぇ!?」
みこちの意識が鍋へ戻った。
ユウトは小さく笑い、ジュースの入ったコップを手に、リビングの網戸を開けた。
◇
星街家のベランダからは、オルタナティブシティの夜景が見えた。
高層ビルの光。
魔導交通ラインを走る淡い軌跡。
遠くの浮遊ステージに灯る照明。
地上を流れる自動車のライト。
看板の光。
住宅区の窓明かり。
昼間の街とは違う、静かで広い顔。
夜のオルタナティブシティは、まるで星を地上に降ろしたようだった。
ユウトはベランダの壁に肘を置き、コップを片手にその景色を眺めた。
果実ジュースの甘さが、口の中に残る。
室内からは、まだ声が聞こえる。
「すいちゃん、それみこの豆腐にぇ!」
「豆腐にも名前書いてない」
「豆腐も所有権あるにぇ!」
「すき焼き界、権利多すぎ」
「二人とも、こぼさないでね」
姉街の声。
そらの笑い声。
ロボ子さんの「豆腐逃げた」という声。
その奥に、AZKiの静かな声もあった気がする。
ユウトは、少しだけ目を細めた。
この部屋の中にいる人たちが、笑っている。
自分はその音を、外から聞いている。
それだけなのに、胸の奥が温かい。
「……こういう時間を、守りたかったのかな」
小さな呟きは、夜風に溶けた。
前世の記憶は、まだはっきり戻っていない。
デンライナーで見た。
過去を見た。
未来を見た。
だが、それはまだ、自分の中で完全な実感になっていない。
それでも。
ホロライブの人たちが笑う時間。
誰かの家で鍋を囲む時間。
こうして夜景を見ながら、室内の騒がしさを聞く時間。
それらを守りたかったのだろうと、今なら少し思える。
ユウトはコップを口へ運んだ。
甘い。
ジュースだ。
酒ではない。
それが少しだけ、今の自分を現実へ引き戻してくれる。
自分は今、高校生で。
怪我をして。
謹慎処分中で。
星街家に泊めてもらっている。
そして。
たくさんの人に、想われている。
その事実に、まだ慣れきれない。
慣れきれないまま、少しずつ受け取っている。
カラカラ、と音がした。
網戸が開く音。
ユウトが振り返ると、そこにはAZKiがいた。
◇
「隣、いい?」
AZKiはそう言った。
手には、チューハイの缶。
顔はほんの少し赤い。
目元も、いつもより柔らかい。
酔っている。
深くではない。
ただ、少しだけ言葉と表情の間に、いつもより素直なものが混ざっていた。
「もちろんです」
ユウトは少し体をずらした。
AZKiはユウトの隣に立ち、ベランダの壁に軽く肘を置く。
室内からの明かりが、彼女の横顔を淡く照らしていた。
夜風に、髪が少し揺れる。
「寒くない?」
ユウトが聞く。
「大丈夫……じゃなくて、少し涼しいけど、気持ちいい」
「最近、その言い直しが広がっていますね」
「ユウトくんの影響だね」
「悪影響では?」
「いい影響だと思うよ」
AZKiは缶を軽く揺らす。
中の氷ではなく、液体が小さく音を立てた。
「ユウトくん、静かなところに来たかった?」
「はい。少しだけ」
「疲れた?」
「疲れたというより……温かかったので」
「温かかったから、外に?」
「はい」
「分かる気がする」
AZKiは夜景を見る。
「温かい場所にいると、時々、今そこにいる自分を確認したくなるよね」
ユウトは彼女を見た。
「AZKiさんも、そういうことがありますか?」
「あるよ」
AZKiは小さく笑う。
「ステージの上でも、配信の中でも、誰かの声がたくさん届く時。嬉しいのに、少しだけ遠くから見たくなることがある」
「遠くから」
「うん。自分がそこにいていいのか、ちゃんと歩けているのか、確かめるみたいに」
その言葉は、ユウトの胸に静かに触れた。
「僕も、似ているかもしれません」
「うん」
「皆さんが温かくしてくれるほど、自分がそれを受け取っていいのか、少し分からなくなる時があります」
「でも、受け取ってる」
「……はい。少しずつ」
「それでいいと思う」
AZKiは缶を口へ運ぶ。
少しだけ飲む。
そして、夜景に目を向けたまま続けた。
「道って、一歩ずつしか進めないから」
「道」
「うん。ユウトくんは、たくさんの道を一気に見ちゃったんだと思う」
「デンライナーで、ですか」
「それもあるし、今のホロライブも、学校も、未来も、過去も」
AZKiの声は柔らかい。
室内の騒ぎとは対照的に、ベランダの空気は静かだった。
「でも、今日みたいな一日は、一歩だよ」
「一歩」
「朝ごはんを食べて、ゲームをして、映画を見て、音楽を聴いて、買い物して、すき焼きを食べて、夜景を見る」
「……はい」
「それだけでも、ちゃんと進んでる」
ユウトは夜景を見る。
地上の光が、遠くまで続いている。
まるで、本当に道のようだった。
「僕は、進めていますか?」
ぽつりと聞いた。
AZKiはすぐには答えなかった。
ただ、ユウトの横顔を見た。
それから、静かに言った。
「進んでるよ」
「そう見えますか?」
「うん」
「僕は、まだ迷ってばかりです」
「迷うのも、進んでるからだよ」
「止まっているから迷うのでは?」
「止まっていたら、景色は変わらないから」
AZKiは少しだけ笑う。
「迷えるのは、景色が変わっているからだと思う」
ユウトは、その言葉をゆっくり受け取った。
室内では、またみこちの声が上がる。
「にぇええ!? ロボ子さん、それみこのしらたきにぇ!」
「しらたき逃げたから捕まえた」
「みこのにぇ!」
「しらたきに所有権は」
「あるにぇ!」
すいせいの呆れた声。
姉街の笑い声。
そらのやわらかな声。
ベランダにいる二人は、思わず少し笑った。
「平和ですね」
ユウトが言う。
「うん」
「すごく、平和です」
「ユウトくんが守ったものの中に、こういうのもあるのかもね」
AZKiの言葉に、ユウトはコップを持つ手を少しだけ強くした。
「……そうなら、よかったです」
「よかった、じゃなくて」
AZKiはユウトを見る。
「今もあるよ」
「今も?」
「守ったものは、今ここにもある」
その声は、少しだけ近かった。
ユウトは気づく。
いつの間にか、二人の距離が狭まっていた。
最初は肩一つ分以上あったはずだ。
今は、手を少し動かせば触れられる。
AZKiの缶を持つ手と、ユウトのコップを持つ手。
その間は、ほんの少し。
夜風が通る。
室内の音が遠くなる。
でも、完全には消えない。
騒がしい温かさが背中にあり、目の前には広い夜景がある。
その間に、二人だけの静かな場所があった。
◇
「ユウトくん」
AZKiが呼んだ。
「はい」
「今日、楽しかった?」
「はい」
「本当に?」
「本当に」
「どこが?」
AZKiは、少しだけ意地悪そうに聞いた。
酔いのせいかもしれない。
いつものAZKiより、少しだけ踏み込んでくる。
ユウトは考えた。
「朝、目が覚めた時は驚きました」
「みんなが近くで寝てた?」
「はい」
「それは、楽しい?」
「驚きの方が大きかったです」
「ふふ」
「でも、台所で姉街さんと朝食を準備できたことは嬉しかったです」
「うん」
「そらさんの鼻歌に合わせられたことも」
「うん」
「AZKiさんが寄りかかって、本を読みながら歌っていたことも」
AZKiのまつげが少し揺れた。
「覚えてるんだ」
「はい」
「何でもない時間だったよ?」
「だから、覚えています」
ユウトは夜景を見た。
「何でもない時間を、僕はあまり持っていなかった気がするので」
AZKiは黙った。
その横顔が、夜の光に静かに照らされている。
「……ユウトくんは」
「はい」
「そういうこと、ちゃんと言葉にするようになったね」
「そうでしょうか」
「うん。前より」
「前の僕を、僕は知りません」
「でも、私は少し知ってる」
AZKiの声は静かだった。
前世の記憶を持つ彼女。
今のユウトを見ている彼女。
その両方が、今ここにいる。
「前のユウトくんは、たぶんもっと隠してた」
「……そうですか」
「うん。優しいけど、自分の気持ちは奥に置いてた」
「今も、あまり変わっていないかもしれません」
「変わってるよ」
AZKiは、少しだけユウトへ顔を向けた。
「今は、言おうとしてる」
ユウトも、彼女を見る。
視線が合った。
偶然だった。
ほんの一瞬のはずだった。
だが、その一瞬が長く伸びた。
AZKiの瞳は、夜景の光を受けて静かに揺れている。
チューハイの酔いで、頬は少し赤い。
けれど、その目は真っ直ぐだった。
ユウトは、息をするのを少し忘れた。
「……」
「……」
どちらからともなく、二人は室内へ視線を向けた。
網戸の向こう。
リビングでは、まだすき焼きの鍋を囲んで騒がしい時間が続いている。
すいせいとみこちは、また何かの具材をめぐって言い合っている。
姉街は優しくそれをたしなめている。
そらは少し赤い顔で笑っている。
ロボ子さんはしらたきを追いかけている。
誰も、ベランダの二人を見ていない。
見ている様子はない。
室内の明かり。
笑い声。
鍋の湯気。
その全部が、ほんの少しだけ遠くに見えた。
二人は、同時にまた視線を戻した。
ユウトの胸が、静かに鳴った。
懐中時計は部屋の中の鞄にあるはずなのに、音が聞こえた気がした。
チ、チ、チ、チ。
時が進む音。
道の途中で、足を止める音。
AZKiが、そっと缶を壁の上に置いた。
ユウトも、ジュースのコップを少し横へ置いた。
手が空く。
触れようと思えば、触れられる。
でも、触れない。
その距離のまま、二人は見つめ合っていた。
「ユウトくん」
AZKiの声は、小さかった。
「はい」
「今、何を考えてる?」
ユウトは、正直に答えようとした。
けれど、言葉にならなかった。
夜景が綺麗だとか。
AZKiの声が近いとか。
室内が騒がしいのに、ここだけ静かだとか。
今日が楽しかったとか。
前世と今が少しだけ繋がった気がするとか。
そういうものが全部混ざって、言葉にならない。
「……分かりません」
ユウトは言った。
「でも、目を逸らしたくないと思っています」
AZKiの目が、少しだけ大きくなった。
そして、柔らかく細められる。
「そっか」
彼女はそう言った。
その声は、夜風よりも静かだった。
「じゃあ、逸らさないで」
「……はい」
AZKiは、そっと目を閉じた。
それだけだった。
誘うようでもあり。
委ねるようでもあり。
道の途中で、次の一歩を差し出すようでもあった。
ユウトは、室内をもう一度見ることはしなかった。
もう確認は済んでいる。
今、ここには二人だけの静けさがある。
ユウトは、ゆっくり顔を近づけた。
AZKiも、ほんの少しだけ近づく。
夜風が止まったように感じた。
リビングの笑い声が、遠い波のようになった。
そして。
お互いの唇が、そっと触れた。
短い。
触れるだけの口づけ。
けれど、確かな温度があった。
AZKiの缶に残った甘いチューハイの香り。
ユウトのジュースの果実の匂い。
夜景の光。
静かな息。
唇が離れる。
二人は、すぐには言葉を出さなかった。
AZKiは目を開ける。
ユウトを見る。
頬は、さっきより赤い。
でも、表情は穏やかだった。
「……道、少し進んだね」
AZKiが言った。
ユウトは、うまく返事ができなかった。
ただ、頷いた。
「はい」
声が少し掠れていた。
AZKiは、それを聞いて小さく笑った。
「内緒にする?」
ユウトは、室内を見た。
すいせいがみこちの箸を止めている。
みこちが抗議している。
姉街がまた笑っている。
そらが少し赤い顔でチューハイ缶を持っている。
ロボ子さんが豆腐を捕まえている。
誰も、まだこちらを見ていない。
「……今は」
ユウトは小さく言った。
「今は、内緒で」
「うん」
AZKiは、自分のチューハイ缶を取り直した。
そして、夜景へ視線を戻す。
肩が、ほんの少しだけユウトに触れた。
偶然ではない。
ユウトも、離れなかった。
室内の騒がしさを肴に。
オルタナティブシティの夜景を眺めながら。
二人はしばらく、何も言わずに並んでいた。
今日の行き先表示には、こう出ていた。
『夜景チューハイ・道の途中で』
星街家の二日目の夜。
すき焼きの湯気の向こうで、誰にも見つからない小さな星が、一つ静かに瞬いた。