hololive Lost Story 作:ダニエルズプラン
キィィィィィン……と、魔導推進器が放つ独特の金属質な駆動音が、厚いガラス窓を隔ててかすかに客室へと響いていた。
週末。オルタナティブシティの中央発着場から飛び立ったヤマト行きの高速魔導飛行船は、高度数千メートルの雲海を滑るように進んでいた。
窓の外を見遣れば、眼下にはどこまでも続く真っ白な雲の絨毯が広がり、その遥か先、夕暮れの陽光を浴びて山脈の頂が、まるで巨人の背骨のように連なっている。この世界の広大さと、近代魔導科学の結晶であるこの船の速度に、僕はシートに深く身を沈めながら所在なく外の景色を眺め続けていた。
「おいユウト、何そんな格好いい顔して黄昏れてんだよ! ほら、ヤマトの限定スイーツ、お前も食うだろ?」
対面のシートから声をかけてきたのは、今回の旅の発案者である犬耳のクラスメイトだった。彼は飛行船の売店で買ってきたばかりの、ヤマト名物の「三色団子」を僕の目の前で嬉しそうに突き出してみせる。ピンと立った茶色い耳が、これから向かう故郷への期待で小刻みに震えていた。
「ありがとう。じゃあ、一本もらうよ」
僕はいつものように、気のない、けれど親しみやすい苦笑を顔に張り付け、団子を受け取った。
今回のヤマト旅行。最初はあのダンジョン訓練の後、僕の様子を心配した犬耳の少年が提案してくれたものだったが、教室でその計画を話しているうちに、「えっ、ヤマト行くの!? ずるい、僕も行く!」「あたしも枯れない桜、見てみたい!」と、放課後の悪戯仲間である悪魔の少年や、数人のクラスメイトたちが次々と名乗りを上げ、結果としてちょっとした小旅行のグループが出来上がってしまったのだ。
「それにしてもさ、ユウトがこうやって僕たちの誘いに乗って遠出してくれるなんて、珍しいよな。最近は放課後になると、すぐにどっか行っちゃうじゃん」
悪魔の少年が、ゲーム端末から視線を上げ、ニヤニヤと笑いながら僕を見てくる。
「まあね。今回は、その……絵葉書で見た『散らない桜』に、なんとなく興味が湧いちゃってさ」
僕はそう答えて、自分の制服の胸ポケットの上から、そっと右手のひらを当てた。
チ、チ、チ、チ、チ、チ……。
布地を隔てて伝わってくる、あの銀色の懐中時計の、硬質で揺るぎない駆動音。
あの日、骨董品店で手に入れて以来、僕の肉体の不調を消し去ってくれたこの時計は、飛行船がオルタナティブシティを離れ、東方の国「ヤマト」へと近づくにつれて、明らかにその拍動を早く、そして熱く変化させていた。
胸の奥に居座る『圧倒的な空白』が、時計の熱に煽られるようにして、ふつふつと疼きを増している。思い出すことのできない過去に対する焦燥感。僕は「普通の高校生」の仮面を被り、友達の賑やかな会話に適当に相槌を打ちながらも、内側では千切れそうなほどの不安と、正体不明の期待感に身を焼き続けられていた。
あの散らない桜の神社に行けば、僕のこの空っぽの器に、失われた物語の続きが注ぎ込まれるのだろうか。
それとも、また何も得られないまま、ただの残酷な残響に終わるのだろうか。
飛行船は夕闇のグラデーションを切り裂きながら、神秘の霊脈が流れる和の国、ヤマトの連峰へと向かって、ひたすらに高度を下げ始めていた。
~~~~~~~~
高速飛行船のタラップを降りた瞬間、冷涼で、どこか厳かな空気が僕たちの全身を包み込んだ。
ヤマトのこの地域は、冬の気配が色濃く残る厳しい季節の真っ只中にあった。周囲の山々は深い白雪に覆われ、吐き出す息は真っ白に凍りついていく。
「さぁ、ここからが本番だ! 霊峰の階段を上がった先に、目的の『さくら神社』があるんだ!」
犬耳の少年が、防寒具のフードを被りながら力強く階段を指差した。
数千段はあろうかという、雪の積もった厳かな石段。僕たちは息を切らしながら、一歩一歩、その神聖な山道を登っていった。友人たちは「寒い寒い!」と言いながらも、初めて見るヤマトの異国情緒溢れる景色に目を輝かせている。
そして、ついに最後の段を登りきり、巨大な注連縄(しめなわ)が飾られた朱色の総門を潜った、その瞬間だった。
「……え?」
クラスメイトの一人が、驚愕のあまり声を失った。
僕もまた、その場に釘付けになったように、動けなくなった。
一歩。門の境界線を越えただけで、世界の『法則』が完全に書き換えられていた。
門の外は、あれほど凍えるような白雪の冬だったというのに。境内に一歩足を踏み入れた瞬間肌を撫でたのは、まるで陽だまりのような、ポカポカとした春の温かな風だった。
そして、目の前に広がっていたのは、息を呑むほどに鮮やかな、薄紅色の世界。
境内の至る所に植えられた無数の桜の木々が、今を盛りと満開の花を咲かせ、春の柔らかな風に吹かれて、ひらひらと無数の花びらを境内の石畳へと舞い散らせていたのだ。
「すっげえええええ!! 本当に、雪山の中に桜が満開だ!!」
「これ、どういう結界なの……? 神秘の密度が、オルタナティブシティの特級魔導区以上だよ……」
友人たちは、大はしゃぎで桜の花びらを追いかけ、魔導端末を取り出して次々と写真を撮り始めた。枯れない桜、散らない奇跡。そのお伽話のような光景は、観光客である彼らの心を一瞬で虜にしていた。
けれど。僕の感覚は、彼らのそれとは根本から異なっていた。
ドクン、ドクン、ドクン、と。
心臓が、痛いくらいに激しく脈動し始める。
神社全体を包み込む、この圧倒的な、暴力的なまでの
初めて来たはずの場所なのに、この朱色の社殿の配置も、漂うお香の匂いも、風に舞う桜の軌道さえも、僕の魂は寸分の狂いもなく「知っている」と叫び声を上げていた。
チチチチチチチチチッ!!!
胸ポケットの懐中時計が、衣服を引き裂かんばかりの勢いで、ジジジジッと激しく震え出す。
頭が割れるように痛い。脳裏の霧の向こうで、あの華やかで、どこか抜けた、けれど僕にとって命よりも大切だったはずの少女の声が、激しいノイズと共に何度も、何度も再生される。
『……お前はもうエリートだ、胸を張れ』
『……みこ、お前は……』
「……っ、う、あ……」
僕は堪らず、胸元を強く押さえた。
何かが、この神社の奥から、僕を呼んでいる。
言葉にならない、理屈を超えた強烈な因果の引力が、僕の身体を、境内の奥へと強く、強く引っ張っていた。
「……みんな。ごめん、ちょっと、体調が……。少しだけ、一人で境内を歩いてきてもいいかな」
僕は、必死に荒い息を隠しながら、隣にいた犬耳の友人に告げた。友人は、僕の異変に気づいたのか、心配そうに耳を寝かせた。
「ユウト? 大丈夫か? やっぱり無理があったんじゃ……」
「ううん、大丈夫だよ。この春の風が、すごく心地よくてさ。……ちょっと、頭を冷やしたいんだ。すぐに戻るから、みんなは先にお参りしてて」
僕はそれだけ言い残すと、心配する彼らの声を振り切るようにして、賑やかな本殿の参道から外れ、一時的に友人と別れて境内を歩き出した。
仮面が、剥がれ落ちそうだった。これ以上彼らのそばにいたら、僕のこの狂いそうな困惑を、すべてぶちまけてしまいそうだった。
~~~~~~~~
本殿の裏手を通り抜け、古い石畳の道をさらに奥へと進むにつれ、周囲の賑やかな話し声や笑い声は、静かに遠のいていった。
そこに広がっていたのは、古き霊脈が地表へと吹き出す、神社の境界たる深い森の入り口だった。参拝客は誰一人として足を踏み入れない、静謐と、厳かな沈黙だけが支配する空間。
風が、優しく僕の前髪を揺らす。
その細い道の突き当たりに、その木は、まるでこの世界のすべての時間を司る守護者のように、静かに佇んでいた。
「……あ」
僕は、その場所から動けなくなった。
境内に植えられたどの木よりも、遥かに巨大で、遥かに古い歴史を感じさせる、一本の巨木の桜。
その太い幹には、古びた、けれど丁寧に編み込まれた注連縄(しめなわ)が幾重にも巻かれており、その姿はこの神社の『御神木』であることを無言のまま雄弁に物語っていた。
見上げるほどの漆黒の枝からは、これまでに見たどの桜よりも濃く、鮮やかな薄紅色の花びらが、しんしんと、けれど絶え間なく、まるで永遠に終わらない涙のように地上へと舞い散っている。
なぜだろう。その御神木の前に立った瞬間、僕を苛んでいた激しい動悸と焦燥感が、嘘のようにスーッと凪いでいった。
ただの、圧倒的な安らぎ。そして、胸が張り裂けそうなほどの、優しい哀愁。
僕は、引き寄せられるように、桜の花びらが絨毯のように敷き詰められた地面へと歩み寄った。
背中には、あのダンジョン訓練の実戦で、僕の肉体を覚醒させた無骨な鉄の大剣が、ホルダーに固定されたままずっしりとした重みを残している。
僕はその大剣を背負ったまま、御神木の太い幹にそっと背中を預けるようにして、根元に置かれた古い平らな石の上に、静かに腰を下ろした。
上を見上げれば、視界のすべてを埋め尽くすような、圧倒的な薄紅色の天井。
風が吹くたびに、僕の端正な少年の顔に、肩に、制服のすべてに、優しく祝福するように花びらが舞い落ちてくる。
チ、チ、チ、チ、チ、チ……。
胸ポケットの奥から響く、銀色の懐中時計の駆動音。
そのカチカチという硬質な秒針の音が、不思議なことに、この御神木から散りゆく花びらの静かなリズムと、完璧に同期し、重なり合っていく。
(ここでなら……。ここにいれば、僕は……)
自分が「過去のない空っぽの人形」であるという恐怖を、これから進むべき未来がすべて偽物のように思えるあの絶望的な焦燥感を、ほんの一瞬だけ、忘れられるような気がした。
僕は静かに目を閉じ、胸ポケットの上から時計をそっと手のひらで包み込んだ。
失われた過去も、自分の本当の名前も、何一つ思い出せはしないけれど。
この散りゆく桜の雨の下で、僕はただの一秒でも長く、この止まった時間のような安らぎに浸っていたかった。
~~~~~~~~
同じ時刻。
ユウトが眠る場所から、少し離れた神社の敷地内。
一般人は立ち入ることのできない、さくら神社の重厚な社務所の一室。
畳の香りが心地よく漂う、広々とした和室の中では、外の神聖な静寂とは完全に不釣り合いな、賑やかで激しい声が響き渡っていた。
「あー! ちょっと待ってすいちゃん! そこ左から来てる、左から来てるってば! みこを盾にするのはやめるにぇ!」
「何言ってるのみこち、エリート巫女なんだからその程度の攻撃、一発でガードしてよ。ほら、そこ右の魔獣のタゲ取って、早く!」
「無茶言うな! こっちのコントローラー、さっきからボタンの効きが悪いんだってば! ああーっ、死んだ! みこが死んだにぇええ!」
部屋の隅に置かれた巨大な液晶モニターの前で、二人の少女が、正座したまま激しくゲーム機のコントローラーを叩いていた。
一人は、さくら神社の跡取り巫女であり、ホロライブ0期生――さくらみこ。
美しい桜色の長い髪をツインテールに結い、ピンクの羽飾りがついた星形の髪飾りを揺らしながら、ゲームの画面に向かって顔を真っ赤にして叫んでいる。彼女はこの世界において、ヤマトの強力な霊術を操る最高位の巫女でありながら、ホロライブの人気配信者・冒険者でもあった。
そしてその隣で、クールな笑みを浮かべながら驚異的な指捌きでコントローラーを操作しているのは、彼女の親友であり戦友――星街すいせいだった。
青い星の光を宿した美しい髪をサイドテールにし、洗練された衣服に身を包んだ彼女は、この世界の誰もが憧れる圧倒的な歌姫であり、同時に金色の斧を振るって魔獣を屠るトップ冒険者だった。
「はい、クエストクリア。みこちのデス数が二桁いかなかったから、今回は合格点かな」
モニターに『QUEST CLEAR』の金文字が躍ると同時に、すいせいはふぅと小さく息を吐き、コントローラーを畳の上に置いた。
「うぅ……すいちゃん、容赦なさすぎるにぇ……。もっとみこのことを労わる心を持つべきだと思うんだ、みこは」
みこはコントローラーを放り出すと、そのまま畳の上に大の字になって寝転がった。いつもの、配信やステージで見せる完璧なアイドルの姿とは違う、すいせいの前だからこそ見せる、無防備で少し抜けた『エリート巫女』の日常の姿。
ゲームの音が消え、和室の中に、ふっと静かな時間が訪れる。
障子の隙間から、外の満開の桜の花びらが風に乗って一枚、ひらひらと畳の上へと落ちてきた。
みこはその薄紅色の花びらを、寝転がったまま、じっと見つめた。
さっきまでの賑やかな笑顔が、その花びらを見た瞬間、まるで魔法が解けたかのように、どこか寂しげで、憂いを帯びたものへと変わっていく。
「……すいちゃん」
「ん? 何、みこち。お腹空いたの?」
すいせいは、お茶の入った湯呑みを手に取りながら尋ねた。けれど、みこは首を横に振り、天井を見上げたまま、ぽつりと言葉を漏らした。
「……あの動画、見たよね。ノエルちゃんが送ってきた、やつ」
その言葉が出た瞬間、すいせいが湯呑みを口元に運ぶ手が、ピタリと止まった。
彼女の青い瞳の奥に、一瞬だけ、激しい動揺の光が走る。
「……うん。見たよ」
すいせいは、静かに湯呑みを置いた。
二人の間に、それまでのゲームの熱気をすべて凍りつかせるような、重く、切ない沈黙が流れた。
ノエルからホロライブ全体に共有された、あのダンジョン訓練のショート動画。
そこに映っていたのは、一切の装飾のない大剣を右手一本で振り抜き、ぶっきらぼうに前髪を払う、あの懐かしい少年の姿だった。
この世界に転生し、目覚めたあの瞬間から。
ホロライブの全員が、魂を焦がすような想いで探し続けていた、自分たちの命の恩人。自分たちのために存在を消し去ってしまった、あの最愛のマネージャー——桜井ユウトの姿が、そこにはあったのだ。
「……ユウトさん、本当に、生きてたんだにぇ」
みこは畳の上に寝転がったまま、そっと自分の胸元を押さえた。彼女の瞳から大粒の涙が堰を切ったように溢れ出し、頬を伝って畳へと吸い込まれていく。
「みこさ、ずっと、ずっと苦しかったんだよ……。この世界で目覚めて、全部思い出したとき、自分がどれだけひどいことをしてたか分かってさ……。ユウトさんが変身するたびに、『新しいマネージャーさんですか?』なんて……。何回も、何回も、あの人を独りぼっちにしてさ……」
みこの声が、激しい嗚咽に変わっていく。
前世の記憶。ユウトが自分の日常を守るために、自分の名前を代償にして消えていった、あの忘却の地獄。みこはそのすべてを、この世界で目覚めた時に完璧に思い出していた。
「あの大晦日の日もさ、ユウトさん、最後にみこの名前を呼んで、『お前はもうエリートだ、胸を張れ』って……泣きながら笑って、消えちゃったんだよ……? なのにみこ、お礼も言えなくて……。ありがとうって、一度も言えないまま、あの人を消しちゃったんだにぇ……っ!」
みこは両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
その隣で、すいせいは、自分の膝の上で拳を白くなるほど強く握りしめていた。彼女の美しい横顔からも、静かに、一筋の涙が零れ落ちていく。
「……私だって、同じだよ、みこち」
すいせいの声は、いつもの凛とした歌声とは違い、今にも壊れてしまいそうなほどに震えていた。
「私が個人勢で、どこにも行き場がなくて、それでも歌いたくて足掻いてたあの夜。……谷郷さんを説得して、私をホロライブに導いてくれたのは、あの人だった。……なのに、ホロライブに入った最初の日に、私、あの人に言ったんだ。『初めまして! よろしくお願いします!』って……」
すいせいは、きつく唇を噛み切った。かすかに鉄の味が口の中に広がる。
「あの時の、ユウトさんの……寂しそうな、でも『よかった』って言いたげな、あの顔……。思い出すたびに、自分の心を斧で叩き割りたくなる。……私たちは、あの人に守られて、あの人を犠牲にして、今ここにいるんだよ」
すいせいは立ち上がり、和室の大きな窓辺へと歩み寄った。
窓の外には、一年中枯れることのない、さくら神社の薄紅色の桜が美しく咲き誇っている。
「だから……ノエルちゃんから動画が届いたとき、本当に、魂が救われたような気がした。……生きていてくれた。まだ私たちには、あの人に償うチャンスを残されてるんだって」
「うん……っ。みこも、すぐにでもユウトさんのところに飛んでいきたいにぇ……。抱きしめて、ごめんなさいって、大好きですって、いっぱい、いっぱい言いたいんだにぇ……っ」
みこは涙を拭いながら、身体を起こした。
タレント全員が、今すぐにでも彼を迎えに行きたがっている。けれど、代表である谷郷から下された命令は『私が動くまで、絶対に本人に接触してはならない』という、極めて異例の厳命だった。
「谷郷さん、なんで接触しちゃダメって言うのかな……。ユウトさんが見つかったんだよ? 一刻も早く、ホロライブに帰ってきてもらうべきなのに……」
みこの不満げな言葉に、すいせいは窓の外の桜を見つめたまま、静かに首を振った。
「……きっと、谷郷さんは、私たちのエゴでユウトさんの『平穏』を奪うのを恐れてるんだよ。……あの人は前世で、私たちのために自分の人生のすべてを砂にして消えた。……そんな彼が、今、普通の高校生として平和に暮らしてる。それをまた、冒険者としての危険な戦いに巻き込むのが、本当に正しいことなのか……谷郷さんは、それを一人で天秤にかけてるんだと思う」
「そんなの……そんなの、冷たいにぇ……。ユウトさんだって、きっと、みんなに会いたがってるはずなのに……」
みこが、縋るようにそう呟いた、その瞬間だった。
チ、チ、チ、チ、チ、チ……。
「……え?」
不意にどこかから極めて異質な、けれど悍ましいほどに耳覚えのある音が、静かな室内に紛れ込んできた。
みこがピタリと動きを止め、驚愕のあまり目を見開いた。すいせいもまた、湯呑みを握ったまま全身の肌が粟立つような強烈な衝撃に、その身体を硬直させた。
チ、チ、チ、チ、チ、チ……。
それは、社務所の壁にかかっている、ボーン、ボーンと重々しく鳴る和風の古い柱時計の音ではなかった。この世界で使われている、どの時計の電子音とも、根本から一線を画していた。
装飾の一切を削ぎ落とした、分厚い鋼と銀の歯車が噛み合い、狂おしいほどに情熱的に、そして確固たる意志を持って時間を刻む、あの硬質で、冷徹な駆動音。
「……嘘、でしょ」
すいせいの口から、掠れた、呼吸のような声が漏れた。
見間違うはずがなかった。聞き間違うはずがなかった。
あの地球世界での黎明期、自分たちのすぐ隣であの口の悪いマネージャーがいつも制服の胸ポケットに忍ばせていた、あの銀色の懐中時計の拍動そのものだった。
「すい、ちゃん……今の、音……これって……ユウトさんの……」
音は、社務所の内部から響いているのではない。
窓の外。春のような暖かい風に揺れる、あの敷地の最も奥にある一本桜の巨木のあたりから、風に乗ってかすかに、けれど確実に二人の魂へと届いていた。
チ、チ、チ、チ、チ、チ……!
それはまるで、世界から完全に消滅したはずの時の主が、再びこの場所に帰ってきたことを、世界に向けて雄弁に告げる、運命のファンファーレのようだった。
二人の脳裏に、あのノエルの泣き叫ぶ声が、そして谷郷の固い口調が、凄まじい説得力をもって蘇る。
――ユウトさんが、いた。
――彼が今、この世界のどこかで、生きている。
「みこち……行こう!」
「うん……っ、う、うん!!」
二人はコタツを蹴り飛ばすようにして立ち上がると、上着を羽織ることも忘れ、社務所の扉を激しく押し開けて、桜の花びらが吹き荒れる境内の奥へと、狂ったように走り出した。
神社の裏手、枯れない巨木の下で、何も思い出せないまま、空っぽの胸を抱えて深い微睡みに落ちていくユウト。
その胸ポケットの時計が奏でる残響に導かれ、かつて彼を「忘却」という刃で傷つけた二人の少女が、今、涙を流しながら激しく距離を縮めていく。