hololive Lost Story 作:ダニエルズプラン
チ、チ、チ、チ、チ、チ……。
静寂が支配する神社の最奥で、僕の胸ポケットにある銀色の懐中時計だけが、滑らかに、そしてどこか嬉しそうに時を刻み続けていた。
右肩に、星街すいせい。
左肩に、さくらみこ。
ホロアースの誰もが憧れ、世界最高峰の冒険者として最前線で戦い続ける【ホロライブ】のトップスター二人が、ただのしがない高校生に過ぎない僕の身体にぴったりと寄り添い、信じられないほど無防備に寝息を立てている。
「……いや、本当にさ。どうしたらいいんだよ、これ」
僕は、首を一ミクロンでも動かせば二人の眠りを妨げてしまうのではないかという恐怖から、全身の筋肉を限界まで硬直させたまま、心の中で頭を抱えていた。
声を大にして「起きてください!」と叫ぶべきだろう。それが一般人である僕が取るべき最も健全で、最も正しい選択のはずだ。彼女たちは雲の上の存在であり、僕のような記号化された人間に気安く触れていい相手ではない。もしこの光景を彼女たちの熱狂的なファンや、さっきまで一緒にいたクラスメイトの獣人の少年たちに見られでもしたら、僕は一秒で不敬罪か何かに問われて社会的に抹殺されるかもしれない。
けれど――
どうしても、その冷たい正論を以てして、彼女たちの細い肩を揺すり起こす気にはなれなかった。
おかしいのは、僕の魂の方だった。
右肩から伝わってくる、すいせいさんの少し冷え切った身体を包み込むような、じんわりとした確固たる体温。左肩から伝わってくる、みこさんのどこか桜の甘い香りをまとった、小さな命の重み。それらの感覚が僕の肉体に触れている間、あの日以来、僕の胸をじりじりと焼き続けていた「思い出すことのできない過去への焦燥感」が、まるで嘘のように消え去っていた。
底なしの暗闇だったはずの、僕の中の『空白』。それが、彼女たちの寝息を吸い込むたびに暖かな、ひどく懐かしい何かで満たされていくような感覚。
理屈じゃない。僕の記憶には彼女たちと過ごした日々のデータなんてひとかけらも残っていないのに、僕の魂はこの異常事態を「こうなるのが当たり前だ」とでも言いたげに、全面的に肯定してしまっていた。
「……はぁ。まぁ、仕方ないか」
僕は心の中で小さくため息をつき、二人が自発的に目を覚ますまでこのまま待つことに決めた。半分は諦め、そしてもう半分は――自分の肩に頭を預けて穏やかに眠る二人の顔を見て、何だか言いようのない、微笑ましいような愛おしさを覚えてしまったからだ。
緊張で強張っていた身体の力を少しだけ抜き、僕は左手だけでポケットからスマートフォンを取り出した。二人の眠りを邪魔しないよう、細心の注意を払いながら画面を起動する。
妙に落ち着いた心地よい静寂の中、僕は親指一本で画面をスクロールさせ、ネットサーフィンを始めた。
画面に映し出されるのは、いつもと変わらないニュースばかりだ。防衛結界の強化、浮遊大陸での新しい鉱石の発見、そして――やはり、どこをめくっても出てくる『ホロライブ』の文字。
端末の画面の明かりが、舞い散る薄紅色の花びらに反射して淡く揺れる。
友達の犬耳の少年から『ユウト、どこ行ったんだよ〜! サクラ団子のお店、めちゃくちゃ並んでるぞ!』というメッセージが届いているのを見て、僕は心の中で「悪い、今ちょっと世界を救うより大変な状況なんだ」と言い訳をしながら、そっと端末をポケットへと戻した。
チ、チ、チ、チ……。
時計の音が、僕たちの時間を優しく、静かに繋ぎ止めていた。
~~~~~~~~
「んむ……、にゃ……にゃんだにぇ……?」
不意に、僕の左肩がかすかに身動ぎし、どこか鼻にかかった、抜けた声が僕の鼓膜を間近で揺らした。
スマートフォンの画面から視線を外すと、左隣のさくらみこが、長い睫毛をかすかに震わせながら、ゆっくりと目蓋を持ち上げようとしていた。彼女の手は、未だに僕の制服の袖をぎゅっと握りしめたままだ。
「……ふわぁ。すいちゃん、もう夕方の神事の時間にゃの……? みこ、ちょっとゲームしすぎて眠いんだが……」
みこは、寝ぼけ眼のまま、僕の肩に頭を乗せた状態でむにゃむにゃと言葉を漏らしている。どうやら、まだ自分がどこにいて、誰の隣にいるのかが、完全に頭の中で結びついていないらしい。彼女は小さく欠伸を噛み殺すと、視線をゆっくりと上へと動かし——。
そして、僕の顔と、至近距離で正面から視線が真っ向から交錯した。
「……あ」
みこの動きが、ピタリと止まった。
彼女の美しい桜色の瞳が信じられないものを見るかのように徐々に、徐々に大きく見開かれていく。
彼女の視界に映っているのは自分のすぐ隣に座り、物静かな、けれどどこか呆れたような眼差しで自分を見つめている、人間の少年の姿。
「……え? ユ、ユユ、ユウトさん……? なんで、ここに……? っていうか、みこ、何に頭乗せて……あ、あれ?」
みこは、パチパチと何度も瞬きを繰り返した。それから、自分の頭が現在、ユウトの左肩に完璧に密着していること、そして自分の手が彼の衣服を掴んでいるという現在の「状況」を、脳細胞が一歩遅れて完全に認識した。
「にゃ、にゃあああああああああああああああああああッッ!!!???」
静かな境内に、鼓膜を破らんばかりの凄まじい絶叫が響き渡った。
みこは、まるでバネが弾けたかのように、僕の左肩から猛烈な勢いで飛び退いた。その拍子に石畳の上で思い切り尻もちをつき、「いたたたたっ!」と涙目になりながらも、狂ったように両手を振ってパニックを起こし始めた。
「な、なな、なにするにぇ放火魔!! 違う! みこはただ、すいちゃんがズルいから隣に座っただけで、決してユウトの肩を枕にしようなんて、そんな不純な動機じゃにゃいんだからにぇぇぇ!!」
「いや、僕は何もしてないし、そもそも放火魔って誰のことだ」
あまりの騒ぎっぷりに、僕は思わず夢の中の僕と同じような、ぶっきらぼうなツッコミを口にしていた。
名乗ってもいないのに彼女の口から当然のように『ユウト』という僕の名前が飛び出してきたことに、心臓の奥が小さく、けれど激しくドクンと音を立てたが、今の彼女のパニックを前にしては、それを追求する余裕もなかった。
「……んぅ。もう、うるさいよみこち……。朝から……じゃなくて、せっかく気持ちよく寝てたのに、大きな声出さないでよぉ……」
みこのけたたましい絶叫の暴風を至近距離で浴び、今度は僕の右肩が、不満そうに小さく揺れた。
星街すいせいが、僕の右腕を抱きしめていた力を少しだけ緩め、長い睫毛を開いた。彼女の青い瞳はまだ微かに微睡みの膜に覆われており、不機嫌そうに細められている。
「すいちゃんはねぇ、今、世界で一番幸せな夢を見てたんだよねー……。だから、邪魔するみこちは、あとでちょっと裏に呼び出そうかなって……」
「す、すいちゃん! 寝ぼけてる場合じゃないのら! 見るにぇ! 横を見るにぇ!!」
みこが床をバタバタと叩きながら、必死に僕のほうを指差す。
すいせいは、みこの狼狽ぶりに「何よ一体……」と呟きながら、億劫そうに首を巡らせ――
そして、僕の顔を間近でじっと見つめた。
「……あ」
すいせいの青い瞳の奥の微睡みが、一瞬にして完全に吹き飛んだ。
彼女は僕の右腕を掴んだまま、息をするのも忘れたかのように動けなくなった。彼女の瞳に、みるみるうちに大粒の涙が溜まり、その美しい顔立ちが過呼吸寸前の、狂おしいほどの歓喜と激動の表情へと塗り替えられていく。
「ユウ……ト、さん……?」
彼女の声は掠れ、震える祈りのようだった。
すいせいは、僕の右腕を掴んでいた両手に、今度は爪が食い込むほどの強烈な力を込めた。幻じゃない。今、自分のすぐ隣に、確かにあの人がいて、自分を見てくれている。その圧倒的な現実の体温を確かめるように。
「本当に……本当にユウトさんなんだよね……っ? 夢じゃ、ないんだよね……っ!」
「すいちゃんも、さっきユウトさんの肩に頭乗せてて、すっごい穏やかな顔で寝てたんだにぇ! みこ、それを見て、ちゃっかりしてるなーって……って、そうじゃない! ユウトさん! 生きてたんだにぇ……っ! 会いたかったぁ!!」
みこも、尻もちをついた状態から這い上がるようにして僕の元へと詰め寄り、僕の制服の裾を再び両手でぎゅっと握りしめた。二人の少女の瞳からは、大粒の涙がポロポロと溢れ出し、僕の制服の生地を濡らしていく。
「あんたが消えてから、すいちゃんたちが、どれだけあんたを探したか分かってる……っ? どこを探してもいなくて、写真も白紙になって……私、もう二度と、あんたに会えないんだって、毎日、毎日歌いながら……っ!」
「みこも、ユウトさんの口の悪いツッコミがまた聞きたくて、ずっと、ずっと待ってたんだにぇ……っ! おかえり……おかえりなさい、ユウトさん……っ!!」
二人の熱量が、僕を圧倒していた。
世界中の誰もが憧れる最高峰の英雄たちが、僕の目の前でボロボロと子供のように涙を流し、僕との再会を心から祝福している。その空間の異常さに、僕の理性は激しく悲鳴を上げていた。
けれど。やっぱり、僕の胸の奥の『空白』は、彼女たちの涙を見るたびに、痛いくらいに熱く、そして愛おしげに脈動していた。
この二人の涙を、今すぐその手で拭ってやりたい。不器用な言葉でもいいから「泣くなよ、僕はここにいるだろ」と、彼女たちの頭をポンと叩いて安心させてやりたい。そんな前世の僕の魂の癖が僕の腕を、激しく突き動かそうとする。
――けれど。
僕は、その魂の呼び声を、冷徹な理性の刃で強引に一刀両断した。
ダメだ。流されてはいけない。
僕は普通の高校生だ。過去のない、中身が空っぽの、ただの人間だ。
彼女たちがこれほどまでに想いを馳せ、涙を流して名前を呼んでいる『桜井ユウト』という男は、きっと、僕の容姿をした、けれど僕とは決定的に異なる「僕の知らない誰か」なのだから。
僕は、深く、深く息を吸い込み、胸のポケットの時計がチ、チ、チ、と静かに鳴り響くのを感じながら、彼女たちの熱狂的な歓喜に、冷たい氷水を浴びせるような、残酷な現実の一言を静かに突きつけた。
「……あの、失礼ですけど」
僕の声は、自分でも驚くほどに平坦で、冷え切っていた。
その声が境内の静寂に響いた瞬間、さくらみこと星街すいせいの動きが、ピタリと、凍りついたように止まった。二人の涙に濡れた顔が、弾かれたように僕の瞳を見つめる。
「……どうして、僕の名前を知っているんですか?」
「……え?」
みこの口から、間の抜けた小さな声が漏れた。
すいせいもまた、僕の右腕を掴んでいた両手の力を失い、その青い瞳を驚愕のあまり細かく震わせた。
「どうして……って、何言ってるのユウトさん……。ユウトさんの名前に決まってるじゃん……。みこたちの、一番大切な、マネージャーの……」
「だから、それがおかしいんです」
僕はみこの言葉を遮り、彼女たちの手をそっと、けれど明確な拒絶の意志をもって自らの身体から引き離した。二人の手が、虚空で行き場を失ったように力なく彷徨う。
「僕は、あなたたちと会うのは、今日が初めてです。駅前の巨大なモニターや、ネットの配信で『ホロライブの0期生』としてあなたたちの姿を一方的に見かけたことはありますけど……直接話したことも、ましてや知り合いだったことなんて、あるはずがない」
僕は立ち上がり、背中のホルダーに固定された、あの無骨な大剣の柄にそっと手をかけた。鋼の冷たさが、僕の仮面をさらに強固なものにしてくれる。
「あなたたちは世界中の誰もが知るトップ冒険者で、僕は一般的な高校に通う、ただの学生です。それなのに……どうしてあなたたちは、僕の名前を当然のように呼び、僕が生きていることをそんなに喜んでいるんですか? ……教えてくださいさくらみこさん、星街すいせいさん。あなたたちは、僕の何を知っているんですか?」
「ユウ……ト、さん……?」
すいせいの声が、今度は恐怖に震えていた。彼女は、目の前に立つ少年の姿を、まるで未知の怪物を目撃したかのように、戦慄の眼差しで見つめていた。
容姿は、あの頃のままだった。少し憂いを帯びた、物静かな、細身で端正な桜井ユウトの顔。その佇まいも、前髪を払うあの癖も、すべてが自分たちの魂に刻まれた彼そのものだった。
けれど、その瞳の奥に宿っているのはかつて自分たちを誰よりも深い愛で守り、ぶっきらぼうながらも温かい光を放っていた、あのマネージャーの眼差しではなかった。
そこにあるのは、自分たちのことを『ただの有名な芸能人』として冷徹に見つめる、完全なる他人の、見知らぬ高校生の瞳だった。
「嘘……でしょ……? 冗談、だよね……? ユウトさん、すいちゃんをからかってるんだよね……? いつもみたいにさ、冷たい顔して『遊んでないで仕事しろ』って、言ってよ……ねぇ!」
すいせいは立ち上がり、僕の胸ぐらを掴まんと両手を伸ばした。けれど僕は一歩、静かに後ろへと下がってその手をかわした。
「冗談なんかじゃありません。僕は、本当にあなたたちのことを何も知らないし……僕自身の過去の記憶も、なぜだかピンボケした写真みたいに、何一つ思い出せないんです」
僕は、胸ポケットの懐中時計を上から押さえた。
「この時計の動かし方も、大剣の振り方も身体は勝手に覚えているのに、頭の中には何も残っていない。……あなたたちが、僕の失われた過去に関係しているのだろうという予感だけはあります。でも……今の僕は、あなたたちが涙を流して喜ぶような、そんな人間じゃない」
その言葉を最後に、巨木の下には耐え難いほどの冷酷な沈黙が降り積もっていった。
世界が反転したかのような、圧倒的な絶望。
二人の少女は、目の前で静かに佇む少年の姿を見つめながらその思考のすべてを、完全に停止させていた。
~~~~~~~~
わからなかった。
理屈が……世界のシステムが、完全に崩壊していた。
彼女たちは、仮面ライダーゼロノスという呪われた存在の対価を、誰よりも熟知していたはずだった。
変身するたびに、人々の記憶から消える。カードを使い果たせば世界中のすべての人間から忘れ去られ、その因果ごと歴史から抹消される。
前世の2022年の大晦日。ユウトは最後の赤いカード――谷郷元昭の中に残された彼の記憶さえも代償として燃やし尽くし、完璧なゼロとなって消滅した。
だからこそ、あの世界の誰もが彼のことを忘れ去り、彼は「最初からいなかったこと」になった。
それなのに、このホロアースの世界に転生した瞬間、世界のバグによって、忘れるはずだったタレントたち全員が、桜井ユウトに関するすべての記憶を完全に保持したままで覚醒したのだ。
今度こそ、自分たちが彼を覚えている。今度こそ、彼を独りぼっちにはさせない。その確固たる記憶の鎖があるからこそ、彼女たちは彼を探し続けていた。
——なのに。
どうして、記憶を忘れているはずの自分たちが、ユウトのことを完璧に覚えていて。
すべてを覚えているはずの、当の本人である桜井ユウトが、自分たちのことを完全に忘れてしまっているのか。
因果が、完全に『反転』していた。
他者から忘れ去られる孤独の地獄を生き抜いた男が、今度は自らがすべてを忘れ去り、他者からの向けられる狂おしいほどの愛と記憶の重さに困惑する、もう一つの地獄へと叩き落とされている。
「なんで……なんでそんなことになるの……っ!」
みこが、床を叩いて泣き叫んだ。その声は、ヤマトの春の空へと虚しく響く。
「みこたちが、ユウトさんを忘れて傷つけたから……? だから、その罰として今度はユウトがみこたちを忘れたっていうのかにぇ……っ!? そんなの、そんなのあんまりだにぇ……っ!」
「ユウト……。私の歌も……私の名前も、何も……届かないの……?」
すいせいは、僕の制服の裾を、今にも引きちぎらんばかりの強さで握りしめ、縋るように僕の瞳を見つめ続けた。
けれど、失われた記憶が戻ることはなかった。
チ、チ、チ、チ、チ、チ……。
胸ポケットの時計だけが、反転してしまった世界の矛盾を、ただ静かに、残酷なほど正確な拍動で刻み続けている。
何も思い出せない僕と、すべてを覚えているからこそ、目の前の現実に打ちひしがれる二人の少女。
枯れない一本桜の巨木から吹き抜けた強い風が、三人の境界線を薄紅色の花びらで覆い尽くしていく。
~~~~~~~~
視界を真っ白に染め上げるほどの薄紅色の吹雪。その中心で、二人の少女は己の魂の拠り所を完全にへし折られたように、ただ呆然と石畳の上にへたり込んでいた。
どれほどの時間が流れただろうか。
僕の冷徹な、そして一ミクロンの嘘もない拒絶の言葉を浴びせられた彼女たちは、声をもらして泣くことすら忘れ、ただポロポロと目から大粒の涙を零し続けていた。胸ポケットの懐中時計が刻むチ、チ、チ、チという冷徹な秒針の音だけが、この場に横たわる圧倒的な絶望の質量を、一秒ごとに重く、重く積み上げていく。
胸の奥の空白が、悲鳴のような痛みを上げて脈動している。今すぐにでもしゃがみ込み、この二人の肩を抱いて「すまない」と謝ってやりたい。そんな、自分のものではないはずの、けれどあまりにも生々しい感情が僕の理性を激しく揺さぶる。
けれど、僕は動かなかった。動いてはならなかった。僕には、彼女たちがこれほどまでに涙を流して求める「過去」がないのだから。
静寂が、三人の間を冷たく支配し、散り続ける桜の花びらだけが、取り返しのつかない現実のように床へ降り積もっていく。
――しかし。
絶望の底に沈み、ただ悲しみだけが渦巻いていると思われたその空間の空気が、わずかに、けれど決定的に変質し始めたのは、それから数十秒が経過した頃だった。
ピクリ、と。
床に両手をついていたさくらみこの指先が、微かに動いた。
虚脱したようにへたり込んでいた星街すいせいの青い瞳の奥に、涙の膜を透過して今までとは全く異なる、どろりとした歪な光が灯る。
二人の少女の胸の内側から、それまでの悲しみを強引に押し流すようにして、全く異なる三つの感情が、まるで火山の噴火のように激しく激しく溢れ出し始めていたのだ。
まず一つ目は、言わずもがな、いま直面している底なしの『悲しみ』。自分たちの大切な思い出を、命を賭けた絆を当の本人に「初めて会いました」と一刀両断されたことへの、魂の引き裂かれるような悲哀。
そして二つ目は自分たちのことを完全に忘れてしまったユウトに対する、あまりにも身勝手で、あまりにも醜い理不尽な怒り。
(……なんで、忘れてるにぇ)
みこは、歯をガチガチと震わせながら、床の石畳を爪が割れるほどの力で強く掻きむしった。
わけがわからない。みこたちは、あなたに何度も「初めまして」って言って、あなたのことを地獄のような孤独の中に置き去りにして忘れてきた。そのことに対して、みこたちは死ぬほど後悔して、血を吐くような思いでこの世界で泣き続けてきたのに。
(なんで……ユウトさんが、みこたちのことを全部忘れて、そんな冷たい目でみこのことを見てるのにぇ……っ!?)
遊んでないで仕事しろって、怒ってよ。文句を言ってよ。みこちって、あのぶっきらぼうな声で呼んでよ。
自分たちだけが重い罪悪感を背負わされ、ユウト本人はすべてから解放されたような顔をして、ただの初対面の高校生としてそこに立っている。そのあまりにも不条理な現実に、悲しみを超えた猛烈な憤怒が、みこの胸の奥を激しく焦がしていた。
すいせいもまた、同じだった。彼女は自分の胸元の衣服を強く握りしめ、歪んだ笑みをその美しい唇の端に浮かべていた。
星街すいせいをホロライブへと導き、その輝くステージへの階段を一緒に作ってくれた男。その男の瞳の中に、今の自分はただの有名な歌姫としてしか映っていない。私があんたの人生に刻んだはずの、あの泥臭くも愛おしい軌跡を、あんたは綺麗さっぱり脳の底から消去してしまった。
(ふざけないでよ、ユウトさん……。すいちゃんを置いていくなんて、そんなの、絶対に許さないんだから……)
世界を救った英雄に対する、狂おしいほどの逆恨み。忘却という名の、最大の裏切りに対する、果てしない怒り。
けれど。
それらの激しい悲しみと怒りをすべて包み込み、最終的に二人の魂を最も激しく、そして悍ましいほどに支配したのは三つ目の感情――歓喜だった。
それは、ゾッとするほど純粋で、狂気に満ちた歓喜。
二人の脳裏に、前世界におけるホロライブプロダクションの、あの黎明期の力関係が、冷徹なまでの事実として一瞬で蘇っていた。
前世界において、桜井ユウトというマネージャーが、最初にその背中を押したのは誰だったか。
誰の機材を運び、誰の最初の視聴者となり、誰のために最も多くのカードを燃やして時間を守り続けてきたか。
――それは、ときのそら、だった。
ホロライブの象徴であり、黎明期のたった一人の光。ユウトが一緒にいた期間も、交わした言葉の数も、その魂に刻まれていた絆の深さも、あらゆる要素を含めて、彼の『一番』は、不動の絶対王座として、ときのそらのものだった。
みこがどれだけ甘えようとも、すいせいがどれだけ彼を信頼しようとも、桜井ユウトという男の心の最も深い聖域に座っていたのは、いつだって、あの茶髪のロングヘアの少女だったのだ。それは、後から加入した彼女たちには、逆立ちしても、どんなに世界を救う冒険者になろうとも、絶対に越えられない最古参の壁だった。
けれど。
今、目の前にいるユウトは、どうだ。
「……あ」
すいせいは、涙を流したまま、ふっと奇妙な、狂気を孕んだ笑みを漏らした。
ユウトは、記憶を失ってしまった。
ときのそらのことも、彼女と過ごしたあの輝かしい始まりの日々のことも、何もかもを完璧に、脳細胞の根源から忘却してしまった。
つまり。
あの圧倒的で、絶対に崩れなかったときのそらの一番の椅子は、今この瞬間完全に破壊され、誰も座っていない空席の玉座へと戻ったのだ。
(……あはは、そうじゃん。そうじゃんにぇ)
みこは床に頭を伏せたまま、ゾクゾクとするような快感が背骨を駆け上がるのを全身で感じていた。
ユウトの記憶が完全に消去されて、リセットされたというのなら。
これから、この新しい世界で、彼に自分たちの存在をもう一度刻み込み、彼を自分たちの色で染め上げていけば。
今度こそ。そらちゃんを差し置いて、自分が、桜井ユウトの一番になることができるんじゃないか?
その厳然たる事実に、その悍ましくも魅力的な可能性に気がついた瞬間。
さくらみこと星街すいせいは、胸を締め付ける悲しみと怒りの嵐のただ中で、どうしようもなく、震えるほどに嬉しかったのだ。
「……ふふ、ふふふっ……」
すいせいは、ゆっくりと立ち上がった。彼女の青い瞳からは未だに涙が零れ落ちていたが、その瞳の奥に宿る光は、先ほどまでの絶望のそれとは完全に一線を画していた。
彼女は、乱れた衣服を優雅に整え、まるでこれから自分だけの特別なステージに上がるかのような、艶やかで、底知れない歌姫の笑みを僕へと向けた。
「すいちゃんはね……諦めが悪いって、昔からよく言われるんだよねー」
彼女は一歩、僕へと近づいてきた。
「ユウトさんが私のことを忘れてるなら……また、最初から教え込んであげればいいだけだよね。……あんたのその空っぽの身体に、星街すいせいっていう名前を、前よりもずっと、深く、深く焼き付けてあげる」
「み、みこも負けないのにぇ……っ!」
みこもまた、床から立ち上がり、朱色の袴をバタバタとはためかせながら僕を睨み据えた。その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったけれど、その瞳に宿る執念は、世界を滅ぼす魔王をも恐怖させるほどの熱量を帯びていた。
「
「……は?」
僕はあまりの彼女たちの急激な変貌ぶりに、本日何度目かも分からない猛烈な困惑に襲われていた。
一瞬前まで、世界が終わったかのように大泣きしていたはずの少女たちが、どうして今、僕を獲物を見るような、おぞましくも狂おしい愛を孕んだ瞳で見つめているのだろう。
チ、チ、チ、チ、チ、チ……!
胸ポケットの懐中時計が、激しく、激しく駆動音を立てて鳴り響く。
記憶を失った少年を巡る、ホロライブ0期生たちの、優しくも狂気に満ちた争奪戦の幕が、今、ヤマトの散らぬ桜の下で、静かに、けれど決定的に上がろうとしていた。