聖剣使いを拾いましたけど、蛮族な狂犬でしたが私は元気です 作:プーリとベルト
砂漠の果てを抜け、道なき道を駆け続けていたセグナの視界に、やがて黒々とした岩山が連なる地帯が見えてきた。
陽炎に歪んでいた景色の向こうから、地面を覆う砂の色が少しずつ変わっていく。乾ききった熱砂は次第に姿を消し、代わりに黒い岩盤が大地から突き出す荒涼とした土地が広がっていた。長い時間走り続けていた彼女は、ようやく危機を脱したのだと理解し、砂漠に背を向けてから初めて足を緩めた。
「……ようやく、辿り着いた。魔王軍領の、端に……」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、セグナは肩で息をする。
ガルサ・ワシュの追撃を振り切ってから、どれほど走ったことか。転移魔術によって想定とは大きく外れた地点へ飛ばされたうえ、バルダンスプを置いて単独で逃走したため、彼女の身体には深い疲労が刻まれていた。それでも止まることはできなかった。己の頭脳に刻まれた古代の転移魔術の情報を、何としてでも魔王軍領まで持ち帰らなければならなかったからだ。
黒い岩山の間へ入ると、周囲の景色はさらに険しさを増す。だが、セグナは迷うことなく進み、岩壁の一部に刻まれた小さな魔法陣へ指先で軽く触れた。術式が淡く輝き、遠く離れた拠点へと帰還の信号が送られていく。
「認証、確認。ここまで来れば、追手もそう簡単には侵入できないでしょう。それに、一刻も早くガンヴァデイン様の元へ……」
そう呟いて再び歩き出そうとしたとき、岩山の陰から一人の男が静かに姿を現した。
黒い外套を纏い、長い年月を生きてきた者だけが持つ静かな威圧感を漂わせている。その鋭い眼差しは、疲弊したセグナの姿を一目見ただけで、その身に起きた異変のすべてを推し量っていた。
「随分と遅かったな、セグナ。纏う魔力が萎えているわりに、妙に大きな者の気配を感じて確認しに来たが……」
「……アス、ラ様」
現れた男の名を呼び、セグナは足を止める。
四天王として魔王軍の幹部たちを束ねる立場の一人にあるアスラは、彼女の姿をしばらく見つめた。衣服には砂が付着し、全身には激しい戦闘の痕跡が残っている。何より、彼女が単独で戻ってきたこと自体が、最大の異常事態を示していた。
「バルダンスプはどうした?」
問いかけに、セグナは一瞬だけ視線を伏せる。
「……ワシュ領分に置いてきました」
「そうか」
アスラはそれ以上、すぐには問い詰めなかった。彼女もまた、無駄な言い訳をするつもりはない。バルダンスプが残る選定をした理由も、自分がその場から逃げることを選んだ理由も、お互いに理解し合っている。彼が命がけで繋いだ時間を無駄にしないためにも、持ち帰ったものを失うわけにはいかなかったのだ。
「彼は、私を逃がすために残りました。ワシュ領分の神器の担い手ガルサ・ワシュと、その配下の騎兵たちを引き受けています」
「……生きている可能性は?」
「ほとんど無いかと」
短い言葉だったが、そこには僅かな震えが混じる。アスラは目を細めたものの、セグナを責める気配はなく、淡々と次の問いを投げた。
「それで、お前は何を持ち帰った?」
その問いに、セグナの疲れた瞳の奥から、強い執念に満ちた光が鋭く蘇る。
「塵智王アテル・メネスが残した転移魔術や今は失伝している幾つかの術式です。また、その術式を再構築するために必要な理論と、王墓に残されていた魔力経路の構造……完全なものではありませんが、現代の魔術体系で失われた部分を補うには十分すぎる情報があります。これらの知識があれば、あの術式を再現できるはずです。少なくとも、古代人がどのように転移先を固定し、魔力の暴走を抑えていたのか、その仕組みの解析を行いました」
「なるほど。ならば、お前が生きて戻った意味は十分にある」
その言葉を聞いて、セグナは僅かに目を見開いた。
「……バルダンスプを失っても、ですか?」
「仮に一つの大きな損失を被ったとしても、それを遥かに上回る価値のある功績を持ち帰ったのならば、魔王軍としての損益はプラスだ。私はそう判断する」
アスラの声には一切の迷いがなかった。
「だが、これで終わりではない。お前が持ち帰った知識が、どれほどの戦術的価値を持つのか。それを実際に確かめる必要がある」
「……分かりました。では、すぐに解析の準備を──」
「その前に休め」
「しかし」
「セグナ」
静かな、だが一切の反論を許さない響きを持つ声に、セグナは言葉を呑み込んだ。
「お前は限界まで走り続けた。身体も魔力も底をついている。その状態で解析を始めても、判断を誤るだけだ」
「……」
「知識を持ち帰った者が、それを活かす前に倒れては意味がない、それに夜穹のが面倒だ」
セグナは少しだけ不満そうに眉を寄せたが、最終的に小さく息を吐いて頷いた。
「……分かりました」
彼女の背後で、遥か彼方の砂漠から吹き抜けてきた熱風が、黒い岩山の間を唸りを上げて通り抜けていく。その風に煽られながら、セグナは一度だけ背後を振り返った。
もうそこには何も見えない。バルダンスプの姿も、猛威を振るったガルサたちの姿も、すべては遥かな砂の彼方へと消えていた。
そのままアスラと合流したセグナは、彼と並んで黒い岩山の間に続く険しい道を進んでいく。魔王軍領の一つであるこの地域は、周囲を険しい岩壁に囲まれ、外敵が容易に踏み込めない天然の要塞となっていた。
岩壁の所々には魔王軍が築いた監視所や魔力灯が点在し、過酷な砂漠を越えてきた者にとっては、ようやく帰還したという実感を抱かせる光景だった。セグナは歩みを進めながら、今までの情報を頭の中で静かに整理していく。
その隣を歩くアスラは、しばらく沈黙を保っていたが、やがて低い声で問いかけた。
「しかし、魔王軍幹部が二人掛かりで、たとえ神器の使い手とはいえ、一人の戦士にここまで追い詰められるとはな」
「それは違います。王墓へ侵入し、そこから抜け出す際に、極めて厄介な者たちと遭遇したのです。ガルサ・ワシュとの交戦は、その後のことでした」
セグナが淡々と事実を告げると、アスラは僅かに眉を動かす。
「誰だ?」
「元カタルシオン帝国兵教官、メリアンダ・レッドフィールドです」
「ほう。前線を退いたと聞いていたが……その腕はまだ健在だったか」
「いえ。全盛期の記録にあるような、大軍を率いて龍種を撃退したほどの猛威ではありませんでした。しかし、並の魔王軍幹部と比較しても、同等以上の実力は間違いなくありました」
セグナはそこで一度言葉を切り、さらに言葉を重ねる。
「そして、私とバルダンスプが遭遇した一行の中には、もう一人……それ以上に危険な、幹部を凌駕する実力を持つ者がいました」
「……誰だ」
「模造神剣カルフォースの担い手、カーリー・ブラッドソードです」
その名が告げられた瞬間、アスラの歩みがほんの僅かに、だが明確に淀んだ。
だが、それは一瞬のことであり、セグナが横を向く頃には、彼の顔はいつもの冷徹な無表情へと戻っていた。
「……以前より強くなっていたか?」
「はい。以前に入手した情報や記録の戦闘力とは比較になりません。バルダンスプの冷気と合成魔獣を、正面から力尽くでねじ伏せるほどに」
セグナの報告を聞きながら、アスラは前方の暗がりへと視線を向ける。
「そうか……」
低く呟いたその脳裏に、一人の少女の姿が浮かび上がる。聖剣を携え、己の信じるもののために迷わず前へ進み、周囲に次々と協力者を惹きつけていく者、その存在を思い描くとき、アスラは自分でも説明のつかない奇妙なざらつきを胸の内に覚えていた。
「メリアンダについては、こちらからアンドルネストに手を出さなければ本格的な敵対には至るまい。だが、カーリー・ブラッドソード……あの少女の異常なまでの成長性と、予測不能な行動力、そして──」
アスラの言葉が、途中で微かに途切れた。
セグナは不審に思い、横目で上司の横顔を見る。
「失礼ながら、それは何でしょうか??」
「……いや、何でもない」
返ってきた声は、先ほどよりも一段と低く沈んでいた。アスラはしばらく押し黙ったまま歩き続けたが、やがて冷ややかな瞳を細める。
「いずれにせよ、魔王軍にとって重大な脅威となるのは間違いない。だが、奴に関してはそれだけではない。もし聖剣の力を完全に引き出し、あのまま成長し続けたならば……いずれ俺すら上回る可能性を秘めている」
セグナは何も言わず、ただ静かに聞き従う。アスラが自分より格下の相手に対してここまで強い警戒心を抱くことは稀だった。しかし、カーリーという名を口にしたときだけ、彼の声の底には警戒心と、それ以外の複雑な感情が入り交じっていた様に思えた。
「以前も言ったが、奴はいずれ私が討つ」
「……アスラ様自らが、ですか」
「ああ」
アスラは迷うことなく断言した。
「奴がどこまで化けるのか、今の俺には測りきれん。だが、これ以上時間を与えれば与えるほど、取り返しのつかない厄介な存在になる。ならば、まだ我々の手が届くうちに、俺が直接葬る」
「カーリー・ブラッドソードが、そこまでの脅威と?」
「そうだ」
短い断定。アスラはそれ以上の説明をすぐに続けようとはしなかった。目の前には、黒い岩山の隙間に築かれた魔王軍拠点の厳重な門と、不気味に揺らめく魔力灯の光が姿を現し始めていた。
セグナは前を向いたまま、心の中でかすかな疑問を転がす。
なぜ、アスラはあそこまであの少女の存在を恐れ、執着するのか。聖剣の脅威だけが理由なのだとしたら、彼の反応はどこか個人的な感情が混ざっているように見えた。まるで彼しか知り得ない様な、いや持ち得ないようなカーリーの存在価値を量っているようだった。
そして、アスラ自身もまた、胸の奥底で渦巻く感情の正体をあえて言葉にしようとはしなかった。聖剣に選ばれ、泥臭くも仲間と共に前を向く少女の生き様。その眩しさが、冷徹な魔王軍となり修羅と呼べれるまでになった魔族の心の奥に眠る古傷に響くことなどを認めたく無かったのだ。
認めてしまえば、これまで自分が積み上げてきたものの、その根底に眠っていたものまで掘り起こされてしまうような気がした。
「……くだらん」
低く吐き捨てた声に、セグナが僅かに振り返る。
「……何か?」
「ん、いや問題無い」
それだけを告げ、アスラは再び前へ向き直った、黒い岩山の間を進む二人の足音だけが、乾いた大地に響いている。やがて二人が魔王軍拠点の門前へ差しかかると、アスラは歩みを止めることなく、前方を見据えたまま口を開いた。
「お前は持ち帰った知識の解析を進めろ。転移魔術を再現できる可能性があるのなら、何としてでも形にしろ」
「承知しました」
「そして、王墓で何が起きたのかも全て報告しろ。カーリー・ブラッドソードについてもだ」
「……了解しました」
「では、セグナ。俺は帝国との戦に向かう。その後に、カーリー・ブラッドソードを仕留めるとしよう」
「はい。いずれにしろ、ご武運を」
「お前もな。持ち帰ったものを無駄にするな」
それだけを告げると、アスラは砦へ続く道から外れ、別の進路へと歩き始めたのだった。魔王軍領へ帰還したことで、セグナにとって王墓での戦いは終わった。しかしアスラにとっては、むしろここからが始まりだった。