『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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アカデミー編
第1話


第一話 浅打(あさうち)(とも)

 

 

———できるだけ自然に。できるだけ目立たないように。

 

僕は深く息を吐いて、強張った肩を意識して下ろした。

 

真央霊術院(しんおうれいじゅついん)、入学式講堂。

 

高い天井から吊られた香炉が、白い煙を細く立ち上らせている。磨き上げられた板張りの床は冷たく、足袋越しにもその温度が伝わってくる。窓から差し込む朝の光だけは柔らかい。けれど講堂の空気はしんと張り詰めて、息を吸うたびに胸の奥まで冷えていく。

 

並んだ席に、新入生たちが整然と座っている。

緊張に固まる者、興奮に頬を上気させる者、何を考えているのか分からない者。皆、白地の練習着に身を包んで、一世一代の朝を迎えようとしている。

 

隣の席の同期生は、さっきから両手をぎゅっと握りしめて、何度も唾を飲み込んでいる。顔は青白く、唇にはほとんど色がない。流魂街(るこんがい)育ちなのか、貴族の家の子なのか、それも分からない。名前も、聞かない。

 

聞いてしまったら、覚えてしまう。

覚えてしまったら、いつか失うときが来る。

 

僕———遺玉院詩織(いぎょくいんしおり)にとっても、今日は人生の岐路だ。

 

ただ、皆とは少し違う意味で。

 

◆ ◆ ◆

 

僕が「目を覚ました」のは、五歳前後のことだった。

 

ある朝、藁布団の上で目を開けた瞬間、頭の中に知らない人生がまるごと流れ込んできた。机に向かって本の頁をめくっていた誰か。電車に揺られていた誰か。スマホとかいう光る板を指で撫でていた誰か。

最初の数日は、ただ混乱していた。目の前で(かゆ)を差し出してくれる女の人が誰なのかも、分からなかった。その人は気を悪くするでもなく、冷めた粥を何度でも温め直してくれた。そうするうちに、ようやく腑に落ちた。自分は前世の記憶を持ったまま、どこかへ転生したのだ。

 

木造の小屋。藁布団。水汲みの桶。それから、空気の中を流れる、霊圧(れいあつ)という何か。

夜中に耳を澄ますと、遠くから人間ではない何かの吠える声が聞こえた。僕は布団を頭までかぶって、声が遠ざかるまで数を数えた。親代わりの老人たちは慣れているのか、寝息ひとつ乱さなかった。

 

ここがどこなのか。確信まではあと一歩、届かないでいた。

 

届いたのは、ある夜だ。

 

長老の家に酒が入って、僕は徳利のお代わりを運ばされていた。囲炉裏の火に、赤らんだ顔がいくつも照らされている。土間に膝をついた僕の頭の上を、酔った声が行き交う。

 

「死神様がまた、隣の地区で(ホロウ)を斬ったそうだ」

「ありがたいことだなあ」

「迷っていた魂も、魂葬(こんそう)とかいう術で送ってもらえたらしい」

 

———魂葬。

 

徳利を置く手が、止まった。

 

その一語で、ばらばらだった断片が一本の線に繋がった。霊圧。死神。虚。ここは前世で読んでいた、あの物語の世界。尸魂界(ソウル・ソサエティ)の、流魂街だ。

 

「坊主、どうした。手が止まってるぞ」

「あ……はい」

 

声が出るまでに、一拍かかった。注ぐ手つきがいつも通りだったかどうか、自信はない。幸い、長老たちはすぐ笑い声へ戻って、誰も僕を見ていなかった。

 

その夜、僕は小屋の屋根に登って、星を見上げた。

前世の空より、ずっと数の多い星だった。きれいだと思う余裕は、なかった。この星の下で、僕が結末まで知っている物語が、もう始まっている。

屋根板を掴む指に、力がこもった。

見上げたまま、ひとつだけ自分に約束した。

 

死なないように、生きる。

それだけ。

何があっても、それだけ。

 

◆ ◆ ◆

 

「全員、礼ッ!」

 

教官の号令で、僕は反射的に頭を下げた。

 

入学式の前半は、形式どおりの訓示が続いた。護廷十三隊(ごていじゅうさんたい)への忠誠。死神としての使命。卒業までの六年間。立派な言葉が頭の上を流れていくあいだ、僕は何ひとつ表情に出さなかった。

 

そして、後半。

最大の儀式が始まる。

 

浅打授与だ。

 

壇上に、白木の盆が並んだ。盆の上には、白い柄に白い鞘の無銘の刀が一振りずつ横たわっている。

浅打。二枚屋王悦(にまいやおうえつ)の手になる、すべての斬魄刀(ざんぱくとう)の原器。霊圧を注げば、いずれその者だけの斬魄刀へ姿を変える。名を聞ける者だけが、その先へ進む。

 

といっても、それは六年かけての話だ。

入学初日の浅打は、誰にも応えない。受け取って、頭を下げて、終わり。皆そうなるし、僕もそうなる。

 

教官が帳面を開き、新入生を名簿の順に呼び上げ始めた。

 

青柳和久(あおやぎかずひさ)

 

呼ばれた少年が、足をもつれさせながら壇に上がっていく。教官が盆を差し出し、少年が両手で刀を受け取る。

何も、起きない。

少年が頭を下げて壇を下りる。

それで終わり。それが、普通だ。

 

自分の番を待つ間、僕は膝の上で手を重ねて、流魂街での日々を順に数え直していた。

 

僕が暮らしたのは、流魂街の三十三地区。表向きは何もしていない、ただの子供だった。水汲みと畑仕事と、老人たちの使い走り。それなりに食えて、それなりに眠れる。流魂街にしては、ましな暮らしだったと思う。

 

裏では、ふたつのことを続けていた。

 

ひとつは、霊圧の独習。

夜ごと井戸の縁に座って、体の中の霊圧の流れを、指の先から足の裏まで辿った。半年でようやく経絡(けいらく)の開け閉めの感覚を掴み、一年が経つ頃には、霊圧をほぼ完全に伏せられるようになっていた。長老が時々「お前さん、本当に霊圧があるのかね」と首を傾げるくらいには。

 

もうひとつは、村に流れてくる噂を拾い集めることだ。

 

「先月、瀞霊廷(せいれいてい)で隊長の入れ替えがあったらしい」

「十二番隊に『技術開発局』とかいう新しい部署ができたそうだ」

「新しい隊長は浦原喜助(うらはらきすけ)殿といって、ずいぶん若い男だと」

「二番隊の夜一様と幼馴染だそうだな」

 

断片を突き合わせると、答えはひとつしかなかった。いまは、前世の記憶でいう「約百十年前」。あの大きな事件の、少し前だ。

答えに行き着いた夜のことは、いまでも体が覚えている。

 

(あと九年で、虚化(ホロウか)実験事件が起きる)

 

布団の中で、二度ゆっくり呼吸した。

 

藍染惣右介(あいぜんそうすけ)が、崩玉(ほうぎょく)計画を、もうずっと前から進めている)

 

唇を噛んだ。

 

(浦原喜助が、追放される)

 

息を止めた。

 

(夜一様も、追放される)

 

何ひとつ、変えられない。僕程度が下手に動けば、藍染に見つかって終わるだけだ。

僕にできるのは、ひとつ。

死なないこと。

そのために、目立たないこと。

 

そう決めた数日後、村の門の前に死神が一人立っていた。瀞霊廷の死神装束に、腰の刀。霊圧を持つ子供を真央霊術院に推薦する役目だと、長老が上ずった声で告げた。幼い頃に一度だけ漏らした僕の霊圧を、老人たちは覚えていたらしい。

 

正直、断る言葉を探した。

死神の中枢は、藍染の庭だ。わざわざその真ん中へ入っていくなんて、正気じゃない。

けれど、考えれば考えるほど逆だった。霊圧があると知られた子供が推薦を断れば、それこそ「妙な子供がいる」と記憶に残る。流魂街に残ったところで、虚に喰われればそれまでだ。力の使い方も学べず、瀞霊廷の動きも見えない場所で、九年後の嵐をやり過ごせるとは思えない。

いちばん安全なのは、大勢の新入生に紛れて、誰の記憶にも残らない一人になることだった。

 

僕は、頷いた。

 

発つ朝、母と名乗ってくれた女の人が、僕の頭をひと撫でしてくれた。

僕は深く頭を下げて、ありがとうございます、とだけ言った。

それ以上は、言わなかった。

仲良くなった人を失うのが、いちばん怖いから。

 

だからこの先の六年も、やることはひとつ。

 

目立たない。

 

藍染惣右介に目を付けられない。浦原喜助の目に留まらない。卯ノ花(うのはな)隊長の前で霊圧を漏らさない。山本総隊長の前で礼を欠かさない。そして、誰とも仲良くなりすぎない。

 

赤池(あかいけ)……」

 

呼び出しの声で、僕は現在に引き戻された。淡々と待っているふうを装って、背筋だけは伸ばしておく。膝の上で重ねた手のひらは、汗で湿っていた。

「い」で始まる僕の姓は、早い。すぐに来る。

 

「次、遺玉院詩織」

 

呼ばれた。

 

(早い、もう、来た)

 

僕は短く息を吸い、ゆっくり立ち上がった。

 

(落ち着け。霊圧、抑えろ。普通の新入生だ。どこにでもいる、目立たない、目立たない、目立たない———)

 

頭の中で唱えながら、壇への階段を踏みしめる。

 

一段。

二段。

三段。

 

壇の上には、教官席が奥に向かって並んでいる。正面に、儀式を司る教官。その左右に補佐の教官が六人。さらに奥には、護廷十三隊から見届けに来たらしい高位の死神が数名座っている。

 

最も奥。最も静かな席に、一人。

深く俯いていて、顔は見えない。霊圧が、感じられない。人が座っていれば、息のぶんくらいは何かが滲むものだ。それが、ない。無いのではなく、消してある。僕が井戸の縁で一年かけて覚えたことを、その人は呼吸のようにやっている。

 

僕はその席を見ないことにして、正面の教官へ歩を進めた。

 

教官が、白木の盆を僕の前に差し出した。

盆の上に、僕の浅打が静かに横たわっていた。

 

(……綺麗だ)

 

前世の記憶にある、紙の上の絵とはまるで別物だった。静かで、ただ美しい。雪のように白い柄。冷たい光沢の鞘。模様も銘も何もないのに、鞘の奥で何かが眠っている気がした。

 

大丈夫だ。初日の浅打は、誰にも応えない。

僕は全身の経絡を閉じた。毛穴ひとつまで塞いだ。流魂街の夜に何百回と繰り返した動作だ。

 

両手で、受け取った。

 

冷たい。鞘越しにも刀身の冷たさが、指から手首へ這い上がってくる。

 

そして———

 

(あ)

 

魂のずっと奥で、何かがほどけた。

 

「彼女」が、目を覚ます。名前もまだ知らない。それなのに彼女と呼ぶしかない柔らかさで、閉じたはずの経絡をするりと辿って、僕の霊圧に身を寄せてくる。

 

僕は慌てて押し戻した。

押し戻すと、嬉しそうに力が増した。

毛穴ひとつまで塞ぎ直しても、どこを通ってくるのか分からない。抑えるほど、近くなる。閉じるほど、温かくなる。鞘の中の熱が、いつのまにか僕の脈と同じ拍を刻んでいる。

 

(だめだ。お願いだから、いまは、出ないで)

 

指先に力をこめて、柄ごと押さえつけた。

彼女はそれを、握り返されたとでも思ったらしい。

 

親しげに。

嬉しそうに。

 

鯉口(こいくち)の隙間から、琥珀色(こはくいろ)の光が息ひとつぶんだけ灯って、消えた。

 

本当に微かな光だった。普通なら、誰も気づかない。

けれどその一瞬、講堂の静けさの質が変わった。咳ひとつ、衣擦れひとつしない。さっきまでの「誰も見ていない」静けさが、どこかひとつの席の「見ている」静けさに、すり替わった気がした。

 

(———まずい)

 

冷や汗が背筋を伝った。

平静を装って頭を下げ、教官に礼を尽くして壇を下りる。自分の席に着くまで、足の感覚が遠かった。

 

座って、浅打を膝に置いて、僕は深く息を吐いた。

 

周りの同期生は、誰も僕を見ていない。皆、自分の番のことで精一杯だ。さっき隣で唾を飲み込んでいた青白い顔の少年も、今はうつろな目で前を見ている。

 

よかった。気づかれていない。誰も、見ていない。

 

そう安堵しかけた、そのときだった。

 

ぞくり、と(うなじ)の毛が逆立った。

 

霊圧では、なかった。気配ですらない。ただ「見られている」という感覚だけが、背中に貼りついていた。

あの最も奥の席からだ、と思った。確かめたい。確かめるのが、怖い。

息を三つ数えてから、僕は膝の浅打を直すふりをして、視界の端だけで壇の奥をうかがった。

 

俯いた頭の、角度が違う。

 

ほんのわずか、指の幅ひとつぶんだけ、さっきより上がっている。顔はやはり見えない。それなのに、見えないはずの目と合った気がして、僕は前へ向き直った。

 

(……気のせい、だ。気のせい、ということに、する)

 

膝の上の浅打を握り直す。鞘越しの刀身はもう何も応えず、ただひんやりと冷たいだけだった。

僕はその視線に気づかないふりをして、前を向き続けた。式は何事もなく進み、僕の名はもう呼ばれない。教官の声も同期生たちの返事も、どこか遠くで響いているように聞こえた。

 

最後の号令で、新入生は深々と頭を下げた。

僕も、深々と頭を下げた。

顔を上げたときにはもう、教官席のいちばん奥に人影はなかった。

 

霊圧の残り香も、ない。いつ立ったのか、足音を聞いた者すらいない。誰だったのかも、分からない。

ただ、見られたという事実だけが、確かに僕の背中に残っていた。

 

◆ ◆ ◆

 

入学式が終わって、新入生たちは寮舎へ向かう列を作った。僕は浅打を腰に差して、目立たないように列の真ん中へ滑り込んだ。

 

これから六年、霊圧を伏せて、誰よりも凡庸(ぼんよう)に振る舞う。卒業したら、戦闘の少ない四番隊に潜り込む。そして九年後に来る大きな悲劇を、虚化実験事件を、できる限り遠くでやり過ごす。

 

それが、僕の九年の計画。

それが、僕の、生き延び方。

 

腰の浅打は、もう何の光も漏らさない。

ただ、柄に触れていた手のひらの奥に、微かな熱が残っている。

その熱が、なんだか、嬉しそうに思えた。

 

(……考えすぎだ)

 

———あの、いちばん奥の席の人は、誰だったんだろう。

 

寮舎の門が、目の前に見えてきた。

振り返ろうとして、僕は、やめた。

振り返ったら、まだ見られている気がしたから。

 

平穏は、まだこれからずっと、遠い。

 

第一話 了

 

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