第1話
———できるだけ自然に。できるだけ目立たないように。
僕は深く息を吐いて、強張った肩を意識して下ろした。
高い天井から吊られた香炉が、白い煙を細く立ち上らせている。磨き上げられた板張りの床は冷たく、足袋越しにもその温度が伝わってくる。窓から差し込む朝の光だけは柔らかい。けれど講堂の空気はしんと張り詰めて、息を吸うたびに胸の奥まで冷えていく。
並んだ席に、新入生たちが整然と座っている。
緊張に固まる者、興奮に頬を上気させる者、何を考えているのか分からない者。皆、白地の練習着に身を包んで、一世一代の朝を迎えようとしている。
隣の席の同期生は、さっきから両手をぎゅっと握りしめて、何度も唾を飲み込んでいる。顔は青白く、唇にはほとんど色がない。
聞いてしまったら、覚えてしまう。
覚えてしまったら、いつか失うときが来る。
僕———
ただ、皆とは少し違う意味で。
僕が「目を覚ました」のは、五歳前後のことだった。
ある朝、藁布団の上で目を開けた瞬間、頭の中に知らない人生がまるごと流れ込んできた。机に向かって本の頁をめくっていた誰か。電車に揺られていた誰か。スマホとかいう光る板を指で撫でていた誰か。
最初の数日は、ただ混乱していた。目の前で
木造の小屋。藁布団。水汲みの桶。それから、空気の中を流れる、
夜中に耳を澄ますと、遠くから人間ではない何かの吠える声が聞こえた。僕は布団を頭までかぶって、声が遠ざかるまで数を数えた。親代わりの老人たちは慣れているのか、寝息ひとつ乱さなかった。
ここがどこなのか。確信まではあと一歩、届かないでいた。
届いたのは、ある夜だ。
長老の家に酒が入って、僕は徳利のお代わりを運ばされていた。囲炉裏の火に、赤らんだ顔がいくつも照らされている。土間に膝をついた僕の頭の上を、酔った声が行き交う。
「死神様がまた、隣の地区で
「ありがたいことだなあ」
「迷っていた魂も、
———魂葬。
徳利を置く手が、止まった。
その一語で、ばらばらだった断片が一本の線に繋がった。霊圧。死神。虚。ここは前世で読んでいた、あの物語の世界。
「坊主、どうした。手が止まってるぞ」
「あ……はい」
声が出るまでに、一拍かかった。注ぐ手つきがいつも通りだったかどうか、自信はない。幸い、長老たちはすぐ笑い声へ戻って、誰も僕を見ていなかった。
その夜、僕は小屋の屋根に登って、星を見上げた。
前世の空より、ずっと数の多い星だった。きれいだと思う余裕は、なかった。この星の下で、僕が結末まで知っている物語が、もう始まっている。
屋根板を掴む指に、力がこもった。
見上げたまま、ひとつだけ自分に約束した。
死なないように、生きる。
それだけ。
何があっても、それだけ。
「全員、礼ッ!」
教官の号令で、僕は反射的に頭を下げた。
入学式の前半は、形式どおりの訓示が続いた。
そして、後半。
最大の儀式が始まる。
浅打授与だ。
壇上に、白木の盆が並んだ。盆の上には、白い柄に白い鞘の無銘の刀が一振りずつ横たわっている。
浅打。
といっても、それは六年かけての話だ。
入学初日の浅打は、誰にも応えない。受け取って、頭を下げて、終わり。皆そうなるし、僕もそうなる。
教官が帳面を開き、新入生を名簿の順に呼び上げ始めた。
「
呼ばれた少年が、足をもつれさせながら壇に上がっていく。教官が盆を差し出し、少年が両手で刀を受け取る。
何も、起きない。
少年が頭を下げて壇を下りる。
それで終わり。それが、普通だ。
自分の番を待つ間、僕は膝の上で手を重ねて、流魂街での日々を順に数え直していた。
僕が暮らしたのは、流魂街の三十三地区。表向きは何もしていない、ただの子供だった。水汲みと畑仕事と、老人たちの使い走り。それなりに食えて、それなりに眠れる。流魂街にしては、ましな暮らしだったと思う。
裏では、ふたつのことを続けていた。
ひとつは、霊圧の独習。
夜ごと井戸の縁に座って、体の中の霊圧の流れを、指の先から足の裏まで辿った。半年でようやく
もうひとつは、村に流れてくる噂を拾い集めることだ。
「先月、
「十二番隊に『技術開発局』とかいう新しい部署ができたそうだ」
「新しい隊長は
「二番隊の夜一様と幼馴染だそうだな」
断片を突き合わせると、答えはひとつしかなかった。いまは、前世の記憶でいう「約百十年前」。あの大きな事件の、少し前だ。
答えに行き着いた夜のことは、いまでも体が覚えている。
(あと九年で、
布団の中で、二度ゆっくり呼吸した。
(
唇を噛んだ。
(浦原喜助が、追放される)
息を止めた。
(夜一様も、追放される)
何ひとつ、変えられない。僕程度が下手に動けば、藍染に見つかって終わるだけだ。
僕にできるのは、ひとつ。
死なないこと。
そのために、目立たないこと。
そう決めた数日後、村の門の前に死神が一人立っていた。瀞霊廷の死神装束に、腰の刀。霊圧を持つ子供を真央霊術院に推薦する役目だと、長老が上ずった声で告げた。幼い頃に一度だけ漏らした僕の霊圧を、老人たちは覚えていたらしい。
正直、断る言葉を探した。
死神の中枢は、藍染の庭だ。わざわざその真ん中へ入っていくなんて、正気じゃない。
けれど、考えれば考えるほど逆だった。霊圧があると知られた子供が推薦を断れば、それこそ「妙な子供がいる」と記憶に残る。流魂街に残ったところで、虚に喰われればそれまでだ。力の使い方も学べず、瀞霊廷の動きも見えない場所で、九年後の嵐をやり過ごせるとは思えない。
いちばん安全なのは、大勢の新入生に紛れて、誰の記憶にも残らない一人になることだった。
僕は、頷いた。
発つ朝、母と名乗ってくれた女の人が、僕の頭をひと撫でしてくれた。
僕は深く頭を下げて、ありがとうございます、とだけ言った。
それ以上は、言わなかった。
仲良くなった人を失うのが、いちばん怖いから。
だからこの先の六年も、やることはひとつ。
目立たない。
藍染惣右介に目を付けられない。浦原喜助の目に留まらない。
「
呼び出しの声で、僕は現在に引き戻された。淡々と待っているふうを装って、背筋だけは伸ばしておく。膝の上で重ねた手のひらは、汗で湿っていた。
「い」で始まる僕の姓は、早い。すぐに来る。
「次、遺玉院詩織」
呼ばれた。
(早い、もう、来た)
僕は短く息を吸い、ゆっくり立ち上がった。
(落ち着け。霊圧、抑えろ。普通の新入生だ。どこにでもいる、目立たない、目立たない、目立たない———)
頭の中で唱えながら、壇への階段を踏みしめる。
一段。
二段。
三段。
壇の上には、教官席が奥に向かって並んでいる。正面に、儀式を司る教官。その左右に補佐の教官が六人。さらに奥には、護廷十三隊から見届けに来たらしい高位の死神が数名座っている。
最も奥。最も静かな席に、一人。
深く俯いていて、顔は見えない。霊圧が、感じられない。人が座っていれば、息のぶんくらいは何かが滲むものだ。それが、ない。無いのではなく、消してある。僕が井戸の縁で一年かけて覚えたことを、その人は呼吸のようにやっている。
僕はその席を見ないことにして、正面の教官へ歩を進めた。
教官が、白木の盆を僕の前に差し出した。
盆の上に、僕の浅打が静かに横たわっていた。
(……綺麗だ)
前世の記憶にある、紙の上の絵とはまるで別物だった。静かで、ただ美しい。雪のように白い柄。冷たい光沢の鞘。模様も銘も何もないのに、鞘の奥で何かが眠っている気がした。
大丈夫だ。初日の浅打は、誰にも応えない。
僕は全身の経絡を閉じた。毛穴ひとつまで塞いだ。流魂街の夜に何百回と繰り返した動作だ。
両手で、受け取った。
冷たい。鞘越しにも刀身の冷たさが、指から手首へ這い上がってくる。
そして———
(あ)
魂のずっと奥で、何かがほどけた。
「彼女」が、目を覚ます。名前もまだ知らない。それなのに彼女と呼ぶしかない柔らかさで、閉じたはずの経絡をするりと辿って、僕の霊圧に身を寄せてくる。
僕は慌てて押し戻した。
押し戻すと、嬉しそうに力が増した。
毛穴ひとつまで塞ぎ直しても、どこを通ってくるのか分からない。抑えるほど、近くなる。閉じるほど、温かくなる。鞘の中の熱が、いつのまにか僕の脈と同じ拍を刻んでいる。
(だめだ。お願いだから、いまは、出ないで)
指先に力をこめて、柄ごと押さえつけた。
彼女はそれを、握り返されたとでも思ったらしい。
親しげに。
嬉しそうに。
本当に微かな光だった。普通なら、誰も気づかない。
けれどその一瞬、講堂の静けさの質が変わった。咳ひとつ、衣擦れひとつしない。さっきまでの「誰も見ていない」静けさが、どこかひとつの席の「見ている」静けさに、すり替わった気がした。
(———まずい)
冷や汗が背筋を伝った。
平静を装って頭を下げ、教官に礼を尽くして壇を下りる。自分の席に着くまで、足の感覚が遠かった。
座って、浅打を膝に置いて、僕は深く息を吐いた。
周りの同期生は、誰も僕を見ていない。皆、自分の番のことで精一杯だ。さっき隣で唾を飲み込んでいた青白い顔の少年も、今はうつろな目で前を見ている。
よかった。気づかれていない。誰も、見ていない。
そう安堵しかけた、そのときだった。
ぞくり、と
霊圧では、なかった。気配ですらない。ただ「見られている」という感覚だけが、背中に貼りついていた。
あの最も奥の席からだ、と思った。確かめたい。確かめるのが、怖い。
息を三つ数えてから、僕は膝の浅打を直すふりをして、視界の端だけで壇の奥をうかがった。
俯いた頭の、角度が違う。
ほんのわずか、指の幅ひとつぶんだけ、さっきより上がっている。顔はやはり見えない。それなのに、見えないはずの目と合った気がして、僕は前へ向き直った。
(……気のせい、だ。気のせい、ということに、する)
膝の上の浅打を握り直す。鞘越しの刀身はもう何も応えず、ただひんやりと冷たいだけだった。
僕はその視線に気づかないふりをして、前を向き続けた。式は何事もなく進み、僕の名はもう呼ばれない。教官の声も同期生たちの返事も、どこか遠くで響いているように聞こえた。
最後の号令で、新入生は深々と頭を下げた。
僕も、深々と頭を下げた。
顔を上げたときにはもう、教官席のいちばん奥に人影はなかった。
霊圧の残り香も、ない。いつ立ったのか、足音を聞いた者すらいない。誰だったのかも、分からない。
ただ、見られたという事実だけが、確かに僕の背中に残っていた。
入学式が終わって、新入生たちは寮舎へ向かう列を作った。僕は浅打を腰に差して、目立たないように列の真ん中へ滑り込んだ。
これから六年、霊圧を伏せて、誰よりも
それが、僕の九年の計画。
それが、僕の、生き延び方。
腰の浅打は、もう何の光も漏らさない。
ただ、柄に触れていた手のひらの奥に、微かな熱が残っている。
その熱が、なんだか、嬉しそうに思えた。
(……考えすぎだ)
———あの、いちばん奥の席の人は、誰だったんだろう。
寮舎の門が、目の前に見えてきた。
振り返ろうとして、僕は、やめた。
振り返ったら、まだ見られている気がしたから。
平穏は、まだこれからずっと、遠い。