『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第10話

第十話 卒業(そつぎょう)

 

 

アカデミー最終学年の晩秋。

庭の楓は赤く染まり、細く開けた窓から冷たい風が流れ込んでくる。

 

再来週には卒業試験。その先には、護廷十三隊への配属が待っている。

 

入学から、六年近くが過ぎた。

 

入学して二日目、霊圧測定の朝に全力で霊圧を抑え込んだあの緊張。

浅打を授与された日の、刀身の冷たさ。

内界で初めて琥珀姫に逢った、夜の海辺。

どれもまだ昨日のことのようにはっきり残っているのに、これでアカデミーは終わりだ。

 

(ここから先は、もう学生じゃない。護廷十三隊の、死神だ)

 

そう思っただけで、肩のあたりがわずかに重くなる。

僕は窓枠に肘をついて、ゆっくり息を吐いた。

 

◆ ◆ ◆

 

その日の鬼道演習を、僕はいつも通り中の下の出力でこなしていた。

 

卒業を目前にして、同期たちの霊圧は目に見えて伸びている。僕の内側の霊力も、この六年で伸び続けてきた。育った源は出口を内から押す。絞りの設定が授かったころのままでは、漏れる量が少しずつ上振れて「中の下」の線からはみ出しかける。

 

(近いうちに、もう一段だけ締め直そう)

 

そう算段していた矢先だった。

 

「では各自、互いに鬼道を撃ち合え。回避と防御の練習だ」

 

向かい合った相手は、いつもより腕の立つ同期だった。受け損なって大怪我をするわけにもいかない。僕は絞りをほんのひと匙だけ緩めて、動きに余裕を作った。

 

「破道の一、(しょう)!」

 

飛んできた霊圧の塊を半歩横に避ける。

 

そのつもりだったけれど、読みより速かった。塊の端が左腕の外側を掠っていった。

 

「あ、ごめん。ちょっと当たった」

 

「ううん、僕の回避が甘かったから」

 

苦笑しながら左腕を見て、僕はそのまま動けなくなった。

 

袖がわずかに破れている。普段なら赤い擦過痕くらいは残る掠り方だ。

なのにその下の皮膚には、赤みも腫れも、何もなかった。

 

(え)

 

霊圧の塊は確かに掠った。袖が破れたのがその証拠だ。それなのに、肝心の体だけが何事もなかったような顔をしている。

 

「遺玉院? どうした、大丈夫か?」

 

「あ、大丈夫。何ともない」

 

僕は袖口を握り込んで、笑顔を作った。

 

何ともない。

それが、いちばんおかしいのに。

 

◆ ◆ ◆

 

その夜、同室の三人が自習室から戻る前に、僕は机の引き出しから裁縫用の針を一本取り出した。

 

左の人差し指の腹に、先端を当てる。

普段なら、ぷつりと刺さって血の玉が浮かぶだけのことだ。

 

息を整えて、軽く押し込んだ。

 

ぷつり、と刺さった。

血の玉がひとつ、ゆっくり膨らむ。

 

(……なんだ。ちゃんと、刺さるじゃないか)

 

安堵しかけた、その時だった。

 

血の玉の根元で、傷口が———閉じた。

 

皮膚の裂け目がすうっと埋まっていく。波が引いたあとの砂みたいに、跡ひとつ残さずに。あとにはただ、血の玉だけが指の腹に乗っていた。

出どころを失った、ひと粒の赤。

 

僕は息を止めたまま、それを見ていた。

 

もう一度、刺す。

玉が浮かんで、傷が閉じて、玉だけが残る。

 

もう一度。

同じことが起きる。

 

指先から、すっと熱が引いていった。

 

(僕の体、いつから、こうなってた?)

 

鍛錬で皮膚が丈夫になったのなら、そもそも刺さらないはずだ。これは違う。傷は確かについて、そして、誰かが消している。

 

琥珀姫の言っていた「保存」。

あの言葉とこの指先が、頭の奥で繋がった。

 

僕は血を拭って針をしまい、いつもより早く布団に入った。

 

今夜のうちに、内界へ行かなければ。

 

◆ ◆ ◆

 

夜の海辺に降り立つなり、僕は彼女の名前を呼んだ。

 

「琥珀姫」

 

「お待ちしておりました、主様」

 

彼女はいつものように、深々と頭を下げて僕を迎えた。

 

「僕の体、傷が勝手に消えるようになってる」

 

「ええ」

 

琥珀姫は顔を上げた。

穏やかな微笑みは、いつもと寸分も変わらなかった。

 

「ずっと、拝見しておりました」

 

波がひとつ、寄せて返した。

 

「……知ってたの」

 

「はい。修練を重ねられる中で少しずつ、主様の魂とわたくしの力が混ざり合っていったのでございましょう。いつの間にか、お身体の一部になっておりました」

 

責める言葉は、出てこなかった。

確かめようがなかったのだと思う。本当に定着したのかどうか、僕の体を傷つけて試すわけにもいかない。

 

(心配させないように、黙っててくれたんだ)

 

きっとそうだ。彼女はいつも、僕の心配ばかりしてくれる。

 

「これ、どこまで治るの」

 

「お身体に届く軽い傷は、わたくしの力が瞬時に『保存』して無かったことにいたします。中程度の傷も、その大部分を無効化できます」

 

「……それって」

 

言いかけた僕の頬に、琥珀姫はそっと手を添えた。

彼女は瞬きもせず、僕を見ていた。

 

「不老、ということでもございます」

 

波の音が、その間だけ遠かった。

 

「傷を負う前のお身体を保つ力は、老いも止めます。霊圧が維持されている限り」

 

「完全に、止まるの」

 

「固定されるのは、老いと軽度の損傷だけ。魂魄(こんぱく)の練度や技の習熟までは、止めません」

 

頬に添えられた指先が、輪郭を確かめるようにゆっくり動いた。

 

「主様のお身体は、もう昨日のままでいられます。———ずっと」

 

優しい声だった。

 

うん、と返したつもりの声は、形にならなかった。

膝から力が抜けて、僕はその場の砂に座り込んだ。

 

死神はもともと長寿の種族だ。寿命は人間の比ではなく、老いも数百年単位でしか進まない。だから六年やそこらで見た目は変わらないし、僕も気付けなかった。

 

でも、それは「ゆっくり老いる」という話だ。死神もいずれは老いる。山本元柳斎重國(やまもとげんりゅうさいしげくに)ですら、長い時を経ていまの姿になっている。

 

なのに僕は、止まっている。

 

霊圧が続く限り、何百年経っても、この十代後半の姿のまま。

同じ教場で笑っていた同期たちが老いて死んでいくのを、僕だけが見送り続ける。

 

それはたぶん、もう一つの「死」の形に近い。

 

「……副作用は、ないの」

 

声が掠れた。

 

「ございます。保存の術理をお身体へ絶えず上書きし続けるため、微量の霊圧をいただき続けます。主様の霊力で十分に賄える量でございます。ただ、霊圧が底をついた時には保存は保てません。普通の死神に戻り、傷も老いも再び始まりますわ」

 

「だから、霊圧の温存」

 

「ええ。死神としてのこれからの日々で、何より重要になりますわ。お忘れなく」

 

「うん。わかった」

 

それからしばらく、僕は波打ち際で黙り込んでいた。

琥珀姫は隣に座って、黙って付き合ってくれた。

波が寄せては返し、灯篭の橙が水面に揺れている。

 

考えても、体はもうこうなっている。あとはどう受け止めるかだけだ。

 

怖がるのは簡単で、嘆くのも簡単だ。

でも、それで足が止まるのがいちばん怖い。

 

生き残るための力なら、たいていは歓迎する。

最初からずっと、僕はそう決めてきた。

 

怖い。

けれど、死ぬよりはずっといい。

 

「……ま、いっか」

 

口から零れた声に、自分で少し驚いた。驚いて、それから少し笑えた。

 

「あら」

 

「だって、生き残るためなら好都合だし。これから先、危ない場面はいくらでもあるから」

 

「ふふ」

 

琥珀姫が楽しそうに微笑んだ。

 

「主様のこういうお考えの転じ方、わたくし好きですわ」

 

「……それは、その。照れる、けど」

 

頬が熱くなった。

 

視界の端で、灯篭の灯がひとつ増えた気がした。

増えた気がした、というだけだ。この海辺の灯篭を、僕は数えたことがない。

 

◆ ◆ ◆

 

翌朝、僕は布団の上で自分の収支を検算した。

 

不老の代償は、常時の霊圧消費。それを差し引いても本当に回るのか、自分の蓄えを確かめておきたかった。

 

鎖結と魄睡は五年あまりかけて鍛え上げて、体感では副隊長格にも届きうるところまで来ている。六年前の僕が聞いたら、冗談だと思うだろう。絞りはもう無意識のまま利いていて、寝ている間も解けない。起き抜けに設定をひと回しだけ締め直したから、漏れる量はこれでまた「中の下」の真ん中に戻る。

 

始解の三技と、始解中の擬装術。

そこへ新しく加わった、傷つきにくい体と不老。

 

維持に喰われる霊圧を差し引いても、十分に黒字だった。

 

(もう、十分だ。今は、これ以上いらない)

 

もっと深い力のことは、頭の隅に置いておく。いずれは修行して手にするつもりだけれど、もし届いても、人目のない場所でこっそり確かめるだけだ。

 

これで卒業して、四番隊に配属されれば。

戦闘部隊から離れて、虚化実験事件の時には後方の治療に回って、表に出た負傷者だけでも死なせない。

 

平穏に、生きる。

それが僕の計画だった。

 

◆ ◆ ◆

 

翌週、教官が卒業試験の実施を告げ、配属希望の調査票を配った。

 

「霊圧測定・模擬戦・回道演習・鬼道。すべての分野で評価される。調査票は試験日までに提出すること」

 

配属は試験の成績と本人の希望で、ほぼ機械的に決まるらしい。去年卒業した先輩がそう言っていた。つまりこの一枚で、僕の今後の数百年が決まる。

 

四番隊。

迷いはなかった。

 

それなのに、最初の欄に筆を下ろしかけた手が、一度だけ止まった。

 

(傷つかない体で、傷を診る隊に行くのか、僕は)

 

四番隊は治療の隊だ。隊士の傷も自分の傷も、毎日のように人の目に晒される場所だ。そして卯ノ花隊長は、たぶん瀞霊廷でいちばん、人の傷をよく視る人だ。

 

それでも、書く。

戦闘部隊で斬り合いの只中(ただなか)に立つよりは、ずっとましだ。傷の演技くらい、いくらでも練習すればいい。

 

最初の欄に「四番隊」と、はっきりした字で書いた。第二希望も第三希望も、後方支援寄りの配属で埋めていく。

 

避けるのは、まず十一番隊。

それから、虚化実験事件の中心になる、あの隊。

あそこに配属されたら、僕の計画は終わる。

 

(どうか、四番隊に)

 

完璧だった。準備は全部、整っていた。

 

◆ ◆ ◆

 

卒業試験の日が来た。

 

霊圧測定では、水晶に右手を添えるだけでよかった。絞りは無意識のまま利いていて、調整の必要すらない。

 

「卒業時にしては、平均よりやや下といったところか。気にするな、お前の強みは回道だろう」

 

「はい。ありがとうございます」

 

僕は深々と頭を下げた。

 

◆ ◆ ◆

 

模擬戦は、二戦目が問題だった。

 

一戦目は勝てそうな同期が相手で、程よく苦戦するふりをしてぎりぎりで勝った。二戦目の相手は明らかに格上の上位同期。筋書きは決めてある。思ったより粘った末に、力負け。

 

その三合目で、筋書きが狂った。

 

相手の踏み込みが、想定より半歩深かった。切っ先が僕の右の前腕をかすめて、袖が裂け、皮膚が浅く開いた。

 

開いて———閉じた。

 

血がにじむべき場所に、何もにじまない。

 

(まずい)

 

考えるより先に、体が動いた。次の打ち込みをわざと受け損なって、右腕を下にして土の上へ転がる。砂と土が裂けた袖に噛み込んで、白いままの皮膚を汚してくれた。筋書きより一合早いけれど、もう終わらせるしかなかった。

 

「そこまで」

 

審判役の教官の声がした。

 

評価表に筆を走らせていた教官の手が、ふと止まった。

 

「遺玉院。腕は」

 

「掠っただけです。後で手当てします」

 

「ふむ」

 

教官は僕の右腕を一拍だけ見て、それきり何も言わずに筆を戻した。

 

「健闘、と書いておく。下がってよし」

 

「ありがとうございます」

 

列に戻る間ずっと、心臓の音が耳の奥でうるさかった。

 

その日の夕方、僕は無傷の右腕に包帯を巻いた。

傷のない体で傷を装うには、小道具が要る。数日はこのまま巻いて過ごすことになる。

 

◆ ◆ ◆

 

回道演習と鬼道は、計画の通りに運んだ。

 

回道では隠さずに上位を狙い、それでも最上位は避けて、上から五番目あたりに着地させた。担当の教官は「お前の回道は年々上手くなるな。四番隊が楽しみだろう」と笑った。鬼道は防御系を重点的に見せて、攻撃系は最低限。「前線というより後方支援向きか」という講評まで、注文通りだった。

 

◆ ◆ ◆

 

すべての試験が終わった教場には、ほっとした空気と先行きの不安が入り混じっていた。

 

「やっと終わったな」

「俺、十一番隊志望」

「俺は十二番隊」

 

僕はその輪の少し外で、相槌だけ打ちながら聞いていた。

 

僕は、四番隊志望。

回道は評価された。鬼道は防御系寄り。模擬戦は健闘止まり。すべてが四番隊へ繋がる道筋だ。

 

———完璧。

 

そのはずだった。

 

寮への帰り道、夕焼けに染まる空を見上げた。

 

(この夕焼けを、僕はあと何百回見るんだろう)

 

ふとそんな数え方をしてしまって、慌てて打ち消した。何百回でも見ればいい。見られるうちは、生きているということなのだから。

 

遠く、瀞霊廷の中央あたりの屋根が同じ色に染まっている。

 

その方角から、誰かの気配が届いた気がして、僕は一度だけ足を止めた。

やわらかくて、春の日向に似ていて、誰もが思わず警戒を解いてしまうような気配。

 

晩秋に、春の日向。

 

腰の刀の気配が、ひと呼吸ぶんだけ張りつめた気がした。瞬きの間には、いつもの優しい温度に戻っていたけれど。

 

———気のせい。

そう、思いたかった。

 

———平穏は、もうすぐ、そこ。

 

そう、信じたかった。

 

夕焼けがゆっくり夜に変わって、肌寒い風が頬を撫でていく。

 

———このときの僕は、まだ知らない。

 

瀞霊廷のどこか深い場所で、柔らかな笑みを浮かべた一人の男が、書類の推薦欄に一文を書き加えていたことを。

 

その一文が、配属会議で無視できない重さを持つことを。

 

第十話 了

 

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