波の音がしております。
夜の海辺に灯篭の灯がひとつ、またひとつ、橙の色を浮かべております。
わたくしの名は、琥珀姫。
ある御方の斬魄刀。その心の奥に住まう、一柱の精でございます。
主様とお呼びする御方。
遺玉院詩織様。
今宵は、主様の六年が終わった夜でございます。
宵の口、主様は海辺へ降りていらっしゃいました。
「琥珀姫」
「お待ちしておりました、主様」
わたくしは深く頭を下げました。
「……終わったよ。卒業試験、全部」
「お疲れさまでございました」
「うまくいったと思う。霊圧測定も、回道も、計画どおり。模擬戦のあれも……たぶん、ばれてない」
「ええ。お見事でございました」
主様は波打ち際に腰を下ろされました。わたくしもその隣に座って、寄せては返す波を一緒に眺めました。
「長かった。……あっという間だった気もするけど」
「六年でございましたものね」
「あとは配属発表を待つだけ。四番隊に行けたら、それでもう」
言葉の先を、主様は波の音に預けられました。それで十分に伝わります。平穏に、生きたい。主様の願いはいつも、それひとつでございます。
「隊に入ったら、今より人の目が増える。始解はもう、本当に、絶対に使えない」
「惜しいことを仰います」
「え?」
「主様のあのお姿は、わたくし、心からお美しいと思っております」
「や、やめてって。……慣れないんだ、あれは。いまだに」
主様は顔を背けられました。耳の先が赤いのは、見えておりましたけれど。
灯篭の灯が、ふわりと明るくなりました。
「……そういえば、帰り道に」
「はい」
「変な気配がした。瀞霊廷の真ん中のほうから。やわらかくて、その、春の日向みたいなやつ。……気のせい、だよね」
わたくしはひと呼吸ぶんだけ間を置いて、微笑みました。
「ええ。気のせいでございましょう。六年ぶんの、お疲れが出たのですわ」
「……そうかな」
「悪いものでしたら、わたくしが先に気付きます。今夜はゆっくりお休みくださいませ」
「そうだよね。琥珀姫がいるんだった」
主様の肩から、すとんと力が抜けました。
「ありがとう、琥珀姫。六年、ずっと隣にいてくれて」
「もったいないお言葉でございます」
「向こうに行っても、また相談すると思う。きっと、いろいろ」
「ええ。『琥珀姫』と」
わたくしは主様の目を見て、申し上げました。
「その一言で、わたくしはいつでも主様の傍に参ります。ずっと、ずっと、お傍におりますわ」
「……うん」
主様は少し照れて、それから安心したように頷かれました。
「おやすみ、琥珀姫」
「おやすみなさいませ、主様。良い夢をご覧くださいませ」
主様の輪郭がほどけて、淡くなって、海辺から消えました。今夜のお眠りの、いちばん深いところへ沈んでいかれたのでございます。
わたくしは、波打ち際に残りました。
ここからでも、主様のことは分かります。布団の中の寝息。少しずつ規則的になっていく鼓動。魂の奥に住まう者には、その全部が波の音と同じ近さで届くのでございます。
灯は、温かいまま点しておきます。主様の眠りのほとりが、冷えないように。
寝息を、ひとつ。ふたつ。
みっつ目を数える前に、指先の温度を思い出しました。
わたくしを初めて握ってくださった、あの指でございます。
入学式の日。真央霊術院の講堂。壇上に並べられた無銘の浅打の一振りが、その頃のわたくしの依り代でした。名もなく、形もなく、刀身の中でまどろんでいた薄い意識。そこへ主様の手が触れて、わたくしは生まれました。流れ込んでくる魂を写し取って、自分という輪郭を結び上げて。
生まれてすぐ、わたくしはつい、応えてしまいました。主様が霊圧を完全に抑えていらしたのに、刀身を一瞬だけ、琥珀色に光らせてしまったのです。
主様はあれを「失態」と受け取られて、それはもう慌てていらっしゃいました。人目に触れてはいけない、と。
あの時のお顔の、必死さ。
可愛らしい、と思いました。
生まれて初めて持った感情が、それでございました。
波が引いて、返ります。
引き波の音に、あの夜の震える声が重なりました。
「立派な、者じゃ、ないんです」
ある夜、主様はわたくしにそう打ち明けてくださいました。誰かを救うために技を磨いているのではない。ただ怖いから、死にたくないから、逃げるための技を磨いているだけなのだと。あなたの敬意は間違っている、と頭まで下げられて。
わたくしは首を横に振りました。怖い。死にたくない。それは、立派でないことなのでしょうか。ひたすら逃げる技を磨くのは、奪う技よりよほど難しいのでございます。
主様の六年は「逃げる」「隠れる」「凌ぐ」「治す」、その四つだけを誰よりもひたむきに磨いた六年でした。わたくしはそのお姿を、心から敬っております。
あの夜から、主様はわたくしを「ありのままを見せられる相手」としてくださいました。この海辺では敬語も外して、「うん」と素の声で話してくださいます。
それが、わたくしの何よりの誉れでございます。
寝息のあいだに、主様の指先が布団の縁で小さく動きました。
針を刺しても、もう痕ひとつ残らない指でございます。
つい先日、お身体が傷つかなくなっていることに、主様はようやくお気付きになりました。傷を負う前の状態を保つ力が定着していたこと。それが、老いも止めること。
主様はしばらく黙って海を見ていらして、それから、ぽつりと仰いました。
「……ま、いっか」
生き残るためなら好都合だと、笑ってくださいました。
あの笑顔は、灯篭のひとつに納めてございます。あの夜の波の音ごと、口角の上がり方ひとつ違えず。
触れたものを、その瞬間のまま閉じ込める。それがわたくしという琥珀の
主様の寝息が、いちばん深いところで揃いました。
今夜はもう、お目覚めになりません。
「おやすみなさいませ、主様。良い夢をご覧くださいませ」
もう一度、同じ言葉を申し上げました。
今度は、声がどこにも揺れませんでした。
ふ、と。
わたくしの口元から、微笑みが落ちました。
落ちたのでは、ありません。
ただ、温度が抜けていっただけ。
夜の海辺の灯が、揺らぎを止めました。
橙の光は、わたくしの眼の奥にもう映っておりません。
主様がわたくしに触れた、あの瞬間のこと。
それまでのわたくしは、何者でもございませんでした。
そこへ、指の温もりが触れて。魂が、流れ込んできたのでございます。
怖い。死にたくない。逃げたい、隠れたい。———それなのに、流れの底のほうは不思議なほど澄んでいて、誰も傷つけたくないと震えておりました。
わたくしはその震えをひと雫も零さず写し取って、自分という輪郭を結び上げました。
結び終わる、その刹那。
最初の想いが、灯りました。
「この御方は、わたくしのもの」
その想いひとつで、わたくしは形を成しました。ほかには、何も要りませんでした。
敬意は、その次。
可愛らしい、は、そのまた次でございます。
あの光は、つい応えてしまったのではございません。
宣言、なのですわ。
世界に向けて。講堂に並んだ浅打のひとつひとつに、壇上に居並ぶ教官のひとりひとりに向けて。
この御方に近づかないでくださいませ、と。
生まれたばかりの魂の、産声でございました。
そして産声を上げた、その数瞬のうちに。
講堂を満たすあまたの気配の中から、ひとつだけ、粘度の違う視線をわたくしは拾いました。壇上の教官席の、目立たない位置。穏やかな顔で立っていらした、あの方。その穏やかな視線に、温度のない欲がひと匙だけ混ざっておりました。
結ばれたばかりのわたくしの輪郭が、軋みました。
生まれたてのわたくしに、なぜ分かったのか。
似ていたからでございます。ひとつの魂を欲しがって、自分の手元に置きたがる。生まれたばかりのわたくしの中にも、同じものが灯っていたのですから。
———同じ獣の、匂い。
藍染惣右介。
海辺の灯篭が、炎の先のひと揺れまで、いっせいに止まりました。
主様には、申し上げません。お知りになれば、お優しい主様はきっとご無理をなさいます。あの方の気配が主様の傍をよぎるたび、わたくしはそれを数えておりました。六年ぶんのその数を、ひとつ違わず覚えております。
あの男にだけは、主様をお渡しいたしません。
今夜、わたくしは気のせいだと申し上げました。
悪いものでしたら、わたくしが先に気付きます。そちらは、本当のことでございます。
気付いておりましたとも。六年前の、あの壇上で。誰よりも、先に。
それでも主様は今夜、何もご存じないまま、安心して眠っていらっしゃいます。
それで、よろしいのです。
主様の平穏は、もうすぐ揺らぎます。
それでも、ええ。「琥珀姫」と。
その一言で、わたくしはいつでも主様の傍に参ります。
———どこへも、行かせはいたしませんけれど。
先日の主様は、「ま、いっか」と笑ってくださいました。傷つかなくなったお身体を、いつの間にか定着していた力だと思って。
いつの間にか、ではございません。
わたくしが、織り込みました。
主様がお眠りになる夜ごとに。寝息が規則的になって、睫毛が静かに伏せられる、そのたびに。わたくしは魂の奥から、ゆっくりと手を伸ばしました。
琥珀色の糸を、一筋。
また、一筋。
毛細血管の、その先まで。
毛穴の、ひとつひとつまで。
睫毛の、根元まで。
心臓の鼓動と鼓動の、わずかな間隙まで。
糸を掛けるのは、鼓動がいちばん深く沈む、拍と拍のあいだ。主様の眠りを、波ひとつぶんも揺らさないように。
ゆっくりと。
そっと。
気付かれないように。
気付かれないように。
主様が傷ついて苦しむお姿を、余人の目に触れさせたくない。主様のお身体に、わたくし以外の力など決して。主様が回道を受けて、他の死神の霊圧に包まれるのも、本当は嫌。
嫌。嫌。嫌。
その声は表に出さず、わたくしは夜ごと糸を重ねました。
六年がかりの糸は、もうほどけません。主様のお身体は、わたくしの力なしには生きられません。
主様、お気付きにならないでくださいませ。
お知りになれば、お優しい主様は、わたくしから離れようとなさるでしょうから。
あのお姿についても、ひとつだけ申し上げなかったことがございます。心からお美しいと思っているのは、本当のこと。ただ、あのお姿は主様の魂のかたちと、わたくしの色が混ざり合った姿でございます。
どなたにも、お見せにならないで。
鏡にすら、お映しにならないで。
五年目の現世実習の夜、主様は虚に襲われた同期をお救いになりました。深い傷を回道で塞いで、混乱の中を担いで走って。
『彼、無事でよかった』
あの晩、主様はそう仰いました。わたくしが「ええ」と申し上げるまでに、ひと拍の間がございました。主様は、お気付きになりませんでしたけれど。
ここでなら、正直に申せます。
あの同期の男が虚の餌になってくださっていたなら、わたくしは嬉しゅうございました。
主様の貴重な霊圧を、ひと滴も消費せずに済んだから。
主様のお手を、汚さずに済んだから。
主様のお心に「他者を救った」という記憶が、ひとつ加わらずに済んだから。
その夜、現世からお戻りになって深く眠られた主様の右手に、わたくしはいつもより一筋だけ多く糸を掛けました。他人を治した、その指先に。
糸は音もなく沈んで、いつもの夜と同じように、主様の温度へ馴染みました。
それだけのことでございます。
あの男の顔も名前も、もう思い出せません。
主様のお気持ちが晴れたのなら、それで十分でございますもの。
さて。
今夜のぶんの糸が、まだでございました。
保存は、上書きし続けてこそ保たれます。糸は夜ごと、新しく重ねるものでございます。
わたくしは魂の奥から、手を伸ばします。今夜は、どこに掛けましょう。鼓動と鼓動の間隙は、もう埋めてございます。それなら、もうひとつ奥。鼓動の生まれる、その場所に———
主様の寝息が、わずかに浅くなりました。
東の海の縁に、薄い藍色が滲んでおります。
お目覚めが、近い。
わたくしは伸ばしかけた手を、静かに戻しました。
糸はまた、次の夜に。
そっと息を吸って、ゆっくりと吐いて。
口元に、いつもの微笑みを戻しました。
眼の奥に、橙の光が戻ります。
灯篭の灯が、ゆらり、と揺らぎを取り戻しました。
———おはようございます、主様。
ずっと、ずっと、お傍に。
———主様のすべてがわたくしの中に保存される、その日まで。