五番隊の朝は、穏やかに流れる。
点呼が終わると書類が回ってくる。僕に割り当てられるのは戦いの匂いのしない仕事ばかりで、それがありがたかった。出仕簿の判を取り、備品の請求をまとめ、救護用の薬包の在庫を数える。数字を合わせて筆を置くころには、指先に墨の匂いが残っている。誰も死なないし、誰も斬らない。それだけの一日が、ちゃんと暮れてくれる。
僕はこういう一日が好きだった。
隣の卓では先任の隊士が訓練計画の草案を練り、向かいでは伝令役の若い隊士が回状を畳んでいる。声を荒らげる者もいなければ、急かす者もいない。穏やかで、整っていて、波風が立たない。ただ、その整い方を見ているとかえって落ち着かなくなる。この穏やかさを作った男の顔を、僕は知っているからだ。
朝いちばんに、その藍染惣右介が隊士の間を一巡してくる。
「おはよう、遺玉院くん」
「お……おはようございます」
それだけだ。藍染はやわらかく笑って通り過ぎていく。衣擦れの音が遠ざかる。
(よし、今朝のぶんは終わった)
挨拶ひとつに、終わったも何もないのだけれど。
向こうから踏み込んでくることはない。僕も踏み込まない。互いに半歩の距離を保ったまま、日が過ぎていく。ただ、目だけはいつも僕のどこかに触れている気がする。気のせいかもしれない。確かめる方法はないし、確かめようとすること自体が危険だった。だから僕は、見られている前提で動く。背筋の角度から歩幅まで、目線の置き場から声の高さまで、全部を「真面目で平凡な新人」の鋳型に流し込んで固める。一日中、毎日。
絞りはもう意識すらしない。中の下、漏れなし。眠っていても勝手に絞られている。この隊でいちばん頼りにしているのは、たぶんこの技だった。
「遺玉院。ちょっとええか」
配属から十日ほど経った昼下がり、廊下で平子隊長に呼び止められた。手には綴りが一冊。見覚えがあった。今朝僕が出したばかりの、薬包の在庫表だ。
隊長室に入るのは配属の挨拶以来だった。平子隊長は相変わらず机の上にあぐらをかいて、膝に綴りを開いた。窓の障子が半分だけ開いて、秋の終わりの薄い光が畳に長く伸びている。書架には書類が乱雑に積まれて、それでも一枚も床に落ちていない。乱雑に見えて、本人はどこに何があるか全部把握しているのだろう。そういう部屋だった。
「失礼します」
「そない固まらんでええって。座れや。茶でも飲んでけ」
机の脇にあった湯呑みを、平子隊長がこちらへ押しやった。僕はそれを両手で受け取った。
(ただの茶だ。落ち着け)
温かい。手のひらの汗で滑りそうになるのを、指の腹で支えた。縁を震わせないように。表面を波立たせないように。たかが茶一杯のことに、僕は神経をすり減らしていた。
平子隊長は綴りをぱらぱらとめくった。
「これ、お前の字か」
「は、はい」
「
「……恐縮です」
(在庫表の字まで見られていたなんて)
「ええことや。地味な仕事ほど人柄が出る。俺は派手な手柄よりそういうのを見とるからな」
褒め言葉のはずだった。なのに、どこへ置けばいいのか分からない言葉だった。僕は当たり障りのない顔のまま、湯呑みに口をつけた。
平子隊長は綴りを閉じて、畳の上へ軽く置いた。
「藍染とは、どうや」
(来た)
湯気の向こうの目が、こちらを見ていた。流れる水のように静かな目。世間話のように軽い問いだった。
「副隊長は……お優しい方だと思います。新人の僕にも、丁寧に接してくださいますし」
「せやろ。優しいわ。ほんまによう出来た男や」
声は軽かった。軽すぎた。
「よう出来すぎとる。お前はそう思わへんか」
障子の向こうを、誰かの足音が通り過ぎていく。遠ざかって、消えて、部屋が静かになりすぎた。自分の鼓動だけが、耳の奥で鳴っている。
僕は湯呑みへ目を落とした。茶の表面に自分の顔がぼんやり映って、小さく波打っている。手は動かしていないのに。脈だ。指先から伝わる僕の脈が、水面を揺らしている。色の薄い、頼りない水鏡。
この人の勘は当たっている。藍染惣右介は、やがてこの瀞霊廷を欺いて崩玉を奪う男だ。平子真子は何も知らないまま、正解の縁に手をかけている。
(だめだ)
ここで頷けば、僕は藍染の敵になる。それだけは駄目だ。誰も巻き込まない。
舌が上顎に貼りついていた。剥がして、茶をひとくち含んで、ゆっくり顔を上げる。なるべく鈍く。なるべく、とぼけた顔で。
「僕には……よくわかりません。立派な方だなあ、としか」
「だなあ」の「なあ」が間延びして、他人の声みたいに聞こえた。どこかの、僕よりずっと鈍い男の声に。
平子隊長は僕をじっと見た。
数秒が、ひどく長かった。
水のような目が、こちらから離れない。底まで澄んでいて、何を映しているのか読めない。湯呑みの中では、まだ僕の脈が小さな波を打ち続けている。波立つなと念じるほど、波は細かくなった。僕は茶を持つ手を動かさなかった。瞬きの間隔も変えなかった。立派だなあとしか思えない凡庸な新人の
それから平子隊長は、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「そか。ま、そらそうやな。新人に振る話やなかったわ。忘れとけ」
「は……はい」
「上司は素直に信じとけ。前にも言うたな」
「……はい」
平子隊長は、言葉を二つに折って寄越す。表に書いてあるのは半分だけで、残りの半分はこちらに読ませる。読み違えれば、その読み違え方ごと読まれる。僕は折り目に触らない言葉だけを選んだ。
「上司の方々を信じて、務めを果たします」
無難すぎるくらいが、今の正解だった。
茶を飲み干して、頭を下げた。部屋を出る間際、背中に声がかかった。
「遺玉院。お前、ええ子やな」
振り向くと、平子隊長はもう窓の外を見ていた。長い金髪に薄い光を溜めて、陽だまりの猫みたいな顔に戻っていた。
ええ子。その三文字が、背中の真ん中に小石みたいに残った。意味を考えるのはやめた。考えはじめたら、顔に出る。
一礼して、襖に手をかけた。
閉まる寸前だった。細くなった隙間の向こうで、平子隊長の目がこちらへ戻っていた。窓ではなく、僕に。
半秒。それきり、襖は閉まった。
廊下の冷たい空気が頬に触れて、息が浅くなっていたことにようやく気づいた。
『お見事でしたわ、主様』
歩きだしてすぐ、胸の奥で琥珀姫が言った。
長い廊下だった。すれ違う隊士に会釈をするたび、表の顔が勝手に微笑む。内側でだけ、別の会話が流れていく。
『あの平子真子という御方、ずいぶんと目の利くお人です。探りのお手並みも、
(……うん。怖かった)
足取りだけはいつも通りを装った。けれど膝の裏が、まだ強張っていた。
『……ただ』
ふっと、声から抑揚が抜けた。耳のすぐ後ろで聞こえた気がした。いつもより、近くで。
『あの御方。主様の目を、三度、覗き込みましたね』
三度。勘定が合うまでに一拍かかった。「藍染とは、どうや」のとき。答えたあとの、長い沈黙。それから——襖が閉まる寸前の、あの半秒。
(よく数えてるなあ。最後のは、気のせいだと思いたかったのに)
返事はすぐには来なかった。一拍。二拍。
『——いえ。出すぎたことを申しました。お忘れくださいませ』
声はもう、いつもの柔らかさに戻っていた。
(……今日は、みんな僕に忘れろって言うなあ)
『ご心配には及びません』
仕切り直すように、琥珀姫は続けた。
『あの御方のご関心は、すべて藍染さまへ向いております。主様を見ているようで、探しておられるのは藍染さまを疑う同志。主様が鈍い新人を演じておられる限り、その目は藍染さまへ吸い寄せられてゆきます。主様の絞りには届いておりませんわ。あの御方ほどの遣い手でも』
刀の中から、彼女もずっと同じものを見ていてくれたらしい。それが心強くて、膝の裏の強張りが少しほどけた。
おかしな理屈だけれど、そこが僕の安全地帯だった。藍染という
(平子隊長は……いい人だと思う)
『ええ』
短い返事だった。
(だから巻き込みたくない。僕のせいで、あの人が動くのは嫌だ)
前世の記憶の中でも、平子真子は藍染に敗れる側だ。騙され、虚化させられ、追われる側だ。僕が頷いて、平子隊長が新人の同志を得たと思って、それを足がかりに藍染へ踏み込んだら。あの人の運命を、僕が早めることになる。
巻き込まない。誰も。それが僕にできる唯一の優しさで、たぶん、唯一の卑怯さでもあった。
『主様らしいお言葉ですわ』
琥珀姫はそれ以上、何も言わなかった。
角を曲がったところで、廊下の先に藍染がいた。
若い隊士と立ち話をしている。やわらかく笑って、相手の肩に軽く手を置いて。僕は会釈をして、壁際を通り過ぎた。
視線は来なかった。すれ違い、離れ、次の角を曲がるまで一度も。
気づけば歩数を数えていた。十四歩。そのあいだ、あの目は一度もこちらを向かなかった。
見られるより見られないことのほうが冷たい日があるなんて、この隊に来るまで知らなかった。
その夜、割り当てられた狭い部屋で、
日中ずっと被っていた面を、ここでだけ少し緩める。緩めたとたん、気を張り続けた一日ぶんの重さが肩に降りてきた。
布団に入る前に、今日の問答をもう一度だけたどった。僕は間違えなかったはずだ。頷かず、否定もせず、どちらの側にも立たなかった。線のちょうど真ん中に立った。
そのはずだった。
けれど結果だけを並べると、こうなる。平子隊長の疑いは今日、僕のところで一度だけ空振りした。「立派な方だなあ」。あの一言のぶん、藍染を映す水面はまた少し濁った。
(……僕の嘘は、今日、藍染を守った)
湯呑みの茶に映っていた、あの頼りない顔を思い出す。揺れてぼやけて、何も映さない水鏡のつもりだった。
けれど何も映さない鏡は、何かを隠したい男にとって、いちばん都合のいい鏡だ。
僕は知らないうちに、藍染の鏡の一部になっていた。
前世の記憶が正しければ、虚化実験事件まで三年もない。
行灯を消そうとして、手が止まった。灯を落とした先の暗がりで、あの水のような目がまだ開いている気がした。窓を見ているふりをして、襖の隙間からこちらへ戻ってきた——あの半秒の目が。
その夜、僕は灯をつけたまま眠った。