『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第14話

第十四話 満ちる

 

 

朝の隊舎は墨と香の匂いがする。

 

当直の報告綴りを詰所へ届けるのは新入りの仕事だった。綴りを胸に抱えて渡り廊下へ出ると、向こうから藍染惣右介が歩いてきた。

 

「おはよう、遺玉院くん」

 

「お、おはようございます」

 

頭を下げる。いつもの朝なら互いに半歩の距離を保ったまま、すれ違ってそれきりのはずだった。

 

その朝は、足音が僕の手前で止まった。

 

「それは当直の綴りだね。ありがとう、僕が預かるよ」

 

差し出しかけた綴りの角がわずかに揺れて、僕は両手で持ち直した。藍染が受け取る指の運びには隙というものがない。紙の重みが移っていく一拍のあいだ、視線はこちらに据えられたままだった。

 

「遺玉院くん」

 

呼ばれて顔を上げる。

 

「今日は顔色がいいね」

 

(顔色……?)

 

毎朝、同じ顔を作ってきたつもりだった。疲れの濃淡も寝起きのむくみも、表へ出る前に均してある。その均した顔のどこを見て言っているんだろう。読もうとして、毎回読めなくて、それでも読もうとするのをやめられない。

 

「……おかげさまで」

 

用意してある返事はこれだけだ。それ以上は何も差し出さない。差し出した端から測られる。

 

藍染は柔らかく笑って、廊下の先へ歩いていった。衣擦れの音が遠ざかる。手の中の綴りはもうない。渡しただけだ。たったそれだけのことに、手のひらがうっすら湿っていた。

 

(すれ違って、ものを渡して、これだ)

 

こういう朝を、配属からおよそ百八十回くり返した。

 

半年が過ぎた。何も起きなかった。それが何よりだった。

 

点呼と書類と報告が、いつもの順で流れていく。同じ形の一日が積み重なって、厚い壁になっていく。向こうは踏み込んでこない。僕も踏み込まない。半歩の距離は半年経っても半歩のままだった。穏やかな声。柔らかな所作。表面があまりに滑らかで、奥行きが測れない。視線は確かにこちらへ当たっているのに、温度も意図も伝わってこない。鏡に向かって会釈しているようなものだった。

 

毎朝が試験だった。採点者の顔が見えない試験。どこに合格点があるのかも分からないまま、落第しないことだけを願って、僕は答案を白紙のまま出し続けている。

 

平子隊長とは月に数度すれ違って「おう」と笑い合う。あの茶の日から、藍染の話は一度も振られていない。ただ去り際にちらと向けられる目が、ときどき笑っていない。気のせいだと自分に言い聞かせた。気のせいにしておかなければ毎日がもたない。

 

僕は静かに溶けていった。五番隊の景色の中へ。真面目で凡庸な新人という薄い色の中へ。誰の記憶にも強く引っかからない色。それが僕の保護色だった。

 

◆ ◆ ◆

 

絞りはもう技ではなくなっていた。

 

呼吸と同じだ。意識して止めないかぎり止まらないし、止める理由もない。薄い琥珀の膜が霊圧を中の下へ押し下げたまま、眠っていても剥がれない。配属されたばかりの頃は一日の終わりにどっと疲れが来たけれど、あれは絞りのせいではなかった。あの人の目がある屋根の下で平凡な顔を保ち続けるために、ずっと気を張っていたからだ。いまはその気の張りにも体が慣れた。むしろ絞らずに過ごすほうが落ち着かない。素の霊圧をさらして歩くなんて、服を着ずに往来へ出るようなものだ。

 

(想像しただけで風邪をひきそう)

 

年に何度か全隊で霊圧を測る。その日だけは右手の一点、膜の縁を指先の幅だけ開いて、凡庸な数字を器に注ぐ。注ぎ終えたら閉じる。学院の頃から数えて幾度目になるのか、とうに手に馴染んだ所作だった。

 

体のほうも当たり前になっていた。掠った傷が残らない。打ち身が痕にならない。琥珀姫の「保存」が薄く織り込まれていて、剣の応酬で浅く切った指も、血が滲む間もなく閉じている。そのぶん霊圧をわずかずつ食うけれど、食われていることにさえ気づかない日のほうが多い。

 

(……それも、どうかと思うけど)

 

絞りも、保存も、ぜんぶ呼吸になった。

 

便利だとは思わない。これは栓だ。膨らみすぎた力に外から見えない栓をして、日々を回しているだけ。栓が外れる日が怖い。いや——栓をしている自覚が薄れてきたことのほうが、よほど怖い。慣れるな。沈め。誰の目にも凡庸であれ。毎晩そう言い聞かせる。

 

それでも近ごろ、深く息を吸うと、胸の奥で何かが水面みたいに揺れる。

 

器の縁まで、水が来ている。

 

◆ ◆ ◆

 

その夜、内界に降りた。

 

夜の海辺。波打ち際の浅い水に、琥珀色の灯篭がいくつも揺れて、ゆっくり脈を打っている。外の世界がどれだけ進んでも、ここはいつも同じ夜だ。波は静かに寄せては返し、足首までの水がほのかにあたたかい。

 

「主様」

 

琥珀姫が振り返った。金と琥珀の髪。長いベール。穏やかで底まで澄んだ目。

 

「うん。来たよ」

 

ここでだけ僕は敬語を外す。素のままの「うん」が喉からこぼれる場所は、もうここしか残っていない。

 

「半年、よう持ちこたえられました」

 

「持ちこたえたってほどでもないよ。毎日おはようって言ってるだけだ」

 

「その毎日がいちばん難しゅうございましょう」

 

そうかもしれない。何もしないでいることのほうが、ずっと骨が折れる。

 

琥珀姫は傍らの灯篭のひとつに、そっと指を添えた。

 

「そろそろ、お話ししておきたいことがございます」

 

光が指先で小さく揺れる。

 

「卍解を。お始めになりませんか」

 

(……卍解)

 

胸の奥がずんと重くなった。

 

(早い。早いよ。卍解なんて、平隊員(ひらたいいん)が手を出していいものじゃない)

 

「……まだずっと先の話だと思ってた」

 

「いいえ。主様とわたくしの絆は、もう十分に満ちております。あとは形にするだけでございます」

 

満ちている。その言葉は、深く息を吸うたび胸の奥で揺れるあの水に、ぴたりと重なった。

 

「絆って言われても、僕はただ毎晩ここに降りてきてただけだよ」

 

「それで十分でございます。死神が自らの斬魄刀を恐れるのは、珍しいことではありません。主様はわたくしを、一度も恐れませんでした」

 

そういうものなんだろうか。彼女を怖いと思ったことは一度もない。怖いのはいつも外の世界の側で、この海辺だけが、恐れなくていい場所だった。

 

「事件まで、二年半ほどでございましょう。形にするには繰り返しが要ります。何度も、体が覚えるまで。備えるなら早いほどよろしゅうございます」

 

(二年半。……長いようで、繰り返すにはたぶん足りない)

 

それでも僕は、すぐには頷けなかった。

 

「でも……卍解だよ」

 

灯篭の光から目を逸らした。

 

「隊長たちの力だ。いちばん強くて、いちばん目立つ。僕の生き方の正反対にある力だよ。覚えれば、隠すものがまたひとつ増える。バレた日に失うものも増える」

 

言いながら、自分の声が硬くなっていくのが分かった。

 

「主様」

 

琥珀姫の声は静かだった。

 

「逃げる。隠れる。凌ぐ。治す。主様の手にあるのは、その四つでございましょう」

 

僕の胸の中の言葉だった。口に出したことは一度もない。それでも彼女には聞こえている。魂の内側に住む人に、隠せるものは何もない。

 

「主様はいまも、ご自身を薄い繭でくるんで生きておいでです。卍解はその繭を、ひとまわり大きく丈夫にするだけのもの。いまの(まゆ)に入れるのは主様おひとり。大きくなれば——匿いたい誰かを、引き入れられます」

 

事件。

 

口には出さない名前が胸の底で疼いた。虚化実験事件。八人が虚に堕ちかけ、三人が瀞霊廷を追われる夜。僕だけがそれを知っていて、誰にも言えない。言えば「なぜ知っている」と問われる。問われたらそこまでだ。

 

あの夜に間に合うかどうかは分からない。間に合っても、僕が誰かと斬り合えるわけじゃない。それでも繭がひとまわり大きくなれば、誰か一人くらいは引っかけて、中へ匿えるかもしれない。ただ何もできずに見ているのだけは、嫌だった。その嫌だという気持ちだけが、半年経っても色褪せずに胸の真ん中に残っている。

 

「……匿うための卍解、か」

 

「ええ」と琥珀姫は頷いた。「匿ったものは、誰にも奪わせませんわ」

 

「覚えるとしても、瀞霊廷では絶対に抜けない」

 

「承知しております」

 

クインシーの目がある。見えざる帝国は瀞霊廷の影に千年潜んで、隊長級の卍解を狙っているらしい。前世の記憶が確かなら、その下準備の観察はこの時代にもう始まっていてもおかしくない。卍解を一度でも瀞霊廷の領域で抜けば、記録される。分析される。対策される。瀞霊廷の目に晒すことと帝国の目に晒すことは、僕にとって同じ意味だ。「保存」は見られた瞬間に終わる力で、一度誰かの記録に残れば二度と消えない。

 

(考えすぎだよって、誰かに笑ってほしいところだけど)

 

「場所は決めてある」

 

「お聞かせくださいませ」

 

「流魂街の外れ。三十三地区の奥に、人の来ない洞窟がある。岩盤が厚くて、瀞霊廷から歩いて半日はかかる」

 

「広範囲の保存で洞ごと閉じてしまえば、保てているかぎり霊圧は一片も外へ漏れません。岩が一枚目。わたくしの保存が二枚目。二重の繭でございます」

 

子供の頃に一度だけ迷い込んだ場所だった。育った村のさらに奥、進むほど岩が厚くなって、音が死ぬ。自分の足音さえ吸われて消える。あのときは怖くて泣きそうになった。いまは逆だ。音が死ぬなら気配も死ぬ。あの静けさが、今度は僕を匿ってくれる。岩の厚さも、その遠さも、全部こちらの味方になる。

 

それでも、穴はある。

 

「繭を張る一瞬と解く一瞬だけは、どうしても剥き出しになる。その二呼吸ぶんは絞りを底まで沈めてからやる。通うのは非番の日だけ。連続して隊は空けない。毎回違う道を選んで、尾けられていないか確かめる」

 

「主様は本当に用心深くていらっしゃる」

 

「臆病なだけだよ」

 

「それを用心深いと申すのです」

 

(……褒められてる、のかな)

 

僕は息を吸った。足首の水があたたかい。

 

「……やってみる」

 

「はい」

 

◆ ◆ ◆

 

帰り際だった。

 

灯篭の光が、ふっと一段明るくなった。

 

足首の水がぬるく絡んだ。振り返るより先に、息を止めていた。空気が濃い。甘くて重いものが、胸の裏側までひたひたと上がってくる。砂を撫でていた風がやんで、海辺の呼吸が止まった。

 

「……琥珀姫?」

 

振り返った。琥珀姫が、思っていたより一歩近くにいた。

 

「いいえ。何でもございません」

 

声はいつも通りだった。穏やかで、丁寧で。けれどベールの下で、伏せられた睫毛が震えていた。両手が胸の前でそっと重ねられていた。何かを抱きしめるような形に。

 

「じゃあ……行くね。また明日」

 

「ええ。お気をつけて、主様」

 

睫毛が上がる。目がこちらに据えられて、離れない。瞬きをしない。胸の前の両手は、重ねられたままだった。

 

背を向けて歩き出す。水を踏む自分の足音だけが続く。その背中に、届くか届かないかの細さで声が落ちた。

 

「……ようやく」

 

足は止めなかった。この半年か、もしかしたらもっと前から、僕が自分で決めるのを待っていてくれたんだろう。急かさず、責めず、毎晩ただ付き合いながら。

 

優しい人だ。僕のために喜んでくれている。

 

そう思うことにした。

 

灯篭の光が、ゆっくりと元の明るさに戻っていった。

 

◆ ◆ ◆

 

外へ戻ると、狭い部屋の天井が見えた。

 

虚化実験事件まで、あと二年半ほど。

 

その日まで静かに強くなる。誰にも見られず、誰にも知られず、繭の中で。

 

(僕に、何ができるんだろう)

 

答えはまだ出ない。それでも次の非番を数える。指を折りながら、僕はもう三十三地区までの道順を考えはじめていた。同じ道は二度使わない。帰りは別の橋を渡る。

 

目を閉じる。絞りは寝ている間も効いている。保存も勝手に回っている。僕の知らないところで、僕の体はいつも誰かに守られている。

 

その「誰か」がすぐ傍で、静かに満ちている。

 

第十四話 了

 

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