『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第15話

第十五話 (あらわ)

 

 

非番の朝だった。

 

空がまだ白む前に寝床を離れ、誰にも見送られず五番隊舎を出た。瀞霊廷の白壁を背に西へ歩く。香木の薫る清潔な空気がやがて薄れ、土と煙の匂いに替わる。流魂街三十三地区。育った家よりさらに奥、人の通わない岩山の懐に、その洞窟はある。

 

秋はもう終わりかけだった。枯れはじめた野を渡ってきた風が、襟元から冷たく入り込む。道の途中、育った村の屋根が遠くに見えた。煮炊きの煙が二筋、白くのぼっている。寄らない。顔を覚えられている場所には近づかない。元気でいてくれれば、それでいい。煙が見えなくなるまで、何度かそちらを振り返った。

 

歩いて半日。近道はせず、同じ道も二度は通らない。霊圧を中の下に沈めたまま、尾けてくる足音がないか折々に耳を澄ます。臆病だと自分でも思う。けれどこの臆病が今まで僕を生かしてきた。

 

開けた稜線(りょうせん)に差しかかったところで、体が勝手に伏せた。

 

風下の藪が鳴った。葉擦れとは違う、重さのある音。岩に頬を押しつけて息を殺す。十を数えたところで藪から飛び出したのは灰色の山鳩で、羽音を散らして谷へ降りていった。

 

(鳥だ。……鳥、だよね?)

 

立ち上がって膝の土を払う。手が二度、同じ場所を払っていた。心の臓が静まるまで、その場で息を数えた。

 

警戒しているのは死神の目だけじゃない。見えざる帝国。瀞霊廷の影に千年潜んで、卍解を奪う計画を温めている目。その観察はたぶんもう始まっていて、知っているのは前世の記憶を持つ僕だけだ。だから誰の目も装置も届かない岩の奥まで通う。

 

人前では絶対に抜けない。見られて困るのは、女の姿そのものじゃない。姿が顕れた一瞬で、始解を使ったと知れる。何かを隠していたと知れる。そこから先は芋づる式だ。

 

洞窟の入り口では足を止め、岩陰に置いておいた小枝の位置を確かめた。三本とも、前に出た時のまま。誰も来ていない。

 

岩の割れ目に身を滑り込ませると、ひんやりした闇と湿った石の匂いに包まれた。狭まる道を三つ抜け、最後は体を横にしないと通れない隙間を過ぎると、ふいに天井が高くなる。水の滴る音が遠くで響いている。半年通って、足はもう暗がりの中の道を覚えている。

 

洞窟の奥で、刀を抜いた。

 

今日で何十回目になるだろう。それでも抜くたびに思う。この力は栓を抜くようなものだと。中で何がどれだけ膨らんでいるか、いちばんよく知っているのは僕だ。だから毎回、怖い。

 

胸の内で真名(まな)を呼ぶ。応える熱が、柄を握る手に灯る。

 

「封じて、灯せ。琥珀姫・久遠灯」

 

声が変わる。

 

刀身が琥珀色に透き通り、光の糸が体を撫でる。背が伸び、髪が肩を越えて流れ、装束が白と金に染まっていく。頭に宝冠の重みが載って、視界の端で長いベールが光を孕む。骨の位置が組み替わる奇妙な感覚が引くと、鏡などなくてもわかる。今の僕は女の姿をしている。考えと口の間には薄い膜が一枚挟まって、その膜越しに整った貴婦人の声が出る。やめようとしても、声がもう言うことを聞かない。

 

(はい、今日も他人の声。慣れない。たぶん、一生慣れない)

 

手を広げる。

 

指先から琥珀色の膜が広がって、僕を、洞窟ごと包んでいく。岩肌が、空気が、薄い琥珀に閉ざされていく。境目で音が死に、水の滴りも遠のいた。外と切り離された繭。ここでなら、始解の霊圧は一片も漏れない。

 

繭の中は静かだ。自分の心音まで聞こえる。

 

息を吸う。残らず吸い込んで、体の芯の熱を一点に集める。胸の奥でもう一度、真名を呼ぶ。

 

「卍解——」

 

呼んだ途端、霊力が根こそぎ持っていかれる。

 

繭の膜が、薄くなった。

 

外気が近い。漏れる。半年のあいだ、何度も落ちかけた崖だ。

 

(——抑えろ。抑えろ、僕)

 

流す先を二つに割る。半分は光へ。半分は膜へ。指先が震える。震えたまま、流れだけは崩さなかった。

 

膜が、戻る。

 

残った息で、名を言い切った。

 

久遠封界・琥珀姫王殿(くおんふうかい・こはくひめおうでん)

 

世界が琥珀になった。

 

繭の内側に、もう一つの世界が立ち上がっていく。琥珀の柱が一本、また一本と立つ。岩の天井があったはずの場所が高く開けて、淡い靄の奥に溶けて見えなくなる。灯篭が浮かび、ゆっくりと宙を巡りはじめる。音まで変わった。岩屋のこもった反響が、広い御殿の澄んだ静けさに替わる。床も壁も宙も、すべてが保存の領域。ここに在るものは傷つかず、壊れず、失われない。

 

柱は、崩れなかった。

 

呼ぶたびに歪んで崩れてきた光の宮が、今日初めて、崩れずに立っている。

 

(……立った)

 

声に出したつもりが、息しか出なかった。膝から力が抜けかけて、踏みとどまる。汗が顎を伝って落ち、床に触れたところで小さな琥珀の珠になって止まった。落ちた雫ひとつ、ここでは失われない。

 

床に映る自分の影まで、淡い金に染まっている。荘厳というより静謐(せいひつ)だった。光が音もなく満ちて、息をするのも憚られる。

 

入れ物は、できた。僕ひとりぶんだった繭が、宮ひとつの広さまで育った。匿いたい誰かがいたら、ここへ引き込んで隠せる。半年前の夜、海辺で琥珀姫が言ったとおりに。

 

そして、宮の中央に。

 

人影が立っていた。

 

金と琥珀の髪。長いベール。十歩ほど先——

 

瞬きを、一度した。

 

目を開けた時には、息のかかる距離に琥珀姫がいた。

 

(——え)

 

歩く姿は見ていない。足音もなかった。ただ、いた。

 

「ようやく」

 

それきり、琥珀姫は何も言わなかった。

 

()いだ目がこちらに据えられている。瞬きをしない。灯篭がひとつ頭の上を過ぎていくあいだ、彼女はただ僕を見ていた。僕が口を開きかけたのと同時に、見慣れた微笑が戻った。

 

「主様。こちら側で、お会いできましたわ」

 

内界では水の匂いがした。ここでは岩の匂いがする。何度も会ってきた人と、初めて同じ空気を吸っている。足が床を踏み、影が落ちている。間違いなく、ここにいる。

 

琥珀姫の手が伸びて、僕の頬にかかっていた髪をひと筋、耳の裏へ流した。そのまま指先がベールの位置を直し、襟を整え、最後に宝冠の傾きを正して離れていく。手際がよすぎて、口を挟む間もなかった。

 

(半年も待たせたから、かな。……感慨も、ひとしおだよね)

 

「……外に、出てこられるのですか」

 

女の声のまま僕は訊いた。問いまで、勝手に貴婦人の形に整えられて出てくる。

 

「ええ。わたくしは自分の存在を『保存』して、こちら側に留まります。卍解をお解きになっても在り続けます。主様が『お戻りなさい』と仰るまで」

 

言いながら、琥珀姫の輪郭がすっと薄くなった。彼女ごしに、奥の岩肌が透けて見える。

 

僕は手を伸ばした。指が、ベールを抜けた。布の感触はなく、淡い光の名残だけが指先に残る。

 

「いまは霊体化(れいたいか)しております。主様にだけ見えて、誰にも触れず、霊圧の揺らぎもほとんど立ちません」

 

輪郭が満ちて戻り、伸ばしたままだった僕の手に細い指が重なった。

 

あたたかい。

 

指は、僕が手を引くまで離れなかった。

 

実体化(じったいか)すれば、ほかの方にも見えますし、こうして触れられます。ただ、霊圧の揺らぎが立ちます。藍染さまのお近くでは、決していたしません。霊体の僅かな揺らぎも、あの御方なら拾われかねませんから」

 

頷いた。あの人の傍では、あるかなしかの揺らぎさえ命取りになる。言われるまでもないことだった。

 

「……離れてみて、くださいますか」

 

頼むと、琥珀姫は輪郭を薄くしたまま、洞窟の奥へ歩いていった。十歩。二十歩。岩の角を曲がって、見えなくなる。

 

見えなくなった途端、胸の奥がすうすうした。夜更けの水辺にひとりでいるような、妙な心許なさ。理由を考える間もなかった。

 

『この奥は行き止まりでございます。水が溜まっておりますわ』

 

声が、耳を通らずに来た。

 

(うわ)

 

頭の内側へ直に置かれるような響きだった。思わず仰け反った。そんな僕に、小さく笑う気配が重なる。声には出していないのに、笑ったのだと分かった。すうすうしていたものは、いつの間にか消えていた。彼女はいまこの瞬間も、僕の見ていない場所を見て、僕の頭の中まで聞いている。距離は、関係ないらしい。

 

戻ってきた琥珀姫が、また傍に控えた。

 

「これでわたくしは、内界だけでなく——こちら側でも、ずっと主様のお傍に」

 

(……それは、心強い。心強い、けど)

 

心の中の「うん」は、あの薄い膜を通らない。口から出るのは整った貴婦人の声だ。

 

「……ええ。とても心強いです」

 

「心強い」

 

琥珀姫がその言葉だけを小さく繰り返した。目を閉じて、何かを胸の奥へ仕舞うように一度だけ頷く。

 

(気に入った言葉だった、のかな)

 

気がつけば、頭の中で算段を巡らせていた。瀞霊廷の廊下で、角の向こうを先に見てもらえる。誰かと鉢合わせる前に道を変えられる。あの事件の夜も、混乱の中で誰がどこにいるか先に知れたら、逃げる順番を間違えずに済む。

 

(……便利だ)

 

ずっとお傍に、と言われて出てきた感想がそれだった。我ながらひどいと思う。けれど戦えない僕には、逃げる手が増えること以上の吉報はない。

 

確かめたいことは確かめた。あとは早く解いて、男の声に戻りたい。

 

刀を納める。

 

柱が崩れて光に還り、宮が闇へ溶けていく。灯篭がひとつずつ消えて、最後に岩の天井が戻ってきた。繭を解くと、水の滴る音が戻る。背が縮み、肩に重さが戻り、喉の奥に自分の声が帰ってくる。試しに短く息を吐く。低い。僕の声だ。それだけのことで肩の力が抜ける。この安堵だけは、何度繰り返しても薄れない。

 

暗がりに目が慣れるまで、しばらくかかった。

 

それから、振り向いた。

 

まだ、いた。

 

半透明の貴婦人が、洞窟の暗がりに静かに立っている。卍解は納めたのに、彼女だけがこちら側に残っている。言葉どおりに。

 

(そうか。……本当に、残るんだ)

 

「帰りましょう、主様。お傍で見守っております」

 

「……うん。ありがとう、琥珀姫」

 

男の声で言えた。二人きりなら、敬語は外していい相手だ。

 

洞窟を出ると外の光が眩しかった。陽はもう傾きかけている。半日かけて来た道を、また半日かけて帰る。

 

歩きながら、体の奥で霊力がじわりと減りつづけているのが分かる。琥珀姫をこちら側に灯しておく代償だ。火を一つ灯せば、油は減る。僕の霊力なら、灯し続けても倒れはしない。そう見当をつけた。

 

隣を歩く者がいる。いや、歩いているように見えるだけだ。足音はない。誰にも見えず、誰にも触れられない。けれど確かに、隣にいる。

 

街道に人影がないのを目で確かめてから、僕は小さく声に出した。念話で足りるのは分かっている。それでも、傍にいる人とは声で話したかった。

 

「……重くない? その、ずっとこっちに出てるの」

 

「いいえ。主様のお傍にいられるのですもの。重いはずがございません」

 

即答だった。問いの終わりに、返事の頭がわずかに重なるくらいの。

 

(そ、そう)

 

こういう時になんて返すのが正解なのか、僕はいまだに分からない。

 

「夜は? その、眠ったりとかは」

 

「わたくしに眠りは要りません。主様がお休みのあいだも、ずっとお傍におります」

 

ずっと、の一語だけ、歌うように柔らかかった。

 

(まあ……悪い夢は、見なくなりそうだ)

 

手札が一枚、増えた。それでいい。それだけの、はずだ。できることを一つずつ積んでいく。半年かけて、やっと一段。もう二年を切って迫るあの夜のために。

 

陽が山の端に沈みかけていた。土の道に二つの影が伸びる。いや一つだ。僕の影だけ。隣を歩く人に、影はない。

 

ふと、隣を見上げた。

 

琥珀姫が、こちらを見ていた。

 

「どうかなさいまして?」

 

(……いや。なんでもない)

 

僕の影だけが、長く伸びていた。

 

第十五話 了

 

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