朝の鐘が鳴った。
固い藁布団の上で目を開けると、同室の三人はまだ寝息を立てていた。決まった時間に鐘が鳴って、決まった時間に飯が出る。流魂街育ちの僕には、それだけで十分すぎる贅沢だった。
寝床の脇には、銘のない真新しい浅打が、白い鞘のまま横たわっている。いずれ僕の斬魄刀になるはずの一振りだ。
身を起こして、両手でそっと持ち上げた。
冷たい。昨日と同じ、ひんやりとした手触りだけがある。
鞘の口元に目を寄せても、琥珀色の光は差してこない。耳を澄ませても、中はしんと静かなままだった。
(静かだ。今日は、ちゃんと静かだ)
僕は詰めていた息を吐いた。
———昨日のあれは、初対面の挨拶みたいなものだ。たぶん。
昨日の入学式、霊圧を完全に抑えていたはずなのに、この刀は僕の手の中で琥珀色の光をひと粒だけ漏らした。刀身の中にいる「彼女」が、僕に応えただけ。挨拶はもう済んだ。次からは大丈夫。次からは、絶対に抑える。
そう自分に言い聞かせて、浅打を腰に差した。
帯に通した重みが心なしか嬉しそうに馴染んだ気がして、僕はそれ以上考えるのをやめた。
寮舎の食堂は、味噌の匂いと新入生たちの低い話し声で満ちはじめていた。
僕は隅の席で粥をすすった。誰とも話さず、誰とも目を合わせない。
向かいの席では、同室の三人がもう小声で笑い合っていた。出自の話、入りたい隊の話。そのうちの一人がこちらに気づいて、箸を持ったまま身を乗り出してきた。
「なあ、聞いたか。次の鐘から霊圧基礎学で、測定があるんだとさ」
「……測定、ですか」
「霊圧の量を測るらしいぞ。六年間の評価がそこで決まるって、先輩に聞いた」
「こわ……」
別の一人が首をすくめ、それから三人がなぜか揃ってこちらを見た。
「おまえは平気そうだよな」
「あ、いえ。……緊張、してます」
「だよなあ。誰だってそうだよなあ」
それで会話は終わった。
僕が、終わらせた。
粥に視線を戻して、あとは黙って手を動かす。深入りしない。それだけだ。
三人はすぐ自分たちの話へ戻っていった。誰の霊圧がいちばん強いか、賭けでもしているらしい。楽しそうで、少しうらやましくて、だからこそ近づかない。
朝食のあと、新入生の列にまぎれて教場棟へ渡った。
磨き上げられた板張りの
前を歩く誰かの背中も、隣を歩く誰かの横顔も、見ない。
混ざらず、外れず、ただ流れに乗る。
それでも、測定という言葉だけが頭の中で回り続けていた。気づけば帯の上から、浅打の鞘を手のひらで押さえていた。
(頼むから、今日だけは眠っていて)
鼓動はもう、少しずつ速くなり始めていた。
始まりの鐘が鳴った。
最初の授業は、霊圧基礎学。
教場に集められた新入生は、ざっと六十人ほど。誰もが緊張した面持ちで前を見ている。僕は窓側の列の、後ろから三番目に座った。前すぎず、後ろすぎず。窓が近ければ、いざという時に視線の逃げ場がある。
教壇に立った教官が、よく通る声で説明を始めた。
「諸君、これより各自の霊圧量を測定する。これは選別ではない。今後六年間の指導方針を決めるための、最初の見立てである」
新入生たちが小さくざわめいた。
霊圧量の、測定。
今日最初の、そして最大の試練だ。
(落ち着け。落ち着け、僕)
手順は、頭の中で何度もさらってある。
霊圧を完全に抑え込んだ上で、ほんの少しだけ、様子を見ながら漏らす。
低すぎれば目を付けられる。高すぎれば、なお目を付けられる。
狙うのは、中の下。
真ん中より少し下。上から見れば凡庸、下から見れば「自分より少しできるやつ」。上からも下からも興味を持たれない、その絶妙な位置。
教壇の前に、半透明の水晶めいた球体が据えられた。
「霊圧測定器である。手を添えれば、内側の光が霊圧の量に応じて強まる。それを目視で判定する。呼ばれた者から順に前へ出るように」
教官は帳面を開き、最初の名前を読み上げた。
「青柳和久」
(昨日と、同じ順番だ)
呼び出しは、浅打授与のときの名簿のままらしい。「あ」の姓が尽きれば、「い」の僕の番はすぐに来る。
呼ばれた少年が立ち上がり、震える手を水晶に添える。内側に淡い光が灯り、ゆっくり強まって、止まった。やや強めの、けれど飛び抜けてはいない明るさ。
「うむ。平均よりやや上。よろしい」
教官は帳面に短く記して、少年を席へ戻した。
「
次の光は控えめで、平均より下のあたりで落ち着いた。教官は「ふむ」とだけ頷いて、帳面に何か書きつけた。
続いて呼ばれた少年は、緊張しすぎたのか水晶に添えた手が震えていた。光は弱く灯ったまま、ほとんど強まらない。
「うむ。霊圧はまだ眠っているようだな。これから六年、修練に励め」
励ましでも貶しでもない、ただの事実の確認だった。
僕はその様子をじっと見ていた。見ているうちに、教官の反応が三通りに分かれていることに気づく。
平均より上には、ひとこと声が付く。下には「ふむ」だけ。明らかに弱ければ、短い助言が付く。
———では、「中の下」は。
何も付かない。一瞥されて、帳面に記されて、終わり。
それが、僕の狙いだった。
「あ」の姓は、もう残り少ない。
一人。
また、一人。
呼ばれるたびに誰かが立ち、光が灯って、教官の声か沈黙が落ちる。その繰り返しが、少しずつ僕の番へ近づいてくる。
(そろそろだ。たぶん、次———)
「次、遺玉院詩織」
呼ばれた。
(来た)
僕は短く息を吸い、表情を消して立ち上がった。
水晶までの数歩が、やけに長かった。
教官の前に立ち、右手を添える。
冷たい。汗ばんだ指先が、水晶の面をわずかに曇らせた。
まず、塞ぐ。
全身の経絡をひとつ残らず閉じる。指先も、足先も、毛穴の先まで。流魂街の井戸の縁で一年かけて体に染み込ませた感覚だ。意識するより早く、体が勝手に締まる。
その上で、指先の一点だけを開く。
針の穴ほどの隙間から、霊圧をひと粒だけ、外へ。
腰の浅打が、ほのかに温もった。
鞘の中で、何かが身じろぎした。
敵意なんて欠片もない。むしろ嬉しそうに、漏れていくひと粒のほうへ、すり寄ってくる。
(駄目だ。お願いだから、いまは、駄目だ)
水晶の光が、ゆるゆると強まっていく。
僕は意識を二つに割った。半分は、針の穴の細さを保つことに。残り半分で、内側の気配をそっと押さえる。
押さえるほど、彼女はかえって懐いてくる。指先の一点に、頬を寄せるみたいに。
昨日と同じだ。抑えるほど、近くなる。閉じるほど、温かくなる。
光が、狙った明るさへ近づいていく。
あと少し。あと、ひと呼吸。
針の穴の細さを保ちながら、はしゃぐ気配を宥める。両方を、同時に、一瞬も切らさずに。
こんな綱渡り、井戸の縁では一度もしたことがなかった。
光が、中の下くらいの明るさで止まった。
漏れたひと粒を、鞘の中の誰かが舐めるように味わった———そんな気がした。
教官の筆先が、帳面の上で一瞬だけ止まった。
見ていたのは、たぶん僕だけだ。
「……ふむ。平均よりやや下、といったところか。まあ、気にすることはない」
僕は軽く頭を下げて、何食わぬ顔で席に戻った。
(成功した……!)
内心、ガッツポーズしたい気分だった。
六年間の戦略の、初手の初手。これに失敗していたら、もうおしまいだった。
席について、深く息を吐く。手のひらは汗でじっとり濡れていた。手順は寸分も狂わなかったはずなのに、これは計算の汗じゃない。綱渡りの汗だ。
帯の上から、そっと鞘を押さえる。中の気配はもう静かに眠っている。ただ、鞘越しの温もりだけが、なかなか冷めなかった。
測定は粛々と進んでいく。
途中、ひとりの少女の光が大きく膨らんで、教官の眉が動いた。
「ほう、これは。素質があるな、よく励めよ」
少女は頬を上気させて席へ戻る。教官の筆が、ほかの誰のときより長く帳面を走った。あれが将来有望の欄、というやつかもしれない。
(あっち側じゃなくて、本当によかった)
そう思って、肩の力がやっと抜けかけた。
そこで、引っかかった。
(……あれ?)
まあ、気にすることはない。
教官は僕に、そう言った。
赤池のときは「ふむ」だけだった。中の下に、言葉は付かないはずだった。なのに僕にだけ、ひとこと余計に付いた。
気にすることはない。その言葉が付くのは、気にする何かがあったときじゃないのか。
「———遺玉院」
不意に、教官が僕を呼んだ。
僕は弾かれたように顔を上げた。
「は、はいッ」
答えた声が、自分でも分かるくらいうわずっていた。
「貴様、流魂街三十三地区の出身であったな」
「は、はい」
「ふむ……」
教官はじっと僕を見た。帳面と僕とを、一度ずつ見比べた。
近くの席の何人かが、ちらりとこちらを振り返る。
(見ないでくれ。誰も、僕を見ないでくれ)
「いや、何でもない」
それだけ言って、視線は次の生徒へ移っていった。
———何でもない、わけがない。
何を見られた?
量は合っていたはずだ。光は狙いどおりの中の下で止まった。
なら、出し方か。あの、ひと粒の流れ方の、どこかが……。
そこから先は、言葉にならなかった。
分からない。
分からないままなのが、いちばんまずい。
喉の奥が、からからに乾いていた。
意識を逃がすように、窓の外へ視線を投げる。中庭の白砂が、朝の光を撥ね返してまぶしい。
ふと気づくと、視界の端で、教場の後ろの扉が開いていた。
指一本ぶんの、細い隙間。
その奥の暗がりに、誰かいる。
瞬きひとつの間に、扉は閉じた。
音は、なかった。
空気も、揺れなかった。あれだけの板戸が動いたのに、廊下からの風のひと筋も入ってこなかった。
教場のざわめきが、すうっと遠のいた。隣の列で誰かが囁き合っているのに、水の底で聞くみたいに遠い。
霊圧はない。気配もない。扉の向こうには、もう何ひとつ残っていない。
それなのに、項のあたりがすっと冷えて、その冷たさがゆっくり背筋を降りていく。
この感じを、僕は知っていた。
昨日の入学式。
教官席のいちばん奥に座っていた、あの人の目だ。
(……まだ、見られている)
僕は机の下で、こっそり拳を握りしめた。
測定が終わって最後の生徒が席に戻るころには、窓から差し込む光の角度がすっかり変わっていた。
「以上で霊圧量の測定を終わる。次の鐘までに片付けを済ませ、各自次の授業へ向かうように」
号令で、新入生たちがざわざわと立ち上がる。
僕も立ち上がって、目立たない足取りで教場を出た。
廊下に出る瞬間、もう一度だけ後ろの扉に目をやった。
扉はぴたりと閉じている。廊下には誰もいない。静かな光が、板張りに淡い影を落としているだけ。
それでも、背筋のどこかに、まだあの視線が貼りついていた。
名前も、顔も、分からない。
教官なのか、教官じゃない誰かなのか、それすら分からない。
ただ、確かなことがひとつだけある。
僕の「中の下」を疑う目が、少なくとも一人ぶん、この学院のどこかにある。
僕は唇の内側を強く噛んだ。
歩を緩めず、何事もなかったように、次の教場へ向かう。
廊下の途中で、同室の三人が前を歩いているのが見えた。朝の食堂の一人が振り向いて、軽く目で挨拶してくる。僕も目礼だけを返した。
それきり、誰も話しかけてこない。ほっとしていいはずなのに、胸はずっと重いままだった。
———大丈夫。まだ、何も掴まれてはいない。
ただ「気になる新入生」止まり。それなら、放っておいてもらえる。
そう、自分に念じた。
次の教場の前で、僕は霊圧をもう一度念入りに伏せ直した。
指先まで、足先まで、経絡のひとつひとつまで。
それから帯の上の鞘にも、手のひらをひと呼吸だけ重ねた。今度は、何も応えてこない。それで、いい。
息を整えてから、扉を開ける。
中にはもう、何人かの同期生が座っていた。僕は窓側寄りの中ほどの席を選んだ。
昨日の入学式から、今日の霊圧測定まで、たった一晩。
それなのに、もう何日も経った気がした。
授業の初日、その午前だけで、心臓はもう何度も止まりかけている。
この先、あと六年。
考えかけて、やめた。静かに頭を振る。
目立たないように。
誰の目にも留まらないように。
生き延びるように。
それだけを、繰り返す。
次の授業の鐘が、遠くで鳴った。
平穏は、まだ、遠い。