砂を撒いた板の上を、今日も往復する。
夜一さんは来ない。来ないことのほうが多い。気の向いた時だけ現れて、足を一度見て、鼻を鳴らして消える。残りの日は撒かれた砂だけが課題だった。砂を蹴って、体を運んで、板の端で止まる。足跡の乱れを読んで、直して、また走る。
僕がここでするのはそれだけだ。
歩法だけ。卍解も始解も擬装も使わない。絞りは中の下のまま畳んでおく。腹の底に貯めた力には手をつけない。出すのは足だけだ。逃げるための足。誰に見られても恥ずかしくない、数少ない力。
壁際の気配にはもう慣れた。
柱の影。梁の上。射し込む光の死角。場所はいつも違うけれど、必ずどこかに在る。隠密機動の俊英の気配。砕蜂さん。気配は巧みに沈めてあるのに、絞りを通した僕の感覚は冷たい視線だけを拾ってしまう。
(監査。監査の続きだ。気づかないふり、気づかないふり)
下手に意識すれば挙動が乱れる。乱れれば疑われる。だから普段通りに砂を蹴る。今日もそのはずだった。
何度目かの往復で、踏み込みが滑った。
爪先の向きがずれて、重心が遅れた。砂が乱れて足が泳ぐ。とっさに体を捻ったけれど、崩れた形は戻らなかった。僕は無様に半歩よろけた。
「止まれ」
声が落ちてきた。
振り向いた時にはもう、砕蜂さんが砂の上に立っていた。
(足音、しなかった)
いつ降りたのか分からない。砂の乱れもない。ただそこに立っている。いつもの影から、修練場のまん中へ。これまで一度も越えなかった線を越えて、僕の前へ。
「足の運びが我流すぎる」
低く硬い声だった。
「踏み込みのたびに爪先が外を向く。だから重心が逃げる。逃げた重心を腰で追うから一拍遅れる。その一拍が命取りだ。逃げるだけの足でも同じだ。一拍遅れれば追いつかれる」
僕は崩れた中腰のまま、息を呑んで何も言えなかった。頭のなかで返事の候補が三つ浮かんで、三つとも引っ込んだ。相手は隠密機動だ。余計なことは言わないに限る。
「立て」
僕は立った。
「もう一度やってみせろ。爪先を内へ。踏み込む足の親指の付け根で地を掴め。腰を置いていくな。腰から運べ」
言うなり、砕蜂さんは自分で板の上を渡ってみせた。
一息だった。砂がほとんど鳴らない。渡り終えた足元を見ると、足跡は浅く、乱れひとつなく並んでいる。歩いたというより、水面を撫でたような跡だった。これが手本。夜一さんの歩法を継ぐ人の足。
「見たな。やれ」
言われた通りに走った。
爪先を内へ。親指の付け根で砂を掴む。腰から運ぶ。一度では駄目だった。二度目で少し変わって、三度目で砂の乱れが減った。四度目の往復で、足がふっと軽くなった。
(軽い……!)
一拍の遅れが消えている。重心が逃げない。体が前へ滑るように出る。夜一さんの下で何ヶ月砂を踏んでも掴めなかった感覚が、今するりと手の内に入った。たった数語で。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
「ありがとうございます!僕、ずっと爪先のことが分からなくて。今ので、すごく楽になりました」
僕は深く頭を下げた。
返事がなかった。
頭を上げる。砕蜂さんは僕を見ていた。まばたきもせず、じっと。沈黙が、ひと呼吸ぶん長すぎた。
「勘違いするな」
声が一段冷えた。
「貴様のためではない。夜一様の歩法は隠密機動の至宝だ。それを我流の継ぎ接ぎで歪に扱われるのが見るに堪えなかった。それだけだ。礼はいらん」
「あ、はい。でも、本当に助かったんです」
「……聞いていなかったのか。礼はいらんと言った」
語尾が、すとんと平らに落ちた。怒鳴られるより静かで、その静けさのほうが返事に困る。視線は僕から動かない。
(怒らせた……?)
「す、すみません」
僕はまた頭を下げた。上げても、砕蜂さんはまだ僕を見ていた。それから小さく息を吐いた。整えた声の硬さが、その息ひとつぶんだけ緩んだ気がした。
不思議だ。ずっと睨んでくる。消すと脅してくる。馴れ合いを叱る。なのにこうして足の運びを直してくれる。厳しいけれど、律儀な人なんだろう。夜一さんの技を大事に思うあまり、雑に扱う新人を放っておけなかった。きっとそれだけの人だ。隠密機動の人は皆こうなのかもしれない。規律に厳しくて、技には誠実で、少し口が悪い。
砕蜂さんは身を翻した。
修練場の隅へ。一歩戻る。二歩戻る。踏み出した分をきっちり仕舞い直すみたいに。影の手前で、一度だけ足が止まった。
「貴様の足運びは覚えた。——どこで乱れても、すぐに分かる」
それだけ言って、気配ごと影に沈んだ。それでも視線だけは外れなかった。
(見ててくれるんだ。……面倒見のいい人なんだな、本当は)
何かお礼をしたほうがいいだろうか。差し入れとか。いや、それこそ「礼はいらん」と言われたばかりだ。でも教わりっぱなしというのも落ち着かない。そんなことを考えながら、僕は教わった通りにまた砂の上を走った。爪先を内へ。腰から運んで。足は確かに軽くなっていた。
陽が傾いた頃に修練場を出た。
門の外で待たせていた琥珀姫が、音もなく寄り添ってくる。霊体化した姿は僕にしか見えない。隠密機動の巣に霊体の波動を晒すわけにはいかないから、稽古の間はいつも門の外だ。
人気のない路地に入って、ようやく息がほどけた。
「主様。歩き方が、朝と違っておいでですわ」
「分かる?」
誰もいないから素の声が出た。僕は歩きながら今日のことを話した。影から降りてきた砕蜂さんのこと。爪先と、親指の付け根と、腰から運ぶこと。何ヶ月も掴めなかったものが、数語でほどけたこと。
「まあ。あの蜂のお嬢さんが」
「うん。びっくりした。ずっと見てるだけだったのに」
話しているあいだも足が勝手に試したがる。爪先を内へ。腰から運ぶ。石畳の上で半歩だけ滑らせて、うまくいって、また嬉しくなる。
「……ようございましたわね」
「それでね、腰を置いていくなって言われて。やってみたら本当に一拍消えたんだ。あの人、怖いけど教え方はすごく的確でさ。今度お礼をしたほうがいいのかな。差し入れとか」
「…………ええ」
返事が一語ずつ短くなっていた。
(あれ。疲れたのかな。今日は長く待たせたから)
僕が足の運びを試しながら歩くあいだ、琥珀姫はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと。
「あのお方は」
そこで言葉が止まった。
「監視のためと仰せでしたわね。それなのに、影からお出ましになって。手ずから、歩法を。……お務めにしては」
また止まった。
「……いいえ。なんでもございませんわ」
言いかけたものを、琥珀姫は静かに飲み込んだ。
それきり返事はなかった。ただ歩調だけが、僕の隣で寸分も狂わずに揃っていた。
隠密機動の
内偵の報告は日録で上げる。決まりだ。灯芯を短く整えて、筆を執る。
「対象、二番隊修練場にて歩法の鍛錬。」
一行で済む。済むはずだった。筆が止まった。
事実は他にもある。私は影から出て、あの男の足を直した。監視対象への接触。書かないわけにはいかない。書けばいい。事実を、そのまま。
「監視中、対象の足運びに我流の乱れを認め、技術的な助言を与えた。理由、夜一様の歩法の保全のため。」
書いた。読み返した。墨を継いで、書き直した。
「監視中、対象の歩法に乱れを認めた。夜一様の技法が歪められることは看過できず、矯正を加えた。対象の会得は速く——」
筆が滑っていた。会得は速く。筋が良く。三度目にはもう砂の乱れが消えて、四度目には一拍の遅れが。あの男は顔を上げて、何の気負いもなく頭を下げて。
報告に要らない。
私は行を墨で塗り潰した。塗り潰して、書き直した。
「監視中、対象に技術的な助言を与えた。以上。」
以上。それでいい。それで終わる。なのに気づけば、塗り潰した行をまた見ている。墨の下にまだ文字がある。どこに何と書いたか、なぞらずとも読める。
なぜ私は影から出た。
問いが形になるより先に、私は被せた。
——破っていない。鉄則は破っていない。これは内偵だ。務めだ。
筆を置こうとして、手が別のことをしていた。紙の隅に小さく線を引いている。修練場の見取り。柱の影。梁。射し込む光の死角。明日はどこに立つか。対象の宿舎は五番隊舎の西で、窓は——
筆を叩きつけるように置いた。
紙の隅を破り取って、灯芯の火に寄せた。紙は音もなく縮んで灰になった。報告書には塗り潰しの行が一本だけ残った。これでいい。忘れればいい。それだけのことだ。
床の上で、爪先が内を向いていた。あの男に教えた形のままに。気づいて、直した。
灯りを消した。
闇のなかで指が動いた。文机の上を探って、乾いた墨の膨らみに触れる。塗り潰した行を、指の腹が端からなぞっていた。
数日が過ぎた。
その朝の五番隊舎は妙にざわついていた。
洗い場の前で人が固まっている。廊下の角ごとに声が低くなる。誰も仕事の手を動かしていない。通りかかった僕の耳が、勝手に話の先を拾った。
「——巡回の組から一人」
「死覇装だけが残っていたと。本人はどこにも」
「流魂街の外れの話じゃなかったのか」
「だから言ってるだろう。今度は瀞霊廷の中だ。護廷の隊士だぞ。十番隊の」
(塀の内側まで、来た)
足を止めないよう、努めて同じ歩幅で歩いた。すれ違う隊士の顔がどれも強張っている。誰かが「十番隊の誰だ」と訊いて、誰かが名前を答えた。僕の知らない名前だった。次は、知っている名前かもしれない。
これまでは塀の外の話だった。気のせいだといい。誰もがそう言い合っているうちに、消失は塀を越えた。死覇装だけを残して。血の痕もなく。虚化だ。初めて噂を聞いた日から、分かっていたことだ。僕の頭のなかの時計は事件まで一年半ほどを指していて、針は記憶通りに進んでいる。
僕は廊下の途中で足を止めた。
顔を上げる。
天井板の向こう、すぐ上の階に副隊長執務室がある。
頭上で、椅子を引く音がした。床板が短く鳴って、止む。穏やかな執務の音だ。書類をめくり、報告を受け、部下を
——元凶だ。
初めて、僕はその言葉を自分のなかではっきり組み立てた。ずっと避けてきた言葉だった。怖くて、輪郭を与えずにいた。けれど消失が塀の内へ及んだ今は、もう誤魔化しがきかない。流魂街の消失も。これから消えていく人たちも。全部、あの穏やかな笑みの底から流れ出している。
すぐ上の階に元凶がいて、僕はそれを知っている。
止められない。筋書きを外れた先は僕にも読めないし、「なぜ知っている」と問われた瞬間に、僕は観察対象から排除対象へ変わる。だから何も知らない回道係の顔で、階下に立っているしかない。
気づけば拳を握っていた。指先が冷たい。息を吸う。四つ数えて、吐く。
(落ち着け。歩け。いつも通りの、回道係の顔で)
「お顔色が優れませんわ」
琥珀姫の声が耳の奥に静かに届いた。気遣う声だった。
「主様。お心を平らに」
「……うん」
僕は天井から目を逸らして、握っていた拳をほどいた。ひらいた掌には何も残っていない。逃げる足と、治す手。この先を渡っていく道具は、それだけだ。
僕は歩き出した。廊下の冷たさが、足の裏から這い上がってきた。
頭上からは、もう物音ひとつ降りてこなかった。
平穏は、まだ、遠い。