『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第22話

第二十二話 影、()

 

 

砂を撒いた板の上を、今日も往復する。

 

夜一さんは来ない。来ないことのほうが多い。気の向いた時だけ現れて、足を一度見て、鼻を鳴らして消える。残りの日は撒かれた砂だけが課題だった。砂を蹴って、体を運んで、板の端で止まる。足跡の乱れを読んで、直して、また走る。

 

僕がここでするのはそれだけだ。

 

歩法だけ。卍解も始解も擬装も使わない。絞りは中の下のまま畳んでおく。腹の底に貯めた力には手をつけない。出すのは足だけだ。逃げるための足。誰に見られても恥ずかしくない、数少ない力。

 

壁際の気配にはもう慣れた。

 

柱の影。梁の上。射し込む光の死角。場所はいつも違うけれど、必ずどこかに在る。隠密機動の俊英の気配。砕蜂さん。気配は巧みに沈めてあるのに、絞りを通した僕の感覚は冷たい視線だけを拾ってしまう。

 

(監査。監査の続きだ。気づかないふり、気づかないふり)

 

下手に意識すれば挙動が乱れる。乱れれば疑われる。だから普段通りに砂を蹴る。今日もそのはずだった。

 

何度目かの往復で、踏み込みが滑った。

 

爪先の向きがずれて、重心が遅れた。砂が乱れて足が泳ぐ。とっさに体を捻ったけれど、崩れた形は戻らなかった。僕は無様に半歩よろけた。

 

「止まれ」

 

声が落ちてきた。

 

振り向いた時にはもう、砕蜂さんが砂の上に立っていた。

 

(足音、しなかった)

 

いつ降りたのか分からない。砂の乱れもない。ただそこに立っている。いつもの影から、修練場のまん中へ。これまで一度も越えなかった線を越えて、僕の前へ。

 

「足の運びが我流すぎる」

 

低く硬い声だった。

 

「踏み込みのたびに爪先が外を向く。だから重心が逃げる。逃げた重心を腰で追うから一拍遅れる。その一拍が命取りだ。逃げるだけの足でも同じだ。一拍遅れれば追いつかれる」

 

僕は崩れた中腰のまま、息を呑んで何も言えなかった。頭のなかで返事の候補が三つ浮かんで、三つとも引っ込んだ。相手は隠密機動だ。余計なことは言わないに限る。

 

「立て」

 

僕は立った。

 

「もう一度やってみせろ。爪先を内へ。踏み込む足の親指の付け根で地を掴め。腰を置いていくな。腰から運べ」

 

言うなり、砕蜂さんは自分で板の上を渡ってみせた。

 

一息だった。砂がほとんど鳴らない。渡り終えた足元を見ると、足跡は浅く、乱れひとつなく並んでいる。歩いたというより、水面を撫でたような跡だった。これが手本。夜一さんの歩法を継ぐ人の足。

 

「見たな。やれ」

 

言われた通りに走った。

 

爪先を内へ。親指の付け根で砂を掴む。腰から運ぶ。一度では駄目だった。二度目で少し変わって、三度目で砂の乱れが減った。四度目の往復で、足がふっと軽くなった。

 

(軽い……!)

 

一拍の遅れが消えている。重心が逃げない。体が前へ滑るように出る。夜一さんの下で何ヶ月砂を踏んでも掴めなかった感覚が、今するりと手の内に入った。たった数語で。

 

「……すごい」

 

思わず声が漏れた。

 

「ありがとうございます!僕、ずっと爪先のことが分からなくて。今ので、すごく楽になりました」

 

僕は深く頭を下げた。

 

返事がなかった。

 

頭を上げる。砕蜂さんは僕を見ていた。まばたきもせず、じっと。沈黙が、ひと呼吸ぶん長すぎた。

 

「勘違いするな」

 

声が一段冷えた。

 

「貴様のためではない。夜一様の歩法は隠密機動の至宝だ。それを我流の継ぎ接ぎで歪に扱われるのが見るに堪えなかった。それだけだ。礼はいらん」

 

「あ、はい。でも、本当に助かったんです」

 

「……聞いていなかったのか。礼はいらんと言った」

 

語尾が、すとんと平らに落ちた。怒鳴られるより静かで、その静けさのほうが返事に困る。視線は僕から動かない。

 

(怒らせた……?)

 

「す、すみません」

 

僕はまた頭を下げた。上げても、砕蜂さんはまだ僕を見ていた。それから小さく息を吐いた。整えた声の硬さが、その息ひとつぶんだけ緩んだ気がした。

 

不思議だ。ずっと睨んでくる。消すと脅してくる。馴れ合いを叱る。なのにこうして足の運びを直してくれる。厳しいけれど、律儀な人なんだろう。夜一さんの技を大事に思うあまり、雑に扱う新人を放っておけなかった。きっとそれだけの人だ。隠密機動の人は皆こうなのかもしれない。規律に厳しくて、技には誠実で、少し口が悪い。

 

砕蜂さんは身を翻した。

 

修練場の隅へ。一歩戻る。二歩戻る。踏み出した分をきっちり仕舞い直すみたいに。影の手前で、一度だけ足が止まった。

 

「貴様の足運びは覚えた。——どこで乱れても、すぐに分かる」

 

それだけ言って、気配ごと影に沈んだ。それでも視線だけは外れなかった。

 

(見ててくれるんだ。……面倒見のいい人なんだな、本当は)

 

何かお礼をしたほうがいいだろうか。差し入れとか。いや、それこそ「礼はいらん」と言われたばかりだ。でも教わりっぱなしというのも落ち着かない。そんなことを考えながら、僕は教わった通りにまた砂の上を走った。爪先を内へ。腰から運んで。足は確かに軽くなっていた。

 

◆ ◆ ◆

 

陽が傾いた頃に修練場を出た。

 

門の外で待たせていた琥珀姫が、音もなく寄り添ってくる。霊体化した姿は僕にしか見えない。隠密機動の巣に霊体の波動を晒すわけにはいかないから、稽古の間はいつも門の外だ。

 

人気のない路地に入って、ようやく息がほどけた。

 

「主様。歩き方が、朝と違っておいでですわ」

 

「分かる?」

 

誰もいないから素の声が出た。僕は歩きながら今日のことを話した。影から降りてきた砕蜂さんのこと。爪先と、親指の付け根と、腰から運ぶこと。何ヶ月も掴めなかったものが、数語でほどけたこと。

 

「まあ。あの蜂のお嬢さんが」

 

「うん。びっくりした。ずっと見てるだけだったのに」

 

話しているあいだも足が勝手に試したがる。爪先を内へ。腰から運ぶ。石畳の上で半歩だけ滑らせて、うまくいって、また嬉しくなる。

 

「……ようございましたわね」

 

「それでね、腰を置いていくなって言われて。やってみたら本当に一拍消えたんだ。あの人、怖いけど教え方はすごく的確でさ。今度お礼をしたほうがいいのかな。差し入れとか」

 

「…………ええ」

 

返事が一語ずつ短くなっていた。

 

(あれ。疲れたのかな。今日は長く待たせたから)

 

僕が足の運びを試しながら歩くあいだ、琥珀姫はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと。

 

「あのお方は」

 

そこで言葉が止まった。

 

「監視のためと仰せでしたわね。それなのに、影からお出ましになって。手ずから、歩法を。……お務めにしては」

 

また止まった。

 

「……いいえ。なんでもございませんわ」

 

言いかけたものを、琥珀姫は静かに飲み込んだ。

 

それきり返事はなかった。ただ歩調だけが、僕の隣で寸分も狂わずに揃っていた。

 

◆ ◆ ◆

 

隠密機動の宿坊(しゅくぼう)に戻って、私は文机に向かった。

 

内偵の報告は日録で上げる。決まりだ。灯芯を短く整えて、筆を執る。

 

「対象、二番隊修練場にて歩法の鍛錬。」

 

一行で済む。済むはずだった。筆が止まった。

 

事実は他にもある。私は影から出て、あの男の足を直した。監視対象への接触。書かないわけにはいかない。書けばいい。事実を、そのまま。

 

「監視中、対象の足運びに我流の乱れを認め、技術的な助言を与えた。理由、夜一様の歩法の保全のため。」

 

書いた。読み返した。墨を継いで、書き直した。

 

「監視中、対象の歩法に乱れを認めた。夜一様の技法が歪められることは看過できず、矯正を加えた。対象の会得は速く——」

 

筆が滑っていた。会得は速く。筋が良く。三度目にはもう砂の乱れが消えて、四度目には一拍の遅れが。あの男は顔を上げて、何の気負いもなく頭を下げて。

 

報告に要らない。

 

私は行を墨で塗り潰した。塗り潰して、書き直した。

 

「監視中、対象に技術的な助言を与えた。以上。」

 

以上。それでいい。それで終わる。なのに気づけば、塗り潰した行をまた見ている。墨の下にまだ文字がある。どこに何と書いたか、なぞらずとも読める。

 

なぜ私は影から出た。

 

問いが形になるより先に、私は被せた。

 

——破っていない。鉄則は破っていない。これは内偵だ。務めだ。

 

刑軍(けいぐん)に入った日から、教えは骨に刻んである。影に在れ。影から出るとは、私が私でなくなるということだ。だから私は出ていない。あれは技の矯正だ。夜一様の至宝を守った。それだけだ。

 

筆を置こうとして、手が別のことをしていた。紙の隅に小さく線を引いている。修練場の見取り。柱の影。梁。射し込む光の死角。明日はどこに立つか。対象の宿舎は五番隊舎の西で、窓は——

 

筆を叩きつけるように置いた。

 

紙の隅を破り取って、灯芯の火に寄せた。紙は音もなく縮んで灰になった。報告書には塗り潰しの行が一本だけ残った。これでいい。忘れればいい。それだけのことだ。

 

床の上で、爪先が内を向いていた。あの男に教えた形のままに。気づいて、直した。

 

灯りを消した。

 

闇のなかで指が動いた。文机の上を探って、乾いた墨の膨らみに触れる。塗り潰した行を、指の腹が端からなぞっていた。

 

◆ ◆ ◆

 

数日が過ぎた。

 

その朝の五番隊舎は妙にざわついていた。

 

洗い場の前で人が固まっている。廊下の角ごとに声が低くなる。誰も仕事の手を動かしていない。通りかかった僕の耳が、勝手に話の先を拾った。

 

「——巡回の組から一人」

 

「死覇装だけが残っていたと。本人はどこにも」

 

「流魂街の外れの話じゃなかったのか」

 

「だから言ってるだろう。今度は瀞霊廷の中だ。護廷の隊士だぞ。十番隊の」

 

(塀の内側まで、来た)

 

足を止めないよう、努めて同じ歩幅で歩いた。すれ違う隊士の顔がどれも強張っている。誰かが「十番隊の誰だ」と訊いて、誰かが名前を答えた。僕の知らない名前だった。次は、知っている名前かもしれない。

 

これまでは塀の外の話だった。気のせいだといい。誰もがそう言い合っているうちに、消失は塀を越えた。死覇装だけを残して。血の痕もなく。虚化だ。初めて噂を聞いた日から、分かっていたことだ。僕の頭のなかの時計は事件まで一年半ほどを指していて、針は記憶通りに進んでいる。

 

僕は廊下の途中で足を止めた。

 

顔を上げる。

 

天井板の向こう、すぐ上の階に副隊長執務室がある。

 

頭上で、椅子を引く音がした。床板が短く鳴って、止む。穏やかな執務の音だ。書類をめくり、報告を受け、部下を(ねぎら)う人の音。藍染副隊長が、いる。今この瞬間も、あの椅子に。

 

——元凶だ。

 

初めて、僕はその言葉を自分のなかではっきり組み立てた。ずっと避けてきた言葉だった。怖くて、輪郭を与えずにいた。けれど消失が塀の内へ及んだ今は、もう誤魔化しがきかない。流魂街の消失も。これから消えていく人たちも。全部、あの穏やかな笑みの底から流れ出している。

 

すぐ上の階に元凶がいて、僕はそれを知っている。

 

止められない。筋書きを外れた先は僕にも読めないし、「なぜ知っている」と問われた瞬間に、僕は観察対象から排除対象へ変わる。だから何も知らない回道係の顔で、階下に立っているしかない。

 

気づけば拳を握っていた。指先が冷たい。息を吸う。四つ数えて、吐く。

 

(落ち着け。歩け。いつも通りの、回道係の顔で)

 

「お顔色が優れませんわ」

 

琥珀姫の声が耳の奥に静かに届いた。気遣う声だった。

 

「主様。お心を平らに」

 

「……うん」

 

僕は天井から目を逸らして、握っていた拳をほどいた。ひらいた掌には何も残っていない。逃げる足と、治す手。この先を渡っていく道具は、それだけだ。

 

僕は歩き出した。廊下の冷たさが、足の裏から這い上がってきた。

 

頭上からは、もう物音ひとつ降りてこなかった。

 

平穏は、まだ、遠い。

 

第二十二話 了

 

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