『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第23話

第二十三話 (ころも)(のこ)

 

 

辞令は朝の早いうちに回ってきた。

 

捜索と救護の応援。五番隊からも数名が出され、その中に僕の名があった。届けに来た隊士は事務的に紙片を差し出して、すぐ次の届け先へ向かった。両手で受け取って頭を下げる。手の中の紙は、思ったより重かった。

 

消失が、瀞霊廷の中まで来た。

 

数日前に廊下で聞いた噂は、もう噂ではなくなっていた。十番隊の隊士が一人、死覇装だけを残して消えた。二日と置かずに別の隊からも一人。流魂街の境のあたりでまた一人。さすがに中央も動かないわけにはいかなくなって、回道の使える者は残らず掻き集めるという話だった。だから僕にも声がかかった。

 

ただの回道係。何も知らない平凡な救護要員。

 

僕はその顔を被って隊舎を出た。紙片を畳んで懐へ仕舞う。表情も一緒に仕舞った。

 

◆ ◆ ◆

 

集合場所は流魂街の外れに近い詰所だった。

 

各隊から寄せ集められた死神たちが行き交っている。担架。霊薬の包み。地図を広げた長机。誰も大声を出さない。それでいて誰の顔も強張っていた。隣り合った者同士が互いの顔をちらりと確かめては、目を伏せる。理由が見えない。それが一番、人を怯えさせる。僕も例外じゃない。むしろ理由が見えているぶん、質の悪い怯え方をしていた。

 

隅で点呼を待ちながら息を整えた。絞りは中の下のまま。経絡は眠っている間も畳まれている。これだけの人数だ、観察眼の鋭い者が混じっていないとも限らない。息をするのと同じ自然さで、僕は凡庸な救護要員に収まっていた。

 

『お心を平らに』

 

耳の奥で声がした。

 

霊体化した琥珀姫の念話だ。姿は見えず、気配も薄い。誰にも気取られない貴婦人が、僕の傍にだけ控えている。

 

『ですが藍染さまのお近くでは、いったんお傍を離れますわ。あれほどの御方なら、霊体の波動を感じ取られかねませんもの。離れてお守りいたします』

 

(うん。お願い)

 

唇を動かさずに返す。心細さが伝わったのか、耳の奥の声が少しだけ柔らかくなった。

 

『ご心配には及びません。念話は波動を立てませんもの。どれほど離れましても、声はお傍に届きます』

 

(……うん)

 

返したそばから分かっていた。これから見るものを僕は知っている。それでも胸の強張りはほどけない。文字で読んだものと、これから目で見るものは違う。

 

点呼が始まり、僕は名を呼ばれて短く返事をした。

 

◆ ◆ ◆

 

捜索は班ごとに分かれて行われた。

 

僕の班は流魂街の境を東へ辿る組だった。先頭は別隊の席官。残りは寄せ集めの隊士と救護役が数名で、僕は最後尾に近い位置を歩いた。会話はほとんどない。あっても声を潜めている。

 

最初の現場は道の脇の窪地にあった。

 

席官が手を上げて班を止めた。先頭のほうで誰かが息を呑む音がして、列の足が順に止まった。僕は霊薬の包みを抱え直して、前へ目をやった。

 

そこにあったのは衣だった。

 

黒い死覇装が、地に伏せたように広がっている。袖は左右に開き、帯は締められたまま。中にいた人だけが透き通って抜け落ちたようだった。揉み合った跡がない。血の一滴もない。右の袖口に、色の合わない糸で繕った跡があった。ほつれを幾針も重ねて留めた、几帳面な繕いだった。今朝この袖に腕を通した誰かが、もうどこにもいない。

 

回道役として状態を見るのは僕の役目だ。誰に咎められることもなく、衣の傍へ寄れる。僕は屈み込んで、衣のすぐ上に掌をかざした。傷を読むための仕草。けれど読もうとしたのは、もっと別のものだった。

 

掌の下に、薄く霊圧の残滓(ざんし)が漂っていた。消えかけの匂いのようなものだ。ほとんど散っている。けれど散りきってはいない。僕はその僅かな残りに意識を沈めた。状態を読む力。傷を整えるために使うその力で、ここに遺ったものの理を読む。

 

読んだ端から、口の中が乾いていった。

 

これは斬られたのではない。潰されたのでも、焼かれたのでもない。魂魄が内側から作り変えられている。霊圧の質そのものがねじ曲がり、白い輪郭が別の黒い性質へ塗り替えられていく途中で、本人ごとどこかへ引き剥がされていた。残滓の縁には、うっすらと孔のような気配が貼りついている。喰うものの気配。虚の気配だ。

 

(——虚化だ)

 

声には出さない。出せるはずがない。前世で筋書きとして読んだものが、いま衣だけを遺して目の前に伏せている。文字で読んだときに、こんな手触りはなかった。主を失った衣はこんなに静かで、こんなに重たいのか。

 

「……何かわかるか」

 

席官の声が上から降ってきて、僕はようやく、自分がずいぶん長くそこに屈み込んでいたことに気づいた。

 

顔を上げる。班の隊士たちは、衣から半歩ずつ退いた場所に固まっていた。衣のこんなに近くにいるのは僕だけだった。席官の目は、衣ではなく僕を見ていた。

 

「いえ。傷の痕は読めません。出血も損傷もなくて、霊圧も、ほとんど……。何が起きたのか、僕にはちょっと」

 

語尾を濁して、掌の土を払った。

 

「ここまでで言える者はおらん。気にするな」

 

席官は短く言って、それから「布を」と命じた。

 

若い隊士が二人がかりで衣を持ち上げ、広げた布の上へ移した。帯の結び目が崩れないように、両手で下から支える持ち方だった。まだ中に人がいるような持ち方だと思った。誰も笑わなかった。あの几帳面な繕いの跡ごと、衣は布に包まれて、班の最後尾へ運ばれていった。

 

班はまた歩き出した。

 

◆ ◆ ◆

 

現場は一つではなかった。

 

東へ辿るうちに、同じものが現れた。道の脇に。木立の根方に。涸れた水路の底に。主のいない死覇装が伏せて、乱れも血もなく、霊圧の残滓だけが消えかけている。そのたびに僕は屈み込んで掌をかざした。役目だから。読めば、同じ答えが返ってくる。

 

(虚化。虚化。虚化)

 

三つ目までは数えていた。

 

四つ目の現場は水汲み場のそばだった。倒れた桶からこぼれた水が、まだ乾ききっていなかった。水を汲みに出たまま、その人は戻らなかった。乾いていく染みの隣で、衣だけが濡れもせずに伏せていた。

 

五つ目で、数えるのをやめた。

 

噂に出ていたのは氷山の一角だ。流魂街の名もない住人から始まったものが、もう瀞霊廷の隊士へ手を伸ばしている。頭のなかの時計は事件まで一年半ほどを指して、針は記憶通りに進んでいる。針の刻む音がこんなに重いことを、文字のなかでは知らなかった。読むだけなら、頁を閉じればそこで止まった。ここでは止まらない。

 

『……傷では、ないのですね』

 

琥珀姫の声が耳の奥に届いた。

 

(うん。傷じゃない。魂が、作り変えられてる)

 

『整えられないのですね。主様のお力でも』

 

(……うん)

 

それが一番こたえた。

 

僕の手は傷を整えられる。出血を止め、裂けた組織を本来の形へ読んで戻せる。逃げる足と治す手。その手でここまで来た。けれどここにあるのは傷ではない。戻すべき本来の状態が、もうここにはない。読むことはできる。何が起きたのかも分かる。それでも、消えた人には何一つ届かない。

 

かざした掌をゆっくり下ろして、衣の上で空っぽに開いた自分の手を見た。

 

(読めるだけだ。僕は、筋書きを読んだだけの観客だ)

 

立ち上がって、次の現場へ歩いた。それしかできなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

午後は詰所へ戻されて、運ばれてくる負傷者の手当てに回った。

 

虚化に呑まれて消えた者には、誰も何もできない。けれど崩れた塀の下敷きになりかけた者。現場へ急いで足を挫いた者。生きて傷を負った者なら、僕にもできることがある。

 

絞りを保ったまま、一筋だけ霊圧を流す。掌に緑がかった淡い光が灯る。傷を読み、本来の形へ整える。深い切り傷の出血が止まって、裂けた組織が縁を寄せて閉じていく。一分とかからない。手当てを受けた隊士に驚いた顔で礼を言われ、僕は曖昧に頷いて次へ移った。一人終えるごとに、少しだけ息がしやすくなった。

 

陽が西へ回るにつれ、運ばれてくる怪我人は減っていった。代わりに、布の包みが増えた。

 

掌に深い切り傷を負った隊士がいた。動転して、抜いた刃を素手で握ってしまったのだという。手当ての間じゅう、その人は自分の膝を睨んでいた。

 

「今朝まで、隣で飯を食ってた奴なんだ」

 

塞がったばかりの掌を握ったり開いたりしながら、誰にともなく呟いた。

 

「点呼で、返事がなかった。それだけだ。それだけで、もう」

 

僕は何も言えないまま頭を下げて、次の負傷者へ移った。

 

それでも、手が空くたびに、あの繕い跡のある袖口が浮かんだ。

 

『主様のお手は、確かに救っておられます。今日、幾人もの傷を整えられました。それは小さなことではございません』

 

声が届いたのは、僕がまだ何も言っていないうちだった。

 

(……うん)

 

朝からずっと、僕と一緒にあんなものを見てきた人だ。僕の考えることくらい、言葉になる前に分かるんだろう。

 

『届かないものに心を引かれすぎますと、届くものまで取りこぼします。できることと、できないこと。その境目を、見失われませんよう』

 

声はいつも通り柔らかかった。言い終わりの一拍だけが、平らだった。

 

その通りだと思った。届かないものを数えていても、何も変わらない。僕は次の負傷者へ掌をかざした。また次へ。日が傾くまで、それを繰り返した。

 

◆ ◆ ◆

 

日が沈みかける頃、霊薬の残りを納めに本陣(ほんじん)へ行かされた。

 

捜索を統べる仮の本陣は、街道の(つじ)に幕を張って据えられていた。幕の内にはもう灯が入っている。各班の報せがそこへ集まる。誰かが数を読み上げ、誰かが筆で書き留める。広げられた地図には、確認された現場の数だけ点が打たれていた。朝聞いた数より、ずっと増えていた。

 

藍染副隊長は、その中央にいた。

 

地図の前。各隊の報告を受け止めて、差配(さはい)を出す位置に。眼鏡の奥の目は穏やかに細められ、報告へ耳を傾けるたびに眉がわずかに沈む。心を痛めている——そう見える所作だけが、どこにも狂いなく揃っていた。

 

「夜の見回りは二人一組で。無理はしないように。生きて帰ることを第一に」

 

送り出す声まで温かかった。本陣の隊士たちがこの人を見る目には信頼がある。この人が指揮を執っているなら。そういう安堵が、机の周りに漂っていた。

 

地図に増えていく点。その一つ一つの奥に、いま差配を出しているこの人がいる。悼む顔をした元凶——。

 

僕は包みを置く手元だけを見て、その事実を喉の奥へ沈めた。机の端に霊薬の残りを置き、係の隊士に数を告げて、受け取りの印をもらう。それで用は済むはずだった。置いたら、すぐ下がる。それだけを考えていた。

 

「遺玉院くん」

 

穏やかな声が僕の名を呼んだ。

 

振り返らなくても分かる。何度も聞いた声だ。柔らかくて、優しくて、底の見えない声。

 

「君も来てくれたんだね。ありがとう。手は一つでも多い方がいい。……こんな日に、若い人を出さずに済めばよかったんだけれどね」

 

労りの声だった。少なくとも、そう聞こえた。

 

「いえ。僕にできることがあれば」

 

「うん。君の回道は確かだと聞いているよ」

 

それで終わると思った。頭を下げて、一歩退がりかけた。

 

「ずいぶん落ち着いて現場を見ていたそうだね。席官が感心していたよ。新人にしては、動じない子だと」

 

(——しまった)

 

包みの紐にかけた指が、そのままの形で止まった。

 

落ち着いて見えた。当たり前だ。読んでいたからだ。衣の傍に真っ先に屈み込んで、残滓に意識を沈めて、震えるのも忘れて読み耽っていた。班の誰よりも近くで、誰よりも長く。それを席官は見ていた。見て、この人に伝えた。いま目の前には、事件に気圧された怯えた新人が立っている。現場には、動じない子がいた。二人の僕が、この人の中に並べて置かれている。

 

「いえ、あの。怖かったです。ほんとうに」

 

声が出た。出てしまった。

 

「ただ、役目だけは果たさないとと思って。それで、いっぱいいっぱいで」

 

言いながら分かっていた。上塗りだ。怖かったと言葉で繕うほど、現場の「動じない子」との辻褄が離れていく。

 

藍染副隊長は、何も言わなかった。

 

一拍。もう一拍。

 

眼鏡の奥の目は僕に据えられたまま動かない。瞬きがない。笑みは最初と同じ角度のまま崩れない。幕の外で報せを読み上げる声が、急に遠くなった。

 

「役目、ね」

 

静かな声だった。僕の言葉が、別の重さを持って返ってきた。

 

幕の裾が夜風で膨らんで、灯がひとつ揺れた。それだけの間が、ひどく長かった。

 

「怖いと感じられるのは大切なことだよ。……いずれ君にも分かる時が来る。今日はご苦労さま。下がって、休むといい」

 

「……はい。失礼します」

 

僕は深く頭を下げて、幕の外へ出た。

 

夜気が首筋に触れて、背中が汗で湿っていたことに初めて気づいた。

 

絞りは保てた。表情も、たぶん保てた。それでも、あの一言はもう戻らない。落ち着いて現場を見ていた新人。その一行は、僕の言い繕いごと、あの人の中に書き留められた。あの人は、些細なことを忘れない。

 

◆ ◆ ◆

 

解散の列に並んだ。

 

その日に確認された消失は十を超えた。生きて手当てを受けた者より、布に包まれて運ばれた衣の数の方がずっと多かった。隊士たちが包みを荷車に並べ、筵を掛けて、瀞霊廷の方へ引いていった。筵の端から黒い袖が一本はみ出していて、誰かがそっと押し込んだ。車輪の音が遠ざかるまで、列の誰も口を開かなかった。

 

僕は一度だけ本陣を振り返った。幕の内の灯に、地図の上へ屈み込む影が映っている。明日の差配を整えている、誰の目にも誠実な指揮官の影だった。

 

前へ向き直って歩き出すと、誰にも見えない貴婦人が音もなく歩調を合わせてきた。

 

『……ようやく、お傍に戻れました。今日一日、わたくしが数えておりましたのは——主様おひとりだけでございます』

 

(うん。ただいま)

 

夜の風が詰所の旗を鳴らしていた。明日もまた、朝の早いうちに辞令が回ってくる。僕はいつもの角度で頭を下げ、いつもの曖昧な返事をして、またここへ来るのだろう。衣のすぐ上に掌をかざして、読めてしまう答えを一人で呑み込みながら。

 

地図の点は、明日も増える。

 

第二十三話 了

 

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