頼まれごとは昼前に回ってきた。
前線の詰所へ霊薬の包みを届ける。それだけの使いだ。この消失続きで人手も品も足りない。回道の使える者が運べば、道中でも手当てができる。だから僕に話が来た。
「いってきます」
誰にともなく言って隊舎を出た。
包みは重くない。それでも中身を思うと足取りは沈んだ。あの衣だけを遺して消えた人たちの手当てに使われる品だ。届く前に消える人もいるのかもしれない。そう思うと、紐が肩に食い込む気がした。
瀞霊廷を抜けて流魂街の境へ向かう。道は次第に人気が絶えて、木立が深くなった。香木の薫りが消えて、土と枯れ葉の匂いに変わる。
ひとりではなかった。
『主様』
耳の奥で声がした。霊体化した琥珀姫の念話だ。
『お一人でのお使い。どうかお気をつけて』
『うん。すぐ届けて戻るよ』
唇を動かさずに返した。境のこのあたりまで来れば、琥珀姫を傍に出していても気取られない。霊体の彼女を見通せるほどの目はここにはないし、藍染副隊長の目も届かない。誰にも見えない貴婦人が衣擦れひとつ立てずに僕へ添っている。ベールの裾がときおり下生えを撫でた。それでも音はしなかった。
それと、もう一つ。ついてくる気配があった。
僕は気づかないふりをした。梢の影。風の死角。距離を保ちながら場所を変える慣れた気配。砕蜂さんだ。夜一さんの下で僕を監視している隠密機動の人。消失が続くさなかに、使いの僕までまだ追っているらしい。
『あのお方ですわね』
琥珀姫の声が低くなった。
『お務めとはいえ、このような時まで主様の後を』
『監視が厳しくなってるんだと思う。事件で皆ぴりぴりしてるから』
僕はそう思うことにした。気づかないふりをして歩くのがいちばんいい。意識すれば挙動が乱れる。乱れれば疑われる。それだけを自分に言い聞かせて足を進めた。
その時だった。
空気がねじれた。
前方の木立の奥で何かが膨れ上がる。重く澱んだ霊圧。腐った沼の底から湧くような気配。うなじの毛が逆立った。これは死神のものじゃない。
虚だ。
枝が爆ぜ飛んだ。木立を薙ぎ倒して巨きな影が躍り出る。家ほどの胴。歪んだ白い仮面。その眼窩には餓えしかなかった。しかも普通の虚じゃない。体の縁が黒く溶けて滲んでいる。木立を突き破ったときに体表へ走った裂け目が、見る間に肉で埋まって消えた。
再生する虚だ。
(逃げなきゃ。早く。足、動け)
足が竦んでいた。退き足だけは鍛えてある。その足が半端に泳いで、背を向けかけた。
「退いていろ!」
声が割って入った。
砕蜂さんだった。影から飛び出していた。もう隠れてもいない。僕と虚のあいだに音もなく降り立っている。袖のない漆黒の装束。低く構えた体。右手の中指に、いつ解いたのか金の指鞘が嵌まっていた。
「邪魔だ。下がっていろ。貴様の出る幕ではない」
冷たく硬い声だった。僕に向けた言葉のはずなのに、視線は虚から逸れない。退かせる声。守る側の声だった。
砕蜂さんが消えた。
そう見えた。次の瞬間には虚の懐に入っていた。
「同じ場所をもう一度」
低い呟きが聞こえた。
(知ってる。
砕蜂さんが再び踏み込もうとした。決着をつけるために。
僕にも見えていた。だから分かった。砕蜂さんの死角も。
虚の胴の影。溶けた縁から二本目の腕が音もなく生えていた。砕蜂さんは正面の腕に集中していて気づいていない。その腕が鞭のように撓んで、彼女の横腹へ走った。
僕は地を蹴っていた。
鍛えた退き足だけは速い。その足が今は、背を向ける向きではなく砕蜂さんのほうへ向いていた。包みを放り出して、小柄な背中に肩からぶつかる。突き飛ばす。砕蜂さんの体が前へ泳いだ。腕の芯はそれで外れた。それでも先だけが彼女の脇腹を掠めて、装束を裂いて、空を薙いだ。
そして僕に当たった。
横腹に丸太を打ち込まれたみたいだった。視界が裏返る。体が宙に浮く。木立が回る。
『主様——!』
魂の底に直に響く悲鳴だった。
同時に、体の内から琥珀色の光が走った。薄い、けれど確かな光が僕をひと巻きに包んで、消えた。
僕は木の幹に叩きつけられて地に落ちた。
落ち葉が舞った。息が詰まった。……痛みが、来ない。折れているはずの骨が折れていない。血も出ていない。打たれた事実だけを残して、傷のほうが無かったことになっていた。
(……体の、保存だ)
体に馴染んだ保存の力。軽い傷なら勝手に消える。針も刺さらない。卒業の前にそう知った体だ。それでも、こんな一撃まで丸ごと呑んだのは初めてだった。
(今の光。……見られたか)
耳の奥で、琥珀姫が長い息をほどく気配だけがした。言葉はなかった。
「邪魔を——」
砕蜂さんが振り向きかけて、口を
突き飛ばされて泳いだ分だけ、彼女は腕の芯から逃れていた。その目が地に転がる僕を一度だけ捉えて、虚へ戻る。もう動いていた。再びの瞬歩。迷いがない。蜂紋華の刻まれた正面の腕へ。同じ箇所へ、二度目の一突き。
「弐撃決殺」
虚の腕が内側から砕けた。
崩壊が広がる。再生が追いつかない。歪んだ仮面に亀裂が走った。巨きな胴が膨れ、爆ぜ、霧のように散った。
木立に静けさが戻った。落ち葉の舞い落ちる音だけがした。
砕蜂さんが息を整えていた。
常は乱れひとつ無いはずの呼吸が、わずかに揺れている。横腹を片手で押さえていた。指の隙間から血が滲んでいる。掠めた腕が装束を裂いて、脇腹に浅くない傷を残していた。
僕は立ち上がって駆け寄った。
「砕蜂さん。傷が」
「来るな」
低い声が制した。
「貴様こそ。直撃を受けたはずだ。あの腕に弾かれて木に叩きつけられた。私はこの目で見た」
砕蜂さんが振り向いた。その目が僕の全身を走る。頭から足の先まで。折れているはずの骨を。裂けているはずの体を。探すように。けれどそこには擦り傷ひとつなかった。落ち葉にまみれているだけの僕がいた。
「なぜ無事だ」
声が低く張りつめた。
「あれを受けて立っていられるはずがない。骨の数本は砕けている。なのに貴様は……どこも」
汗が背を伝った。
(見られてる。まずい。理由、理由——倒木。そうだ、倒木があったことにしよう)
「……運が、よかったんです」
声を絞り出した。
「突き飛ばした勢いで僕も一緒に転がって。木があって。倒木がうまく受けてくれて。当たりどころが、その。たまたま浅くて」
苦しい言い訳だった。あの一撃をまともに受ければ、言い訳の利く怪我では済まない。自分でも分かっていた。僕はうろたえた新人の顔を懸命に被った。幸い、怯えだけは本物だった。
「倒木など、あの位置にはなかった」
砕蜂さんの目が細くなった。
気づけば一歩分近くに立っていた。足音を聞いていない。落ち葉の鳴る音も。ただ距離だけが縮んでいた。
「どこを打った」
「よ、横腹です。右から」
「向きは。俯せに飛んだか、仰向けか。地に着くまでに何を挟んだ」
「え、と。回って、たので。よく」
砕蜂さんが屈み込んだ。僕の死覇装の脇を掴んで、落ち葉を払う。裂け目を探す指が布の上を走った。布は、裂けてもいなかった。
(倒木。倒木はどこだ。ない。どこにもない。なんで僕は倒木なんて言った——)
「衣も裂けていない」
声から抑揚が抜けていった。
「あの太さの腕だ。掠っただけでも布は裂ける。土で受けたなら土がつく。倒木で受けたなら木屑が残る。貴様には、落ち葉しかついていない」
「そ、それは。転がり方が、たぶん、上手くて」
「転がり方」
砕蜂さんが繰り返した。語尾がどこにも上がらなかった。
僕は喉の奥で言葉を探した。探すほどに何も出てこなかった。目の前の目は僕を映したまま動かない。瞬きを、さっきから見ていない。
その目が、ふいに揺れた。
砕蜂さんは口を開きかけて、閉じた。開きかけた分の息を細く吐いて、自分の指先へ一瞬だけ視線を落とす。それきり次の問いは来なかった。来ない理由は僕には分からなかった。分からないまま、僕はその隙に滑り込んだ。
「傷を、診せてください。血が止まってません」
「いい。かすり傷だ」
「深いです。これだけは僕の役目なんです。お願いします」
砕蜂さんは僕を見たまま黙っていた。それから観念したように木の根方へ腰を下ろした。僕は彼女が断り直す前に脇腹へ掌をかざした。
絞りは中の下のまま。そこから一筋だけ霊圧を引き出す。掌に緑がかった淡い光が灯った。回道。傷を閉じるのではなく、霊体の理を本来の形へ読んで整える。出血が止まる。裂けた組織が縁を寄せて戻っていく。一分とかからない。それが戦えない僕に残された数少ない取り柄だった。
砕蜂さんは身じろぎひとつしなかった。
その目は傷を見ていなかった。僕の手元を見ていた。傷が塞がっていくあいだも、緑の光を出す僕の掌だけを。瞬きがまた減っていた。痛みを堪えているんだろう、と僕は思った。
「……なぜ庇った」
声が掠れていた。
「貴様は逃げようとした。私は見た。背を向けかけていた。逃げる足を持っている。それを持っていて、なぜ戻った。なぜ私の前に体を入れた」
僕は手を止めずに答えた。
「死角に腕が来てたから。砕蜂さんからは見えてなくて。咄嗟に。……突き飛ばして、すみません」
「詫びなどと言っている場合か!」
声が跳ねかけて、すぐ平坦に戻った。語尾だけが硬く軋んでいた。
「貴様は死ぬところだったのだ。私のために。私を庇って。……愚かにも程がある」
「砕蜂さんが死ぬほうが嫌でした」
考えずに口から出た言葉だった。けれど嘘じゃなかった。僕は戦えない。逃げる足と治す手しかない。あの衣だけを遺して消えた人たちを、一人、また一人と見送ってきた。届かない手を握りしめてきた。だから、届く場所にいる人なら。間に合う場所にいる人なら。
「僕はあなたを死なせたくなかった。それだけです」
砕蜂さんの目が見開かれた。
ほんの一瞬だった。それからきつく閉じられた。
なぜだ。
あなたを死なせたくなかった。あの男は何の気負いもなく、当たり前のことのようにそう言った。私はその言葉を握り潰そうとしては、口の中で繰り返していた。一音ずつ、なぞるように。なぜなぞっている。
私は隠密機動の刃だ。守る側だ。この男を不審者として監視し、冷たく当たり、消すと脅した。その男が私を庇った。逃げる足を持っていながら、逃げずに。
脇腹を見下ろした。
緑の光が傷を縫っていく。温い。傷など放っておいても塞がる。礼など要らんと突き放して、この手を払えばいい。払えと頭の奥で声が鳴っている。なのに手が動かない。
それに、この回道。
浅くない切り傷の血が止まり、裂けた肉が縁から静かに戻っていく。一分とかからずに。四番隊の救護でも、この速さは見たことがない。中の下の平隊員。あの位置にない倒木。裂けてもいない衣。この男はまた一つ、説明のつかないものを増やした。増やした端から、私はその手を払えずにいる。
あの時もそうだ。倒木の嘘は割れていた。あと二押しで剥がせた。その二押しの言葉が、喉の奥で消えた。理由は、まだ見つからない。
気づけば、瞬きを忘れていた。いつからかも分からなかった。
傷はもう塞がっていた。その上から、いつの間にか自分の掌を当てていた。熱でも測るように。何の熱だ。
皆、私を置いて行く。
ふいにそれが胸を突いた。崇めた背中。追っても追っても届かない背中。私はいつも、追う側で、残される側だった。
この男は残った。逃げられたのに、逃げずに。私の前に。誰でもない、私のために。
気づけば私は立ち上がっていた。足がもつれた。傷のせいではない。もう塞がっている。塞いだのはこの男の手だ。私は男のほうへ歩み寄って、身を屈めて、両の肩を掴んでいた。
「貴様は。本当に何処も。痛むところは。骨は。内臓は。一つ残らず言え」
言葉が勝手に零れた。
「あれを受けたのだ。無事なはずがない。隠すな。痛むなら痛むと言え。私が——」
私が、なんだ。
肩を掴んだ自分の手が目に入った。震えていた。監視対象の生死の確認だ。任務の内だ。——任務の内、だ。
「……立てるか」
私は別の言葉に逃げた。
あの男は素直に頷いて、私の手を借りずに自分で立った。あなたを死なせたくなかったと言ってのけた、あの顔のままで。
僕は包みを拾って背負い直した。
「届け物の途中なんです。前線の詰所まで。傷は塞ぎましたけど、砕蜂さんも無理はしないでください」
「……一人で行かせるわけにはいかぬ」
砕蜂さんが言った。
「またあのような虚が出んとも限らん。貴様は戦えん。私が送る。庇われて借りができた。それを返す。それだけだ」
僕は驚いて顔を上げた。冷たく睨んでくるばかりだった人が送ってくれるという。律儀な人なんだな、と思った。
「ありがとうございます。助かります」
深く頭を下げた。
砕蜂さんは何も言わなかった。ただ僕のすぐ脇についた。いつもの影からではなく。隠れもせずに。手を伸ばせば届く近さに。
歩き出した。
木立の道。斑の陽。落ち葉を踏む音が二人分。ふと横を向くと目が合った。逸れなかった。砕蜂さんは前ではなく、僕を見て歩いていた。
(……まだ疑われてる。倒木のこと、信じてもらえてないんだ)
僕は前へ向き直った。背中にまた汗が滲んだ。
「貴様」
不意に声が来た。
「普段、何を食っている」
「え? あ、隊舎の食事です。朝と晩は。昼は抜くことも」
「抜くな」
短く言われた。
「非番の日は何処にいる。誰と会う」
「書庫か、部屋で写本を。会う人は、その、特には」
「一人でか」
「はい」
「そうか」
それきり砕蜂さんは黙った。
(な、なんだったんだろう。職務質問かな。正直に答えたし、大丈夫、なはず)
監視の一環なんだろう。隠密機動の人は食事の中身まで調べるらしい。徹底している。僕は真面目にそう受け取って、歩幅を揃え直した。
『主様』
念話が静かに添った。
琥珀姫の声だった。けれどその温度は、さっきの悲鳴とは別物だった。澄んで、静かだった。
『ご無事で、何よりでございます。……ですが』
そこで声が途切れた。
『あのお方の目が、傷を塞いでいただいてから、一度も主様を離れません』
それだけを言って、また黙った。何かを言いかけて、飲み込んだ間だった。
『……いいえ。何でもございません。お使いを、果たしましょう』
声を荒げない。ただ気配の底だけが冷えていく。僕に向けてではない。すぐ隣を歩く小柄な人のほうへ。
僕はただ前を見て歩いた。早く包みを届けて戻ろう。それだけを考えていた。庇ったことを後悔さえしていなかった。あの衣の重さを抱えた日々のなかで、今日は一人も消えずに済んだ。それだけで僕は少しだけ救われていた。
日が傾いて、木立の先に詰所の灯りが見えた。
落ち葉を踏む音は二人分。右の半歩後ろで規則正しく鳴って、左のベールの裾は下生えを撫でても音を立てない。
二つの視線だけが、歩く僕の横顔の上で交わったまま、離れなかった。