『封じて、灯せ。』   作:ambroid0000

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第24話

第二十四話 (かば)いて灯す

 

 

頼まれごとは昼前に回ってきた。

 

前線の詰所へ霊薬の包みを届ける。それだけの使いだ。この消失続きで人手も品も足りない。回道の使える者が運べば、道中でも手当てができる。だから僕に話が来た。

 

「いってきます」

 

誰にともなく言って隊舎を出た。

 

包みは重くない。それでも中身を思うと足取りは沈んだ。あの衣だけを遺して消えた人たちの手当てに使われる品だ。届く前に消える人もいるのかもしれない。そう思うと、紐が肩に食い込む気がした。

 

瀞霊廷を抜けて流魂街の境へ向かう。道は次第に人気が絶えて、木立が深くなった。香木の薫りが消えて、土と枯れ葉の匂いに変わる。

 

ひとりではなかった。

 

『主様』

 

耳の奥で声がした。霊体化した琥珀姫の念話だ。

 

『お一人でのお使い。どうかお気をつけて』

 

『うん。すぐ届けて戻るよ』

 

唇を動かさずに返した。境のこのあたりまで来れば、琥珀姫を傍に出していても気取られない。霊体の彼女を見通せるほどの目はここにはないし、藍染副隊長の目も届かない。誰にも見えない貴婦人が衣擦れひとつ立てずに僕へ添っている。ベールの裾がときおり下生えを撫でた。それでも音はしなかった。

 

それと、もう一つ。ついてくる気配があった。

 

僕は気づかないふりをした。梢の影。風の死角。距離を保ちながら場所を変える慣れた気配。砕蜂さんだ。夜一さんの下で僕を監視している隠密機動の人。消失が続くさなかに、使いの僕までまだ追っているらしい。

 

『あのお方ですわね』

 

琥珀姫の声が低くなった。

 

『お務めとはいえ、このような時まで主様の後を』

 

『監視が厳しくなってるんだと思う。事件で皆ぴりぴりしてるから』

 

僕はそう思うことにした。気づかないふりをして歩くのがいちばんいい。意識すれば挙動が乱れる。乱れれば疑われる。それだけを自分に言い聞かせて足を進めた。

 

その時だった。

 

◆ ◆ ◆

 

空気がねじれた。

 

前方の木立の奥で何かが膨れ上がる。重く澱んだ霊圧。腐った沼の底から湧くような気配。うなじの毛が逆立った。これは死神のものじゃない。

 

虚だ。

 

枝が爆ぜ飛んだ。木立を薙ぎ倒して巨きな影が躍り出る。家ほどの胴。歪んだ白い仮面。その眼窩には餓えしかなかった。しかも普通の虚じゃない。体の縁が黒く溶けて滲んでいる。木立を突き破ったときに体表へ走った裂け目が、見る間に肉で埋まって消えた。

 

再生する虚だ。

 

(逃げなきゃ。早く。足、動け)

 

足が竦んでいた。退き足だけは鍛えてある。その足が半端に泳いで、背を向けかけた。

 

「退いていろ!」

 

声が割って入った。

 

砕蜂さんだった。影から飛び出していた。もう隠れてもいない。僕と虚のあいだに音もなく降り立っている。袖のない漆黒の装束。低く構えた体。右手の中指に、いつ解いたのか金の指鞘が嵌まっていた。

 

「邪魔だ。下がっていろ。貴様の出る幕ではない」

 

冷たく硬い声だった。僕に向けた言葉のはずなのに、視線は虚から逸れない。退かせる声。守る側の声だった。

 

砕蜂さんが消えた。

 

そう見えた。次の瞬間には虚の懐に入っていた。瞬歩(しゅんぽ)。目が追いつかない。金の指鞘が虚の腕に吸い込まれる。一突き。虚が吠えた。砕蜂さんはもう離脱している。刺した箇所に蝶の形の印が浮いていた。蜂紋華(ほうもんか)

 

「同じ場所をもう一度」

 

低い呟きが聞こえた。

 

(知ってる。弐撃決殺(にげきけっさつ)——二度目が入れば、終わる)

 

砕蜂さんが再び踏み込もうとした。決着をつけるために。

 

僕にも見えていた。だから分かった。砕蜂さんの死角も。

 

虚の胴の影。溶けた縁から二本目の腕が音もなく生えていた。砕蜂さんは正面の腕に集中していて気づいていない。その腕が鞭のように撓んで、彼女の横腹へ走った。

 

僕は地を蹴っていた。

 

鍛えた退き足だけは速い。その足が今は、背を向ける向きではなく砕蜂さんのほうへ向いていた。包みを放り出して、小柄な背中に肩からぶつかる。突き飛ばす。砕蜂さんの体が前へ泳いだ。腕の芯はそれで外れた。それでも先だけが彼女の脇腹を掠めて、装束を裂いて、空を薙いだ。

 

そして僕に当たった。

 

横腹に丸太を打ち込まれたみたいだった。視界が裏返る。体が宙に浮く。木立が回る。

 

『主様——!』

 

魂の底に直に響く悲鳴だった。

 

同時に、体の内から琥珀色の光が走った。薄い、けれど確かな光が僕をひと巻きに包んで、消えた。

 

僕は木の幹に叩きつけられて地に落ちた。

 

落ち葉が舞った。息が詰まった。……痛みが、来ない。折れているはずの骨が折れていない。血も出ていない。打たれた事実だけを残して、傷のほうが無かったことになっていた。

 

(……体の、保存だ)

 

体に馴染んだ保存の力。軽い傷なら勝手に消える。針も刺さらない。卒業の前にそう知った体だ。それでも、こんな一撃まで丸ごと呑んだのは初めてだった。

 

(今の光。……見られたか)

 

耳の奥で、琥珀姫が長い息をほどく気配だけがした。言葉はなかった。

 

「邪魔を——」

 

砕蜂さんが振り向きかけて、口を(つぐ)んだ。

 

突き飛ばされて泳いだ分だけ、彼女は腕の芯から逃れていた。その目が地に転がる僕を一度だけ捉えて、虚へ戻る。もう動いていた。再びの瞬歩。迷いがない。蜂紋華の刻まれた正面の腕へ。同じ箇所へ、二度目の一突き。

 

「弐撃決殺」

 

虚の腕が内側から砕けた。

 

崩壊が広がる。再生が追いつかない。歪んだ仮面に亀裂が走った。巨きな胴が膨れ、爆ぜ、霧のように散った。

 

木立に静けさが戻った。落ち葉の舞い落ちる音だけがした。

 

◆ ◆ ◆

 

砕蜂さんが息を整えていた。

 

常は乱れひとつ無いはずの呼吸が、わずかに揺れている。横腹を片手で押さえていた。指の隙間から血が滲んでいる。掠めた腕が装束を裂いて、脇腹に浅くない傷を残していた。

 

僕は立ち上がって駆け寄った。

 

「砕蜂さん。傷が」

 

「来るな」

 

低い声が制した。

 

「貴様こそ。直撃を受けたはずだ。あの腕に弾かれて木に叩きつけられた。私はこの目で見た」

 

砕蜂さんが振り向いた。その目が僕の全身を走る。頭から足の先まで。折れているはずの骨を。裂けているはずの体を。探すように。けれどそこには擦り傷ひとつなかった。落ち葉にまみれているだけの僕がいた。

 

「なぜ無事だ」

 

声が低く張りつめた。

 

「あれを受けて立っていられるはずがない。骨の数本は砕けている。なのに貴様は……どこも」

 

汗が背を伝った。

 

(見られてる。まずい。理由、理由——倒木。そうだ、倒木があったことにしよう)

 

「……運が、よかったんです」

 

声を絞り出した。

 

「突き飛ばした勢いで僕も一緒に転がって。木があって。倒木がうまく受けてくれて。当たりどころが、その。たまたま浅くて」

 

苦しい言い訳だった。あの一撃をまともに受ければ、言い訳の利く怪我では済まない。自分でも分かっていた。僕はうろたえた新人の顔を懸命に被った。幸い、怯えだけは本物だった。

 

「倒木など、あの位置にはなかった」

 

砕蜂さんの目が細くなった。

 

気づけば一歩分近くに立っていた。足音を聞いていない。落ち葉の鳴る音も。ただ距離だけが縮んでいた。

 

「どこを打った」

 

「よ、横腹です。右から」

 

「向きは。俯せに飛んだか、仰向けか。地に着くまでに何を挟んだ」

 

「え、と。回って、たので。よく」

 

砕蜂さんが屈み込んだ。僕の死覇装の脇を掴んで、落ち葉を払う。裂け目を探す指が布の上を走った。布は、裂けてもいなかった。

 

(倒木。倒木はどこだ。ない。どこにもない。なんで僕は倒木なんて言った——)

 

「衣も裂けていない」

 

声から抑揚が抜けていった。

 

「あの太さの腕だ。掠っただけでも布は裂ける。土で受けたなら土がつく。倒木で受けたなら木屑が残る。貴様には、落ち葉しかついていない」

 

「そ、それは。転がり方が、たぶん、上手くて」

 

「転がり方」

 

砕蜂さんが繰り返した。語尾がどこにも上がらなかった。

 

僕は喉の奥で言葉を探した。探すほどに何も出てこなかった。目の前の目は僕を映したまま動かない。瞬きを、さっきから見ていない。

 

その目が、ふいに揺れた。

 

砕蜂さんは口を開きかけて、閉じた。開きかけた分の息を細く吐いて、自分の指先へ一瞬だけ視線を落とす。それきり次の問いは来なかった。来ない理由は僕には分からなかった。分からないまま、僕はその隙に滑り込んだ。

 

「傷を、診せてください。血が止まってません」

 

「いい。かすり傷だ」

 

「深いです。これだけは僕の役目なんです。お願いします」

 

砕蜂さんは僕を見たまま黙っていた。それから観念したように木の根方へ腰を下ろした。僕は彼女が断り直す前に脇腹へ掌をかざした。

 

絞りは中の下のまま。そこから一筋だけ霊圧を引き出す。掌に緑がかった淡い光が灯った。回道。傷を閉じるのではなく、霊体の理を本来の形へ読んで整える。出血が止まる。裂けた組織が縁を寄せて戻っていく。一分とかからない。それが戦えない僕に残された数少ない取り柄だった。

 

砕蜂さんは身じろぎひとつしなかった。

 

その目は傷を見ていなかった。僕の手元を見ていた。傷が塞がっていくあいだも、緑の光を出す僕の掌だけを。瞬きがまた減っていた。痛みを堪えているんだろう、と僕は思った。

 

「……なぜ庇った」

 

声が掠れていた。

 

「貴様は逃げようとした。私は見た。背を向けかけていた。逃げる足を持っている。それを持っていて、なぜ戻った。なぜ私の前に体を入れた」

 

僕は手を止めずに答えた。

 

「死角に腕が来てたから。砕蜂さんからは見えてなくて。咄嗟に。……突き飛ばして、すみません」

 

「詫びなどと言っている場合か!」

 

声が跳ねかけて、すぐ平坦に戻った。語尾だけが硬く軋んでいた。

 

「貴様は死ぬところだったのだ。私のために。私を庇って。……愚かにも程がある」

 

「砕蜂さんが死ぬほうが嫌でした」

 

考えずに口から出た言葉だった。けれど嘘じゃなかった。僕は戦えない。逃げる足と治す手しかない。あの衣だけを遺して消えた人たちを、一人、また一人と見送ってきた。届かない手を握りしめてきた。だから、届く場所にいる人なら。間に合う場所にいる人なら。

 

「僕はあなたを死なせたくなかった。それだけです」

 

砕蜂さんの目が見開かれた。

 

ほんの一瞬だった。それからきつく閉じられた。

 

◆ ◆ ◆

 

なぜだ。

 

あなたを死なせたくなかった。あの男は何の気負いもなく、当たり前のことのようにそう言った。私はその言葉を握り潰そうとしては、口の中で繰り返していた。一音ずつ、なぞるように。なぜなぞっている。

 

私は隠密機動の刃だ。守る側だ。この男を不審者として監視し、冷たく当たり、消すと脅した。その男が私を庇った。逃げる足を持っていながら、逃げずに。

 

脇腹を見下ろした。

 

緑の光が傷を縫っていく。温い。傷など放っておいても塞がる。礼など要らんと突き放して、この手を払えばいい。払えと頭の奥で声が鳴っている。なのに手が動かない。

 

それに、この回道。

 

浅くない切り傷の血が止まり、裂けた肉が縁から静かに戻っていく。一分とかからずに。四番隊の救護でも、この速さは見たことがない。中の下の平隊員。あの位置にない倒木。裂けてもいない衣。この男はまた一つ、説明のつかないものを増やした。増やした端から、私はその手を払えずにいる。

 

あの時もそうだ。倒木の嘘は割れていた。あと二押しで剥がせた。その二押しの言葉が、喉の奥で消えた。理由は、まだ見つからない。

 

気づけば、瞬きを忘れていた。いつからかも分からなかった。

 

傷はもう塞がっていた。その上から、いつの間にか自分の掌を当てていた。熱でも測るように。何の熱だ。

 

皆、私を置いて行く。

 

ふいにそれが胸を突いた。崇めた背中。追っても追っても届かない背中。私はいつも、追う側で、残される側だった。

 

この男は残った。逃げられたのに、逃げずに。私の前に。誰でもない、私のために。

 

気づけば私は立ち上がっていた。足がもつれた。傷のせいではない。もう塞がっている。塞いだのはこの男の手だ。私は男のほうへ歩み寄って、身を屈めて、両の肩を掴んでいた。

 

「貴様は。本当に何処も。痛むところは。骨は。内臓は。一つ残らず言え」

 

言葉が勝手に零れた。

 

「あれを受けたのだ。無事なはずがない。隠すな。痛むなら痛むと言え。私が——」

 

私が、なんだ。

 

肩を掴んだ自分の手が目に入った。震えていた。監視対象の生死の確認だ。任務の内だ。——任務の内、だ。

 

「……立てるか」

 

私は別の言葉に逃げた。

 

あの男は素直に頷いて、私の手を借りずに自分で立った。あなたを死なせたくなかったと言ってのけた、あの顔のままで。

 

◆ ◆ ◆

 

僕は包みを拾って背負い直した。

 

「届け物の途中なんです。前線の詰所まで。傷は塞ぎましたけど、砕蜂さんも無理はしないでください」

 

「……一人で行かせるわけにはいかぬ」

 

砕蜂さんが言った。

 

「またあのような虚が出んとも限らん。貴様は戦えん。私が送る。庇われて借りができた。それを返す。それだけだ」

 

僕は驚いて顔を上げた。冷たく睨んでくるばかりだった人が送ってくれるという。律儀な人なんだな、と思った。

 

「ありがとうございます。助かります」

 

深く頭を下げた。

 

砕蜂さんは何も言わなかった。ただ僕のすぐ脇についた。いつもの影からではなく。隠れもせずに。手を伸ばせば届く近さに。

 

歩き出した。

 

木立の道。斑の陽。落ち葉を踏む音が二人分。ふと横を向くと目が合った。逸れなかった。砕蜂さんは前ではなく、僕を見て歩いていた。

 

(……まだ疑われてる。倒木のこと、信じてもらえてないんだ)

 

僕は前へ向き直った。背中にまた汗が滲んだ。

 

「貴様」

 

不意に声が来た。

 

「普段、何を食っている」

 

「え? あ、隊舎の食事です。朝と晩は。昼は抜くことも」

 

「抜くな」

 

短く言われた。

 

「非番の日は何処にいる。誰と会う」

 

「書庫か、部屋で写本を。会う人は、その、特には」

 

「一人でか」

 

「はい」

 

「そうか」

 

それきり砕蜂さんは黙った。

 

(な、なんだったんだろう。職務質問かな。正直に答えたし、大丈夫、なはず)

 

監視の一環なんだろう。隠密機動の人は食事の中身まで調べるらしい。徹底している。僕は真面目にそう受け取って、歩幅を揃え直した。

 

『主様』

 

念話が静かに添った。

 

琥珀姫の声だった。けれどその温度は、さっきの悲鳴とは別物だった。澄んで、静かだった。

 

『ご無事で、何よりでございます。……ですが』

 

そこで声が途切れた。

 

『あのお方の目が、傷を塞いでいただいてから、一度も主様を離れません』

 

それだけを言って、また黙った。何かを言いかけて、飲み込んだ間だった。

 

『……いいえ。何でもございません。お使いを、果たしましょう』

 

声を荒げない。ただ気配の底だけが冷えていく。僕に向けてではない。すぐ隣を歩く小柄な人のほうへ。

 

僕はただ前を見て歩いた。早く包みを届けて戻ろう。それだけを考えていた。庇ったことを後悔さえしていなかった。あの衣の重さを抱えた日々のなかで、今日は一人も消えずに済んだ。それだけで僕は少しだけ救われていた。

 

日が傾いて、木立の先に詰所の灯りが見えた。

 

落ち葉を踏む音は二人分。右の半歩後ろで規則正しく鳴って、左のベールの裾は下生えを撫でても音を立てない。

 

二つの視線だけが、歩く僕の横顔の上で交わったまま、離れなかった。

 

第二十四話 了

 

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