冬がもう一度過ぎた。
砕蜂さんを庇ったあの木立の道も、詰所の灯りも、思い出のほうへ遠ざかった。それでも頭のなかの針だけは止まらずに進んでいた。あの事件まで。すべてが裏返る夜まで。
朝は誰よりも早く起きて回道の応援に出る。昼は藍染副隊長に頼まれた書類を他隊へ運び、夕には平隊員の務めをひと通り片づける。非番が来れば流魂街の外れの洞窟へ抜けて、琥珀姫と研鑽を積む。表向きの僕は何も変わらない。回道だけが取り柄の平隊員。霊圧は中の下。絞りはもう呼吸より自然だ。影から離れない監視の気配も、いつからか日々のうちに数えている。その綱渡りを、もう三年近く続けてきた。この一年のあいだにも、瀞霊廷は少しずつ顔ぶれを変えた。新しい隊士が入り、古い隊士が抜ける。何も知らない顔が増えるたび、僕は少しだけ息がしやすくなって、少しだけ苦しくなった。
裏の僕は、その月日で確かに伸びた。魄睡はさらに深く馴染んだし、卍解の領域を保ったまま霊圧の漏れを封じる術も身についた。霊体化した琥珀姫が傍らに控えるのは、朝の鐘と同じくらい当たり前になった。けれどその全部を闇に沈めてある。誰にも見せない。見せられない。瀞霊廷で全力を出した瞬間に、僕の平穏は終わる。表向きは何事もなく日々が流れて、その水面の下で何かが静かに腐り始めている。知っているのは、仕掛けた者たちと、僕だけだった。
異変は朝の鐘より早く伝わってきた。
五番隊舎の廊下が騒がしい。隊士たちが声を潜めて行き交っている。潜めた声の数が、普段と違う。一人や二人の噂話ではない。隊舎全体が低くざわめいている。
僕は書類を抱えたまま足を止めた。
「——流魂街の。三十地区から五十地区にかけて」
「一晩でか。一人や二人じゃない。村ごと」
「中央が動いたと。四十六室から通達が」
耳が勝手に拾った。
村ごと。
これまでは数えられた。外れの住人が一人、また一人と痕跡もなく消える。巡回の隊士が死覇装だけを残していなくなる。気味が悪くても、噂で済む範囲だった。今度は一晩で、帯のように広く住人が消えた。『気のせいだといい』で済ませてきた者たちが、もう誰も済ませられずにいる。
(知ってる。これも、知ってる)
前世の記憶の奥に、この光景がある。失踪が積み重なった果てのある夜、流魂街の住人が大規模に消える。それが引き金になる。瀞霊廷がついに重い腰を上げる節目。針は記憶の通りに進んでいた。
気づけば、抱えた書類の綴じ目を指が意味もなく確かめていた。一度、二度。綴じ目は最初から崩れてなどいなかった。
「主様」
念話が静かに届いた。霊体化した琥珀姫の声だ。
「お顔の色が」
「……大丈夫」
唇を動かさずに返した。廊下には人がいる。声には出せない。何も知らない回道係。ざわめきの意味も分からず戸惑うだけの平隊員。その顔を被って歩き出す。胸の奥だけが、軋んでいた。
護廷十三隊に調査の命が下る。原因を究明し、下手人を捕らえる。どの隊が出るのか、誰が陣頭に立つのか。噂が隊舎の隅々を回るあいだも、僕の務めは変わらなかった。書類を抱えて、いつもの廊下を行く。
上の階の、執務室の前を通る。
障子越しに、穏やかな話し声が漏れていた。
「——痛ましいことだね」
毎日頭を下げる相手の声だった。低く、労りの調子で続く。
「ああ、そうしよう。中央が動いた以上、こちらも出来る限りのことをしないとね」
(この声だ)
僕は足音を乱さずに歩いた。目上の部屋の前で一礼して通る、ただの平隊員の速さで。障子に映る影は座したまま動かない。流魂街の人たちが消えた夜の段取りも、調査に出る隊の行く先で口を開けて待っているものも、この部屋の内側から出ていったはずだ。出来る限りのことを、と藍染は言う。あの人の言う出来る限りが何を指すのか、この廊下で分かっているのは僕だけだ。知っていて、僕は通り過ぎる。
執務室の前から角までの数十歩が、今日はやけに長かった。曲がってから、抱えた書類の端が手汗で湿っているのに気づいた。
(数十歩でこれなら、事件の夜、僕はどんな顔をしていられるんだろう)
九番隊だ。
僕がそれを聞いたのは夕方近くだった。書類を届けた先で、隊士たちが話していた。調査の任は九番隊に下ったと。隊長が自ら隊を率いて流魂街へ向かうと。
九番隊の隊長。
六車拳西。
会ったことはない。同じ瀞霊廷にいて、すれ違ったことすらない。久南さんの愚痴のなかにだけいる人だ。字が殴り書きだと久南さんを叱る人。あれ運べこれ届けろと小間使いみたいに使う人。久南さんは口を尖らせながら、どこか嬉しそうにその名を呼んでいた。
僕はその人を知っている。愚痴の向こうにいる怖い隊長としてではなく、前世の記憶の筋書きのなかにいる人として。
知っているから、口の中が苦かった。今日僕が運んだ書類の束のどこかにも、調査の支度に繋がる一枚があったのかもしれない。部下の殴り書きを叱る人のもとへ届く、誰かの几帳面な字が。
九番隊が流魂街の奥へ入る。原因を探りに。下手人を捕らえに。けれどその先に待っているのは捕縛じゃない。仲間内の裏切りだ。九番隊を呑み込む虚化の罠だ。拳西さんはそこへ自分から踏み込んでいって、そして——
還ってこない。
少なくとも、死神としては。虚に堕とされ、仮面の戦士になって瀞霊廷から消える。長い長い年月を現世で過ごす。表の歴史は「
拳西さんだけじゃない。あの夜を境に八人が堕ちる。久南さんも、リサさんも、平子隊長も。誰が堕ちるのか、大筋も順番も、僕は知っている。
会ったこともない人の結末を。会ってきた人たちの結末と、まとめて。
その夜、僕は洞窟にいた。
非番ではなかった。鍛えた足なら夜のうちに往復はできる。それでも洞窟へは非番の日にしか行かないと、自分に決めてあった。今夜はその決めごとを破った。人の目を逃れて流魂街の外れまで抜けてきた。考えを畳むのに、人気のない場所がどうしても要った。
岩肌に手を当てて、繭を張る。周囲の空間ごと保存で覆い、間を置いて、内側にもう一枚重ねる。繭の消し残しを浦原喜助の網に拾われたと知った夜から、二重にしてからでないと僕は素の声を出さない。二重にして、なお絶対はない。それも知っている。
琥珀色の灯篭がいくつも宙に浮かんで、繭の内側だけを淡く照らした。琥珀姫が僕の傍らに実体化する。実体化は霊圧の波動が出る。だからこれも、繭の内でだけ許される形だ。冷たい岩肌に背を預けて膝を抱える。内界の外でこうして素の声を出せる場所は、ここしかない。
「うん。……もう、動き出しちゃった」
膝に額を埋めて呟いた。
琥珀姫は何も訊かなかった。念話は常に繋がっている。廊下のざわめきも、障子越しのあの声も、彼女は全部聞いていた。だから説明は要らない。黙って隣に腰を下ろす衣擦れの気配がして、それから、実体の手がそっと僕の肩に置かれた。冷たくも温かくもない、けれど確かな重みだった。
「知ってるのに、僕は何もできない」
声が揺れた。喉の奥で堪えて、堪えそこねたぶんだけ掠れた。
「明日もあの下で書類を運ぶんだ。頭を下げて、噂は曖昧にやり過ごして。みんなが順番に消えていくのを、知らない顔で見送りながら」
一度切れた声が、また続いた。
「うまくやれるよ、きっと。三年ちかく、ずっとそうしてきたから。……うまくやれちゃうのが、いちばん嫌だ」
止められないのは、怖いからだけじゃない。止めてはいけないからだ。あの計画の先には千年血戦まで続く長い筋書きがある。僕がここで石を一つどかせば、どこか別の場所で何かが傾く。傾いた先で誰が代わりに死ぬのか、僕には読めない。それに、読めたとしても止める力がない。なぜ知っている、と気づかれた瞬間に、観察対象は邪魔者に変わる。
「筋書きを読んだだけの、観客だ。僕は」
膝を抱える腕に力がこもった。
「主様。お一つだけ、申し上げてもよろしいかしら」
僕は顔を上げた。
灯篭の光に照らされた琥珀姫は、いつもの敬いの顔ではなく、諭す師の顔をしていた。
「できることと、できないこと。その境目を、どうか見失われませんように」
静かな声だった。
「大勢の運命を覆すことは、主様の手に余ります。ええ。できないことでございます。ご自身を観客と呼ばれるのも、無理からぬことでしょう」
灯篭がひとつ、ふわりと二人の間を上っていった。
「ですが観客にも、できることはございますわ。主様は何もかもを救えません。けれど、何もかもを諦めることもないのです。手の届く範囲。間に合う場所。そこだけは、主様の手で守れます」
「……手の届く範囲」
「ええ」
琥珀姫は頷いた。
「歴史という大きな川の流れは、変えられません。けれど流れに呑まれかけた一人を、岸へ引き上げることは別でございます。流れは変わりません。誰も気づかないほどの小さなこと。それでも、その一人にとってはすべてです」
僕は膝を抱えたまま、その言葉を胸のなかで繰り返した。流れに呑まれかけた、一人。
久南さんの顔が浮かんだ。
隊舎の裏手の空き地で、屋根の縁から逆さまにのぞいた顔。シオちゃんと僕を呼んだ声。約束したー、と嬉しそうに笑った顔。濡れた僕の頭をわしわしと撫でた手。
あの人も消える。八人のなかに久南さんがいる。それは動かない。順番も知っている。それでも——
久南さんは、死ぬわけじゃない。
(……そうだ。死ぬわけじゃ、ないんだ)
知っていたはずの当たり前が、初めて別の意味を持って立ち上がった。虚に堕とされはする。けれど命を絶たれるわけじゃない。仮面をつけて生き延びる。記憶の筋書きのなかで、みんなは自分のまま生き延びていた。仮面の下でも、心までは喰われていなかった。
——でも。誰の手も借りずにそうなったのだと、どうして言い切れる?
僕にはあの力がある。
「……久南さんだけは、救えるかな」
掠れた声で呟いた。
言ってから、その言葉の裏側が見えた。久南さんだけは。それはつまり、リサさんもほかの人たちも見送ると、僕が自分で決めたということだ。誰かを掬い上げる手は、残りの人たちを見送る手でもある。冷たいものが胸をかすめた。それでも、取り消さなかった。
とっさに手が出たことなら、ある。目の前で誰かが倒れれば体は勝手に動く。けれど、起こると知っている結末に先回りして、そこから掬い上げる——そういう「救う」を口にしたのは初めてだった。
灯篭の灯が、そろって一拍だけ翳った。
肩に置かれていた指が、ほんのわずかに沈んだ。
「主様が、お決めになるなら」
返事は、一呼吸ぶん遅れて届いた。
「わたくしは、お傍で力をお貸しします」
「うん。ありがとう、琥珀姫」
灯篭はもう、いつもの明るさで揺れていた。
洞窟を出る頃には、夜が更けていた。
繭を解くと、琥珀姫は霊体化に戻った。冷たい外気が頬を刺す。流魂街の闇の向こうに、瀞霊廷の灯りが滲んでいる。あの灯りのどこかに、この事件のあとで一つ上の空く席へ上がる人がいる。その階段を上る足音が、もう聞こえる気がした。
知っていて、僕は明日もその下で頭を下げる。事件の日も。そのあとの百年も。
それでいい。それしかできない。けれど今夜の僕は、昨日までと少しだけ違う。手の届く範囲。間に合う場所。そこにいる一人。あの笑顔だけは、喰わせない。流れには手を出さない。ただ、流れに呑まれかけた一人を岸へ引き上げる。誰にも気づかれないように。世界にも。あの人にも。
逃げる。隠れる。凌ぐ。治す。
その四つの並びの端に、まだ名前のない五つ目の芽が差していた。呼ぶには早い。育てられるかどうかも分からない。それでも、枯らさないと決めた。
「主様」
琥珀姫の念話が耳の奥に静かに届いた。霊体化の気配は薄い。夜気に溶けて、誰にも気取られない。
「お足元に、お気をつけて」
「うん」
僕は前を見たまま頷いた。
頭のなかで、針が進む。もう、最後のひと回りに入っている。歴史は流れる。それでも僕は、できることの中で足掻くと決めた。零れ落ちていくものを数えながら、たった一つ、胸の奥に灯すと決めたものを抱えたまま。
平穏は、まだ、遠い。